東京 江戸川区立宇喜田小学校 川島真紀雄


まえがき


「真理は全体である」 ヘーゲル(精神現象学)
 「科学は分析し、哲学は統合する。」という言葉がある。プラトンによれば、哲学者とは「もろもろの学問がもっている相互の間の、また、実在と本性との、内部的な結びつきを全体的な立場から総観するところまで行かなければならない。」という。*1
 まさに、「知ること・生きること」を命題にしてきた哲学の課題が、今回の教育課程審議会によって教育の現場におろされた感がある。それは、単なる既成の知識注入を意味しているのではない。―地球と人間の根本原理の学を、児童生徒とともに探求し、解決していこうとする、まさに「答え探しの旅」なのである。


*1 プラトン全集T(岩波書店)

目 次


まえがき

T 教育と総合   
  • 求められる総合(行動のデザイン)

U 改訂で目指す、総合の視点  
 1.成長の全体性としての総合(調和的発達)   

  • 全体性の発達
  • 手を使う総合の意味
  • 美術教育の総合性

 2.教科の横断(統合)としての総合

  • 情報教育は教科を交流させる
  • マルチメディア クリエーター
 3.視点のグローバル(展望の総合性)
  • 21世紀はみんなの世紀である

 4.地域との連続(日常との総合)  
 
 5.社会との関連(未来社会との総合)

  • 社会の適応を超えて

 6.学習活動としての総合性

  • 創造性と総合的な学習のねらい
  • 表現力も総合力である
 
あとがき


T 教育と総合


教育とは総合である
 フレーベルにとっては、人間と、自然と、宇宙の統一としての神が完全に一体したものと考えられており、「子供」というのは、それとの関連で、宇宙のその統一を実現する自発力を備えた人間性の萌芽と見られていた。*2故に、人間はその発達と成長の課程の中で自然の法則にしたがうべきだと考えていた。しかし、彼の洞察は、「子供は自分が全体、普遍、自然の総体に属しており、自分が生きているのはその一部としてであることを早くも感じている―」という悟りであり、その自己教育の中に自己分析と自己省察を含んでいると観るべきであろう。
 教育課程審議会のいう、「生きる力」は自分で課題を見つけ、自ら学んでいく姿勢である。このことを、児童中心主義の「総ては子どもから―」と解釈して、自発性を一方的に押し進めたり、無法策に児童を放任させてはならないだろう。即ち、基準の改善、検討に当たっての基本的な考え方にも述べてあるように、「時代を超えて変わらない価値あるものを身に付けさせるとともに、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性を培う」ことも―大切な『生きる力』なのである。
 結局、子どもの先天的な素質や可能性と、生まれた後に受ける学習や文化、環境などとの結合・統一こそが教育の役割であろう。その中で子ども自身も現実的自我と理想的自我、存在的自我と価値的自我、これら2つのものが互いにせめぎ合いながら、不思議に1個の不可分な全体と統一とをもっている。*3 この、統一が崩れた時に「キレル」行動が生まれてしまう。
 「愛をもって神の天と神の地をとを結合する人間を教育したい」。フレーベルの言葉が示すように、教育課程審議会では、「このような教育環境の中で、教科の授業だけでなく、学校でのすべての生活を通して、子どもたちが友達や教師と共に学び合い活動する中で、自分がかけがえのない一人の人間として大切にされ、頼りにされていることを実感でき、存在感と自己実現の喜びを味わうことができることが大切である」と述べている。―教育される子どもの存在もまた一面ではなく、様々な生育環境から影響を受けている−総合性をもったものなのである。


*2 フレーベル「原典による教育学の歩み」(講談社) *3 リットの理論 「現代教育理論のエッセンス」(ペリカン社)

求められる総合(行動のデザイン) 

