1.軍施設の概要と鈴鹿市の誕生

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1.軍施設の概要

  日中戦争の激化に伴い戦時体制が強化されると全国各地に軍事基地及び軍需工場が加速度的に建設されていった。特に1937年と39年の「海軍軍備充実計画」による航空兵力の増強計画は直接的に県下の軍施設と航空機関連産業の建設に拍車をかけることとなった。三重県下では四日市、鈴鹿、津、宇治山田(伊勢市)に陸海軍関係の軍事基地及び軍需工場が数多く建設された。1941年4月には四日市市塩浜に第二海軍燃料廠が開業、精油生産国内最大規模を誇り、一志郡香良洲町の三重海軍航空隊(1942年8月開隊)と共に三重県の軍関係施設の中核となった。

  鈴鹿市の軍事基地の進出は1938年、白子町の鈴鹿海軍航空隊が最初で、41年頃から本格化する。海軍の諸施設が主に河芸郡内に所在していたのに対して、陸軍の諸施設は主に西部の鈴鹿郡内に多くあった。鈴鹿市の軍事施設の特徴は陸海軍とも航空関連施設がその中心となっていることである。

  鈴鹿市の軍事施設は大きく3つのグループに大別することができる。第1のグループは市の中央部、鈴鹿海軍工廠を中心とするものである。鈴鹿海軍工廠は平田町、算所町、岡田町、道伯町、住吉町、庄野町、平野町、国府町の8町にまたがる面積360万u、周辺諸施設を含めると439万uの広大な敷地を占める鈴鹿市の軍事施設の中核的存在であった。第2のグループは市の東部の白子町(現在の旭が丘町)から玉垣町にかけての2つの鈴鹿海軍航空基地及び三菱重工航空機製作所の航空機関連施設の一群である。総面積は約380万uを占める。第3のグループは市の北西部の陸軍の諸施設である。石薬師町には陸軍第一気象連隊(第131部隊、のちに第555部隊に改名)が置かれた。高塚町には陸軍の幹部航空兵候補生の教育施設である陸軍第一航空軍教育隊(第132部隊、のちに第581部隊に改名)があった。また、広瀬町から川崎村(現;亀山市能褒野町)にかけては広大な北伊勢陸軍飛行場とその付属部隊、付属学校があった。鈴鹿市全体の陸海軍関係施設総面積約986万uは鈴鹿市(当時)の面積の8.7%を占めていた。

  三重県下では鈴鹿市は四日市市に次いで軍事関係施設が多く、この地に施設が多く進出した理由には次のようなことが考えられる。

  [地形的要因]市の西部から南部にかけては低・中位段丘の丘陵地帯が続き、起伏の少ない地形で、土地利用も畑地や林野が中心で民家も少なく、施設の建設に支障が少なかったこと。

  [気象的要因]全般的に温暖で、冬の積雪もほとんど無く、季節風も北西に一定していたため、特に飛行場には適していたこと。

  [交通的要因]名古屋や四日市に比較的近く、国道1号(現;旧23号)線、国道2号(現;国道1号)線や国鉄関西線、関西急行電鉄(近鉄)が通り、交通の要衝の地であり、人的、物資の輸送に適していたこと。

  [人文的要因]市の東部は田園地帯で、伊勢湾の水産物と共に食糧の確保が容易であったことに加え、田園地帯ではあったが、人口密度は高く、労働力確保が比較的容易であったこと。

  [戦略的要因]名古屋は三菱重工名古屋航空機製作所をはじめ、愛知時計電機、大隈鉄工所など日本最大の航空機産業基地であり、その航空機製造分散拡張計画にこの地域が組入れられたこと。

 

    軍事施設の建設計画は秘密裡に進められたため、地元におろされた時にはすでに決定したことを実行する段階に入っていた。土地買収や家屋移転は問答無用の半ば強制的に行われ、建設には地元住民の村単位での労働提供(勤労奉仕)の他、受刑者労働や朝鮮人労働者も徴用されたようである。

  工場の労働者は最初は大阪、京都、名古屋など都市出身の人々を主力として、残りを地元の労働者で充てがう計画であったが、計画通りには徴用が進まず、しかも戦争が激化して、青年男子のほとんどが徴兵されると、1943年6月からは中学生及び国民学校高等科を対象とした学徒動員が決定された。同年7月頃から食糧増産にかかる農業作業に加え、軍需工場などの生産工場への動員が開始された。期間も最初は「1年につきおおむね3分の1程度」であったのが、1944年3月からは中学生は1年を通じての動員が可能となった。神戸中学校(現;県立神戸高等学校)では1944年4月25日からの鈴鹿海軍工廠への学徒動員を最初として、陸軍造兵廠楠工場や鐘紡四日市工場など計9回にわたって動員がなされている。

