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大黒屋光太夫
鎖国の江戸時代にあって、ロシアに漂流し、単身でエカテリーナ女帝に
謁見した男・大黒屋光太夫、彼の強靱な生き様を紹介したいと思います。
光太夫と磯吉(北槎聞略より)
伊勢国亀山藩領の南若松村に生まれた大黒屋光太夫は、白子から江戸への回船の船頭をしていた。天明2(1783)年12月9日、いつものように紀州藩の年貢米や伊勢木綿などの江戸向けの物資を積み、光太夫以下18人の乗組員を乗せた神昌丸は白子港を出航した。遠州灘にさしかかった頃、暴風雨にあい遭難、神昌丸は北に向けて漂流した。食料は年貢米で何とか工面したが、ビタミン不足からか1人が死亡した。漂流すること8ケ月、神昌丸はアレウト(アリューシャン)列島のアムチトカ島に漂着したが、神昌丸は大風のため座礁してしまった。
アムチトカ島は極寒の不毛の島で、わずかな原住民と毛皮を商うロシア商人が住んでいるにすぎなかった。光太夫らは言葉もわからず、飢えと寒さにより、ここで8人の仲間が死んだ。故郷の南若松村では、光太夫ら乗組員は難破して海に沈んだものと思われ、心海寺に供養碑が建てられた。帰国の望みはロシアからの商人の迎の船であったが、ロシア船が座礁したのを知ると、光太夫らは流木を集めて船を造ることにした。ニビジモフらロシア商人の協力を得て、やっとの思いでアムチトカ島を出発したのはこの島に来て4年の歳月が経っていた。しかし、光太夫らが向かったのは日本ではなくロシアであった。
天明7(1787)年7月、光太夫とニビジモフらロシアの商人はニジニカムチャツカに到着した。強い帰国への意志から、光太夫は帰国願いをそこの役人に送ったがいい返事はもらえなかった。ロシアの人々は光太夫らにとても親切に扱ってくれたが、飢えと寒さのため約2年の滞在で3人が壊血病で亡くなった。ここで世界的探検家のレセップスに会っているが、彼の航海記に光太夫の強靱な態度のようすが記されている。

神昌丸供養碑(左、心海寺墓地) 供養碑の拓影
乗組員18人のうち、残っているのは光太夫、小市、九衛門、庄蔵、新蔵、磯吉光の6人となった。ロシア語を理解するようになっていた光太夫らは帰国にはシベリアの都・イルクーツクの総督の許可がいることを知った。さっそく6人は仕度を調え、天明8(1788)年6月、カムチャツカを出発、チギリスクから対岸のオホーツクには9月に到着した。シベリアは早くも冬で、イルクーツクまでの約4000kmは馬車からトナカイのそりに移っていった。マイナス50度以下の極寒のシベリアを渡り、翌1789年2月、ようやくイルクーツクに到着した。
イルクーツクはバイカル湖のほとり、当時、人口1万人のシベリア第一の都市であった。光太夫はさっそくシベリア総督に帰国願いを申し入れたが、意外にも返事はイルクーツクの日本語学校の講師にすすめられた。鎖国の日本との通商を求めていたロシアは日本語の通訳が必要であったのである。しかし漂流民に対してはロシアは家を提供され生活費までも出してくれた。このイルクーツクで光太夫らは博物学者のキリル=ラクスマンと知り合い、帰国への協力や生活の援助など親切にしてもらった。しかし、このイルクーツクで水夫の九衛門が亡くなり、庄蔵はシベリア横断の際の凍傷が原因で片足を切断、新蔵も重病と不安からロシアの女性と結婚、2人ともロシア正教に入信した。

大黒屋光太夫漂流図(「大黒屋光太夫物語」より)
