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唐人おどり

  三重県鈴鹿市東玉垣町には、須賀社(午頭天王社)の祭礼に「唐人おどり」なるものが披露される。滑稽な面に異国情緒たっぷりの衣装、何よりその独特な踊りは他の祭りに類例をみない。その唐人おどりのルーツを探り、日朝友好の証を明らかにしたい。

東玉垣町の唐人おどり 

    

    1.朝鮮通信使

    2.唐人おどり

    3.東玉垣町の唐人おどり

    4.白子西町で発見された幔幕

   朝鮮通信使、唐人おどり関連リンク

 

 

 


 

1.朝鮮通信使    [BACK]

 豊臣秀吉の朝鮮侵略は日本と朝鮮の関係を極度に悪化させた。朝鮮と目と鼻の先にある対馬藩は秀吉の命令で仕方が無く朝鮮に出兵したが、朝鮮との貿易なしでは藩財政はなりたたなかった。戦後、朝鮮国に謝罪の使者を何度も送ったが、使者は一度も帰ってこなかった。対馬の宗氏(宗義智)は徳川家康に懇願しその関係の修復に努めようとした。朝鮮国は慶長9(1604)年、敵状視察の目的で「探賊使」なる使者を送り、京都で家康や秀忠と会見した。家康は「私自身は朝鮮出兵に参加していない。朝鮮国に恨みはなく、友好関係を築きたい」との意思を伝え、朝鮮侵略の際に強制連行した捕虜約1400人をいっしょに帰国させた。朝鮮国はそれに対して、家康の国書と朝鮮国王の陵墓をあばいた犯人を要求してきた。宗氏は回復を急いでいたこともあり、国書を偽造し、犯人も別人を仕立てて送り届けた。朝鮮国はそれに回答する形で、第1回の朝鮮通信使が日本に派遣されることとなった。

 慶長12(1607)年、回答兼刷還使という形で、正使、副使以下総勢467人の大使節団が来日した。首都・漢城(ソウル)を出発し、釜山から対馬藩の用意した船で対馬、壱岐と来て、赤間関(下関)から瀬戸内海に入り、上関、下蒲刈、鞆浦、牛窓、室津、明石ときて大坂に上陸する。ここから川御座船に乗り換えて、淀川を上り京都で船を降りる。ここからは陸上で移動し、近江の中山道を東に向かい、大垣から名古屋にそれてそこから東海道で江戸まで向かう。通信使は江戸時代を通じて12回来日した。鎖国の世にあって、対等に国交を結んでいたのはこの朝鮮国だけである。オランダと中国は通商の関係、琉球は薩摩藩を通しての従属の関係にあった。

朝鮮国信使絵巻 通信使一行の姿を正確に描く 清道旗を先頭に行くのがわかる

朝鮮国信使絵巻(対馬歴史民俗資料館蔵)

年 代 正  使 副  使 総  勢

目      的

将軍

備  考

1607年 呂祐吉 慶 暹 467名 回答兼刷還、修好 秀忠
1617年 呉允謙 雲 渓 428名 回答兼刷還、大坂平定祝い 秀忠
1624年 鄭 ャ 姜弘重 300名 家光襲封の祝い 家光
1636年 任 絖 金世濂 475名 泰平の祝い

家光

国書偽造事件
1643年 尹順之 龍 洲 462名 家綱誕生の祝い 家光
1655年 翠 屏 秋 潭 488名 家綱襲封の祝い

家綱

1682年 尹趾完 李彦綱 475名 綱吉襲封の祝い 綱吉
1711年 趙泰億 任守幹 500名 家宣襲封の祝い 家宣 新井白石
1719年 洪致中 鷺 汀 479名 吉宗襲封の祝い 吉宗
10 1748年 洪啓禧 南泰耆 475名 家重襲封の祝い 家重 亀山藩接待
11 1764年

