神戸信孝と天守閣

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  6代利盛には子がなく、土師村の福禅寺にいた弟の友盛が神戸家を相続した。永禄年間(1558〜)に入り、神戸氏は長野の工藤氏と度々戦っているが、永禄4(1561)年には、一時神戸城下まで追いつめられたこともあった。一方、美濃を手に入れた織田信長は、永禄10(1567)年8月、伊勢に侵攻してきた。梅戸城(員弁郡大安町)、千種城(三重郡菰野町)、萱生城((四日市市萱生町)と次々と攻略した信長は、ついに神戸城に迫ってきた。信長はまず枝城の高岡城を包囲し、付近の民家を焼き払った。高岡城の城主は山路弾正で、よく死守し、美濃で反乱があるとの知らせを受けた信長は一旦兵を尾張に引き上げた。翌永禄11(1568)年2月、再び伊勢に侵攻した信長は、新たに赤堀城(四日市市赤堀町)、釆女城(四日市市釆女町)を落とし、再び高岡城を取り囲んだ。信長は伊勢平定を急いでいたこともあり、神戸友盛と話し合い、信長の3男・三七郎(当時11歳、後の信孝)を友盛の養子にすることで和睦し、戦闘は終わった。信長の傘下に下った神戸氏は中勢の工藤氏、南勢の北畠氏の攻略に参加し、ついに永禄12(1569)年、信長はほぼ伊勢地方を手に入れることになった。

  神戸三七郎(信孝)は神戸城に迎えられたが、無理矢理に養子にされた友盛以下家臣は三七郎を冷遇した。それを知った信長は元亀2(1571)年正月、友盛夫妻が義兄の近江の日野城主・蒲生賢秀に年賀の挨拶に行った折り、賢秀に命じて、友盛を日野城内に幽閉してしまった。この神戸家の動揺を捉え、高岡城主・山路弾正は神戸城の乗っ取りを謀ろうとしたが、事前に知れるところとなり、捕まって斬首された。三七郎は神戸領内の検地を実施し、旧神戸家臣団に領地を再配分する一方、尾張から連れてきた家臣にも新たに領地が与えられ、それらは「神戸480人衆」と呼ばれた。元亀3(1572)年、15歳になった三七郎は元服して「信孝」と名を改めることになった。  

  天正3(1575)年5月、神戸信孝は神戸の城下町である十日市に対して楽市楽座の触れを出し、城下町の発展に尽くした。信長は天正4(1576)年から琵琶湖のほとりに壮大な安土城を築き始めたが、神戸信孝も天正8(1580)年、砦同然であった神戸城の大改修に着手することにした。信孝が改修した神戸城の規模や縄張りは不明であるが、近世本多氏の神戸城の縄張りとほとんど変わりがないと考えられている。本丸を中心に二の丸、三の丸の曲輪が取り囲む平城であったであろう。

   本丸にはこの地方では最初の五層六重の天守閣が築かれた。今に残る神戸城の天守台は信孝築城当時のものであり、大天守を中心に北東に小天守(三重櫓?)、南西に付櫓が付属する複合天守であったことが伺える。天守の正確な構造は不明であるが、現存の大天守台は高さ6.0mで上部は東西12.9m、南北15.6mの規模、小天守は高さ3.7mで上部が東西6.5m、南北4.1mの規模を測る。石垣は野面積みで、墓石、五輪塔などの石材を含み、刻印も一部みられる。1965年、本丸の東で公民館建設中に金箔瓦が発見され、この当時のものとされている。金箔瓦の使用は織豊系城郭の特徴の一つと考えられており、この城が瓦葺きであったことが伺える。

 神戸城天守台(34313 バイト)   神戸城西の堀(23665 バイト)

神戸城天守閣跡                          神戸城西の堀跡

 

神戸城天守台石垣実測図 はこちら

 


 天守閣の仕様については、文化14(1817)年、織田久右衛門の「諸用雑記」の中に神戸城の規模について次のような記述が見られる。          

        神戸御天守寸法書附

    一、御天守石垣、高サ御堀水岸より五間五寸、但シ六尺五寸間、平地より土台下迄弐間五尺

    一、御天守下の重、東西七間半、南北七間、高サ石垣より二重目同板敷下迄一間五尺

    一、弐重目、東西七間半、南北七間、高サ二重目板敷より三重目板敷下迄一間六尺

    一、三重目、東西五間半、南北四間、高サ三重板敷より四重目板敷迄一間一尺五寸、

       此処ニからはふ(唐破風)有、出四尺五寸、東西二箇所有

    一、四重目、間数同断、高サ四重目板敷より五重目板敷迄壱間壱尺弐寸

    一、五重目、東西三間半、南北弐間、高サ五重目板敷より上之重板敷迄壱間弐寸

    一、上の重、東西三間四尺三寸、南北弐間高サ上之重板敷より梁下まで一間一尺五寸

    一、梁下より棟木迄 高サ一間

    間数合石垣水岸より御天守棟木迄拾四間四尺九寸、但シ壱間ハ六尺五寸間、六尺間ニより

    高サ拾五間五尺九寸

    一、高欄巾壱尺長三間、四方、有

    一、御天守より小天守取付廊下九尺三間  

    一、小天守、石垣高サ弐間四尺五寸

    一、小天守間数、平地より棟木迄七間弐尺二寸五寸

 

  一間=六尺六寸(1.97m)とすると、石垣が掘の水面より11.7m、大天守が五層六重で石垣上より高さ19.6m、一重目平面が東西14.8m、南北13.8mとなり、三重目に唐破風が、最上層には高欄が付属していたことになる。しかし一重目平面が現存の実測値(東西12.9m×南北15.6m)と一致しない。書き付けが後世のものであり、このままこの数値を信用することはできないが、おおよそのイメージは推察することができよう。建築技師の北川実さんが、この書き付けの数値をもとに神戸城天守閣を復元している。

神戸城天守閣復元図 はこちら

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