朝鮮戦線のソビエト ミグ・エース達

ミコヤン・グレビッチMig-15で戦ったパイロット

ディエゴ・ザンピニ著作 翻訳許可済み

 

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イェフゲニー・ペペリャエフ

ニコライ・シュチャーギン

レブ・シュチューキン

セルゲイ・カラマレンコ

ニコライ・イヴァノフ

セミョン・フョードレッツ




 





1951年7月17日、場所は朝鮮と中国を隔てるヤールー川上空10,000メートル、米空軍第336戦闘航空群の指揮官であるブルース・ヒントン中佐はF-86セイバーを駆って単機のミグ15に背後から忍び寄っていた。このミグはヒントン中佐にとって3機目のスコアとなるはずだった(中佐が最初にミグを撃墜したのはこの6ヶ月前、セイバーによるミグ撃墜第1号)。そのとき彼の直前方をセイバーが1機横切った。ミグ15に追いかけられていて、しかもミグの37ミリ機関砲がボカスカ命中するのが見える。そのセイバーからは大きな破片さえ飛散している。とうとう機体も燃え出した。ヒントン中佐は直ちにこの戦友を助けに回る。「F-86のパイロット1名の損失もミグ撃墜には引き合わない」という第4戦闘航空団のモットーに従ったのだ。

ミグのパイロットもすぐにヒントン中佐に気付いて、撃破したF-86にかまわず正面から立ち向かってきた。まさに中世騎士の一騎打ちである。そのミグはヒントンのセイバーと至近距離で行き違った。衝突しないほうが不思議なくらいである(15メートル以内だったという)。引き続く空戦中、ヒントン中佐は彼のすべての技量を出し尽くしたが、ミグ群に対してなかなか優勢にはならなかった。そのとき、編隊長であるヒントン中佐の空戦機動になかなかついてゆけなかったと僚機のパイロットは述べている。G-スーツを装着しているにもかかわらず何度もブラックアウトしたという。

 

しかしながら旋回1回とヨーヨーを2度ばかり繰り返したあと、ヒントンはどうにか2連射し、そのミグに命中弾を与えることはできた。しかし相手のほうが上手であり、さっさと空戦を切り上げてヤールー川の向こうに退避していった。セイバーで追いつくことはできなかった。

 

空戦終了後、ヒントンはミグに追いかけられダメージを受けたセイバー(BuNo. 49-1281)を発見し、スゥオン(水原)基地まで援護した。その機はなんとか胴着できたが全損となった。その撃破されたセイバーの搭乗員が、第4戦闘航空団指揮官であるグレン・T・イーグルストン中佐と知ったのは着陸後だった。まさに戦友の命を助けたのである。イーグルストン中佐はWW2欧州戦線で18.5機撃墜のエースであり、朝鮮戦争でも先立つ6ヶ月にミグを2機スコアに収めていた。そのようなベテランで優秀なパイロットを追い詰めたミグの乗り手は、第一級の相手だったのである。以下はヒントン中佐の陳述:

 

「このミグのパイロットは優秀だった。最高な奴だったよ。上空から双方が交戦に入るのを見ていたんだな。これは我々もご承知の「ケーシー・ジョーンズ」という戦法で、単機のミグが降ってくるやつさ。今回のケーシー氏も超優秀なやつで、あれは東洋人などじゃぁない。上空の待機位置から降下して、単機にはぐれてしまったセイバーを狙う。第一次大戦でフォン・リヒトフォーフェン男爵が用いた戦法と一緒さ」

 

ケーシー・ジョーンズというのは、米国の鉄道全盛期に有名だった伝説的機関士の名前である。ケーシーはよく運転台の屋根に上って進行方向を眺め、レールに異常がないか見張っていたそうだ。米国のパイロット達は、上空で待機して不注意を晒している餌食を狙う敵の最高のパイロットを、ケーシー・ジョーンズに見立てたのである。

ではこのときの「ケーシー・ジョーンズ」は誰だったのか?ヒントンの推測「あれは東洋人なんかではない」は当たっていた。そのミグを飛ばしていたのはソビエト空軍の第324戦闘機航空師団(IAD) 近衛第176戦闘機連隊 (GIAP)所属のセルゲイ・マコロヴィッチ・カラマレンコ である。

実際グレン・T・イーグルストンのセイバーは、カラマレンコ大尉の3機目のスコアとして記録された。これは同年4月12日のF-80C、6月2日のF−86に続くカラマレンコの撃墜3機目である。この優秀なロシア人パイロットはさらにスコアを重ね、最終的に13機を数えるに至る。引き続く7月11日にはF-86A(パイロット:コンラッド・アラード(戦死)、米空軍の記録では「空輸飛行中に機位を失う」)、さらに7月29日にはF-86A 機体番号49-1098を撃墜し、カラマレンコは朝鮮戦争での最初のエースおよび最初のジェット機エースとなった。

 

セイバーのパイロット達が奉った綽名「ホンチョ」で呼ばれる優秀なミグ・パイロット達は1951年4月から翌年2月まで戦線に配置されたが、その間自軍の損害68機と交換に、国連軍の航空機158機を撃墜ないしは撃破、修理不能に至らしめた。その撃墜比は2:1である。1951年10月はもっとも成功した月で、F-86を8機、F-84Eを6機、RF-80Aを2機、F-80Cを1機、オーストラリア空軍のミーティアを1機、B-29Aを10機、合計25機を撃墜したが、ソビエトのミグの損害は8機だけであった。3:1の撃墜比である。

 

この期間、30名以上のミグ・パイロットがエースとなった:ニコライ・シュチャーギン(21機)、イェフゲニー・ペペリャエフ(19機)、レブ・シュチューキン(17機)、セルゲイ・カラマレンコ(13機)、ミハイル・パノマリェフ(11機)、ディミトリー・サモーリョフ(10機)など。

 

どのようにして彼らは戦果を達成したのか?同時期に米空軍にもエースが並んでいたが、いずれも5ないし6機程度のスコアである(無敵のエース、ジョージ・A・デイビス少佐だけは14機を撃墜している) 。全体として見ても、ロシア人パイロットのほうが155すなわち2-3倍もスコアを挙げていて、米国人達よりも優れているといえる。当時のソビエトは参戦そのものを秘匿していて、したがってプロパガンダ目的で戦果を水増しする必要はなかった。しかしながら戦果を誇大化する要因はいくつかあげられる:

1.  当時ソビエトの中、高位の将校の多くはヨゼフ・スターリンの気を引くことを欲していた(独裁者スターリンは、将軍達がその任務を達成しなかったときは、銃殺あるいは収容所送りとしていたことで有名である)。すなわち、朝鮮におけるミグ部隊での戦果を誇大化することがその一方法である。

2.  ソビエトのパイロットが戦果を認められた場合、撃墜1機につき1,500ルーブルの賞金が与えられた。したがって虚偽の報告が数多く行われたことは想像に難くない。

3.  ソビエト側もミグでの戦果確認にはガンカメラを用いていたが、その画質は悪いので、敵機が画面に捉えられた場合には、たとえ弾丸の命中あるいは発煙、もしくは操縦者の脱出を認めずとも「撃墜」としていた。

撃墜戦果の誇大化はどの戦争でも終末期においては日常的であったが、以上3つの要因を考え合わせれば、ソビエト空軍第64戦闘航空軍が朝鮮戦争全体で国連軍を1,106機撃墜したという、一寸信じがたい数字を主張したことも理解できる(「ホンチョ」が活動した期間の戦果報告は532機、これに対する国連軍側の実際の被害は142機である)。

 

したがって、ソ連パイロットのスコアの大半に関しては厳しく見る必要があるといえる。一例として、先にミハイル・パノマリェフの撃墜公称11機を掲げたが、米国側は相当する交戦期日には2機の損失しか認めていない。ほかにも同様の例はある。

 

しかしながら、4名のトップエース:シュチャーギン、ペペリャエフ、シュチューキン、カラマレンコの撃墜スコアは非常に信頼できるものであり、アレクサンドル・スモルチョフ、ステファン・バハイェフ、ディミトリー・サモーリョフらのスコアも同様である。「ホンチョ」が活動した期間のソビエト側21の優勢は、ロシア人エースが米国のベテラン達に対して、多少とも技量的に上回っていたことを示している。

ではなぜロシア人パイロットがそのような戦果を挙げ得たのであろうか?これは興味深い問題であるが、かなり具体的に解明されている。少なくとも1951年においては、ソビエト側の戦法が優れていたのがその理由の一つである。

 

ソ連側はGCI(地上誘導迎撃管制)により、空戦において有利な位置に誘導されていた。

ミグは常時2機ペアで行動する。「剣と盾」すなわちペアのリーダーが攻撃し(剣)、ウイングマンが防御する(盾)。

飛行中隊は6機編成が基本であり、2機ずつ3つのペアで構成される:

I.   先頭のミグのペアがセイバーを攻撃する。

II. 2番目のペアは先頭のペアを防御する(「盾」)。

III.   3番目のペアは上空から戦況を観察、状況に応じて「剣」あるいは「盾」を援護する。このペアにはより自由度が与えられていて、たとえば単機となったセイバーを任意で攻撃することもできた。

 

実戦経験はこの場合貴重であるが、ソビエトのパイロット達は実戦をよく知っていた。 1951年における各級指揮官には、いずれもWW2のエースが連なっている。

グレゴリー・ロボフ(19機)、アレクサンドル・バスコ(15機)、アレクサンドル・クマニキーチン(30機)、グリゴリー・オーハイ(6機)

 

ロシア人パイロット達も、対抗する米国第4ならびに第51戦闘航空団の著名なWW2エースであるフランシス・ガブレスキ、グレン・イーグルストン、ウォーカー・モーリン、ロバート・サインそしてジョージ・デイビスなどと同等に経験を積んだ「エキスパート」だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小型で運動性が優れ必殺のパンチを持つミグ15は、朝鮮戦争でセイバーに対する第一級の相手だった

 

航空機の性能差はどうだったであろうか?理由としては薄弱である。 技術的にも、ソビエトのミグ15とアメリカのF-86セイバーは基本的に拮抗していた(訳注:「ミグは飛ばしてみればすごくいい飛行機じゃないか」とイェーガーも言っている)。ミグ15は、性能面でセイバーに優る点が多かった(上昇力、加速性能、強力な武装)。しかしセイバーは劣勢を、音速での安定性、優れた射爆照準器、パイロットの装着するG-スーツにより補い対抗した。というわけで、結局はコックピットの操縦者の技量がものを言い、「ホンチョ」時期のソビエト側パイロットが優れていたということが言えるのである。

 

チャック・イェーガー曰く「パイロットの差だよ。機体は関係ない」。

 

それに、ロシア人ミグ・パイロットにとって、朝鮮戦線は「獲物の多い」環境だった。1951年の45月の時期、朝鮮国境の満州にはミグはたった2連隊しか駐留していない。全部合わせても72機である(米国側はなんと「200機のミグが中国にいる」と発表している)。それだけの機数で国連軍が展開した700機あまりに立ち向かっていたのである。すなわち戦力比101となる。そのあと本国から303IADも進出、同年10月までに戦力差は41に縮小されたものの、米軍側が述べているような「敵側は圧倒的な機数」とは程遠い状況だったのである。19537月の休戦までに、ソビエトのミグはおよそ300機、それにほぼ同数の中国空軍のミグが展開していた。国連軍は約1,000機であり、内訳は297機がセイバー、あとほぼ同数のF-84であった。以上を考えてみれば、ロシア人は朝鮮上空で獲物に事欠かず、エースのスコアとして1510あるいは8機といった数が出るのも頷ける。

 

すなわち、1951年においてはロシア人の交戦機会は多く、そのために米国人パイロットに比してスコアが伸びたのである。朝鮮におけるソビエトのパイロットで公式に「エース」と認められた者は51名、しかしながらその多くは「戦隊としての戦果」をスコアに含めている。次のリストでは戦果のうち5機以上「撃墜」のものだけを挙げてある。カッコ内の数値は国連軍側の証拠によるものであり、幾人かのロシア人エースの戦果誇大化の具合もわかる。基本的に8機以上のエースを掲げてあるが、それ以下の場合も含めてある。

 

朝鮮戦争におけるソビエトのミグ・トップエース

エース名

スコア (*)

備考

勲章(**)

所属部隊

ニコライ・シュチャーギン

21 (13)

