神戸城下町

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 信孝時代の城下町

  神戸のこの地に城下町が作られたのは神戸具盛の時代で、神戸城の築城と同時期の天文年間(1532〜55年)のことと考えられている。それまでの沢城の城下町(今の西条あたり)から、民家や龍光寺などの寺院も移転させた。しかしこの時の城下町は規模も小さく、今の十日市町を中心としたものであり、この神戸城下町が発展するのは神戸信孝の時代である。

  天正3(1575)年、信孝は十日市に対して次の免許状を言い渡した。

          十日市申様事

      一、下男召遣候事申様有

      一、町中見せたな(店棚)を仕候而 なに様之物をうりかい仕候共 諸役共儀免許之事

      一、てん馬(伝馬)之儀一月五つ可申付事

      一、町なみいやしき之儀たれ々の雖為持分小山口も十日市の屋敷次可申事

      一、油屋堤上下可留置事

      一、荷物之儀於十日市 上下可付渡事

      一、堀ふしん(普請)之儀三度弐度可被致事 付町次於成敗者 其家地下中可申付事

     天正参(1575)年    織田三七(信孝)

      五月四日      (花押)

   第2条でこの地方で初めての諸役や諸税の免除を定めた楽市の制度を敷いている 。第3条では伝馬の制度を定め、月に5疋の馬の提供を決めている。また、小山口(小山町)も十日市町と同様の楽市にすることを定め、最後の条で、神戸城の修築にあたって、3度のうちの2度の出仕を命じている。織田信長は加納をはじめ各地で楽市楽座の重商主義政策を推し進めたが、子の信孝も父の政策を見倣ったことになる。この信孝の時代に十日市町、小山(おやま)町、石橋町、新町のいわゆる「神戸四町」が形成され、政策的な城下町が初めてつくられたことになる。

 


 天正14(1586)年、滝川雄利は神戸城下に次のような掟書を出した。

       河曲郡上下之駄賃馬於十日市依令付下申付条々

     一、不依当町中之馬在之雖為入馬 駄賃付候馬は伝馬堅申付事

     一、伝馬一月自当町五、在郷之 自入馬之内五、北桑名西関之地蔵

        南津迄申付候駄賃道杖突 南野堅止置候事

     一、町中成敗人於在之者 其家屋敷之儀可為両奉行次第事

     右所申付候如件

       天正十四(1586)年  十二月五日       羽柴下総介(雄利)  花押

          十日市      地下中 

  神戸の城下に伝馬の制度を整備した掟である。第1条で、駄賃をとる馬は城下や在郷に限らず公用にすることを義務づけている。第2条で、伝馬の数は月に十日市より5疋、在郷より五疋として、北は桑名、西は関の地蔵、南は津までと指定し、駄賃をとる範囲は杖突(四日市)から南野(野町?)までとしている。第3条で、処罰された者の屋敷は2つの奉行に任せる、というものである。

信孝免許状(12106 バイト)    雄利掟書(22949 バイト)

信孝免許状(天正3年)                 雄利掟書(天正14年)

 


  江戸時代の神戸城下町

  江戸時代に入り、一柳直盛は、神戸四町に加え、堀川を埋めてつくられた河町と、4町周辺の萱町、竪町、鍛冶町の4町も地子免除として神戸城下町に組み入れた。また、尾張にあった万福寺と浄願寺を神戸に移築したり、妙祝寺を新た開基するなど寺院の整備も進めた。その後石川氏の時代から本多氏の時代にかけ神戸城下町は伊勢街道を中心に大きく発展、整備された。城下も拡大し、元の8町に加え、常盤町、新丁(西町)、地子町もできた。明治初年の統計によると家数は、十日市町(94軒)、小山町(32軒)、石橋町(49軒)、新町(96軒)、河町(41軒)、萱町(104軒)、鍛冶町(39軒)、竪町(54軒)、常盤町(23軒)、新丁(35軒)、地子町(34軒)の計597軒あった。町役人として、それぞれの町には一人の町名主がおり、神戸城下全体として町年寄がいて、町政にあたった。本多忠統の時代には、町年寄には新町の河合善右衛門と村田善左衛門の2人が任命され、苗字帯刀が許された。

