ソビエト・ロシア軍の元パイロットが語る航空機—I-16からレンドリースの英米戦闘機

ニコライ・ゲラシモヴィッチ・ゴロドニコフ退役少将

1942年から終戦まで、ソ連海軍北洋艦隊航空隊第2親衛戦闘機連隊(2GIAP)に所属して戦い、ドイツ機7機撃墜のスコアを挙げた。幾多の勲章を授与されたニコライ・ゲラシモヴィッチ自身が語る各機種の評価と戦闘に関するおはなし。

対談者アンドレイ・スホルコフが数度にわたるインタビューを行い、それをまとめたものが以下の記事である。

英訳:James F. Gebhardt 日本語訳:おおいしなおあき         

原典: www.airforce.ru

本テキストの翻訳・発表は原著作権者の承認を得ています

 

パート1  ポリカルポフI-16戦闘機とホーカー・ハリケーンのぐあいと比較

N.G.ゴロドニコフの操縦練習生時代、1940年、エイスクの海軍操縦学校のときのもの。N.G.Golodnikov氏のコレクションから。

 

問い(アンドレイ・スホルコフ、以下同じく):どの操縦学校で訓練を受けたのでしょうか。訓練時の機種は?

 

最初エイスクにあったI.V.スターリン海軍操縦学校の2年間コース。私のいた期は、学校を下士官として修了した最初のクラスだった。それ以前の期はみな少尉任官しての卒業だったが、私の場合兵曹で操縦訓練に入り、そのまま卒業したわけだ。

 

卒業前には士官服の採寸が行われたが、チモシェンコ提督の直前の命令で1941年に卒業する者は訓練期間の長さのいかんを問わず、みな下士官として卒業する方針となった。訓練が終わったのは戦争が始まるわずか3日前だった。

 

私は卒業と同時に学校の飛行教官をやらされたので、前線に出たのは19423月になってからだった。1941年の開戦から翌年3月まで、操縦学校は一度ならず移転を繰り返した。教官勤務を終えたとき学校はモズドクに移転していた。

 

教官をやらされていた間、一度ならず前線への転属を申請したが、ようやく1942年になって認められた。すなわち、赤旗北洋艦隊VVS KSF 72混合航空連隊、のちの第2親衛戦闘機連隊に配属となった。連隊長でソビエト連邦英雄を2度受賞した、ボリス・F・サフォーノフが戦死したあと、隊名はサフォーノフ連隊となった。私は終戦まで転属せずに、サフォーノフ連隊で飛んでいた。

 

連隊には最初隊員として配属され、逐次先任飛行士、飛行隊長、連隊先任将校、そして終戦後に連隊司令とステップアップしていった。その後は軍空中射撃訓練総監、飛行監査委員会操縦技術・飛行理論先任監察官を歴任してから、レニングラードのK.E.ヴォロシーロフ海軍航空大学校に行き、卒業後は海軍航空および防空軍のさまざまな管理職を経験した。結局、兵曹から中将になるまでの間、航空に関する仕事をほとんどやったことになる。

 

操縦学校ではまずI-5で訓練した。そのあとI-15に進んだ練習生のうち、さらに10人がI-16訓練中隊に抜擢され、そこに私が含まれていたというわけだ。このI-16訓練中隊にはI-16-4-5-10-17-21各タイプがあったが、-21は不足しつつあった。1941年後期、I-16のうちM-25エンジンつきの型は機銃に加えてロケット弾が搭載可能となり、そのため実施部隊に廻されて前線に送られた。このため操縦学校の訓練用としてはM-22エンジンつきのI-16-4型が残った。M-25がプロペラ右回りなのに対し、M-22エンジンは左回転であり、潤滑油もヒマシ油を使わねばならなかった。

 

(訳注:M-25:ソ連製米国ライトR-1820エンジン、M-22:同英国ブリストル・マーキュリー)

 

問い:操縦学校を修了した時点の実用機での飛行時間は?

 

練習生としてI-16で飛んだのが4-50時間ほど、入隊以前に地元飛行クラブでU-260時間ばかり、そのあとUT-1およびUT-2で数回飛んで、操縦学校の前の訓練飛行隊ではR-5に乗せられて、操縦学校入学後にUTI-4で飛んだ。ここまでで110-120時間くらいになる。これに練習生互乗でUTI-4および実用機での30-35時間が加わる。

 

ほかの練習生にはなく私だけがI-1645時間飛行したが、それには理由がある。

私のいた訓練飛行隊には1機だけI-16-10があった。その機体は主翼交換を含む大修理をやっていて、着陸時に引き起こすと、接地のときに必ず右にガクッと傾いてしまうクセがあった。しかし、私は初搭乗でそのクセのことをしっかり把握し、そのため私は教官から本機での飛行課目履修を許された。

 

私に続いた練習生は、地上滑走さえ正しく操作できなかったので、けっきょくI-16の飛行を許されたのは私だけとなった。それでその一件のあと、教官と私とだけでI-16を飛ばしていた。部隊にあった他のI-16を実用機として前線に出したあとも、このクセのあるI-16は送られず、そのまま私の分隊で使用していた。いくら上層部とはいえ、さすがにこのアブナイ機体を実施部隊には出せなかったのだろう。

