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水平社創立80周年

人の世に熱あれ、人間に光あれ

〜部落の歴史と水平社運動〜

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 2002年

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水平社宣言

宣  言

 全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ!長い間いぢめられて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾等のための運動が、何等の有難い効果をもたらさなかった事実は、それらのすべてが吾々によって、又他の人々によってつねに人間を冒とくされていたばちであったのだ。そしてこれらの人間をいたわるかのごとき運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、この際吾等の中より間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起こせるは、むしろ必然である。

 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。ろう劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮はぐ報酬として、生々しき人間の皮をはぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血をうけて人間が神にかわろうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。

 殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯惰なる行為によって、祖先をはずかしめ、人間を冒とくしてはならぬ。そうして人の世の冷たさが、どんなに冷たいか、人間をいたわる事が何であるかをよく知っている吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛するものである。

 水平社は、かくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。

 大正十一年三月三日    全国水平社創立大会

 

水平社宣言(現代語版)

宣  言

 全国に散らばっている、われわれ差別を受けている人々よ、団結せよ。長い間、いじめられてきた仲間たちよ、明治になって50年、平等だといわれても、実際はそうではなかった。同情やあわれみでは 差別はなくならないのだ。このことを思えば、今、われわれ自身から人間を尊敬することによって、自ら、自由と平等を求める集団運動を起こすのは、当然のことである。

 仲間たちよ、われわれの祖先は、自由と平等を心から求め実行してきた者であった。きびしい支配政策の犠牲者であり、たくましく社会や文化を支えてきた者であった。心を引き裂かれるようなどんなにきびしい差別の中でも、人間としての誇りは失わなかった。そして、今、その犠牲者のわれわれが、差別を投げ返す時がきたのだ。われわれが、差別を受けてきた者であることを誇りうる時がきたのだ。

 われわれは、自分自身を低くみたり、おく病になったりして、これまでたくましく生きてきた祖先をはずかしめたり、人間の尊厳をおかしたりしてはならない。人の世がどんなに冷たいか、人間を大切にすることが本当はどんなことであるかをよく知っているからこそ、われわれは、心から人生の熱と光を求め、その実現をめざすものである。

 水平社はこのようにして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。

 大正十一(1922)年三月三日     全国水平社創立大会

 

「水平社運動」とは何だろう?

 

  1871年、明治新政府はいわゆる「解放令」をだして、江戸時代の「えた」身分や「ひにん」身分を廃止して一般の平民としました。しかし、それまで武士の支配に苦しんでいた百姓や町人の人たちの不満の「はけ口」として差別された「えた」身分や「ひにん」身分の人たちに対する差別や偏見がすぐに消えることはありませんでした。日本が欧米の資本主義の列強諸国の仲間入りをめざして産業や軍事力の向上をめざす中で、江戸時代の「えた」身分や「ひにん」身分とされた人々の地区は職業の選択や教育を受ける権利などを奪われ、経済的にも貧困の状態を余儀なくされたのです。それはすなわち「部落差別」として差別され続けていくことになったのです。

 政府は「部落差別」の解消にむけて、部落内の衛生面や生活面などの改善を指示したり(部落改善事業)、周囲の地区と自然にとけ込むような政策をとったりしました(融和政策)。しかし、このようなことで「部落差別」がなくなることはありませんでした。大正時代に入り、労働運動や農民(小作人)運動がおこり、自分自らが闘うという思想や風潮が生まれてくると、部落の人たちは、「このまま自然には差別はなくならない。自分たちが自ら立ち上がって真の部落解放をめざす」という考えを持つようになりました。奈良県にあった柏原の部落に住む西光万吉や阪本清一郎らの努力によって全国の同じ考えを持つ人たちが集まり、1922年京都の岡崎公会堂で「全国水平社創立大会」が開かれました。「水平社」とは「差別のない平等な社会をめざして闘う組織」という意味です。この大会で読み上げられた「水平社宣言」は日本で最初の人権宣言とされました。各地にできた水平社は部落差別をなくすあらゆる運動を展開していきましたが、この運動が「水平社運動」とよばれるものです。

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荊冠旗(西光万吉によってデザインされ、差別社会を表す黒地に解放への情熱を表す赤が使われた)

 


「部 落」 の 歴 史

1.古代の社会と差別(旧石器時代〜奈良時代)

  日本列島が大陸とつながっていた時代(旧石器時代)から、約1万年前、日本列島が形成され、土器が使われるようになった時代(縄文時代)には人々は「家族」あるいは「ムラ」を中心に自然の中で生活していました。祭りや占いなど呪術をあつかう特別な人はいましたが、基本的には「身分」はありませんでした。

 今から2300年ほど前、大陸から稲作と金属器(鉄と青銅器)が伝わった時代(弥生時代)は「戦争」と「身分社会」の時代でした。米や土地を多く持つ一部の者(支配者)とそれを持たない多くの人々がいて、「クニ」をつくり互いに争っていました。戦争に負けた人々は奴隷としてあつかわれたと考えられています。経済的(土地やものなど)な差や戦争などによる支配・被支配が「身分」を作っていったのです。中国の歴史書「魏志倭人伝」には「国王」をはじめ、「大人(たいじん)」「下戸(げこ)」「奴婢(ぬひ)」などの身分がいたことが記されています。「身分」とはその人の身体や能力に関係なく、生まれた家がらによって地位や職業(生業)が決まっている社会関係(序列)を言います。

  紀元3世紀中ごろになると、大和(今の奈良県)や河内(今の大阪府)を中心に強大な統一国家(ヤマト王権)が誕生します。これが古墳時代です。ヤマト王権は各地の王たちの連合政権で、その頂点にたっていたのが「大王(おおきみ)」でした。大王や各地の王は「古墳」と呼ばれる墓をつくり、権力の大きさを誇示しました。この時代は一層、支配のしくみが強まりましたが、一方で、朝鮮半島からすぐれた技術をもった「渡来人(とらいじん)」がやってきて、日本の技術や文化を高める役割をはたしました。

