3.鈴鹿海軍航空基地

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鈴鹿海軍航空隊正門古写真(15412 バイト)   航空機は白菊練習機(12086 バイト)

当時の鈴鹿海軍航空隊正門                 当時の練習機と校舎

1 鈴鹿海軍航空隊(第一鈴鹿海航空基地)

(1)開隊に至る経緯
 1937年の海軍整備拡充計画に基づき実用航空隊6隊と練習航空隊8隊が新たに整備されることになりました。名古屋周辺地域で新設する航空隊の適地を探していましたが、その結果、河芸郡白子町(当時)が選定されました。それが鈴鹿海軍航空隊(練習航空隊)で、これ以後、陸軍、海軍とも次々と軍関係施設が建設されていきますが、この鈴鹿の地が適地として選定となったのは次の要因だったと考えられます。

@[地形的要因]市の西部から南部にかけては低・中位段丘の丘陵地帯が続き、起伏の少ない地形 で、土地利用も畑地や林野が中心で民家も少なく、施設の建設に支障が少なかったこと。
A[気象的要因]全般的に温暖で、冬の積雪もほとんど無く、季節風も北西に一定していたため、  特に飛行場には適していたこと。
B[交通的要因]名古屋や四日市に比較的近く、国道1号(現;国道23号)線、国道2号(現;国 道1号)線や国鉄関西線、関西急行電鉄(近鉄)が通り、交通の要衝の地であり、人的、物資の輸
 送に適していたこと。
C[人文的要因]市の東部は田園地帯で、伊勢湾の水産物と共に食糧の確保が容易であったことに 加え、田園地帯ではあったが、人口密度は高く、労働力確保が比較的容であったこと。
D[戦略的要因]名古屋は三菱重工名古屋航空機製作所をはじめ、愛知時計電機、大隈鉄工所など 日本最大の航空機産業基地であり、その航空機製造分散拡張計画にこの地域が組入れられたこと。

 鈴鹿海軍航空隊の建設計画は、極秘で進められ、1937年末頃に地元に説明されました。1938年度に国家予算500万円が計上され、4月1日付で「鈴鹿海軍航空隊」の設置が決定し、同時に土地買収や家屋移転は強制的に行われ、整地作業にとりかかると地元住民の勤労奉仕のほか、受刑囚人、朝鮮人の強制労働が主となる労働力で一挙に完成を進めました。そして10日1日、建物は未完成でしたが、鈴鹿海軍航空隊が正式に開隊しました。鈴鹿地区では最も早くできた軍施設でした。

(2)鈴鹿海軍航空隊の任務
鈴鹿海軍航空隊は航空機偵察要員を養成するための施設で、訓練生は飛行科予備学生・生徒であった士官候補生(22歳前後)と飛行練習生(17歳前後)に大別され、修業期間を6ヶ月とし年間最小で300人、最大で約3000人の学生と練習生がいました。また指導員としては教育指導教官(士官)、教員(下士官)が常時約100人ほどいましたが、管理運営要員としては航空隊の長(司令)ほか副長・飛行長・整備長・通信長・軍医長などとその部下将兵が常時約3000人ほどいました。
 訓練の内容については、前半は主に地上訓練で、通信・航法・射撃・旗旒・暗号等の講義などを受け、後半は,飛行機に搭乗しての対地偵察・無線傍受信・航法偏流測定・爆撃照準・機銃実弾発射などの実地訓練を行いました。訓練用の航空機は約150機ほどあり、90式機上作業練習機を逐次「白菊」に更新していきました。一時期には96式艦上戦闘機も数機配備したこともありました。訓練機には、教官または教員2名と学生か練習生2名の合計4名が乗り組んで行い、滑走路を離陸し伊勢湾上空で訓練を行いました。

