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のっけからたくさんの人に来ていただいて嬉しく思います。
今年もよろしくお願いします。
DDIpocketで音声通話が一番さっというページがあり、なんだかサッカーのサポーターのごとくH”を応援し、H”の良さをアピールしている。かく言う私もサポーターの一人である。
H”いいよ。
今回ライトEメールで、何とかケータイメール受信のcostを低くおさえようと思ってたわけだが、#「リョーカイ」とか「いまどこ?」とかでも、2000文字メールでも、5円/1接続かかっていた
#パケットって何かわからない^^;
DDIからの郵便やHPを見てもよくわからなかった「ホントに知りたいこと」はこのリンクから飛んでわかったりする。それってメーカーの責任的にどーなのぉー、と思っていたが、情報がある程度多くなると、情報の提供者側ではなくusers側が情報を整理した方が利用しやすいものになるのは当然だし、それもネット時代にはいい方法なのかな、と思った。
今、H”でケータイメール&家の電話でネット、というのを、H”1本にしてスピードアップは無理でもcostの削減をはかれないものか、必要に応じて機種変更まで考えている。
今、内科の試験に追われている。どのくらいの量かというと、A3で100枚が3科目である。これだけやれば通るんだろうな。そんな保証はどこにもないのだが。
バイト先の塾で、高校生に科目は問わず学習法を聞かれる。聞いてくるようなやつらは、やる気がなくて成績が伸びないと言うよりは、やる方法が悪くて伸びないと言った方が いい。彼らをさらに分類すると
1.復習せずに新しいことをどんどんやっていって、
労多くして結局は何も覚えていないパターン
2.重要じゃないことをひたすら頑張って覚えて、
肝心の所に手が回っていないため点数がよくなく落ち込むタイプ
3.理解はしているのだが、テストで点を取るという能力に欠けているやつら
やって報われない人は見ていてかわいそうなのだが、そんな人(どんな人)にも提案するのが、今私が直面している内科でも使える「縦割り学習法」(←私が勝手に命名)なのだ。これはある期間ひたすら特定の分野だけをやり続けるという、ごく当たり前のものだ。しかしやってない高校生は多い。有機化学なら有機化学、遺伝なら遺伝、上部消化管疾患なら上部消化管疾患。その分野について、過去問だの問題集だの参考書だの何だの、ひたすら読みまくり解きまくり考えまくれば、自ずとどこが重要なのかわかってくるだろうし、内容についても一度はしっかり理解できるだろう。
医学部の勉強をしていて思うのは、調べること、理解すること、覚えることは全て別物で、覚える量が多いことがよく取り上げられるが、実際には前2者をどうこなすかが試験結果を左右するようにも思う。短期記憶なんか大脳皮質の面積分しか覚えられないんだから、と神経生理担当の教官も言ってたっけ。新聞を開いたくらい(B2)だったかな。そしてあんまり努力して伸びる能力でもないし。
そんな理屈をこねてる暇があったら、前2者の勉強を今自分はするべきなのかもしれません。
なか卯にて。「コギツネ」と聞いた時、私は当然コンコンと鳴く方を思い出した。これは小うどんのキツネ(250円)のことであるが、小うどんの肉うどん版は「コニク」になるのか、小うどんのハイカラは「コハイカラ」になるのか、非常に興味深い。
吉野家では、「並一丁」が大盛り、特盛り、牛鮭、に応用され、「みそ汁一杯」がけんちん汁に応用される。玉子とサラダは1「個」で、牛皿とお新香は1「枚」と数えられるように思う。そしてこれに順番が加わるため、初心者の店員だと、頭の中で懸命に翻訳・並び替えしているのがわかる。中には卵とみそ汁の順番を間違って、言いかけて直す店員もいる。どうでもいいような気もするが。
吉野家で初心者店員泣かせなのは、それぞれの特別オーダーだろう。つまりは「ツユダク」などのことだが、他、「ネギダク」「ネギヌキ」などはメジャーどころ、他ご飯少なめ、肉だけ大盛り、「ツユダクダク」(←本当にご飯が泳ぐほどつゆが入るらしい)など色々あるらしい。今度特盛りを2杯ずつ食べた友人と一緒に挑戦してみたいと思う。
私の定番は、「並ネギダクと玉子とけんちん汁(450円)」か、豪華にいきたいときは「牛鮭けんちん(ネギダク)と玉子(610円)」である。「牛鮭けんちん」は、牛鮭定食のみそ汁をけんちん汁に代えたもので、差額70円プラスになっていて、きちんとレジにもそういうボタンがある。どちらにしても、店員が必死になって注文を頭のなかで咀嚼しているのがわかるため、混雑時にはそもそも吉野家に行かないのも重要な選択である。
吉野家関連では色々なページがある。上に書いた特別オーダーを「引数」と呼ぶのは、パソコンでプログラムを組んだことのある人間にとっては、ツボにはまるものである。ここでは暇な人なら見てもいいかな、と思うページを1つ紹介しておく。抱腹絶倒か、なんのこっちゃよくわからないか、どちらかの反応になるものと思う。http://isweb33.infoseek.co.jp/play/liloatx/yoshi.html
今年の正月は試験勉強のため帰省せず、市内の祖母の家におせち料理だけ食べに行った。尤も自分の実家は転勤を繰り返しているため、その町で私が知ってる人は親父、お袋、の2名である。ちなみに人口の倍以上牛がいて、北方領土の近くである。実際問題遠すぎる。
何もしないで食わせてもらってなんなのだが、どうも今年のおせちはおいしくなかった。味のタイプが違うわけではない。叔母、つまり母親の妹たちが、彼女らの実家で作るのだ。失礼を省みずに言うと、どうもいまいちなのである。一番おいしかったのが刺身とは、面と向かって言ったら侮辱以外何者でもない。味に対する価値観の相違だ、と考えて、ここで「お袋の味」という言葉を思い出した。「お袋」の味と違うのでそう感じたのではないか。しかし私は高校3年の冬休みに、1人で年越しをして2,3のおせち料理を作ったことがある。この時はおいしかった(自画自賛)。さて作るのがお袋以外でもおいしいと言うことは、次のことが考えられる。
・実際料理の技量として、私の母と私が秀でている。(母親は栄養士)
・単に「お袋の味」に慣れ親しんでいて、かつ私も母の味を再現できる。価値観の相違。
「食」は人生のなかで非常に重要な側面であると思う。個人的に、登校拒否をするよりも食べるのを拒否する方が、症状として重いと思っている。学校に行かなくても死なないが、拒食症(神経性無食欲症 Anorexia Nervosa)では6%ぐらいの人が死に至るという。
これまで実家に帰るのは、久々に親に会い話をする、つまり親にいわゆる「顔を見せに」行くことだと思っていた。しかし、先日私が味わった得も言われぬ不満足感は、その動機の1つに「食」があるのではないかと考えさせた。私は今晩(祖母の家に帰省する)母親が作る夕食を食べることで、人生においてどんなに食が大切か、再認識することになるかもしれない。
昨日の新聞を読んで、クローン豚誕生には、あんまり嫌悪感を感じていない自分がいる。この感覚は正しいのだろうか?
鯨は賢いからという理由で、捕鯨に反対する人がいる。猿やヒヒは人間に近いので、(人とチンパンジーのDNAの差は1.23%と新聞に書いてある)臓器移植のドナーにするには不適当だという意見もある。表面上は「動物愛護」とか「かわいそう」と言って。動物を「知能」という一元的価値観で序列化しているのに、気づいている人はどのくらいいるのだろうか?知能が劣れば殺してもいいのか?