  7世紀に入ると国の名前は「倭」から「日本」に変わり、大王は「天皇」とよばれて天皇中心の国家づくりをはじめました。遣隋使や遣唐使たちによって中国から「律令制度」を取り入れられました。「律令」によってすべての土地と人々は天皇=国家のものとなり(公地公民)、人々は「良(りょう)」と「賤(せん)」に分けられました。「良」は藤原氏など一部の貴族と大多数の農民(公民)で、一定の土地(班田)が与えられました。「賤」は人口の約7%を占め、社会の中で低くみられた身分で差別されていました。「賤」には5種類(五色の賤)あり、陵戸(りょうこ;天皇などの墓の管理)官戸(かんこ;国の宮内省に隷属)家人(けにん;貴族などに隷属)公奴婢(くぬひ;国の役所の雑用)、私奴婢(しぬひ;個人の雑用) で、特に公奴婢と私奴婢は最も低くあつかわれていました。「賤」とされた人々はそれぞれに所属する人たちの所有物として扱われました。 強大な身分を象徴する巨大な古墳

 

2.中世の社会と差別 (平安時代〜室町時代)

  平安時代の延喜年間(901922)に奴婢(ぬひ)の制度は停止され、制度の上では「奴隷身分」は無くなりました。この時代には律令制度がくずれ、新たに私有地である荘園制度が発達してきました。また武士が登場して力を持ってくると藤原氏などの貴族と共に多くの荘園を持つようになりました。農民などの人々は次第に有力な貴族や武士の荘園の中でかかえられて生活するようになりました。

12世紀末、源頼朝が鎌倉で幕府を開くと、将軍(執権)を中心とした武士の全国支配が進みました。武士など有力な領主に所属する人々の中には「下人(げにん)」「所従(しょじゅう)」とよばれ、売り買いされる奴隷あつかいされた人々もいました。また、このころ「人間は生まれによって尊い者と卑しい者に分かれる」という考え方が広まり、貴族、寺院、神社などに従属する人々の中にはきびしい差別を受けていた「非人(ひにん)」とよばれる人たちがいました

14世紀、室町時代に入ると、将軍の力はおとろえ、各地の守護大名や戦国大名が力をもつようになりました。またそれに伴い、一般の民衆の力も強まり、「土一揆」とよばれる民衆が団結して色々なことを要求していきました。加賀(今の石川県)では一向宗の門徒たちが守護大名を追い出し100年間も支配しました。

「非人」とよばれていた人たちは住む場所や仕事の内容によって「河原者(かわらもの)」「散所人(さんじょにん)」「坂(さか)の者」「宿(しゅく)の者」「声聞師(しょうもんじ)」に分かれていました。彼らは天皇や貴族、寺院や神社に属していて、町の清掃や葬儀、犯罪人の取り締まり、皮や履き物の製造、庭づくり、猿楽などの芸能の仕事に従事していました。当時一般の人々は荘園や「惣(そう)」などの共同体で中で生活し、農業や漁業など何か具体的なものを「生産」する人々が通常とされ、目に見えない経済活動(商業活動など)や芸能活動は一般的に低く見られていました。従って共同体に属さず、それらに携わる人々が差別されていたのです。また、当時の人々は「死」や「血」、「お産」などに対して異常に畏れをいだき、それに触れたり、見たり、それを経験すると「ケガレ」たと感じました。その「ケガレ」を「キヨメ」てくれる人々が必要でした。その人たちが「非人」の人々だったのです。

「河原者」は京都の賀茂川など文字通り、河原に住んでいましたが、特定の身分の人の支配下にはありませんでした。死んだ牛馬の処理をはじめ、皮細工、刑の執行、染色、井戸掘りなどの仕事に従事していました。また河原者の中には善阿弥(ぜんあみ)など、龍安寺や銀閣寺の石庭など庭造りをしていたり、三重県名張出身の観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)などのように猿楽を「能楽」という芸術として高めた者もいました。

  中世のこういった人々は、政治的あるいは制度的に固定された「身分」ではありませんでしたが、人々の「ケガレ」意識に基づいて、周囲より「排除」されていく中で差別されていったと考えられています。

 

コラム1「銀閣寺と又四郎

室町時代、庭造りの名人といわれた「善阿弥(ぜんあみ)」という人がいました。善阿弥は京都の多くの寺院の庭園をてがけ、当時から高い評価を得ていました。有名な京都銀閣寺の庭園も善阿弥と子の「小四郎」、孫の「又四郎」の3代によって完成されたのです。しかし彼らは差別された「河原者」の人たちだったのです。ある時、又四郎は親しかった相国寺の周麟(しゅうりん)というお坊さんに次のことをつぶやいたということが「鹿苑日記」という書物にでてきます。

私は人々から差別される立場にあることを心から悲しいと思う。ゆえに、誓って生き物を殺さないようにしているし、決して物に対して欲を出さないようにしている」 

これを聞いた周麟は「又四郎こそ人間である」と言ったと言われています。

 

コラム2「観阿弥と能楽」

 現在、日本が世界に誇る芸術である「能楽」は三重県出身の観阿弥(かんあみ)によって完成されました。観阿弥は鎌倉幕府が滅んだ1333年、伊賀上野に生まれ、小さい頃より奈良の猿楽師の家に預けられて、猿楽(さるがく)や田楽(でんがく)、曲舞(くせまい)の勉強をしました。猿楽は太鼓や笛の演奏に合わせて、こっけいな物まねを演じる芸能で、田植えの時に演じられる田楽と共に当時の庶民の娯楽でした。

 観阿弥は名張の小波田に猿楽の座を建て、猿楽を演じて生活をしていました。その後、奈良の結崎(ゆうざき)に移った観阿弥は、猿楽にせりふを言って舞う曲舞をミックスして「能」を完成させます。これは「大和音曲」とよばれ、興福寺や春日大社の祭礼で演じて好評をえました。これが当時の3代将軍・足利義満の目にとまり、子の世阿弥(ぜあみ)と共に義満のお気に入りとして保護されるようになりました。しかし、将軍のお気に入りといっても、当時、こういった猿楽や田楽などの芸能に携わっていた人々が差別されていたことには変わりありませんでした。

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銀閣寺         能 楽

 

3.近世の社会と差別1(安土桃山時代)

 戦国時代は下剋上(げこくじょう)の世の中でした。下剋上とは実力主義により、下の身分のものが、上の身分のものにかわることをいいます。この時代は各地で一向一揆などがおこり、民衆の抵抗によって戦国大名を苦しめました。しかし天皇は力は無くても権威(けんい)だけはあり、各戦国大名も天皇の権威を利用していました。

