五箇条の御誓文と五榜の掲示

 明治維新政府の方針として著名な「五箇条の御誓文」と「五榜の掲示」を所蔵資料を中心に紹介します。

1.五箇条の御誓文

起草の過程

明治元年正月、土佐藩の福岡孝弟が諸侯会盟を建議したのを受けて、福井藩出身の参与由利公正が御誓文の原案となる議事之体大意を起案した。この由利案に対して福岡が修正を施し、表題を会盟に改め、第一条冒頭に「列侯会議を興し」の字句を入れるなど、列侯会盟の色彩を強めた。福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案したが、この形式は天皇と諸侯を対等に扱うものであって王政復古の理念に合わないという批判が公卿の間で生じた。紆余曲折の末、天皇が公卿諸侯を率いて神前で誓う形式を木戸孝允が提案し、最終的にはこの形式が採用された。その際、条文の内容を木戸孝允、岩倉具視、三条実美が修正し、福岡案第一条の「列候会議」を「広く会議」に改め、最終案第四条を新たに設けるなど、全体として抽象度を高めた。その他、字句や条文の順序を若干修正したうえで天皇の裁可を受けて決定した。

儀式と布告

御誓文は明治天皇の勅命によって、3月13日に天皇の書道師範であった有栖川宮幟仁親王の手で正本が揮毫され、翌3月14日、京都御所の正殿である紫宸殿で行われた天神地祇御誓祭という儀式によって示された。同日正午、在京の公卿・諸侯・徴士ら群臣が着座。神祇事務局が塩水行事、散米行事、神おろし神歌、献供の儀式を行った後、天皇が出御。副総裁三条実美が天皇に代わって神前で御祭文を奉読。天皇みずから幣帛の玉串を捧げて神拝して再び着座。三条が再び神前で御誓文を奉読し、続いて勅語を読み上げた。その後、公卿・諸侯が一人づつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名した。その途中で天皇は退出。最後に神祇事務局が神あげ神歌の儀式を行い群臣が退出した。天神地祇御誓祭の前には、天皇の書簡である御宸翰が披瀝されている。

御誓文は太政官日誌をもって一般に布告された。太政官日誌には御誓文之御写が勅語と奉答書とともに掲載されたほか、その前後には天神地祇御誓祭の式次第と御祭文や御宸翰が掲載された。当時の太政官日誌は都市の書店で一般に発売されていたが、各農村にまで配布されておらず、一般国民に対しては、キリスト教の禁止など幕府の旧来の政策を踏襲する五榜の掲示が出された。

内容

正式な表題は、法令全書によると、御誓文である。明治天皇自身がこれを呼ぶときは単に誓文という(例えば1875年の立憲政体の詔書)。よく使われる五箇条の御誓文などの呼称は、後の時代の通称である。

御誓文の本体は、明治天皇が天神地祇に誓った五つの条文からなる。この他、御誓文には勅語奉答書が付属している。御誓文の各条および勅語・奉答書について解説すると次の通り。

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

(現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。

(由利案第五条)万機公論に決し私に論ずるなかれ
(福岡案第一条)列侯会議を興し万機公論に決すべし

この条文は、由利案では第五条であったが、福岡によって第一条に移された。その理由は「諸侯会議を以て第一着の事業と考え」たためと福岡自身が回顧している。(福岡孝弟「五箇条御誓文と政体書の由来に就いて」1919年に依る。以下、福岡の回顧は特に断らない限りこれに依る。)

前段の「広く会議を興し」については、由利案には「会議」に相当する語はなく、福岡の修正案で「列侯会議」の語があらわれ、これが最終段階で「広く会議」と修正された。福岡は後年「この時平民までも此議会に与らしめる御つもりであったか」と問われ、「それは後から考えればそうも解釈されるが、御恥ずかしい話ですが当時私はまだその考えはなかったです」「広くとは人々の意見を広く集めて会議するというのではなく府藩県にわたりて広く何処にも会議を興すという義です」と答えた(維新史料編纂会写本福岡孝弟談話筆記)。しかしながら、ここを「列侯会議」に限定せずに漠然と「広く会議」に改めたことは、後に起草者たちの意図を離れ、民権論者によって民選議会を開設すべき根拠として拡張解釈されるようになった。また明治政府自身もそのように解釈するようになった。