 

わが訓練部隊の属していた管区では1939-40年戦争で実戦を経験していて、それに応じて訓練が行われた。

けっきょく、操縦学校修了までに私は、地上目標射撃、標的に対する空中射撃および空戦機動を含む実戦教程を一通り終えていた。それで私の期は「実戦適」と判断された。操縦学校にはほかに、初級士官による1年間の短縮コースの期がいたが、彼らは「実戦未適」のまま卒業して行った。

 

私がやっとのことで前線に出してもらった時には、学校の教官として戦闘機で相当の飛行時間数に達していた。ともかく操縦学校の教官としてこき使われた。一人で6名の学生を教班として担当し、その全員をなんとか仕上げるように要求された。まずUTI-4複座機に学生と同乗し、訓練空域で学生に自分のベストな空中操作をやらせてみる。機長(教官)の指示により、必要な課目を繰り返し実施し、練習する。

 

通常、6名の学生全員が必要な課目をこなせて初めてI-16での訓練に進むことができる。

学校では学生への教育のほかに、LaGG-3の実習も行われた。開戦の1ヶ月前に何機かラグが学校に配属され、教官のみが訓練を行った。当然この私も乗って操縦資格を得た。最初のラグはタガンログ工場製で燃料タンクが5つもあるやつ、後のほうに来たのはトビリシ工場製で、タンクは3つにまとめられていた。

 

私が学校から前線に出る際に、自分が最後に受け持った班の卒業生を率いて行った。3月に修了した10名のうち、先任者として私がその中の5名を連れて戦線に向かった。まずダグラス(DC-3またはPS-84)でモスクワ経由アルハンゲリスクへと飛び、そこからSB爆撃機の爆弾槽に詰め込まれて赴任地のセベロモルスクにやっと着いた。

 

問い:前線ではI-16のどのタイプで飛ばれたのでしょうか?

 

北方戦線の部隊に配属されてすぐ私が使ったのは、M-63エンジン装備のI-16-28-29の両タイプだった。ところが6機あった-29タイプは爆撃で4機が壊されてしまったので、ほとんど実戦では使われなかった。けっきょく隣にいた連隊に引き渡してしまった。

 

問い:I-16とはどんな機体でしたか?印象はどうでしょう?

 

I-16というのはいろいろと気を配る必要がある、操縦の難しい機体だったな。わずかでも操縦の限度を外すと、実に簡単にスピンに入ってしまう。これ本当の話。でもノーマル、背面どちらのスピンでもすぐに回復できたのも本当。I-16というのはとても運動性が良くてどのような機動もこなせた。I-16はわたしの好きな機体だ。

 

問い:よく「I-16は電柱を軸にスパイラルができる」といいますが、それは本当ですか?

 

水平面の運動ということでは、その話はウソではない。あんな飛行機はほかにない。

 

問い:それでは垂直面での機動性は?

 

装備するエンジンの型式によって違う。ほとんどのタイプはM-25エンジン付きで、垂直面の運動性はまあよろしい、というところか。

 

問い:I-16の操縦席は評判が良くなかったようですが?

 

ご存知の通り操縦席が狭い。もともと機体そのものが小さいので、操縦席も広げることはできなかった。

 

問い:視界は悪かったのでしょうか?

 

I-16は機首が太くてエンジンが操縦席のすぐ前にあり、前方の視野を大きく遮っていた。そりゃ直進中はまっすぐ前はほとんど見えないが、 普通そんなことはしない。地上滑走では左右にジグザグにタクシーし、進行方向を確認する。離陸滑走でテールを上げると初めて、前方も見えるようになるという具合。

 

部隊のI-16には可動キャノピーが付いていたが、空戦前に開位置にロックしていた。そもそもそのキャノピーには枠が多くて、しかも透明部分はセルロイド製で透明度が悪く、従って視界も阻害されてしまう。それとキャノピーが開かないのを恐れたというわけ。被弾して脱出しようにも、キャノピーは投棄できない構造だった。

 

問い:キャノピーはセルロイド製ということでしょうか?そうすると手作りの粗悪品だったのでしょうか?非常時に投棄できなかったのでしょうか?

 

そりゃキャノピーも工場製品だったけど、セルロイド製と言うのは本当。プレキシグラスではなかった。キャノピーはレールで前後にスライドする。非常投棄機構もあったようだが、全機には装備されていない。

 

問い:そのほか操縦席について意見は?

 

操縦桿は通常のスティックタイプで、基部を中心に前後左右に動く普通のやつ。操縦桿に射撃ボタンが付いていて片手でも操作できた。操縦桿にはそれだけしか付いていない。

 

問い:ヒーターは付いていましたか?

 

ヒーターはなかったがエンジンのすぐ後ろで、その熱ですごく暖かかった。それで首から下はOKだったが、顔面は凍った。顔面の凍傷を防ぐために毛皮のマスクもあったけど、戦闘の時に邪魔になるのでほとんどだれも使っていない。

 

問い:無線機は装備されていましたか?

