おもしろ本(和書)
『ある家族の会話』ナタリア・ギンズブルク/須賀敦子訳 『兎とよばれた女』矢川澄子 『カナダに渡った侍の娘』ロイ・キヨオカ 『コレアン・ドライバーは、パリで眠らない』洪世和 『セーヌは左右を分かち、漢江は南北を隔てる』洪世和 『嬉遊曲、鳴りやまず−−斎藤秀雄の生涯』中丸美繪 『きもの自在』鶴見和子(聞き手・藤本和子) 『着物の悦び』林真理子
*『ある家族の会話』ナタリア・ギンズブルク/須賀敦子訳(白水Uブックス/1997年/¥950)
著者が記憶する自分の家族のユニークな発言をつづった作品。イタリアに住むユダヤ人一家とその周辺の人々の日々の会話を通して、第二次世界大戦をはさんだイタリアの一時期の歴史が浮かび上がる。登場する欠陥だらけの誇り高い人々がみなとても魅力的だ。人間は歴史の大きな流れに翻弄される存在だが、ふつうの人々の日々の生き方が歴史をつくるものでもあることに気づかされる。大学教授の意固地で風変わりな父親の言うことがとくに愉快。著者の姉と結婚し、のちにタイプライターのオリベッティ社の社長になる青年が、地下抵抗運動の闘志たちの支援者だったとは初めて知った。
*『兎とよばれた女』矢川澄子(筑摩書房/1983年/¥1,200)
ポール・ギャリコ『雪のひとひら』(新潮社)やミヒャエル・エンデ『サーカス物語』(岩波書店)などの名翻訳者・矢川澄子さんの、私小説でもあるような、ファンタジーか寓話でもあるような、あるいは優れた哲学書でもあるような、不思議な作品。美しい流れるような日本語で語られる「物語」を、口をあんぐり開けて聞き入っているときのような陶酔感がある。「かぐやひめ」が、この世に生きる女の普遍的な苦境を象徴しているというとらえかたが新鮮。
*『カナダに渡った侍の娘――ある日系一世の回想」ロイ・キヨオカ著/増谷松樹・訳 (草思社/2002年/¥1,600)
明治や大正期に生まれて海を渡った移民は、どの人も苦難と波瀾に満ちた人生の物語を持っているが、これは土佐藩のサムライの家に生まれて移民の妻としてカナダに渡り、敵国人として大平洋戦争のつらい時期を耐えて、7人の子どもを産み育てて100才になった女性の話だから驚かされる。明治の女の人の勇気、一世たちの望郷の念、ふたつの文化のあいだで揺れる子どもたちの複雑な思いに胸を打たれる。 ちなみに、彼女の息子である著者もまたサムライの孫と言うべきすばらしい人物で、私の恩師でもある。
*『コレアン・ドライバーは、パリで眠らない』洪世和(ホン・セファ)著/米津篤八・訳 (みすず書房/1997年/¥3,000)
タクシーの運転手が書いた本なら、間違いなくどの本だっておもしろいだろうと思うが、これは1970年代の学生運動のためにフランスに亡命することを余儀なくされ、厳しい試験を受けてパリでたった一人の<コレアン>タクシードライバーになった人が書いたのだから、おもしろくないわけがない。 パリのタクシー事情、「一つの社会ともう一つの社会の出会い」、民族と国家、望郷の念、韓国の政治状況、祖国に残って辛酸をなめる同志への思い、少年時代の思い出、フランス社会の「トレランス(寛容さ)」といった話題が時系列に無関係に並んでいるので、少々めまぐるしいが、人間の「質」というものを深く考えさせられる。
*『セーヌは左右を分かち、漢江は南北を隔てる』洪世和(ホン・セファ)著/米津篤八・訳 (みすず書房/2002年/¥2,800)
パリでたったひとりの<コレアン>タクシードライバーだった著者は、あれから5年後、タクシーの運転手をやめて、フランスと韓国の社会と文化について思索し、舌鋒鋭く祖国の人々の生きかたを批判する作家になっていた。 だが、多くの難民や政治亡命者を受け入れ、共存をゆるすフランス社会の「トレランス(寛容さ)」に感謝し、賞讃しつつ、2002年初め、彼は23年前にいわば石をもって追われた祖国へ永住帰国するのである。 人間にとって「祖国」とは何なのかを深く考えさせる本。