後段の「万機」は「あらゆる重要事項」の意味。「公論」は公議と同義、または公議輿論の略語であり、「みんなの意見」または「公開された議論」といったような意味である。「万機公論に決すべし」の語句は、由利と親交のあった坂本竜馬の船中八策(慶応三年六月)に「万機宜しく公議に決すへし」とあり、ここから採られたものとみられる。由利の草稿では、初めは「万機公議」と書き、後で「万機公論」と改めている。

一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

(現代表記)上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。

(由利案第二条)士民心を一にし盛に経綸を行ふを要す
(福岡案第三条)上下心を一にし盛に経綸を行ふべし

冒頭の「上下」は、由利案では「士民」だったが、福岡の回顧によれば「一層意味を広くするために士民を上下に改めた」という。「心を一にして」は日本国民の団結を表現する当時の決まり文句であり、江戸期の水戸学者の著作から後の教育勅語に至るまで広く使われている。

後段の「経綸」の語の解釈には注意が必要である。由利の出身藩である越前藩のために横井小楠が著した「国是三論」において「一国上の経綸」という章があり、そこでは主に財政経済について論じられていることから、その影響を受けた由利は経綸の語を専ら経済の意味で用いていた。したがって、この条文のいう「盛に経綸を行う」とは由利にとっては「経済を振興する」という意味であったと思われる。もっとも、当時、経綸の語は一般に馴染みのある語ではなく、江戸版の太政官日誌では経綸を経論と誤記しケイロンとルビを振っていた。福岡は後に回顧して「由利が盛に経綸経綸という文句を口癖のごとく振りまわしていた所であったからそのままにして置いたのである。経綸という字の意味は元は経済とか財政とかを意味していたようであるが、これは説く人々の解釈に任してよいのである」と述べている。一般的には、経綸の語は、経済政策に限らず国家の政策全般を意味するものとして理解されることが多い。

一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

(現代表記)官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。

(由利案第一条)庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す
(福岡案第二条)官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざしむるを要す

由利案ではこの条文は第一条に置かれ最重視されていた。由利は後の著書「英雄観」で「庶民をして各志を遂げ人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉くこの一言に帰着するのである。みよ、立憲政じゃというても、あるいは名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである。」と述べている。

冒頭の「官武一途」は語は福岡孝弟の修正案で追加されたものであり、「官」とは太政官すなわち中央政府、「武」とは武家すなわち地方の諸侯、「一途」は一体を意味する。これは福岡の回顧では「官武一途即ち朝廷と諸侯が一体となって天下の政治を行う」意味としている。この条文は、もともとの由利の意図では庶民の社会生活の充足をうたったものであったが、福岡が政治の意味を込めて「官武一途」の語を挿入したため、条文の主旨が不明瞭になったことが指摘されている(稲田正次)。

一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

(現代表記)旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。

(木戸案)旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし

この条文は由利案や福岡案では存在せず、木戸の修正により登場した。

この条文の解釈は意見が分かれている。戦前の研究者尾佐竹猛の説によれば、「旧来の陋習」は鎖国攘夷を指し、「天下の公道」は万国公法すなわち国際法の意味であり、この条文は開国の方針を規定したものとして狭く解釈している。 その後、稲田正次は、この条文の目的は開国の方針を示すことだけではなかったと主張した。その理由としては、御誓文と同時に出された宸翰に出てくる「旧来の陋習」の語は鎖国攘夷の意味に限定されていないこと、また、岩倉具視が他の文書で「天地の公道」の語を万国公法と区別して「天然自然の条理というような意味」で用いていること、などを挙げている。

一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

(現代表記)智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

(由利案第三条)智識を世界に求め広く皇基を振起すへし
(福岡案第四条)智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

前段の「智識を世界に求め」については、前述の横井小楠「国是三論」に「智識を世界万国に取て」とあり、ここから採られたものとみられる。後段の「皇基」とは「天皇が国を治める基礎」というような意味である。

