伊 勢 型 紙

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1.伊勢型紙のおこり

  「型紙」とは友禅や小紋などの柄や文様を生地に染める際の文様を彫り込んだ紙をいう。彫り込んだ紙や木などを使って文様を染める(描く)手法(型染)は世界各国で古代から見られる手法(ステンシル)である。わが国では奈良時代、正倉院や興福寺の資料に木版で染めた布があり、この初現である。しかし平安時代以降は織物が主体となり、型染は行われてはいたが少数であった。しかし室町時代後半以後、特に桃山期には武士の小紋の衣服の普及で型染は発展をとげる。

  伊勢型紙の発祥は、白子観音寺との結びつきの中で伝承として残っている。白子観音寺近辺に住む「久太夫」の老人が境内の不断桜の虫食い葉模様から思いついたとか(伊勢型紙業組合「型紙の起源と沿革」1926年)、また奈良時代に孫七なる人物が始めたとか、戦国時代に京の萩原中納言なる公家が戦乱を避け、この寺に身を寄せた際、花鳥を紙に彫って「富貴絵」として参詣者に販売したのが始まりと伝えられている。しかし「久太夫」も「萩原中納言」も架空の人物とされ、いわゆる伊勢型紙の創始者というのは確認できない。白子観音寺の不断桜は現在では市の天然記念物に指定されているが、葉の裏表で生まれる子どもの男女を占うことは今もこの寺の名物となっている。

  寺尾家所蔵「形売共年数暦控帳」(1753年)によれば、延暦年間(782〜806年)に染型の型屋が4軒、承徳年間(1079〜1081年)に全国行商の型売業者が20軒、応長・正和年間(1310年頃)には50軒あったと記載されているがそのまま信用するわけにはいかない。型紙に関する最古の文書は文禄4(1594)年、白子・寺家の両村の型売り業者127人が奄芸郡上野城主・分部氏に保護を願い出ているものである。また慶長4(1599)年の神宮文書で、「・・・白子ぢけ(寺家)之内かたや(型屋)町・・・」とあり、織豊時代にはすでに寺家村の中に型屋を主体とする集団が居住していたことが知られる。埼玉県川越市喜多院所蔵の「職人尽絵」(慶長年間)の中にも「形置師」の名が見え、16世紀後半には確実に白子、寺家当たりに型屋が活動していたことがわかる。戦国時代に京都あたりから型紙の技術を持った人たちがこの白子に移り住んだとも考えられよう。

左は表、本人(古川半四郎)の住所・氏名・出稼ぎ国名(信濃・上野)、右は裏、紀州評定所と鑑の焼印(15852 バイト)  藩はある事件で天保3年に一旦「通り切手」は没収したが、嘉永5年に再交付された(51164 バイト)

      鑑 札(文政9年)              通り切手(嘉永5年) 

2.紀州藩の保護と株仲間

   江戸時代に入り、元和5(1619)年、徳川頼宣が和歌山藩主となった。寛永11(1634)年この白子に紀州藩郡奉行所(後に白子代官所に変更)が置かれ、この奄芸郡一帯が紀州藩領となると伊勢型紙は藩の保護の下に繁栄し、一気に全国に知られるようになる。この白子に伊勢型紙が繁栄した理由には、交通の利が先ず第一に挙げられる。東海道から続く伊勢街道がこの白子の街を通っていることもさることながら、ここには全国にも知れた白子港があり、伊勢、知多、三河の木綿をはじめとする諸物資が集められ、江戸への回船の拠点港であった。江戸中期にはこの港から大黒屋光太夫がロシアに漂流したことでも知られている。

