ケン・シェクター  「ワレ単機、盲目ナリ-人生で最上の着陸」

 

(映画「第8ジェット戦闘機隊」のモトネタ&実話)

 

「セイヤー、誘導して降ろしてくれ」

 

「激しいショックのあと気が付いてみると、まず目が見えなくなっていて、どうやらまっすぐ上昇している。高度10,000フィート(3,000メートル)、もうすぐ分厚い雲に突っ込みそうだったという。私はADスカイレイダーを飛ばしていたのだが、盲目であの雲に突っ込んでいれば間違いなく帰れなかっただろう。場所は北朝鮮北東部の会寧付近上空だった」

 

1952322日早暁、22歳になったばかりの私は、日本海北部に遊弋する空母バリー・フォージの飛行甲板で攻撃機ダグラスADスカイレイダーのエンジンをウォームアップしていた。 当日わが部隊VF-194から出される8機のための予備機のコックピットに待機していたのだ。部隊名は「イエロー・デビルズ」である。

 

まあ予想通り、誰かさんの機体が油圧系統のトラブルを起こしたので予備機繰上げとなり、私の27回目の出番となった。攻撃目標は操車場と道路の要衝である。

 

飛行前 ブリーフィングでは15回に分けて投弾することになっていたが、その9回目で、高度1,200フィート(420メートル)において操縦席が爆炎とショックに包まれた。ともかく反射的に機首を引き上げたのは覚えているが、その次に気づいてみると何も見えない。飛行中のコックピットで盲目になってしまったのだ。

 

とにもかくにも顔と頭が痛い。ズキズキ痛む。 それに何と、手で探ると上くちびるが千切れそうになっている。 「目がやられて何も見えない、救援要請!」と口元のマイクからVHF無線で叫んだが、マイクロフォンが作動したこと自体奇跡である。

 

飛行隊の同僚であるハワード・セイヤー中尉がこれを聞きつけ、私のスカイレイダーを見つけた。私の乗機は高度10,000フィートでまっすぐ上空の厚い雲に向かっていたそうだが、雲に入ってしまったならば追跡は間違いなく不可能だったろう。

 

セイヤーは「遭難機、主翼を振られたし。繰り返す。了解ならば翼を振れ」と言った。

 

それで私はエルロンを操作し、主翼を左右に振った

 

OK、機首を押さえろ、機首を押さえろ。いま救援に向かう。安心せよ」

 

そのとおりにした。

 

セイヤーは私の横に機体をつけて、「俺はセイヤーだ。ノーズを下げろ。すぐやれっ!」

 

セイヤーは何と母艦でのルームメートだ。 奴の声が流れてきてそうとう心強くなった。「オウその調子だ。ちょっと引き起こせ。高度を保とうぜ」。

 

どうやら私のスカイレイダーはキャノピーがひどくやられているらしい。 顔面からの出血も相当だと言っている。操縦席まわりに赤褐色のものが飛散し、ネイビーブルーを汚しているそうだ(まだ生きているのが不思議だと思ったという)。

 

だんだんと意識がしっかりしてくると、自分でも何とかしようとする。 キャノピーを投棄してフレッシュな風を受けようとするが、フレームは外れない。  プレキシグラス(透明プラスチック)は飛散してしまっているようだが、なんとか風に当たりたいものだ。速度200マイル(360km/h)では風を切る音とエンジンのノイズが直接入ってきて、無線の送受信が困難だった。

 

水筒の水を顔にかけてみると、ちょっとの間だけ計器盤が見えたけれども、すぐに盲目に戻ってしまった。どうしようもないのか?

 

「セイヤーさんよ、頼むからどこかに誘導して降ろしてくれ」

 

「シェクター、それなら爆弾をぜんぶ投下しろよ」。私はそれに従った。

 

セイヤーは声を絶やさない。「とりあえず南に向かう。いま元山に向けている(日本海沿岸の都市)。あと少しだ。ケン、がんばれよ」。

 

私はもう頭もズキズキ痛み果て、血液を飲み込んでしまって吐きそうだった。だらしないものだ。救急キットから痛み止めを取り出すことはできなかった。

 

「セイヤー、ともかく降ろしてくれ。頼む」

 

OK、元山はもうすぐだ。ベイルアウト(脱出)準備しろ」

 

私の返答「ベイルアウトはとても無理だよ。着陸したい」。

 

以前、私の2回目の出撃のとき僚機が元山上空で被弾、凍りつく海上に着水し、水面を滑って氷の上で停止した。パイロットが外に出て元気そうに手を振っているのを確認することはしたが、上空から私が無線で救援を要請して母艦に帰投後、そのパイロットは消息を絶った。

 

不時着に備え私たちはゴム製の防水服を着ていたが、不運にも彼の着用していたのは改良前のものだった。防水そのものが不完全な上に、救命胴衣は片側分しか膨らまなかった。 救命ボートも作動しない上、何と不運なことか、元山港の5マイル(9キロメートル)沖合いの島で待機しているはずのレスキュー・ヘリコプターも故障していた。駆逐艦が50マイル沖合いで待機していたものの、そんなのはまったく無駄足だったのだ。

 

その彼、トム・プルーの遺体が回収されたのは着水から1時間半後、防水スーツ内部は半分以上も氷水に漬かっていた。

 

それなので、いまの私にとって脱出など冗談ではない。 ともかくセイヤーならどこか味方地域まで誘導してくれるだろう。着陸でどうなるかは私次第だ。彼は了解し、南へ向けてくれた。

 