福岡はこの条文を「従来の鎖国的陋習を打破して広く世界の長を採り之を集めて大成するの趣旨である」と回顧している。

勅語

(現代表記)我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以って衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの趣旨に基き協心努力せよ。年号月日 御諱
(意味)我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし天皇が自ら皆に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。皆もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。

この勅語は、明治天皇が神前で五箇条を誓った後、群臣に向けて下した言葉である。なお、明治天皇の言葉といっても、天皇自身が声に出した言葉ではなく、実際には三条実美が読み上げている。

勅語中「年号月日」とある箇所は、実際の日付が記されている。「御諱」とは実名のことであり、ここには明治天皇の実名の睦仁が記されている。

奉答書

(現代表記)勅意宏遠、誠に以って感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出でからず。臣等謹んで叡旨を奉載し死を誓い、黽勉従事、冀くは以って宸襟を安じ奉らん。慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印
(意味)天皇の意志は遠大であり、誠に感銘に堪えない。今日の急務と永世の基礎は、これに他ならない。我ら臣下は謹んで天皇の意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇を安心させよう。

奉答書は、群臣が天皇の意志に従うことを表明した文書であり、総裁以下の群臣の署名がある。3月14日当日には411名の公卿と諸侯が署名し、残りの者は後日署名した。署名者には公卿と諸侯のほか、同年5月に天皇に直属する朝臣となった旧幕府旗本のうち千石以上の領地を持つ者も加わった。最終的には、公卿と諸侯は総計544名、その他288名が署名した。なお、木戸孝允ら藩士出身の新政府実力者たちの署名はない。

奉答書の日付が「慶応四年」となっているが、後の明治改元により慶応四年は1月1日に遡って明治元年に改められた(大正以降の改元とは異なるので要注意)。このため、ここの「慶応四年」は「明治元年」に読みかえるのが正式である。

その後の御誓文

政体書体制での御誓文

明治元年閏4月に明治新政府の政治体制を定めた政体書は、劈頭で「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて御誓文の五箇条全文を引用した。政体書は、アメリカ憲法の影響を受けたものであり、三権分立や官職の互選、藩代表議会の設置などが定められ、また、地方行政は「御誓文を体すべし」とされた。 このほか、同年4月12日の布告では、諸藩に対して御誓文の趣旨に沿って人材抜擢などの改革を進めることを命じている。また、各地の人民に対して出された告諭書にも御誓文を部分的に引用する例がある。例えば、明治元年8月の「奥羽士民に対する告諭」は御誓文の第一条を元に「広く会議を興し万機公論に決するは素より天下の事一人の私する所にあらざればなり」と述べ、同年10月の「京都府下人民告諭大意」は第三条を元に「上下心を一にし、末々に至るまで各其志を遂げさせ」と述べている。

御誓文の復活

その後、政体書体制がなし崩しになり、さらには明治4年(1871年)の廃藩置県により中央集権が確立するに至り、御誓文の存在意義が薄れかけた。明治5年(1872年)4月1日、岩倉使節団がワシントン滞在中、御誓文の話題になった時、木戸孝允は「なるほど左様なことがあった。その御誓文を今覚えておるか」と言い、その存在を忘れていた模様である。この時、御誓文の写しを貰った木戸孝允は翌日には「かの御誓文は昨夜反復熟読したが、実によくできておる。この御主意は決して改変してはならなぬ。自分の目の黒い間は死を賭しても支持する」と語った。1875年(明治8年)、木戸孝允の主導により出された立憲政体の詔書で「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言。立憲政治の実現に向けての出発点として御誓文を位置付けた。

自由民権運動と御誓文

自由民権運動が高まる中、御誓文は立憲政治の実現を公約したものとして一般に受け止めらるようになった。特に第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、当初は民選議会を意図したものではなかったが、後に民選議会を開設すべき根拠とされた。例えば1880年(明治13年)4月に植木枝盛が起草し片岡健吉・河野広中らが提出した「国会を開設するの允可を上願する書」が著名である。明治憲法制定により帝国議会が開設されるまでの間、自由民権派は御誓文の実現を求めて政府に対する批判を繰り返した。