  元和7(1621)年、白子、寺家両村の型売り問屋は藩主頼宣に願い出て、翌元和8年には御絵符(荷札)と駄賃帳を受け、特権的な行商を行うことが許可された。株仲間の誕生である。御絵符と駄賃帳により大名と同じ賃銭(一般商人の1/2)で人馬の利用が可能となった。また宝暦3(1756)年には、138人の型売り問屋が藩に願い出て「通り切手」と「出稼鑑札」の交付を得た。もちろんその見返りとして300両の冥加金(税)を納めた。さらに「紀州」と書かれた提灯の交付を受けた。藩の行商証明書である「出稼鑑札」と各関所を自由に通過できる「通り切手」を手に入れたことにより、伊勢型紙は御三家「紀州藩」のご威光のもと、全国展開できることになったのである。なおこの時の132軒の内訳は寺家村90軒、白子村37軒の計127軒の株仲間と、江島村の11軒の枝株仲間である(江島村は当時、天領である)。型売り問屋は江戸にも進出し、文政9(1826)年には江戸在住の型売り問屋12人も株仲間として認められた。型屋はこれらの特権を保持するため株仲間どうしの結束をはかり、掟の策定や価格協定などを行った。型売り問屋(型屋)と型彫り職人(型彫師)は最初は区分が明確でなかったが、宝暦3年の設定で両者の区分は明確化され、型彫師は型屋の従属的な関係となり、型紙の他からの注文や他への売買を禁じられていた。しかもその手間賃は安く、一般的に型彫師の生活は苦しかった。

  当時、型紙の需要は武家の小紋の流行と百姓・町人の衣服の奢侈に支えられた。武士の裃にはほとんど小紋が用いられたが、各大名は特定の柄の小紋を「定め小紋」として一般の使用を禁止した。例えば、御召十(将軍家)、極卯の鮫小紋(紀伊徳川家)、菊菱(加賀前田家)、胡麻(肥前鍋島家)などである。また元禄以降、町人や裕福な百姓の間にも型染めの小袖や小紋柄の着物が流行した。すなわち小紋は遠くから見れば無地だが、近くに寄れば手の込んだ文様が描かれていて、それが「いき」であったのである。しかし江戸時代も中期までは染め物が主体で型紙の需要も多かったが、後期には桐生や足利などが綿織物を生産し、それらが普及するにつれて型紙の需要も減少していった。

 

3.明治以降の伊勢型紙

  明治に至り、紀州藩の保護は無くなった。株仲間も公的には解散となったが、私的にはしばらく存続していたようである。江戸時代後期からの織物の普及と、明治以後の武士の裃の不要で、小紋類を中心に伊勢型紙の需要は激減し、しばらく伊勢型紙の冬の時代が続く。そのような中、明治13(1880)年には型売り商52人、型彫り職人154人が集まって「竈賑社」なる株式会社を組織してその存続をはかろうとした。しかしこの会社は2年後の1882年に解散しているが、明治30(1897)年には「白子型紙業組合」として再発足した。

  明治12(1879)年に京都で型染めによる「型友禅」が始まり、また1885年頃からの文明開化の反動としての復古調による小紋柄着物の見直し、明治の末からの訪問着としての着物や浴衣が流行し始め、再び伊勢型紙が脚光を浴びるようになり、第2期黄金時代とも言うべき繁栄の時代が到来する。明治35(1902)年には白子町立工業徒弟学校が設立され、型紙の技術者の養成も図られることとなった。技術的にも明治以降発展があった。明治8(1875)年に北村庄之助と北村治兵衛が岐阜に赴いて型紙専用の柿渋を完成させた他、大正10(1921)年には富山県の井波義兵衛により型紙の紗張りの技術が開発され、糸入れの手間が無くなった。しかし大正12(1923)年の関東大震災以後の不景気・恐慌で、伊勢型紙は需要を減らし、15年戦争での徴用や徴兵で型紙業者は減り続け、敗戦時には数名を数えるのみであったという。小紋の人間国宝・小宮康助さん(故人)が、徴用で型紙職人がいなくなることを憂い、当時の商工大臣に直訴して、児玉博さん(故人)などを徴用から呼び寄せた逸話が残っている。