鯨を食べるのに反対する人も、豚は食べていたりする。でも「免疫学的・機能的」に見ると、移植ができるという事実から、よっぽど豚の方が人間に近いとも言えるだろう。鯨の肝臓を人に移植すると拒絶反応が起きない? 聞いたことない。
#それよりも鯨だと慢性的ドナー不足に悩まされるのか。もちろん豚については、
#飼育法が確立しているため、供給数が確保できるというメリットがある。
ネズミの解剖をするのを嫌がる人たちがいる。あんまり好んでやってても気持ち悪いが。「殺すのがかわいそう」と言う高校生も多い。でも、ベジタリアンの人はめったにいないわけで、また、薬は一切飲まないと言う人もいないだろう。薬が開発される段階では、数え切れないほどの実験動物の命が犠牲になっていることは忘れてはいけない。薬は飲むけど目の前のネズミを殺すのはかわいそうだ、というのは偽善に他ならない。食用に牛や豚や鳥を殺すのはいいが、教育のためにネズミを殺すのは、という論議も同じだ。
本当に命の重さはどんな動物種でも等しいと言えるのか?それは建て前か?クローン豚の臓器を移植されてまで、自分が生き長らえたいか。
しかしそれが、プラスチックなど化学合成された人工臓器だったら、罪悪感なく生きていけるのか?そこには何の違いがあるのか?
医学の進歩があまりに進むと、それに伴い「歪み」もでてくる。朝日新聞の見出しは「拒絶反応おさえたクローン豚誕生」小見出しが「移植用臓器の開発加速」である。決して批判的でない、むしろ好意的なこの捉え方を、素直に受け入れていいのか。感覚だけでなんとなく「あーいいんじゃないのー」と言いかけた自分に警鐘を鳴らす。
牛舌屋に行った。そこには焼肉店と同じく「当店で使用している...安全なものです」と例のごとく書いてある。とんだとばっちりで気の毒である。私の友人の実家は焼き肉屋で、これまた客の激減という現実にぶち当たっている。給食に牛肉を使うのをやめた自治体もあったと言う。子供の中に牛を育てている家はなかったのか?
統計的には、日本であと1000頭ばかりBSEの感染牛が発見されて、ようやく1人の死亡者がでる計算である。しかしこれに対する過剰反応によって、経営が行き詰まった焼肉店の店主が自殺を図ったら、そしてそれが1人より多かったら、これは報道の不適切による人災ではないだろうか? よく行政の対応の遅れなどが批判され、「もう厚生省の言うことは信用できません」とかインタビューに答える主婦(とそれを報道するマスコミ)があるが、じゃぁあんたら何を信じてるんだ?とぜひ問いたい。ワイドショーの、どんな話題でもそこに座ってる、コメンテーターのおっちゃんの言うことを信じているのではなかろうな。医学的にどう見たって素人だろ。お昼に次々健康法を取り上げる番組も同じだ。
車が壊れたら車屋に行くくせに、どうして健康のことになると、到底科学者とは言い難いおっちゃんの言うことを信じてしまうのだ?
麻疹の予防接種で、1例の予防接種に伴う事故が起きたために、接種が任意(個人)になり、その結果10年単位の統計では、年あたりの麻疹による死亡者が数十人増えているという。確かに我が子が1例になるのはどの親だって嫌だが、ワクチンの本来の目的であるその病気の予防を怠って、顛末死んでしまう確率が(おそらく10倍以上の単位で)増えてはそれこそ本末転倒なのではないか。
飛行機が落ちたら困るので外国には行かない。
車にひかれたら困るので外出しない。
は、おかしなことだと気づけるだろう。数学の期待値の計算を、義務教育に盛り込むべきでは、との暴論も浮かぶくらい、今回の狂牛病パニックは、麻疹予防接種と同様、科学的に許し難い面を含んでいる。
参考としたのはこちら↓である。正確にはそちらを読んでいただきたい。
狂牛病に関して
狂牛病の正しい知識
病院に行った。私がかかったわけではなく、父の付き添いと称して見学に行ったのだ。行った病院は親戚(私から見ると大叔父かな)がやっている内科のクリニックだ。分類上診療所と呼ばれる、と書いた方がイメージはしやすいか。
現在内科の勉強中であるが、何とか病の症状を5つ、とかこの薬の副作用を5つ、とか見て「結局丸暗記かぁ、面白くないなぁ」と思いがちだ。確かにある程度は仕方ない。
今日病院で見せてもらったのが、血液検査のデータとレントゲン像だった。
血液検査の方は、つい先日「あーこんなの覚えなきゃなんないんだー」と思って見ていたものがそのままで、確かに正常値は横に小さく書いてあるし、その値からはずれると*もついてくる。しかし、ざーっと見てどこがよくないかわかった方がいいだろう。そのためにはやはり一度は暗記しなければならないのか、と納得。
レントゲン像は、胸部単純で、横隔膜上縁をよく見ると胸水がたまっている、というものだった。(よく見なければわからないのは私だけか)ちょうど臨床医学を学び始めたこの時期、指差されて「ここがこういう異常だ」と言われると、なるほどそうかなと思うのだが、「じゃぁこれのどこが異常だ?言ってみろ」となるとずいぶんつらい。所詮はまだ素人の域を超えていない。
他、ステロイドの副作用についても、先生から父の方に説明があった。これは今日の午前にやっていたところで、今やってることも「臨床医学」と呼ばれているだけあって、結構直結するもんなんだ、と当たり前のことだが認識を新たにした。将来患者さんの前でとうとうと流れるように副作用の説明をする、と考えると、単にテストのために勉強してると思うよりも、よっぽど勉強も進むというものである。
雰囲気のいい病院が好きだ。病院というと兎角暗く嫌なイメージがあるものだが、今日行った病院、その奥さんがやっている病院、奥さんの実家の病院、と全て行ったが、行くとまず受付で向こうから「こんにちは」、先生の人柄もあるのだろうが、どの病院も働いている人みんなが同じような雰囲気で、変な言い方だが患者として「行きたい」と思う病院である。将来開業するようなことがあればそんな「雰囲気」作りを目指したいものだ。
今日は自分がテスト前にもかかわらず高校生に英語を教えてきた。テキストに間違いが多かったので、自分でプリントを作成し、自分の予備校時代のテキストや、大学に入ってから買った参考書などから例文を探し、生徒の理解が深まるように自分なりにまとめた。内容は「倒置」。ちょっとマニアックな分野か。
プリント授業のメリットは、喋ることと黒板に書く以外の方法で、効率よく知識を伝達することができることだ。一方デメリットとして、教わる側がプリントをもらっただけで満足してしまい、話を真剣に聞かなくなる、よくまとまっているプリントを見ると、復習する必要がないかのように錯覚し、結局は頭に入ってない、などがある。したがって私は、あえてツボを抜いたプリントをつくり、ツボは授業内で伝える、ツボを実際に使うような例文だけを体系的に並べておくことにしている。
#プリント作成者自身が満足して、本来の授業がおろそかになるケースもまま見られる。
そもそもプリントの意義は何なのだろう?プリントがあれば話を聞かなくてもいいくらい素晴らしいプリントなら、講義自体不要になる。実際講義は一つも聞かないで成績上位の先輩もいる。また、プリントが要らないだけ授業がうまく板書などで内容を伝えられれば、これまたプリントは要らないだろう。つまり、講義の技術と教えるべきポイントの量が絶妙なバランスの時のみに、講義とプリントの両方が必要となるのではないか。
限られた時間で限りない内容を伝えるためには、聴覚(つまり教える側の声)ばかりでなく視覚(板書やプリントを見る)も刺激し、その上で保存性に優れた(つまりメモを取るのに追われなくても良い)印刷物があれば、一応いい講義のための条件は整ったかに見える。
しかし、しかしである。判断するのが難しい。教える側は(自戒を込めて)自己陶酔しがちだし、大学の教官でこれができてると思える人の数は、片手の指が余るくらいである。塾業界の
一員としても、自分が素晴らしいことこの上ないような授業をしてると思っていない。まだまだ素人に毛が生えた程度だ。プレゼンテーション検定なんてないのかなぁ。スライド、配布用印刷物、話し方について、きちんと方法論も教えて。
思っていることをきちんと相手に伝えられないのなら、それは思っていないのと同価値だ
は言い過ぎだろうか。
今日はまだ家から一歩も出ていないので、手持ちのネタで書くことにする。
温泉の効果には、
