「アルミニューム&マグネシウム・オーバーキャスト」を飛ばす

 

エアクルーS-02(先任選抜クルー)

 

第40爆撃中隊(重爆撃機)、第6爆撃航空群、合衆国空軍戦略空軍

 

ニューメキシコ州ロズウェル、ウォーカー基地勤務の記録

 

1955年3月から1957年9月までの勤務でのいろいろなお話

 

合衆国空軍中佐 テッド・アラン・モリス

 

 

 

1955年3月、私は戦略空軍(SAC)爆撃部隊に中尉として任官した。空軍士官候補生学校に半年、訓練軍団の偵察士コースで18ヶ月のトレーニングを経て、ニューメキシコ州ウォーカー空軍基地の第6爆撃航空群(重爆撃機)第40爆撃中隊へB-36爆撃機のフライトエンジニアとして配属された。 それまで私は9年半の間、下士官としてPBY-5A、PBM-5、 SB-17E、 SA-16A ならびにC-119Gなどの航空機で、機付き長あるいはフライトエンジニアとして務めてきた。 当初SACでは、士官および下士官の両方をフライトエンジニアに用いてきたが、B-36運用の後期になって、全てのフライトエンジニアに士官を充てることとした。そのため、私自身の将校任官となったのである。

 

その当時SACでは、6つの爆撃航空群、各モデル合計200機のB-36および4つの偵察航空群で約130機の偵察型RB-36を運用していた。第6爆撃航空群は、第24、第39および第40の3コ爆撃中隊(スコードロン)で構成されていた。 私のいた当時の航空群司令は、はじめがW.K.マーチン、続いてG.W.マーチンの両大佐で、ともに優れた人物であり、素晴らしい指揮官だった。

 

第6爆撃航空群のそれぞれのスコードロンには、9機のB-36F型(標準タイプと軽量化タイプの混成)および軽量化タイプのB-36J1機が配備されていた。ふつうのB-36Fは乗員15名が搭乗し、防御には16門の20mmMk24機関砲を装備、合計9200発の機銃弾を搭載していた。軽量タイプのB-36では、尾部銃座だけに1200発の機銃弾を搭載し、後部の銃手2名、前上部、後上部、後下部のそれぞれ2基ずつの銃塔とその格納メカニズム、ならびに照準システムは取り外されていた。 これでかなりの重量軽量となり、2700ガロン(10,125リッター)も燃料搭載量が増加し、合計搭載量は30,600ガロン(114,750リッター)となった。B-36の動力は6基のプラット・アンド・ホイットニーR-4360-53型、3800馬力レシプロエンジンおよび、4基のジェネラル・エレクトリックJ-47 GE-19ジェットエンジン、1基当たり推力5200ポンド(2360kg)を装備していた。戦闘装備での軽量化タイプB-36の重量は 410,000ポンド(186.14トン)、最高速度は410ノット(760km/h)、航続距離は4500マイル(8300km)、実用上昇限度は44,500フィート(13570m)であった。

 

ニューメキシコ州ロズウェルのウォーカー基地駐留第6爆撃航空群のB-36が2機、砂漠の上を低空で編隊飛行中。 各機には15名のクルー、8基の銃塔に16門の20mm機関砲を装備し、EWO(緊急出撃命令)作戦時には、重量43,500ポンドの核爆弾を搭載した。手前の92683号機の右翼エンジンからはオイルが漏れていて、それが右水平尾翼に2条のしみを作っている。これはよく起きたことであった。(米空軍提供)

 

 

各スコードロンには10組のクルーが配備されていた。各クルーは、スコードロンのいずれの機体でも飛ばせるようにはなっていたが、実戦出撃およびほとんどの訓練においては、各クルーに専用の機体が割り当てられていた。特に緊急出撃命令(EWO)では、各クルーにはB-36軽量化モデルおよび通常モデルのいずれかが割り当てられていた。私のクルーS-02の機体はB-36J-75 (III)、シリアルNo. 52-2821号機であった。この機体は軽量化タイプであり、搭乗員の構成もそれに従っていた。 52-2821号機は、コンベア社で1946-1954年の間に製造された383機のB-36の、最後から6番目の機体だった。

