4.陸軍の諸施設

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1.陸軍第一気象連隊

【部隊の概要】  
 岐阜県各務原には陸軍中部第131部隊(航空気象隊)があり、日本で唯一の気象教育を行っていました。1942年4月、新しく第一気象連隊を編成することとなり、同年11月、石薬師に新兵舎が完成し、第一気象連隊の8中隊(練成2中隊、教育6中隊)が移転するのこととなりました。各地から集められた幹部候補生に気象学の教育を行うことを目的とした教育部隊でした。当時、日本国内で気象学を教育する部隊は、この部隊だけでした。一般的には気象学は軽く考えられていましたが、大気中に起こる各種の現象を分析解明する学問で各作戦には重要な要素であり、特に航空隊においては空中戦術上、必要不可欠なものでした。
 当初は増大の一途をたどる気象部隊の兵員の補充、教育及び留守業務を担当するのが目的でしたが、戦争が本格化すると、これまで各航空教育隊で行われていた初年兵教育をこの部隊で集中して行うと共に、同時に乙種幹部候補生教育(1944年5月からは甲種幹部候補生も)及び下士官候補生教育をも合わせて行うことになりました。この連隊で学んだ気象隊員は計約3万人に達したといわれています。隊員は約4ケ月間の教育過程を終えると気象兵や見習士官として、赴任地の希望がとられて、各戦地へ赴きました。戦地は満州や中国もありましたが、フィリピン、ボルネオ、ジャワなどの南方が最も多かったようです。戦地からの気象情報は東京牛込の陸軍気象部隊本部に送信され、航空機部隊作戦に使用されました。陸軍第一気象連隊は1943年4月からは松阪の第一航空軍第2航空教育団の指揮下に入り、1945年3月には「中部第131部隊」から「東海第555部隊」に改名されています。

【現在に残る遺跡】
 部隊建物は東部に第一〜第八部隊の宿舎があり、西部に気象、通信などの講義室が並んでいました。気象観測などの実地訓練は東にあった練兵場で行いました。陸軍第一気象連隊の建設地は、石薬師東古墳群の遺跡内にあたり、戦前の調査で数十基の古墳が確認されています。建設にあたっては、これらの墳丘を含む数多くの古墳が破壊されました。戦後、この地は食糧生産確保のために共同の農場(中部農場)に転化され、建物の大半は取り壊されました。1952年からは県立の家畜増殖基地農場として牛・豚・鶏などの飼育促進の機能を果たしました。また1975年、国民体育大会三重大会が行われ、この地が馬術競技場に使用されたことを機に、終了後、ここには県立石薬師高等学校と県消防学校が建てられました。これらの公共施設が建設されるまでは、給水塔や弾薬庫などの施設の一部が残っていましたが、現在は建造物は全く見られません。しかし石薬師高校前の桜並木通りは当時のままであり、入り口近くには戦友会による記念碑が建てられています。1995年から県消防学校の建設に伴う発掘調査が度々行われており、当時の兵舎建物の基礎遺構や陸軍のマークのついた陶器などが出土している他、多数の古墳跡も発見されています。 

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陸軍第一気象連隊跡碑 現在は石薬師高校や県消防学校の敷地となっている (15066 バイト)        陸軍第一航空軍教育隊跡 現在でも数多くの建物基礎部分が残る(20874 バイト)

陸軍第一気象連隊跡碑                    陸軍第一航空軍教育隊跡


2.陸軍第一航空軍教育隊

【部隊の概要】
 高塚町の荒神山観音の北方に駐屯したのが陸軍中部第132部隊(後に第581部隊に改組・改名)の陸軍第一航空軍教育隊でした。1942年(昭和17)3月に東京の陸軍第一航空軍司令部より岐阜県各務原に編成命令が下り、直ちに兵舎や格納庫などが建設され、同年12月1日に正式に発足しました。編成は第1中隊から第9中隊まであり、主な任務は陸軍航空隊員の下級幹部候補生の教育で、ここで各種の地上教育を行い、機上訓練は北伊勢陸軍飛行場を利用しました。