1.温熱によるもの
2.水圧によるもの
3.化学物質による薬理効果(経皮・経気)
4.転地療法的効果
5.精神的効果
などがあるという。
1.は主に血行をよくするものだ。多くの温泉に「禁忌症:悪性腫瘍」と書いてあるが、先日勉強した癌の温熱療法(れっきとした治療法の一種)に「42度で加熱すると癌は死滅」とあったので、実は癌にも効くのかもしれない。私のように膝痛を抱えている者にとっては、栄養血管に乏しい膝への血流を増加させるという効果があり、個人的には結構きいてるよう感じる。メカニズムから言って肩こりにもきくものと思う。
2.はマッサージ効果である。血管・リンパ管に圧力刺激を加えることによって、流れが良くなるなどが考えられている。水圧は水の深さに比例するので、下半身のむくみ(リンパ液の流れが悪くなるのが原因)などに効果があるのではないだろうか。
3.は温泉がただの温かい水でないことによる。法律(通称温泉法)で温泉を名乗れるのは、25度以上で湧き出しているものの他に、1リットルあたり1000mg以上の濃度の溶存物質が含まれる、などと決まっている。その成分が入浴中にミスト(蒸気)となり呼吸とともに体内に取り込まれたり、入浴中もしくは入浴後に皮膚を通じて体内に取り込まれることによる効果のことである。これは泉質と効果のある症状の間に一応の関係があると言われている。この観点から言って、かぶれない限りは温泉のお湯は、洗い流さず、拭き取らず、乾燥にまかせた方が取り込まれる量が増えるのでお勧めである。
4.は普通の人は温泉地よりも環境の良くないところに住んでいるだろうという意味である。空気もきれいな人混みがない自然の中に来れば、温泉抜きでも体の調子は良くなるだろう。
5.4ともつながるが、relaxしたり仕事などのstressから解放されて、ただお湯にのんびりつかること、は理屈抜きでいいことだろう。
さて、字数の関係もあるので、温泉豆知識第1部はこの辺にしたいと思う。
何よりこれくらいを調べもせずにすらすら書いてしまうあたり、だてに部活内で「温泉隊長」を名乗っていないな、と思う。もうちょっと力を注ぐべき部分があるような気もするのだが。
■2002/01/10 (木) 英語の勉強をしてみましょう。
今日でバイトも終わり、そろそろテスト前でマジモードに入ります。自己規制も兼ねて日記は手抜きになりますのでご了承下さい。今日は高2のために作ったオリジナルプリントです。6なんか結構広く信じられている誤訳、というかわかりづらい訳です。
翻訳家でない限り直訳を、というのが指導の基本方針ではありますが、きちんと「意訳」の方法論も教えれば、むしろ中級が上級になるには必要な部分と思っています。
高2冬期講習 英文解釈 名詞構文 例文集
次の文に含まれる動詞由来の名詞に潜むSVOの関係を指摘しなさい。
1.Columbus' discovery of America caused great change in the world.名詞構文を意識しない直訳例
1.コロンブスのアメリカの発見が、世界に大きな変化を引き起こした。
2.体の心への影響は興味深い。
3.親による子供の教育はとても難しい。
4.彼の休みをその島で過ごす試みは失敗した。
5.彼はこの信念の中にだまされた..?
6.人民の人民による人民のための政治
名詞構文を意識した訳例
1.コロンブスがアメリカを発見したことは、世界に大きな変化を引き起こした。
2.体が心に影響を与えることは興味深い。
3.親が子供を教育することはとても難しい。
4.彼は休みをその島で過ごそうとしたが、失敗した。
5.彼はだまされて、これを信じた。
6.人民のために、人民が人民を統治すること。
今日は街で母親と会うことになったため、ホテルでランチを食べた。
#「街」という表現は北海道でしか使わないらしい。
#自分が今住んでいるところが街でないと宣言するわけだから。
#一種の方言で、街の中心部、駅があるところ、という意味で使う。
##駅と言えば、タクシーに乗って「駅まで」と言えば、どの駅かがわかって着いてしまう
##ような町も北海道には多いし、私もたくさん住んだことがある。
そのホテルで、ランチは2時までで、1:30頃に入ったときに「2時までですがよろしいですか?」と聞かれた。こっちは別にいいんだけど、と思って入って、するとその後、1:40頃に入ってきたおばさん2人組にも「2時まで..」を言っていて、結局そのおばさん方は「じゃぁいぃわ」てな感じで帰ってしまった。2時になったら出した食事を下げるわけでもあるまいし、注文するのに20分かかることもないだろう。食後のコーヒーは2時を過ぎると出せないと言うことか、どっちにせよ言われた方がなんとなく帰りたくなるような言いっぷりだった。
そもそも日替わりランチは、忙しい時間帯にメニューの多様性を減らすために、まとめて仕込みをしておくメニューに誘導する、そこで安く提供しておいて、味をしめたお客さんに夜にも来てもらおう(そして元を取ろう)という発想だろう。1:40にまだ仕込みが残っているのであれば、食べてもらった方がいいだろうし、ひょっとしてその人が後日夜に来るかもしれない。そんなところまでは考えが回っていないのか、ホテルだけに言ってるセリフ自体(すみませんとかお待たせしましたとか)はよく教育されているが心の面と、私が上に書いたような経営的な面と、どちらも行き届いていないように感じた。
ま、駐車場無料で550円のホテルのランチだからな。その程度か。天丼の味の方は良かったし、食後のコーヒーもいいものを使っていた。そこは満足だった、というかそこ「で」満足だった。
祖母が入院した。大正4年生まれだから満86歳か。以前の脳梗塞が原因と思われるてんかん様症状をきっかけとして、脳神経外科病院に入院した。高血圧・糖尿病の持病もある。
一時的に意識がなくなっていたにせよ、そんなに危うい容態ではなかったのだが、色んな事情でICUに入った。ICUの中で一番元気で、普通に起きあがって話もできるし、むしろテレビなどのものが一切ない空間が、いわゆる「呆け」を誘発するのでは、と母たちが心配するのも無理はない。
当然と言えばそうだが、ICUには何も私物が持ち込めない。祖母のものは、入れ歯と歯ブラシだけである。また、面会時間も昼と夜の2回30分ずつで、その際には、使い捨てのキャップをかぶり、白衣のようなICUのためのを上にはおり、見舞い者の荷物は全てロッカーに置かなければならない。入室時には、スリッパを履き替え、手指の消毒も行う。一度に入室できるのは患者1人あたり2人まで。原則として6歳以下の子供は禁止。心電図と呼吸数と血圧をモニターして、導尿、酸素、輸液がセットされていた。
すごいな、と思ったのは、その設備の整いっぷりで、心電図は私が見ても不整脈だとわかったし、点滴の滴下速度もコンピューターで制御できるようになっていた。ベット間は広く、この間麻酔科で習ったとおりのものがたくさんあった。
こんなICUだが、私の母などが「不便なので、早く一般病棟に変えて欲しい」と言うのは、やはりわがままと呼ぶべきであろう。1/7に書いた医師(私の祖母が叔母にあたる)の紹介で(口利きでと言うと言葉は悪いが)入院させたものを、いい待遇にあっていて文句を言うとは、人間はつくづく利己的なものだ。「次に救急車が来たら一般病棟に移りますから」と言われているので、病状として安定しているのは確かであるが。
将来医師になったら、そのような人たちをたくさん相手にしていくのだろうと思った。科学的な判断をしつつ、感情的な現実にどう対応していくのか、というギャップを埋める作業こそが、医師の中で一番困難な部分かもしれない。
今日のサブタイトルを「テストモード日記 早くも挫折中」にした。
その前の日は「テストモード日記 早くも挫折」であった。
機械などがうまく働かなくなったら「故障中」という紙がよく貼られる。あれは単に「故障」ではいけないのだろうか?「故障」すなわち out of order は状態を表す言葉であるから、敢えて「中」という言葉をつける必要はないのではないか。
状態を表す言葉、と言うのは動作を表す言葉と比べてみるとわかる。これが動作を表す言葉だとどうなるか。「修理」と「修理中」では大きく異なる。修理するという動作が進行中の時に「修理中」と使うのである。では何故、故障には「中」がつくのだろうか?