7 F-86A/E3 F-84E2 ミーティア、 1 F-80C

「ソ連邦英雄」

Hero of Soviet Union (HSU)

17 IAP, 303 IAD

イェフゲニー・ペペリャエフ

19 (12)

F-86A #49-1319を撃墜、干潟に不時着した同機は捕獲後モスクワに搬送された。

HSU

196 IAP, 324 IAD

レブ・クリロービッチ・シュチューキン

17 (10)

ガブレスキのF-86Eに命中弾、被撃墜2

HSU

18 GIAP, 303 IAD

セルゲイ・M・カラマレンコ

13 (7)

5 F-86s1 F-80C1 F-84E 1 ミーティア、被撃墜1

HSU

176 GIAP, 324 IAD

イワン・V・シュチュコフ

12 (3)

2 B-29As 1 F-80C

-

176 GIAP, 324 IAD

ステファン・A・バハイェフ

11 (5)

1 F-80C1 B-29A1 F-86E1 F-84E 1950年に冷戦下偶発的に1 RB-29Aを撃墜

HSU

523 IAP, 303 IAD

コンスタンチン・N・シェベツォフ

11 (6)

1 B-29A3 F-80Cs1 F-86E1 F-51D

-

176 GIAP, 324 IAD

グリゴリー・U・オーハイ

11 (4)

2 ミーティア F.8 1 F-80C1 F-86E

HSU

523 IAP, 303 IAD

ミハイル・S・パノマリェフ

11 (5)

3 F-84Es1 F-80C1 USN F2H Banshee

HSU

17 IAP, 303 IAD

ディミトリ・A・サモーリョフ

10 (5)

2 F-861 B-29A2 F-84E

USAF確認戦果)

HSU

523 IAP, 303 IAD

パーベル・S・ミローシュキン

10 (5)

3 F-861 B-29A F-84E

 USAF確認戦果)

-

176 GIAP, 324 IAD

ディミトリ・P・オシュキン

9 (4)

19511023日にB-29A2機を南市上空にて撃墜

104日にF-84E1機、195227日にF-86E1

HSU

523 IAP, 303 IAD

ミハイル・I・ミーヒン

9 (7)

5 F-86A/E/F + 2 F-84E

HSU

518 IAP, 216 IAD

ニコライ・M・ザメシュキン

9 (6)

5 F-86E/F1 F-84G

HSU

878 IAP, 216 IAD

アレクサンドル・P・スモルチュコフ

8 (4)

195110月にB-29A3機、 1952115日にF-86E1

HSU

18 GIAP, 303 IAD

グリゴリー・P・プーロフ

8 (6)

2 F-86A1 RF-80A1 F-80C1 F-84E 1ミーティアF.8

HSU

CO of 17 IAP, 303 IAD

セラフィム・P・サボーチン

8 (5)

1 F-86A1 B-29A1 F-80C,1 F-84E 1 ミーティア F.8

HSU

176 GIAP, 324 IAD

セーメン・A・フョードレッツ

8 (7)

1953412日にジョセフ・マッコーネルと一騎打ち、相打ち

レーニン勲章

Lenins Order

(LO)

913 IAP, 32 IAD

ブラディミール・I・アレフェイェフ

7 (4)

1951520日にジェームス・ジャバラと対戦、命中弾を与える

赤旗勲章

Red BannerRB

196 IAP, 324 IAD

フョードル・A・シェバノフ

6 (3)

2 F-86A1 B-29A2 F-86撃破

19511026日クロード・ミットソンとダグ・エバンズのペアにより被撃墜、戦死

(「F-86セイバー空戦記」、pp185195、訳注)

HSU

196 IAP, 324 IAD

グリゴリー・I・ゲス

6 (4)

1 B-29A1 B-26B1 F-80C 1 F-51D

HSU

176 GIAP, 324 IAD

アナトリー・M・カレリン

6 (6)

1 B-26B 5 B-29A、すべて夜間戦闘で

HSU

351 IAP

アルカディ・S・ボイストフ

6 (4)

3 F-86A/E1 F-80C

 USAF確認戦果)

-

16 IAP, 97 IAD

ニコライ・I・イヴァノフ

6 (4)

3 F-86E1 RF-86A

LO

726 IAP, 133 IAD

シュテファン・I・ナウメンコ

6 (4)

1 B-29A1 F-80C1 F-86A 1 F-84E

HSU

29 GIAP, 50 IAD

ボリス・S・アバクモフ

5 (2)

1 B-29A1 F9Fパンサー

(「クリムゾンスカイ」pp328

HSU

196 IAP, 324 IAD

グリゴリー・N・ベレルディ

5 (5)

195347日にハロルド・フィッシャーを撃墜

RB

224 IAP, 32 IAD

(*) カッコ内の数値は国連軍の損失記録と照合できたもの。
(**) Key: HSU =
称号「ソ連邦英雄」LO =レーニン勲章 RB =赤旗勲章

 

結局、ロシアのミグ・エースたちは、19514月から翌年1月までの期間朝鮮上空に君臨したのである。 1952年の2月に303及び324IADの熟練者の大半が新前と交代し、そうすると今度はセイバーのパイロットが優位に立つようになった。この関係は19537月の停戦まで続く。

 

この時期になって、ジョセフ・マッコーネル、ジェームス・ジャバラ、マニュエル・フェルナンデスといった米国の多数機撃墜エースが台頭してきたが、それでもニコライ・I・イヴァノフやセーメン・A・フョードレッツといったミグ・ドライバーが立ちはだかったのである。

 

 

 

 

 

 

朝鮮戦線でのミグ・エースたち(左から)

 アレクサンドル・P・スモルチュコフ8機)、ニコライ・イヴァノビッチ・イヴァノフ6機)、セーメン・A・フョードレッツ8機)、イェフゲニー・ペペリャエフ (19機)セルゲイ・M・カラマレンコ(13機)

 

では、ソビエトのベテランはアメリカのパイロットをどう見ていたのだろうか?総じて、かつて盟邦としてヒトラーに立ち向かった相手を今度は敵とするのは複雑な感情であり、悲しいものであったという。またその技量には敬意を抱いていた。アレクサンドル・P・スモルチュコフは次に述べている:

「米国人パイロットに対するわれわれの感情は複雑だった。だって先の大戦では協同でヒトラーに抵抗したではないか。ということで、この朝鮮では「敵」というよりもむしろ「対戦相手」と感じていた。われわれのモットーは「どの相手との対戦であれ最善を尽くす」。

ソビエト側と米国の機材ならびにパイロットを比較して、やはり米国のパイロットはきわめて技量が優れていたというのが私の感想だ。ブラディミール・ボスティニーチやピョートル・チョールキンといった私の仲間も同じ意見だった。

自国の勇士たちに対する尊敬はどこでも同じである。これら勇戦したロシア人達の物語を以下にあらわし、その名誉を讃えたい。ここに挙げたストーリーは、今から50年以上前にわれわれ国連軍(訳注:アルゼンチンも参戦している)に対面したミグ15の勇士達のものであり、このような長く、後味の悪い戦争が決して招来されないことを祈るものである。

 

ニコライ・バシリービッチ・シュチャーギン

ニコライ・シュチャーギンは192355日、スマーニョ・ブツリンスクという村に農家に生まれた。1941年にロシア軍入隊、翌年チェルニゴフの空軍学校を修了し、19458月短期間の対日戦に従軍、すぐ終戦を迎えた。

朝鮮事変勃発当時、シュチャーギンは303IAD17IAPに属していたが、部隊は19515月にすでに朝鮮で飛んでいた324IADの補強部隊として派遣された。シュチャーギンは同年7月に初出撃、以来戦果を重ねてゆく:

719日、初戦果、F-86Aセイバー(パイロット:ロバート・ライヤー、戦闘中行方不明(MIA))

722日、F-86セイバー2機を戦果として報告(両方と過大報告が濃厚)

726日、セイバー1機 米空軍の記録には見当たらないが、残骸を中国軍地上部隊が確認

729日、F-84E #49-2339154FBS

89日、F-80C(パイロット:ジェームズ・R・カイザーは捕虜となる)

825日、17IAPの指揮官であるグリゴリー・プーロフ少佐と共にオーストラリア空軍のミーティア部隊を待ち伏せ、ロナルド・ミッチェルの搭乗機を撃墜(パイロットは戦死)。

926日、最大戦果をあげた1日 オーストラリア空軍第77中隊のグロスター・ミーティアならびに米空軍第336戦闘機迎撃中隊(336FIS)のセイバーと交戦、ミーティア1機を撃破(パイロット:アーネスト・アーミット、機体は帰還後に廃棄)およびF-86Aを撃墜(パイロット:カール・バネット(戦闘中行方不明:MIA))

1010日、ソ連邦英雄の称号を与えられる

10月中にF-86セイバー3機およびF-84サンダージェット1機を撃墜(米軍側記録と照合済み)

123日、2回の出撃で1機ずつ撃墜を申告 すなわちF-86E #49-1272(パイロット:マーチン・バンブリック、実際には帰還し修理可能)、F-84E #51-565(これは撃墜、第49戦闘爆撃航空群第7戦闘爆撃中隊所属機)

1215日、第334戦闘機中隊のF-86Eを撃破、この機はスウォン(水原)基地に帰投するも、着陸時に事故を起こしてパイロットのW.プリンドルは不運にも死亡

1218日、F-86E1機撃墜、パイロットのジョージ・M・ピストールは脱出後に救助

1223日、F-84Eサンダージェットを1機撃墜(パイロット:デビッド・T・モーガンは捕虜)

1952111日、最後の戦果、F-86E(パイロット:シール・M・リーブスはMIA

戦争後シュチャーギンは1956年に空軍士官学校、1964年に国軍大学をそれぞれ修了。1978年、空軍少将に累進、19861012日死去

 

レブ・クリロービッチ・シュチューキン

シュチューキンは出撃212回を数え、そのうち空戦は17回、17機撃墜。すなわち空戦での交戦ごとに1機ずつスコアを挙げ、100パーセントの効率である。ただし自身も2回被撃墜。

レブという彼のファーストネームは、ロシア語で「ライオン」、すなわちアフリカの草原でインパラを追いかけるライオンのごとく米国機に食い下がったのである。

195161日の最初の出撃において、彼を含む4機のミグはF-51マスタングの群れを発見、シュチューキンは1機を撃墜する。シュチューキンの獲物マスタングのパイロットであるハリー・C・ムーアは戦死。5日後の66日にはF-80C #49-7372機目のスコアとして挙げた。

17日にはセイバー25機とミグ30機による大規模な空戦が発生、シュチューキンはセイバーを1機撃墜するも、自身も撃墜される。本人の陳述:

 

「 出撃時の命令はまずセイバーと交戦し、味方の主力から引き離せというものだった。われわれの中隊は格闘戦専門に訓練されていて、ほかの2個中隊が敵主力である爆撃機あるいは地上攻撃機を邀撃する。

そのときはセイバーがわずかに数多く、さきに攻撃してきた。ふと後方を振り返るとすぐそこにセイバーのノーズがあり、私に向けて発砲している。そこで急降下に入れたが、僚機であるアナトリー・オシュタポフスキーに向かって「オシュタップ頼んだぜ」と叫ぶのがやっとだった。米国人は私を追って降下してきたが、離脱していった。そこで私は旋回、そのセイバーに機関砲弾を注ぎ込んだ。敵機の主翼から部品が飛散し、白煙が吹き出すのを認めた」

 

その不運なセイバーがソンチョンの沖合いに落下するのを認めたが、今度は彼自身が獲物となってしまった。アントン(安東)基地への帰還途上、セイバーの奇襲を受ける:

 

「僚機のオシュタップは戦闘中に分離してしまったので、一人で帰投せざるを得なかった。と突然機体に衝撃が走り、すぐに被弾を悟った。キャノピーは飛散し、計器盤には血が振りまかれる。操縦桿はもはや反応しない。鼻にひどい傷を負ってしまったのだ。そこで脱出したが、パラシュートにぶら下がっている間、セイバーの奴らは4機で2回ずつも私を狙い撃ちしやがった」

 

シュチューキンを落とした米国のパイロットはサミュエル・ペサクリータ大尉であり、シュチューキンはその後1ヶ月入院する破目となった。

 