ラクスマンの努力にも関わらず帰国の許可は下りなかった。そこで光太夫はラクスマンのすすめもあり、ロシアの首都・ペテルブルグ(サンクトペテルブルグ)にいる女帝に直接願い出る決心をした。寛政2(1791)年1月、ラクスマンと共に光太夫はひとり、馬そりで約6200km離れたペテルブルグまで極寒のシベリアを昼夜なく横断、約30日で到着した。ペテルブルグに到着した光太夫とラクスマンは、彼の知人を伝って政府高官に願いでたが、うまくいかなかった。
ラクスマンはエカテリーナ女帝に直接会って直訴しか帰国願いは聞き入れてもらえないと判断し、その機会をうかがった。その年の6月、夏の離宮のツァルスコエ・セロの宮殿に呼ばれた光太夫はロシアの正装に身をかため、高官や女官が並ぶ謁見の間の女帝の前に進み出た。女帝からこれまでの漂流のいきさつやロシアでの生活について聞かれ、ロシア語で答えた。女帝は光太夫の身の上を憐れみ、沙汰を待つように指示した。それから帰国の許可がでたの初めての謁見から3ケ月後のことであった。それは光太夫ら漂流民を連れ戻すことをきっかけに日本との通商を求める思惑もあったからである。ペテルブルグを離れるまで、各地を見学したり、女帝からはメダルや時計などの土産も頂いた。
光太夫はペテルブルグからイルクーツクに戻った。しかし、キリスト教に入信した新蔵と庄蔵はロシアに残り、日本語講師として一生を終えることを決意していた。光太夫と小市、磯吉の3人は後ろ髪を引かれる思いで、2人と別れ、帰国の途についた。ここからキリルの子どもでアダム=ラクスマンが日本まで同行することとなった。3年前に横断したシベリアを戻り、オホーツクの港に到着した。ここからエカテリーナ2世号と名付けられた船に乗り、ようやく蝦夷地の根室に到着したのが寛政4(1792)年10月で、伊勢白子を出てからちょうど10年の歳月が流れていた。
ロシア船の到着に、蝦夷地を支配していた松前藩は幕府へ連絡してその指示を待った。光太夫らは日本を前にして上陸は許可されなかったが、その中で小市が病死した。ラクスマンと光太夫は箱館から松前に船を回され、ここで通商の交渉をもったが、幕府(老中・松平定信)は許可しなかった。ラクスマンはこの次の長崎での交渉権(信牌)だけをもらい、光太夫と磯吉を渡して、ロシアに帰っていった。
鎖国の中で、外国に行った者は理由の如何に問わず罪人とされ、二人は江戸に護送された。寛政5(1793)年9月18日、将軍家斉と老中松平定信らが見守る中で、江戸城吹上御物見所で、漂民御覧があった。いろいろ質問されたが、キリスト教に関することだけは決して口にしなかったという。それから光太夫と磯吉は番町の薬草園内の屋敷に幽閉生活を強いられることとなった。しかし、外からの出入りは比較的自由で、桂川甫周や大槻玄沢などの学者たちと交流を深めた。漂流やロシア事情は桂川甫周らが「北槎聞略」としてまとめて、幕府に提出。その他種々の漂流記が書かれ、流布された。
漂民御覧の図はこちら
寛政10(1798)年に磯吉が、享和2(1802)年に光太夫がそれぞれ伊勢若松に帰郷が許可された。20年ぶりに家族や親類と再会したが、光太夫の妻はすでに再婚していたという。光太夫も薬草園内で結婚して子どもをもうけている。光太夫は文政11(1828)年に78歳で、磯吉は天保9(1838)年に73歳で、それぞれ波瀾の生涯を閉じた。

小市の遺品 光太夫晩年の筆(ロシア語でツル)
1792年9月24日、光太夫・小市・磯吉の3人の漂流民をのせたエカテリーナ号は日本をめざしてオホーツク港を出航した。この船にはアダム・ラクスマン中尉を船長とする総勢42人がのりこんでいた。エトロフ島を経由し、10月18日、蝦夷地のハ(バ)ラサン(現在の北海道別海町茨散)に到着した。翌19日、操舵士オレソフと光太夫や12名が上陸、初めての帰国となる。しかしここには幕府の役人はいないので、シベツの商人・勘四郎に紹介され、ネモロ(根室)に迂回することにした。10月20日(旧暦・寛政4年9月5日)朝9時頃、ついに根室港に到着し、港内の弁天島の内側に錨を降ろした。当時の根室は松前藩の詰所とアイヌの人たちとの運上所がある程度の小さな港であった。ラクスマンたちは小舟で上陸し、運上屋で温かく迎えられ、来航目的を告げ、海岸に宿舎と兵舎の建築を願い出て許可された。越冬を考えてのことであった。