 
 古代ギリシャでは、芸術は対象を写し取り、自然を模倣する「模倣の技術」と見なされてきた。だが、この「模倣の技術」は、プラトンによれば模倣する対象については何の知識も必要としない、ただの遊びごとであった。*1
 「学問のための学問、芸術のための芸術」も、自己の欲求追求に溺れ、ますます社会や現実から遊離していることに批判が寄せられている。マルセル・デュシャンは「レディ・メイドのオブジェ」を、現実の「もの」として提示することによって、観念化していった「芸術のための芸術」に“反芸術”として大きな疑問を投げかけた。
 現実の世界は今、危機的状況に陥っている。それが、より社会と連携しながら生きた学問を体験、追究しようとする理念を生み、学校教育における「総合的な学習の時間創設」の背景になっている。問題はミサイルや原子力発電に見られるような、科学技術の脅威だけではない。深刻な食料問題や我々の毎日の生活が破壊を進めている地球環境の問題。連日ニュースに溢れている、金の欲望やストレスのために迷うことなく命を奪うような人間性の破滅の情況など―まさに課題が累積している。
 即ち、それらの対応として、これからの授業で必要なことは教科書の形式的・抽象的な理論だけではないだろう。与えられた個別の知識だけでなく、それをまとめる理念と行動の合一こそが、「総合的な学習の時間で」求められている。
 新しい状況下で基礎概念の定義をやり直し、新しく得られた知識にてらして、その都度、それに適合する知識体系を組み立て直し、その中へ美や行動の定義も繰り入れるようにしなければならない。*2それは、人間的な善意志に支えられた「美的な実践力」と言えるものである。つまり、学校教育において「美術」は単なる美の手業または技術を教えているのではない。また、それは、狭く解釈された作品、外面的なビジュアル(装飾)や個人のセンス(趣味)を表す言葉ではない。「美術教育」は人間の外的能力と内的生命力を縦横に組み合わせて統合を図りながら*3、生き方や環境をも美しくデザインしていける―総合的な「生きる力」を志向している。正に、経験としての美学なのである。
 明日の幸福な時代を拓くために、今、デザイナーのように全体を美的に構成できる人間が求められている。道徳と自然、テクノロジーとの調和をまさに美的に図っていくことが、現代の教育に科せられた緊急の課題であろう。

 

U 改訂で目指す、総合の視点

1.成長の全体性としての総合(調和的発達)


教育課程審議会は、教育基本法及び学校教育法に定める学校教育の目的と目標に沿い、幼児児童生徒の人間として調和のとれた成長を目指し、国家及び社会の形成者として心身ともに健全で、21世紀を主体的に生きることができる国民の育成を期するという観点に立って審議を進めた。(教育課程の基準の改善について『答申』平成10年7月)
 今回の改正では「ゆとり」の中で「生きる力」をはぐくむことが重視されている。(中央教育審議会の第一次答申)
 もちろんその営みは、審議会の言うように学校のみが担うものではなく、学校、家庭、地域社会が連携を図り、それぞれがその教育機能を十分発揮してはじめて子どもたちのよりよい発達が促されるものであろう。そして、小学校の役割としては、個人として、また、国家・社会の一員として社会生活を営む上で必要とされる知識・技能・態度の基礎を身に付け、豊かな人間性を育成するとともに、自然や社会、人、文化など様々な対象とのかかわりを通じて自分のよさ・個性を発見する素地を養い、自立心を培うことが求められている。


全体性の発達

 調和のとれた成長とは、単純な部分的な発達とは異なる。その人間性の表現としては、逸脱しない中での、自由な自己表現が基本になるべきだと思う。活動として、美術教育は子どものトータルな成長を願いながら、まず一人一人の感覚を積極的に肯定し支持してきた。そして、想像力を高め、材料や用具に触れ会いながら経験的・体験的に全体性を発達させようとしている。
 この重要性を、中央教育審議会の平成10年6月の答申「新しい時代を拓く心を育てるために」ー次世代を育てる心を失う危機ーEゆとりのある学校で子どもたちの自己実現を図ろうをでは、「自分の好きなことや興味・関心を持つことにじっくり時間をかけて取り組むことができるよう、もっと子ども自身の選択を生かすという視点に立って、学校の教育活動の在り方を見直すことが重要である」と述べている。
 それは、フレーベルの言う、無限(神的なもの)を自己の決断と自由とをもって有限的な地上に具体化することによって、日々新しい人間として生き続けることなのだろう。つまり、自己実現とは、創造的な過程を実際に経験することで、美的主観を客観化していくような総合的な活動である。それは、発散としての感情の表出段階を超えながら、美的社会を形成する力を培い、その中で主体的に自己を実現していく「生きる技能」を養っていくものである。
 「生きる力」とは文部省の英訳では"zest for living" ということになっている。人間の成長を知識の量ではなく、生きる興味や熱意で推進しようとする姿勢を、訳からも感じることができる。