済 谷

李仁培 462名 家治襲封の祝い 家治 亀山藩接待
12 1811年 金履喬 李勉求 336名 家斉襲封の祝い 家斉 対馬まで

 2回までは回答兼刷還使として、それ以降は主に新将軍就任祝いを目的に来日している。通信使一行はそれぞれの場所で各藩に接待を命ぜられ、全行程を通しては対馬藩が受け持った。一行は正使、副使、従事官の三使の他、通訳、書記官、軍人、儒学者、医師、画家、曲芸師、舞踏家、音楽隊、旗手、調理人、小姓など総勢400〜500にも及んだ。一行が宿泊した場所は主に寺院が当てられたが、海の側など景観を重視した場所が選ばれた。その土地では曲芸や楽器、舞踏などが披露され、外国の文化に接することのない庶民の注目するところであった。また、宿舎には日本の儒学者が訪れ、優れた朝鮮の学者の教えを乞うた。会話は筆談であったという。つまり朝鮮通信使は、単に国交の使節というだけでなく、日本人との文化交流を推進した一大イベントであったのである。

福禅寺対潮楼 通信使一行の宿舎 景観がすばらしい              今ものこる朝鮮人街道 近江では通信使専用の街道が整備された

福禅寺対潮楼(広島県鞆の浦)                        朝鮮人街道(滋賀県近江八幡市)

 


2.唐人おどり        [BACK]

 通信使一行の中で特に庶民の人気が高かったのが音楽隊の演奏とその踊りである。それは朝鮮国の農民の祭りの踊りや宮廷での踊りであったらしい。その独特な衣装としぐさ、メロディーは当時の日本にあってはとてもインパクトが強く、すぐに真似をして村や町の祭りに取り入れるところが相次いだ。既に長崎あたりでは中国の芸能を真似て、曲芸や踊りを見せる一座があり、江戸辺りにも進出して、この種の芸能が流行っていた。中期以降、各地で通信使を真似た踊りや仮装行列が流行り、それは中国のそれと同一視され、一括して「唐人おどり」「唐人行列」と呼ばれた。唐人とは中国人だけを指すのではなく、東アジア一般の人を指す。幕府は衣装が華美であったので度々禁止令を出したという。しかし江戸後期以後もそれらの踊りや行列を続ける村や町もあり、一連の祭りの一部として取り入れられ、定着していった。岐阜県大垣市の十六町(豊年祭り)や竹島町(朝鮮山車)、名古屋東照宮の唐人行列など戦争前までは各地で催されていたものも多い。しかし、現在ではその姿を伝えているのは岡山県牛窓町の唐子踊り三重県津市の唐人行列、そして鈴鹿市の唐人おどりの3つだけとなってしまった。

  唐子踊り(岡山県邑久郡牛窓町)  牛窓は瀬戸内海に面した港で、朝鮮通信使指定の宿泊地であった。潮待ち、風待ちでその滞在期間は2週間以上に及ぶこともしばしばであった。正使たちは退屈しのぎに小童対舞とよばれる子どもの舞を見た。これが牛窓の民衆に伝わったのが唐子踊りであると考えられている。戦前は神功皇后の新羅征服伝説と結びつけられて語られていたという。現在は紺浦にある疫(素盞鳴)神社の秋祭りの奉納として演じられる。大人の肩車に乗ってあらわれた男児2人が社殿の前で、独特の口上(こんねんはじめてにほんにわたり・・)の後、小太鼓や横笛などの囃子に合わせて踊り出す。衣装は津市や鈴鹿市の唐人おどりと共通するところが多い。 

 津市唐人行列(三重県津市)  現在10月10日前後に開かれる津祭りの呼び物として演じられる唐人行列は、津市八幡神社の祭礼が起源となっている。津藩の2代藩主・藤堂高次は城下町の繁栄を促すために祭礼を援助し、八幡神社に奉納する形で、各町が工夫して御輿や行列を繰り出した。分部町がこの唐人行列を繰り出したのは寛永13(1635)年からと考えられている。分部町につながる江戸日本橋にいた伊勢商人が江戸で見た通信使一行の踊りを真似て津に道具を送り、再現したのが唐人行列で、歓喜踊りと称された。行列は通信使一行を再現しており、形名旗、清道旗を先頭に、大将(正使)、傘持ち、中官、ささら、囃子、踊り手などが続く。衣装やラッパ、囃子の旋律などは当時の形をよく伝えているものと考えられており、仮面をかぶり、ひょうきんさを演出するところは鈴鹿市の唐人おどりと共通している。元からあった仮面や衣装、楽器、旗などは先の戦争の空襲でほとんど焼けてしまったという。