 

文字記号と数字により、各航空群でのクルーが区別されていた。クルーの技量ステータスは、次の文字で示される:NR(Not Ready:未即応状態)、R(Ready:即応状態)、L(Lead:先任)およびS(Select:選抜)。 そして番号が航空群内でのクルーの順位を表す。技量ステータスの最高位Sに対して、当時のSAC(戦略空軍)ではスポット昇進をもって報いていた。戦略空軍のクルーはみな、サービスの時間外や臨時派遣任務(TDY)をこなしていたので、スポット昇進はそれに対する報酬だった。Selectクルーでは、大尉、少佐また下士官で軍曹以上の者には、一時的ながら1階級昇進が認められていた。 SACの厳格なトレーニングと評価方式によるSelectの地位が認められている限り、その階級を保持できたのである。スポット昇進の地位にあっても、各個人は本来の階級により同期生との昇進競争をやっていた。 一例として、われわれの機長であるナーデン中佐は、以前は大尉だったのがスポット昇進で少佐となった。 その後彼は正式にも少佐となったが、同時に中佐の階級章および俸給をうけることとなった。われわれS-02クルーでは、機長、航法士、爆撃手、先任フライトエンジニア、先任及び次席無線士ならびに各銃手にスポット昇進が認められていた。 しかし、中尉の階級ではスポット昇進の恩恵には預かれず、次席操縦士、三席操縦士、副偵察士そして次席フライトエンジニア(つまり私)たちはいずれも黙々とやっていた。まあこれは私たちだけの皮肉であり今日でも変わらない。でも、戦略空軍はモラルの維持向上には真剣だったのだろう。

 

私たちと乗機B-36J、52-2821号機の任務は、万一事が起こった場合、「戦時非常計画」に示されたとおり目標に核爆弾を投下することだ。主要な兵器としては、2箇所の後部爆弾倉にまたがって、重量43,500ポンド(約20トン)、全長25フィート(7.5メーター)のMk 17核爆弾を1個、前部爆弾倉にはさらに、重量6,000ポンド(約2トン)の核爆弾をそれぞれ搭載していた。 1950年代に冷戦で緊張が高まったころ、すなわちハンガリー動乱、および英国、フランス並びにイスラエルによるスエズ侵攻の際には、戦略空軍ではしばしば完全なる「戦時非常計画アラート」を発令したことがあった。その当時は、われわれ戦略空軍の優れた作戦能力により。対立国に戦争を放棄させ、平和が保たれたというわけである。その作戦遂行能力は、まったく訓練の賜物以外の何者でもなかった。

 

Mk-17 熱核爆弾 (いわゆる水素爆弾) 1950年代B-36部隊により使用された主要兵器。パラシュートにより減速投下され、重量43,500ポンド(20トン弱)、全長25フィート(7.5m)の代物であった。 この爆弾は後部の2爆弾倉にまたがって搭載され、前部爆弾倉には重量約2トンのMk 6原子爆弾が同時に搭載された。

 

各クルーは1ヶ月で4-5回の訓練フライト、約70時間飛行していた。私の場合、B-36部隊にいた2年半の間に1400時間あまり飛んでいる。しかも、作戦計画作成、地上訓練、飛行前後の点検およびブリーフィング、デブリーフィングに費やされた時間は膨大なものだった。

 

戦略空軍(SAC)での訓練は、常駐基地からにせよ、あるいは展開先でのものにせよ、ある目標地点を回って帰ってくる、すなわち同じ場所から離陸し、着陸するというパターンが大部分だった。B-36はフライトごとに点検の手間が大変だったからである 。特に飛行後点検は技術を必要とし、よく訓練された整備技術者が必要だった。15飛行時間でさえ、かなりおおがかりな点検を行い、35時間ではさらに綿密な点検が必要だった。メンテナンスのマンアワーを有効利用するために、点検後初めてのフライトでは最大14時間55分飛ばし、その後のフライトは最小限20時間5分としていた。 実際14時間55分を超えるフライトはいくつもあったが、全部「14時間55分」として記録していた。いっぽう20時間55分予定の飛行については、超過時間はそのままカウントしていた。こうすると、2回のフライトで合計35時間を越えてしまうが、35時間点検だけ実施すればよいわけである。