  東海道の日永追分より分かれて伊勢神宮に向かうのが伊勢街道(参宮街道)である。江戸時代は河原田村より高岡村を経て神戸城下(常盤町)に入り、地子町から肥田村・玉垣村へ抜けるのがルートであったが、これは神戸信孝の時代に整備されたものとされ、それ以前は河原田村から中戸村(一宮)を通って矢橋村に抜ける道であったらしい。河原田から鈴鹿川を渡ると常夜灯(文化4年)があり、神戸まで約1kmで直線的に道は続く。これは古代の条里にそった道で、「千町縄手」ともよばれた。途中、三叉路にでて右に行けば十宮村にいく。ここは三軒屋とよばれ常夜灯(文化14年)がある。しばらく行くと小さな川がありやや坂を上ったところから神戸の城下町の入り口である。入り口には「見附(みつけ)」があり、両側に石垣があり、間には木戸があって番所があった。なお見附の石垣は現存している。

神戸城下町図 はここ

 常盤町は見附から続く神戸最初の町である。この町はいわゆる旅籠町であり、多くの旅館があった。幕末には14軒を数えた。飯盛女(売春婦)もたくさんいて、神戸城下一番のにぎわいを見せた。このにぎわいに比べて十日市町などの中心部がそれほどでもなかったので、「神戸の町は口ばっかり」と陰口もささやかれたという。しかし参宮が一般化する江戸後期から幕末にかけては、このあたりも東国方面からの旅行者でえらく賑わったという。

 萱町は常盤町から続く町で、伊勢神宮遷宮のおり、萱を奉納したことからこの名がついたという。慶長7(1602)年に地子免除を受けて、城下町に加わっている。やや低い小川(今の県道四日市鈴鹿環状線)で北萱町と南萱町に分かれる。

 十日市町は神戸で最も古い町である。萱町から六郷川にかかる大橋を渡ると、二手に分かれ、右に行けば新町、左に行けば十日市町となる。この三叉路のところに制札場があり、「札の辻」と呼ばれた。ここに道標があり「右 京ミち有  左 参宮かいどう(元禄6年正月十五日)」とある。制札場の左手・十日市町の入り口に地蔵院があり、「東海道中膝栗毛」にも登場する。天正3(1575)年に信孝より地子免除を受け、楽市の制と伝馬の制が言い渡された。ここは神戸城下町の中心地で、いわゆる問屋や小売りが集中する商人町であった。本陣もこの町にあり、江戸初期には高野家、中期以降は富坂家が代々、この役を担っていた。

 新町は十日町などの古い町に対して「新町」と呼ばれ、「神戸四町」の中では最も新しい。石橋町・竪町へ続く道を境に北新町と南新町に分かれる。ここも十日市町と同じく商人町であった。

 小山町は南新町から続く町で、十日市町と同じく、天正3(1575)年に信孝より地子免除を受けている。近くに小さな山があったのであろうか。どの山を指して地名となったのかは不明である。この町の宗休寺前で右に入れば神戸城大手門に向かい、番所があった。

 河町は十日市町から続く町で、慶長17(1612)年に一柳直盛によって堀川を埋めてつくった町であるという。小山町から続く道とここで合流するが、ここにも道標があり、この名から「立石餅」なる店が繁盛したという。

 地子町は本来は村方で、もともと熊野権現があることから権現町と呼ばれていたのが、享保6(1721)年、石川総茂の時代に地子免除となり、実質的に城下町の一部となった。東端の幸橋付近は「桜茶屋」とよばれ茶店や旅籠でにぎわったという。またここには城下の端ということで木戸が設けられていた。

 石橋町は新町の途中から西に向かう街道沿いの町で、小川にかかる石の橋が町名となった。もともとは龍光寺の門前町として開かれたところで、「寺家町」とも呼ばれていた。龍光寺は応永30(1420)年に神戸実盛が西条に建立したのが始まりで、神戸築城と同時に現在の場所に移転した。「神戸の寝釈迦」として毎年3月はこのあたりが最もにぎわう時期である。

 竪町は石橋より西方の町をいいその方向からの町名の由来であろう。竪町から北に曲がると鍛冶町で、神戸城下で唯一、職業の名の町である。ここには林光寺があり、秘仏の千手観音が毎年8月の深夜だけ公開される。竪町よりさらに西に続く町が新丁で西町とも呼ばれ、江戸中期以降に新しくできた町であるが、「新町」が既に存在するため新丁と呼ばれたという。

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