△トップページへ

大叔母

ダイアナとフィオナのこと

金子 みすヾ

函館海峡通り

 ・小松の夜は更けて

 ・唐牛健太郎氏の墓へ

「新しき村」を巡って

大叔母

林 直子

 1989年9月8日の朝日新聞にこんな記事が掲載された。
 タイトルは{海を渡った「元気印」明治の女}。概略は明治二一年生まれの日本女性(名前を竹本フクと言う)が日本でチェコの男性と結婚、二児をもうけた後、第一次世界大戦の末、夫と共にチェコに渡り、生涯故国に帰ることなく没した。その足跡を追っている東京の女性高校教師がフクの伝記を出版しようとしていることを報じたものだ。
 その記事によると、フクの夫カレル・ヤン・ホラは大阪瓦斯(現在はガス)に技師として勤めたり、自動車の輸入を行ったりする一方、友人のヤン・レツルと共に広島の原爆ドームや、上智大、聖心女学院、上野精養軒等々の建物の設計・建築を手がけた人だった。
 戦後、夫は外交官になり、フクを捨てて再婚、その後ははっきりとは分かっていない。女性教師はさまざまな手を使ってフクのことを調べた結果、フクの孫ムア・カレル・エルペンに逢いにチェコまで行ったそうだ。彼は医師をしていて、はるばる日本から訪ねてくれた彼女の手を握り「黒髪でチェコ語がうまかった祖母」のことを熱っぽく語ったと言う。
 何故私がこんなことを書き出したかというと、その「元気印」竹本フクが私の大叔母であるからだ。この新聞記事も女性教師が突き止め、取材に来たということで、東京に住む私の叔父が送ってくれたのである。
 私の家にある古いアルバムの中に二枚の外国人の子供の写真があり、幼い私は不思議に思って父に尋ねたことがあった。その返事は「お父ちゃんのいとこたちだよ。チェコに住んでいるんだ。でもね、戦争があったから今はどうしていることやら」というものだった。写真の子供たちの一人はお姉ちゃんらしき女の子、もう一人は少し年下の男の子だった。父は明治三四年生まれだから、彼らよりはだいぶ年上、だからあまり交流は無かったらしい。
 私の祖母林千代乃のことは詳しくは知らない。聞いているのは、男勝りで小さい頃から袴を履いて馬で駆け回っていたということだ。私たちと一緒に暮らした晩年の祖母は、やはりこわいほどシャキシャキしていて、とても甘えられる存在ではなかった。だからその妹のフクも祖母に似た激しい気性の人だったかも知れない。新聞には若い頃の和装のフクと洋装・断髪のフクの写真が掲載されている。どこか面影が祖母に似ていて私には懐かしい。
 チェコに渡ってからの大叔母のことを祖母には聞いたことが無かった。父も殆ど知らなかったようだ。ただ父の祖母に当たる人、つまり大叔母母親がチェコに醤油や味噌など日持ちのする物を送っていたということは覚えていて話してくれた。 それは多分大正時代だったろう。その頃の和歌山の人がチェコに物を送るというのはどんなにか大変なことだったに違いない。チェコ語を正しく書くことができたのだろうか? 船便で何日かかったのだろう? 荷を受け取った大叔母はは故郷の味をどんなにか喜んだことだろう。私はいろいろ思いを巡らせる。
 父のいとこである二人の子供たちはフクが離婚後一人で育てたと言う。姉の方は四十歳代で死亡、弟は一九八九年当時は生存が確認されていた。孫は姉娘の子供らしい。
 十数年前に新聞に掲載されて以来、女性教師がフクの伝記を出版したということは聞いていない。私は本来なら林家でやらなければならないことを、全く他人のその女性が何度もチェコまで出向いたりして調べて下さったことに大変感謝している。
 それにしても私はつくづく思うのだが、どうして私には竹本フクのような血が流れていないのだろう? 明治時代に国際結婚をし異国に渡るというのはどんなにか勇気の要ることだったに違いない。大叔母は看護婦として大阪の日赤病院で働いていてチェコ人カレル・ヤン・ホラと知り合ったそうだが、その恋愛を回りが認めたというのも驚きである。それは大叔母の愛情の強さ、深さに回りが負けたということかも知れないが、全く平凡にしか生きられなかった私には羨ましい限りである。私はその意味で大叔母のことを誇りに思う。 (2001年7月)