*1 「芸術学ハンドブック」 (勁草書房)*2 木幡順三「美と芸術の論理」 (勁草書房) *2 松原郁二「人間の表現と美術教育」 (東洋館出版)


手を使う総合の意味

 
 近代フランス教育学理論の創始者ルソーは、主書「エミール」(1762)で事物の教育と器官の内部的発展としての自然の教育と人間の教育の3種を分けて、まず前の2つを基礎的なものとして、事物との接触による人間感性の錬磨を協調した。次にフランスの医師セガンは身体の筋肉運動、特に手の運動感覚の訓練が基礎となってはじめて知育、徳育が完成すると主張した。このために考案されたセガンの器具はモンテッソリ教具に強い影響を及ぼした。
 モンテッソリーの「児童の家」で実践されたことは、薄暗がりの底に沈殿して麻痺した感覚に刺激を与えることによって、彼らの生きる力を再生することを目的とする教育理論をつくりだすことが課題であった。モンテッソリ方式の最大の特色である独自の教具を使用した感覚教育も、実は、スラム街におかれた幼児が生活上、最も必要とする感覚、筋肉運動を科学的、系統的に錬磨しようとするものであった。彼女の方式の原則は「周到に整えられた環境において幼児の感覚、筋肉、身体、そして精神の全体的活動の自由な発想を刺激し、これまで暗く錯乱した状態に突き放されていた児童を覚醒させ、整えられた教具に自ら取り組みつつ自己教育(いわゆる自動教育=autoeducazione)ができるように励ますこと」であるといえよう。*1そこでは感覚訓練は単なる動物的な感覚の鋭敏さにねらいがあるのではなく、むしろ道徳意識、美意識の基礎として重視される。まさに造形授業で担っている手作りの感覚体験とは、頭と心に連動し、相関する全体的な人間教育を指向しているのである。

美術教育の総合性 


 表現及び鑑賞の活動を通して,つくりだす喜びを味わうようにするとともに造形的な創造活動の基礎的な能力を育て,豊かな情操を養う。(小学校学習指導要領 図画工作)
 美術では見ることがつくることの始まりであり、表現と鑑賞とが循環しながら―作品と人と社会・自然とを意識的芸術活動(美しくつくろうとする意識)によってイメージ化・有形化していく。つまり、見ることとつくることの一致が創造過程と呼ばれるものである。*2

 これまで述べてきたように、この教科では、子どもたち一人一人が自分の総てを発揮しながら、課題に対応したり、自己実現していく活動が行われている。「知識だけを強調する一方に偏した教育は、個人の感受性の発達とか、精神生活とか、同じく社会で協調的に生活する能力などを伸ばすのに責任ある役目をおろそかにしていることになる。」これは『美術による人間形成』*3の中のViktor Lowenfeld(V.ローヴェンフェルド)の言葉である。1947年初版のこの名書の精神も引き継ぎながら、美術教育は感性や思考、技能を含めた総合的な教科として、真の全体的な教育に寄与している。作品づくりから学ぶ「生きるという芸術」こそ、広い意味での教育が全面的にかかわっている最大の問題だと思われる。*4


*1 モンテッソリの理論「現代教育理論のエッセンス」(ペリカン社) *2 町田甲一「美術」(有信堂) *3 黎明書房 *4 周郷 博「教育学全集9 芸術と情操」(小学館)  