  織田信長によって統一が進み、それを受け継いだ豊臣秀吉によって天下が統一され、戦国時代は終わりました。時代は中世から近世へと変わっていきました。秀吉は支配を維持するために身分制度を確立する必要がありました。それは太閤検地、刀狩令、身分令などを実施する中で兵農分離を進めましたが、土一揆や一向一揆をなくすねらいもありました。これによって武士と農民の身分が確定し、身分と職業、住居などが決まっていきました。

 秀吉が命じた太閤検地とは土地を調査したもので、土地の面積や収穫量、良し悪し、耕作者などの記録が書いてあるのが検地帳です。その中に耕作者の横に「かわた」と書いてある検地帳が各地で見つかっています。「かわた」とは皮革業者をさすものと考えられますが、後の江戸時代にこの「かわた」の人々が「えた」身分になっている例から、すでに秀吉の時代から「かわた(かわや)」と呼ばれていた特別な身分が存在していたであろうとされています。「かわた」とよばれた人たちは、皮革の仕事の他、牢屋の番や掃除、刑場の仕事が役負担として強制されていました。

 

4.近世の社会と差別2 (江戸時代)

  1603年、徳川家康は江戸幕府を開きました。以後約260年間、徳川家幕府を中心に、各大名が支配する藩による幕藩体制が続くことになります。幕府や諸藩などの支配者である「武士」身分は、支配を維持するために秀吉以上の巧妙な身分政策をとりました。江戸時代には「天皇、公家」身分、「武士」身分をはじめ、「百姓」身分、「町人」身分、「えた」身分、「ひにん」身分など様々な身分がありました。それぞれの身分には住む場所と固有の職業(生業)、役負担(税など)が決められていました。「百姓」身分は村(農村、漁村、山村など)に住み、農業や漁業、林業などを職業とし、税金である年貢を納める義務がありました。「町人」身分は町(城下町、港町など)に住み、商業や工業を職業として、税金として地子銭や運上金などを納める義務がありました。武士たちの収入の大半は全人口の84%も占めた百姓身分からの年貢であり、その額も大きなものでした。従って百姓身分の反抗や不満をそらす必要がありました。「五人組制度」や「寺請制度」などによって民衆を統制しようとしましたが、その最も有効な手段として役割を果たしたのが「えた」身分や「ひにん」身分などの人たちでした。

 「えた」身分や「ひにん」身分の人たちは、「身分外」の身分、「排除された」身分とされ、他の身分の人々から「差別」によって遠ざけられ、時には人間としての扱いを拒否されていました。「えた」身分の人々は「百姓」村に隣接した「えた」村に住み、固有の職業として死んだ牛馬の処理や皮革の仕事があり、役負担()として刑場や警察、掃除の仕事がありました。「ひにん」身分の人々は町の「ひにん」小屋に住み、季節の行事や慶弔、色々な芸によって祝儀(お金)を受け、役負担として村や水の番人、刑場や警察の仕事がありました。しかしこれらの仕事や役負担は地方によって様々で一定していたわけではなく、「えた」身分の人々の多くは農業を営んでいました。また「えた」身分や「ひにん」身分の他に、「ささら」「茶せん」「夙(しゅく)」「鉢たたき」「猿楽」など門付芸や細工仕事に携わった様々な「雑種賤民」とよばれた人々がいたことも明らかになっています。

  これら「えた」身分や「ひにん」身分はどういった人たちが組み入れらていったのでしょうか。中世からの「ひにん」とされた「河原者」の流れをくむ人々や皮革、染め物など特定の職業を営む人々、また田畑や河川・堰などの水利関係の番人の人々など様々です。幕府や藩の支配者は多くの人々が持っていた「けがれ」意識や「賤視(人々を卑しく、軽蔑する考え方)」、「優越感」などをうまく利用して差別していったのです。

  これらの「えた」身分や「ひにん」身分は江戸時代がはじまってすぐにできたのではなく、幕府や藩によって序々に整えられていって18世紀以後に成立していったものと考えられています。差別は「法令」という形で実施されていきますが、その内容や被差別身分のありかたなどは一定ではなく、幕府や諸藩によって様々でした。次は各藩が被差別身分に対して出した差別法令の一例です。

【長州藩】 正徳3(1713)

「えた」などが悪事を働かぬように監視すること。居宅や衣類など男女共おごりがましいことをさせぬこと。他国の「えた」や遊芸人が村へ来たら必ず代官所に届けでること。

【岡山藩】 享保7(1722)

「えた」が西国巡礼を願いでたら「他所にて平民にまぎれる」として不許可にした。

【広島藩】 享保11(1726)

革田(かわた)の風俗が奢侈となり、身分不相応な衣類を着ることを禁止する。

【津藩】 寛保2(1742)

「ひにん」や盗人がうろついていたら村で勝手に絞殺したり、入墨をして追放したりすることを許可する。

【大洲藩】 寛政10(1798)

「えた」身分の7歳以上の男女に五寸四方の毛皮をつけさせ、居宅の入口にも毛皮をつるさせた。

 

コラム3「伊勢まいりと差別された人々」

 江戸時代の中頃から、人々は伊勢神宮にお参り(「お陰参り」という)することが流行しました。自由に旅行ができなかった時代の中で、一生に一回の旅行の人も多く、人々にとってはたいへんな楽しみでした。伊勢神宮かいわいは全国から人々が集まり、大変なにぎわいでした。

 1812年、京都のある「えた」身分の人たち21人が身分を隠して、伊勢参りにでかけました。伊勢二見の旅館に泊まったのですが、そのことが後にわかってしまったのです。山田奉行所から二見の旅館の主人・六郎右衛門がよばれ、21日間の営業停止と共に次のことが言い渡されました。

 「同じ旅館に泊まり、おなじ竈(かまど)の火を使って食事した者に21日間の謹慎、その者たちと同じ火を使って食事したものは7日間の謹慎、さらにその竈を取り壊し、使用した食器はすべて土の中に埋めよ」

「えた」身分や「ひにん」身分の人たちは一般的に貧しいイメージがありますが、本当に生活は苦しかったのでしょうか。次の表は今の三重県A市にあたるB郡のある百姓村とそれに付属した「えた」身分の人たちの土地所有(石高)を比較したものです。

 B郡のある百姓村と「えた」身分の土地所有(石高)比較 (総石高1122石)

