昭和記念公園紹介 令和2年10月1日更新

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 昭和記念公園は、東京都の立川市と昭島市にまたがる多摩地区にある国営の公園である。

 緑の回復と人間性の向上をテーマに昭和の末期に建設された公園で、自然的な環境の中で、国民が健全な心身を育み、英知を養う場として提供されている。散策して気づくことは、180ヘクタールの広大な公園の中で「うごめいている自然界の神秘的な現象」の素晴らしさである。

 そこには、「再生と共生」という自然界の素晴らしい現象が満ち溢れている。

 公園の樹木は、四季の変化につれて芽を出し蕾を育て花を咲かせる。花が散ると青々と葉を茂らせて、幹を太らせ枝を伸ばす。やがて、紅葉し葉を落すと、再び、次の四季の変化の準備を始める。この四季の変化の過程で、樹木の生き方と人間の生活は深く関わりを持っている。

再生の原理、共生の原理を求めて

 昭和の末期に提供された昭和記念公園も、30年を超える平成の歳月にわたり、多くの人々に親しまれて、テーマである緑の回復と人間性の向上に寄与してきた。人工的につくられた公園であるが、古い時代の武蔵野の自然を存分に取り入れ、自然につくられた公園のごとく演出している仕組みが公園を訪れる人々を満足させ、楽しませてくれる。

 そこには、自然界の基本原理である「再生の原理」と「共生の原理」が満ちあふれている。

 戦後の日本や世界が、成長という言葉のもとに置き去りにした基本原理を、そこに見つけることができる。自然界における再生の原理や共生の原理を具体的な現象を通して観察し、体験すると、戦後の日本社会の構築プロセスで行った多くの考え方や行為の中にも多くの間違いがあったことを教えられる。更に、最近の日本社会で行われている考え方や行為の間違いについても気づかされ、今後、どのように修正していくべきかが悩ましくなる。

 現在と将来の生に備えて、自然界に存在するすべての生き物が、絶えず種々の環境に対応しながら、 合理性と最適化を飽くことなく追求し、持続可能な環境の維持を求めて、世代を超えて永遠に生き続けるために、それらの基本原理の下に活動し続けている。人もその生き物に属し、その一部の役割を担い活動している。しかも、その原理が不変の基本原理ではないということをも認めながら活動を続けている。

感染症へのリスク管理体制が問題化

 今年早々、新型コロナウイルスによる感染症が中国で発症し、日本をはじめとするアジア諸国、ヨーロッパ、米国、南米、アフリカ、中東など、順次世界中に感染症が蔓延した。国によって、感染の広がり方がことなり、第一波が比較的早く沈静化した国と現在に至るも沈静化の傾向が見えずに拡大している地域とに分かれている。第一波が早期に鎮静した国も、その後、第二波が発生し対応に苦慮している地域もある。日本の場合、第一波は比較的早く沈静化したが、その後の対応が好ましくなかったためか、第一波にまさる第二波が発生し、9月に入って、ようやく感染拡大の波が減少傾向になってきているがまだしばらく油断ができない状態が続いている。

 戦争と感染症は人類の歴史を左右する大きな話題であり、感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあると言われている。これまでも、民族や文化の接触と交流、世界の拡大、一体化などの現象の発生に伴って世界に流行してきた。人類の感染症への対応も、光学顕微鏡の発明などにより、多くの病原菌が発見され、それぞれに対策が実施された結果、地球上から消滅したり、制圧されたりし、その間に、種々なワクチンも開発されてきている。ペスト、天然痘、コレラなどの感染症の歴史が物語っているように、人類が生きていくためには、感染症への対応は無視できない課題の一つである。日常から関連する世界の情報収集を怠りなく実行し、十分な研究と対策を検討し、そのための環境整備を徹底するリスク管理が必要になる。それらのことが国として十分に行われていたかが問題である。

 このような環境の中で、突然、コロナウィルスによって 、 虚を突かれたためか、初期の政府の対応も適切に行われたとは言えない状態になった。社会全体のしくみがコロナウィルスの感染威力のスピードについて行けない状態になり、対策として実行するすべての行動が後手後手に回るようになり、組織も、個人も、対処能力を欠如してしまう状態になった。このことは、あたかも、企業の3流管理者が目先の問題解決に専念するあまり、次から次へと場当たり的に対策を実行すれども、実行したことに対する対策が再び必要となり、問題の本質を解決できない状態に陥ってしまう現象に似ている。問題の本質を的確に認識できない状態で、理解できない行動に走ってしまった結果現れる現象である。