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ハラサン(別海町茨散) 根室港(右上が弁天島) 光太夫上陸地跡(宿舎跡)
交渉にあたったのは松前藩根室詰の熊谷富太郎で、熊谷は早速・松前にむけて第一報を放ち、指示を仰いだ。またラクスマンも幕府宛文書を提出し、その回答を待つために海岸に宿舎を建設した。その場所は運上所から西に約120mのところで、現在の北洋銀行付近にあたる。宿舎が完成したのが11月28日で、エカテリーナ号には交替要員を残して光太夫らも含め全員がここに入った。光太夫、小市、磯吉の3人もロシア人の宿舎で越冬した。幕府役員・田辺安蔵らも根室に到着し、本格的な交渉がはじまった。その間、壊血病でロシア人水兵と小市が亡くなった。小市は旧暦の寛政5(1893)年4月2日に死亡し、日本風で海岸に埋葬された。現在その位置は不明であるが、市街地の西方にある西浜墓地に来航200年にあたる1992年に小市の慰霊碑が建立された。根室には1793年6月15日(旧暦・寛政5年5月7日)までの8ヶ月間滞在した。

ラクスマン根室冬営の図(展の図書館蔵)・左は弁天島に停泊中のエカテリーナ号・右端がロシア人兵舎・その左が運上屋
ラクスマンと幕府の正式な交渉は松前で行われることとなり、6月15日に根室を出航し、光太夫と磯吉を乗せたエカテリーナ号は松前の藩船・禎祥丸に先導され、函館港に入った。ここからラクスマン、光太夫ら12人が陸路で松前に到着、旧暦の6月21日、浜屋敷で正式な第一回の交渉が開始された。幕府は国法である鎖国令が読み上げ、「ロシア使節に対し、漂流民送還の労をねぎらい、今回に限り松前において漂流民受領の用意がある。なお望むところがあれば長崎に至るべし」との趣旨の意向を伝えた。これに対しラクスマンは日本との通交・通商を望む旨の意思を伝えたが、幕府は長崎への入港許可書(信牌)を与えたに過ぎなかった。しかし2回目の会談で光太夫と磯吉の二人が幕府側に引き渡され、光太夫と磯吉は旧暦の7月16日に松前を出発、8月17日に江戸に送られた。

小市慰霊碑(根室市西浜墓地) ラクスマン来航モニュメント(歴史の然) 根室警察署の壁絵
※大黒屋光太夫記念館へどうぞ・・・・鈴鹿市若松中1-1-8(若松小学校の東です)
開館時間 10:00〜16:00
休館日 月曜日、第3火曜日、金曜日
光太夫直筆の書や光太夫・小市・磯吉遺品などが展示されています。
問い合わせ先; 0593-85-3797 大黒屋光太夫記念館
画像でごらん下さい・・・ http://startrek1955.web.fc2.com/daikokuya.html
<北槎聞略、漂流記関係>
・「阿魯斎亜風聴書」 (寛政5年の光太夫らの帰国報告の写し) 江戸時代
・「漂民上覧記(写)」江戸時代
・「漂民御覧之記(写)」江戸時代
・絵図「ヲロシヤ人行列」江戸末期
・桂川甫周著、亀井高孝編「北槎聞略」三秀舎、1937年
・桂川甫周著、竹尾 弌編「北槎聞略」武蔵野書房、1943年
・桂川甫周著、亀井高孝編「北槎聞略」吉川弘文館、1965年、1989年再版
・桂川甫周著、宮永孝編「北槎聞略」雄松堂出版、1988年
・桂川甫周著、杉本つとむ編「北槎聞略(印影、解題)」早稲田大学出版部、1993年
<研究書>
・吉野作造 「露国帰還の漂流民 幸太夫」文化生活研究会 1924年