2.教科の横断(統合)としての総合

 社会が危機的で、不透明の時代を迎えるにあたって、児童には多面的に考え、判断していく力が求められている。総合的な学習において―知の統合とは、教科を超えて文化や価値を自分の中でまとめていく過程である。指導要領の総合的な学習の時間の取扱いで述べられている、例えば国際理解,情報,環境,福祉・健康などの横断的・総合的な課題に対して、ねらいにあるように「問題を解決する資質や能力」を目指していけば、既成の一つの教科だけでそれを扱っていくことは不可能である。
 従来の注入式の「覚えさせる学習」から、まさに、教科の特別活動として、教科を横断的・有機的なつないでいく―創造的な体験学習が登場してきたのである。
 ピカソは、アカデミックな学習(基礎・基本)を学び、古典的な美を分解してキュービズムを確立した。それは、形態をバラバラにするのが目的ではなかった。それらを結合して画面全体に新しい一貫した統一性を与えているのである。*1それは絵画の全体性を進めるために、必然的な方法であったと言われている。
 総合的な学習の時間の起源については諸説あるが、ヘレン・パーカストのダルトン案の言葉を引用したい。「すべての教科がバラバラでなく相互に密接な関連を保ちながら、総合的な教育効果を発揮することが肝要である。」 *2


情報教育は教科を交流させる

マスメディア一般を特徴づけているのは情報の流れの不均衡である。*3大衆=マスはいつでも単なる受け手にすぎなかった。「大衆」を相手にする情報の分配と支配の中央制御システムがマルチメディア社会の本質なのである。そこで、これからの教育のねらいはコンピュータを扱う視聴覚の教育を超えて、高度情報社会に向けて、さまざまな情報を選択・活用していくことのできる主体的な人間の育成が重要になってくる。
 その中での情報教育とは、コンピュータはCAI*4のように授業の援助ではなく、マルチ(複数)なメディア(情報媒体)を融合して知識の統合を図りながら、さらにマルチメディアを活用して発表・発信していく双方向的で総合的な能力を育成しようとしている。


マルチメディア クリエーター


 学習の方法として―情報はすべての教科、すべての国を横断している。その形式として、文字や写真、音声・映像など、すべてのメディアを融合している。柔軟な感覚を育てながら、ディレクターとして、この総合操作を―機械的ではなく―パレットにそれらを並べるように、クリエーティブに制作していこうとするのが美術教科の新しい試みである。
 19世紀に、職人の立場から安易な大量生産の方式への痛烈な異議申し立てをした、ウイリアム・モリスの美術工芸運動が近代デザインの出発点に置かれている。*5この創造精神を忘れずに、マルチメディア工作とは造形教育の立場から、「現代情報社会に生きるという課題」に自覚的に立ち向かった総合的な学習である。他教科と連携する一方、工房から離れて汗と掃除のない授業の中でも、コンピュータ作品を生み出すだけが目標ではない。それを使用しない、排除することを含めて、これからのコンピュータ世界で生活して幸せになる方法・美をつくる方法をコンピュータではなく、自分で考えさせていく能力を養いたいと願っている。*6
 即ち、造形に現代のテクノロジーを利用することは、コンピュータグラフィクスのようなヴィジュアルな様式ではなく、新しい型の人材を育むひとつの教育体なのである。近代技術と芸術との結合をめざした、<バウハウス>*7という総合造形学校の理念もそこにあった。バウハウスの功績は単に近代デザインのひとつの様式を生み出したからではない、新しい人間形成を目標とした<学校教育>という場を介した近代のプロジェクトだった。*8
 コンピュータは21世紀を拓く―モンテッソリのいう教具(恩具)でもあり、子供と同じく無限の可能性を持っている。総合的な学習の時間で許された週3時間の中で、世界の最新の知識や情報に触れ、世界中の人と交流し、国際的な感覚を広めることが、コンピュータには可能である。まさに、節度を持って、「整えられた教具に自ら取り組みつつ、自己教育ができるように励ますこと」が教師の役割ではないだろうか?
 教育課程審議会の(情報化への対応)で指摘されていることも、「今後、ますます高度情報通信社会が進展していく中で、児童生徒が、溢れる情報の中で情報を主体的に選択・活用できるようにしたり、情報の発信・受信の基本的ルールを身に付けるなど情報活用能力を培うとともに、情報化の影響などについての理解を深めることは、一層重要なものになってくると考える」ということである。情報社会における新しい人間形成を目標とした学校教育のプロジェクトでも、ネットワーク上のエチケット(netiquette)など、やはり扱う人間の美意識が大切なことが改めて指摘されている。