 

I-16-17型からラジオが一応装備されたが、あれははっきり言って「ガラクタ」。何かボール紙みたいな基板上に配線されていて、それがすこしでも濡れると回路がダメになり故障してしまう。そうなるともう雑音しか聞こえない。

喉につけるマイクロフォンも変に大きくてゴツゴツしていて喉が痛くなった。

 

そのため空戦時の編隊指揮は機体を動かす(翼を振るとか)、手信号、指で指す、顔を向けるなどの方法で行った。たとえば、まず指先で2を示し、それから腕を見せてから右に倒す。これは「右下がり2機編隊を組め」になる。顔の表情やジェスチャーにも、何らかの意味が込めてあった。

 

問い:防弾鋼板や防弾ガラスは装備されていましたか?

 

防弾ガラスはなかった。前方風防は通常のプレキシグラス製だった。操縦者の前面はエンジンで守られていて、これはI-16のひとつの利点と言える。前方射撃時にはこれが心強かった。あと防弾座席と頭部プロテクターは付いていたな。それは小口径弾にはとても効果があった。機関砲や重機関銃の弾丸は貫通したが、そもそもそこまでの防弾を要求された設計ではなかった。

 

問い:計器として水平儀やラジオコンパスといったのは装備されていましたか?

 

水平儀もラジオコンパスもなかったが「ピオニール」という計器がついていて信頼できた。それには旋回とすべりを示す指針と左右の傾斜を示すボールがついていた。指針とボールには目盛りがあって、機体の姿勢が分かるようになっていた。その他、計器装備はよかったな。

 

問い:主翼のメカニズムについて説明してください。

 

I-16-17タイプから手動操作によるフラップが装備された。だが、操縦学校の学生にはフラップは使わせなかった。フラップは固定されていた。

私は続けて前線でタイプ-28-29と乗ったが、どんな場合でもフラップが必要だったことはない。同じく固定してあった。主脚の上げ下げは手動のクランクとワイヤーによる巻き上げ方式で、上げる場合43回もクランクを廻さねばなかった。

 

たまに急ぐ場合、特に燃料がギリギリのときには、脚を下げるのにクランクを廻している時間がない。そのためパイロットは各自プライヤー(訳注:カッター)を携行、脚を下げるヒマのない場合には脚を巻き上げているワイヤーをカットする。脚は自重で下がるので右、左に鋭くバンクさせるなどして脚をダウンロックさせる。それで正常に着陸できるわけ。

 

車輪ブレーキとして独立したペダルが付いていた。ブレーキは普通の形式のやつ(訳注:左右のかかとで操作するものと思います)。

 

問い:I-16には酸素装備は付いていましたか?

 

酸素は積んでいた。高度5000mより上で酸素マスクの使用を勧められていた。酸素装置は信頼できるものだったが、バルブを手で廻して流量の調整を行うものだった。純酸素が供給され、使用中に息が苦しくなったときに、バルブを開くようにすればよい。当初はマスク方式だったが、その後マウスピースのような方式のものが作られた。だが、全体を通じてわれわれが高度5000メーター以上に上がることはほとんどなかった。

 

問い:照準器はどのような形式のものでしょうか?

 

照準器には2種類あって、最初のヤツは望遠鏡方式。その制式名称は覚えていない。筒先がウインドシールドを貫通していて、十字で照準する。その筒には予備として外部に小さな照門がついていた。

 

問い:それらの照準器で精密な照準ができたのでしょうか?

 

私のところの連隊では、相手から50-70メーターの距離、すなわち相手機のリベットが識別できる距離で射撃開始していた。 その距離でならば、照準器があろうとなかろうと外すことはない。距離200メーター以上では絶対に射撃しなかった。遠すぎるのさ。

 

問い:武装はどのようなものでしたか?

 

機銃はたくさん種類があった。I-16-10-17-21までは機銃、-28-29タイプには機関砲がついていた。いくつかのタイプではベレジン12.7mm機銃をShVAK20mm機関砲と交換できた。

 

旧い-4-5タイプは、主翼にShKAS7.7mm機銃を各翼に2丁ないしは1丁装備した。ShKAS機銃は発射速度は大きかったが、信頼性に欠けていて、よく突っ込みを起こして射撃できなくなった。ゴミと埃に弱かった。

 

射撃を続けると許容範囲ではあるが散布が大きくなった。だが実戦で撃ち続けることはない。まず短かく撃って距離を確認し、その次に必殺打を浴びせる。ShKAS機銃の破壊力は大きくないが、メッサーシュミットのE型に対しては有効だ。すなわち装甲が不完全なためだ。

だがShKASはメッサーのFモデル以降および爆撃機には効果がなかった。

 

I-16-10には、胴体にベレジン重機関銃が装備され、プロペラ同調方式だった。ベレジン機銃は素晴らしいもので、信頼性もあった。

 

ShVAK機関砲はとても強力だ。機関砲装備のI-16は重くなったが、それでもその良さは変わらなかった。ShVAKでも時に故障することがあったが、それは整備不良が原因だった。兵装整備員が正しい整備方式の教育を受けたあとは、機関砲は信頼できるものとなった。ShVAK機関砲は炸裂弾を発射できた。

 

