最北医学生の2002年 2月の日常

■2002/02/01 (金) 雪印問題に見る個人と組織の関係

雪印食品は、雪印乳業とは別会社であるから、反省を生かせなかったというのは当たらない。三菱自動車の反省を、三菱電機とか三菱えんぴつとかに求めるようなものだ。

と考えていたのだが、雪印食品が雪印乳業の子会社であり、さらにBSEの話が一般的でない5年も前から悪さをしていたと聞いて、すっかり会社には同情する気がなくなってしまった。しかし、大部分の社員にとっては、一部の社員がやらかしたことで多大な迷惑を被っている、との気持ちだろう。社員には同情したくなる。だが同情していいのだろうか?

自分1人で仕事をするのではなく、会社に雇われ会社から給料をもらっている、という構図は会社の名前の下に働いているとも考えられるだろう。私個人が塾で生徒からの信頼を勝ち得ているとしても、だからと言って、塾がなければ生徒が集まるも何もない。塾が私の授業に何もしてくれないとしても、塾は私にとって必要なのである。会社の名前も同様ではないか。

組織と個人の間の give and take である。個人は会社に労働力を与え、見返りに給料を得る。個人は「会社の名前」を背景に仕事ができるが、今回のようなことがあると「会社の名前」で被害を受ける。これだけ非難が集まるのも(漠然とした)雪印ブランドへの信仰の裏返しだろう。

組織ぐるみの犯罪と呼ばれることが、実は私利私欲のためではなく「会社のため」などと言って「組織のため」に行われることも多いという。アメリカには絶対ないのではないか、と推測するが日本人の忠誠心の高さは有名である。本質は同じだと思うのだが、苗字を名前よりも先に言ったり、呼び合うときに苗字を使うことなど、もともと「××家の人間だ」「○○の家臣だ」というのを、一個人の名前よりも優先していたことの名残であろう。

雪印食品でも、大量の在庫があると会社が困る、という発想があったとも報じられている。会社のために取った行動が、会社の信用を失墜させ、会社の名前で多くの従業員が被害を受ける。矛盾のような、しっかり受け止めるべき現実である。

平凡な結論だが、そもそも嘘をつくのが絶対的に良くないと思う。医療ミスの訴訟の多くは、ミスがあったことよりも、その後の対応のまずさに原因があるともいう。特に日本人には、目の前で頭を下げて謝っている相手を、そう簡単に訴えられないものだろう。正直が一番である。

■2002/02/02 (土) 人の死に方について

どうやって死んだか、という評価がある。幸せに死んだのか、苦しんで死んだのか。しかし死ぬという行為は一瞬で終わるので、実は「どう死んだ」かは「どう生きた」かに等しいと考える。ある一点から「死」になるわけではなく、「生」である現在も刻一刻「死」へ向かっている最中なのだ。逆説的ではあるが、人が皆死ぬ以上、生きることは死へ向かうことだ、と考えるべきであろう。

末期癌を告知するか、つまり余命幾ばくもない人にその事実を知らせるかという議論がある。私はこのことは単純な「生き方」の問題だと思っている。死に関することだからと言って特別なことを考える必要はなく、今までの人生選択の通り「どう生きるか」を考えさえすればよい。

癌の告知に伴う問題に、告知しないための嘘がある。胃がんを胃潰瘍と偽る医療者、治ったら..と一見励ましている家族、自分が実は癌だと気付いて周囲のために気付かないふりをするという患者自身の嘘、二重三重の嘘が積み重なり、でも現実はやってくる。私はこういった顛末になりうる「告知しない」という考え方に反対である。

だが前述の通り、これは患者本人の人生選択権である。患者本人が告知を望まなければどうなるのか?患者が望むような医療を提供し続けるとすると、二重三重の嘘をmanageすることにもかなりの労力を裂かなければならないだろう。それは本当に患者のためになってるのか?

こんな話を聞いた。患者の唯一の趣味が美食だったが、健康上の理由で医者から脂ものや高塩分のものを止められていた。患者は忠実にこれを守るような性格だった。しかし今末期癌とわかり家族の希望で告知はしないことに。そこでこれまで通り美食を止めなければ、本人に余命が少ないことを間接的に伝えてしまうことになる。死ぬ間際くらい好きなものを好きなだけ食べさせてやるべきではなかったか?と、家族が後悔したという。

告知を希望しない人がなぜそう思うかを考えたことはあまりない。こういう話もわかっているのだろうか?誰だって死ぬ前にこれだけはしておきたい、ということはあるのではないだろうか?