→トップページへ

ダイアナとフィオナのこと

林 直子

 2007年1月7日、殴りつけるような風に洗濯物がなぶられている。室内に干そうかと考えながら縁側から眺めていたら「アッ、雪だ」。縁側の冊子のガラスに細かい白いものが吹きつけられて来た。私が見る今年初めての雪だ。1月7日だとあらためて日を確認したとたん、ああ、あれからもう半年以上たったのだと不意にあの日のことが浮かんで来たのだった。
 あの日とは昨年の6月1日、2日だった。私は異常に緊張していたのを覚えている。1日の夕方、奈良ホテルで弟夫婦と私は逢ったことの無い人たちに逢ってディナーをとることになっていた。それは異国の、薄い血の繋がっている姉妹とその人達のことを調べて本にしてくれた女性作家吉澤玲子さんの三人だった。どう私達と繋がっているかをその作家は何度もチェコを訪ねて調べてくれた。そして「フク・ホロヴァーの生涯を追って」という本に著して下さったのである。その本のお陰で私達フクさんに縁のある者はチェコの遠い親戚のことを知ることが出来、感謝しきれない思いだった。フクとは福であり、私の大叔母にあたる。つまり私の祖母の妹だった。彼女は明治時代、来日していたチェコのカレル・ヤン・ホラと恋愛、親の反対を押し切り二人の子をなしたあとチェコに渡り、生涯を終えた女性であった。今回来日したのは曾祖母の母国を知りたい、血縁の人たちと逢うとの目的を持った福の曾孫の二人だった。彼女達は現在イギリス在住である。
 福の出身地である和歌山で先祖の墓参を済ませて、奈良に夕方着くというスケジュール。私達はJR奈良駅で彼女達を待った。到着時間が迫るに連れ動悸がしてくる。なにせ彼女達は英語しか話せない。私は日本語オンリー。どう接したらと、それが心配で心配で。
 午後6時前、大きなリュックと旅行バックを持った彼女達が改札を出てきた。48歳と40歳の姉妹である。二人とも深長80センチメートルはあるだろう。私は多分何も言わずニヤニヤしていたに相違無い。覚えがないのだ。
 奈良ホテルに行った。彼女達はディナーまで少し時間が欲しいと言って部屋へ。私達はホテル側にディナーの時間をずらして貰うよう話し、始めて合う吉澤さんと話しながら待った。40分程経って降りて来た彼女達、多分シャワーを浴びたのだろう、すっきりして着いた時とはまったく異なる華やかな衣装に着替えて居た。とても二人は美しかった。
 ディナーは吉澤さんに通訳をして貰いながら続いた。正しいテーブルマナーを知らない私は横目で彼女たちの食べるのを見ながら食べたので、何を食べたのかを少しも覚えて居ないディナーは十時過ぎまで続き、ホテルに迷惑だろうと切りあげたが、翌日奈良を案内すると言うことになったのだ。
 翌朝奈良ホテルに着くと彼女たちは百年前の宿泊者名簿を熱心に見ていた。曾祖父達が新婚旅行に奈良に来ている写真があるから、多分宿泊しているだろうと、ホテルに頼んで出して貰ったらしい。私と弟も一緒に探したが、その頃の奈良ホテルは宿泊者の九割程は外国人だったので、大変だった。何度も名簿を刳り返し見たのだが、結局見つからなかった。その頃には朝日新聞と奈良新聞の記者が取材に来て、日本語と英語がが飛びかい、私は離れて眺めているより他無かったのだった。やっと全てが終り、彼女たちの言う「DEER・PARK」へ弟が案内して行った。奈良公園では二人とも鹿の後を追って走り回るので弟は二人を見失わないようにするので必死だったとぼやいて居た。
 半日以上彼女達と共に過ごし、愈々別れる時がやって来た。京都から新幹線に乗ると言う二人を弟と共に奈良駅まで送ったのだが、車のトランクから彼女達の大きな荷物を出す頃から、私は変な気分に襲われ始めた。8分の1しか日本人の血が入って居ない、外観は全くの白人である女性、そして言葉も殆ど通じなかった二日間、それなのに別れが辛いのである。私は泣いて居た。そうしいて辛うじて言えたのが「SEE・YOU・AGAIN」だった。