【現在に残る遺跡と測量調査】
戦後、この施設は原則的に農地に戻されましたが、兵舎などの建物については、戦後の新しい入植者の仮住宅や倉庫として利用されました。それ以外の建物については建材を他に利用したり、取り壊されるなどしたため1960年代にはほとんどのものが消滅してしまいました。しかし建物の基礎部分は残され、それを避けるかのように農地の利用や住宅が建設されました。1970年頃からモータープール、1990年代に入り分譲住宅の建設により、中隊兵舎があった南半分の区域は完全に破壊・消滅してしまいました。
 北区域については、数軒分の兵舎跡や火薬庫跡、飛行機格納庫跡、北端の火薬庫跡と基礎部分と土塁の一部などが残存しているため、鈴鹿市旧軍施設調査研究会が記録保存を目的に1999年、測量調査を実施しました。3基の飛行機格納庫跡は周囲の基礎部分が残存していたため、規模の把握が可能となりました。南側の第一格納庫と中央の第二格納庫は規模が同一で、東西52.5m×南北40.1m、東側に開閉式扉があり、レール部分と庇部分のコンクリートが残存しています。また西側には幅約5mの入り口が2カ所認められました。北側の第三格納庫は東西48.2m×南北40.1mとやや小さいことがわかりました。
 飛行機格納庫の西側には特殊教育各講堂跡があり、基礎部分は完存していました。規模は東西86.8m×南北12.8mで、等間隔に6つの講堂がありました。それらの講堂には北側に一つ置きに東西10.9m×南北5.5mの3つの付属の部屋(倉庫?)が付いています。特殊教育各講堂の北側には写真講堂跡があり、東端は宅地のため不明ですが、推定東西59m×南北11.0mの規模で、中央部分は全面コンクリートが貼られ、東側は車庫ということです。特殊教育各講堂の南側は2棟のトラック車庫跡が確認され、1棟が東西57.8m×南北14.6mの規模でした。トラック車庫と特殊教育各講堂の西側には被服倉庫の2棟分の建物跡があり、西端の倉庫は東西9.0m、その東側の倉庫は南北49.0m東西10.8m×東西36mをしました。特殊教育各講堂と被服倉庫の間には弾薬庫跡があり、東西11.0m×南北7.8mの規模でした。旧施設跡の北端には5つ弾薬庫群がありました。その一番北側の弾薬庫は周囲が土塁に囲まれており、その北西の土塁が僅かに残存しています。土塁は幅約2m、高さ約1.8mです。また、この遺跡唯一の弾薬庫が完存しており、東西2.66m×南北10.19mを計測し、壁はレンガをセメントで固めたものでした。  


3.北伊勢陸軍飛行場

【明野陸軍飛行学校の分教所開設】
  現在の鈴鹿市広瀬町から亀山市能褒野町にかけての台地に,1943年(昭和18)に開設された陸軍の飛行場を,地元では「北伊勢飛行場」と呼んでいます。この飛行場の正式名称は,明野陸軍飛行学校北伊勢分教所と言いました。つまり,明野陸軍飛行学校の分教所として設置されたのです。明野陸軍飛行学校は,1920年(大正9)に宇治山田市近郊の明野が原(現在の伊勢市明野町及び村松町)に開校されます。陸軍戦闘機の戦技教育を中心に行い,「陸軍の戦闘機搭乗員のふるさと」「陸軍戦闘飛行隊の総本山」と言われました。
 1941年(昭和16)のアジア太平洋戦争の開始前後から,搭乗員を大量に養成する必要が生まれ,各地に明野陸軍飛行学校の分教所が開設されます。最初は1941年(昭和16)に開設された原の町分教所(福島県相馬郡。半年で閉鎖),次いで同年10月の名古屋市港区築地の分教所,1942年(昭和17)の天竜分教所(現在の静岡県磐田郡竜洋町),そしてその次に開設されたのが1943年(昭和13)4月の北伊勢分教所です。それ以降も,同年8月には水戸陸軍飛行学校(茨城県)内に分校,1944年(昭和19)には佐野分教所(大阪府),富士分飛行場(静岡県),高松分飛行場(香川県),八日市分飛行場(滋賀)など続々と作られました。
用地買収が始まったのは1938年で,もとは各務原陸軍飛行学校(岐阜県)の分教所として1941年ごろに開設されましたが,1943年に明野陸軍飛行学校に移管されました。