生きる気力を失う、とか、そんな現実と向かい合えるような人じゃない、と言う人を「どう生きるか」つまり「どう死ぬか」に持っていくことが、医療者側の使命であると思う。そのサポートがなければ告知はしない方がましだ。

■2002/02/03 (日) 社会における特化について

「特化」という考え方がある。集団の構成員がそれぞれの得意なものをやることによって集団全体の生産性が上がるという考え方だ。例えば、全員で畑を耕し、その生産物を全員で料理をするよりも、ある人は作物を作るのに専念しある人は料理を作るのに専念した方が、たくさんの良い料理ができるというものである。経済学用語の1つである。

特化についてはこんなページもご覧下さい。
http://www2.nasicnet.com/~tell-g/kougi12.html
http://www2.nasicnet.com/~tell-g/kougi43.html
http://www1.doshisha.ac.jp/~yonozuka/International_Trade/InterT-4.htm

「医者には絶対ならない」と心に決めていた時期があった。理由は、自分のような能力的に劣る人間が医者になんかなっては申し訳ない、と思っていたからだ。特化の考え方から言っても、自分はもっと別のこと、例えば数学とか物理とか、そっちの方面が得意でそこに才能を捧げるべきで、それが社会のためだと思っていた。

ある時、自分よりも能力的に劣ると感じる人たちも、医者を志望していることを知った。能力の評価なんてものすごく主観的なものでしかないのだが、「こいつら特化も知らないのかよ」と内心腹も立ったが、でもそれなら自分が医学部を志望するのもありだな、と思い直した。私が彼らに「向いてないからやめな」と言えないのと同様に、私も向いていなくてもやったっていいのだ。

効率だけを重視するのであれば、特化の考えに基づき職業を決定した方がいい。しかしそんな判断は誰にもできないし、みんな好き勝手生きている。職業選択なんてそんなものだと考えるようになった。

集まりができると、仕切屋、世話人、などそういう役回りの人が必ずでてくる。また、そういう役には必ずと言っていいほど就かない人もいる。これには「なんで私ばっかりこんなにつらいのか」と不公平感を感じる人も、また「あいつはいっつも上に立ちやがって」と思う人もいるだろう。

しかしそれは「得意分野を生かしている」のだと考えれば、得も損もないだろう。司会が苦手な人にも司会をやらせることは、誤った機会の均等だし必ずしも利益をもたらさない例だ。自分だけの目で見れば、損をしたり面白くなかったりすることがあるのかもしれないが、、社会全体から見れば、それも必要なことなのかもしれない。下手に調整をすることもないのである。

■2002/02/04 (月) 日記? → 試験考

私が書いてるものが果たして日記かという疑問を持つ人がいるであろう。普通日記とは、その日にあった出来事中心に、それに対する感想などをちょこちょこ書くもの、という考えの人が多いであろう。私の場合は極端な日だと、その日起こったことは全く書かずに少しの感想と大量の考察であっと言う間に1000字になってしまう。1000字の制限がなければ2000字くらいは止まらず書ける日も多い。

というわけで、今日はちょっと補足をする。

2/2は、違う大学(医学部)の友人から「こんなレポートがでたんだけど意見を聞かせて」とメールが来て、まぁ日頃から思っているところをつらつら書いてみたもの。このようなことをすらすら書ける力はいったいどこかで役に立つのだろうか?疑問と言うかもったいない。

2/3は、床屋に行ったときにまだ新米の兄ちゃんが上の人に「お前が剃刀を持つよりレジをやった方がいいだろ。できないことも多いんだから」と言われていたのを見て感じたことが元。つまり、髪までも切れる人がレジをやって、髪は触れないけど襟は剃れる人が襟を剃るのに比べ、襟は剃らずにレジをやってる間に、襟も髪も仕上がる、という役割分担だ。

さて本日は−2科目目の試験だった。(3科目落としたので、本来1科目目から始まるところ(1−3)科目目から開始されるのだ)まぁなんとかなったでしょう。それよりもこの週末で周りにどれだけ差をつけられたのかが心配である。情報収集せねば。

