昭和記念公園散策

 公園の自然には、宇宙における「再生の原理」、「共生の原理」が至る所に溢れている。

猛暑の夏過ぎて、台風一過秋の訪れ  (10月22日更新)

  •  再び、台風が関東地方を襲った。15号台風にまさる超大型台風19号が伊豆半島から関東を縦断し、東北地方に至る広範囲に災害をもたらした。日本近海までの太平洋上の海水温度の高温化によって、勢力が衰えなかった台風は多量の雨を関東から東北一帯に降らせ、河川の増水という洪水を引き起こした。多くの民家が浸水し、道路や鉄道が崩壊し、多数の死者がでた。最近に見ない大災害をもたらした。
  •  日本列島は背骨に当たる列島中央ラインに高い山脈が連なり、海洋までの距離の短い河川は急勾配で、曲がりを繰り返しても川の流れは比較的速い。しかも、多くの支流が一つの大きな河川に途中で注ぎ込む複雑な形状をしている。支流から本流への流れ込みも、必ずしも安定している状態ではなく、本流の流れが、支流を遮る現象が発生することもある。支流では堰き止められた水をさばくことができず堤防を決壊させる。決壊した支流の堤防に向かって本流の流れが追い打ちをかけ大きな被害を発生させる。川の近くまで住宅のあるケースも多く、浸水家屋を多発させ、家屋全体が浸水することもある。最近の日本列島で発生している水害の現象である。災害の状況も尋常な規模のものではない。そうような災害が、西日本でも発生し、東日本でも発生している。
  •  「コスモスフェスティバル」が始まったばかりの、いくつかの公園のコスモス畑も被害を受けた。しかし、水害の影響はなかった。原っぱ東の花畑のキバナコスモスは15号台風に続いて、19号と2度も台風の影響を受けたが、その後、最後の力を振り絞ってもとの元気を取り戻そうとしている。花の丘のセンセーションは10日には見頃になっていたが、台風の雨風に打たれたのか倒れた花があちこちに見受けられた。でも、残りのフェスティバルにその役割を果たそうとしているのか、立ち上がろうとしている花の雰囲気が感じられた。災害は東日本で発生した状況と比較するとそれほどではなかった。
  •  自然界の生き物は、水鳥も花も樹木も、気象条件の変化に対応して住む場所を変えたり、咲き誇るタイミングを調整したり、咲く期間を変化させたり、災害時には災害と闘いながら、自然界の原理に適切に対応しながら生の営みを繰り返している。「再生の原理」や、「共生の原理」に基づく、素晴らしい調和を保ちながら活動している。公園にいると、人も、他の生き物と同様に、この基本原理のもとに生活しているのだということを実感させられる。常に、危険と向き合いながらそれを乗り切る努力を繰り返している。被害はできるだけ少ない方がよい。可能ならばないのが最もよい。しかし、そのためには日常的な適切な対応が必要になるのではないか。そのような努力と人間らしい研究、検討が日々行われているだろうか。疑問である。
  •  平成から令和に変わって最初の内閣改造が行われた。平成末期の国内外の不安定な政治状況から考えると期待がもてる若い新しい人材が登用され、新しい時代に向かった社会改革の動きが始まる期待を抱いていたが、改造結果をみてがっかりした。今までと全く変わらない、老害が充満している人材の集まりであり、安倍一族の集合のような仲間の集いで、令和への改元による新しい期待感が薄れてしまった。これが日本の現在の実力かと気づくとなんとも言えない寂しさを感じた。令和の時代も平成と同じか、もしかするとさらに国力が悪化する予感を感じる。これでは、厳しくなりつつある災害への対応や地球温暖化問題への対応に新しい感覚が生まれそうには感じない。21世紀の新しい芽が生まれる予感は身近で感じているが、これを受け入れる社会環境が旧態な仕組みのままでは芽の生長を期待することができない。中でも、人材の古さは最も障害になる。どうしたものか心配である。
  •  政界に劣らず財界もどうしようもない状態になっている。関電による原発マネー還流の問題である。福島原発の事故以降、事故の経営責任が裁判で問題になり未だにすっきりした解決が行われていない状況中で、長い期間にわたって行われていた原発に関連するお金の不正が表面化した。話を聞けば聞くほど財界を蝕んでいる不正な金銭のやり取りに庶民は怒りを感じざるを得ない。どうして、これほどまでに社会に不正が蔓延してしまったのかと呆れ果てる現状である。昨年来の政財界の「もりかけ」をはじめとする不正事件に続いて、不正を不正とも感じなくなった最近の日本社会のリーダ達の「無感覚さ」に驚くばかりである。どうして、こんなに人心が乱れてしまったのであろうか。どうして、このような思考停止の時代に突入してしまったのか。国会の議論も深まらない。現実を見る能力もなく、真実を把握する能力もなく、古い知識と時代遅れの思考法、なれ合いの手法などを用いて、「新しい時代ができる」という錯覚に陥っている。失敗を繰り返すのみである。失敗を直視する能力の欠如した日本社会の現状が悲しくなってくる。