*1 H・ジャンソン&カウマン「美術の歴史」(創元社) *2 パーカストの理論「現代教育理論のエッセンス」(ペリカン社) *3 芸術学ハンドブック(勁草書房) *4 CAI(computer assisted instruction ) *5 「世界デザイン史」(美術出版社) *6 「マルチメディア工作」 筆者、第50回全国造形教育研究大会発表資料より *7 1919年、建築家グロピウスによってドイツのヴァイマールに創設された綜合造形学校 *8 「バウハウスー<生>の全体性への問い」向井周太郎


3.視点のグローバル(展望の総合性)


 国立天文台がハワイ・マウナケア山頂に建設していた、「人類の新しい目」である大型光学赤外線望遠鏡「すばる」の完成式が開かれた。(1999年9月19日読売新聞)
 この日本の総合技術力の結晶は、これからも広く宇宙と21世紀を観測していくだろう。全体的に見ること―横断された教科の学習の目標の総合性―について考えてみたい。
 自己中心性が指摘されている現代の子どもたちの個人的な必要や興味から、「総合的な学習の時間」の総ての学習課題がつくられることはない。指導要領では、個人の趣味や興味を超えて、さらに学習の関心を世界に拡げていくことが求められている。
 モンテッソリ方式においては、教師は道を指し示す人という意味で指示者(direttrice)と呼ばれることが多い。指示者の任務は、まわりの現象に気を散らしてさまよい自力でそこから脱出できない児童に、一回的に介入し、進むべき自己創造への道を指示してやることでなければならない。したがって、きわめて積極的な役割をもつものである。そして、児童が目ざめたあとは受動的な見守る人(spettarice)となるのである。*1 文部省の言う教育的な支援とは、この2つの役目を意味しているように思える。
 つまり、私たちは児童の個人的な課題に対して、それを尊重しながらもその総合的な関連に気づかせ、共通で全体的な問題についても意識させていかなければならない。


21世紀はみんなの世紀である


 「20世紀は児童の世紀である」と叫んだエレン・ケイ女子の教育思想は21世紀には継続されないであろう。老人も地球も―皆、同じように大切な存在であり、生命として庇護されなければならないからである。
 迎える21世紀は地球と国と個人の協調の時代に入るであろう。極論を言えば、新しい神の時代が始まると感じている。あのオゾン層が破壊されたとき、人類はその天の神が私たちを紫外線から護っていてくれていたという事実を悟った。経済最優先で、世界中を伐採してきた森の問題と同じく、私たちが神=地球(自然)を意識して行動を起こさなければ共に絶滅することを、「新しい理性」としてつかんでいる。―フレーベルの統合の直感は当たっていたのである。天に在す神とは、空気のように最も身近に潜んでいた自然そのものであった。そして、人間はそれを支配していたのではなく、そこに一番不完全な方法で統合していたのである。
 老人福祉の問題も、自分たちの年金や国家予算と切り離しては解決できない。これからは、行き過ぎた個人の自由の獲得だけが真の教育の目標ではない。個人はそれぞれのパーソナルな幸福を追求しながらも、巨視的視点で全体を意識した行動を選びとっていかなければならない。それは、大きな木の下で安心して遊ぶ子どものように、全体は個人を庇護し、個人は全体を保護していくいくような関係=選択できない新しいヒューマニズムの時代が到来している。それが環境の学習の意味であり、地球コミュニケーションとしての国際理解の精神であろう。
 電車の中でも、地球の中でも、―子どもはもはや甘やかされる時代ではないのである。 


*1 モンテッソリの理論 現代教育理論のエッセンス(ペリカン社)
 

4.地域との連続(日常との総合)