【戦技教育と「ト号整備」】
  北伊勢分教所でどのような戦技教育が行われていたか,その全体像は不明ですが,1944年ごろの様子については,関係者の証言があります。それによりますと,1944年ごろには学徒動員によって動員された大学生が,幹部候補生として入校し,飛行訓練や飛行写真そして射撃の訓練を連日行っていたそうです。訓練に使用された飛行機は九七式戦闘機や,「赤トンボ」と言われた九五式練習機が中心でした。
北伊勢分教所が開設して間もない1944年(昭和19)6月には,明野陸軍飛行学校は明野教導飛行師団に改編されました。この時点で,学校から軍隊に変わったことになり,搭乗員養成という本来の目的は薄れ,教官などを中心に飛行戦隊が編成され,戦地に飛び立ったり,アメリカの爆撃機や艦上機に応戦することも多くなりました。敗戦が近づいた1945年(昭和20)3月ごろになると,どこからか飛来してくる隼(はやぶさ)戦闘機などに,格納庫でト号整備をするようになりました。ト号整備というのは,飛行機の胴体の下に爆弾を装備できるようにすることで,飛行機による体当たり特攻の準備です。ト号整備された飛行機は翌日どこかへ飛び立って行ったそうです。戦局が悪化すると九五式練習機までト号整備をするようになりました。
  このころになると,飛行場や格納庫から飛行機の姿はなくなり,後述する「椿秘匿飛行場」周辺に隠されていました。物資なども周辺の川崎地区,野(の)登(のぼり)地区,井田川地区(いずれも現在亀山市)などに地下壕を作って保管されました。北伊勢分教所には,周辺の小学校の校舎の天井板を外して作られた模擬飛行機が並べられ,木の葉などをかぶせて擬装されていました。つまり,本土決戦準備が優先されるこのころには,学校としての機能はほとんどなくなり,そのための準備も北伊勢分教所よりむしろ,その北に作られた「椿秘匿飛行場」が優先されたと言えるでしょう。

【分教所の施設】
 格納庫は全部で9棟あり,西端の第9格納庫のみ鉄骨で作られ,残りの8棟は木造でした。木造格納庫の大きさは,資料によると間口35m,奥行40mです。また,当時の資料には分教所のほかに,兵舎や修理工場,給油設備があったと記録されています。兵舎は格納庫の南方にあり,現在は亀山市立川崎小学校が建てられています。修理工場とはおそらく第9格納庫と推定されます。

【現存する戦争遺跡】
 北伊勢分教所の跡地は,開拓団の入植や古川電工など大工場の進出,近年の宅地化などで,当時の戦争遺跡はほとんど残っていません。わずかに残っているのは格納庫のコンクリート基礎です。大変丈夫なものなので,1990年代までは建物の土台などに転用されてかなり残っていたのですが,近年の宅地化で大部分は取り壊されました。近くには分教所の正門跡も残っていましたが,最近の道路拡幅でほぼ姿を消しました。亀山市立川崎小学校の正門は兵舎の門を転用したもので,校舎前の噴水池も当時のものです。亀山市川崎町の一色公民館は分教所の兵舎を移築したものですが,かなり修復されていて当時の面影はありません。第9格納庫は,亀山市立中部中学校の体育館として使われた後,中学校近くの工場で転用されていましたが,1990年代後半に撤去されました。
 なお,周辺の亀山市川崎町森地区の丘陵には,かなり大規模な地下壕が作られ,戦後になって危険なため丘陵ごと削平されましたが,西端部のみ現存しています。この地下壕には機械を入れて何かを作っていたという証言もあるので,物資の保管だけでなく飛行機部品などの修理をした可能性もあります。また,森地区から1kmほど西方の不動院(亀山市辺法寺町)近くの山裾にも,物資保管のための地下壕が4本残っています。