(3)終戦直前の航空基地
 日本の戦局が大きく変わり、日本にとって敗戦が濃厚となり、「本土決戦」が叫ばれる中、従来の練習航空隊はすべて廃止され、航空隊を実戦即応の実用航空基地へ転換がはかられました。鈴鹿海軍航空隊も1945年(昭和20年)2月をもって閉隊し、「鈴鹿海軍第一航空基地」として名称変更・整理して在隊していた学生・練習生を次の3つに分散しました。
@機上訓練が修了に近かった約200人の学生・生徒には、若菊隊(白菊特攻隊)を組織し、伊勢湾に侵入する敵艦攻撃に向かわせることにしました。
A地上訓練中だった練習生約3,000人は,さらに二つの組に分け、新任務に就かせました。1組は、陸戦隊としまし、道伯の丘陵(現在の鈴鹿サーキット付近)に移動し山中で生活しながら38式小銃で戦う訓練をしていました。もう1組は,飛行場作り・松根油採取の作業員としました。練習生は第三鈴鹿海軍航空基地として現在の津市近郊・高野尾の山林を切り開き飛行機の分散基地と併せ特攻基地作りに着手していました。
B将兵達は,隊外の若松地区などの寺社や民家等に寄宿し、伊勢湾の対潜哨戒や特攻訓練を計画し実行に移していました。

第一鈴鹿海軍航空基地 今もNTT研修センター敷地内に格納庫などが残る(19568 バイト)  現在のNTT研修センターの正門は鈴鹿海軍航空隊の正門と同じ(19077 バイト)

かつてあった格納庫跡                      正門跡


2.第二鈴鹿海軍航空基地

  第一鈴鹿海軍航空基地の西北に併設して造られたのが第二鈴鹿海軍航空基地で、1942年に、面積132万uの農地や荒地に建設されました。現在の味の素ゼネラルフーズや富士電機工場のあたりです。最初は香良洲にあった三重海軍航空隊飛行練習生の練習飛行場として建設され、ほぼ東西に幅30m、長さ750mにわたる滑走路(土を突き固めたもの)がありました。しかし1943年ごろからは、近くにあった三菱重工業で生産した飛行機の試験飛行用の飛行場としても使用されました。また、この航空基地には海軍輸送機部隊(第1001航空隊・雁部隊)も配備され、一式陸上攻撃機とダグラスなど大型機を配して軍用資材・兵員の輸送任務を行っていました。
 戦争末期には第一鈴鹿海軍航空基地と同様、実戦部隊の基地となり、「零戦」「天山」などの戦闘機・艦上攻撃機等も配備され、最前線に向かう中継基地となりました。終戦時にこの基地で出撃待機していた海軍機は、約200機を数えます。

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3.三菱重工と第二海軍航空廠鈴鹿支廠

(1)三菱重工業
 三菱重工業は1934年(昭和9)に三菱航空機と三菱造船が合併してできた会社で、正式名は三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所といいます。中島飛行機株式会社とともに戦時中の航空機産業の中心的メーカーでした。製造航空機としては,著名な零式艦上戦闘機(零戦)や局地戦闘機(雷電)をはじめ、九六式艦上戦闘機、九六式陸上攻撃機、九七式二号艦上攻撃機、九八式陸上偵察機、一式陸上攻撃機、零式観測機、艦上戦闘機(烈風)、局地戦闘機(秋水)などがありました。もともと主力工場は名古屋とその周辺にありましたが、太平洋戦争以後、戦局の拡大に伴い、航空機生産の増強と空襲等による被害分散を図るため、愛知周辺に工場と部品生産の分散化が進められました。
 1940年(昭和15)、南玉垣町に三菱重工業整備工場、1941年(昭和16)、東玉垣町に三菱重工業三重工場(現;鈴鹿医療科学大学付近)が建設されました。両工場は幅40m、長さ約1.2kmの誘導路で連結されていました。航空機は名古屋の本社工場でエンジンを、津工場(現・オーミケンシ)で翼を、四日市工場(東洋紡績四日市工場)で胴体と部品を製作し、この東玉垣の三重工場で部品の製造と組み立てが行われ、誘導路にて整備工場に運ばれ、整備されて各地に引き渡されました。また,ここでは両航空基地で使用されていた零戦などの三菱の航空機の補修,整備も行われていました。この工場では西南隅(現在の千代崎中学校付近)にあった建物に2本の生産ラインがあり、1つは零式戦闘機や一式陸攻などの組み立てを行いましたが、もう一つのラインでは雷電戦闘機を組み立てを行い、本社工場よりも多い数十機を生産しています。
 三菱重工関係の従業員は地元周辺の白子、玉垣、神戸、稲生地区から多く採用されました。従業員の官舎や住宅は南玉垣町(現;玉垣団地)や、愛宕山(現・北江島町)、砂山(現;南若松町砂山)にありました。また、整備工場には神戸中学校(1944年7月27日〜、45年7月20日〜終戦の日)が、三重工場には河芸高等女学校や津市高田中学校(現;高田高等学校)の生徒が学徒動員されています。また,白子国民学校地内にあった市立工業学校の航空機科の生徒の実習地としてもこの三菱の工場が利用されました。また、三菱重工業三重工場の東隣には付属病院及び購買所(現;鈴鹿厚生病院)が置かれていました。