感染症沈静化時の問題点

 政府の管理のための制御能力が時代遅れの制御装置のようになると、コロナウイルスの拡大レスポンスに対応できずに、後退を繰り返すような状況に陥ってしまうのである。一歩間違えば、乱調現象すら発生させてしまうことになる。コロナウイルスに対する初期の対応は、感染症に対する基本的な対処法に無知な日本政府の指導層が、実態を的確に把握し、本質を理解できない能力レベルであるにもかかわらず、専門家の意見を十分に認識し、専門家と十分な検討をしない状態で、自己流の判断で行動してしまった結果である。また、経済対策との適切なバランスを図れないままに、自己流の解釈を優先させて誤った結論を下し、場当たり的な行動に走ってしまった結果である。これでは、事態は悪化しても改善されない状態が続くことになる。
 一方、経済的不況の恐ろしさを考慮しすぎて、当面の対策が不適切になってしまうこともある。コロナ危機の沈静化とともに必要となる経済活動の再構築の際にも、これと同じ失敗を犯してしまうケースがある。多くの場合、急速に経済危機からの脱出を図ろうとする場合にこの失敗を招いてしまう。このような失敗は、すでに第1波の沈静化時に日本社会で発生してしまった。このような過ちを繰り返していると、適切なワクチンや治療法が開発されるまでは沈静化は不可能になる。その間に、多くの犠牲者が生じ、経済的な多くの問題が発生することになる。そして、犠牲の最小化を図る機会すら失ってしまう。これは日本社会のリスク管理の欠如そのものである。

 感染症への対応の基本的な考え方は、感染症を沈静化させることを優先し、その過程で経済的損失を最小限にとどめる対策を実施することである。感染症への対策と経済的対策を両立させる考え方をとるべきではない。両者を天秤にかけて評価する考え方は適切な結果を生み出すことができない。

現在社会の問題点

 昨年来の政財界の「もりかけ」をはじめとする不正事件に続いて、IR贈収賄騒動、広島での選挙法違反騒動、桜を見る会騒動、検事長定年延長問題、賭け麻雀賭博問題、最近話題の持続化給付金体制の問題など、不正を不正とも感じない、不適切な行為を不適切とも感じない最近の日本社会のリーダ達の「正義に対する無感覚さ」に驚く騒動や問題が多発している。さらに、それらの問題に対して、多くの国民が永年にわたって無感覚になってきてしまっている。どうして、こんなに人心が乱れてしまったのであろうか。どうして、このような思考の停止時代に突入してしまったのであろうか。理解できない事態が次から次と発生している。このような状態では社会のしくみが正常に機能しない事態になっている筈である。そのことを社会の指導層も理解できていない。むしろ、自分たちの都合のよいように悪用している。恐ろしいことは、この能力レベルの指導者ではコロナ問題に対応することが不可能であると言うことだ。

 東京都を含む神奈川、埼玉、千葉の4県や関西圏、福岡などの新規感染者は急速に増加する傾向にある。これも、せっかちな経済回復を求める政府の方針がもたらしている緩和政策やGoTo トラベルキャンペン政策などの無謀な方針がもたらしている暴挙と言える行動が原因になっている。