三畑町に今も残る格納庫(19278 バイト) 【北伊勢陸軍飛行場掩体(えんたい)】  
 両飛行場を結ぶ誘導路沿いに当たる三畑町に,巨大なコンクリート製掩体が1基残っています。この地域はもちろん,三重県で確認されているコンクリート製掩体はこの1基だけです。現在は,戦後この地に居住された方が物置として使われています。
掩体は幅29.6m,奥行き23.1mで,内部に金属製の吊り下げ金具が取りつけてあることから,飛行機の補修のために作られたと考えられます。
また,掩体内部には今も盛り土が残っていて,所有者の方のお話では,敗戦直後は掩体の天井近くまで盛り土があり,立って歩けないほどだったそうです。コンクリート製掩体は最初に土を盛って山を作り,その上にコンクリートを貼り,コンクリートが固まったら土を取り除くという工程で作ります。ですから,この掩体は完成間近で敗戦を迎えたようです。敗戦直後には掩体の両側に土がたくさん積まれていて,掩体の前はかなり掘られて池のようになっていたそうです。おそらく,今の地面より1mは掘り下げて掩体を使用することになっていたのでしょう。
  敗戦直後の航空写真を見ると,この付近は林になっていて,近くを誘導路が通っていることが確認できます。なお,すぐ北の山林には今も土製掩体の痕跡が残っています。周辺にはいくつかの土製掩体や貯水池,そして炊事場のようなものが作られていたそうで,北伊勢分教所にも近いこの辺りには,ある程度の広がりを持った軍事施設があった可能性もあり,今後の検討課題です。このコンクリート製掩体は,鈴鹿市で現存する極めて貴重な戦争遺跡で、2004年、県内の戦争遺跡では唯一、国の登録文化財に指定されました。。


4.陸軍追分飛行場(椿秘匿飛行場)

【新しく作られた十字型の滑走路】
 現在の鈴鹿市追分町から椿一宮町・岸田町にかけての平坦地に,1943年ごろから十字型の滑走路が作られ始めました。北伊勢分教所の北方約4.5kmの場所です。この飛行場の正式名称はまだ判明していませんが,本稿では「椿秘匿飛行場」を仮称として使うことにします。その他の呼び方としては,「追分飛行場」「鈴鹿陸軍と号用飛行場」などがあります。「ト」号や「秘匿」というのは特攻用という意味です。また,米軍は「伊船飛行場」と呼んでいました。

【航空基地計画の変化】
 1942年9月ごろにラバウル島などで,日本の航空基地がアメリカ軍に爆撃され,多くの被害が出たことが契機になり,日本の航空基地計画は大きく変化しました。それまでの飛行場と言えば,北伊勢分教所のように広い平坦地に滑走路や格納庫,兵舎などの施設を整えたものでした。しかし,これでは施設が一ヵ所に集中しているので,敵飛行機の爆撃によって壊滅させられる危険が出てきました。
そこで1944年ごろになると,飛行場はむしろ小さな起伏や森林の多い地域に作られるようになります。そして,起伏地や森林を利用して飛行機を分散して隠し,滑走路までは誘導路を使って飛行機を移動するという形態になります。つまり,滑走路以外の施設を分散し隠した訳です。燃料や弾薬なども地下壕をたくさん掘って分散保管し,兵舎も地下壕を掘ったり,一般集落に分宿するなどの形をとりました。どちらも滑走路から数km離されていました。飛行場の司令部も起伏地などにコンクリートで頑丈に固めた半地下式の建物を作り,土や木をのせてカムフラージュしました。さらに,一つの飛行場だけでは,戦いにくく守りにくいことがわかったので,従来の飛行場の回りにいくつかの飛行場を作り,「飛行場群」として戦えるように配置計画されるようになりました。こうした経過の中で椿秘匿飛行場が作られたのです。なお,椿秘匿飛行場の北方約13kmに当たる,現在の菰野町竹成にも陸軍が同時期に飛行場を作っています。おそらく,北伊勢分教所も合わせて「飛行場群」を構成していたと考えられます。ちなみにこのような飛行場は県下に四つ作られました。陸軍は椿秘匿飛行場と菰野の二つ,海軍が現在の津市高野尾と浜島町に作りました。