唐子おどり 疫神社の秋祭りに奉納される       津市分部町の唐人行列 ひょうきんな表情と踊りが人気

唐子おどり(岡山県牛窓町)                      唐人行列(三重県津市)

 


3.東玉垣町の唐人おどり       [BACK]

 鈴鹿市東玉垣町の唐人おどりがいつごろから始まったのかは定かでない。少なくとも、すでに明治初年以降から演じられていたことは古老の証言で明らかであるが、どこまで遡れるのだろうか。また、かつては各地で演じられていたこの種の芸能が通信使の宿泊地や街道沿いの町や村に限定されているのに、なぜ通信使順路から離れた鈴鹿市と津市に唐人おどりが伝えられたのだろうか。これは江戸時代に主に江戸で活躍していた伊勢商人と深い関係がある。

 須賀神社(午頭天王社)に幅30数センチの小さな太鼓があり、そこに「丙文化十三年(1816年)、奉納午頭天王、子正月吉日、江戸日本橋通り一丁目黒江屋内 谷利平治」との墨書がある。江戸へ出た伊勢商人の谷利平治なる人物が奉納したものであるが、もちろんこの太鼓だけでなく、いろいろな祭りの道具を寄付したのであろう。古老の言い伝えによるとこの唐人おどりは「ブンヨムサン」という人物が伝えたという。ブンヨムサン(文右衛門か?)がどういう人物であるかわからない。谷利平治と同一人物の可能性もあろう。屋敷は現在の亀津徹氏宅前にあったという。ブンヨムサンなる人物がこの東玉垣から江戸へでて成功していたが、江戸で禁止されたのを機に江戸で流行っていた唐人おどりの衣装や楽器をまとめ買いして、故郷の天王山に奉納したのがこの唐人おどりの始まりと言い伝えられている。この伝承は津市の場合と共通する。従って唐人おどりが始められたのは文化文政期の江戸時代でも最も文化が成熟した時期である可能性もあろう。

鈴鹿市東玉垣町の唐人おどり 東安寺での奉納のようす   鈴鹿市東玉垣町の唐人おどり 素手の後は軍扇やラッパを持って踊る

唐人おどり(踊り始め)                       唐人おどり(軍扇を持っての踊り)

 唐人おどりを含む祭りのねりは本来は7月14日の天王山の本祭に奉納されていた。それが4月14日に変わり、現在は毎年4月の第1土・日曜日に演じられている。唐人おどりは単独では演じられない。本来は須賀社(午頭天王社、通称;てんのうさん)から東安寺まで(つまり村の端から端まで)を数十人からなるねり行列で廻った。壱萬度→四神→鉾→大禰宜→口取→御獅子→跡舞→笛→太鼓→舞姫(お稚児)→笛→太鼓→御輿→御輿係→警護(町役人)→台持→唐人→はやし連→屋形の順番であったという。現在も基本的には昔と同じで、御輿や稚児舞、獅子舞、唐人などがねり歩き、天王山から東安寺までの役人宅、集会所などで演じられる。獅子舞は鶏の衣装に扮した子どもと獅子との絶妙なるかけあいが見どころである。唐人に扮する人は以前は前もって酒を飲み、その勢いで、ドラを叩きながら見物の人々(特に女性)に対してからかったり、ふざけたりして、ひょうきんでピエロ的存在であった。なお午頭天王社は素盞鳴尊(スサノウノミコト)を祀っており、牛窓町の疫神社と共通するところも興味深い。