子どもは、一日の多くを地域で過ごしている。生の現実への配慮と、学校教育のスリム化を考慮して、教育課程審議会ではその地域にはっきりと教育的役割を明記している。
 「我々は、後でも述べるように、子どもたちの生活の在り方や学習の環境を変え、学校、家庭及び地域社会の役割を見直し、学校では学ぶことの動機付けや学び方の育成を重視し、家庭や地域社会で担うべきものや担った方がより効果が得られるものについては家庭や地域社会において担うなどして、よりバランスのとれた教育が行われることが必要であると考える。家庭や地域社会における教育については、子どもたちがもっと社会体験や自然体験などの様々な活動を体験し、それらと、学校における教育活動とを更に有機的に関連付けることによって一層教育効果を高めることができるし、また、学校で学習した知識・技能や学び方などは、家庭や地域社会において生きて働く力として用いられることによって一層深められ、根付いていくと考える。」
 いうまでもなく、「総合的な学習の時間」の中で地域の課題については,「例えば国際理解,情報,環境,福祉・健康などの横断的・総合的な課題,児童の興味・関心に基づく課題,地域や学校の特色に応じた課題などについて」と3つ目の課題に示されている。
 地域は、児童にとって生活と遊びの中心場所であるとともに、社会的な交流や体験学習の起点になるところである。知人や友達などとの温かい心の環境や我が故郷として、その子の成長に大きな教育的影響力をもっている。
 地域の人と出会い―そこに息づく伝統産業の発見や名人の掘り起こしは、生の対話を通して児童に住んでいる地域への愛着を深め、さまざまな生き方に触れさせていくことができる。
 さらに、地域社会を支えている多数の人々にも気づかせ、社会的なルールを守って連帯して生きていく態度を養うと同時に、福祉などの地域の問題点にも関わらせ、その解決を探っていく学習へと発展していくだろう。


5.社会との関連(未来社会との総合) 


 教育とは社会的な活動であり、学校生活も地域や社会と密接に結びついて相関している。現実社会の準備として産業界からの指摘も請け、受験のための観念的な理論や機械的な暗記などの実生活に役立たない学習に、今回は質的変更が加えられた。
 教育課程の基準の改善についての基本的な考え方を見ると、それは (社会の変化に柔軟に対応し得る人間の育成)として述べられている。
エ 第四は、教育においては、社会の変化を見通しつつ、これに柔軟に対応し得る人間の育成を期する必要があるということである。(略)
  学校教育は言うまでもなく、次代を担う子どもたちの教育を行う場であり、これからの社会 の変化を見通し、その変化に適切に対応できる力を育成することもまた極めて重要であると 言わなければならない。
今日、我が国は、国際化、情報化、科学技術の進展、環境問題への関心の高まり、高齢化・少子化など社会の様々な面での変化が急速に進んでおり、今後一層の激しい変化が予想されている。これらの社会の変化は、子どもたちの教育環境や意識に大きな影響をもたらし、教育上の様々な課題を生じさせるものと思われる。(略)
そして、そのためには、これからの学校教育においては、これまでの知識を一方的に教え込むことになりがちであった教育から、自ら学び自ら考える教育へと、その基調の転換を図り、子どもたちの個性を生かしながら、学び方や問題解決などの能力の育成を重視するとともに、実生活との関連を図った体験的な学習や問題解決的な学習にじっくりとゆとりをもって取り組むことが重要であると考えた。(教育課程審議会)

 わが国の戦後教育で大きく登場してきた問題解決学習は、社会生活課題を取り上げて問題とし、これを探求的な過程をとって解決思考するとの行きかたをとった。*1この新しい「総合的な学習の時間学習」でも、児童なりに現実社会の関心や矛盾、緊急な問題から出発しているようだ。自ら調べたり、仮説を立てることによって深められ、発表や検証によって確かめられる主体的探求の学習である。もちろん、この「為すことによって学ぶ」経験主義も、無責任に放任した児童の経験の総てが価値ある学習になるわけではない。まともな経験は知識になりゆくものである。デューイの主張することは経験を組織的に用いることによって「児童の活動をある線に沿ってはたらかせながら方向付づけ、目標まで導く」ことである。*2 


社会の適応を超えて

 社会との関連とは、寺子屋のように読み・書き・そろばんとして、単に児童を世俗的な現実に適合させることではない。これからの社会に生きるとは、変貌する現実の社会に相反し、対立する関係が生じることも十分予想される。
 「総合的な学習の時間」とは、現実に出ている解決策を「善」として承認するだけに止まらず、未来の変化に適切に対応できる力を育成しようとしている。この、より高い「夢」や「善さ」を求めて探求し、創造していくのが自己教育力であり、シラーはそこに人間の「美的教育」を主張している。*3 故に、美術教育においても現実の改革策とよりよい美的社会の形成に向けて、感じ、考え、行動しうる人間の育成を目指している。そこでは、熱い改革のエネルギーをはぐくんでいる。
 ハーバード・リードも主観的感情や感動と、客観世界との非常な複雑な調節ということについて、審美的感覚の教育(審美教育aesthic education)の重要性を述べている。*4
 社会に適合させる教育と社会をより善く変革させる教育―そこに美の感覚が含まれることで、社会に調和が図られ、社会と個人とが幸せに生きる道が築かれていく。まさに、『芸術は人間の基礎教育』なのである。