 

目標地点往復飛行において真対気速度(TAS)350ノット(650km/h)で飛ぶとすれば、相当の長距離となってしまう。 一般に通常の訓練では、クルーの集合は出発時刻の4時間前であった。小型トラックに個人装具、その他全ての装備品を積み込んで機体のところまで運ぶ。寒冷地用サバイバルキットを詰め込んだA-3バッグ、パラシュートおよび個人用ライフボート全員分、6人乗りライフボート、K3Aスペアパーツ箱、飲料水および機内食などすべてを、機体まで運搬、搭載、収納する必要があった。機長、次席操縦士、航法士、爆撃手および副航法士は作戦情報、気象情報を集め、フライトエンジニアは飛行前点検を行う。

 

さらにフライトエンジニアは、最終的な離陸時のデータすなわち、離陸重量及び気温により異なる引き起こし(ローテーション)の速度、浮揚速度ならびにフラップ上げ速度をそれぞれ算出、さらに重心位置の確認を行い、燃料搭載量を算出し、飛行の各フェーズ(離陸、上昇、降下ならびに爆撃時)における出力セッティングを計算する。フライトエンジニアとしてそれらの計算をこなすうちに、直線型計算尺には自信を持つようになったが、後年、E6BとかMA-1Aといった円形の「コンピュータ」で、同じ尺度を使うのには困難を覚えた。

 

飛行前点検においてフライトエンジニアが必ず実施する項目として「主翼内はいずりまわり」があった。通常は2名のフライトエンジニアがそれぞれの翼を担当することになっていたが、実際は主席フライトエンジニアが書類の処理を行い、次席が両翼に亘って「はいずりまわり」をやっていた。これを行うには、まず左舷メインギアを伝わって主翼内に入り込み、内舷、中央エンジンの前方の通路と、外舷エンジンの横を這って回る必要があった。点検の途次、燃料並びにオイルのパイプ、ならびに無数のサーキットブレーカーパネルを点検した。左翼の内部点検が終わると、中部胴体の爆弾倉をくぐりぬけて、こんどは右翼内部を点検する。さいごは右翼の点検口にたどり着き、地上員にはしごをかけてもらって地上に降り立つ。でもたまにはその「はしご」さえなくて、そのときは右メインギアまで戻って、脚柱をつたって降りるのであるが、ここまで行うと、汗ぐっしょりとなってしまう。

 

主翼内のせまい場所で、しかも暑いときなど、どうしてもミステークを犯してしまう。たとえばあるとき主翼内で、正しくは20アンペアのヒューズが装着されているべきところ10アンペアのものがついているのを飛行前点検で見逃したことがあった。離陸して上昇中に、その10アンペアヒューズが飛んでしまい、その側のフラップが上げられず、左右翼で揚力のアンバランスに陥ってしまった。機長はキャビンの与圧を抜き、高度を10,000フィート以下に保って、私を主翼内に「派遣」した。折りたたんで格納された主脚のすきまに体をくねらせ(タイヤがまだ熱を持っていてひどいゴムの臭いがしている)2番、3番エンジンの吸気ダクトを乗り越えて、やっとヒューズ配電盤にたどりつく。 まちがって装着された10アンペアのヒューズを20アンペアの正規のものに交換して、また爆弾槽を通っての長い道のりをたどり、前部与圧コンパートメントに戻った。主席フライトエンジニアからは怒られるし、なおかつ熱いエンジンオイルでいくつか火傷も負ってしまうという散々な経験だった。

 

フライトエンジニアになるには所定の飛行経験が要求されたほか、整備将校として各クルーの機体整備をも担当した。事実、われわれフライトエンジニアは空軍における職種分類(AFSC)では「航空機整備職種」であり、「操縦/運用職種」には入っていなかった。B-36を地上移動、燃料を搭載、あるいはエンジンの最終点検を行うなど、いずれもフライトエンジニアのうちの1名が責任者となった。

 