・亀井高孝著、人物叢書「大黒屋光太夫」吉川弘文館、1964年
・亀井高孝著、「大黒屋光太夫の悲恋」吉川弘文館、1965年
・木崎良平著、「漂流民とロシア」中央公論社、1991年
・木崎良平著、「光太夫とラクスマン」刀水書房、1992年
・大黒屋光太夫顕彰会編「あけぼの」顕彰会、1993年
・生田美智子著、「大黒屋光太夫の接吻」平凡社、1997年
・山下恒夫編、「大黒屋光太夫史料集(全4巻)」日本評論社 2003年
・根室歴史研究会、「ラクスマンの根室来航」根室市博物館準備室 2003年
<随筆・小説>
・井上靖「おろしや国酔夢譚」文芸春秋社、1968年
・井上靖「おろしや国酔夢譚/楊貴妃伝」新潮社 1972年
・井上靖「おろしや国酔夢譚」徳間書店、1991年
・来栖良夫「光太夫オロシヤばなし」新日本出版社、1974年
・「大黒屋光太夫物語」鈴鹿市観光協会、1975年
・岡本文良「大黒屋光太夫」さえら書房、1984年
・椎名誠「シベリア追跡」小学館、1987年
・TBS特別取材班「シベリア大紀行」河出書房新社 1987年
・「鎖国の世にロシアを見た男 大黒屋光太夫」鈴鹿市教育委員会、1990年
・衣斐賢譲「大黒屋光太夫追憶」龍光寺出版部、1991年
・さいとうたかお「大黒屋光太夫」徳間書店、1992年
・岸宏子「光太夫帰国」中日新聞本社、1996年
・吉村 昭「大黒屋光太夫(上)(下)」毎日新聞社 2003年
<映画「おろしや国酔夢譚」関係>
・台本(完成稿)2種
・公開時用パンフレット、特別試写会用パンフレット、宣伝用パンフレット(2種)、
・映画ポスター(2種、大小)、映画チラシ(2種)
・映画ストーリー「おろしや国酔夢譚」毎日新聞社 1992年
・光太夫新聞(bP、2)
・ロビーカード(8種)
・スチール写真(8種)
・映画シール、
<鈴鹿市オリジナルグッズ>
・テレホンカード(NTT発行2種、成人式発行2種)
・大黒屋光太夫出帆文学碑モニュメント除幕式(式次第、井上靖文学碑写)
・広報すずか(1992年1月5日号、光太夫特集号)
・光太夫あられ袋(北野米菓)、光太夫の里袋(久住屋菓鋪)、おろしや国酔夢譚サブレ袋(亀屋清泉庵)
・大黒屋光太夫ゆうぺーン(郵便局)、光太夫絵はがき(ハンター)、光太夫巾着(魚長発行)、
・神昌丸供養碑拓影
<書籍関係>
・教育資料第4集「大黒屋光太夫」鈴鹿市教育研究室、1955年
・根室市博物館開設準備室紀要第6号「ラクスマンに関する文献・史料・遺物」1992年
・京谷栄「戯曲 エカテリナ号解纜」1987年
・「図書(エカテリーナは翔んでいる女)」岩波書店、1992年
・仲見秀雄「三重の古文化(大黒屋光太夫らの帰郷文書)」三重郷土士会、1987年
・ドナルドキーン「日本人の西洋発見」錦正社、1957年
・「津のほん27号(武四郎と光太夫)」三重タイムズ、1989年
・「伊勢志摩 第69号(大黒屋光太夫の帰郷)」伊勢志摩編集室、1992年
・コピー、「漂民御覧之記」、「光太夫帰郷文書」、「大黒屋亀次郎略伝」「光太夫自筆手紙」
・飛騨屋久兵衛研究会「飛騨屋久兵衛」大衆書房、1984年
・FMラジオ台本 アドベンチャーロード「おろしや国酔夢譚」台本(1〜9) 1987年
・オペラ「光太夫」上演パンフレット 1993年
・「北槎聞略」、「漂民御覧記」、「神昌丸漂流記」、「勢州白子船光太夫記」国立国会図書館蔵
・「光太夫譚」東洋文庫蔵
・「極珍書」心海寺蔵
・「漂流記」「魯西亜記聞」「漂民御問答記」紙の博物館蔵
・「漂民記」「ヲロシヤ船一件言上書写」早稲田大学図書館蔵
・「奇観録」「漂流人御覧之記」「勢州漂流民」龍光寺蔵
・加藤曳尾庵著、「我衣」三一書房、1971年