(2)第二海軍航空廠鈴鹿支廠
 第一鈴鹿海軍航空基地に隣接して1941年(昭和16)、第二海軍航空廠鈴鹿支廠(通称;二空廠)が建設されました。ここは三菱重工業で作られた航空機に機銃や無線機などを装備して、各地の実戦部隊に配備する補給工場でした。主に名古屋の三菱重工業本社工場で製作された零式艦上戦闘機「零戦」や局地戦闘機「雷電」、一式陸上攻撃機は第一鈴鹿海軍航空基地に空輸され、直ちに補給工場に誘導されました。ここで鈴鹿海軍工廠で作られた13ミリ機銃や豊川海軍工廠で作られた20ミリ機銃をはじめ無線関係一式などが実戦用に装備されました。1942・43年の戦争の激しいころには1日に20〜30機の飛行機が送られてきて整備が行われましたが、戦争末期になると名古屋の本社工場が空襲にあい、1日に2〜3機あるいは来なかった日もあったということです。これらの航空機は全国の実戦部隊からパイロットが来て引き取られていきました。遠くは九州の大村航空基地や鹿屋航空基地、台湾の高雄航空基地からも引き取りに来ました。また、ここでは第一と第二鈴鹿海軍航空基地で使用されていた航空機の修理、整備も行っていました。ここには関西急行電鉄(現・近鉄)白子駅からの引き込み線があり、この二空廠の管轄でした。また、この付近には第二海軍燃料廠の燃料庫や弾薬庫もありました。
 二空廠の組織には兵器部(機銃の装備),無線部(無線の装備)、発動機部(エンジンの整備)、機体部(機体の補修)、運輸部(白子駅からの引き込み線の運転)、庶務部(事務)などがあり、約100人ほどの従業員(軍属)が働いていました。身分としては[二等工員→一等工員→職手→工手→工長 →技手→技士]と昇進していき、賃金は一等工員で日当一円でした。ここに配属されてきた新入工員は隣の鈴鹿海軍航空隊で3〜4ヵ月間、基礎的な整備の訓練を受けました。1944年(昭和19)末ごろからは一般の徴用工員と学徒動員の中学生も動員されました。


4.航空機の疎開

  1944年頃から本土空襲が激しくなると、第一・第二航空基地内の航空機は周辺に待避施設を設けることとした。第一航空基地西方の野町地区や、第二航空基地西方の末広地区にかけての森林の中に土製の格納施設(掩体壕)が多数つくられ、遠くは若松町の小川神社にも建設されたという。滑走路から掩体壕までの誘導路は分散道路とも呼ばれ、網の目のようにめぐらされており、掩体壕は飛行場内縁辺の待避所を含めその数は約100ヶ所に達した。待避させる飛行機は、まず飛行機からガソリンを抜き、網をかぶせて偽装し、警報が解除されるとまたもとの施設へ戻したという。また、これらの工場や航空隊では部品や物資の疎開のため、国府や稲生に疎開用の倉庫もたくさん造っていた。また、この2つの航空基地の周辺には2つの高角砲台(道伯、愛宕山)と6つの機銃砲台の対空砲火台が設置され、敵機の攻撃に備えていた。また付近にはそのためのレンガづくりの弾薬庫が数多くつくられた。なお、この航空基地には、1945年4月7日に空襲があり死傷者20名を出している。また、7月8日には稲生町の対空砲台が攻撃されている。

  敗戦時、この両航空基地には次の航空機が収納されていたことがGHQ提出資料によってわかる。なお、飛行機は戦後、GHQにより接収あるいはその場にて消却処分された。

        [第一鈴鹿海軍航空基地]   (格納場所)