飛行前点検中であっても、かなりの整備項目が残っていることが多かった。 そんな場合でも発進予定時刻に変更はないので、クルー全体が追い立てられる。発進時刻に遅れた場合、地上整備あるいはクルーのいずれかに責任追及が及び、双方の「言い合い」に発展しがちだったが、多くの場合はフライトエンジニアが地上整備に立ち合い、問題点を先に見つけて、双方の仲立ちをするようにしていた。整備格納庫では、機体が整備あるいは修理中、その機のクルーがよく「格納庫ピクニック」を行った。航法士や爆撃手は、大きな主翼を天井にして、飛行ミッション検討会をやっていたものだった。

 

飛行前点検完了後、搭乗前整列を行い、個人非常装備点検を実施した。離陸予定時刻45分前にエンジン始動手順を開始する。フライトエンジニアは6基のエンジンを始動し、チェックを行い、試運転を実施する。補助ジェットエンジンは、副操縦士がチェック、試運転を行う。そのほかのクルーは、担当の機器の作動点検後、機体がタクシー中に各自の離陸位置につく。前部与圧コンパートメントでは、正副の操縦士、フライトエンジニアだけが正規の座席に着き、残りのクルー(爆撃手、正副航法士、第3操縦士ならびに無線士)は、事故に備え無線コンパートメントの床に後ろ向きに座る。離着陸時はすべてそのように規定されていた。

 

滑走路上で出発位置につくと、予定離陸時刻の30秒前に10基のエンジンすべてを離陸出力とする。時刻ちょうどにブレーキを解除、飛行ミッションの開始となる。SACの規則により、離陸時には6基のレシプロエンジンすべてが運転状態にあることが求められていた。通常、ジェットエンジンも補助として用いていた。それで、離陸時にレシプロエンジンが一発だけ調子悪くとも、アイドル回転数でともかく回して、浮揚したならばすぐに停止してフェザリングすることも珍しくはなかった。 フライトは以降5基のエンジンで続行するのである。ジェットエンジンを主として用いたのは離陸、着陸、上昇ならびに高空での行動時(35,000フィート以上)だったが、ほかの場合でも使うことができた。ジェットの燃料はレシプロエンジンのガソリン、すなわち115/145 AVGASを共用していた。

 

防御兵装として、B-36には20ミリ機関砲連装銃塔が8基装備されていた。 後部与圧区画には銃手が5名配置され、尾部および後上部、後下部2基ずつの銃塔を操作した。 前部与圧区画に装備された銃塔のうち、次席偵察士が前部銃塔、 右上部銃塔は3席操縦士、そして次席無線士が左上部銃塔を担当した。通常の訓練射撃は、85%の射撃速度で実施した。通常、弾薬の搭載と射線調整は全て銃手の担当であった。

 

むろん、主体はあくまでも爆撃訓練であったが、われわれS-02クルーの成績は最上位であった。わたくしがこのクルーに入れてもらった直後に、爆撃手が高熱を出して一時的に飛行停止となった。そこで新任の爆撃手として、I.P.エバンズ中佐が加わった。中佐は何と、1955年度の戦略空軍爆撃コンテストの優勝者である。真のプロにしてジェントルマンであるエバンズ中佐は、空軍におけるB-36計画の当初からの参加者である。当時、すでに旧来の目視式の照準器からK-3Aレーダー爆撃照準システムに更新されていた。このK-3Aシステムだが、トランジスタが普及する以前のものであり耐久時間が非常に短かった。 作戦行動では常時ロッカーにレーダーの部品を携行し、飛行中のレーダー作動を確保した。訓練ではしばし、セメントを詰め込んだ重量6,000ポンドの模擬核爆弾を投下した。投下高度が常用の35,000フィートあるいはそれ以上でも、爆弾投下直後には100フィート(30m)もジャンプするのである。投下訓練のほとんどは、SACの施設であるRBS爆撃訓練場で行われた。全米にくまなく配置されていたが、貨車に設けられているものが多く位置を変更していた。

 