6.学習活動としての総合性


 知識は感覚を通して獲得される。教科書本位で紙の上だけの真理と批判される学習から脱却し、自ら課題を解決するなどの実際的な活動を重視する「総合的な学習の時間」。その活動を支えるために、学習指導要領では多くの学習方法が示されている。

2 総合的な学習の時間においては,次のようなねらいをもって指導を行うものとする。
(1) 自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。
(2) 学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにすること。


*1 教育学大事典「第一法規出版」 *2 デューイの教育思想「現代教育理論のエッセンス」(ペリカン社)  *3 原典による教育学の歩み(講談社) *4 芸術による教育(美術出版社)


創造性と総合的な学習のねらい 


(1)(2)のねらいをまとめると、「自ら創造的に学習することで、学び方を身に付け、自己の生き方を探求できるようにすること」であるようだ。―聞き慣れた言葉で、それは、図画工作・美術科を含めて各教科も目指してきた「創造性の教育」と同一なものに思える。さらに、ねらいでは環境・国際理解などの課題を示すことで、21世紀における社会的な問題に対して主体的で、創造的な解決態度を生涯に渡って持たせていくことを願っているようだ。
 シンプソンは創造的能力を“自発性”と定義した。彼は所在をつきとめるという問題に関して、探求し、混乱を梳き分け、綜合する型の精神が求められるといっている。これを、トーランスは「創造的思考に含まれた諸能力が未発達だったり、麻痺させていたりしたのでは、知的に十分機能しているとはいえないことは確かである。これらの創造的な思考に含まれる諸能力とは、問題を関知し、可能な解決策を案出し、それを検証する能力である。もし、それらの働きが損なわれるならば、人生の諸問題に対処する能力も、実際危うくなるであろう。」*1 この言葉は、「総合的な学習の時間」の意義をそのまま語っている。
 次に、このような創造的な学習の体験には多種多様な活動が含まれていかなければならない。拡散的思考による手当たり次第の探求から、解決法を多く作り、実験していくなど、まさに拡散的な学習活動が予想される。トーランスは、創造的過程の段階は4つの段階で流れていくといっている。最初に問題の明確化があり、次に準備・下調べ(Preparation)→孵化・培養(Incubation)→開明・解明(Illumination)→改訂・修正(Revision)である。
 美術教科はこのような学習活動において、図示やイラスト化などの視覚的(ヴィジュアル・コミュニケーション)なところだけで、他の教科や「総合的な学習の時間」と関連しているのではない。創造性を育てている教科として、ブレーンストーミング(BS)法*2やKJ法*3などの発想の段階−複数方式の案出−最適の方法の選択、実施−プレゼンテーションのツールまで、課題や表現の企画立案から発表段階までのすべてに関わっているのである。*4
 

 指導要領の記述は以下の通りである。
 
 5 総合的な学習の時間の学習活動を行うに当たっては,次の事項に配慮するものとする。
(1) 自然体験やボランティア活動などの社会体験,観察・実験,見学や調査,発表や討論,ものづくりや生産活動など体験的な学習,問題解決的な学習を積極的に取り入れること。
(2) グループ学習や異年齢集団による学習などの多様な学習形態,地域の人々の協力も得つつ全教師が一体となって指導に当たるなどの指導体制,地域の教材や学習環境の積極的な活用などについて工夫すること。
(3) 国際理解に関する学習の一環としての外国語会話等を行うときは,学校の実態等に応じ,児童が外国語に触れたり,外国の生活や文化などに慣れ親しんだりするなど小学校段階にふさわしい体験的な学習が行われるようにすること。