戦線に復帰したのは729日であるが、その日彼の分隊はオーストラリア空軍第77中隊のミーティアの一群に襲いかかった。シュチューキンは簡単に1機を仕留めたのである。そのミーティアのパイロットはオーストラリア部隊指揮官R・ウィルソン少佐であり、かろうじてキンポ基地に帰投できたものの、機体は廃棄となった。その日はミグ側の一方的勝利で、シュチューキンの同僚のニコライ・V・バボーニンも1機撃墜している。そのミーティアを飛ばしていたロナルド・ガンスリー准尉は捕虜となった。

シュチューキンの最も重要な戦闘は10月2日に起こった。すなわち、激しいドッグファイトの最中に戦友のモロゾフ大尉が窮地に陥っているのを認めたのである。モロゾフは撃墜され脱出したが、シュチューキンは友人を落とし豪腕のセイバーに忍び寄り近距離から3門の機関砲で射撃した。ひどく被弾したセイバーは黒煙を吐き出し離脱する。このF-86Eセイバー「Lady Frances」 の主は第4戦闘航空団副長で有名なフランシス・ガブレスキ大佐であり、帰還できたものの機体は廃棄となった。

 

ロシアのライオンにとって10月は恵まれた月となった。すなわちガブレスキのセイバーを撃破したことにくわえ、1022日にF-80C1機(パイロット:ルイス・エスポジトは戦死)、23日にF-84E(パイロット:ジョン・シューメーカーは行方不明)、その翌日24日にオーストラリア空軍のミーティア(撃破、パイロット:ハロルド・フォスター、機体は廃棄)、30日にはRF-80A(パイロット:グラント・マドセン、戦死)合計4機を屠っている。

この顕著な功績により、レブ・シュチューキンは少佐に昇進、1113日にソ連邦英雄の称号を受けた。

信じがたいことに、シュチューキンは再度ガブレスキとまみえる。すなわち1952111日の空戦で、今度はシュチューキンがガブレスキの軍門にくだり被撃墜、脱出を余儀なくされた。そして着地の際に脊椎に重傷を負ってしまう。

長期間のリハビリテーションを経てライオンは歩行できるまでになったが、パイロットとしての生命は閉ざされてしまった。空軍大佐に昇進、1956年に空軍大学を終了後、60年代に入ってエジプト及びベトナムに軍事顧問として派遣される。1977年に空軍を退役して現在はベルロシアのミンスクに在住。

 

セルゲイ・マコロヴィッチ・カラマレンコ

セルゲイ・カラマレンコが生まれたのも1923年、場所はウクライナだった。ほかのエースと同じようにカラマレンコも幼少時から航空に興味を引かれていた。母親のナジーダ・グリゴリービナ・ガルコフスカヤはカラマレンコが幼いときに離婚、その後息子に飛行を勧めた。カラマレンコが18歳で、ようやくボリソグレフスクの航空学校に入学したとき、すなわち1941722日にヒトラーのソ連進攻が始まった。いわゆる「大祖国戦争」の始まりである。

空軍に入隊後、長い待機期間と訓練を経て、セルゲイ・カラマレンコ少尉は1943223日に523IAPからようやく初陣、そのときLa-5FNFW-190Aを撃墜した(パイロット:クルト・ハイゼ兵長は戦死、5/JG51所属)。第2のスコアを挙げたのはそれから何と2年後の19454月16日で、場所はカストリン、相手はFW-190ALa-7に搭乗してであった。ほどなくドイツは無条件降伏する。

最終的に第4位のミグ・エースとなるカラマレンコ大尉の、朝鮮における最初の経験は1951412日のヤールー川鉄橋をめぐる大規模な空戦であり、B-29F-86F-84ならびにF-80からなる総計150機もの米軍機を324IADのミグ1544機が迎え撃った。この戦いでカラマレンコはF-80C1機仕留めた(#49-1842、第8戦闘爆撃機航空群第36戦闘爆撃機中隊所属機)。

62日にセルゲイはF-86Aを撃墜する。この機体のパイロットはトーマス・C・ハンソン中尉とみられ、米空軍の記録では「事故損失」となっている。

しかしながら彼によるもっとも興味深い空戦は617日に訪れる。「ミグ街道」上空にて交戦中、カラマレンコは単独に分離してしまい、そこをセイバー3機に襲われてしまう:

 

「独りぼっちになってしまったあげく、セイバー3機に追い回されている。ダイブに入れようとも思ったけれど、セイバーはミグより重くて、急降下性能が優れていると聞かされていた。それで急降下のオプションは捨てた。と、そこの前方に雲が現れた。「よし、隠れてしまえ」それしかなかった。雲に入ってから急旋回で90度左に向きを変えた。そこで雲から出たので、今度は右旋回を行った。セイバーの先頭機が、私が雲を抜けたときにそのまま降下していると思い込むことを期待したわけさ。そうしたらまさにその通りになった。 私の眼下には3機のセイバーがいて、そいつら下方ばかり見ているという次第さ」

「すかさず攻撃したよ。敵は相当驚いたようだった。今度こそ私の番だ」

「ところが敵もさるもの、こっちを見つけてそのリーダーは右上昇旋回に入り、ほかの2機は左に降下旋回して分離した。それでこっちの優位も解消してしまい、逆にまた狙われる破目となってしまった。

相手は確かに3機だったけれども、私には技量、機体ともに自信があった。でも迷ったんだな。どいつから先に料理するか?降下している2機が先か、あるいは上昇してくるリーダーをやっつけるか?先に2機のペアに取り掛かるとすると、上位になるリーダーが降ってくるだろう。

ということで、まず上昇してくるリーダーに立ち向かった。私はダイブし、すぐ目標の背後に取り付いた。照準して撃ち始めたのは600メートルほどだったか。おちついて距離を詰める余裕はなかった。速度を落とすと残りの2機につかまってしまう。

私の射弾は目標に命中する。そのセイバーがすぐにグレーのけむりを吹き出したことから見て、エンジンに命中したことは間違いない。そのセイバーは降下姿勢に入り、急激なダイブで地面に向かって行った。けれども例の2機が500メートルに迫ってきたので、全部を見届けることはできなかった。そのままもう一寸でもそうしていたなら、連中は12.7mm機銃をブッ放してきただろうよ」

 

