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 伊勢国分寺跡                  

1.国分寺の建立

 奈良時代に入り、仏教がわが国に伝えられてすでに200年が経過していた。しかし寺院の建立は畿内中心であり、たとえ地方に建てられた寺院であっても地方豪族の氏寺的色彩の濃いものであった。平城京に遷都されたといっても世の中が平穏だったわけではない。各地で飢饉や疫病が流行して多数の庶民が苦しみ、貴族や豪族の反乱も相次いだ。聖武天皇は都を転々とする中、そういった社会不安を仏教の力によって治めようとして(鎮護国家)、各地の国司に国ごとに僧寺と尼寺の2ケ寺の建立を命じた。これが「国分寺建立の詔」で、正式には僧寺を「金光明四天王護国之寺」、尼寺を「法華滅罪之寺」という。僧侶を僧寺には20人、尼寺には10人を配置し、「国分寺は国の華であるので必ず好処を選んで建てよ」との命により、高台で洪水等の自然災害の少ない土地で、「里から近からず遠からず」の土地が選定されて建立された。国分寺には50戸の封戸と各10町分の土地が与えられ、財政的な基盤とした。国分寺は金堂を中心に七重塔、講堂、回廊、僧坊、鐘楼などが並ぶ地方における本格的な伽藍であった。

全国国分寺一覧

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2.伊勢国分寺

 伊勢国分寺跡(僧寺跡)は大正11(1922)年に、現在の鈴鹿市国分町字堂跡付近が国史跡に指定された。江戸時代寛政年間の「東海道名所図絵」にはこの地に「国分寺」の名があり、早くから伊勢国分寺として認識されていたようである。しかし宝暦年間の「三国地誌」には「国分村南に方、三百歩ばかり荒曠の地、礎石破摶散在せる」とあり、瓦類が散在しているものの明確な遺構はすでに消滅していたものと思われる。伊勢国分寺跡を考古学的に初めて考察したのは鈴木敏雄氏であった。彼の著書「河曲村考古誌考」によれば、土塁(築地)の存在を記している。その時点で西側に北土塁(長さ15間、幅3.5間、高さ5尺)と南土塁(長さ2.5間、幅3.5間、高さ5尺)があり、さらに古老の話として数十年前にはこの土塁より南に数十間、さらに東に100間あまりの土塁が存在していたという。すなわち少なくとも江戸時代までは西側から南側にかけて鍵状に土塁が存在していたことになり、位置からいって寺域を区切る築地にほぼ間違いないと考えられる。この土塁は削られながらも1960年代までは存在していたが、農地の拡大等により現在は完全に消滅している。また現在の石碑等が建っている辺りの土壇(金堂跡?)はかつては南北40間、東西24間を測ったが、これも徐々に削除され、現在はかつての半分の南北約30m、東西約20mの不正長方形を残すのみとなっている。鈴木氏はこれらの残存土塁と土壇、微地形などから、残存土壇を「講堂跡」として東に金堂、山門(東門)、塔を配置する伽藍を想定している。

 尼寺跡については確定地が定まっていなかった。史跡指定地の東方約500mの位置に現在の国分町集落があり、この集落からも奈良時代の多くの瓦が出土し、しかも軒瓦の型式は僧寺と異なる。ここの光福寺境内にある「伊勢国分寺陳跡碑記(享和2年建立)」には金光明寺(南院)と法華寺(北院)の存在を記していて、現在の国分町集落を「北院」、その南方の「南浦地区」を「南院」と比定されている。また現在の常慶山国分寺の南側の道路に沿って土塁が存在し、その東方には「鐘衝堂」と称される土壇がかつて存在したとの言い伝えがある。しかしこれまでの発掘調査の結果、国分町集落の地に「北院」すなわち「尼寺」が、「南院」の地にはそれに先立つ白鳳寺院(南浦廃寺)が存在したことがほぼ明らかになってきている。