以前読んだ何かに、これは貼った人が「故障を一時的なものにしますよ」という思いを「中」に託している、と書いてあった。つまり、「今のところ、一時的に、そういったことになっているんですが、近々直しますのでどうかご容赦のほどを」のような感情が「中」に含まれている、と。確かにただ「故障」だけだと素っ気ない気がする。
なんて話を頭の隅に置きながら、今日は「挫折中」としてみた。
ちなみに余談。
動作とか状態とかいう区別は、英語で進行形があるかどうかという動詞の区別をする時にはかなり重要だ。また、ちょっとしゃれた飲食店だと、開店/閉店を表すのに「open/closed」としている。飽くまでこれは、両方とも形容詞でなければならない。open が仮に動詞だとしたら、開店させる動作、つまりのれんを出したりシャッターを上げたりする動作のことを指すわけだ。この理由で close は動詞しかないため不可。openには形容詞もある。
open/close の看板をちらほら見るが、これはもろに日本の英語教育の賜物だと思う。closed は「This shop is closed/has been closed」と考え、閉められた「状態」だ、と考えてやると良い。VingとVppは形容詞として考えることができるのも、重要な事実である。
祖母の入院に伴って、祖母の家の住人が私の母のみになった。若干おばあちゃんに悪いような気もしつつ、テスト勉強の場を私のマンションから移した。理由は三食洗濯付きだからである。いつもは「一人暮らしがいい」とか「もし実家が市内にあっても一緒には暮らさない」とか勝手なことを言っておきながら、ちょっとテストでつらくなるとこうである。(自己批判的に)ご都合主義である。
1月4日にお袋の味について書いたが、やはりいいもんである。自分で作る料理も好きなのだが、一人のために作るには結構エネルギーを必要とする。(訳:面倒くさい)外食も、定食系のお店に行くと、探すところを探せばおいしいことはおいしいのだが、毎日食べに行こうとまでは思わない。もちろん経済的でもない。不足しがちな野菜を補うために、市内のあらゆる店を思い出す作業も結構面倒くさい。一人では行きづらい店もあるし、誰かと一緒に行くにはその調整にもまたエネルギーを必要とする。その点、お袋の味はなかなか優れている。連用による耐性は生まれないし、自分の中で基準となってる味なので、おいしいものが多くて当然である。
さて、三食付きのはずだが、今日は諸事情のため、私が昼ご飯にあんかけ焼きそばを作った。その反省を書いて、あとは内科を。
1.市販のあんかけの素では、及第点止まりの味になる。悪くないのだが、良くもない。
2.野菜を入れすぎると、水の量が多くなってあんがゆるくなる。(でも野菜は入れる)
3.お酒や中華だしなどをもっと加えるべきだった。
4.欲を言えば、オイスターソース・豆板醤、特にテンメンジャンを加えたかった。
5.仕上げにゴマ油もいい。付け合わせに紅生姜もいい。
6.麺はもっとカリカリに炒めるべきだった。
7.本気なら、太めの生麺を固めにゆでて、それを多めの油で炒めるのがもっといい。
8.野菜は、もう少し火を通す時間を少なくしてシャキシャキ感を出した方がいい。
9.肉とイカは最初に片栗粉をまぶしておくと、より良い。
10.フライパンは大きい方がいい。
#あー中華鍋(本格的に黒いやつ)買おうかなぁ
今日は現実逃避に、テレビでバスケの全日本の決勝を見た。ちなみにテストは今日の15:00からである。どのくらい勉強してるかというと、「けっしょう」が「血症」と変換されたり、推定だが万歩計をつけたら1日あたり3桁におさまるだろう、というくらいだ。
私はバスケを中学から始めたが、プレーヤーとしてはそんなに芽が出てないが、審判としては結構秀でている。学生時代がもう一年あったら「日本公認」つまり日本リーグの試合が吹ける資格を取ることも、真剣に検討したくらいである。したがって、今日なんかも「レベルの高い審判」を観戦したりした。今日の主審はこのためにわざわざ呼んだというリトアニア人の結構有名な人で、2000年のオリンピックの決勝などを吹いていたくらいの人だ。なんでも、この試合が終わるとすぐにヨーロッパに飛び、向こうでまた吹くそうだ。ちなみに世界的に一流になると報酬も結構高いらしい。
審判には、ルールの知識はもちろん、バスケットのプレーに対する考え方も求められる。よくどっちから押しただとか、その時どっちの足が動いていたかだとか、小さなミクロの目で見て不平を言うプレーヤーがいるが、本当は、そこで反則が起きるようなプレーはそもそもしないべきだろう、というマクロな見方が必要である。オフェンスが止まればいいものを突っ込んでいったら、ディフェンスが動いていようと、手を出そうと、オフェンスが悪いよ、ということである。バスケやらない人にはわかりづらいかな?