戦後の御誓文

戦後、1946年(昭和21年)1月1日の新日本建設に関する詔書(いわゆる「人間宣言」)で、御誓文の条文が引用されている。このことについて後に昭和天皇は、「民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。」(1977年8月23日記者会見)と語っている。

1946年(昭和21年)6月25日、衆議院本会議における日本国憲法案の審議の初め、当時の吉田茂首相は御誓文に言及して、「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字に現わしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」と答弁した。

国税庁と在日朝鮮人商工連合会の間で取り交わされたとされる以下の五項目の合意のことも五箇条の御誓文という。 ただし国税庁は決して合意の存在を認めていない。

 1.朝鮮商工人のすべての税金問題は、朝鮮商工会と協議して解決する。  2.定期、定額の商工団体の会費は損金(必要経費)として認める。  3.学校運営の負担金に対しては前向きに解決する。  4.経済活動のための第三国旅行の費用は損金として認める。  5.裁判中の諸案件は協議して解決する。

豆知識

 

 

御誓文は、明治政府が それまでの幕府から明治に変わった時に 政府が宣言した誓約文である。
 あまりにも有名ではあるが、その内容は以下の5ヶ条からなっている。

一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フベシ
一、官武一途庶民ニ至ルマデ各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ
一、知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ

 この文章自体は、由利公正(三岡八郎)氏の起草したものを 福岡孝弟(福岡藤次)氏が修正・木戸孝允(桂小五郎)氏がその文章を整理したものである。司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」によれば 「・・・竜馬が長崎から京へのぼる途中、船中で起草し、後藤象二郎に渡した新国家綱領のいわゆる『船中八策』の思想がことごとくもられていた。・・・」そうである。それでは、対比する為に その船中八策も見てみよう。(以下の文章は、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」からの抜粋となります。)

第一策。天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事
第二策。上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事
第三策。有材の公卿・諸侯、および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事
第四策。外国の交際、広く公議を採り、新たに至当の規約(新条約)を立つべき事
第五策。古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事
第六策。海軍よろしく拡張すべき事
第七策。御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
第八策。金銀物価、よろしく外国と平均の法を設くべき事

 司馬氏も書いておられるように、なるほどその最初の三ヶ条など「・・・五箇条の御誓文が竜馬の船中八策から出ている・・・」(これも「竜馬がゆく」より引用)ようである。私がここで述べたい趣旨を読み違ってもらっては困るので、あらかじめ書いておくが「五箇条の御誓文が 船中八策を基に考え出された事を否定するものでは無い。むしろその後に付加されている後ろの2ヶ条の意味を考える」事である。

 龍馬氏の作成した『船中八策』には、『御誓文』の最後の2ヶ条に対する部分は存在しない(ように見える)。特にその第四条のなかの『公道ニ基ク』という部分、第五条のなかの『大ニ皇基ヲ振起ス』という部分は見つからない。ささいな文章の言い回しのように思われるかもしれないが、実はこの部分は大きな意味を持つのである。

 それは この2つの文章の基底に流れる「主権」のありよう。であると言っても良い。龍馬氏の考えていた明治(当時は明治という元号は存在しないのですが)と、木戸孝允氏らの考えていた明治とでは その基本的な考え方がちがっている。龍馬氏はあくまでその社会の基礎を『人民』においているのだ。全ての人が平等であり、その意思によって自由な活動が出来る社会をこそ望んでいたのだ。だからこの文章には『皇基』などという言葉は 存在しない。朝廷を中心とした(ありようとしては戦後の日本の姿のような)立憲君主国を望んでいたのだ。

 それに対して、『御誓文』の方はあくまでその『主権』が天皇を中心とした皇室にある事を暗に明示している。『皇基を振起』する事によって 天皇を中心とした、主権は国民にない社会・しいてあげれば『将軍』にかわりに『天皇』を据える社会を目指す事を宣言した文章となっているのだ。 それこそが、『御誓文』の最大の特徴と言ってよい。明治政府をあげて『主権は民にあるのではなく 皇室に存在』する事を宣言したのである。