16科目あるのだが、そのうち1つでも「不可」があると留年である。逆に考えれば、優が15個で不可が1つの方が、可が16個よりも劣っているということだ。限りある「時間」という資源をどの科目にどのように分配していくのか、何を勉強するのか、という手腕も、勉強自身同様に大切な要素である。

この(良く言えば)前向き・プラス思考でプレッシャーを感じない性格を生かして、あと1ヶ月あまりの試験を乗り切っていきたい。

「たかが試験だ」

ぐらいで思っていないと体が持たない。

■2002/02/05 (火) 小泉内閣の支持率について

内閣支持率の急落が報道されている。それでも歴代内閣で「中の上」ぐらいと言うから驚きだ。今議論のために80%から50%に変化したとすると、線形性が成り立てば、ぶっちゃけて言って、30%は小泉純一郎ではなく田中真紀子を支持する人だったということになる。もともとその30pointsは仮の姿だったのかもしれない。

尤も私は世論調査というものをあまり信用していない。誘導尋問的というか「今回小泉総理は田中外務大臣を更迭しましたが、あなたは小泉内閣を支持しますか?」のような流れを作り「支持率」を算出することはたやすいことである。大体、田中外相を支持する理由の中で「外交手腕に期待するから」が2%とはお笑いだ。

それでは何に期待したかというと「外務省改革」である。私が思うにこれは「内政」である。「外交」は誰がやるのか?官僚か?内政の腕を期待されるのならば、それこそ「行政改革担当相」になった方が、部下とはもめなくて良かったかもしれない。個人的には「新潟県知事」ぐらいが、誰にも迷惑をかけず手頃なポストだ、という意見に賛成である。外交はもっと海千山千の猛者が、継続性を持つため、何年か変わらず勤め上げた方がいいだろう。ころころ変わるのも信用ならない。

そもそも支持している理由も、外務官僚=悪者、田中真紀子=悪者に対抗する主人公、の構図をはずれるものではないし、それだって報道されているどこまでが本当かわからない。国益や外交を考えての発言は乏しく、国会で野党がやることも、与党がやろうとしていることを議論したり、予算委員会で予算を審議するのではなく、与党自体を攻撃したり、予算を引き替えにして、今回の騒動の証人喚問だか参考人招致だかをやることを求めたり、そこで争っていることが日本のどういうためになっているのかさっぱりわからない。田中真紀子とか鈴木宗男を呼んできて「言った」「言わない」の追究をすれば景気が良くなるのであれば、どんどんやってもらいたい。

外交とは、人気がある人がやってうまくいくものではない。逆に人気をとるような外交をすると国益が損なわれる。自国民が何とか納得するぎりぎりの線で、お互いの国の間の妥協点を探ることこそが、外交に求められるものである、という意見に賛成である。

■2002/02/06 (水) 妊娠すると

妊娠すると、母体の体重が増えるのは自明である。3キロ前後で生まれてくる胎児を含むわけだから。では何キロ体重が増加するのであろうか?今日の産婦人科の講義での話である。

胎児の他、胎盤や羊水、乳房の変化などは想像のつきやすい所である。その他、エネルギー需要に備えての脂肪蓄積、血流量の増加(1.5倍になるらしい)、子宮自体の大きさの変化、などなどあわせて12,3キロは太るという。逆にこれだけ太らなければ、今書いたものの発育が悪いか、もともとあった母体がやせているということである。どちらも良くない状況である。

実際、今日のこの先生の講義がなかったら、ひょっとして知らないまま卒業していたかもしれない。医学教育なんかこんなものである。6年も医学の世界にいて、色んな言葉に曝露され続けなければ医者になれないのは事実で、その意味素人が言うことなんかちゃんちゃらおかしい。めまいならばメニエール病、肝臓が悪ければアルコール性肝障害、そんなに簡単ならば百科事典のような分厚いマニュアルを1冊出版すればよい。自分で症状をたどっていけば、病気の診断とその後の治療が書いてあって、それに従って薬局で薬を買ってのめばいい。