外国人であることに注目すると、日本の試合を、日本人の審判と協力して審判しても きちんとできる、というのは、よく考えるとすごいことである。審判法は世界のルールを翻訳して日本のマニュアルを作っているのでできて当然と言えばそうだが、全世界的に普遍的なバスケット、を世界中の人と共有していると考えると、結構壮大なものである。次にどこでどんなプレーが起こるか、という予測は、いい審判をする上で欠かせないがそれも世界的にある程度共通するものがあるから、どこの国へ行っても吹けるのだろう。ただ、いくつか日本と違う、つまり相手の日本人審判と違う動きがあった。これは実は私が以前から疑問で、今日注目して見ていたところなので、行きつけの審判のためのサイトhttp://www.shinpan.com/top.htmで、疑問点を出して話し合いたいと考えている。
微妙に日付がずれていることをご了承ください。今日と書いてあるのが昨日だったりするのです。それもこれも生活リズムをぐちゃぐちゃにしているせいです。テストが終わった瞬間に寝るのが、最も勉強時間が増える方法だと、一応理論的には。
試験については、まぁ大変でした。再試ついたら頑張ります。全然思い出せない、が正直なところ。
そんなわけで、今日は私がいつも行きつけのページになど行ってお楽しみ下さい。お気に入りを貼っただけだとの意見もある。
Dr.Nの淡々としていなくもない日常
広島大医学部2年のNのページです。たまに、私と日記の内容がリンクしたり、メールで話した内容が使われていたりします。1月5日や12月上旬のあたりなど見てみるとその意味では面白いかもしれません。
日・パ旅行社
パキスタンにある旅行社のページ。この中のオバハンの緊急レポートが現地の世相をよく表していて、報道とは何なのかについても考えさせられる。
ほぼ日刊イトイ新聞
あの糸井重里のページです。
3つに共通するのは、ほぼ毎日更新されていて、日常その辺に転がっていることについての雑感(これは失礼な表現か)が、エッセイで書かれているということです。地味に私の日記も密かにそれを目指していたりします。
■2002/01/17 (木) テスト終了よりも、高校生の自由について
本日試験がひとまず終わった。16科目中3科目、あと13科目は2/12からだ。テストのこともあるのだが、時期的にのがしてはいけない問題として。
先日の北海道新聞に、札幌南高の卒業式での君が代斉唱問題が取り上げられていた。札幌南高は北海道で三本の指に入る進学校で、制服がないことからわかるように自由な校風の学校として知られている。詳しくはこちら(さるさるからの移行時にデッドリンク)なのだが、私なりに要約すると
・校長は卒業式で君が代を斉唱することを決定した
・国旗国歌をどう考えるかは個人の自由のはずである
・校長がそれを決定するまでの間に、歌いたい人・歌いたくない人の間
また、学校側と生徒側の間での話し合いが十分ではなかった
・そのためこのHPで議論を継続させていこう
ということらしい。新聞にアドレスが載ってから大変な数のアクセスらしい。「国旗国歌の是非について」に論点がずれている、と書いてあったが、そもそもずれているのは上の考えを述べている、そのHPの管理者だと私は思う。
歌う自由とか国歌の是非について考えるよりも、まず卒業式とは何なのか?ということである。これは「生徒会行事」ではなく「学校行事」である。そこに生徒の意見がはさまれる余地は本来ないはずである。それを一応、参加者である生徒の声を聞いたのが現実で、いかにもよく話し合わないで決めた学校が悪いみたいに主張しているが、生徒会行事の中のプログラムを組むのとは違い、学校側が執り行う行事の内容について、本質的に生徒側には意見をする権利はないはずである。その学校が良くて、入学時に「この高校のやり方についていきます」という誓約書を、少なくとも私は書いたし、義務教育でない高校というのはそういうものだと思う。
私の高校も、北海道で5つくらいしかない「制服がない」学校だった。正確に言うと私が生徒会長の間に、服装の自由化が行われ、私の下の下の学年からは、入学時に制服を購入していない、という端境期である。どうしてそのような活動ができたのかというと、生徒側が行う領分を、生徒も先生もよくわきまえていたからだと思う。お互いを認め合ってはじめて、できるのだと思う。
どうも何かにあおられているようなにおいがする。そんな形で高校生活を終えるのなんて、端から見ていてあまりいいようには思えない。
チュートリアルという教育法がある。少人数グループ学習で、チューターがつくのでチュートリアルと呼ばれる。一番の要点は、人数が6〜9人ということではなく、問題解決型学習(problem based medicine)だと言うことだ。
講義形式は、最もよく見られる教育法で、教官が必要な情報を「一方的に」与えていくという教育を受ける方から見ると「受動的な」もので、やる気があるレベルを下回るとかなり効率の悪いシステムである。講義中に寝る、等は典型的な破綻例である。
これに対してチュートリアルでは、シナリオと呼ばれる議論のとっかかりが用意され、それについて『自分で問題を設定し自分で調べていく』のが大きく異なるところだ。そしてそれをそのグループ内で発表して、質問を受け議論しあい、再び生まれた疑問や他の人が調べたことに対する疑問などをまた調べていく。チューターはどんなに知識があっても教えてはいけなく、「じゃあ今度はこっちについて調べてみようか」とか話を誘導・整理することしかしてはいけない、のが理論である。
例を挙げましょう。
「20歳女性、未婚、2週間ほど頭痛などの不定愁訴が続いていた。3日前から腹痛も加わり、本日内科を受診した。身体所見、右季肋部痛、押しても痛みを伴わない。血液検査の結果は、GOT 20[IU/L]、GPT 30[IU/L]、LDH 220[IU/L]、IgG 3000[mg/dL]、(以下略)」
これは私が今適当に作りましたが、こんなシナリオが渡されます。これについて思うところをそれぞれが自分で考え、自分で調べていくわけです。これを読んでる皆さんはどんな疑問点がありますか?
(例)などなど、際限なく疑問が湧いてくるのではないでしょうか?それについて自分で調べてグループ内で他の人に発表し(体験することで効果が上がる)それを繰り返していく。大雑把に言ってこんな学習法のことを「チュートリアル」と呼ぶ。
■2002/01/19 (土) インターネットチュートリアルについて
チュートリアルをインターネット上で行おう、というのがインターネットチュートリアルである。インターネット上でどう行うのか?楽位置楽TheTutorialではこのようにやっている。
医学部以外の学生も参加可能なので、興味がある方(でメールが使える方)はHPへ行き案内を見てみてはどうだろうか。
2日にわたる壮大な前振りだったが、試験が終わってから、この「インターネットチュートリアル」にはまっている。そもそもテストが嫌いで、今回のテストも勉強を避け続けて、結果自分のできなさっぷりにびっくりだったのだが、こういう自分で好きなことを調べる、考える、まとめる、発表する、という流れは一番好きなものであり、時間の許す限りやっていきたいと思っている。
今回のテーマは「スポーツ障害」と「危機管理」である。スポーツ障害ではテニス肘についてとゴルフ場での突然死について、危機管理では輸血ミスについて激論が展開されている。
まずは危機管理について最初の1週間分を、ホワイトボードに書くようにまとめた(そしてメールで発信)。テスト前でも(テスト前だから?)やらないくせに、整形の本を図書館から借りてきて今調べている。試験に直接は関係しないが、自分がやりたいと思ってやってるものなので楽しい、そしてそこでの人との触れ合いもなかなか楽しかったりする。あとメールを打つだけなので時間の制約がないのも、友達同士で集まる勉強会と大きく異なるところで、結構「忙しい」自分としてはまさにうってつけのシステムである。
青いオホーツクの海をまばらに覆う白い流氷が、波に揺られているのを横目に見ながら、足跡も何もない一面雪の砂浜をしばらく歩いてみた。
てなわけで、流氷を見に網走へ行ってきた。北海道の土地勘がない人にはどうってことのないように聞こえるかもしれないが、今日の私の車は(日帰りだったが)660km走った。私の家から海を見るまでざっと250km走らなきゃならないのだ。運転好きじゃなきゃやってられないが、私は運転好きだ。今日だけは自分にご褒美、散財してきた。
出発時、車の温度計が−22度まで行ってた。クラッチを踏むたびに、一瞬一番奥でくっつくような変な感覚が起きたり、自分の横のガラスが、自分から出る水分ですりガラスになるくらい。
まず美幌で豚まんを買う。11時開店の店なのに、無理言って10時に買った。これは期待以上に美味しかった。さすがはなまら蝦夷(北海道をさまようための本、らしい)とほ参照
次に流氷を見る。上に書いた情景の通り。これがやりたかった。満足満足。個人的には、観光船で割って進むよりも、岸まで流れ着いたやつとでーんと向き合って見るのが好き。
涛沸湖で白鳥に餌をやる。オオハクチョウに100円で買ったパンの耳をあげると貪り食うのだ。他、カモメもカモも紛れてパンを争っている。ちょっと生態系を心配する。
天都山に登って、流氷を高いところから見る。想像通り、沖にはあるようだ。木をくりぬいて作った急須が欲しくなるが断念。
回ってない寿司を食う。真ダチが一番おいしかった。卵巣系の珍味もまた良い。今日の収穫はイバラ蟹の内子。下でとろけるとはまさにこのこと。
車を走らせ、峠から屈斜路湖を見る。この角度は初めてだった。クッシーはいなかった。硫黄山の硫黄臭がした。その割に単純泉が多いこの辺。
晴れていたので摩周湖に向かう。霧の摩周湖に4戦4勝目をあげる。晴れ男か?>自分
屈斜路湖畔のペンションに、温泉に入りに行く。300円なのに貸切になり、すこぶる良かった。正しい温泉であることと、露天風呂が本当に森の中で、鳥がその辺を飛び回ってること。
★正しい温泉=水で薄めない、塩素などを加えない(=循環させない)という狭義の天然温泉に近い意味。
特に深い意味はなく、北見でカツ食って帰る。
旭川に着くとまた−18度とか...