0〜4石

5〜9石

1014

1519

2024

2529

30石以上

百 姓

20人

16人

11人

17人

13人

  1人

1人

79

「えた」

2人

5人

2人

9

※平均石高・・・・百姓身分→1225石/人 、「えた」身分→1718石/人

 これをみると、平均の石高は百姓身分の人たちの一人あたり約12石に対して、「えた」身分の人たちは一人あたり約17石も収入があったことがわかります。また百姓の人たちは30石以上の裕福な人(おそらく庄屋)と4石以下の貧しい人まで幅が広いのに対して、「えた」身分の人々は20石前後でほぼ同じで、貧富の差がないこともわかります。

 「えた」身分の人たちは普段は一般の百姓と同じく、自分の土地を耕して生活をしていたのですが、固有の職業として死んだ牛馬や皮革の処理があり、それを役負担として役所(武士)に納めたり、刑場や警察、掃除の仕事をすることによって収入もありました。すなわち、「えた」身分の人たちなどは、差別はされていましたが、生活は決して貧しい生活であえいでいたわけではないことがわかります。

コラム4「えた」身分と解体新書

 前野良沢と杉田玄白が書いた「解体新書」は当時の医学書としては画期的なものでした。これはオランダの医学書「ターヘルアナトミア」を翻訳(ほんやく)したものですが、医学の基本である「解剖(かいぼう)」は行われていませんでした。前野良沢らは初めて人間の解剖を見ることになります。翻訳の苦労をつづった杉田玄白の「蘭学事始」には次のような記述があります。

「おのおの連れだって骨ケ原(死刑場)に設けられた見物場にやってきた。解剖は「えた」の虎松(とらまつ)という者がことのほかうまく、前もって約束しておいた。しかし急に病気になったので、虎松の祖父で年齢が90歳の者が代わりにやってきた。彼も若い頃より解剖は度々やっており、今まで数人を手掛けてきたと話している。」

 このように医者でさえ行ったことのない解剖をいとも簡単に「えた」身分の人々がやってのけたのです。しかも内臓の名前もすらすらと言えました。

 

5.「解放令」と近代部落の成立(明治時代)

  1868年、江戸幕府は倒され明治新政府による新しい政治がはじまりました。新政府は日本が欧米の国々に負けない近代国家をつくろうと、富国強兵(ふこくきょうへい)、殖産興業(しょくさんこうぎょう)の政策をかかげ、天皇中心の中央集権国家をめざしていきました。明治政府は江戸時代の身分制度を再編して、天皇・皇族を頂点に華族(公家や大名など)、士族(武士)、平民(百姓や町人)などの新しい身分をつくりました。そして1871年8月28日、新政府は太政官(だじょうかん)布告という形で次の命令をだしました。

えた、ひにん等の称が廃止されたので、これ以後は身分、職業ともに平民と同様にすべきこと

 これは一般的に「解放令(かいほうれい)」あるいは「賤称廃止令(せんしょうはいしれい)」とよばれているものです。これによって江戸時代に定められた「えた」身分や「ひにん」身分はなくなり、平民と同じ扱いをうけることになりました。もとの「えた」身分や「ひにん」身分の人たちの喜びはひとしおだったと思われます。しかし周囲の、特にもと百姓身分の人たちにとってはこれまでの考えが消えるはずもなく、自分たちの不満のはけ口がなくなることに不安を覚えました。そこで西日本を中心にもと百姓の人たちを中心に「解放令反対一揆」が各地でおこりました。明治時代以降、「えた」身分や「ひにん」身分がなくなっても、差別は続きました。これが部落差別のはじまりであり、この部落問題は社会問題となりました。

 こういった被差別部落(たんに「部落」ともいわれる)は江戸時代の「えた」部落や「ひにん」部落を中心としていますが、明治時代以降新たに、と殺場や斎場、炭坑、建設現場などが新しい「部落」として差別されたところもみられます。明治政府は「えた」身分や「ひにん」身分をなくしましたが、それまでの差別をなくす努力も経済的な援助もしなかったのです。明治の最初につくられた戸籍(壬申戸籍)には「えた」身分や「ひにん」身分の人たちは「新平民」と記載され、一目で元の身分がわかるようになっていました。

 一方「解放令」によって、それまで死んだ牛馬の処理や皮革の仕事が特権として保 「解放令」障されていたものがなくなり、だれでもできるようになり、仕事が奪われていきました。また富国強兵、殖産興業という新政府の政策の中で、農村では土地を手放して小作になる部落の人々も増え、生活は江戸時代よりももっと苦しくなっていきました。部落の人々は日雇いにでたり、内職で生活をつないでいきました。マッチ工場などの危険な仕事、と場などの人々から敬遠された仕事につく人も多くいました。

 そのような中で、部落差別の問題が社会問題として取り上げられることも多くなりました。しかしそれは部落の生活環境を変えれば差別はなくなるという考えで、各地で警察などが中心となって部落内の衛生面や、衣服、言葉使い、生活習慣の改善を進めていきました(部落改善運動)。その後、社会主義運動が激しくなると、国は部落解放運動が社会主義運動と結びつくことをおそれ、予算をつけて「融和政策」を押し進めることにしました。「融和政策」とは、部落の外から積極的に働きかけて仲良くして差別をなくそうとするもので、部落の子だけが通う学校をなくして部落外の子の通う学校といっしょにしたり(混合教育)、青年会や婦人会などに部落の人の参加を呼びかけることがなされました。しかし学校ではこのことによってかえって学校内で教師や部落外の一般の子どもによる部落差別の発言が増える結果となりました。

コラム5「五万日の日延べ」

 1871年、いわゆる「解放令」がだされました。奈良県岩崎村の「えた」身分で庄屋であった阪本清五郎の所に「明日10時に役所に出頭せよ」との命令がきました。清五郎は「朝の呼び出しは縁起がよい、きっと何かいいことがある」と、翌朝、羽織を着て、喜んで役所のあった高取城に向かいました。普段は通れない大手門から通され、奥の屋敷の土間に行きました。そこにはすでに他の百姓村や「えた」身分の庄屋が多数いました。そして役人がやってきて「解放令」を読み上げ、「これからは皆、平民となったので仲良くするように」と言い渡し、酒を飲んで返されました。清五郎は嬉しさで夢のような気持ちで、走って村に帰り、人々を集めて「解放令」のことを知らせました。男も女も歓声をあげ泣きながら喜び合いました。