  衣装は雉羽のついた半円形の帽子をかぶり、手拭いで頭を覆ったあとに滑稽な目鼻をした面をつける。袖無しの羽織風の上着と紫色のズボンをはき、紫色の長い帯でくくり、足袋をはく。面は計5個あり、どれ一つとして同じ表情はなく、帽子と共に古来より伝わっているものであるという。囃子連は横笛と太鼓が中心で、その他唐人自身が鉦とラッパを奏でる。踊りは3人で踊り、前2人、後ろ1人の構成となる。獅子舞が終わると、「みちびき」と呼ばれる横笛と太鼓によって前奏が始まり、どこからともなく唐人が登場して座る。最初に「長歳哉(ちょうせいや) 変わらで祭る弥都賀伎(みづがき)の 五穀成就(ごこくじょうじゅ)と 踊る唐人」と口上があり、太鼓が鳴って全体の雰囲気を高めていく。ここから座っていた唐人たちが立ち上がり、歌詞に合わせて、「しょうが」とよばれる独特の手の動きで踊りがはじまるのである。素手で踊った後に軍扇を持って踊り、後にラッパとドラを叩きながら跳ね上がり終わりとなる。踊り自体は4〜5分で終了する。

 唐人おどりは戦争の一時期は中止され、戦後行われた後しばらく途絶えていたが、1968年に復活し今日に伝えている。現在は唐人おどり保存会を組織(現在60数人)して、地元では中学生より練習を開始していたが、最近は少子化で小学生まで下がってきているという。1976年、鈴鹿市無形文化財に指定された。

     口 上  長歳哉 変わらで祭る弥都賀伎の 五穀成就と 踊る唐人

    歌 詞     オーイ  テンカンピーイニ キョーランパー    ドッコイ 

                   ジョウヤニ ミモトオ ハーハー

             イーヤ  タイシャクパーアニ スイシャクパー 

                    ハイタカ タツヤカ ナンボニイ    ハーハー

             オーイ  シィンク クノエンツレバ キーツヤカオモンパ   ハーハー

             イーヤ  ハラバ カカヤカ   ハーハー

             オーイ  リンパーフキタカタチツレバ チツルチツテンデ

             イーヤ  テレハーローバ エンパ シドロン   ハーハー

             オーイ  ニンツラ シューウフ ミメンタン   ドッコイ

                   テンデガ モモショカ タイミメン   ドッコイ

                   ソーシガ コロコロ ジンパァーッパー

 

ongaku.gif (1007 バイト) 唐人おどりの口上と歌詞を聴きたい方はここをクリック

 


4.鈴鹿市白子西町で発見された幔幕         [BACK]

白子西町で発見された幔幕 朝鮮通信使の一行を忠実に描いている 1997年、鈴鹿市白子西町自治会の蔵から大きな幔幕が発見された。高さ約1.2m、幅は10m以上あり、かなり大きなものである。そこには朝鮮通信使一行の様子がかなり鮮明に描かれていた。絵は染め付けされており、保存状態がよければかなりの極彩色であったことが推測される。清道旗を先頭にかなり克明に60人余りの人物を描いている。絵師はかなりの人物で、その状態から250年以上前の江戸中期のものと推定される。

 この幔幕がどのような経緯でこの白子西町に保存されていたかは不明である。ここには勝速日神社があり、この神社の祭礼に使用されたものであることが最も考えられる。白子は朝鮮通信使と関わりの深い紀州藩領であり、そのことの関係も考えられるが、むしろ白子出身で江戸へ出た伊勢商人が勝速日神社へ奉納(寄贈)したものと考えるのが妥当であろう。

 

 参考文献 ・辛基秀「朝鮮通信使往来」(労働経済社)、

           ・特別展図録「朝鮮通信使」(岐阜市歴史博物館)、

           ・特別展図録「朝鮮通信使」(大阪市立博物館)

           ・和田佐喜男「唐人おどり」、

 


 朝鮮通信使、唐人おどり関連リンク     [BACK]

     ・高月町立観音の里歴史民俗資料館(雨森芳洲)     ・三重県立図書館(唐人おどり展)

     ・牛窓町ホームページ        ・光村図書(朝鮮通信使)          ・対馬と韓国の交流史