  敗戦後、徴用や徴兵で取られた人々が帰還し、昭和21(1946)年には「伊勢染型紙彫刻組合」を結成し、復興と共に持ち直していった。型紙は小紋や京友禅と並んで日本を代表する染色技術であることから昭和28(1953)年に文化庁より国の無形文化財に指定され、さらに昭和30(1955)年、重要無形文化財伊勢型紙技術保持者(人間国宝)として中島秀吉(道具彫)、南部芳松(突彫)、中村勇二郎(道具彫)、六谷紀久男(錐彫)、児玉 博(縞彫)、城之口みゑ(糸入れ)の6名が認定された。

  しかし着物の需要の衰退や染色の写真型への移行と共に伊勢型紙の需要も減少し、人間国宝の方々をはじめ高い技術を持った型彫り師の面々も次々と他界していった。型彫り師の中には、その技術を生かして美術工芸(彫形画)として活路を開く人も多くなった。しかし古来からの高い技術と伝統を守るため市では昭和43(1968)年より「伊勢型紙伝承者養成事業」を行い、型紙の技術の伝承の養成を始めた。また、一般への理解と普及活動のため、「鈴鹿市伝統産業会館」を開館し、鈴鹿墨と共に、資料の保存と展示を行っている。平成3(1991)年には養成事業修了者を中心に「伊勢型紙技術保存会」を結成し団体としての技術保存を進め、平成5(1993)年にはこの保存会が国の重要無形文化財に指定された。また江戸時代からの型紙問屋であった寺尾家から住宅や資料の寄贈を受けて、平成9(1997)年に「伊勢型紙資料館」として開館した。

型地紙を天日で干している様子(26123 バイト)           上段左から児玉博、六谷紀久男、下段左より城ノ口みゑ、中島秀吉、南部芳松、中村勇二郎(28937 バイト)

4.型地紙と彫刻技法

【型地紙】

  型紙に使用する紙(型地紙)の99%は白子地区で生産されている。ほとんど美濃紙を使い、現在では岐阜県美濃市一帯で生産されている(一部、埼玉県小川和紙を使用している彫師さんもある)。型紙のこげ茶色の色は柿渋の色で、柿渋は岐阜県揖斐地方で生産されたものを用いる。型地紙には次の12工程の製造過程を経て生産される。完成までに40〜50日かかる。

@法づくり(決まった寸法に紙を切断)→A紙つけ(3,4枚を合わせて柿渋で貼り合わる)→B熟ます(2,3日ねかす)→C乾燥(天日干し)→D紙選り(紙の選別)→Eゴミ取り(混入物の除去)→F室枯らし(室の中で燻煙)→G渋つけ(薄い柿渋につける)→Hしぼり(紙をしぼる)→Iのばし(天日乾燥)→J二度室(室で燻煙)→Kねかし

【型こしらえ】

 型地紙は1枚を彫るのではなく、6〜8枚を重ねてこよりで数カ所を固定し、一度に彫り込むのが一般的である。表面には小刀の通りがよくなるように綿に菜種油を含ました「おり」で薄く油を引いておく。次に、彫り込む柄の下絵を描くが、これには小本を刷毛で写す方法と、新柄などをカーボン紙を使って写す方法がある。型紙は染め物に用いるから、型紙を連続して使用する。そのため柄絵は重ねた場合、連続性(「送り」という)になることが必須で、一枚目と二枚目の間に薄い地紙(口紙)を入れておき、天地(上下)が合致するようにする。型こしらえができると、いよいよ彫刻刀を使って彫り込むことになるが、彫刻刀は全部、彫り師が自分で制作する。あて場(机)は手前がやや低くなった特殊な机を使用し、彫刻刀が机に突き刺さるため下敷きには昔は柔らかい朴の木が用いられたが、今はビニールが用いられている。

