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 前川定五郎

  現在、国道1号線から三日市方面へ抜ける時に渡る橋を「定五郎橋」といいます。この人名のついた橋は前川定五郎の私財と寄付によって完成したもので、彼の一生とその業績を紹介します。

1.生い立ち

前川定五郎翁(11087 バイト)  前川定五郎は天保3(1832)年11月9日、鈴鹿郡甲斐村(現;鈴鹿市甲斐町)で、前川庄五郎の3男として生まれた。18歳の時、同じ村の前川定八の養子となったが、4年後の安政元(1854)年、安政の大地震で養父の定八は亡くなり、家を継いだが、その時、18円もの借金も同時に受け継いだという。そこで定五郎は、昼間は鈴鹿川対岸で、近くの石薬師宿で、馬方人足で賃金を稼ぎ、それが終わると自分の田畑を耕し、一日中働き続け、ようやく17年後に借金は返済した。定五郎が青春を駆け抜けた時代は、日本が尊王と佐幕の間で揺れる幕末であり、石薬師宿を通る東海道も志士の往還でさぞ騒がしかったであろう。

  時代は明治となり、鈴鹿川対岸の東海道も幹線道路として整備され、さらに明治22(1888)年には東海道沿いに鉄道(関西鉄道株式会社、今のJR関西線)が建設されることとなった。定五郎は鉄道工事に従事している作業員にわらじを作って提供したり、お茶をふるまったりして、喜ばれた。定五郎は田畑仕事に出かける時には、天秤を担ぎ、砂を入れ、雨ででこぼこになった道に蒔いて直したり、道に落ちていた牛の糞をひろったりしたという。

現在の定五郎橋、神戸、平田方面から国道1号線や名阪国道を結ぶ重要な橋(15678 バイト)   前川定五郎の顕彰碑、甲斐集落の北、鈴鹿川堤防の下に建つ (32432 バイト)

現在の定五郎橋                           前川定五郎の顕彰碑

 


.橋を架ける

 江戸時代、石薬師や庄野方面から神戸、白子方面へ出るにはこの甲斐の鈴鹿川をそのまま渡っていた(甲斐の渡し)。しかし雨が降り水かさが増すと何日も渡れない日が続いた。また関西鉄道が敷かれ、高宮駅(現;加佐登駅)ができるとこの川を渡る人も増えてきた。当時、牧田村の子どもたちは小学校高等科へ通うには鈴鹿川を渡って対岸の石薬師小学校に行かなければならなかった。定五郎は子どもたちのために毎朝夕、鈴鹿川で送り迎えしたり、雨の日には傘まで用意したという。定五郎はおいの利輔(当時13歳)と千代崎の漁師のもとへ行き、古い船を5円50銭で購入、この船を渡し船とした。船賃は取らず、周囲の人からはとても感謝された。しかし、やはり水かさが増し、水流が激しくなると船は危なく、定五郎は橋の建設を強く願うようになった。

  定五郎は鈴鹿川に橋を架けるために、村の人々に寄付を募った。村人は「なぜ甲斐のものが金を出して橋を作らなぁあかんのや」と最初は理解してもらえず寄付金は集まらなかった。それでも定五郎は毎日のように寄付集めに奔走し、やっと15円の寄付金が集まった。明治29(1896)年11月、鈴鹿川の中州を利用し、川に杭を打ち込み、板を並べた幅約30cm、約60mの板橋が完成した。しかし喜びもつかの間、完成から1ケ月後、大雨で橋は流失してしまったのである。

  橋が流れ行く姿を見て定五郎は呆然とした。仕方が無く定五郎は渡し船を再び始めた。しかし橋を作ろうという思いは変わらず、今度はもっと大きく丈夫な橋を作ろうとまた寄付集めに回った。しかし今度は前回以上に厳しく、村内だけでなく、隣の神戸や庄野、石薬師方面まで出かけて、橋の必要性を説き寄付を願い出た。やっと170円あまり集めたが、それでは足らず、自分の田畑を売った60円あまりを加えてようやく明治30(1897)10月、やっと工事にとりかかり、1ケ月後にようやく2回目の橋が完成した。今度の橋は幅約1.2m、長さ122mの土橋で、牛車や馬車も通れた。定五郎は毎日一回は橋に赴いて点検し、修理箇所があれば直したという。しかし、70歳を越えていた定五郎はこの橋で満足せず、もっと大きな橋を鈴鹿川に架けることを夢見ていた。

  2回目の架橋の古写真、橋を渡る人が写っている(14937 バイト)  3回目の架橋の古写真、かなり本格的な橋である(16742 バイト)

2回目の架橋(1897年)                 3回目の架橋(1908年)

  2回目の架橋で私財を使い果たした定五郎は、3度、寄付集めに奔走した。しかし「もうこの橋で十分ではないか」と村人は言い、思うように寄付は集まらなかった。しかし定五郎は諦めずに今度は橋を渡る人からも寄付してもらおうと、橋のたもとで、頭を下げて1銭、2銭と寄付を募った。そのような中、鈴鹿郡の郡長(今の市長)の北野孝一と出会い、橋を作る定五郎の思いを知った北野は、県庁に赴き三重県知事に嘆願し、県はもとより郡からも資金を出してもらい、ようやく2回目の橋から10年後、3回目の橋の工事に着手、明治41(1908)年11月に完成した。橋は幅3.3m長さ245mあまりの本格的な木造の大橋で、総費用は約4400円かかった。郡長の提案でこの橋を「定五郎橋」と命名した。完成式が行われ、牧田村はもちろん、付近の村々からも何百人と参加し、花火や露店まででたという。渡り初め式で渡る人々の中に定五郎の姿があったが、感無量で、涙が止まらなかったという。時に定五郎77歳であった。

2回目の橋の模型、中洲を利用した簡単な橋であることがわかる(12657 バイト)  3回目の橋の工事のようす、土橋ではあったが本格的な架橋で、戦時中まで使用された。(16889 バイト)

2回目の橋の模型                 3回目の架橋工事のようす(1908年)

 


3.定五郎のその後

  3回目の橋の完成式の時、牧田村はこれまでの定五郎の業績を讃え、羽織を送った。この羽織には家紋の他、「彰」と「徳」の文字が染められていた。定五郎は計4回、表彰されている。

     ・明治35(1902)年11月1日  三重県知事(古荘嘉門)

     ・明治42(1909)年8月10日  鈴鹿郡教育会長(西大次郎)

     ・明治42(1909)年10月3日  三重県斯民会長(有田義資)

     ・明治45(1912)年3月21日  三重県斯民会鈴鹿郡会長(西大次郎)

  前川定五郎は大正6(1917)年5月16日、86歳で死去したが、橋が完成した後も死ぬ日まで、毎日橋に赴いて、橋を点検して、修理していたという。また、昭和27(1952)年には定五郎の顕彰碑が堤防沿いに完成した。

 


前川定五郎資料室のご案内

 所在地   三重県鈴鹿市弓削2−6−30  鈴鹿市立牧田小学校内

         近鉄平田町駅東北徒歩約15分、定五郎橋から車で2分

 公開日   毎週土、日曜日、祝日  1:00〜4:00

  問い合わせ  牧田公民館(.0593-70-2978)、牧田小学校(.0593-78-0516)

    前川定五郎資料室の内部、定五郎の遺品などが展示されている。(16152 バイト)           定五郎の遺品、蓑笠や農具など生前に定五郎が使用していた品々(19581 バイト)

              前川定五郎資料室                    定五郎の遺品

前川定五郎関連リンク

        ・三重県立図書館     ・鈴鹿市ホームページ

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