ある日、それは訓練期間最終日だったが、課目は43,000ftからの高高度爆撃であった。選抜クルーとして残るためにはここで一定の成績を挙げなくてはならない。進入点IPを通過直後、No.6エンジンの油圧がゼロとなり、プロペラをフェザーし、停止した。機長と主席フライトエンジニアが停止処理を行っている間、次席フライトエンジニアと爆撃手が新たな進入速度を計算する。 その直後にNo.5エンジンのオイルパイプも破損、150ガロンものオイルが噴出してしまった。当然このエンジンも停止させ、プロペラはフェザーした。すると、作動中であったジェットエンジン2基もコンプレッサーストールを起こし、停止してしまった。これであと、残されたレシプロエンジン4基を超過出力まで全開しなければならなくなった。爆撃針路上で対気速度が40ノット、高度1,000フィートそれぞれ低下してしまった。 飛行を保持するためにクルーが奮闘中、エバンズは冷静にデータを計算、K3Aシステムのコンピュータに入力し爆弾を投下した。標的を直撃はしなかったものの、優秀な得点を挙げたのである。爆撃終了後、われわれは非常事態を宣言、カーズウェル空軍基地に緊急着陸したが、その進入降下中にジェットエンジン4基の再始動に成功している。そこでNo.5及び6エンジンの修理を受けて潤滑油を補給後、われわれは離陸して残りの訓練課目を消化、ウォーカー基地に帰投した。このエピソードは、エバンズ以下われわれクルーが示したプロとしての側面であり、私が18年間在籍した戦略空軍で関わった人々が取る行動の典型である。

 

B-36の与圧キャビンでは、差圧4psiの与圧が与えられている。これはすなわち、実高度25,000ftでキャビン高度が10,000フィートとなることであり、キャビン高度がこれより低下すると、酸素マスクが必要となった。ちなみに飛行訓練での最低高度は25,000ftであった。この高度においてキャビン温度は、各種電子機器から発する熱により比較的快適に保たれていたが、それより上昇する場合には、いっぱい重ね着をしなくてはならなかった。

 

機体のサイズに比してそのコックピットは狭小であり、快適とはいえなかった。キャノピーは操縦士とフライトエンジニアをカバーするが、パイロットの前面にのみデフロスター空気噴出しが設けられていて、あとの部分は高空飛行中には結氷してしまう。これが降下中に解け出し、ポタポタとしずくが操縦席に滴下する。 フライトエンジニア席は操縦席の真後ろで、フライトエンジニアは後方に向けて座る。操縦士が座席を後方にスライドさせてリラックスしようとすると、フライトエンジニアが後方にシートをずらさなければならないのは窮屈だった。

 

B-36Jでは正副のフライトエンジニアが並んで座る形式であったが、これがB-36Fモデルになると正フライトエンジニア席だけとなり、次席フライトエンジニアは補助席に座るので、背中と首が凝って仕方なかった。フライトエンジニアは通常チェストパック用のパラシュート縛帯を装着し、少しでも操縦席全体が広く使えるようにしていた。次席偵察士が天測を行うのであるが、この場合潜望鏡型六分儀をキャノピー天井中央にあるセクスタントポート(六分儀を装着する穴)に装着して行った。偵察士がその定位置である前下部の爆撃手/航法士席から出てきてこの仕事を行う場合には、操縦士もフライトエンジニアも座席をスライドさせて場所を空けた。その場合偵察士が痩せた曲芸師みたいであると助かったのだが。

 

劇場映画(たぶん「戦略空軍命令」のこと)や軍の広報フィルムなどで描かれるような快適装備は、じつはB-36にはなかったのである。操縦席を含む前部与圧コンパートメントの乗員数は10名、それなのに休息用ベッドと言えるのは無線機ラックの上部に1つだけ、それも平常は予備パーツをそこに積んでいた。なので、誰もここでは寝られなかった 。実際の行動中は、どのクルーメンバーもまばたきできるほどヒマではなかったのだ。後部与圧コンパートメントには乗員3-5名が配置されていた。ベッドはたしかに6セットあったものの、10メートルものトンネルをくぐって後部にまで来て、そこで寝るような前部コンパートメント配置の者は誰もいなかった。

 

前部コンパートメントでの「トイレ」と言えるものは、非常にゆっくりとしか排出しない「尿チューブ」と便器だけだった。その便器だが、使うにはいろいろの機器を移動させなければならず、これも曲芸に近いと言えた。便器を飛行中最初に使用した人物が清掃の責任を負う慣わしであり、どの地位あるいは職責にもこれは関係ない。