レジャーなどで出かけたときに、どうもそいつがいると晴れる場合を「晴れ男」、どうもそいつがいると雨が降る場合を「雨男」と呼ぶ。(女も同様)
#ちなみに「雨」を「雪」に変えると意味は変わるのが普通である。
その意味、私は結構「晴れ男」かもしれないのが昨日書いた摩周湖の話である。
摩周湖は、北海道東部に位置する湖で、湖面が美しいことで知られている。しかし「霧の摩周湖」ともよく聞くように、なかなか湖を拝むことはできないとされてもいる。実際「湖面を見たカップルは別れる」とかいう、「カップルで幸せそうなのに、その上摩周湖も見やがって」という妬みっぽい話もある。
まぁ別れたけどね。(体験談)
1回目はサイコロを振って(行き先を決めて)ドライブをしていた時だったので、これは選びようもなく晴れていて、ラッキーの一言だった。2回目はこれまた本州から友人が来た時で、その友人の日程に合わせたということは必然的にこっちに選択の余地はなく、でも晴れていた。3回目は釧路であった大会の翌日実家に帰り、その次の日に旭川に帰る時に通り道なので寄り、特に晴れてるから行こうとしたわけではない。しかも到着後10分もしないうちに霧がかかってきて、あっと言う間に湖は見えなくなった。そして昨日の4回目は、そもそも流氷を見に行こうと決めたのは前日の夜だし、路面が思いのほか良くて時間的に余裕が生まれたので、じゃぁ摩周湖にでも行くかな、との思いつきなので、「晴れてるから行ったんだろ」というのは当たらない。
旅好きとしては、天気が悪かった時と良かった時に何ができるのかを、予めいくつも調べておいて、その時の気分や天気やその他色々によって、flexibleな計画変更をすることも、旅を充実させる重要な要素だと思っている。そのためには、ガイドブック等の熟読と、地図や時刻表の完全な使いこなしが求められる。
試験を乗り切るためにはたくさんの知識が必要である。1科目につきA3で100枚を超えることもある。これが16科目なら1600枚!?いったいどこで覚えているのだろう?覚えていないのか?じゃぁなぜそんなに必要なのだろうか?
その知識を全て自分で調達するとなると難しい。講義を100%網羅していたり、過去に出題された問題(過去問)について100%納得がいく解答を作成することは、独力ではかなり困難と言ってもいい。そこででてくるのが「シケタイ」と呼ばれる分担・相互扶助制度である。要は分担に従い、特定の科目の勉強の指針のプリント(シケプリ)を作製し100倍に増殖・配布するものだ。(というかそれだけやる人も多い)
メリットは、自分一人でやるよりもはるかに多くの情報が手に入ることである。理想的には全ての科目でそうやって勉強すればいいのだろうが、時間や体力の制約を考えると、誰かが調べてくれたものを覚えるので精一杯という現実もある。マクロに集団のレベルを上げる効果も期待されるし、ミクロに作った人自身が勉強になるのもある。
デメリットは、自分でやった方がよっぽどまとまってる、という資料が散見されたこと。親亀こけたら皆こけた、的状況になる、つまり疑うことを知らずせっせと記憶すると、教官側からするとやたらに同じ間違いが多いことにある。この行為を「縮小再生産」というのはうまく言い得ている言葉である。
塾でバイトしているのを挙げるまでもなく、私はまとめたり教えたりするのが好きだ。どうすればわかっていない人にわかりやすく伝わるか、暇さえあれば考えていて、昨日も朝5時までやっていた。私が担当の第一外科は、得点が6割を切ったら他の科目がどんなに良くても留年、と言っている恐ろしい科目だ。それについてはすごく責任感を感じるだろうし、同時に成功した(この場合資料良かったね、と言われること)際の充実も大きいだろうと思う。プライドもあるので適切な図を探すのに洋書(フル英語)など使っていて、あとは皆さんの評判を聞くことでうまくいったかわかるのだろう。
先日のセンター試験の結果を、1年間(ないし2年間)担当した生徒から調査し終えた。可もなく不可もなく、と言うか、ぱっとしない感じの生徒が多かった。どうして塾に来ていたのにそんなに伸びないのか?という、至極当然な疑問が生まれる。自学自習と変わらないのでは、いったい何の意味があるのだろうか?
私は塾で、英語の「読み方」や「考え方」を教えていく。英文は世の中に無限に存在するわけで、それに人間が持つ有限の力で対抗するには、ルールや規則性を知らなければ不可能であろう。そこで一生使える(そして私も使っている)英語の構造の「読み解き方」などを、教えていく。そして実際1年以上つきあってくると、かなりそれについては理解してくれる。
論理的な考え方の対極に位置するのは、「とにかく英語をたくさん読め、単語も覚えろ、熟語も覚えろ」という、私に言わせれば「スポーツ根性的な」やり方である。ただそのような方法論しか知らない高校生は多いし、高校の教員がそういうものしか教えられない現実もあり、問題なのは、
そういうやり方をした生徒と、私が教えた理屈を理解している生徒の点数に、はっきりした差がない
ことである。これはどうしてだろうか?
1つの原因に「単語力不足」が考えられる。料理の腕が良くても、食材がなければ料理はできない。英語の難しい読み方を習得していたとしても、単語を知らなければ内容はわからない。
しかし塾で、黒板一杯に単語や熟語を書いて「これを覚えるまで今日は帰さない」的にやるのが本当にいいことなのか?もっと叱って締め付けていけば、勉強してくれて成績は伸びるのか?それは本当に塾の役割なのか?でも成績を上げられない塾は、本来の役割を果たしていないのではないか?
馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。これが私の塾講師としてのスタンスである。
今日は、とある講演会に行き、栄養と疾病との関係についての話を聞いてきた。プレゼンテーションの技術はお世辞にも高いとは言えず、内容もありきたりの話ではあったが、食というものを考えるきっかけにはなった。
例えば、煙草が体に良くないこととか、酒の飲み過ぎも脂肪の摂り過ぎも、肉より魚がいいとか、野菜をもっと食べた方がいいとか、ラーメンのスープは残した方がいいとか、みそ汁は1日1杯にしろとか、ある程度アンテナを延ばしている人なら誰でも、どこかで聞いたことがあり、本人もわかっている話だと思う。
しかし実際病気になって、食事に関して栄養士などから指導をされる。実際医師の話を聞くと、指導で改善する人の割合は低く、結局また同じような食事を続けて、症状も改善していかないケースが多いという。糖尿病の教育入院をして、入院中は血糖などもうまくコントロールできるのだが、退院した途端にまた元に戻ってしまうことも、ままあるという。
わかっちゃいるけどやめられないのはどうしてなのだろうか?これは前にも書いたが「食」というものが、人生の中で大きく意味を持つ部分なのだと考える。つまり、その部分については他の人からとやかく言われたくない部分かもしれないし、例えば疲れてくたくたになって帰って来た時には、いわゆる「おいしいもの」つまり今日の講演会で言う「体に悪いもの」を食べたくもなるだろう。仕事の後の一杯がたまらない、と言う人も多い。
その個人の尊厳にも関わりうる「食」を変えさせることは医療者にはできるのだろうか?たとえ治療という明目であったとしても。他人がその人の生活を変えさせるのは、例えが悪いが、朝鮮半島に住んでいた人に日本語と日本の名前を押しつけた政策と、ひょっとすると共通するものがあるのかもしれない。だからこそ栄養指導をしてもあまり実行してくれない、という現実が見られる。
薬を処方しても患者さんに飲んでもらえないことを「コンプライアンスが低い」と表現する。食事に関する指導の「コンプライアンスを上げる」には、単に医学・栄養の知識のみならず、患者さんとの信頼関係や人格的なものも関係してくるだろう。病気を診断して薬を処方して、だけでなく、そこまでできる人をはじめて「名医」と呼ぶのかもしれない。
雪印食品のある社員が、外国産の牛肉を国内産と偽って、政府に買い戻させ不正に利益を得た、と摘発されたらしい。国内の牛肉生産農家が、BSEによって受けた被害を救済する制度を悪用したことは、もちろん断じて許すべからずことである。(べし:可能を表す助動詞)
しかし大きく見ると、彼らもまた被害者だとは言えないだろうか?そもそも豪州産の牛肉がそんなに売れ残ってあったのはどうしてか?1/6に書いたような現状があるにも関らず、BSEについて科学的根拠のない報道を続けて、徒に消費者の不安をあおったマスメディアの責任はないのだろうか?「狂牛病」というネーミングですら、「牛」を食べると人まで「狂う」のでは?という誤解を招く、との意見もあるくらいだ。mad cow diseaseの訳としては適切かもしれないが、そこまで考えた人はいただろうか?