*『嬉遊曲、鳴りやまず−−斎藤秀雄の生涯』中丸美繪(なかまる・よしえ)著 (新潮社/1996年/¥1,800)
最近ますます人気の「サイトウ・キネン・オーケストラ」がキネンする当人の評伝。周辺の人や音楽関係者130人への取材から成ったという力作だ。後半の、演奏者としてより音楽教育者として生き始めたころからの話が面白い。なにしろ小澤征爾、秋山和慶、山本直純、井上道義、小高忠明、堤剛、藤原真理、岩崎洸、徳永兼一郎、安田健一郎、前橋汀子などなどなどが、みなこの人の弟子だというのだから、並の人ではない。 西洋音楽の伝統のない日本にプロの西洋音楽家を育てようという鉄のような意志と、尋常ではない情熱と、奇人的実践力。こういう火のような教育者に教わるには、教わるほうにも並々ならぬエネルギーがいる。そうして世界に羽ばたいていった音楽家も多いけれど、この教育法につぶされてしまった才能もその何倍もいるんだろうなと、ふと思った。
*『きもの自在』鶴見和子(聞き手・藤本和子)(晶文社/1993年)
南方熊楠の研究で有名な社会学者の鶴見和子と、アメリカ黒人女性文学の研究家の藤本和子が、きものの魅力について語りあっている。え、なんで? と思いたくなるが、もちろん人間は、その看板だけの存在ではない。服も着るし、ごはんも食べる。毎日の生活で何を着て何を食べるかにも、その「ひと」というものが一本通っているのだなあと、こういう本を読むとあらためて感じさせられる。 ポルポト派の大量虐殺後少しずつ復興しはじめたカンボジアの織物を写真家の大石芳野が持ち帰り、おみやげとしてくれたものを陣羽織に仕立てて普段着として着ながら、平和が進むにつれて技術が複雑になってきていると観察しているくだり、鶴見俊輔や澤地久枝が買ってきてくれたアジアの布で作った帯、岩波ホールの高野悦子のキューバみやげの布で作った帯と結城つむぎの着物の組み合わせなどという写真があって、思わず、うーむとうなってしまう。つまりそこに異なる文化が作り出した布と布の出会い、布を織り、染めた人間と着る人間との出会い、贈る人と受ける人との出会いがあり、そのようなものすべてが人の暮らしをかたちづくっていくのだということだ。ほんとうに「ゆたかな暮らし」というのは、こういう暮らしをいうのでしょう。(誰か、どこかに行ったら私にも美しい布を買ってきてね〜。)
*『着物の悦び』林真理子・著(新潮文庫/1992年)
「着物を着れば、どつき漫才と言われた」作者が着物の魅力にはまり、経済力にものを言わせて着物を買いまくり、「いくらなんでも常軌を逸している」と思い至って、100枚を越えたあたりで「これにて打ち止め」にするまでのあれやこれや。 気づいてみれば着物には、着付けや着かたの決まりごと、季節と色、柄、材質、小物のあわせかた、立ち居ふるまいを含めて、日本の文化と美意識が凝集されている、実におもしろい奥深い分野なのだ。ところが着物を着る伝統は第二次世界大戦でぷつりと切れている。一部の特殊な家がらを除けば、いま祖母、母、娘へと代々、古い着物とその知識とが伝えられてきている家庭はほとんどない。 日本の女が着物を着なくなったと嘆く人々も多いが、たとえば学校を出て都会に働きに出た一人暮しの若い女性が、ふと着物を着たいと思ったとしても、あのけばけばしい成人式の振袖と判で押したような白いふわふわの襟巻以外に、着物については何一つ知らないのだという事情を忘れている。この本はそういう若いひとたちが着物の奥深い道に入っていこうと思ったときに、どのあたりから入っていけるのか、いま、日本の着物マーケットはどんなことになっているのかを、自身の面白おかしい経験を通して語っている。 林真理子は、非常にバランスのとれた現実感覚を持っている人だ。
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