 コロナは人の細胞を利用して、自分たちの生命力を拡散させようとしているウィルスである。人が動かなければコロナは動くことができず、時間とともに絶えていく微生物である。だから、当初の感染発生時は「ホームステイ」という人が我慢する行動によってコロナの感染の広がりを抑制できた。しかし、抑制できた筈のコロナは完全に消滅したのではなく、いずこかに潜んでおろかな人間が我慢しきれずに行動を開始するのを伺っている。おろかな人間は感染数が0近くになると、コロナがいなくなったと勘違いし、行動を始める。コロナとしてはおろかな人間の現れはラッキーである。再び、人の細胞を利用して仲間を増殖する行動を始める。これが最近発生している第二波の再感染プロセスである。最近の実績は当初の新規最大感染者数を越える勢いで増加していった。この状況に追い打ちを仕掛けたのがGoTo事業である。さらに、コロナを勢いづける状態になるであろう。
 このような幼稚な筋書きすら読めないのが日本政府の姿である。コロナの感染拡大に無駄な税金を費やして、その結果、コロナ感染拡大防止にさらに多大の国費を必要とするようになる。政府がコロナ感染拡大に貢献しているのだ。実にくだらない行為であり、人材の集まりであると言える。これは「場当たり的に行動する3流管理者群」であるからだ。専門家会議も、最近設立したコロナ対策の分科会も、それ以前にあったいろいろな分野の有識者会議も、現在の日本社会のしくみの中では機能しないであろう。適切な議論が行われているとは考えられないからだ。これらの問題は指導者の能力不足に起因していると言える。

民主主義社会の再構築

 国会の議論も深まらない。現実を見る能力も欠如し、真実を把握する能力もなくなり、真実を隠蔽する体質が蔓延し、記録を残さない慣習、重要情報を破棄する行為、論理的でない説明、虚偽の説明、ごまかしの説明などが習慣化し、 古い知識と時代遅れの思考法、なれ合いの手法などを用いて、「新しい時代が生まれる」というような錯覚に陥ってしまう危険な状態が、日本の社会、特に政界の中心に広がっている。経団連などの経済界も、この問題点を指摘する能力を欠いている。

 昭和から平成、令和へと時代が移り変わったにもかかわらず、新しい時代の象徴とも言える「電通」という会社が古い考え方の「経済産業省」と同化し、昭和の古い考え方の社会のしきたりをそのまま踏襲したかのような悪い産業構造が平成の時代に構築された。令和の時代になっても、これを受け続けようとする考え方で物事の処理が進んでいる。これでは、日本社会が世界の流れの中で大きく遅れてしまうのも当然である。新しい社会の目覚めなど期待できるような話はどこにもない。腐敗した経済産業省の姿がそのまま現れて社会構造の中に根付かんとしている。こんなことでは、社会のIT化も、AIの推進も、世界の流れの中で取り残され遅れてしまう。社会の情報を効率的に収集することもできない。給付金の手続きも数ヶ月かけないと実施することがでない。社会のしくみは昭和の時代のままである。このような社会問題がコロナ危機とともに表面化した。このままでは、庶民が健康的に働き生活する環境すらなくなってしまう恐れがある。困った問題である。

 これらの問題は、政界のリーダ的役割を果たしてきた首相とその周辺の権力者、財界のリーダである業界の長老達の「だらしなさ」、「新しい時代に対する見識のなさ」、「傲慢さ」などがもたらした問題である。しかも、当事者は誰もその欠陥に気づかず、その責任を感じて職を辞したり、腹を切ったりしてもいない。言葉でごまかしているだけである。日本の武士道も地に落ちたものだ。しかも、庶民までもが、これらの問題に無感覚になり、放置してしまった。このような時代に、戦争や感染症の危機が襲いかかってくるのである。コロナ危機もその現象の現れである。現在、世界は歴史的な危機の時代に突入しようとしている。その予兆は、日本社会でも、ここ数年来の出来事の中にすでに起きていたのである。その先に見えてくるのが経済的な危機の到来である。多くの企業が倒産し、多くの人が職を失い、生活に困る状態が現れる。コロナ危機とともに、それが現実のものとなり、多くの庶民の周辺に寄り添ってきているのである。

 予兆の発生に、社会のリーダ達も、国民も気づかない時間が一定時間経過すると、危機が現実化する。現在の危機はコロナウイルスである。庶民は生活の自由を奪われ、制約の中でもがく状態が続くようになる。中には死に至る人も現れる。これも、今までの小さな失敗の重大さに気づかなかったためである。失敗を直視する能力を失い、改善する努力を怠った結果である。 この現象は、日本の歴史上においても、世界の歴史上においても、最悪の時代を象徴する一つの事態になるであろう。日本社会でのこの責任は、安倍内閣とその周辺の人々、平成の自民党、平成の政治家、平成の社会のリーダ達にある。当然、これを容認した国民の鈍感さにもその一因がある。次第に、短期間では改善できない問題になりつつある。現在、取り得る最善の策はリーダの刷新である。民主主義社会ではリーダの任期を限定しており、通常は2期8年程度が一般的である。それを、安倍内閣で2期を3期に改悪し、さらに4選すら主張する輩もいる。とんでもないことである。これでは社会を混乱に導く。このことを、国民はしっかり認識して、一人でも多くの人が自分の声として叫ぶ必要がある。さもなければ、日本国は自然崩壊してしまう。