突彫(南部幸雄さん「松に蔦」)(30727 バイト)   錐彫(六谷泰英さん「三番叟」) (48650 バイト)    道具彫(黒野睦雄さん「小紋縞」)(30597 バイト)        

【彫刻技法】

  彫刻の技法としては基本的に突彫、錐彫、道具彫、縞彫の4つの技法と型の補強としての糸入れがある。必要な小刀はすべて彫り師の方が製作するのもこの世界の特徴である。鋼板を切り、型盤で形を整えてから「焼き入れ」で固くして小刀の道具を製作する。それぞれの技法は単独で使われるのではなく組み合わして使うのが一般的である。

突 彫(つきぼり)・・・・技法としては最も古いものである。幅3mmほどの小刀を垂直に立てて彫っていく。複雑な文様を突き刺すように彫り進んでいくことからこの名があり、小紋などの文様に優れている。小刀は縦や横に突き刺す他、小刀を回すことによって細かい曲線も切れ、これは刃の研ぎ加減でも微妙に変わってくる。

錐 彫(きりぼり)・・・・小さな○をいくつか彫っていくことで文様を形作っていく技法で、突彫と共に古い技法である。半円状の小刀を突き刺し、回転させることで穴を開けていくが、直径は1〜3mmと柄によって変える。鮫小紋や行儀、通し紋に優れている。「極印」と呼ばれる錐彫は3cm四方に900個以上の穴を開けるものもある。穴の間隔具合で文様の感じが随分変わるため、神経を使うという。

道具彫(どうぐぼり)・・・・小刀の刃自体が花や幾何学紋様を持っており、先ずはその道具の製作から始めることとなる。人間国宝であった中村勇二郎さんは2000本以上の道具を持っていたという。刃は2枚合わせて1つの道具になるように作られることから「ゴットリ」とも呼ばれる。御召十や七宝、菊菱などの小紋に優れている。右手で刃先を持ち、左手で柄の頭を固定させて顔の頬で一気に垂直に彫っていく。

縞 彫(しまぼり)・・・・主に直線を何本も彫って文様(縞文様)を形作っていく技法である。単調ではあるが、少々のずれが柄に多大の影響を与えるため大変な技術を必要とする。直線は定規を使って彫るが、直線にも微妙な幅の変化を持たせることで、柄に変化を持たせる。他の技法と違うことは、後で「糸入れ」を行うため、生紙を用いて、予め2枚に剥しておくことである。縞筋の本数の細かさによって等分縞、極万、毛万、普立割などがあるが、人間国宝の児玉博さんなどは3cm幅に30本以上(極極微塵縞)の縞筋が彫れたという。

糸入れ(いといれ)・・・・縞柄などそのままでは染色時に文様がずれてしまう恐れがある時、文様のずれの防止や型の補強する目的で「糸入れ」を行う。彫り上げた型紙を2枚に裂き、細い生糸(春繭の「二十一中」が最高とされる)を文様の方向と90度になるように約2〜3cm間隔で糸を張っていくが、糊には柿渋を使う。最後に余分な柿渋(渋溜まり)を息を吹きかけ、4〜5日乾燥させてできあがる。大正期に発明された紗張りにより糸入れ作業はめっきり少なくなったが、それでも縞柄にはかかせない作業であるという。

縞彫(長谷川悦弘さん「毛万縞」)(17373 バイト)     糸入れ(人間国宝・城ノ口みゑさん)(18251 バイト)     道具彫などいろいろな彫刻刀(15823 バイト)

参考文献

・中田四郎「伊勢型紙の歴史」郷土資料刊行会 1970年

・三重県商工労働部「伊勢型紙業界産地診断報告書」三重県 1979年

・装飾デザイン25「伊勢型紙と江戸小紋」学研 1988年

・「型紙」東北歴史資料館 1988年

・「図録 伊勢型紙」伊勢型紙技術保存会 1994年

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