 

着陸降下、進入中には、フライトエンジニアはとうじ最先端の診断装置を用いて、各レシプロエンジンの「飛行後点検」を実施した。「飛行後点検」とはいえ、フライトエンジニアが実施する飛行後点検の実質的な開始である。ミッション終了、着陸後、主タクシーウェイの中間点にある一点式給油場に駐機する。そこで搭乗員は機体に持ち込んだ装具、装備品をトラックにのせ替え、デブリーフィングに臨む。  次席フライトエンジニアは給油場に残り、最低量25,000ガロンあるいは指定されている量の給油に立ち会う。給油完了後、次席フライトエンジニアの指揮により、地上員が機体をパーキング位置まで牽引、移動する。

 

給油場に機体が1機だけであるならば苦労はないが、たとえばウォーカー基地などでは6箇所の給油場を同時使用することもあり、その場合の牽引とパーキングの整理は一大事だった。だまって指示に従うとすると、給油の順番が最後になる場所に駐機させられてしまう。最後に降りてくる機体が最初に片付けられ、自分たちの機体が給油され、駐機が済むまで2-3時間待つこともしばしばであった。 次席フライトエンジニアが任務から解放されるのはそれからで、24-36時間も飛行したあとでのことである。

 

いまのSACならば、B-52、FB-111あるいはB-1などの機材でアラート体制をとっていて、当然搭載兵器も航空機と同じ基地にあるのは当たり前だが、1956年当時は、SACの各爆撃機基地には、なんとそれが配備されていなかったのである。核兵器に関しては空軍補給司令部(AFLC)が、空軍基地とは異なる国内数箇所の空軍駐屯地に分散して保管、貯蔵していた。そのうち戦略空軍が使用した核兵器は、主として:ディープ・クリーク(ワシントン州フェアチャイルド基地内)、マウント・ラッシュモア(サウスダコタ州エルズワース基地内、われわれ第6重爆撃航空群はここを使用)、ライムストーン(メイン州ローリング基地内)のものだった。

 

であるので、万一開戦が避け得ない場合、あるいはSACによる特別査閲(事前予告なし(ORI))においては、各基地から予備部品ならびに整備機材をパックした「展開装備キット」を搭載して、それぞれ核兵器保管駐屯地へまず進出、ここで展開装備キットを降ろし、兵器を搭載する。当然、この手順ではSACの反撃は相当に遅れてしまう。 そこで空軍は、核兵器をそれぞれの基地配備方式に転換、各基地隊所属の航空装備隊が厳重な弾薬庫を管理することとした。その後航空装備隊から弾薬整備隊となり、爆撃航空群の整備部門の傘下となる。

 

核兵器搭載駐屯地(基地)では、SAC側が展開装備キットの搭載および取り卸しを行い、核兵器本体は空軍補給司令部の人員がハンドリングした。当然ながら、この訓練のための進出訓練を年に数回は行わなくてはならないが、戦略空軍は、通常実施する14:55時間および22:05時間の訓練フライトにこれを組み込んでいたのである。

 

B-36には当初から反対論が多かった。たとえば海軍は、新空母建造の方がB-36の380機を保有することよりも有効だと主張していた。戦略空軍自体、この論争において、当時最大の爆撃機の運用実績向上を目指して、航空機とその運用人員に負荷を強いていた。また一般市民への戦力展示にも熱心で、休日などに低空での編隊飛行実施にも即応に努めていた。

 

夏の暑い日に、熱上昇気流で荒れる高度2000ftでB-36に搭乗していると、機体がゆられて必ず酔ってしまう。ジョージア州メーコンで1955年7月に実施した飛行展示のときには、汚物袋がなくては全くやっておれず、搭乗員の何名かは、着陸後ほとんど歩行することすらままならなかった。

 

そのような展示飛行では、しばしば異なった航空群から派遣された機体同士がぶっつけ本番で密集編隊を組まされた。その際、編隊を組んで、集合地点上空にて展示予定時刻まで待機する。参観者の上空を正確な時刻で通過、町並みの窓を重厚な爆音で震わせ、わが「マグネシウム・オーバーキャスト」を見せつけるのであった。