希望が持てる未来に向けて

 これまでの30年間に、日本の国力はどんどん沈下した。経済的にも、科学技術的にも、将来の基盤が大きく傾いた。もはや先進国としての役割も果たせない状態になり、外交上も国境そのものが不安定化し、強化したはずの軍備力も十分に機能させることができなくなり、日本の国が歴史的にも消滅してしまう危険に晒されるようになりつつある。自分たちの政策の失敗に気づかない無能力な政治家をはじめとする日本のリーダ達は、自力で改善できる能力を失ってしまっている。

 戦後構築された日本人らしい社会環境や生活文化も次第に停滞が進んでいる。生活のための資源もすべて海外に求めなければならない環境になり、20世紀に進んだ科学・技術も、進歩する力を失っている。現在の必需品であるマスクすら自力で調達できない状態になっている。国民は自らのマスクを自ら作ることを始めている。我が国のSCMが崩れ、政府や市場に期待できないからである。日本の民主主義は次第に崩壊し、多くの若者も国内で活動する夢を失い、生活の基盤を海外に求めるようになる。日本の国がじわじわ崩壊し始めているのだ。

 地方の過疎化 も 一段と進んでいる。少子高齢化が進み、過疎化が進むと、子育て環境、教育環境、働く環境、生活環境がどんどん悪化し、人はその地域からどんどん離れていく。一層過疎化が進む。台風15号に襲われた千葉県では多くの電柱、鉄塔が倒壊し、一時は全県が停電になる事態になった。台風19号でも河川が決壊し多くの家屋が浸水し、崩壊した家もある。鉄道や道路も崩れ、孤立した地方もある。特に東北の地方で多くの被害が発生した。その後の復旧にも手間取り、多くの人が日常生活に困る状況になった。千葉県は首都圏の一部であり、東京都の隣県である。東京都はオリンピックの準備で騒いでいるのに、隣県の千葉県は台風の被害で苦しんでいる。このような被害がさらに東北の地方にも広がった。今年の梅雨時には再び線状降水帯の影響で豪雨となり、熊本南部で洪水が発生し多くの住宅が被害を受け、死者も多数となる災害が発生した。これが日本の実情である。このような災害が毎年起きる可能性が高くなっている。

 このような実情も、地方の過疎化現象やインフラへの対応の遅れと無縁ではない。一番大きな問題は社会の仕組みの改革に取り組めなかった「政治の不毛さ」、「政治家の見識のなさ」、「政治家の能力の欠如」にある。その結果、地域別格差が発生した。地方再生も、来年に延期されたオリンピックの実行も、日本の経済力も、コロナウイルス危機や自然災害とともに崩壊寸前に追い込まれてきている。まさに「国難の到来」である。コロナ危機や自然災害の問題は、GoTo事業のような小手先の手段で解決できるレベルの問題ではない。社会のしくみ、経済のしくみなど社会構造の問題を根底から見直す必要のある問題である。

 国破れて、山河ありの言葉通り、質の悪い政治家達や社会の指導者達が混沌とした情勢に我々を導びこうとしても、安易な妥協はせずに、最後は己を信じて自ら研鑽に励み、日本を含めて世界のどこかに自分達の能力を生かせる道があることを信じ行動することが重要である。自分たちの生活環境は自分たちで構築することが重要だ。能力の劣る悪質な政治家、指導者に屈しない根性とそれを頼にしない気力こそが最後に価値をもたらすものである信じることだ。さらに、政治家を始め多くの社会指導層の無能力を一人でも多くの庶民が指摘し、声を出すことだ。その価値に夢を託して、庚子の年の、新しいチャレンジに向かって、頑張ることが重要だ。