敵機のエンジン部分に命中したときの破壊力は大きかった。徹甲弾も供給されていて、通常その2種類を混合して使用した。すなわち炸裂弾2発に対し徹甲弾1発、ないしはその逆の組み合わせで弾帯を構成したが、それは交戦する相手により使い分けた。徹甲弾は通常の鋼鉄弾心で曳光しないが、炸裂弾が曳光した。

 

問い:I-16のロケット装備について教えてください。

 

ロケット弾には口径57mm82mmの大小があったが、57ミリのほうが主流だった。左右主翼下に装備した。命中精度は高くはなかった。特に57ミリ弾のほうはね。しかしわれわれの1機でも敵の爆撃機編隊に向けて斉射すると、連中は編隊を崩して散開してしまう。あれは壮観だったな。

 

問い:その弾頭に接近信管は付いていましたか?

大体の場合は装備されていた(訳注:これ???)

 

問い:爆弾を携行したことはありますか?

爆撃任務はほとんどなかった。しかし両翼に50キロずつ搭載できた。ほとんどの場合、ロケット弾を携行していた。爆装あるいはロケット装備で、両者を混載したことは全くない。

 

問い:エンジンについて何か問題はありましたか?

 

I-16のエンジンはいずれも良かった。シリンダーが23本やられてしまってもエンジンは廻り続け、しばしばそれで帰投できた。M-63というエンジンは特にすごくて頑丈だったな。全般的にI-16はスロットルのレスポンスが俊敏で、すぐに加速できた。M-63エンジンのついたタイプはその特性がすばらしい。どの高度でもエンジンは良好に動いた。

 

問い:特に高出力を出せる高度域というものはありましたか?

 

いいや、単純にスロットを全開にする。勝敗の全てはパイロットがいかにエンジンを使いこなすかにかかっていた。すなわち、いかにして情況を評価し判断を下し、スロットルを使いこなすかであった。

 

問い:そのエンジンの高高度性能について教えてください。

 

高度6000-7000メートルが限度だったな。でも実際そこまで上昇して戦闘することはあり得なかった。高度1000-2000メートルで戦うように務めた。ドイツ空軍のほうはそれより上、高度4000-5000メートルでわれわれを空戦に引き入れようとした。この高度域が、設計上メッサーのエンジンが威力を発揮する。

 

問い:I-16はどのくらい燃料を消費しますか?

 

I-16はガソリンを割合喰う機体で、航続時間は通常で40-45分、これが空戦時には25-30分ほどで終わってしまう。

 

問い:I-16には可変ピッチプロペラが装備されていましたか?

 

タイプ-28-29には可変ピッチペラが付いていた。でも実際、われわれは可変ピッチペラには懐疑的だった。これは大型機には良い装備かもしれないが、I-16では操縦者たちの意見としても、その他の理由からも、可変ピッチ機能そのものをほとんど使ったことがない。ピッチは操縦席のレバーから操作ロッドを経由して作動させる。交戦に入る前にピッチを浅くして、あとはスロットルの操作だけ行う。それだけだ。

 

問い:I-16はそれほどメッサーシュミットに劣る機体なのでしょうか?

 

基本型式のI-16-10-17-21は、技術的にも攻撃装備の面でもBf-109Eには劣っていたが、それほど開きが大きかった訳ではない。もちろん、それより旧いI-16-4および-5はメッサーへの太刀打ちはできなかった。

 

しかし後期型のI-16-28-29モデルになるとメッサーのE型より優れていた。速度と運動性は同等であり、とくに垂直面ではI-16のほうが良かった。

 

問い:メッサーのほうが劣るというのはおかしいと思います。どの資料によっても、I-16-28および-29の高度3000メートルでの水平最大速度は440-460キロメートル台であり、一方Bf-109Eのそれは570キロメートルとなっていますが。それに垂直面の機動でもI-16が勝るというのも初耳ですが?

 

実際の空戦では誰も最大速度を出そうとも思わないし、ましてや最大速度を出したヤツはいないのではないだろうか?

原理的にもI-16ならば速度500キロは容易かつ急速に出すことができる。

 

メッサーE型は確かにそれよりも速いが、その差はさほどでもない。空中戦では双方の速度にはほとんど差が出ない。I-16は加速性能が大きく、とくにM-63エンジン装備の場合は爆発的ともいえた。先に挙げた水平面の運動性能に加えて、この加速性能も2つ目の特長といえる。

 

その当時ソビエトで生産されていた最新型を含む、どの戦闘機タイプよりも加速性能には優れていた。Yak-1の加速はI-16に匹敵したが、それでもやや遅いくらいだった。

 

メッサーシュミットはダイブで速く、よく逃げられた。I-16は機首が太く抵抗が大きいので、降下しても速度530キロメートルまで出なかった。しかし、空戦で戦闘から離脱するとき、あるいは敵が離脱しようとしても、両方の場合ともわれわれは何とか対処できた。

 

問い:戦闘離脱はどのようにしましたか。急降下あるいは垂直上昇するのでしょうか?

 

それは情況により使い分けた。

 

問い:ソビエト連邦英雄(HSU)でエースのV.F.ゴールベフと同じくA.L.イワノフがそれぞれ手記で「I-161942年の末まで一線機としての地位を保持した」と書いていますが、それはウソやプロパガンダではないのですね?