表現力も総合力である


 先の、学習活動の記述では学校教育で行われている総合の学習である「表現活動」について触れられていない。それは、教科の学習という意味であろうか…。ものづくりや生産活動など体験的な学習,問題解決的な学習に含まれているという解釈も可能であるが、ここに「総合的な学習の時間」の疑問を感じている。
 ピアノの演奏でも、まず音符を見るが、その上に解釈を乗せる―感情と音符のバランスが大事であるという。(映画『シャイン』より) 作曲はもちろん、演奏でもテクニックだけではなく演奏者の内面を含んだ総合的学習なのである。
 要するに、表現学習とは自ら課題を決め、経験や知識を総動員して、自分の表したいものや主張をまとめてあげていく―日々の図画工作・美術科の活動である。その過程において―態度としての自立性が「主体性」であり、作品としての独創性が「個性」であり、課題への適応性が、「創造性」であると考えている。即ち、この「総合的な学習の時間」のねらいをすべて含んでいる、主体的で創造的な『表現力』が、具体的に社会に表され、行動に移されるとき―作品つくりを超えて、人生の「生きる力」となっていく。
 教育課程の基準の改善に当たっての基本的考え方では、「子どもたちは、幼児期から思春期を経て、自我を形成し、自らの個性を伸長・開花させながら発達を遂げていく。教育は、こうした子どもたちの発達を扶ける営みである。」述べられている。これは、まさに自己の表現のことである。表現をすることによって、自我が外部の世界と調和のある、持続的な関係に置かれることで統合的な人格が築かれていく。自己実現とはまた、人格の成長であり、発達なのである。
子どもの創造的な表現力の育成が、これからの社会の形成に不可欠な条件になるであろう。


*1 E・P・トーランス「創造性の教育」(誠信書房) *2 1939年アメリカのアレックス・オズボーンが開発。批判をしないで、多数のアイディアを出すのが基本原則。 *3 1960年川喜多二郎氏が創案。アイディアをタイトルつけグループ化してまとめていく方法。 *4 小泉俊一「企画書立て方・書き方がわかる事典」(西東社)




あとがき

「総合的な学習の時間」と美術教育についての関係について考察してきた。文部省の英訳によると、図画工作科は“Drawing and Handicrafts”となっている。これを直訳してしまうと、この教科は手先の機能学習としてしか捉えられないだろう。拙い論文であるが、「生きる夢を描き、幸せや地球をつくる」ねらいで論で進め、さらに新しく創設される『総合的な学習の時間』との相関を説いてきたつもりである。
 今まで述べてきたように、新しく始まる「総合的な学習の時間」は、問題解決学習や創造性・表現力など―従来の学習と大幅に変わる学習方式ではない。また、美術教育の目標である「情操」の心理学意味は、反知性ではなく、真理を尊び美を愛するような、知性や道徳を貫いて働く総合的なものである。*1
 美術教科の授業において十分にはぐくんできているその理念を、アート志向の題材主義やコンクール優先の作品主義が、「生きる力」としての自立解決力を奪い、魂の抜けた造形至上主義に陥らせてしまっているのではないかと反省している。
 さらに、○○方式のような、使う色数や混ぜ方、かく順番まで指定する「大人みたいに上手!」主義の横行は、子どもを主体性のない表面技術の習得に追い込み、この教科の全体的な発達の使命を覆い隠してしまっている。
 一方、多様な材料や方法を使えば「総合的な学習の時間」と勘違いしている教師は、唯物的にたくさんの材料を揃えて、つくる楽しみより、使える材料を楽しんでいる。「自由や発散」の名のもとに、いつでもたくさん選択できて、つくる主題も変えられる工作ほど、楽な活動はない。それは気分屋さんの逃げ道をつくっているようなもので、我慢も要らず―葛藤も味合わず、とても社会の荒波に対応できる力を培っているとは思えない。
 教科の枠を外すとは広く考えるためであり、さらに課題を自ら解いていくには、強い意志と追求する精神力が要求される。ロマンチックな空想力や自分だけの感性を呼び戻すのではなく、理性を覚醒して、熱く美的に行動する経験の学びこそが創造的な学習=「総合的な学習の時間」である。それは、私たちにとって、教科の知識や技術を教えるよりもはるかにハードな学習であるが、図画工作・美術科の中で、十分に推進していけると確信している。

このような未熟な原稿を、最後までお読みいただいた皆様に厚く御礼申し上げます。


  1999年10月

 

*1 村井 実「情操という言葉」(教育学全集9−芸術と情操・補説)



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