 ところで、宣言・宣言といっているが、『御誓文』は誰に対しての宣言であったのだろう。自らが 今後の政局運営に対して宣言するのであれば それは『御誓文』ではない。『御誓文』とは その文章を『神』に対して宣言する目的で作られたのだ。しかもそれは、「・・・天皇みずからが群臣をひきいて神々に誓うかたちでなされた・・・」(八木公生氏著 「天皇と日本の近代化 上」からの引用)という形式で 奏上されている。 つまり、 天皇みずから神々に対して奏上し、その後「三条をはじめ列席した群臣たち一同が、天皇が神々にたてた『御誓文』を実現すべく努力する旨を、同じ神々と天皇のまえで誓約するものである」 。(「天皇と日本の近代化 上」からの引用)

 『皇基を振起』する事を、天皇=神の前で誓った事が この後の明治にもたらした影響は大きい。天皇自らが『祭祀者』として神道祭儀を行なう事の 絶大なる影響力を明治の指導者達は まのあたりに見た。天皇が『最後の切り札』として利用されるようになったきっかけは 実はこんなところから来ていたのである。

由利公正(越前藩出身)の起草案
議事之体大意(政治のやり方の根本精神)
一、庶民志を遂げ、人心をして倦まざらしむる。
一、士民心を一にし、盛んに経綸を行ふを要す。
一、知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし。
一、貢士期限を以て賢才に譲るべし。
一、万機公論に決し、私に論ずるなかれ。


福岡孝弟(土佐藩出身)の改竄案
会盟(会合して誓うこと)
一、列侯会議を興し、万機公論に決すべし。
一、官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしむるを欲す。
一、上下心を一にし、盛んに経綸を行ふべし。
一、知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
一、徴士期限を以て賢才に譲るべし。


木戸孝允(長州藩出身)の決定
御誓文(天皇が天地の神々に誓うことば)
一、広く会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ。
一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フヘシ。
一、官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス。
一、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ。
一、知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基を振起スヘシ。
我国未曾有ノ変革ヲ為サントシ、朕身ヲ以テ衆ニ先ンジ、天地神盟ニ誓ヒ、大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ。


五榜の掲示(立て札)


旧幕府の掲榜を撤し、更めて五条を掲示する。

第一榜  人タルモノ五倫ノ道ヲ正フスヘキ事
     鰥寡孤独廃疾ノ者ヲ憫ムヘキ事
     人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ悪業アル間敷事
第二榜  党ヲ樹テ強訴シ或ハ相率イテ田里ヲ去ルコト勿レ
第三榜  切支丹邪宗門ハ旧ニ仍リテ之レヲ厳禁ス

以上三榜永世ノ定法トス

第四榜  外国人ニ対シテ暴行ヲ為スヲ禁ス
第五榜  逋逃ヲ禁ス

以上二榜一時ノ掲示トス


 前後の順番に注目してください。木戸は「皇基の振起」を最後尾に置き、「賢才に譲るべし」を無視し、削除しています。これは何を意味するのでしょうか。大久保、木戸は何を考えていたのでしょうか。由利は庶民を最前においています。そして「万機公論に決し、私に論ずるなかれ。」と控えめに誤りを正そうとしています。
 結局のところ天皇親政とは言え、天皇を祭り上げ、権威づけ、その実、天皇を利用して薩長土肥四藩が権力を握り幕府にとって代わっただけのことであり、御名御璽を管理するだけの内大臣を閣外において天皇排除を実現しました。

 

■高札とは

高札とは制札ともいい、「こうさつ」とも「たかふだ」とも読みます。
徳川幕府が農民や商人を取り締まる基本的なきまりを公示したものです。

江戸幕府は村々に命じ、路傍の一定場所に法度や掟書を記した板札を建てさせた。
奈良時代末期からあったと言うが江戸時代に最盛期を迎えた。
内容は、親孝行・博奕の禁止・忠孝の奨励・精勤・賛沢の禁止など、町人や農民の生活の規範とするもの、キリシタン、鉄砲、徒党の禁止、新田開発の奨励など多岐にわたった。