 

その通り。連中は嘘を言ってはいない。

 

問い:では、Bf-109FおよびフォッケウルフFw-190に対してはどうだったでしょうか?

 

私はI-16での空戦はさほど経験していないが、戦友たちの評判をお伝えしよう。

I-16-28-29は、まあBf-109Fに同じくらいと言えるが、多少は劣っていた。だが、I-16のそのほかのモデルは相当に差をつけられていた。メッサーのFモデルが北部戦線に現れたのは1942年も11月になってからで、その前まではほとんどE型と対戦していた。

 

I-16-28-29はメッサーF型に対して最高速度と垂直面の性能では及ばないが、 水平面および武装では勝っていた。F型は垂直面の運動性にひじょうに優れていた。F型に乗った敵のパイロットは、追い付かれそうだなと思えば自在にスロットルを開いて逃げ去ることができる。

 

フォッケウルフFw-190が出てきたのもメッサーF型と同じ頃、すなわち1942年の10月だった。フォッケウルフは強力な機体だった。フォッケウルフは、おそらく水平面の運動性を除くあらゆる面で、I-16に勝っていた。でもその頃までには、わがYakやレンドリースのP-40P-39が供給されるようになってきた。

 

メッサーのG型が出てきたのは1943年だったので、I-16とは対戦していない。

 

私のI-16での戦闘フライトは10回たらず、そのうち空戦は2-3回だったかな? そのあとすぐにハリケーンに機種転換してしまった。

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問い:ハリケーンはどのモデルで訓練し、また戦闘に参加したのでしょうか?

 

訓練も戦闘もすべて同じモデル。特別な練習用機材と言うものはなかった。英国の第151スコードロンから引渡しを受け、それでトレーニングした。イギリス人の連中はよく戦った。

 

ハリケーンには8銃装備と12銃装備の2種類があった。装備する機銃の数だけが違い、あとの点では同じだった。その後英国から分解・梱包されたハリケーンが届くようになったが、それらは、当初北アフリカ戦線へ送られるものだったようで、砂漠用のイエローのような迷彩に塗られていた。

 

問い:複座型はありましたか?

 

複座のハリケーンはなかった。英語で印刷された教範と、それに英国人の教官がいたな。でも教官といっても、ほとんど指導らしいことはしなかった。

 

「教官」はまず彼自身コックピットに坐り、各操作装置を指で示して説明するだけ。それもロシア人パイロットの最初のグループだけにだ。そのあとは学生のグループが順繰りに伝えてゆく。本部から女性の通訳が来ていて、彼女がすべてうまく通訳してくれた。

 

その英国人教官というのはルークという少佐で、あとで分かったのだが何と流暢にロシア語を話すことができた。ルーク少佐は我がカチン航空学校に留学し、そこを修了している。しかしその英国人は訓練期間中は英語だけで通し、最後の送別会の席上でだけロシア語をご披露なさった。

 

「ここには任務で派遣されていて、ロシア語を使うのは禁止されていましたから」とロシア語で話したものだ。われわれの飛行隊長の一人コバレンコは航空学校でルーク少佐と同期だったのだが、コバレンコが「なんでロシア語を避けるんだ。お前さん全部分かるんだろ?」と、いくらけしかけてもルークはロシア語をしゃべらなかった。

 

そのルーク同志を一度I-16に乗っけたことがあったが、汗まみれになって降りてきて開口一番、「このヒコーキはどうぞロシアの方だけで飛ばしてください」と言ったものだ。

 

転換教育は5日間ほどだった。内容は基本的な取り扱いから入った。エンジンはこれ、燃料タンクはここ、オイルはここという具合で、技術上の細目にはあまり触れなかった。

 

ひととおり話を聞いて、操縦席にすわって、2度ほど地上でタクシーして、あとはもう飛んでいた。私の場合慣熟飛行を3回やって、それで機種転換教育を修了した。

 

「死にたくないならば、まず操縦席に座ってみろ」。 ボリス・サフォーノフが先頭を切り、4時間も操縦席慣熟を行ってすぐに飛んだ。われわれもそれに続いたというわけだ。

 

問い:機種の移行では、候補者が特別に選抜されたのでしょうか?

 

いや、中隊単位で機種を転換した。

 

問い:それで、ハリケーンの第一印象は?

 

第一に感じたのは「せむし」だった。「せむし」の戦闘機はあんまりよくないと思った。そのあともこの印象はずっと変わらない。特に感じたのは、その主翼の分厚いこと!あれは双発のPe-2のよりも厚い。

 

問い:ハリケーンはI-16より操縦が易しかったのではないでしょうか?