 しかし3日後、清五郎はこの付近を支配する百姓村の大庄屋から呼び出しをうけ、「この前の『解放令』のことだが、お上の都合で5万日の日延べ(延期)になった」と言われたのです。しかしこれは大庄屋のウソでした。

 

6.水平社の成立(大正時代)

 大正時代に入り、人々は憲法に基づいた政治(護憲運動)や普通選挙法、婦人参政権、軍備縮小など民主的な要求していきました。これは大正デモクラシーとよばれるもので、一般民衆が政治や社会改革に関心を持っている結果でした。そして同時にヨーロッパから社会主義思想が入り、労働運動や農民運動が激しくなっていった時期でもありました。こういった自主的な運動が起こる中、部落の人々も生活の改善、差別からの解放を求めて各地で独自の行動を起こしていきました。特に1918年の米騒動は彼らをふるいたたせました。東京では平野小剣らが部落解放をよびかけてビラをまいていました。福岡県では松本治一郎らが「筑前叫革団」を結成して部落解放運動を始動しました。三重県では上田音市らが「徹真同志会」を結成して差別糾弾闘争や小作争議に参加していました。

 そのような中、奈良県柏原(かしはら)では1920年5月、西光万吉、阪本清一郎らが「燕(つばめ)会」を結成していました。「燕会」では部落内の生活改善や貸し付けなどの活動を通して部落の民主化運動に取り組もうとする団体でした。そのような中、メンバーは「部落差別をなくすには部落自身が立ちあがらなくてはならない」と主張した佐野学の「特殊部落解放論」という論文に大きな影響を受けました。そこで西光や阪本らは、自主的な解放運動を全国的に組織するため「水平社」を組織することにしました。絶対的な平等をあらわす「水平」は阪本清一郎が名付けたといわれています。1921年10月に柏原の駒井喜作の家に「水平社創立事務所」を設立して創立の準備をはじめました。彼らは自主的な解放運動と団結を訴えた水平社創立の趣意書のパンフレット「よき日のために」を作成して全国に配布して、水平社創立を強く訴えていきました。「よき日のために」の最初は「全国内の差別されているものよ。寄ってこい。起きてみろ。夜明けだ。」で始まっており、ロシアの作家・ゴーリキの「どん底」から引用された「人間はいたわるものではなく、尊敬すべきものだ」という言葉もあり、彼らの思想をよくあらわしています。

 1922年にはいり、大阪で融和団体の大日本平等会結成の動きがあり、2月21日、大阪の中之島公会堂でその発会式が開かれました。しかし上からのおきかせの融和運動ではだめだと考えていた彼らは、ここに押し掛けました。そして全国水平社創立大会の参加を呼びかけるチラシが米田富と石田正治によってまかれ、西光万吉が登壇して自主的な解放を訴えました。「3月3日、全国水平社創立大会へ!

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 水平社を創った人たち

(前列左より平野小剣、南梅吉、阪本清一郎、後列左より米田富、駒井喜作、西光万吉)

コラム6 上田音市さんの見た「大日本平等会

 私(上田音市)が大日本平等会の発会式があるのを知ったのは、役場に貼られてあった通知でした。自弁でしたが、同じ車夫仲間の北村庄太郎さんら5名で大阪に行きました。会場では大阪府の知事や大阪市長などが次々とあいさつをしました。内容はど れも愛国と皇室への忠勇に基づく融和を説くものでした。差別の現実に直視しないこの内容は部落の人々にとっては大変不満足なものでした。

 しかし、会も終わりにさしかかった頃、二階から突然、五色のビラが花吹雪のようにまかれたのです。会場は騒然としました。私もビラを拾ってそれを見ると「京都全国水平社創立大会へ! 同情的差別撤廃を排し、部落民の自発的運動を起こして・・」と書かれてありました。今日の大会に不満を持っていた私は、すっきりともやが晴れた思いでした。このビラがまかれた後は全くの骨抜きの会となりました。

 会が終わっても私たちは会場に残りましたが、その後は奈良の西光万吉さんの演説が始まり、部落みずからの解放を訴えるなど同情的差別撤廃に反対する演説会が行われたのです。残っていた多くの者が歓声をあげました。その夜、私は天王寺駅近くの宿で西光万吉さん、泉野利喜蔵さん、駒井喜作さんなどと水平社について話し合い、3月3日の創立大会で再び会おうと約束して、翌日、松阪に帰りました。

 

7.水平社創立大会

 1922年3月3日、京都市岡崎公会堂で自らの力で差別をなくそうとする歴史的な「全国水平社創立大会」の日がやってきました。この大会には全国から約700人(約2000人、3000人とする説もある)の部落出身者を中心に集まりました。その中には当時としては少なかった女性の参加も多くありました。会場の中は紅白の幕がはられ、壇上には「解放・団結・自由」「三百万人の絶対解放」「特殊部落民よ団結せよ」などの垂れ幕がかかげられていました。全国から集まった人々は「同じ差別に苦しんでいる兄弟がこんなにも大勢いるんだ!」との喜びと通い合う共感で満ちあふれていました。午後1時、南梅吉によって開会が告げられると、おびただしい拍手がおこりました。そして次のような内容で創立大会は進められました。

1.開会の辞    南 梅吉(みなみうめきち)

2.経過報告    阪本清一郎(さかもとせいいちろう)

3.綱領の朗読   桜田規矩三(さくらだきくぞう)

4.宣言の発表   駒井喜作(こまいきさく)

5.決議文の朗読  米田 富(よねだとみ)

6.祝辞祝電披露  泉野利喜蔵(いずみのりきぞう)

7.各地代表演説 西光万吉(奈良県代表)、泉野利喜蔵(大阪府代表)平野小剣(東京都代表)、江成久策(四国代表)、近藤 光(埼玉県代表)、佐野延雄(京都府代表)、谷鐵之助(広島県代表)、北村庄太郎(三重県代表)、岡部よし子、山田 栄(女性代表)、山田孝野次郎(児童代表)

