2.鈴鹿海軍工廠

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  海軍工廠とは海軍直営の軍需工場で、造船、航空 機、各種兵器、弾薬などを製造し、全国に14ヶ所あ った。1931年の満州事変までは全国に横須賀、呉、 佐世保、広の4ヶ所しかなかった海軍工廠も事変以 後、軍備増強の中、日米開戦、南方侵略の想定・実 施から急速に軍艦や航空機、兵器の増強に迫られる ことになった。そこで舞鶴(1936年7月)、豊川(1 939年12月)、光(1940年10月)の3つの海軍工廠が 建設された。しかし太平洋戦争が勃発するとこれら の工場でも生産が追いつかず、民間工場の軍需品製 造転換方針に加え、新たに相模(1943年5月)、川棚 (1943年5月)、沼津(1943年6月)、多賀城(1943 年11月)と鈴鹿(1943年6月)の5ヶ所の海軍工廠の 建設が計画・実施されたのである。                     

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【設立に至る経緯】
鈴鹿海軍工廠では航空機搭載の機銃(機関銃)とその弾薬包(弾丸)及び信管・雷管を製造していました。海軍省で広大な平田野地区の畑地や山林が建設予定地に決定されると、1941年10月頃から地元との交渉が始まり、面積約440万uの広大な用地の取得も極秘のうちに同時進行されました(地主約800名)。敷地内に入る平野新田や平田野の民家も強制移転させられました。海軍省で建設が決裁されたのが1942年3月5日で、早くも4月8日から地元の青年団の協力で測量が行われ、同時に一部の建物の建築が始まっています。同年8月にすべての買収を終えました。買収の地目別比は、田6.6%、畑74.6%、山林13.3%、原野5.5%で、大半が桑畑などの畑地でした。工事は鈴鹿
海軍工事協力隊(実態は間組や銭高組などの民間土木会社)の労働者や津刑務所の受刑者が土木工事にあたりました。工廠の南の住吉地区に臨時の津刑務所鈴鹿支所が建設されて模範受刑者が毎日作業に当たりました。また、協力隊の中には強制連行された朝鮮人労働者もいたという証言もあります。
工廠の名称は、当初「J廠」と称せられ、予算3億円で、敷地面積2,150万uに工場を設立し、約3万人の従業員を集め、13o機銃,7.7o機銃、20o機銃と20o機銃弾薬(年産600万発)、13o機銃弾薬(年産3000万発)、7.7o機銃弾薬(年産1億5千万発)を生産する計画をたてました。
 しかし実際に完成、稼働したものは、海軍工廠本体面積360万u、従業員約1万人を数えるに留まりました。生産機銃も2式13mm旋回機銃、92式7.7o旋回機銃、97式7.7o固定機銃、30o弾包(月産1万発)、13mm機銃弾薬包(月産160万発)、7.7及び7.9機銃弾薬包(月産270万発)、爆弾薬包(月産160万発)、爆弾信管(月産2千発)とかなり縮小されることになりました。
工廠内の道路は碁盤目状に区画しました。正門前から国道1号線(現;県道鈴鹿四日市線)に至る延長4.04qの東西道路(鈴鹿中央線)は幅員50bで計画されましたが、実際完成したのは幅員16.8b道路でした。また、物資の輸送に正門から北に直線     で加佐登駅と結ぶため鈴鹿川に「鈴鹿橋」を架けました(現在はない)。1943年4月から「工員養成所」を開設すると共に、同年6月1日に「開廠式」を行い、正式に「鈴鹿海軍工廠」として命名し、発足しました。