 

その通り。I-16より操縦は易しかった。この機体の操縦慣熟では、いかなる困難もなかった。

 

問い:I-16を経験した上で、ハリケーンの操縦席はどうでしたか?視界、防弾ガラス、操縦席の装甲とか。

 

操縦席そのものはI-16のものより広かった。前方視界は良い。いや非常に良かった。ところが側方、後方の視界はよくなかった。キャノピーは枠が多く、後方にスライドする点でI-16と同じ。枠が側方の視野を阻害する。まっすぐ前方を見る以外、枠が視界の邪魔になってしまう。

 

当初慣れないうちは、戦闘時にキャノピーを開けていたが、その後慣れるに従ってキャノピーを閉めて空気抵抗を減らすようにした。

 

操縦桿というのがまた驚いた代物で、まるで爆撃機についているような感じのタイプだった。操縦桿の上部は太いリング状のハンドルになっていて、そこにボタンとスイッチが2つくらいついていた。

 

機銃を全門発射するときは両手を使わなければならない。操縦桿の根元は前後方向に倒れるだけで、操縦桿の中ほどから上部が左右に倒れ、その部分から操作ケーブルがエルロンへと伸びていた。

 

防弾ガラスと防弾座席が装備されていて、これらは信頼できた。

 

問い:座席にヒーターは装備されていましたか?

 

いや、エンジンの熱だけで暖かかった。

 

問い:ハリケーンの計器盤について、何か問題はありましたか?

 

問題は全くなかった。インチ・ポンド表示だったが、計器は完備していて、我々はすぐに慣れることができた。計器の配列はUT-2練習機とそっくり同じで、表示がメートル単位というのだけが違っていた。UT-2での飛行経験があれば、誰でもハリケーンに違和感を持たないだろう。

 

こちらのベテランパイロットは「この計器なに?」と問い、大体の場合の返事は「そんなの気にしなくても良い。その計器は見る必要がない。ところでこれが高度計、回転計、冷却液温度計、油圧計、油温計。これだけ分かっていれば良いよ」。

 

ブースト計(訳注:MAP計(吸気管圧力))もついていて、もちろんポンド表示だったが、ブースト圧力の高低でそのときのエンジン出力を推定できた。

 

問い:人工水平儀とラジオコンパスは装備されていましたか?

 

水平儀は全機に装備されてはいなかった。われわれの分隊の機体にはついていなかった。前に述べた「ピオニール」という計器に似たものはあった。

 

この英国製の計器には指針が2本ある点が、ボールと針のピオニール計器と違う点。指針の一つが傾きを表示し、他方が旋回とすべりを表示する。

(訳注:一本の指針が旋回率、他方がすべりを表示する、が正しい。英空軍式の旋回-すべり計器は実際使うとすぐ慣れます)

 

問い:無線機はついていましたか?

 

ハリケーンには6チャンネルのUHF無線機が装備されていた(訳注:これはVHFではないか?)。送・受信機とも信頼性があり使いやすかった。唯一の欠点は、マイクロフォンが酸素マスクの内部についていたことだ。

 

酸素マスクとマイクロフォンは重くて、空戦の際に邪魔になった。きつく締めると顔面を締め上げ、逆に緩くしておくとGがかかった際にずり落ちてしまう。

 

送信機はプッシュボタン操作および音声操作の2方式が可能だった。音声操作では、自分がマイクに向かって話すと送信モードとなり、そのほかの場合は受信状態となる。双方は操縦席のスイッチで任意に選択できた。我々はすべて、当初この音声操作モードを使った。

 

でも、たとえば戦闘中に誰かが余計な悪態をつくと、それがそのまま送信されてしまう。そうなると受信が妨げられ、さらに別のパイロットが必要な指示を送信できなくなる。

 

その後は全てのハリケーンの無線はスロットルレバーについているプッシュボタンで操作するよう指示が出た。音声操作切り替えのために配線し、スイッチを別に設けた。

 

マイクロフォンがあるため、酸素マスクは常時着用していたが、酸素装備の作動は信頼できるものだった。

 

降着装置は油圧でうまく作動した。その操作レバーはフラップ操作も兼ねていた。

 

問い:ハリケーンの武装についてのご意見は?

 

ハリケーンには8丁ないし12丁の機銃が装備されていた。片翼に4つないし6つずつ付いていた。その機銃はルイス式7.7mm0.303in)機銃だった(訳注:これ???ブローニングでしょ)。

 

その信頼性はわがShKAS機銃と同等のレベルだった。すなわちハリケーンの機銃でも、当初ゴミと汚れを原因とする故障が発生した。じっさいその機銃はホコリに敏感だった。

 

どうやって我々が対処したかというと、主翼前縁の機銃孔をみな羽布でカバーした。最初の射撃が布を貫通する。これで機銃は調子よく作動したが、射距離300-500メーターではあまり威力はない。

 

連隊長ボリス・F・サフォーノフの発案で、連隊のハリケーン全機をソビエト製の武器に交換する作業が開始された。作業は航空工廠移動隊が実施し、航空武装技術者のボリス・ソフォレフスキーがその指揮を行ったが、そのほか整備陣は多士済々だったな。

 

英国製7.7mm機銃のかわりに片翼にShVAK 20mm機関砲2門、あるいはShVAK 20mm1門プラスBKベレジン12.7mm機銃1丁の組み合わせとした。

 

事後で英国人たちは、いちおう形式的にだろうが、勝手な改造は困ると申し入れてきた。形式的で下らないことだが、この先も不法改造をされては困るという意味だったことは互いに了解していた。

 

実際、英国の機銃は近距離では非常な効果があった。

 