薬害エイズの厚生省、さかのぼって四大公害から、よく行政の責任が問われるが、問うだけで全く問えてないと思うのは私だけであろうか?トップがやめればそれで方が付く、再発防止の論議は「これからより一層注意して参る所存でありますので...」も紋切り型で進歩がない。再発防止の具体策はないのだろうか?「行政の責任が問われますね」という人は多いが、そこで話が終わっている。新聞の社説だってそうだ。
再発防止の対策を立てないのはどうしてなのだろうか?健康を追究するために病気の研究をするのは誰にも異存はないだろう。しかし平和を追求するために戦争を研究することには、いわれのない拒絶感がある。薬害エイズの際にはいいだけ非難された厚生省が、薬害ヤコブを引き起こすのは止められなかったのか?それはなぜなのか?個人の力に頼るのではなく、組織・システムとしてきちんと実行される方策を練っていくことが必要だろう。
今日書いたことは、そのまま医療ミスの話につながっていく。誰かがうっかりしてしまったことを「その人の不注意だったね」で終わらせないために、いったいどのような具体的な対策が取られているのか?極端な話、日本全体で共有した方がより良いものと思われるが、そこまで行く気配は全く感じられない。
今日の献血は私の人生で19回目だった。献血ルームも、登録者に成分献血に来てくれるようお願いの電話をするくらい大変な状況もあるらしい。実際私にも昨日電話が来た。医療に従事するくせに「私痛いから嫌」とか言っている人は、はったおしたくなるのだが、まぁそれはさておき。
私の体重を70kgとし、今日血漿献血した量を550mlとする。(70kgの体重だと400-600mlと決まっている) 人間は体重の8%が血液だという。そうすると血液量は5.6kg、おおむね血液の10%を献血したことになる。尤も20%とか30%でも、それだけが原因で命には関わらないと言う。ただその日にスポーツをすると結構やられる。
1/19に書いたインターネットチュートリアルで、危機管理のテーマで「輸血のミス」について考えている。現場でどのようになされているのかと注意して見てみた。名前と血液型を口頭で確認するのは気づいていたが、各検査のための血液入りの試験管、血液が入ったパック、などに貼るシール式のラベルが、血液型によって色分けされていた。A型なら黄色、O型なら水色、といった具合にである。視覚的に考えたときに、文字であれば頭での理解が必要なので読み間違いなどありそうだが、色であればそういうミスが入る余地が減るのかな、と感じた。
もう一つ、結構致命的なミスと言えばそうなのだが、針を刺す前の消毒法についてである。アルコールのしみこんだ脱脂綿、のやつだが、同じ場所をいかにも念入りに「往復して」消毒する人が結構多い。往復すると、際の部分で消毒されてない部分を触り、それがせっかく消毒された部位に戻ることになる。従って内側から外側に広がっていくような方法が「理論的には」推奨されている。実際やられているのをほとんど見たことはないが。
往復していたのは検査の時だったが、実際の採血の時には、ヨードによる消毒が円を描いて内から外へと広がっていくように、とお手本通りであった。しかしその後、いざ刺そうとしてどの血管がいいかと選んでいる時に、駆血して(←腕をゴムで縛るやつ)浮き出ている静脈を
ポンポンと指先で触って確認した
のである。
消毒した意味ない...
細菌学的に、あんたの指はそんなにきれいか?
さっきジュースの自動販売機を押した指なんちゃうんか?
と一人心の中で毒づいていた。
docomoのケータイを持つ人が2400万人だかいるらしい。日本の人口の2割を超えているとはなんとも言えない気分だ。私は頑なにH”派だが、docomoでは迷惑メールに困ってアドレスを変える人が多い。H”に迷惑メールが来たことはただの一度もない。昨日・今日とアドレス変更の知らせが来たが、@docomo.ne.jpの前の部分が25文字と27文字である。アドレス帳に入っている人の中で最高は30文字である。率直に言ってなんだかおかしい気がする。でも確かにその人たちは「来なくなった」と胸を張って言っている。
簡単な数学だが、使える文字の種類を30とすると、30の5乗はおよそ2400万となり、5文字あれば2400万のユーザーの識別はできる計算になる。よく使う文字が10文字だったとしても、10の7乗が1000万だから、20だ30だという文字数はおかしい、と考えるのが当然だと思った。
しかしこの計算をして気づいたことは、みんなのアドレスが5文字や7文字くらいだと、でたらめに送ってもかなりの確率で届いてしまうことだ。これこそ迷惑メールの本質である。ユーザー数が多くなったことは、識別の困難さを表してもいる。しかもdocomoはアドレス変更を奨励していて、このことは「迷惑メールの受信拒否はユーザーの責任ですよ」と言っているとも考えられる。言ってしまえば単なる責任回避である。
これに対応する策だが、私が一番いいなと思っているのは、転送メールの活用である。パソコンで転送メールアドレスを取得し、そこから自分のケータイに転送する。ケータイで直接受信できるアドレスはその転送アドレスだけにする。メールを出すときは自分のアドレスから出すが、送ってもらうときにはその転送アドレスにしてもらう。
これだと将来的にケータイの会社を変えたとしても、そのままのアドレスが使えることになる。無料で取得できるアドレスも色々な会社があるので、自分の気に入ったユーザー名(@の前)をじっくり探すこともできる。
いずれにしてもH”には関係ない話だ。私のアドレスはjpまでで15文字である。そんなに圏外に行くわけじゃないんだから、ケータイに固執しなくてもいいと思うんだけどなぁ。写真とか音楽とか辞書とかニュースとかバリバリ使いこなしている人ならいいんだけどさ。
久々に勉強している。試験が13科目から16科目に増えた頃に焦っても遅い、という意見もある。ちなみにまだ3科目しか終わっていない。16-13=3である。こんなことではいけないのだが。
大学では1つ下の学年から「チュートリアル」教育が行われている。今日の話では「少人数グループ学習」と考えても構わない。カリキュラムにある以上、学生に成績をつけるのが教官の使命である。だが入試の「面接」を点数化するのと同様、自学自習と発表をどのように点数化するのかは議論がある。
1つの方法として「発言回数」というのが挙げられる。よく調べてきた人や、意欲的にグループ学習に参加する人の発言回数は増えるだろう、という見方である。一見そう思えるのだが、これにはその個人個人のキャラクターが関与しているとの反論が出た。つまり、「他人の話を聞くのも重要な力である」し、それはそもそも個性だ、ということだ。
私は今、試験科目を増やして自分を追いつめているが、これが仮にチュートリアルであったとすれば、まず間違いなく優秀な成績だったと確信している。インターネットチュートリアルもそうだし、資料の作製もそうだし「自分のやりたいことを、独創性の発揮できる方法で」調べ、まとめ発表することは非常に得意だという自負がある。これまで書いた文の端々に出てきたことだ。
もしもグループ学習で発揮される力が個性だとすると、暗記物の試験で点数が取れるのもまた個性である。一方、人前でうまく発表できないのも個性だとすれば、暗記物の試験で点が取れないのも個性である。「個性を認める」ことはなんとなく「正義」のような気がするが実際はどうなのだろうか?
