神戸氏と沢城

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  亀山に本拠を置く関氏は、初代・実忠から数えて6代目の盛政(もりまさ)の時代に勢力を拡大した。盛政は幕府より正平22(1360)年に南朝方の仁木氏を討ち取った功績により、鈴鹿、河曲の2郡の地頭職を与えられた。盛政には五人の子があり、それぞれに領地を与え分家させた。4人の子はそれぞれその領地の名を名乗り、築城した。3男の盛繁が関本家を継いだのは関氏には代々、「複乳頭」の者が本家を継ぐとの家訓があったからだと言われている。

                               盛 澄 (神戸氏、沢城)

                             盛 門 (国府氏、国府城)

                             盛 繁 (本家、亀山城)

                             盛 宗 (鹿伏兎氏、鹿伏兎城)

                             政 実 (峯氏、峯城)

関氏一党配置図(46041 バイト) 

関五家配置図(「三重の中世城館」より)

  盛澄(もりずみ)は関盛政の長男で、正平22(1360)年に分家して築城した。それが沢城であり、現在の神戸城の南西約500mの地点にあった(「焼き肉のさかい」裏)。現在は周辺よりやや高い土地が畑として残っており、東西約130m、南北約80mの楕円形をしており、本丸と考えられている。現在の字名として「城掛」「馬渡」「城の西」「荒堀」なども残っている。1972年と1990年に周辺で試掘調査が実施され、本丸周辺は深い沼地であったことがわかり、平城で、城名のごとく自然の沼を利用した城館であることが判明した。また、同時に「むめ、かく」(女性名?)の墨書土師器も発見されている。

沢城地籍図(26774 バイト)         「むめ、かく」土師器(14951 バイト)

明治20年の沢城付近の地籍図               「むめ、かく」の墨書土師器

 沢城は初代の盛澄以後、2代実重(さねしげ)、3代為盛(ためもり)、4代具盛(とももり)と続き、4代約200年間にわたり、神戸氏の居城となった。城下町は北部の西条あたりにあったと考えられている。4代具盛は南勢の北畠材親の子で神戸氏の養子に入ったため、戦国時代後半は北畠氏と近い関係にあった。天文年間(1532〜55年)に具盛は沢城から現在の神戸の地に新しい城を築いた。それが神戸城である。縄張りや規模は不明であるが、近世の神戸城の本丸付近だけの小さな城館であったろうと考えられている。また、北に高岡城、南西に岸岡城を築いて枝城とした他、城下町も整備していった。その後、5代長盛(ながもり)、6代利盛(としもり)、7代友盛(とももり)と続いた。

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