→トップページへ

金子 みすヾ

御館 博光

金子 みすヾ 1
オ正月ヤーイ、デテコイ、デテコイ、マダデテコンネ
アトカラ、チャント、出テクルヨ
          ※
ブウチャン、ナミダ、イッパイコボシテル、
オ菓子、ナクナッタカラ
 これは金子みすヾさんの愛娘ふさえさんの3歳の時の言葉の記録です。「ブウチャン」と呼んでいるのは、ふさえさんが自分のことを呼んでいるのです。
 金子みすヾが愛する子供の言葉を丹念にメモにして残しました。全部で、347の言葉が収録され、もちろん出版することは念頭になかったのですが、それが今「南京玉」という本で読むことが出来ます。金子みすヾは「南京玉」の巻頭に次の言葉を残しています。
 なんきんだまは、七色だ。一つ一つが愛らしい、尊いものではないけれど、それを糸につなぐのは、私にはたのしい。この子の言葉もそのように、一つ一つが愛らしい。人にはなんでもないけれど、それを書いてゆくことは、私には、何にでもかえがたい、たのしさだ。
 子どもが言葉を身につけていく過程、それは親にとってもすばらしい発見にみちた貴重な時間です。そのことを、哲学者の鶴見俊介さんが、文学をテーマにした講演で強調されていたのを思い出します。
 私自身にも思い当たることがあります。子どもが一歳になる頃から、言葉を獲得していく過程は親にとってもかけがえの無い成長の過程かも知れません。
 金子みすヾはすばらしい詩人ですが、だからこそ子供の珠玉の言葉を丹念に書き留めたのでしょう。誰かに見せようという考えのまったくないこの「南京玉」はみすヾ没後100年の2003年に出版されました。
 金子みすヾの詩自体、50年近くも世に知られないままでした。いまでは小学校の教科書に載せられていますが、そのすばらしい業績は、詩人の矢崎節夫さんを始めとする人々の努力で甦りました。甦りの詩人金子みすヾには、淋しさと優しさが同居しているように思えます。
私の好きな次の詩を掲げさせていただきます。
「星とたんぽぽ」

青いお空のそこふかく、  
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる。
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ。
見えぬものでもあるんだよ
ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ。
見えぬものでもあるんだよ



金子 みすヾ 2 
 1930年に亡くなったみすヾの詩作品は、前回にも触れましたが、1983年に再発見され、社会的に蘇りました。それは、みすヾの実弟上山雅輔氏が、3冊のみすヾ直筆のノートを所持していたからです。3冊のみすヾの詩のノートは実弟ともう一人、私淑し、尊敬してやまなかった詩人西條八十に託されていました。(こちらは発見されていません。)
 1920年代みすヾは、「童話」「婦人倶楽部」などの雑誌に詩を投稿し始めます。みすヾの詩は多くの投稿作品の中でも輝いていたのでしょう。選者であった西條八十がみすヾを見出し、高く評価します。
「今度も金子氏の作が一番異彩を放っていた。寄せられた五篇が五篇ながらとりどりに面白かった。・・・氏には童謡作家の素質として最も尊いイマジネーションの飛躍がある。」
「当代の童謡作家の数はかなり多いが、かの英国のスティーヴンソンのような子供の生活気分を如実に剔抉し来る作家は殆ど皆無と云っていい。そうした点で氏(みすヾ)のこの作の境地の如きは殆どユニークと云ってよい・・・・」
 西條八十の高い評価によってみすヾは詩人としての生命を与えられます。喜びの中にいたのですが、その喜びは永く続きません。彼女の結婚が余りに不幸だったからです。
 そんな中、みすヾ24歳の年(1927年の夏)敬愛する詩人西條八十との短い出会いの時を持ちます。八十がみすヾの住んでいた下関駅に立ち寄ったほんの5分ほどの出会いでしたが、それは愛のない結婚生活の中での短い輝くひと時でした。八十はその時をこう回想しています。
「彼女は一見二十二三歳に見える女性でとりつくろわぬ蓬髪に不断着の儘、背には一二歳の我が児を背負っていた。・・・「お目にかかりたさに、山を越えてまいりました。これからまた山を越えて家へ戻ります」と彼女は言った。手紙ではかなり雄弁で、いつも「先生が読んで下さっても下さらなくともよいのです。私は独言のやうに思ふままをここに書きます」と冒頭して、十枚に近い消息を記すのをつねとした彼女は、逢っては寡黙で、ただその輝く瞳のみがものを言った。」
 さて、私がみすヾに出会ったのは、奈良教会での「子どもの礼拝」の時でした。話をする機会が与えられ私は八木重吉を始め何人かの詩人の話をさせて頂きました。その時に金子みすヾを取り上げたのが、本当の出会いでありました。子どもたちも学校の教科書でみすヾを知っていて、話やすくもありました。「子どもの礼拝」は大人の私にも良き学びの時なのです。
 みすヾの詩を通して語りたかったのは、弱者へのまなざし、やさしさ、そしてさびしさに寄り添う大きな愛でしょう。みすヾについては語りつくせないものがありますが、私の力量では、この辺が限度です。