 特に駒井喜作によって「水平社宣言」の朗読が始まると、会場の人々ははじめは声なく顔をふせ聞き入っていましたが、やがてあちこちですすり泣きが聞こえました。言いしれぬ感動とこれまでの自分がうけた差別を思い出したのです。そして「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」と宣言が読み終わっても、すすり泣きが続いていました。駒井喜作も演壇を去るのを忘れ、しばらく呆然としていました。しかしやがて会場はわれんばかりの拍手と歓声に変わっていきました。日本で最初の人権宣言の発表の瞬間でした。その後、各地の代表が演説しましたが、最後に西光や阪本と同じ奈良県柏原出身で14歳(16歳ともいわれている)の山田孝野次郎(やまだこのじろう)少年が登場しました。山田少年は学校で教師や生徒から受けた差別をせつせつと訴えました。話しているうちに胸がいっぱいになって涙があふれ、中断してしまい、会場の中からもすすり泣きが聞こえました。しかし山田少年はきっと顔をあげて「今、私たちは泣いている時ではありません。大人も子どももいっせいに立って、悲しみの原因をうち破ろうではありませんか、光り輝く新しい世の中にしていきましょう!」と結ぶと会場はわれんばかりの拍手と歓声で埋め尽くされたそうです。

 この歴史的な水平社創立大会は午後5時すぎに終了しましたが、会場を出る人々は互いに肩を抱き合い、顔からは勇気と希望がうかがえました。この水平社創立のニュース(新聞記事)は日本では小さく扱われましたが、民主主義が進んでいたアメリカ、ソ連(ロシア)、イギリス、フランスでは「日本で初めての本当の民衆による解放運動がおこった」とトップニュースで伝えられました。

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当時の京都岡崎公会堂       水平社創立大会を伝える新聞記事

綱  領

一、特殊部落民は部落民自身の行動によって絶対の解放を期す

一、吾々特殊部落民は絶対に経済の自由と職業の自由を社会に要求し、以て獲得を期す

一、吾等は人間性の原理覚醒し、人類最高の完成に向かって突進す

    

決  議

一、われわれに対し「えた」及び「特殊部落民」等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は、徹底的糾弾をなす

一、全国水平社京都本部においてわれら団結の統一を画するため、月刊雑誌「水平」を発行す

一、部落民の絶対多数を門徒とする東西両本願寺がこの際、われわれの運動に対して包蔵する赤裸々なる意見を聴取し、その回答により機宣の行動をとること。

右決議す

 大正十一年三月        全国水平社大会

     

 

 その後、各地に都府県単位の水平社が組織され、全国水平社はそのまとめ役として活動しました。本部は京都に置かれ、初代執行委員長には南梅吉が選ばれました。

1922年

京都府水平社、埼玉県水平社、三重県水平社、東京水平社、奈良県水平社、大阪府水平社、愛知県水平社、兵庫県水平社、

1923年

高知県水平社、関東水平社、群馬県水平社、静岡県水平社、愛媛県水平社 全九州水平社、山口県水平社、岡山県水平社、和歌山県水平社、佐賀県水平社、福岡県水平社、熊本県水平社、広島県水平社、栃木県水平社

1924年

大分県水平社、東海水平社、茨城県水平社、長野県水平社、岐阜県水平社、香川県水平社、全四国水平社、千葉県水平社、

1925年 山梨県水平社
1928年 長崎県水平社

 

コラム7「西光万吉と水平社宣言」

 日本最初の人権宣言といわれる「水平社宣言」が西光万吉によって書き上げられたことはよく知られています。当時の社会状況を反映して社会主義思想(特に佐野学の論文を引用)を取り入れていますが、また自分自身が西光寺で生まれたということから仏教の思想も多く取り入れられています。特に最後の「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」は西光の差別に対する願いそのものだったのでしょう。

 西光が宣言の原稿を考えていたある時、京都・教専寺の坂口真道に宣言の内容の検討を依頼しました。元の原稿が長かったことから坂口は次々と草稿を削除していきました。その時、西光は「あかん、これは消したらあかん!」と言い、「『特殊部落民』という言葉は消してはあかんのや!」と坂口に詰め寄りました。坂口は「この言葉を使ったら自分から認めることになるやないですか、『特殊部落民』という民族が日本にいるみたいやないですか!」と反論しました。そうしたら西光は「坂口さん、この『特殊部落民』いう言葉を消したら、この水平社運動の本当の意味がなくなる。われわれの長年の差別が、長い間、何百年も苦しめられてきたことが、少しも意志が表に出ないじゃないですか!」とこれだけは頑として受け入れなかったそうです。

 

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 創立大会で配布された綱領、宣言、決議

8.水平社の闘いとその後

 水平社の人々は創立大会で決議された「糾弾闘争(きゅうだんとうそう)」を実行していきました。「糾弾闘争」とは差別的な発言や行動したりして部落の人たちを侮辱した人たちに対して、そのあやまちを指摘して、その人に謝罪を要求することです。水平社の人たちは団結して、差別をしたことをあいまいにせず、差別した人に反省してもらい、最後まで徹底して差別をなくす運動を展開していきました。糾弾闘争は1922年で69件、23年で854件、24年には1052件にものぼりました。

 水平社本部は創立されて以後、内部の思想的な対立で分裂を繰り返したり、その過激的な行動と社会主義思想によって警察などの弾圧を受けることになりました。しかし差別糾弾闘争を一貫して続けることにより差別に対する抗議と部落解放の願いは持ち続けました。また朝鮮では水平社の組織に刺激されて被差別民「白丁(ペクチョン)」の人々が差別をなくそうと「衡平社(こうへいしゃ)」を組織していましたが、水平社はその「衡平社」とも交流、連帯していきました。水平社は次のような差別糾弾闘争に取り組みました。

 

【福岡連隊差別糾弾闘争】

 1926年、福岡県にあった陸軍の福岡連隊に入隊した部落出身の井元さんは上等兵から差別的な言葉を言われました。連絡を受けた水平社は軍当局に謝罪と融和講演会の開催を要求して水平社をあげて運動・抗議しました。しかし軍は警察といっしょになって逆に、水平社委員長の松本治一郎さんらを検挙すると共に、「暴力行為等処罰に関する法律」を制定して、水平社の糾弾闘争を弾圧しようとしたのです。軍隊内の部落差別はこれだけでなく、度々起こっていました。そこで部落出身の兵士たちは「兵卒同盟」をつくり、軍隊の中の部落差別をなくそうと闘っていきました。

 