 
・零戦(59機)・・・・第一格納庫(50機)、第二格納庫(2機)、飛行場(7機)、
・白菊(65機)・・・・第三格納庫(9機)、第四格納庫(9機)、第五格納庫(15機)、
        啓正格納庫(8機)、第七格納庫(2機)、第八格納庫(18機)、
        飛行場(4機)、
・雷電(2機)・・・・・・・・・・飛行場(2機)、
・彗星(4機)・・・・・・・・・・飛行場(4機)、
・天山(1機)・・・・・・・・・・飛行場(1機)、
・九九式艦上爆撃機(1機)・・・・飛行場(1機)、
・九○式機上作業練習機(2機)・・・・飛行場(2機)
・銀河(1機)・・・・・・・・・・飛行場(1機)
・九三式中間練習機(23機)・・・・第三格納庫(9機)、第五格納庫(2機)、
              第七格納庫(12機)、
・二式陸上中間練習機(1機)・・・・啓正格納庫(1機)、
・一四式練習機(1機)・・・・飛行場(1機)、
 














 

       [第二鈴鹿海軍航空基地]   (航空機形式)










 
・零戦(27機)・・・・22型(1機)、52型(4機)、62型(20機)、63型(2機)、
・雷電(35機)・・・・11型(1機)、33型(33機)、試製機(1機)、
・天山(73機)・・・・12型(73機)、
・彗星(1機)・・・・・・・・33型(1機)、
・白菊(11機)・・・・・・・・21型(9機)、試製機(2機)、
・一式陸上攻撃機(2機)・・・・24型(2機)、
・零式輸送機(7機)・・・・・・・・・・11型(3機)、22型(4機)、
・十七式練習戦闘機(1機)
・十五式試製陸上攻撃練習機(1機)
 









 

5.格納庫の解体

 鈴鹿海軍航空隊にはかつて練習機などを格納する8つの格納庫が存在したが、戦後は1棟の移築(近鉄塩浜機関区)を除き、4つの格納庫が取り壊された。戦後、この場所に進出してきた日本電電公社(現在のNTT西日本)はこの軍施設をほとんどそのまま利用してきたが、1970年以降、暫時、新しい施設が建設され、1990年代までには格納庫3棟と正門、番兵塔など一部の旧軍建物を除いてほぼ解体されていった。
 3棟の格納庫は、2棟が幅80m×奥行き40m、1棟が幅40m×奥行き40mの巨大なもので、中は一本の柱もない巨大空間を誇り、県内はもとより、国内においても貴重な戦争遺跡として注目されていた。市民の会では、この貴重な格納庫を文化財として保存し、鈴鹿市の平和のシンボルとして位置づける目的で、2009年6月、市、NTT西日本、市文化財調査会の3者に対して3棟の格納庫の文化財指定を要望した。しかし、回答がないまま数ヶ月が過ぎた。
 2010年3月、突如、旧鈴鹿海軍航空隊跡地の3棟の格納庫の取り壊しの情報がもたらされた。格納庫群は、いわば鈴鹿市の戦争遺跡の象徴であり、この格納庫群を中心に戦争遺跡の活用を考えていた市民の会にあっては寝耳に水の話であった。市民の会として早速、NTT西日本、鈴鹿市長、鈴鹿市議会、鈴鹿市文化財調査会に保存要望を伝えると共に、市民をあげての保存運動を展開した。 2010年6月、市議会で格納庫を含む敷地の開発に関する条例が可決され、格納庫の取り壊しが現実的になった。
 市民の会では巨大な格納庫の利用に関する提案(展示室、備蓄倉庫、屋内競技場など)を行ったが、市当局が受け入れることはなかった。そこで11月から12月にかけ、取り壊し反対の署名活動を行い、市内外から1万1668名の署名が集まり、市長、NTT西日本に提出した。翌2011年2月には約300名の市民の参加のもと「格納庫保存を考える市民シンポジウム」を開催し、十菱駿武さん(戦争遺跡保存全国協議会代表)の提言や有識者によるパネルディスカッションを行った。しかしその甲斐無く、2月にはNTT西日本から格納庫の取り壊しを通告され、市民対象に最後の格納庫見学会を開催した。そして3月には再建を前提に1棟の部材を保存するという取り交わしで貴重な3棟の格納庫群は取り壊されてしまった。ただ、NTT西日本に対して、記録保存をお願いし、3棟の格納庫の詳細な図面の作成には応じていただいた。
 第四格納庫の部材は再建を前提にNTT西日本の好意で保存されることになったが、市当局に再建をする意志はなく、部材の保管施設の確保と膨大な再建費用を捻出することができず、再建も断念し、部材も放棄することになった。ただ部材の一部は市の保管施設で保管されている。


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