基本的なものは正徳元年(1711)に出された 親子兄弟札、毒薬札、キリシタン札、火付札、駄賃札などです。

高札場

高札は道が交差した人の往来の多いところに、人に目立つように一段高くした「高札場」に掲示されました。

幕府の権威を示すように 石垣や土盛の上に建てられ、柵がつけられ、矢来で囲むこともありました。
その管理責任は藩に命じ、村人に決まりをきびしく守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。
文字の読めない人のため、村人に読み聞かせるのも名主など村役人の仕事でもありました。
高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われた。
余り頻繁にあったため、8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持されました。


▲池鯉鮒宿(ちりふじゅく)の高札場は宿場の中央、御殿前に一ヶ所設けられていました。
 1843年(天保14年)の高札場の規模は巾6.71m、奥行き1.82m、高さ3.03mで瓦屋根がついていました。


▲豊橋市二川本陣に復元された高札場。
 ちょっと観光的な復元のようにも見えます。



▲大井宿(岐阜県)に復元された高札場
 中山道沿いの小さな宿場です。この高札場は原寸の3/4のサイズだそうです。

高札場の実物は愛知県には残されていませんが、たくさんあったものですから、
日本のどこかには実物が残されているかもしれません。

■2種類の高札

博物館に展示されている高札は 大きく2つに分類できます。
江戸時代から明治初期にかけて掲示された比較的新しいものと
それまでに掲示されていた江戸幕府による古い高札です。

末尾に「太政官」と書いてあれば前者ですし、「奉行」と買いてあれば後者です。

まずは明治新政府による高札から

■五箇条のご誓文

 (半田市博物館)

一、 広く会議を興し、万機公論に決すべし
一、 上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし
一、 官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ、
     人心をして倦まざらしめんことを要す
一、 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
一、 知識を世界に求め、大いに皇紀を振起すべし

慶応4年3月14日 太政官

五箇条の御誓文とは
新政府が(慶応4年、明治元年(1868年)3月14日に、新政府の政治方針として「五箇条の御誓文」を公布し、
明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百余名を集め、天地の神々に誓うという形式で維新の基本方針を明らかにしたものです。

五箇条の御誓文がこうして高札として発布されたものであるとは、私は半田市の博物館で見るまで知りませんでした。
他の博物館で類似のものは見たことがありませんので、珍しいものかもしれません。

■五傍の掲示

成立間もない明治新政府は慶応4年3月15日(新暦4月7日:1868年)五傍の掲示によって5つの布告をし、 高札の代表的なものに、「五榜の掲示」 (ごぼうのけいじ)と呼ばれるものがあります。
1868年(明治1)3月五カ条御誓文とともに同時に出された太政官の掲示です。
明治新政府は旧幕府の高札を撤去し、その代わりに立てることを命じました。

三枚は「定三札」といわれるもので、永年掲示とされました。
第一札は人として「五倫の道(儒教における五つの基本的な人間関係)」を正しくすることや殺人・放火・盗みなどの禁止
第二札は徒党・強訴・逃散の禁止、つまり集団の力を利用して事を起すことの禁止
第三札はキリスト教の禁止を命じています。

二札は「覚札」と呼ばれるもので、「沙汰有るまで掲示」とされた一時的掲示です。
第四札は万国公法に従うこと、外国人への加害の禁止
第五札は郷村脱走(浮浪)の禁止

江戸時代以前から広く庶民に法令を伝達してきた高札も、伝達手段の整備や印刷技術の向上などにより、この「五榜の掲示」を最後に明治6年2月24日をもって撤廃されました。

新政府の役職である太政官は慶応4年3月に任命されました。

明治と改元されたのは、慶応4年=明治元年 九月八日のことです。

諸国ノ高札是迄ノ分一切ヲ取除ケイタシ別紙ノ条々ヲ改テ掲示被仰付候
自然風雨ノタメ字章等塗滅候節ハ速ニ調替可申事
但定三札ハ永年掲示被仰付候
覚札ノ儀ハ時々ノ御布令ニ付追テ取除ノ御沙汰可有之尚御布令ノ儀有之候節ハ
覚札ヲ以掲示可被仰付候ニ付速ニ相掲偏境ニ到ルマテ朝廷御沙汰筋ノ儀拝承候様可被相心得候事
追テ王政御一新後掲示ニ相成候分ハ定三札ノ後ヘ当分掲示致置可申候事