【厚生小学校差別糾弾闘争】

 1930年、岡山県の村立厚生小学校でトラホーム伝染病を予防するという理由で、部落出身の児童だけを隔離して並ばせるという事件がおきました。水平社は校長や村長に抗議しましたが、差別の事実さえ認めようとしませんでした。全児童330人中、部落出身の児童118人は一斉に同盟休校(学校に登校せずに抗議する)に入りました。水平社は約500人も結集した村民大会を開いて抗議をしました。これに対して村や県、警察はあらゆる手を使ってこの闘争をやめさせようとして、時には水平社の活動家を検挙しました。しかし糾弾闘争が全県規模、全国規模で展開されると、県当局も謝罪講演会を開き、同盟休校の児童の教育費の負担などを認めざるをえなくなったのです。

 

高松差別裁判糾弾闘争】

 1933年、香川県である部落出身の青年が19歳の女性と知り合い、結婚を前提に同せいをはじめました。しかし結婚に反対する女性の父親が捜索願を警察に出し、この青年は誘拐(ゆうかい)罪で逮捕されました。高松地方裁判所では検事が「特殊部落民」という言葉を使い、判決では「部落出身であることを黙っていた」ことを理由として有罪判決が言い渡されました。香川県水平社は本部に訴え、全国規模で差別糾弾闘争を展開することになりました。全国各地で反対抗議運動が行われる一方、福岡を出発して東京まで差別裁判の取り消し要求請願運動の大行進が行われました。これに対して国の内閣や裁判所は警察を使って弾圧をしました。しかし結局、無罪にはならなりませんでしたが被告の刑期は短縮され、裁判官は左遷されました。

  水平社は「高松差別裁判糾弾闘争」以後は、部落の人たち全体に根付いた闘いを行い、部落の生活を安定させるために予算を要求するなどに重点がおかれました。しかし日本は中国など大陸を侵略し、戦争へと突入していきますが、水平社を支えた人々も戦争に参加することを余儀なくされ、1942年1月、水平社は自然消滅しました。

 


水平社をつくった人々

 

西光万吉(さいこうまんきち、1895年〜1970年)

  奈良県柏原の西光寺の住職(清原道隆)の子として生まれる(本名;清原一隆) 小学校の時、自分自身が被差別部落にいることを知り、島崎藤村の「破戒」で被差別部落民に共感する。奈良県畝傍中学校(現:畝傍高校)と京都市平安中学校(現:平安高校)に進むが、自分が被差別部落出身だということがあばかれ退学せざるをえなかった。その後、美術学校で洋画の勉強を志し、東京に上京し、同郷の阪本清一郎と同居する。しかし病に倒れて奈良に帰郷するが、このころロシア革命や米騒動の影響で、社会主義思想にひかれる。1920年、阪本清一郎らと地元の柏原に「燕(つばめ)会」を結成、被差別部落民の団結の第一歩とした。佐野学の「特殊部落民解放論」を読んで感銘をうけて上京、阪本清一郎、駒井喜作らと共に「水平社創立事務所」を設立する。1922年3月3日、京都市岡崎公会堂で全国の被差別部落の人々が集まり、「全国水平社創立大会」を開く。「水平社宣言」は万吉が考えたものである。その後、各地の水平社を指導すかたわら、農民労働党を結成して労働運動に関わるが、治安維持法によって投獄される。出所後は転向し、天皇主権のもとでの解放運動に関わる。戦後は、戦争に反対して、科学的な技術を持つ国際的な和栄隊をつくって世界平和に貢献する「国際和栄政策」を提案して活動を続ける。

 

阪本清一郎(さかもとせいいちろう、1893〜1987年)

 万吉と同じ奈良県柏原(旧:岩崎村)で生まれる。家は膠(にかわ)業を営み、祖父は「五万日の日延べ」で有名な庄屋の清五郎である。2つ違いの万吉とは小さいときから親友である。小学校時代は自分や友人が差別を受けると相手に殴りかかっていくほどの気が強い、腕白ぶりであった。16歳で、いとこの坂本清俊らと「柏原青年共和団」を結成した。1 916年に上京して工科学校に入学し、西光と共同生活をはじめる。東京では学校の勉強よりも図書館で写真フィルムや歴史、文学について学んだ。しかし翌年、西光が病に倒れると二人は柏原に帰郷した。西光、駒井らと「燕会」を結成、水平社創立の中心的な役割を果たした。「水平社」の命名は彼だといわれている。水平社では常任中央委員として、全国の差別事件の糾弾闘争の指導にあたり、特に大衆的団結を訴え、水平社の分裂を回避することに努力した。戦後は部落解放全国委員会顧問、部落解放同盟中央委員として部落差別をなくすために生涯をささげた。

 

駒井喜作(こまいきさく、1897〜1945年)

 喜作は奈良県柏原の西光寺の門前の桐材商を営む家に生まれた。小学校卒業後、大阪の自彊学院に進み弁護士を志すが、差別のために中退し、艶歌師として各地を放浪した。故郷の柏原に戻った喜作は1920年、西光や阪本と共に「燕会」を結成する。1921年には喜作の家に「水平社創立事務所」がつくられるが、警察の監視をおそれて、看板だけ村はずれの小屋に移した。水平社の趣意書である「よき日のたに」の編集、発行人として活躍する一方、創立大会では「水平社宣言」を朗読した。喜作は事務の才能があり、水平社では常任中央委員としておもに財政を担当した。水国争議事件に関わって投獄されましたが、別の殺人事件で刑務所に服役し、出所後は奈良市内で喫茶店などを経営して生涯を終えた。

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左から西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作

米田 富(よねだとみ、1901〜1988年)

 奈良県五条市でうまれる(本名;米田富一郎)。大阪で開かれた大日本平等会創立大会では、会場で水平社創立大会を知らせ るビラをまいた。水平社創立のために努力し、創立大会では「決 議文」を朗読する。水平社では本部の中央執行委員として全国 をかけめぐり、特に水平社発行の機関誌「水平」の出版責任者 となった。また在日朝鮮人運動や「衡平社」との交流など国際 連帯に力をそそぐ一方、1933年におこった高松差別裁判糾 弾闘争では請願隊代表者団長として中心的な役割を果たした。

 

山田孝野次郎(やまだこのじろう、1906〜1931年)

