中国的こころ特集>春秋の四大会戦



春秋時代は毎年、戦争が行われていました。その中で、戦争の規模や影響力の大きかった戦いを「春秋の四大会戦」といいます。それは、
B.C.632 城濮の戦い
B.C.597 泌の戦い
B.C.589 鞍の戦い
B.C.575 鄢陵の戦い
であると言われています。
この4つの戦いは、既に特集でも扱いました(城濮の戦い泌の戦い鞍の戦い鄢陵の戦い)。 改めてこの4つの戦いを比較して、特集していきましょう。
戦争名城濮の戦い泌の戦い鞍の戦い鄢陵の戦い
年代B.C.632B.C.597B.C.589B.C.575
当事国○晋 ×楚○楚 ×晋○晋 ×斉○晋 ×楚
参加国斉・秦・宋(晋)
曹・衛・鄭・魯・陳(楚)
鄭(楚)魯・衛(晋)衛・斉・魯(晋) 鄭(楚)
戦場衛国内鄭国内斉国内鄭国内
兵力晋 三軍(37,500人)晋 三軍(37,500人)晋 兵車800乗(80,000人)晋 120,000人 楚80,000人
総帥文公 楚 成王 荀林父 楚 荘王郤克 斉 頃公  楚 恭王
主な将軍先軫狐偃 楚 子玉 先縠士会 楚 潘党 欒書韓厥 斉 逢丑父 子反
戦争期間1日1日1日2日
戦後結果晋文公、覇者となる楚荘王、覇者となる晋の求心力 回復楚 中原進出を断念

さて年代ですが、城濮の戦いが紀元前7世紀で、あとの3つは紀元前6世紀です。ちょうど春秋時代の中期です。城濮の戦いは東周時代に入って約140年後であり、 鄢陵の戦いの後、約170年後に春秋時代が終焉します。紀元前6世紀は呉越の興亡に見られるように、春秋時代に新しい風が吹き始めた年代です。この後、 晋は六卿の勢力拡大に反比例して君主の勢力が減退し、楚は江南の地を急速に併呑していくのです。

当事国をみてみると、すべて晋が絡んでいます。晋は城濮の戦い以後、中原で最大の国であったので、当然といえば当然かもしれません。鞍の戦いで斉に勝利したことにより、 名実ともに中原の覇者といえるでしょう。
その晋に対抗したのが楚です。もともと楚の中原進出が中原社会の外交構造を一変させたといえます。覇者の登場はまさに楚に対抗するためのものだったのですから。

戦争の参加国をみてみると、その戦いの概要がわかるようです。彼らは大国のいずれかの属国に等しい状態であり、両者の争いに参加せざるを得ませんでした。 逆に鄭のようにその外交政策が晋楚の戦争の発端となりました。これら小中諸侯が晋楚どちらにつくかが戦争の理由だったのです。
また晋は外交政策を使用して斉や秦を味方につけて、有利に戦争をはこんだこともありました。やはり対楚ということは中原諸侯の課題だったのでしょう。

戦場はいずれも河南省・山東省という東方です。城濮・泌・鄢陵とも楚からはかなり離れており、楚はかなりの遠征軍であったことがわかります。 また鞍は斉の国都臨淄に近く、晋もかなりの遠征軍でした。国内やそれに近い場所で戦うことは士気に良い影響を与えますし、一番の問題である兵糧輸送問題も軽減されます。 戦場は戦いの結果に大きな影響を与えるポイントです。

兵力はどうでしょうか?春秋時代の戦争の規模は小さいというイメージがありますが、四大会戦はすべて数万から数十万規模です。四大会戦にふさわしい規模といえるでしょう。 晋は三軍が編成できる中原唯一の国ですし、楚は南方の屈強な兵士を徴兵でき、斉は豊かな人口と商工業が盛んで多くの兵士を所有していました。 これらの兵士を動員できることと同様に、これを維持していく国力がなければなりません。ようやく紀元前7世紀になって、これだけの兵力を維持することができるようになったのでしょう。
また春秋時代の中期から後期において、社会構造が変わって一般庶民まで徴兵されるようになったのかもしれません。 (氏族の没落、諸侯の領域支配⇒特集「春秋戦国史−概要−」)
戦争名城濮の戦い泌の戦い鞍の戦い鄢陵の戦い
年代B.C.632B.C.597B.C.589B.C.575
当事国○晋 ×楚○楚 ×晋○晋 ×斉○晋 ×楚
参加国斉・秦・宋(晋)
曹・衛・鄭・魯・陳(楚)
鄭(楚)魯・衛(晋)衛・斉・魯(晋) 鄭(楚)
戦場衛国内鄭国内斉国内鄭国内
兵力晋 三軍(37,500人)晋 三軍(37,500人)晋 兵車800乗(80,000人)晋 120,000人 楚80,000人
総帥文公 楚 成王 荀林父 楚 荘王郤克 斉 頃公  楚 恭王
主な将軍先軫狐偃 楚 子玉 先縠士会 楚 潘党 欒書韓厥 斉 逢丑父 子反
戦争期間1日1日1日2日
戦後結果晋文公、覇者となる楚荘王、覇者となる晋の求心力 回復楚 中原進出を断念

戦争の総大将(総帥)では、晋以外はすべて君侯がなっています。晋は正卿が総大将となって兵を率いることが多いのです。これは晋の特徴であるといえます。 斉、楚では君侯が兵権を掌握していたことに対し、晋は卿の権力が強く、兵権も掌握していました。春秋時代の兵士は氏族に属するものが中心でした。 強力な氏族が多い晋は、君侯に匹敵する兵権を卿が持っていたのです。のち晋は六卿の権力に悩まされることになります。

主な将軍をみてみると、晋は卿が多く、楚は公子が多い。両国の特徴が顕著に表れていますね。

戦争の期間は鄢陵の戦い以外はすべて1日です。春秋時代の戦争は1日で決着がつくことがほとんどで、鄢陵の戦いで2日に渡って戦ったのは例外だったようです。 戦国時代以後の戦争を考えると、1日で決着がつくのは考えられませんよね。戦争自体も大きく変わろうとしている時期でした。

さて戦争はどのような結果をもたらしたのでしょうか?四大会戦といわれるほどだから、その結果は劇的なものだったはずです。
城濮の戦いでは、晋文公が覇者となり中原諸侯を楚から引き離すことに成功しました。
泌の戦いでは、楚が晋を屈服させて名実ともに周王朝に"鼎の軽重を問う"ことになりました。
鞍の戦いでは、再び覇者になろうとする斉を晋が撃退し、一度は失墜したその座を死守しました。
鄢陵の戦いでは、晋は楚を再び破って楚の北方進出を断念させ、第二の荘王の出現を防ぎました。
こうしてみると、四大会戦はすべて中原の覇者争奪戦であるといえます。これに勝利した諸侯は天下を経営することができたのです。
周室の権威が落ちて、それに代わって天下を経営する覇者が必要とされ、それを争奪する戦争が行われた。まさに春秋の四大会戦は覇者争奪戦だったのです。

春秋時代に天下は広がりました。周王朝の統治可能圏内を越えるほどに広がり、諸侯は自らの勢力圏を広げて周辺諸侯と争いを続けました。 戦国時代になるとさらにその規模は拡大していきます。春秋の四大会戦は、ちょうどその過渡期にあたります。


※ちなみに殽山の戦い B.C.627を含めて、「春秋の五大会戦」とすることもあるようです。