→トップページへ          

函館海峡通り

芹沢 雅夫

小松の夜は更けて
 川崎先生に紹介していただいた函館の「小松」という居酒屋、一見では決して行かない店であろう。「一見様お断り」というのではない。通りに面したちょっと派手な客寄せをねらった店ではないということだ。
「堀川町」という市電の停留所のすぐ近くだが、ちょっと横丁に入らなければならない。古い店構えで、値札も表には書かれていない。旅人がちょっと寄るという雰囲気ではない。(ママ御免なさい)
 六時ごろ店に入ったが客は一人、場違いだな、川崎先生には悪いが第一印象は良くなかった。後から聞いたのだがもう五十年も経つ店だから、その年輪の味が一見者にはわからないのであった。
 しかし、席に座ると、明るい品のあるママ(川崎彰彦「私の函館地図」で美人姉妹として登場している)、そして正面の書棚には川崎先生の著作が並んでいるのを見て、ようやく落ち着いてきた。
 ママのひろ子さんが私のために用意してくれた「イカ刺し」はもちろん美味であったが、その後の「ゲソのゴロ炊き」の方が私にはぴったりの絶品の味であった。
 一人の女性客、私が函館への旅人であると聞いて、喜んで話し相手になってくださった。Hさんというその女性、私の父と同じ大正生まれだが、話しに淀みがなく、明晰であり、とても八十代とは思わせない。しかもわが父において典型的だが過去形の話がほとんどというのでなく、現在形で話しが終始しているから見事である。そして、私自身がすでに自分のことのように気がかりな老人臭、もっといえば老醜とは対極の、艶のある馥郁とした香りを漂わせた女性であった。
 ミッションスクールに通ったというHさんは、地元の教会の模様を、クリスチャンの私に詳しく話してくれた。昼間、私はハリスト正教会、カトリック、聖公会、プロテスタントの教会郡が聳え立つ元町の街を歩いて来た。それは見事な歴史の景観であり、現在の信仰の姿でもあった。函館は美しい建物が似合う街である。彼女はそんな函館の街を愛しているようであった。
 そんな話をしている内に店の中が賑わってきた。「芹沢さんが客を呼んでくれたんだわ」とママが言う。七人も入って店はほぼいっぱいになった。その内、話の弾みで、私の出身大学の先輩がいることを発見。Hさんが帰ったあと、その人が話相手になってくれた。Nさんというその人は、中央大学に昭和三二年に入学し、哲学を専攻、大学院を含め十年余在籍し、私の入学した四二年に卒業したとの事。大学では、木田元先生門下ハイデガーを中心に学んだと言う。
 「木田さんも今じゃ売れっ子になってますね。」とNさん。そう言えば、木田先生「哲学の横丁」という著作を上梓して今ちょっと売れている。「僕らの大学時代は議論ばかりしてましたよ。カントだ、ヘーゲルだってね・・・・」今、企業の経営者である人が懐かしそうに振り返って話される。「僕らの時代はマルクスばかり、そして時々サルトルでした。」という言葉を、私は飲み込んでしまった。だけど、「明日唐牛健太郎氏の墓にお参りします。」というと、「やっぱりそういう時代ですか。」と問われた。
 「私は、唐牛に敵対し、唐牛を右翼に身を売り渡したトロツキストと非難した陣営の影響下に長い間いました。今そのことを悔い、贖罪の気持ちで花を捧げたいと思っているのです。」と私は正直に告白した。
 まったくの偶然だがNさんの家の墓所は唐牛さんの墓の二軒隣だという。唐牛さんらしい波型をした異形のなかなかの墓ですよ、と言う。
 Nさんは童顔で髪もふさふさしていて、私より若く見えるのではと思われせる、やさしさのにじみ出るような人であった。大学時代の先輩哲学徒と函館の地で話が出来るとは、なんという奇遇だろう。本来なら一人旅の淋しい夜にこうした時を過ごさせてくれた川崎先生、そして「小松」の良き雰囲気を作り出してきたママに改めて御礼を言いたい。
 気がつけば時計はもう十時、そろそろということで、お勘定というと、ママは一五五〇円です、という。五千円以上の飲み食いをしているのに、ママはしかしそれ以上受け取らない、困ったがいつかまたお礼をすることを誓ってお別れした。
 一人旅、淋しいどころか、豊かに時は流れたのであった。