 奈良県柏原に生まれる。小学校で教師や生徒から受けた差別体験は彼を「少年闘士」と変えた。小学校卒業式で受けた差別に対して一人で闘ったといわれている。山田少年は大人になっても小学生の身体しかなく、障害(「小人症」)者差別と部落差別という二重の苦しみを背負うことになるが、警察は彼のことを「身柄が小さいが、すでに彼は少年ではない。運動史上における怪物である」と表された。1922年の水平社創立大会での彼の堂々たる演説は会場の人たちの涙と感動を誘ったが、これにより彼の名は全国的に著名になり、各地の演説会にひっぱりだことなった。水平社委員長の松本治一郎の「懐刀」と言われた。

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左から米田富、山田孝野次郎

   

上田音市さんと三重県水平社

1.「解放令」以後の三重県

  1871年、明治新政府は「解放令」を出し、江戸時代の「えた」身分や「ひにん」身分の人たちは平民となりました。三重県内には当時、約220ほどの被差別部落がありました。安濃津県(津市周辺)では「平民」になるために家の中を掃除し、川で身を清め、神社に参拝させました。しかし「解放令」は部落の人々に勇気と希望を与えましたが、周囲からの差別はなくなりませんでした。「解放令」は一方で、それまでの死んだ牛馬の処理や皮革など固有の仕事の特権がなくなることも意味しましたが、政府や県はほとんど対策をとらなかったのです。三重県内の部落の多くは農村にあったため、生活が苦しくて土地を売り、小作人になったりする人も多くいました。そこで部落の人たちは日雇いをしたり、伊勢表とよばれる草履つくりの内職をしなければ生活ができなくなっていました。またと場や皮革の仕事をしていたために周囲から差別される部落も多かったのです。

  しかし部落の人たちは周囲からの差別や経済的な苦しみに耐える中で、差別解消に向けて自ら第一歩をふみ出しました。まず、差別の原因は部落の側にあり、部落内の生活習慣や風俗を改めることからはじめられ、これは「部落改善運動」と呼ばれました。松阪や伊賀、津、桑名などにそのための部落改善団体が作られましたが、それは警察を中心に、部落の一部の指導者などをまきこんだ「上」からの半強制的な性格をもっていました。

 

2.上田音市さんの思い

 1897年、上田音市さんは飯南郡(現;松阪市)の部落に生まれました。両親は朝5時から夜7時まで小作地の田畑で働き、夜は部落産業といわれた伊勢表(ぞうり)の内職をしていて、休む暇もなく働いていました。同じ小作人でも部落の人たちの小作料は他よりも10%も高かったのです。尋常小学校にあがった音市さんは、部落の子どもだけが通う分校に通いました。本校がほぼ100%に近かったのに対して、分校の就学率(出席率)80%ぐらいでした。高等小学校、補習学校を卒業すると、音市さんは大阪の友禅会社に就職しました。その後、松阪に戻った音市さんは、人力車の車夫となりました。

 時代は明治から大正時代に移ったころで、護憲運動や米騒動などの社会運動を目にした音市さんは、社会の矛盾に気づき、社会運動に関心を持つようになりました。上田音市さんたちは軍人による差別発言に対する抗議をきっかけに部落の青年を中心に「徹真同志会」という組織をつくりました。この団体は差別の糾弾と共に部落の改善もめざしていました。

 1922年2月、松阪市から部落の融和団体であった「大日本平等会」の創立大会に出席するように要請があり、音市さんら「徹真同志会」のメンバーは会場の大阪市中之島公会堂に出向きました。この会議は上からの指導で環境衛生などの部落改善事業を押し進め、同情によって部落差別を無くそうとする「同情融和」の集会でした。音市さんはこの考えに疑問を持っていました。その時、会場の2階からビラが降ってきました。そのビラには、次のことが書かれてありました。

「来る三月三日、京都全国水平社創立大会へ! 同情的差別を撤廃せよ!」

 会場は拍手と怒号で満ちあふれていました。音市さんはその時、E胸にこみ上げる何か熱いものを感じたということです。3月3日、音市さんとその仲間は待ちに待った水平社創立大会に参加するため京都市岡崎公会堂におもむきました。最初は「ほんとうに差別は無くなるのだろうか」と不安でいっぱいでしたが、水平社宣言が読み上げられると、その思いは確信へと変わっていきました。「三重県にも水平社を!」という強い思いを抱いたということです。

 

3.三重県水平社の成立

全国水平社創立大会から帰ってきた上田音市さんらは、松阪周辺だけでなく伊賀などにも呼びかけ徹真同志会が中心となって「三重県水平社」を組織する準備をすすめました。そして1922年4月2日、松阪町(現;松阪市)の中座において県内各地から約500名が参加して三重県水平社創立大会が開かれました。これは京都府、埼玉県に次いで全国で3番目に早いもので、中央本部から西光万吉、泉野利喜蔵などが応援にかけつけてくれました。翌23年には組織の人員が1217名となり、全国で最大の組織となりました。

三重県水平社創立の決議(1922年4月2日)

一、われわれに対し、エタや昔呼び方で侮辱された時は、徹底的に糾弾する。

一、われわれの各部落の統一をするために、全国水平社連盟の本部と同じ雑誌(水平)とパンフレットを発行する。

一、われわれは水平社をつくっていない所へは、水平社の設立をすすめるための巡回講演部をつくる。

 大正十一年四月二日       三重県飯南郡松阪町中座

 三重県の部落は小作人が多いこともあり、三重県水平社の人たちが中心となって小作人の団体である「日本農民組合三重県連合会」が1923年に結成され、小作料の引き下げなどを要求していきました。一方、水平社が社会主義思想と結びつくと、水平社が中心となって「労働農民党三重県支部連合会」が組織され、労働者とも連帯することになりました。こういた「被差別部落」「農民(小作人)」「労働者」の三者が一体となって社会運動(「三角同盟」とよばれた)を進めていった団体は珍しいものでした。

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上田音市さん  三重県水平社大会(第2回)

【津刑務所差別事件】

  1927年、津刑務所に服役していた松阪の部落出身の青年が、看守から「えた」という差別発言を受けました。それに対して抗議に行った三重県水平社の人たちに対して、謝罪するどころか今度は所長が「『えた』を『えた』といって何が悪い、抵抗するやつは皆、監獄へぶちこんでやる」とまた差別発言を行ったのです。これに対して水平社の人々は大規模な闘いをしていきました。松阪では数百人参加して三重県部落民大会が開かれました。差別は絶対に許さないという方針で、徹底的に闘い、東京の司法省にまで訴えました。ついに所長などから謝罪の言葉を勝ち取ることに成功しました。


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