 

ペンシルベニア州フィラデルフィアでのデモ飛行のとき、ちょうどわれわれの機体の真上に位置していた別のB-36がエンジンのトラブルを起こし、われわれの機のキャノピーは故障機のエンジンの破損した部品とオイルをかぶってしまい、しばらくの間は視界不自由のまま飛行せざるを得なかった。

 

飛行展示をするといっても、それに通常の訓練が組み込まれることは言うまでもない。航法士は日中/夜間それぞれの天測、レーダーあるいは極地グリッドの各航法を駆使して正確なナビゲーションに努める。 爆撃手は途上でいくつもレーダー照準演習(RBS)を反復、操縦士は計器飛行訓練を行った。銃手は射撃訓練、フライトエンジニアは燃料消費率を考慮してエンジンの最高効率を引き出すことに努めた。どのような飛行目的であれ、必ず訓練が組み込まれた。また、いつでも飛行展示要請に即応できる体制にあった。

 

どのフライトでも、常時訓練実施が求められていた。1956年のあるとき、私たちクルーS-02は当時コロラド州ローリー基地に設置されていた空軍士官学校第6分隊への地上展示を命じられた。そのための往復でさえ、それぞれ14:55および20:05時間の訓練を実施している。

 

当時のSACの基本方針として、自隊基地以外では、一晩といえども滞在を認めなかったが、一方で10-14日間の前方展開訓練ならびに、3-4ヶ月の海外基地派遣も行った。海外の基地とは、グアム、グリーンランド、アラスカ、北アフリカならびにオキナワなどであった。それぞれの長期展開行動においては、特別物件の搭載、取り卸し作業を行った。すなわち、前部爆弾槽にコンテナーをまず取り付け、そこに各搭乗員および地上員の私物であるモーターバイクを積み込むのである。 移動先飛行場での移動には、モーターバイクが当時のSACでは必需品だったのだ。バイク以外の移動手段は歩行だけであった。 基地にはたしかに、「エアクルータクシー」というのも存在していたが、爆撃航空群あて1台しか割り当てがなかった。

 

当時の展開行動中には、面白いフライトがいっぱい行われた。第6爆撃航空群の1955年次90日展開行動訓練のある日、われわれクルーS-02はベーリング海ならびにロシア北部での高高度での大気標本採取を命じられた。前部爆弾槽に観測用機材が収納され、観測用センサー類が爆弾槽扉から突出し、気流にさらされる格好である。 そのフライトは20時間以上となり、ほとんど高度35,000フィートより高高度での行動となった。着陸したのは日本の三沢基地で、そこで飛行後の整備点検作業を受けた。そのときの三沢基地にはF-86Dによる迎撃戦闘飛行隊がいて、われわれの機が進入降下中に、連中は上がってきて要撃訓練を繰り返していた。F-86Dの多数機に取り囲まれて、われわれはちょっとソビエトのミグ戦闘機に出会ったときのような複雑さを感じた。

 

三沢基地を訪問するB-36はわれわれの機が最初であったため、地上支援機材は当然ながら揃ってはいなかった。 三沢からの出発時には、首脚を押し引きする牽引バーなどはなかったので、ランプから出るには、プロペラをリバースにしてバックした。さらに、タクシーウェイの幅が狭く、かつ許容重量もオーバーしていたため、直接滑走路上を滑走路エンドまでタクシーし、そこで180ターンして向きを変え、さらにリバースでバックして、尾部が滑走路エンドからはみ出す所まで下がった。こんな芸当は、連中が飛ばすF-86Dでは出来っこない。地上でこのショーを演じていると、日本人の見物人がおおぜい基地の柵に群がってきた。離陸開始のときにエンジン10基の全力によるブラストを浴びせると、自転車の見物人も含めて四方に散っていったと尾部銃手が言ってきた。離陸して1回ローパスを行ったが、あのときの風圧はすごかっただろう。グアムへの帰路では、もちろん訓練を実施した。

 