  •  日本の国力も次第に沈下し、経済的にも、科学技術的にも、将来の基盤が大きく傾いていく。もはや先進国としての役割も果たせない状態になり、外交上も国境そのものが不安定化し、強化したはずの軍備力も十分に機能させることができなくなり、日本の国が歴史的にも消滅してしまう危険に晒されることになるだろう。無力な政治家を含めた日本のリーダ達は、自力で改善できる能力も失ってしまう。戦後構築された日本人らしい社会環境や生活文化も次第に停滞が進み、生活のための資源もすべて海外に求めなければならない環境になり、20世紀に進んだ科学・技術も、もう進歩しなくなる。民主主義も次第に崩壊し、多くの若者も国内で活動する夢を失い、生活の基盤を海外に求めるようになる。日本の国がじわじわ崩壊し始めている。
  •  地方の過疎化一段と進んでいる。少子高齢化が進み、過疎化が進むと、子育て環境、教育環境、働く環境、生活環境がどんどん悪化し、人はその地域からどんどん離れていく。一層過疎化が進む。台風15号に襲われた千葉県では多くの電柱、鉄塔が倒壊し、一時は全県が停電になる事態になった。台風19号でも河川が決壊し多くの家屋が浸水し、崩壊した家もある。鉄道や道路も崩れ、孤立した地方もある。特に東北の地方で多くの被害を受けた。その後の復旧も手間取り、多くの人が日常生活に困る状況になっている。千葉県は首都圏の一部であり、東京都の隣県である。東京都はオリンピックの準備で騒いでいるのに、隣県の千葉県は台風の被害で苦しんでいる。このような被害がさらに東北の地方にも広がった。これが日本の実情である。この実情も地方の過疎化現象やインフラへの対応の遅れと無縁ではないだろう。一番大きな問題は社会の仕組みの改革に取り組めない「政治の不毛さ」、「政治家の見識のなさ」、「政治家の能力の欠如」にある。
  •  やがて、優秀な若者は夢の持てなくなった社会から夢の持てる社会に移動し始める。夢の持てなくなった社会は急速に過疎化していく。この現象は国と国の間においても同じである。今のような状態が続くと、日本の国そのものが過疎化する。過疎化が始まると、打つ手がなくなる。東京だって、名古屋だって、大阪だって、福岡だって、必ず過疎化する。日本人が住んでいる故郷が過疎化するのだ。日本の国民はどう考えているのか。日本のリーダ達はどう考えているのか。やがて、米中社会の狭間で日本社会は消滅するリスクを意識しているのか。
  •  今回の自民党の内閣改造のような老害政党や無気力な野党の政治家の集まりでは明日の日本は期待できない。第二次世界戦争の戦後の日本の経済や社会の復興を推進したのは政治家ではなかった。経済界のリーダ達と当時の大学を卒業した若い技術者や地方の高卒の若い人たちの集まりを中心にした国民の集まりであったと記憶している。国会の議員や中央官庁の役人の果たした役割はそれほど大きくなかった。元々政治家は金儲けの能力が乏しい人種である。金の元に集まってきたり、集めたりすることはできるが、自ら金を儲けることはできない。世の中に潤沢な金があるときはまだなんとかなるが、財が乏しくなったり、成長が少なくなると能力が発揮できなくなる。むしろ、現在は経済界や国民が頭を使い、行動して稼がないといけない環境になっている。政府が指導して能力を高めるなどは不可能だ。アベノミクスが間違っているのだ。だから、10年以上の歳月にわたって日本の経済は成長しなくなっているし、価値のないお金を増やさないと政府が成り立たなくなっているのだ。
  •  「国破れて、山河あり」の言葉通り、質の悪い政治家や社会の指導者達が混沌とした情勢に我々を導びこうとしても、安易な妥協はせずに、最後は己を信じて自ら研鑽に励み、日本を含めて世界のどこかに自分達の能力を生かせる道があることを信じ行動することが重要である。能力の劣る悪質な政治家、指導者に屈しない根性と頼にしない気力こそが最後に価値をもたらすものである。その価値に夢を託して頑張ることだ。