前線ラインから30マイル(56キロメートル)南下すると海兵隊がいるK-50飛行場があるので、そこに向かうという。でも、そこまでたどり着けるかどうか?私の意識は途切れ途切れだった。

 

セイヤーが「見ろよ、巡洋艦が砲撃やってるぜ」という。そこは爆撃ラインであり、その南は味方地域のはずだ。セイヤーは声をとぎらせることなく、「ただいま爆撃ライン上空。K-50飛行場に向かってもうすぐだ。シェクターがんばれ。聞こえるか?」と伝えてくる。

 

「りょうかい」

 

「シェクター、これからお前さんに着陸してもらう。ほんと大丈夫か?」

 

「うるせえ!そんなら貴様、俺の荷物でも整理したらどうだ」
(同僚が戦死、殉職した場合には、荷物の整理と遺族への発送はだれかがやらなくてはならない。セイヤーと私は互いにそうする役目だった)。

 

何とかセイヤーの指示のとおりにしていたつもりだったが、外から見ていると私は何度も前のめりになって、「あれじゃ多分ダメだな」とセイヤーも思ったそうだ。それで彼は、すぐにでも私を着陸させようと決断した。

 

最初の目的地K-50ではなく、最前線のすぐ内側に「ジャージー・バウンス」という陸軍の非舗装滑走路(長さ600メートル)があったので、そこに私を導いたのである。

 

「おいケン、降下するぞ。右にバンクをとれ。ジャージー・バウンスにアプローチする。そのまま270度まわって入るぜ」

 

「りょうかい」

 

「左翼をゆっくり下げてバンクを戻せ。機首をゆっくり下げてゆけ」

 

「ギアを降ろせ(車輪出せ)」

 

「冗談じゃねぇ」私は思わずどなってしまった。 ジャージー・バウンス滑走路なら私も知っているが、こんな非常事態でそんな短い滑走路に降りるのならば、胴体着陸のほうが助かる確率がずっと大きい。

 

「わかった、わかった。ギアは上げのままでよし」、セイヤーの返答。

 

着陸はもうすぐ。ちょっとでも滑らせた姿勢ならばそれで終わりだ。

 

私の機体から1翼長ぐらい離れて、セイヤーは私の操作に付いていたらしい。ヤツの声は実に頼りになる。「滑走路の軸線上だ。フラップを下げろ。あと100メートルで滑走路に入る、高度15メートル、ちょっと起こせ、そうだ、そう。そのまま行け。いま水平、OKOK、高度10メートル、OK、滑走路に入った、6メートル、そのまま、そのまま、OKOK、・・・パワーカット!」

接地のショックが思ったほどではない。機体は地面をこすり、ちょっと前にのめりながらも滑り続け、どうやら無事に停止した。あそこで被弾後45分くらい経ったか。

 

完璧な着陸で申し分ない。火災なし、痛みも大したことはない。実にこれまで私の一番うまくやれた着陸だ!

 

セイヤーの安心して喜ぶ声、「どうやら降りやがったな。貴様本当によくやったぞ」。

(この間一連の会話は母艦バリー・フォージ側で録音されていて、その晩に艦内放送されたそうである)

 

イグニッションスイッチやらマスタースイッチなどを手探りでオフにして、私はともかくもコックピットから這い出た。 そこに陸軍の兵隊さん二人がジープで乗ってきて、すぐに滑走路のオフィスに連れて行ってくれた。

 

レスキューのヘリコプタもまもなく到着、K-50の野戦病院に搬送されて手当てを受けることができたが、軍医の診断では高度な治療が必要とのことで、さらに釜山に送られ、そこから病院船に転院となった。直ちに手術を受けたものの、眼帯は数日間外すことができなかった。

 

結局本土に後送となり、サンディエゴの海軍病院に入院後、19528月末日をもって傷病退役となった。

 

視力は左目だけ回復した。米海軍空母パイロットとしての私のキャリアはそこで絶たれたものの人生は続いている。すなわち「もらった」人生である。以来毎日報謝を欠いたことはない。

 

その後は:

そもそも私は海軍奨学金でUCLA2年在学後飛行訓練を受け、それで海軍のパイロットになったのだ(同期生で名を挙げた者は2名、すなわち月着陸のニール・アームストロングと、日系米人で初の海軍飛行士ジョー・アカギである)。

 

娑婆に戻ってのち同年9月にスタンフォード大学の下級クラスに入学したが、そこでは民間人があまりにも朝鮮でのわれわれの軍事活動に無関心なことに驚いた。 その秋の学内献血キャンペーンの成果は85リッターほどだったが、翌年春に行われた同キャンペーンでは私が執行役となり、スタンフォード全体として5日間で実に2300リッターもの献血を集めることができた。赤十字によれば、連続キャンペーンでの最高記録だったそうだ。

 

ハワード・セイヤーはその後も海軍パイロットとして空母で活躍していたが、19611月、地中海の空母勤務において夜間着艦進入中に、飛行隊指揮官とともに行方不明となった。彼はそのとき結婚していて、子供が3人いた。

 

最後に:あのスカイレイダー、忠実に私を守ってくれた機体はあそこの滑走路でジャッキアップされ、実にプロペラを交換しただけで再飛行可能となり、バリー・フォージに収容され、艦上で完全に修理後、第一線復帰したと聞いている。

 

 

左:ハワード・セイヤー、右:ケン・シェクター バリー・フォージ艦上にて

http://skyraider.org/skyassn/warstor/warstor.htm#anchor62930

 

映画はビデオテープで入手可能です

http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/6302224454/102-1428461-0501726?v=glance

 

 

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