【職員・従業員】
職員及び従業員は大きく幹部職員と係官・係員の工廠直属職員(約100名)と、工員(約8,000名)、
動員学徒及び女子挺身隊(約2,000名)によって運営されていました。工員は県内からの募集・採用による普通工員の他、主として大阪・奈良・和歌山県など近畿地方の各県から集められた徴用工員がいました。普通工員は工廠に機械が備え付けられるまで愛知県の豊川海軍工廠に派遣されて技術の修得に当たりました。鈴鹿海軍工廠で生産が開始されるとその人たちは新規の工員や学生に指導する立場となりました。徴用工員の中には在日朝鮮人の人々も多く含まれていたが、生活苦から欠勤も多かったということです。また工廠北部に「工員養成所」を設立して、14歳以上の見習工員を採用して技術を学ばせ、中堅幹部工員の育成に当たりました。
1943年6月から学徒動員が可能となると近郊(原則として鈴鹿郡・河芸郡内)の国民学校高等科1、2年の児童や中学校生徒が動員され生産の中心となりました。庄野国民学校(現;庄野小学校)では高等科の児童が1944年12月25日から鈴鹿海軍工廠へ学徒動員されています。また神戸中学校では1944年4月25日(5年生、121人)、1945年1月11日(2年生、135名)、同7月20日
(2年生、170名)の3回、鈴鹿海軍工廠に一年間動員されました。神戸中学校の生徒は全員、機
銃部に属し、道伯町野田の宿舎に収容され、同棟には亀山実業高校生が、他棟には石川県小松高等
女学校や奈良県吉野高等女学校の女生徒もいました。1941年8月の国民徴用令の改定によって女性の徴用も可能になると近郊から「女子挺身隊」として女子青年団員も多数徴用されました。また一方、1944年6月頃には強制連行された朝鮮人男子中学生約100人が約1ヶ月間、この工廠で実習しています。
勤務時間は8:00〜17:00までで、昼1時間と午前(10:00〜)と午後(15:00〜)に各15分間の休憩が与えられました。ほとんど毎日2時間ほどの残業が課されたため、実質の労働時間は10時間程度になりました。従業員の初任給は日給男子75銭、女子65銭で半年毎に昇給しました。日曜日は休業日なので阪神地方からの従業員は土曜の勤務が終了すると国鉄等で帰郷したということです。男子従業員は主に機銃部に、女子従業員は主に火工部と事務に従事していました。工場は木造平屋建が基本で、1棟は平均3,000〜4,000uの規模のものでした。
従業員には工廠付近の宿舎や住宅が与えられました。平田町にあった官舎は工廠幹部職員用で、甲・乙・丙と階級によって違っていました。建坪は平均約24坪でありました。一般従業員の住宅は6千戸を計画していましたが、実際に建設されたのは300軒(600戸)程度でした。原則として1棟の2軒長屋として、一棟あたり敷地は約70坪で比較的広かったのです。浴場は共同浴場で集会用の会議室(15畳)が付設されていました。その他、一時的な工員や学徒動員された学生用に寄宿舎も建設されました。
中でも工廠の北西にあった汲川原宿舎(聖戦のスローガンをとって「八絋舎」とも呼ばれた)は放射状の形状を呈していて特異なデザインでした。中央の円形の建物を中心に五棟が放射状に付着している(1棟500名収容で1室は10畳の広さ)構造で、円形の建物には中央にホールがあり、周囲に食堂、炊事場、玄関、事務室、応接室、娯楽室、理髪室、浴室、売店が並んでいました。この寮は原則として初めて工廠に来た人たちが1〜2週間の訓練(練成)を受けるための寮として使用されていました。また官舎区域には幹部の集会所である第一会議所(高等官集会所)・第二会議所(判任官集会所)も建設され、幹部の懇談会の場としていました。正門を入ってすぐ西側に「奉安所」があり、御真影(天皇の写真)が保管されていました。空襲や火事などの緊急時には職員は何を置いても持ち出す義務がありました。

【組織と生産】
 鈴鹿海軍工廠は海軍艦政本部の指揮下にあり、組織は工廠長の下に「総務部」「会計部」「医務部」「機銃部」「火工部」がありました。その中心は機銃部と火工部で、工廠長には技術少将が、各部長には大佐級の軍人が就任しました。
《総務部》工廠中央部にある本庁舎内が事務所で、工廠全般の事務を扱う庶務係をはじめ、工員や動員学徒などの従業員の募集や人事、厚生を扱う労務係の他、運輸(車両)、施設、警務の係などがありました。
《会計部》正門東脇に事務所があり、従業員の賃金を扱う給与係や、工廠の資材を調達する材料係の他、従業員の日用品や住宅関係を扱う物資部も管轄していた。また工廠の各通用門に設けられた工員の札場(ふだば)の管理をし、工員の出勤欠勤を毎日、調査・管理していました。
《医務部》職員とその家族の診療が仕事であったが、医務部は廠外(現在の鈴鹿逓信病院付近)にあったため、受診工員はそのたびに職場の組長や士官の許可を得て公用腕章を付けて正門の衛兵の許可を得て出入りしていました。同地に海軍共済病院があり、組織上は別個でしたが、医務部長は共済病院長を兼ねており、実質は共済病院のことを指していました。内科や外科を中心に結核患者のための伝染隔離病棟を有する本格的な病院でした。
《物資部》主として工員や職員住宅の日用雑貨品を扱い、小売をしていました。売店は各工員住宅地区や廠内にありました。
《機銃部》工廠の東北部に位置しており、92式7.7ミリ旋回機銃及び97式7.7ミリ固定機銃(後に2式13ミリ旋回機銃に変更)の生産を行っていました。鍛錬工場で鋼材の各部品の製造を、木工場で木製の部品を製造し、機銃工場で組み立てを行っていました。
《火工部》工廠の西半分を占めていて、弾丸工場で弾頭部分を、弾莢工場で薬莢部分を製造して装填工場で火薬が詰め込まれました。そしてそれに信管工場で作られた信管を填薬装弾場で装着して完成しました。また工廠の西南部には爆弾の起爆装置である雷管製造工場があり、雷管筒に窒化鉛を装填して完成させました。特に火薬類は乾燥や調合、保管などに神経を使い、特に火薬を扱う工場や倉庫はレンガ造りで、土塁に囲まれた倉庫に保管していました。事故を回避するため工廠の南の奈良池や道伯池周辺の山地に火薬庫を建設しり、その南に続く天名村には地下壕を掘ってその中に火薬類を17ミリ機銃分散・保管していました。地下倉庫は、計17本の地下壕からなり、総延長1,920b、面積約4,800uの大規模なものでした。
「機銃部」で組み立てられた機銃は「火工部」で作られた弾薬包を装填し試験発射に廻されました。工廠内の東南隅に廠内発射場がおかれていたが、最終的には工廠の南方で奈良池の西南一帯に30万u程の広大な発射場があり、そこで試射しました。約300b以上離れた谷間に銃座と着弾点を据え、銃座付近と着弾点付近をトンネル式にしました。工場生え抜きの熟練工は素人の工員や学徒の仕事を監視するだけで、自分自身では作らないから仕上がりは悪かったのです。月産700挺の機銃の内、合格品はわずか70挺程度でした。合格品でも白子の鈴鹿海軍航空隊が伊勢湾上空で、飛行機に引っ張らせた吹き流しに向かって、試験射撃すると弾丸の出ないものも多数ありました。また、県立松阪工業学校の生徒40名がここで学徒動員として働いていた時、担当の技術中尉の理不尽な仕打ちに対して抗議の意味で作業を拒否して松阪に引き上げた事件もありました。
鈴鹿海軍工廠では当初、7.7ミリ機銃を生産していましたが、口径が小さくて敵機を撃ち落とすことができず、後にドイツ設計の13ミリ機銃に生産を切り替えました。地上での試射段階ではうまくいっていましたが、いざ航空機に搭載して空中で試射してみると弾丸が出ないことがよくありました。何度も研究がなされましたが原因は不明でした。しかし戦後材質の鋼材に問題があり、気圧の変化に伴う伸縮による誤差に起因することがわかったということです。