わが中隊指揮官、故アレクサンドル・アンドレービッチ・コバレンコはHSU(ソ連邦英雄)のタイトルを最初に受けた一人で、ウクライナ人の典型、考えるタイプで騒がない男だった。私が彼のウイングマンだった 42年のある日、ムルマンスクが敵の攻勢を受け、我々は3個セクション、6機で上がった。

(訳注:これ典型的ロシア戦法。このころから確立していたか)

 

その当時すでに地上からの指揮が行われていて、その地上指揮員から無線で「最初の隊は109の一群に向かえ!」ときた。2番機の私からも空域をよく見渡すことができ、「109確認!」とリーダーのコバレンコに伝えた。

 

すると彼は落ち着いて送信、「発見お手柄。もの共109にかかれ」。 ところがすぐに地上から「先頭の隊は87に向かえ。変更して87に向かえ」と言って来た。 コバレンコは冷静に「よし、87に向かうぞ」と標的を変更した。ユンカース急降下爆撃機の一隊がムルマンスク方向へ殺到してくる。20機ちょっとの集団だったろう。我々は敵編隊の下方から高速で突き上げてゆく。

 

私の目前でコバレンコは機体を垂直になるまで引き起こし、なおかつ滑らせながら50メートルまで接近し、12丁の機銃をスツーカに見舞った。

 

上向きの慣性を失ってコバレンコは降下する。私も片側に逃げつつ眼で追っていると、そのスツーカの尾部と胴体が分離するのが見えた。彼は文字通りJu87スツーカのテールをブッちぎってしまったのだ(降りてから「あれで全弾消費しちまった」と言っていた)。

 

地上指揮員から、ドイツ機が無線で「敵戦闘機に包囲されている。やられるぅ」と叫んでいる、と伝えてきた。もう一組上がった6機編隊と合わせて、その日我々は8機のスコアを挙げたのだった。

 

問い:それは決して誇張ではありませんね。バトル・オブ・ブリテンでも英国のパイロットが、機銃弾でドイツ機を切断したと言っています。

 

そうそう。それは「ルイス」(??)機銃でも我々のShKAS機銃でも同じだ。じっさいShKASは発射速度がおよそ1800/分、すごい威力だった。 近距離の50メーターからであれば、4丁のShKASで敵機の主翼くらい切断できる。たまにそういうのを見かけた。

 

その距離で引き金を引いたままにすると、弾着はいくらか分散する。すると主翼とか尾部を切断するのが可能だ。ほんとうに千切れてしまう。

 

それで、私の初撃墜というのもハリケーンでだった。その日私はまだ英国製機銃装備の機で、エレメントの2番機で飛んでいた。そこに敵機、メッサー109だったが、そいつが割って入ってきてリーダー機を狙った。

 

だが追いつけない。そこで私が極めて近距離、20-15メーターくらいから射撃し、墜したというわけ。

 

問い:どのくらいの期間英国製武装のままで飛んでいたのですか?

 

3ヶ月くらい。その後にソビエト製武器への換装が開始された。

 

問い:主翼に機銃を装備するわけですが、問題点はありましたか?

 

問題?それはあった。すなわち両翼の最も内側の銃口間の距離が2.5メーターもあり、両者の弾道間のデッドゾーンは相当大きいものだ。

 

問い:英国製の20mm機関砲を装備したハリケーンには乗りましたか?

 

いいえ。英国人がハリケーンに機関砲を積み始めたのは我々より後だ。こちらの実績を見てのことではないだろうか?

 

問い:ロケットは装備しましたか?

 

両翼下に4発ずつ装備した。

 

問い:照準器について教えてください。

 

英国製の照準器も前に述べたコリメーター式のものだ。いつも充分接近してから撃っていたので、特に見越し角というものは取っていない。

 

問い:英国製のエンジンはどうでしたか?信頼性にかけていたと聞くこともありますが。

 

エンジンそのものは優秀だった。パワーもありそれなりに信頼性も高かった。それにオイル漏れなども少なくて良かった。

 

さらにマフラーのように防炎を兼ねる排気管が付いていたのが助かった。 じっさい、排気炎に目がくらむのを防ぐことができた。この点、ソ連製の飛行機は劣るな。

 

飛行中にマイナスGをかけるとエンジンが息をつく。これを防止するタンクはなかった。これはとても困ったことで、どの空戦機動もプラスGをかけるようにして行わなければならない。

 

この欠点もまもなくマスターすることはしたが、それでも空戦中についつい忘れてしまうことは最初の頃よくやった。 だが経験を積んでからは、マイナスGでの息つきをすることは無くなった。空戦中、突然姿勢を変えたりしてマイナスGに近くしてしまうのは、とても危険なことだった。

 

問い:エンジンが多少ともアンダーパワーだったことはありますか?