翌年2月、この展開行動訓練を終えてウォーカー空軍基地に帰還する際、広域の悪天候によって、米国西海岸のほとんどの地域が、霧あるいは降雪に包まれてしまった。この悪天候がニューメキシコ州に広がって、18インチ(54センチ)以上の雪が降り積もる前に基地に帰投できたのは、最初に出発した2機だけであった。 結局第6爆撃航空群所属各機は、ウェーク島、ハワイ、カリフォルニア州ブライス基地など、広い範囲に分散、目的地変更を行わざるを得なかった。

 

これら定期的訓練に加え、SACは突発的に遠方への移動訓練を命じて、各部隊の実力をテストした。1957年3月、第6爆撃航空群は「ホワイト・ホース」と名づけられた部隊実戦演習(USCM)により、まずウォーカー基地からハワイのヒッカムに移動、さらに前方となるグアムのアンダーセン基地に展開した。そこから、フィリピンのミンダナオ島ザンボアンガ、 台湾の台南および東京などとを一連の仮想標的として、ワンフライトのミッションを実施した。この 1回の飛行で上記各目標を攻撃、帰投目的地のオキナワ、カデナ基地に着陸、飛行後デブリーフィングを行った。

 

カデナから本拠地ウォーカー基地までの帰路ノンストップ飛行はおよそ27時間かかったが、ちょうどハワイの真北1000マイルくらいにさしかかった所、機内に閃光が走るのをクルー全員が感じた。おそらく落雷によるものだと思われるが、バッテリーだけを残して、あとは全て電源が失われてしまった。技術指令書T.O.ダッシュ・ワン(フライトマニュアル)によれば、そのような状況でのバッテリーの持続時間は、ほんの15-17秒にすぎない。それで、各クルーはそれぞれ、担当の電子機器類のシャットダウンに奔った。電源分電盤を担当するフライトエンジニアとして私は、その15秒間にオルタネータ電源の復旧に努めた。結局無事ウォーカー基地に帰投できたが、8日間通して4回のミッション、合計飛行時間115時間あまりであった。

 

ジェームス・スチュアート主演の映画「戦略空軍命令」に出てくるようなスチームバスやマッサージのサービスなんてものは実際にはなかったが、ニューメキシコ州ロズウェルにあるウォーカー基地は天国であった。 第6爆撃航空群はB-36だったが、そのほかにB-47を飛ばしていた第509爆撃航空群が同じ基地に同居していた。通称「海岸沿いのロズウェル」、これはいつも砂がどこからか飛んでくるので、おそらく海岸が近いのだろうということでついたあだ名であった。ロズウェルの街の人口は10,000たらずで、そのほかの主要な街からは200マイル以上離れていた。地元民は皆親切で人柄がよく、私自身はこのウォーカー基地とロズウェルの街を基準として、そのほかの勤務地を比較していた。春になると砂嵐がよくこの地域を襲った。砂自体、高度10,000フィートまで立ち昇る。ウォーカー基地の標高は3,600フィートである。砂が空中に漂うので、しばしば着陸時に計器気象条件となった。砂によるエンジンや機体各部の摩滅はいちじるしく、春季における整備作業は大変だったが、そのほかの時期は快適な場所であった。

 

でも、良いものにもいずれ終わりが来る。第6爆撃航空群は1957年に新型のB-52に機種改変した。そのため、将校のフライトエンジニアはお役御免となった。SACは改めてわれわれにB-47のナビゲータ兼爆撃手の教育を実施(152X)、私自身はそのあと2年間B-47で仕事をしたものの、1960年に航空身体検査で航空不適と判定され、搭乗配置を解除された。そのあとSACの地上職として弾火薬保管所管理官を12年勤めたが、それはまた別のはなしである。

 

Ted A. Morris著作 2000

http://www.zianet.com/tmorris/b36.html

 

訳注)マグネシウム・オーバーキャストとは

 

上記文章にもあるが、要撃訓練で戦闘機がB-36に模擬全天候インターセプトを行うときなど、下方からB-36にあまりに接近しすぎて主翼が戦闘機側のキャノピー全面に広がって「こりゃ全天マグネシウム曇りだ」と言ったのが始まりとか。同様にして「アルミニウム・オーバーキャスト」というのもある。