三月

第一札 「五倫の道」

 小浜市郷土民芸館(福井県)



一 人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事
一 鰥寡孤独癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事
一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ悪業アル間敷事
慶応四年三月

第二札「徒党の禁止」

 設楽町郷土館
▲徒党札と呼ばれる高札

 定
 何事によらず、宜しからざる事に
 大勢申合候(もうしあわせそうろう)を徒党と唱へ、
 徒党して強いて願がひ事企だつるを強訴と言ひ或は申合せ居町居村を立退き候を逃散(ちょうさん)と申す。
 堅く御法度たり。
 若(もし)右類の儀これあらば早々其筋の役所へ申出べし。
 御褒美下さるべく事

慶応四年三月  太政官

稲武町郷土資料館ちゅーま にも実物が展示されています。

第三札 「切支丹禁止」

新政府は初期の段階では切支丹を引き続き禁制としました。
以下の2つのバリエーションがあるようです。

 磐田市竜洋郷土資料館
▲キリシタン禁止の高札


一 切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ
若不審ナル者有之ハ其筋ノ役所ヘ可申出御褒美可被下事
慶応四年三月  太政官

 設楽町郷土館

 東氏記念館 岐阜県
▲切支丹禁止の高札

 定
 一 切支丹宗門の儀は是迄御制禁のとおり通固くあいまもるべきこと可相守事
 一 邪宗門の儀は固く禁止の事

 慶応四年三月  太政官
 右之趣堅可相守者也
 額田県

 額田県は明治4年から11年の間存在しました。

第四札 「外国人に危害を加えることの禁止」

 東氏記念館 岐阜県
 稲武町郷土資料館ちゅーま
▲第四札


今般 王政御一新ニ付 朝廷ノ御条理ヲ追ヒ外国御交際ノ儀被 仰出諸事於 
朝廷直ニ御取扱被為成万国ノ公法ヲ以条約御履行被為在候ニ付テハ全国ノ人民 
叡旨ヲ奉戴シ心得違無之様被 仰付候自今以後猥リニ外国人ヲ殺害シ或ハ不心得ノ所業等イタシ候モノハ 
朝命ニ悖リ御国難ヲ醸成シ候而已ナラス一旦 御交際被 仰出候各国ニ対シ 
皇国ノ御威信モ不相立次第甚以不届至極ノ儀ニ付其罪ノ軽重ニ随ヒ士列ノモノト雖モ削士籍到当ノ典刑ニ被処候
条銘々奉 朝命猥ニ暴行ノ所業無之様被 仰出候事

三月  太政官

第五札 「王政復古」「士民の本国脱走の禁止」

 羽咋市歴史民俗資料館
 東氏記念館 岐阜県


王政御一新ニ付テハ速ニ天下御平定万民安堵ニ至リ諸民其所ヲ得候様
御煩慮被為 在候ニ付此折柄天下浮浪ノ者有之候様ニテハ不相済自然今日ノ形勢ヲ窺ヒ
猥ニ士民トモ本国ヲ脱走イタシ候儀堅ク被差留候万一脱国ノ者有之不埓ノ所業イタシ候節ハ主宰ノ者落度タルヘク候尤此御時節ニ付無上下 
皇国ノ御為又ハ主家ノ為筋等存込建言イタシ候者ハ言路ヲ開キ公生ノ心ヲ以テ其趣旨ヲ尽サセ依願太政官代ヘモ可申出被仰出候事
但今後総テ士奉公人不及申農商奉公人ニ至ル迄相抱候節ハ出処篤ト相糺シ可申自然脱走ノ者相抱ヘ不埓出来御厄害ニ立至リ候節ハ其主人ノ落度タルヘク候事
三月  太政官