 

ハリケーンは機体が重くて抵抗が大きい。ロールスロイス・マーリンエンジンは良いエンジンだったが、最大出力を持続するには具合が悪かった、というか、すなわち壊れてしまう。あのエンジンにとってハリケーンはちと機体が重すぎるのではないか。

 

機体についてもう少し述べると、あの機体は地上でテールが軽すぎる。その当時の飛行場は砂地で整地が不完全だったので、地上をタクシーするときは重しとして、かならず整備員をテールに乗せて行っていた。たまに乗せたまま離陸してしまうこともあった。

 

ルデンコという整備員など、尾翼に座ったまま場周を一回りした。そのときルデンコは後ろ向きに座っていて、垂直尾翼の外板に手が引っかかって飛び降りることができなかったというわけ。けっきょくパイロットが着陸するまでそこに掴まっていた。

 

そのほか不運にも上空で落っこちて死んだのも確かいたな。

 

問い:機体の穴は羽布でカバーしていたのでしょう?

 

胴体は羽布で被覆、垂直尾翼と主翼表面はごく薄いジュラルミン板だった。

 

問い:エンジンには特別な「高出力レンジ」というのがあったと思います。というのも、ハリケーンのマニュアルの記述で、特別スイッチが装備してあって、それを使って短時間エンジンの出力を急激にアップすることができたとあります。

 

いや、そのような機能はなかった。スロットルレバーで回転数をコントロールするだけだ。

(訳注:これ正式には吸気管圧力(MAP))

 

先に述べたが、これらのハリケーンは北アフリカ戦線仕様であり、その時の最新型ではなかったのだろう。その後のモデルにはそのような機能が備えられていたものと思う。

 

問い:燃料量はどのくらいでしたか?

 

1時間20-30分くらいは充分に積んでいた。

 

問い:ハリケーンのエンジンのほうがI-16のそれよりも高空性能があったと思いますが?

 

そうかね?そうは思わんです。同じくらいじゃないか?ハリケーンのエンジンも高空仕様ではなかった。

 

問い:プロペラはどうだったでしょうか?

 

プロペラは興味深い。可変ピッチなのにブレードは木製だった。ピッチ変更は操縦席のレバーで行い、レバーから操作ロッドが出ていて、その操作は簡単だった。さらに4機ごとにプロペラ専門の整備員が1名あて配置されていた。

 

問い:I-16に乗った後でハリケーンを経験されたわけですが、どちらがどのように良かったか?あるいは劣っていたか?

 

どのみち配備された機種には慣熟しなければならない。だが私はI-16のほうが好きだ。じっさい、ハリケーンはI-16-10-17-21モデルと同格か。私としては、別にハリケーンを惜しむという感覚は持たない。

 

問い:ハリケーンを最初に飛ばしたG.V.ジミン将軍が「ハリケーンで空戦を行うのは、ちょうど翼竜に騎乗しているようなものだ」と、機体の空力面について手記で書いています。

すなわち、ハリケーンのように急降下でも速度がつきにくく、一瞬だがエンジンが息を付く機体は他にないそうです。この記述はプロパガンダ的とも取れるのですが?

 

そうそう!あれは全翼竜みたいなものだ。あの分厚い主翼、急降下で加速性能は貧弱だった。たしかに最大速度そのものはI-16よりもちょっと速いけど、そこまでスピードがつくまでにいろいろな事が起こりうる。操縦に対する反応も決して遅いものではないが、どちらかというと「優雅」という感じだな。

 

これがI-16では操舵に即座に反応する。操縦桿で瞬時にひっくり返すのが可能だ。ところがハリケーンではロールもゆっくり優雅に行われる。

 

もっとも主翼の揚力は大きいので上昇性能はI-16と同じくらい。

 

ハリケーンでは水平面の機動性能がとても良い。ハリケーンが4機でサークルを組むと、それを打破することはまず不可能だ。 ドイツ機ではそのサークルを破れない。

 

ところが垂直面の機動となると、これがとても貧弱。厚い主翼のせいだ。そのため空戦では主として水平面で動き回り、垂直面で対戦するのを避けるようにした。

 

また、主翼のおかげで離陸滑走が非常に短い。

 

総体的に見て、技術面、取り得る戦術でも、メッサーのEモデルには特に垂直面機動でちょっと劣るのではないか。水平面の運動性では拮抗したかもしれないが、メッサーのFモデルが出てくると時代遅れになった。それでも使用は続けられたが。

 

ハリケーンは被弾して燃えると完全に燃えてしまう。まるでマッチみたいに羽布が燃える。

(訳注:ドープがニトロセルロース系のものだったのでせう)

 

問い:I-16のほうが燃えやすかったのではないでしょうか?これも羽布カバーされていたはずです。

 

その通り。だがエンジンはI-16のほうが信頼性があった。それに機体そのものが小型だ。要は、どの機種でも我慢して乗れということだ。

 

問い:ここでお聞きしますが、I-16とハリケーンでは、貴方としてどちらを取りますか?

 

そりゃもちろんI-16だ。特に自分が乗ったI-16-28タイプを推す。だがそもそも選択肢というものがなかった。

 

ハリケーンでは20回ほど出撃し、そのうち空戦は3-4回だったかな?そのあとすぐにP-40が来てそれに乗り換えた。

 

 

以上、パート1 聞き手:アンドレイ・スコルコフ 英訳:James F. Gebhardt

 

パート2はカーチスP-40です!

 

 

 

(パート2に続く)2006.12.21初出、2006.12.23追加

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