  なお軍事関係施設は施設そのものが軍事的機密であったことに加え、戦後混乱時の関係書類の抹殺の経緯などからその計画や規模、実態が不明なことが多い。また、度重なる軍の組織改革に伴う組織改編や名称変更で、同一場所でも2度3度変更が行われており、絶対的な資料不足と共に、たとえ体験談があっても関わったセクションだけの理解が多く、他セクションとの整合性に欠き、正確な全体の把握は容易でない。

鈴鹿市の旧軍施設全体図 はここをクリック 


2.鈴鹿市の誕生

  1942年12月1日をもって鈴鹿市が誕生した。時の新聞(伊勢新聞)は「大東亜建設の聖戦下五萬銃後市民の和衷協心もいと固く今日を佳き日と新発足した大鈴鹿市は・・・・」と伝えている。また同時に「全国にその例を見ない特異性をもち国家的な大いなる使命を担う鈴鹿市は・・・・」と報じているように、鈴鹿市の市制発足にあたっては「全国に例を見ない特異性」があった。 1942年当時の新聞記事(32061 バイト)

  1938年、鈴鹿海軍航空隊の要望から三重県知事より、河芸郡下の白子町を中心に玉垣村、稲生村が一つの都市計画区域(想定人口2万人)とする旨の諮問があり、3町村以外の飯野村、河曲村、一ノ宮村、箕田村、若松村を含めた河芸郡内で合併の動きがあった。また、1941年末頃、鈴鹿海軍工廠が建設される計画が地元に明かにされると、鈴鹿郡下の国府村、庄野村、石薬師村、高津瀬村、牧田村の5ケ村は都市計画の立案をなし、名称を「鈴鹿町」とすることとした。それぞれ河芸郡と鈴鹿郡とが別個の都市計画をもったわけである。しかし鈴鹿海軍工廠の建設にあたって新たな動きがあった。当時、海軍工廠建設の責任者であった内田亮之輔大佐が中心となり、強力に鈴鹿郡と河芸郡の合併を推進していった。内田大佐の考えによれば、鈴鹿海軍工廠が河芸・鈴鹿両郡にまたがる土地に位置しており、工廠の円滑な運営のためには同一行政区域の存在が絶対不可欠であり、同時に相当数の労働力が必要であるとのことであった。ただ、陸軍北伊勢飛行場がある高津瀬村は除外したかったといわれる。

   この海軍の意向で合併がまとまりはじめた頃、亀山町と井田川村が同時合併の希望を出していた。しかし、市域があまりにも拡大することと、市街地が白子・神戸区域と亀山区域に二極分化することが懸念されて、亀山町と井田川村との合併は断念させた。しかし鈴鹿郡の5ケ村は河芸郡との合併後の不利を考えて、「鈴鹿町」の成立を先ず実現させてから、合併後の主導権を握ろうと考えていたがこれも海軍の説得で思い留まらせた。また一方、市町村など自治体を直接管轄し認可する内務省はこのような先例がいまだかつて無いということでかなりの抵抗を示したが、海軍が押し切る形となった。計画では神戸・白子・工廠地区・若松・庄野地区を市街化区域とし、想定人口約10万人(東部地区7万人、西部地区3万人)、関西急行電鉄の工廠までの延長や広域道路網の整備などが都市計画のプランとしてあがっていた。

  このような紆余曲折を経て、ようやく内務省より、1942年11月10日、対象の各町村に対して「関係町村の区域をもって鈴鹿市を置く」旨の諮問があり、13日、各町村は異義の無い旨を答申した。そして同年11月21日付内務省告示が公表された。



 
 
 
 
 
     内務省告示第六八三号   昭和十七年十一月二十一日
 市制第三条及び町村制第三条ニ依リ昭和十七年十二月一日ヨリ三重県鈴鹿郡国府村、庄野村、高津瀬村、牧田村及び石薬師村並ニ河芸郡白子町、神戸町、稲生村、飯野村、河曲村、一ノ宮村、箕田村、玉垣村及び若松村ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ鈴鹿市ヲ置ク。                                

  2町12ケ村が合併した軍都・鈴鹿市の誕生である。面積113ku、戸数9,443戸、人口48,851人で、国内で198番目、県内では津市、四日市市、宇治山田市、松阪市、桑名市、上野市に次いで7番目の市となった。

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