【飛行場の建設】
 飛行場設置が決まったのは1943年(昭和18)です。飛行場建設のために陸軍の第56飛行場中隊が編成されたのは1944年(昭和19)5月20日と記録されています。建設工事には軍の設営隊のほか,北伊勢分教所に勤務していた人や地域住民も動員され,滑走路や誘導路,そして飛行機を隠す掩体(えんたい)(地元では「掩体(えんたい)壕(ごう)」とも言われます)を作りました。掩体にはコンクリート製と土製がありますが,椿秘匿飛行場は大部分が土製でした。なお,建設工事には朝鮮人労働者も動員され,寝泊りしていた飯場(はんば)は,現在の岸田町にある農村環境改善センター付近の山の中にあったそうです。地元での聞き取りによると,飛行機が離着陸できるぐらいは,飛行場は完成していたようです。また,北伊勢分教所から掩体への飛行機の移動もほぼ完了したようで,北伊勢分教所には木製の偽装飛行機だけが並べられていたそうです。
 また,アメリカ軍の資料を見ると,1945年(昭和20)3月の爆撃目標地図では滑走路がメモ書きされ,同年6月の爆撃目標地図では滑走路と誘導路,それに北伊勢分教所への誘導路もかなり正確に記載されています。おそらくこのころには椿秘匿飛行場が,アメリカ軍に認知されるほど完成していたと思われます。ただし,この飛行場から出撃したという記録は今のところ見つかっていません。

【飛行場の施設と今も残る戦争遺跡】
ア 滑走路
  滑走路は東西と南北の十文字に作られていました。滑走路の位置は,1954年7月25日に印刷された国土地理院発行の地形図(5万分の1)に記載されているものが,今のところ最も正確だと思われます。『深溝・三畑・追分の郷土誌』(1993)によると,東西に伸びる滑走路は全長1500m,南北に伸びる滑走路は全長2000mとされています。滑走路の幅は100m近くもあり,南北滑走路から南へ伸びる誘導路は北伊勢分教所まで続いていました。滑走路はコンクリート舗装されず,整地をしたあと踏み固めたものでした。敗戦後は耕地などに戻され,現在は痕跡も残っていません。

イ 誘導路と掩体
 滑走路からは,周囲に何本もの誘導路が伸び,誘導路沿いにはたくさんの掩体が造られました。写真5から読み取れる,1947年9月時点の誘導路と掩体をまとめたのが図5です。写真からは30ヵ所の掩体を確認できます。すべてコの字型をした土製の掩体です。中に飛行機を入れ,上を樹木などで覆って隠しました。この図に表された掩体の大部分は,戦後耕地にするために削られ消滅しましたが,最近まで一つだけ山本新田の山林の中に残っていました。現在は開発のために消滅しましたが,1993年に作成された測量図が残されています。それによると,高さ約2.2mの土塁に囲まれ,周囲が32mに及ぶ巨大なものです。
作られて50年たっているので,作られた当時は,土塁はさらに高かったと想像されます。誘導路の痕跡などは現在のところ確認されていません。なお,ほかにも半地下式の戦闘指揮所や通信施設が付近の丘陵上などに作られていると考えられますが未確認です。

ウ 北伊勢分教所への誘導路
 この飛行場は本土決戦の特攻用に作られた北伊勢分教所の第二滑走路とも言えますので,北伊勢分教所までの誘導路が伸びていました。誘導路は椿秘匿飛行場の南北滑走路の南端から三畑町を通って北伊勢分教所の北端に伸びていました。現時点で誘導路全体の様子がわかるのは,アメリカ軍が1945年6月に作った爆撃目標地図です。それを見ると,誘導路がやや蛇行しながら二つの飛行場を結んでいたことがわかります。誘導路の痕跡が残っているかどうかについては,まだ調査が進んでいません。

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