【工廠の疎開】
 戦争の長期化に伴う資材難、労働力難と各地で空襲による被害が続出する中で、1944年秋に海
軍艦政本部より緊急疎開命令が下り、鈴鹿海軍工廠も1945年1月より各地に「疎開」して分工場
として操業することとなりました。移転先は次の5地区です。しかし、実際稼働したのは神戸中学校のみで、高山市及び関町は一部稼働、他の2カ所は資材が運び込まれただけで生産することはありませんでした(高山市は国全工業株式会社に委託経営)。なお鈴鹿海軍工廠は1945年7月24日、空襲を受けましたが、落下場所が工廠の東方の算所集落(死傷者57名)であったため、直接的な被害は被っていません。
  ・鈴鹿郡関町観音山地下工場【随道14本、工作機械総数183】
  ・岐阜県高山市江奈子地区(作業場27棟)、中山地区(建設途中)、斐田中学校(作業施設5棟)、西国民学校(未稼働) 【合計;工作機械総数556】
  ・鈴鹿市神戸町神戸中学校【工作機械総数94】
  ・三重県松阪市松阪工業学校【未稼働、工作機械総数54】
  ・石川県大聖寺町【未稼働、工作機械総数63】

【現在に残る戦争遺跡
戦後、鈴鹿海軍工廠跡地は元の地権者返還を猶予して、復興のための工場誘致をはかることになりました。最初ははかどらなかった誘致も、1953年の旭ダウ(現;旭化成)を皮切りに、1956年の倉毛紡績(現;カネボウ)、1960年の本田技研工業と続きました。また南部の疎開倉庫跡地や山の手発射場跡地には1962年に鈴鹿サーキットが建設されました。これらの工場誘致は今日の鈴鹿市の工業発展の出発点となっています。
 工場の建設と共に工廠内の建物跡も姿を消しました。ただ工場敷地とならなかった工廠西部の平野地区の火管圧填場跡の建物や倉庫はよく残されました。現在でも煉瓦造りの火薬庫や工場をそのまま住宅に転用したものが現存しています。また奈良池周辺には2棟の大きな弾薬庫跡や着弾場跡などが残されている他、正門銘板が旭化成南部の小公園に移築されています。

72t鈴鹿海軍工廠.jpg (115533 バイト)  鈴鹿海軍工廠正門 唯一残る古写真 内部の写真はない(19863 バイト)   鈴廠ポスター2.jpg (104234 バイト)

戦後直後の航空写真                            鈴鹿海軍工廠正門(古写真)                     当時のポスター


 現在も残る鈴鹿海軍工廠火管圧填工場の建物(14478 バイト)   現在も残る鈴鹿海軍工廠火管圧填工場の火薬庫(24304 バイト)

火管圧填工場跡                     火薬庫跡

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