その時カラマレンコの知るところではなかったが、彼が狙ったのはF-86A #49-1281、操縦していたのはWW2のエースで有名な、グレン・T・イーグルストンだったのだ。さらに、いったん降下旋回してから逆襲してきたとカラマレンコが思ったセイバーの2機は実は新手であり、336戦闘機中隊指揮官のブルース・ヒントンのセイバーとその僚機だったのだ。イーグルストンを救いに来たというわけである。カラマレンコは切り返して、先頭のセイバー、ヒントンの機体にまっすぐ向かってきた。

本当であれば上昇してミグの有利な高度に引きずり上げれば良かったものを、カラマレンコはミスをして水平旋回による、いわゆる「ラフベリー」に持ち込んでしまった。

ともかくも、歴戦のヒントン中佐にとってもカラマレンコは手強い相手だった。高Gでのヨーヨー機動を3回行ってのち、やっとヒントンは射撃位置に食い込めたのだ。ヒントンから射弾を喰らったあと、下方にスプン(水豊)ダムを見つけたので、カラマレンコはその方向に逃げ込んだ。そのダムは防御砲火が厳重なことで知られていたからである。

 

期待通りに3機のセイバーを高射砲の弾幕が包み始めると、彼らは追跡をあきらめ、カラマレンコはそのままアントン(安東)基地に滑り込むことができた(ブルース・ヒントンは被弾した例のセイバーのほうが心配だったという)。その日は、暴勇を奮った側に軍配が上がったというわけである。

711日にはさらにセイバーを1機撃墜。このときは同僚3人と地上の中国兵が撃墜したセイバーが、燃えながらシムニ島沖合いの黄海に突入するのを目撃している。同じ日に米空軍はF-86A1#48-297の損失を認めているが、「日本から韓国への空輸中に機位を喪失」と認定しているのみである。その2週間後の729日、カラマレンコの率いるミグの一隊がセイバー1個分隊を上空から襲った。カラマレンコはF-86A1機、#49-1098の尾翼を23mm37mmの機関砲で撃ち抜いた。このセイバーの操縦者は不明であるが、基地付近まで帰ったところで脱出、機体は墜落した。そのとき本人の知るところではなかったものの、カラマレンコは朝鮮戦争で両陣営を通じて最初のエースとなり、実に最初のジェット機エースとなったのである(それ以前にはどちら側にも5機撃墜を達成したものはいない。カラマレンコのスコアはすべてジェット機である)。

 

923日にはさらにF-86A #49-1158を撃墜と申告したが、実際は撃破であり、このセイバーは帰還、修理された。1030日にF-84E #51-615(第49戦闘爆撃航空群所属機)を撃墜、その後121日にオーストラリア空軍のミーティア部隊に仕掛けられた「大規模待ち伏せ作戦」にも参加している。この待ち伏せでは、ミグ側は10機撃墜を主張している(そのうち2機がカラマレンコによるもの)が、実際には3機が撃墜、3機撃破であった。カラマレンコはほぼ確実にバンス・ドラモンド曹長(捕虜)のミーティアを撃墜し、ミッドルミス曹長の機体を撃破したと見られる(訳注:この「待ち伏せ」は国連軍の一員であるオーストラリア空軍の戦意をくじくために特に企てられたもので、ペペリャエフ大佐の発案であり、ソ連側でも事前には厳重に秘匿されていた)。

明けて1952112日、カラマレンコはセイバー2機をスコアに加えた。その1機のF-86E #50-615の撃墜が確認されている(米空軍の記録では「エンジンが突然爆発」とある)。数日後もう1機のセイバーが彼の軍門に下る。この機体F-86Eのパイロット、ダニエル・ピーターセンは捕虜となった(第51迎撃戦闘航空団第25戦闘機中隊所属機)。だがその直後、カラマレンコは代償を支払わされる。すなわち別のF-86Eに撃墜されたのである。このセイバーのパイロットは、第4迎撃戦闘航空団第334戦闘機中隊のジェームス・レーベル中佐と見られているが、カラマレンコは無事脱出、レスキューの到着まで朝鮮の農民に厚遇を受けたという。

 

この輝かしい戦歴すなわち、104回の出撃で交戦回数42回、13機撃墜公認により、イェフゲニー・ペペリャエフ、ニコライ・ドゥカシェンコならびにグリゴリー・プーロフと共に1952422日にソ連邦英雄の称号を授与された。

カラマレンコ少佐はその後幕僚および教育任務に従事し、マリア・アレクセーヴィナと結婚、アレクサンドルとナージャの2子を設けた。1970年には空軍軍事顧問としてイラクに派遣され、さらにアルジェリアにも勤務した。最終的に空軍少将で退役した彼は、ペペリャエフやオシュキンと共に1993年に北朝鮮を訪問し、停戦40周年記念行事に参加した。2001年にはテキサス州産アントニオを訪れ、かつての相手方と今度は敵としてではなくまみえた。さらに2004年には自伝「二つの戦争の空」を刊行した。現在はモスクワに住んでいて、軍人会の副会長を務め、4人の孫に囲まれて生活をエンジョイしている。

 

ニコライ・イバノビッチ・イヴァノフ

朝鮮戦線ではWW2ですでにエースとなったパイロットが多数活躍した。ニコライ・イヴァノフはその一人であるが、彼は特に「2つの戦争でのエース」である。すなわち、1944-45年においてドイツ機を6機撃墜しているからである(4 FW-1902 He-111)。

彼の所属する726IAP/133IADが戦線に現れた1952年は、ソビエトのパイロットが苦戦していた時期だった。経験豊富で1951年には手強かった「ホンチョ」達は、同年に入って新前の集まりである97および197IADに置き換えられ、その後訓練を積んだ米軍パイロットに手ひどくやられていた。

 

 

1952716日、ニコライ・イヴァノフが最初の獲物として挙げたのはF-86E、パイロットのリチャード・ドレーゼンは戦死した。その2週間後の81日、彼の率いる12機のミグは、第336戦闘迎撃中隊のセイバーに襲われた。このときがイヴァノフのもっとも困難な戦闘だった。このセイバーを追跡中にイヴァノフは誤って機体を失速させてしまい、回復して気が付いてみると、セイバーが襲い掛かってくる。そこでこのセイバーを振り払うために、今度は故意にストールに入れた。この戦法はうまく行き、セイバーはイヴァノフのミグを追い越してしまい、その姿をさらけ出した:

 