こんな逸話がある。
ベルリンオリンピックの100m200mで金メダルを取った選手が、国に帰ったが仕事もなく、余興で馬と競走させられた。
人が他から認められるのも、時代と運なのかもしれない。ただ与えられた環境でどれだけ自分がベストを尽くせるか。己の力を知り、現実とのギャップを知り、それを埋めるためにどれだけ努力できるのかが問われているのは、どの時代でも変わらないのかと思う。「努力する才能」という言葉が実は好きである。その「才能」は私には欠けているかもしれない。
いずれにせよ「個性」に頼った瞬間から思考停止である。言い訳しないようあと5週間あまり勉強漬けになりたいと思う。
今日の麻酔科の教授の講義はなかなか面白かった。まずはその話を引用。
ある種の麻酔薬には「健忘作用」がある。よって例えば、手術中に「一見」意識が戻り「痛い痛い痛い」と叫んだ患者さんは、術後にそれを覚えていないという。よってそのような場合に痛みは無理に止めなくてもよい。(ここだけ見ると誤解を招く表現だが)
全身麻酔の覚めかけの頃も、同様な様子が見られる。私は全身麻酔で手術を受けたことがあるが、その時自分にはなかったが(あるいは周りが固く口をつぐんでいるかどっちか)隣のおじさんは、覚めかけに色々しゃべっていて、その後全く覚えていないと言っていた。その間には嘘はつけないという。興奮中枢と抑制中枢では、抑制の方が早く麻酔にかかるために、抑制行為である嘘をつく行為ができなくなるのだ。
これを拷問に応用することができる。スパイをつかまえてきて、薬を注射し、色々しゃべってもらうが記憶には残らない。カモフラージュとして普通の拷問も行い「これだけやって吐かないとは、知らないんだろう」と言って、脱獄できそうな牢に入れ、脱獄してもらう。本人は記憶がないのでまた部隊に戻る。(自分が吐いたとわかったら自殺するだろう)部隊でも、吐いたのであれば作戦も変えるが、吐いてないとなるとそのままの作戦でいく。
人間の体は、半年もすると新陳代謝で「物質的には」ほとんど入れ替わるという。(半年か定かではないが)入れ替わったときに、なおその人がその人たる所以は何なのだろうか?それは「記憶」に他ならない。痴呆や記憶喪失が問題になるのはここである。
一方人間は「忘れる」動物でもある。これは特にテスト前によく実感できる。忘れることがなければそれはそれでつらいだろう。PTSDなども、記憶を忘れることができなくなった障害とも解釈できる。ショックで記憶がなくなる人もいるのも、自己防衛と考えれば同じ理屈かもしれない。
忘れすぎてはいけないし、覚えていすぎてもいけない。コンピューターで容易に再現しがたい、絶妙なバランスの上に人間は成っている。考えると不便なことも多いが、「人間味あふれる」というのはその曖昧さあってのことなのだと思う。
世の中の人間関係は、1対1が基本である。(バスケも1on1が基本である)1人と1人の関係がたくさん集まってできるのが、集団の人間関係である。n人いればn×(n−1)÷2通りの人間関係がある。集団と集団の関係、というのは直接はありえない。ある集団の中の人間とある集団の中の人間の関係が集まって、集団同士の関係が形成される。少なくとも理論的にはそうである。
人と人とが出会う機会を提供してくれるものを「場」と呼ぶ。webも壮大な「場」である。政治・宗教を除いたって、この世の中にはたくさんの「場」がある。「会」と呼ばれるものはもちろん、人が2人以上集まればそれは立派な「場」である。
よく「××に行かなきゃ、あーぁ行きたくないなぁ」のようなせりふを耳にする。この場合××は「場」であることが多い。「××は俺には合わない」と言う人もいる。私はこれには強い違和感を覚える。「第3講義室は俺には合わない」というせりふは、第3講義室にいる人と合わないことを意味しない。むしろナンセンスな言葉だ。
行きたくないとして、それはきちんと分析すれば「××にいる誰それ」もしくは「××で自分がする何か」であるはずである。前者は上に書いた1対1の関係であり、後者は自分の意思で行うものであろう。どちらも自分次第の内容のはずなのに、安易に「××のせい」にしてはいないだろうか。
私が塾で、車で50km離れた街まで毎週通っていたのは、塾があるからではなく、そこに生徒がいるからだ。それこそ吹雪の日なんか、命を懸けてまで行くのは人間と人間の関係があっての話である。テストや体調などの都合で自分がバスケをやらない時に体育館に顔を出すのは、そこにいる人に会うためであって、体育館という場所が好きだからではない。ドライブに行くのは、目的地に着くのも大事な目的の一つだが、それまでの時間を共有するという意味も大きい。嫌いな人とは一緒に出かけたくない。
何かの行動を顧みた時にネガティブなイメージを持ったら、この考えに帰ることにしている。相談されたときもそうである。そうすれば意外と自分で何とかできることに気づくものだ。
友人たちの話を聞くと、テスト勉強のためのストレスや生活の崩れ(特に睡眠と食事)のため、かなりの人が体調を崩しているという。過敏性腸症候群なんて内科でやったとおりだし、食べられなくて体重が激減する人もいるという。何より顔がつらそうである。
#どう考えても私の方がつらい日程なのに。
私は根が鈍感なのか、それとも何なのか、体調はすこぶるいい。食生活の面で、親が作る食事を1日1回は食べているからかもしれないし、まだ眠くなったら寝て朝から始める、というリズムにしているからかもしれない。朝方になると目覚ましが鳴る前に目が覚める。何より日記を書いているくらい精神的な余裕がある。だから試験を落とすのかもしれないが、自分の健康を削って、他人の健康を守る医学を勉強するのは、なんだかおかしい気もする。
だが聞けば、うちの大学の某科は「医者になって1年目は『年休』3日だね」とか、違う先輩は、24時間に1回は必ず病院に行く、と言っていた。医者の給料は労働条件から考えると、妥当かむしろ安いくらいだ、と言ってる先輩も多い。確かに「当直」というのが普通の勤務の間に挟まれるという現実、つまりある日の朝から次の日の夜まで、ずーっと働き続ける、ということも知識として知っている。
そして今の試験勉強である。自分の健康を削り、食事を削り、精神的にぼろぼろになり、勉強している内容は「健康を守ること」である。しかし不思議と「将来患者さんのために」という感情は生まれず「自分が落ちたくない」という近視眼的な動機が支えているかもしれない。気持ちはどうあれ「非人間的な」生活を送って、気付けば3月になっているのは確かだ。
私は勉強をなめているのかもしれない。「やれば何とかなるだろう」と言って「やらない」人は、「やれない」人と同じである。最近は休み時間も一人になれるところに言って勉強しているし、こんなに早くから何とかしようと鬼気迫っているのは、生まれてこの方初めての経験である。こんな時に理解のない彼女とかに絡まれたら、とか想定して、つくづく今の自分が幸せに思えるほどだ。
でもまだ足りないのかもしれない。体調を崩すのが目的ではないが、もうちょっと無理をしてやってみようかと思うこの頃である。
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