→トップページへ

唐牛健太郎氏の墓へ
 函館空港から乗ったタクシーの運転手に「唐牛健太郎さんのお墓がどこか知ってますか。」と駄目でもともとの心境で尋ねた。「ええ、行ったことがありますよ。」という返事が返ってきて驚き、また歓喜の気持ちであった。実は、数日前から函館市役所の観光課へメールで問い合わせていたが、なしの礫であった。どうにかならないかと思っていたが、函館に着くなり悩みは解決した。「今からでも行きますか。」と言われたが、翌日の朝ホテルに来てもらうことをお願いした。
 唐牛氏が育った湯の川の街の雰囲気を知っておきたいという気持ちがあり、まずは湯の川で昼食を摂りたいと考えていた。そして、墓に行く以上は花を手向けたいという、普段にはない殊勝な気持ちも抱いていたから。
 今回の旅で私が唐牛健太郎氏の墓へ参りたいと考えたのは、前述したとおり私自身が唐牛氏に大いなる偏見を抱き続けたためであった。正統派の歴史操作の塾縛から解放された時、唐牛氏の存在、生き方そのものに心を奪われるにたいした時間を必要としなかった。唐牛氏は六十年安保闘争の終結後、その敗北を身に刻み付けるように生きた。悪名高い田中清玄氏の元に身を寄せたり、紋別の漁師になり凍てつくオホーツクの海に身を晒したり、堀江健一氏とヨットの会社を興したり、飲み屋を営んだり、すべてが脈絡のない苦渋の選択のようにしか見えないのだ。いやそうではない、唐牛氏にはすべてが唐牛氏として一貫した生き方を貫き通したのだとも言えよう。西部邁氏「六十年安保―センチメンタル.ジャーニー」によれば、それは「社会の庶子」としての生き方と言えるだろう。
 唐牛氏は、湯の川温泉の芸者の子、庶子であった。西部氏は前掲書で「時が経つにつれてますます、唐牛がその背に庶子の悲哀とでもいえるものをひそかに負っていると私にはみえはじめた。...(中略)... 唐牛は濃い暗闇をかかえて生きていたのであり、彼の示した明るさの半分は天性のものであろうが、あとの半分は自己の暗闇を打ち消さんがための必死の努力によってもたらされたものである。彼の明るさには心の訓練によって研磨された透明感のようなものがあり、その透きとおったところが私には寂寥と感じられた。」と、同時代を共に生きた人の目で書いている。
 明るさと寂寥感が背中合わせのようにある、そこに唐牛氏の今の私をも牽きつける存在感があると言えるだろう。 その日、私は函館駅前の朝市で墓に供えるべき花を求め、前日にお願いしたタクシーで外人墓地の奥、山の中腹にある墓地に向かった。函館湾を見渡す急な勾配の果てに唐牛氏のお墓はあった。その墓は、大地に波を象った台形の黒御影で出来た墓石であった。波はオホーツクの荒波、もしくは彼自身の波乱に充ちた人生を象っているのだろうか。
 私はそこに一本の花を供えたが、既にそこには一月前ぐらいに供えられたであろう花束があった。若き時代にタクシー運転手の労働運動に傾倒したという、自ら唐牛のファンだという運転手は「やはり、訪れる人が絶えないのですね。」とポツリと呟いた。加藤登紀子もそこで歌ったと運転手さんは言う。こうして多くの人が、ここを訪ね、ここから海を見渡したに違いない。
 唐牛氏の墓は多くの戦った戦士たちの夢の形象に他ならない。たった一人の墓ではない何か、そこには消え去ることのない炎があった。
 長部日出雄氏が唐牛氏を追悼して書いたように彼らの戦いは決して無駄ではなく、日本の反戦運動の成果としてその意義は過小に評価してはならないのだ、と私も思う。
 「唐牛さんは生き方が下手でしたねー」帰りのタクシーの中で運転手が私に話しかけた。私は、「そうでしたね」と言いながら、鼻先につーんとくる涙を感じて言葉が続かなかった。タクシーの車窓を見ると「函館海峡通り」という標識が目に入った。タクシーはその通りをゆっくりと下って行った。