「失速からの回復訓練はひんぱんにやっていて、ストールからの回復方法をくどいように部下に言っていたので、まあ自分でもどうするかは心得ていたよ。失速させて機体があんなように落下するとは思わなかったけれども、状況は自分の方が確実に押さえていた。回復しつつ見ているとセイバーがやってくるではないか。そこでもう一回、こんどはわざと失速させた。こっちもかなり頭に血が上っていたが、操作は冷静にこなせたと思う。高度はそう高くなかったが、2回目のストールからの回復の際に敵が1機前方におどり出した。もう廻りに気を払うことなどない。だれもオレを撃てるもんか。前方のセイバーにまっすぐ突進し照準、一度いや二度射撃した。やっつけたのが明瞭にわかったさ。

突進から引き起こすあいだに2機目のセイバーが現れた。私に撃ってきたとは思うけど、たぶん外したんだな。それで一寸したマニューバーをかますと、ヤツはまたまた前方におどり出やがった。最初にやっつけたのが落ちて行くのは見ていないが、2連射するとこいつも煙を噴出した。左翼に損害を与えたのがわかったさ。それでまた撃った。そしたら派手に爆発して煙を残して左に落ちていった」

 

ほんのわずかな間にイヴァノフは2機を餌食にした。2番目の機体は米軍の記録でも確認されている。そのセイバーのパイロットはフェリックス・アースラJR.少佐であり、すぐれたセイバー・パイロットの彼はそれまでに4機のミグをスコアとしていた。アースラ少佐は脱出できず、操縦席で戦死していた(訳注:航空ファン別冊 #27Air War over Korea 朝鮮戦争航空戦」、昭和6081日刊行、pp38の上にセイバーが2機写っている写真の手前の機体)。

 

その2週間ばかりあとの820日の空戦で、同僚のミグがF-86E(パイロット:ノーマン・シュミット)に襲われ苦戦しているのを目撃、イヴァノフは愛機「502」で救援に駆けつけた。数射撃でイヴァノフはこのセイバーも片付け、スコアに加えた。セイバーのパイロットであるシュミットは後刻救助されている。

イヴァノフの5機目もすぐ機会がやってきた。95日にイヴァノフがアントン基地を離陸中に、管制塔から「セイバーが2機飛行場を機銃掃射中」との連絡を受けたのである(その頃は、こうした「訪問者」がひんぱんであったという)。どうにかして機銃弾を回避し、そのセイバーが通過するやいなや、イヴァノフは上空の低い雲に身を隠した。彼が雲から出てみると、なんとそこに安心して飛んでいる様子のF-86がいるではないか。イヴァノフはすかさず狙いをつけ、射撃した。するとそのセイバーは燃え出し、海面に突入した。そのセイバーはウィリアム・C・スニーが操縦するRF-86Aであり、海上で脱出成功後レスキューのヘリコプターに拾われた。そのときの行為によりイヴァノフ大尉はレーニン勲章を授与され、少佐に昇進した。

しかしながらそのあとでWW2の古傷が悪化、本国で入院せざるを得なくなった。

イヴァノフが戦線復帰したのは停戦のわずか1ヶ月前だった。1953716日、僚機とともに戦闘空中哨戒についていたイヴァノフの眼前に数機のセイバーが現れた。そのうちの1機に2回射撃を加えると、煙を引いてその機体は去って行った。これがイヴァノフの最後の交戦であり、同月27日に停戦が発効となった。この記事の執筆時点において(200211月)イヴァノフは80歳、7年前に夫人と死別、モスクワの北方ヤロスラフに健在である。

 

セーメン・アレクセイビッチ・フョードレッツ

ロシア・アゾフ民族出身のフョードレッツは出撃回数98、公認撃墜8機を数える(全てF-86E/F)。被撃墜1回、ソビエト軍で第2位の勲章であるレーニン勲章を授与されている。

フョードレッツの朝鮮での初出撃は19529月、初戦果としてF-86を落としたのは3ヵ月後の12月17日である。翌年1953219日、ミグ-15bis93」に搭乗して913IAP/32IADによるパトロール中、高度14,000mにて下方の高度8,000mにセイバーの編隊を認めた。そしてこの優位からミグは攻撃に入った。セイバー1機がフョードレッツの同僚であるヴァレンティン・ショーリンに襲いかかったが。ショーリンのリーダーであるイェフゲニー・アシェイェフがすかさず援護に廻る。フョードレッツはさらにアシェイェフを援護するが、アシェイェフの弾薬は尽きてしまう。そこで:

 

「アシェイェフが突然「25番(わたしのコールサイン)間合いを詰めろ。タマが切れた。こっちは右に離脱する」と言ってきた。そこであわててダイブ、増速し、すぐにそのセイバーに取っ付いたのさ。セイバーのパイロットはすぐに自分がヤバいのに気付いて切り返し、ダイブに入れた。こっちはそのまま忠実に追っかけて、背面で高度80-100mくらいだったかな、照準器にヤツを捕らえて短く射撃した。37mmが当たったのだろうが、操縦席の後ろの胴体から炎のかたまりが吹き出るのがはっきり見えたよ。キャノピーが太陽で光ると共に、セイバーの胴体が二つに折れて、地上に吸い込まれていった」

 

その日フョードレッツの犠牲となったのはエドワード・アイズベッキ中尉であり、かろうじて捕虜となった。2日後アンシュ地区で行動中に、913IAPは第335戦闘迎撃中隊のセイバーに奇襲を受ける。そのセイバーのうち、ビンセント・ステーシー中尉の機体は中隊長であるSI・バビッチのミグに命中弾を与えた。フョードレッツはバビッチを援護、ステーシーを撃墜した。彼は脱出して捕虜となった。しかしながらバビッチのミグもひどく被弾していて、結局脱出した。バビッチは入院したが、中隊長代理としてフョードレッツを指名した。これによって、フョードレッツは33日にセイバーをもう1機撃墜することとなる。 

フョードレッツにとって最大の激戦は412日に訪れた。すなわち、彼の部隊はスプンダムがF-84により攻撃を受けることを察知したのである。これには当然F-86がくっついてくるであろう。224/535ならびに913の各IAPは可動全機を以って出動したが、フョードレッツの913IAPは、ほかの2連隊の上空援護として最後に出撃した。上空からその空戦を観察していると、案の定だれか戦友が助けを求めてきた:

「やにわに誰かさんが無線に悲鳴を上げた「助けてくれ。被弾した」。下方を見やると、右真横の1,500-2,000mくらい下でミグが1機、黒煙を吐きつつ北に向かって離脱しつつあり、それをセイバー1機が楽勝で追っているのが見えた。直ちに右急旋回、そのセイバーに急迫した。射距離100ないし300m2連射したかな。2回目の射撃を終えるとそのセイバーは操縦不能になったみたいで、右旋回から地面に向けて落ちていったよ」

 

そのF-86Eのパイロットは335FISのノーマン・グリーンと思われるが、無事救助されている。そのとき、すなわちフョードレッツがグリーンに射弾を送っていたとき、その背後から39FISのセイバー4機が迫っていた。フョードレッツが知る由もなかったことではあるが、そのセイバー分隊を率いていたのはそれまでに7機のミグを撃墜しているジョセフ・マッコーネル、すなわち最終的に米軍側最高位エースとなる男だったのだ。

 

「わたしのマニューバーがあまりにも急激だったためか、わたしの編隊の3番機と4番機ははぐれてしまった。しかし忠実な僚機であるV・イェフレモフは私にくっついてきてくれた。最初のセイバーに接近したとき、イェフレモフが「セイバー4機、後方より接近してくる」と言ってきた。で、ヤツはそう言ってから左にブレークしてしまい、結局私が残されたというわけさ。照準器から目を外して振り向いた瞬間に、こっちのコックピットに被弾した。右と上からかぶられたんだ」

「そんでさ、とりあえず右に外してそのセイバーの下方にもぐりこんだ。射線を外したのさ。そしたらそいつはこっちの右前方、目の前に出やがった。アメリカ人が振り向くのがよく見えたよ。そいつはフラップを下げて減速し、至近距離でこっちを出し抜こうとしたようだ。こっちもすぐにそれを見抜いたんで、すかさず左に外してからめくら撃ちをちょっとかました。そしたらさ、右翼の付け根の胴体ぐらいのところに当たった。直径1メートルくらいのすごい穴がそのセイバーの主翼に開いちまって、そいつは右にブレークして落ちていった。 それがその空戦での2機目というわけさ」

 

フョードレッツは一つ見落としていた。すなわち、彼が完全にやっつけたと思ったセイバー、すなわちマッコーネルが操る機体は、そのあとぐるりとバレルロールしてから、今度はフョードレッツの真後ろに取り付いたのだ。さすがのフョードレッツもこれには気が付かない:

 

「その攻撃を終えやれやれと思った瞬間、下方から機銃弾を打ち込まれてしまった。ヤバいと思って瞬間的に操縦桿を前方に押したが、操縦席はけむりでもうもうとなるし、燃料のにおいも立ち込めるし、それに計器がやられてしまった。さらに、なんと新手のセイバーが2機追いかけてくるのが見えた(フョードレッツは知らなかったが、その2機は先に撃墜したはずのマッコーネルとその僚機だった)。 操縦系統もやられてしまったんで、トリムで何とか姿勢を保ちつつ脱出を決意した」

「キャノピーを投棄するのがそんなに大変だとは思わなかったが、どうにか11,000mで無事脱出できたよ」

 

そのハンター、マッコーネルのF-86Fもダメージがひどく、東シナ海に出て彼はすぐに脱出し、H-19ヘリコプターによって救助された。この一戦はまさに両雄の角突合せであり、ロシア人エースは米国人エースを落として彼の6機目のスコアとする一方で、この米国人エースは脱出前にそのロシア人を撃墜するなどという、ハリウッド映画の脚本としてでもちょっと書きがたいようなすごいシナリオを提供したのである。この一戦を例にとっても、今から49年前に北朝鮮上空で、いかに両陣営のトップエースが技を尽くして戦っていたかの証左といえる。

 

1953412日の両陣営スコア:セイバー4vsミグ4機、スコアはまさにタイである。フョードレッツによるグリーンとマッコーネルのほか、グリゴリー・ベレリゼ少尉がロバート・ニーマン中尉のF-86E(戦闘中行方不明(MIA))、あとセミョーノフ大尉によるF-84E(パイロット:ジェームス・ウィリス、戦死(KIA))がその内訳である。

 

この戦闘ののち、フョードレッツ大尉は機体番号「16」のミグを駆ってさらに2機のセイバーを撃墜した。このうちの最初のは、610日に満州のダプ飛行場に来襲したセイバーの戦闘爆撃機、その操縦者はロバート・カウリー。このときフョードレッツは敵機に接近しすぎて、その破片が自機に食い込んでいたほどであった(米軍の記録では、この損失は「北緯38度の少し北方で対空砲火によるもの」となっているが、ソビエト側はカウリーが撃墜され、捕虜となった場所を明確に記録している)。

 

フョードレッツの最終戦果は719日に撃墜したF-86Eである。パイロットのケネス・ポレンスキ(336FIS)は戦死した(これも米軍の記録では「エンジン故障」による損失となっている)。停戦後、フョードレッツは少将に昇進、退役後は国立ハリコフ航空学校で、その知識と経験をもとに教鞭を振るった。

 

ディエゴ・フェルナンド・ザンピニ著  

参考文献およびリンク集

38度線上空のレッドデビル、イゴール・セイドフ&アスコルド・ゲルマン

V Nyebye Dbukh Boyn (二つの戦争の空)、セルゲイ・マカロビッチ・カラマレンコ、NPP Delta, 2003刊行(提供:カラマレンコご本人)

"Hunt for Sabre"「セイバー狩り」、レオニード・クリリョフ、ユーリ・テプスキャエフ両名による優れた雑誌記事、Mir Aviasti誌(ロシア語テキスト)

"Three out of One Thousand", レオニード・クリリョフ、ユーリ・テプスキャエフ共著、Mir Aviasti誌、英訳スティーブン・シーウェル

Shield of the Night, Little known pages about the Korean War 1950-53, (夜のシールド、朝鮮戦争の知られざる側面1950-1953)、イゴール・セイドフ著Mir Aviatsii誌、19931月号掲載、英訳スティーブン・シーウェル

MiGs in Local Conflicts、(地域紛争におけるミグ機の活躍)、ヴラディミール・バビッチ、1997