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3.発掘調査

【位置】 伊勢国分寺跡は鈴鹿川の北岸の標高43m前後の丘陵地にあり、周辺には弥生時代、古墳時代の遺跡も豊富でこの地方の先進地として早くから開けた地域であった。この地から西南約7kmの位置に伊勢国府(長者屋敷遺跡)があり、さらに西南に鈴鹿関があり、古代の東海道のルート上にある3遺跡はほぼ一直線で結ばれる。またこく国分周辺は平安時代には「大鹿村」として文献にも登場し、「大鹿山古墳」「大鹿の大塚」などの地名が残る。すなわちこの辺一帯は日本書紀にも登場する豪族「大鹿氏」の支配地であり、国分寺造営にあたってはこの大鹿氏の相当の援助があったことが容易に想像される。

【僧寺】 1922年に国史跡に指定されたとはいえ、公有地は土壇のみであり、現状破壊も進んでいたため、保存を目的に鈴鹿市教育委員会は1988年より随時、発掘調査を実施している。これまでの調査で僧寺は東西約178m、南北約184mのほぼ正方形の築地に囲まれた寺域であったことが確認されており、寺域の西方には四面庇の掘っ建て柱建物跡や、建築時の宿舎と考えられる竪穴住居跡なども発見されている。また鈴鹿市考古博物館建設に伴う発掘調査では寺域の南側一帯(狐塚遺跡)は河曲郡衙の正倉と考えられる多くの建物跡(3間×3間)が発見され注目された。発掘調査の進行と同時に史跡全面の公有化が実施され、開発・破壊から危険が避けられ、金堂跡と推定される内部の調査も実施されつつある。寺院の存続時期は出土遺物から8世紀後半〜10世紀前半と推定されている。

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僧寺跡遠景(西より)           僧寺南築地溝跡

【尼寺】 現国分町集落地に比定される。1993、94年の調査で寺域の北限の溝と考える遺構が見つかり、前述の現国分寺前の土塁の存在を信じるならば南北が約160mほどの寺域が想定される。これらは国分町集落の地割りとほぼ一致していることも興味深い。出土瓦と土器から8世紀後半〜10世紀後半の存続時期が考えられる。「南院」の南浦廃寺の調査では、東築地跡が確認されている他は、基壇など直接寺院に伴う明確な遺構は見つかっていない。瓦は川原寺系の白鳳期の瓦が多数見つかっており、瓦の包含層から東西約95m、南北約110mの寺域が推定されている。ただ1997年の寺域の北西部の調査では15棟の規則性を持った掘建柱建物跡が発見されており、寺院の僧坊あるいは大鹿氏の居館と推定されている。 

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南浦廃寺調査風景             南浦廃寺西築地跡

【出土遺物】 奈良時代から平安時代前期の少量の土師器、須恵器、灰釉陶器を除くと、出土遺物の大半は瓦である。僧寺跡付近にはおびただしい瓦片が散布している。また散布土器には埴輪片も多く、寺院造営にあたって古墳が削平されたことも考えられ、1992年の南浦廃寺の調査でも横穴式石室古墳跡が発見されている。軒瓦は僧寺、尼寺と別個の系統の紋様を持つことが特徴である。現在判明している軒瓦の型式は僧寺が軒丸瓦3型式9種類、軒平瓦3型式6種類、尼寺が軒丸瓦3型式5種類、軒平瓦2型式6種類が確認されている。僧寺の創建瓦は単弁八葉蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦で伊勢国分寺特有の紋様である。また尼寺の創建瓦は単弁十二葉蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦である。瓦窯は僧寺が寺域の東北付近と山辺町に、尼寺は加佐登町の川原井瓦窯で焼かれたことがわかっている。南浦廃寺では山田寺系の単弁八葉蓮華文軒丸瓦と川原寺系の複弁八葉蓮華文軒丸瓦、重弧文軒平瓦が出土している。

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