→トップページへ

「新しき村」を巡って

御館 博光

 私にはコミューンというか、ユートピア的な共同体に対する強い憧れがあり、その関係で新しき村を調べてみることにした。
 ちょうど関川夏央の「白樺たちの大正」、そしてその種本とでもいうべき「検証『新しき村』」(奥脇賢三)を読んだことも大きな契機であった。
 新しき村は今でも健在であり、インターネットのホームページでも見ることができる。今から八十五年ほど前(一九一八年)日向で生まれた新しき村の住人は今ではたった二人になってしまったが、一九三九年に開設された埼玉県内の新しき村では今でも三十人余りの人たちが働いている。一日六時間の労働、そして日曜の休みの他、個人的な休暇も保障されている。「個人費」という名の給付金月三万五千円と年二回若干のボーナスもあるという。一日六時間の労働(主に農業、養鶏等)というのは魅力があるし、余暇は芸術活動や各人の趣味を愉しむことに使われるという。
 武者小路実篤の理想は決して死んでいないのである。 月三万五千円の給付金は、もちろん多い額ではないが、衣食住は保障されているし、(特に有機農法での自給の食は充実していると言われる)又営利を目的とする集団ではないのだから適当な額ではないかと私は思う。なにより、ヤマギシズムのような束縛の強い集団というイメージが少ないところが良い。
 さて新しき村にふれて実篤や白樺派のことを調べていたら「白樺派はアナーキズムに結びつく」という論調(本多秋五氏や柄谷行人氏ら)があることを知った。白樺派とアナーキズムと言えば有島武郎のことがすぐに思い浮かべることになる。有島は一九〇七年、彼が二十九才の時、ロンドンにてクロポトキンを訪問、生涯強い影響を受けている。しかし、というべきか、どうか実篤の新しき村には終始冷ややかであった。志賀直哉が新しき村に側面的ではあるが支援し続けたに比して意外の感を拭い得ない。有島はアナーキストには物心両面の援助を行い続けたが、新しき村はこの資本主義の社会の中では「失敗に終わるのが当然だと思うのです」と言い切り、二人の間は急速に冷却した。有島自身も後に(一九二二年)自己の所有する農場を開放するが、それ自体も「結局不可能で自滅せねばならない」とその将来に悲観的である。あるいは、有島の方が社会を客観的に科学的に(今は流行らない言葉だが)観ていると言えるのかもしれない。しかし、私はむしろそこに有島の晩年の自暴自棄な思いを見てしまう。
 有島の実篤や志賀との違いは人生において自己主張を貫かなかったことにある。例えば、結婚に際しても、実篤や志賀が振舞った態度と違い、周囲に妥協し自己の愛を貫けなかった。そうした全ての鬱積が彼の晩年を決定付けたと思うのだが、そのことは本題ではないので、これぐらいで止めよう。
 実篤と新しき村に戻せば、実篤とアナーキズムのことを論じている実篤の研究家、大津山国夫の「武者小路実篤研究―実篤と新しき村―」にも次のような文章がある。大杉は武者主義桃源調のマッコウ臭さに反発し、武者小路は大杉の急進的革命主義の喧噪に反発した。しかし、背中あわせに対峙する両者がクルリと向きをかえたら、権力政治と金銭の鉄鎖から人間を自立させよう、自立した人間たちの共生社会を創造しよう、という本願を相手のなかにも発見できたであろうと思う。
 大杉も実篤も同じ年(一八八五年)に生まれている。大杉は「武者小路実篤と新しき村の事業」で次のように書いている。 武者小路氏は、五、六年前に、文壇の中で窃かに僕が一番望みをかけていた人だった。あの正直でいっこくものらしい氏は、近いうちに、その思想を行為にまで持って行くある焦点を見いだすに違いない、と僕は思った。 実篤は実篤で大杉のことを次のように書いている。 大杉は話せば気持ちのいいところのあった男(中略)自分は最後の理想においては無政府主義の理想と近い。しかし今の人間がすぐ無政府になっても安心とは思わない。今は政府のやっかいにならずにすむ人間をどんどんつくる方がより急務と思っている。 正確に言えばこの実篤の無政府という言葉は伏字になっている。この三文字は無政府以外に考えられないのだが、その権力によって伏字にされた言葉を生きた「話せば気持ちのいいところのあった男」大杉栄は、伏字が横行した暗闇の時代にその生を断絶させられている。
  一方大杉は、実篤の頑固な性格を「いっこくもの」と正確に見定めている。このいっこくさが新しき村を持続させる力となってきたといえるだろう。この同年に生まれた二人の微かなふれあい(一九一六年頃に一度出会っているとされる)は見逃すことの出来ぬものだと私も思う。そして時の政治権力からも自立した個人に立脚した集団という理想は新しき村を現在まで存続させた大きな要因に違いないと思うので、そのことを、もう少し書いてみよう。
  新しき村の個人主義はある意味で徹底されていた。実篤は集団をしばる規則を嫌った。「必要ない規則は一つもつくりたくなかった。」と彼は考え、そう書いてもいる。集団といえばすぐに規則だ規律だと考える人が多いが彼はその道はとらなかった。村の中では、しかし内紛が相次いだ。その中でも実篤の最初の妻、房子をめぐる内紛は実篤の心を苦しめた。房子は後に実篤と別れるが、武者小路の名を終生名のり、そして日向の村を最後まで離れなかった。実篤の新しき村への思いを受け止め、村の中で生きた抜いた房子は、一方で「わがままで」いつも「恋愛抜きでは生きられぬ性格」(関川夏央前掲書より)の女性だった。事実実篤と別れた後も、いやその前にも、複数の恋人との関係の中にいた人だが、実篤はそれを攻めたりとがめたりせずに受け止めた。房子の尊大とも言えるふるまいが村の内紛の要因であった時、実篤は苦しんだが、しかしそこでジタバタすることはなかった。
 また房子の存在だけが原因ではなく内紛により村を離れる人も数多くいた。開墾当時の困難は想像を超えるものであり、過酷な労働が余儀なくされた。しかしそれに比して収穫は余りに貧しくを取り巻く環境はそれでなくても厳しいものであった。実篤はしかし焦らずに個;の大切さを尊重するという姿勢をくずさなかった。そして村は少しずつではあったが持続され、発展し、現代まで生き続けることとなった。
  もう一つ別な側面から新しき村を見ておきたい。それは後に五・一五事件に深く関わる農本主義者橘孝三郎との関係である。橘は実篤の出生から八年後の一八九三年に生まれ、実篤が日向に新しき村を開いた数年後、郷里茨城県で常陸の新しき村とも呼ばれた「兄弟村」を開設。橘は実篤と同じようにトルストイアンとして「共産的な新しき村」をめざして出発したが、農民の困窮を救うためには、資本主義を克服する他ないと考えて、後に右翼革命運動に参加することになる。橘孝三郎の生き方を短絡的に農本ファッシストと決め付けるべきでないという主張があることも理解している。確かに彼の思想の出発点は農業あるいは農村の自立そして再構築にあった。しかし、それを現実の政治過程の中に実現しようと志向を転回した時、彼のなかで共同体への思いは一歩退却せざるを得なかったと言えるだろう。
  実篤の言う「政府のやっかいにならずにすむ人間」をつくるという発想が橘には欠けていたのだ。実篤は、橘たちの新しき村には橘が自分に示した程の関心は示さなかった。それは実篤が嫌うテロへの参画の臭いを嗅ぎ取ったためかもしれない。
後に戦争に協力することになる実篤だが、しかし政治主義は実篤の好むところではなかった。実篤は権力とは別に、個人を尊重する集団をめざしたのであり、新しき村にも結実したその志は、今の私にも捨てがたい魅力である。

→トップページへ