そうならないのが医者というものであろう。問診や、五感を駆使した他覚所見、そして時に第六感、また最新の科学技術を駆使したCT、MRI、エコー、その他もろもろ。それらを使いこなして初めて診断ができる。現在勉強している各科の疾患名も数知れない。似ているけど違う病気を区別する、通称「鑑別」と言われる作業も、記憶しきれないほど細かいところがあるが、それによって、治療法が大きく変わったりするのだ。

そんなに勉強したのだったら何でも知っているだろう、と思われるのもまたつらい。××病の症状に頭痛がある、とは覚えても、頭痛を起こす数多くの病気の中から原因を特定するには、6年じゃ知識も不足だし経験も不足だ。何も知らないわけではないし、ある程度筋道立てて考えられるのだが、自分からああだこうだと言えるようになるには、さらに長い道のりが必要とされる。

医師免許は、車で言う仮免許ぐらいだと思う。他人様の命を扱うタクシーの運転手との大きな違いのように、医者成り立てや私のような医学生と、ベテランの専門医には、天と地ほどの差があるのである。素人に毛が生えた、が手頃な言い回しである。

■2002/02/07 (木) 親父の入院

親父が入院した。「化膿性脊椎炎」要するに背骨が炎症を起こしている病気だ。もともと「背中が痛い」というのが主訴だったが、実際には背中から脳へ行く、感覚を伝える神経が圧迫されているために、脳には「背中が痛い」と伝わっていたのだった。それはMRIを撮ってわかった話だが、背中が痛いと言う人全員のMRIをいちいち撮ることはありえない。どこかで「おかしいな」と医者が気づかなければならず、病気の稀さと経過から考えて、3ヶ月ぐらいで見つかったのは、むしろ早かったと評価している。

脊椎と脊髄は異なるものであるが、医学の世界に縁がなければそんなことはわからない。親父も当然その1人だったので、私が解剖学の教科書を持って説明した。脊椎はせきついと読み、要は背骨である。首の方から腰の方へ頸椎、胸椎、腰椎、仙椎と分けられる。脊髄はせきずいと読み、要は神経である。移植するのは骨髄と書いてこつずいである。全然別物。

脊髄は脊椎に開いた孔を通り、脳から下へ降りている。今回父の場合は胸椎の2番目と3番目が炎症を起こしているため、そこで神経を圧迫して痛みになっていた。現在病巣から組織を取ってきたり検査中で、おそらく何らかの手術をすると思われる。

私は小さい頃は病弱で、物心ついたときから入退院を繰り返していた。父も病弱ではないがちょこまか入院していたり、私にとって入院も含めた「病気になること」は特別なことでなく、変な話、医者の仕事に夢だけを抱いて入ってきたわけでないし、裏でどんなに大変かも、ある程度はわかっているつもりだ。

単純に「大変だね」と周囲から言われそうだが、別に大変だとは思っていない。そんなの病気になってしまったものはしょうがないし、一応科学的に正しいとされている医学に従って治療していくわけだから。小さい頃からも一度も「お前が病気で大変だ」と言われたこともない。基本的なことであるが。

親が公務員であるため、仕事を休んでも何とかなるのも救いである。不景気でも何でも関係ない。もともと利益でやれない仕事を「公務」と呼ぶわけで、誰かの損失が具体的になるわけでもない。私は色々な検査所見と色々な先生の診察を見ることができて、勉強になる。見舞い・付き添いに行くの半分、自分のための見学半分である。患者の立場でものを見ると、いい医者になろう、という気持ちも強くなる。

■2002/02/08 (金) 試験という名の戦い

去年某科の試験で、先生が問題をほとんど教えてくれたという「結果」が伝わってきていた。しかし今年はそういう気配はなく、先輩からの話を鵜呑みにしないようにとの連絡が来た。

「経緯」は、去年は講義を全て録音しておいて、試験前に先生の所に行って「聞かせて」「先生、『大事』とか『試験に出る』とか言ったここから出るんですよね」と迫った結果、そこから出ることになったらしい。ハイテクの時代である。今年は全ての講義の音声がパソコン内に収録されているという。スライドをデジカメで「板書」する人もいる。

一方今年は、先生がそれに懲りたのだろうか、一度も「試験に」という言葉は聞かれず、また講義に対する情熱も感じられず、質問に行ってもつれない態度を取られたという。結果的に、今年は何が大事なのかわからないまま、抑揚や盛り上がりに欠ける講義の平坦な記録を前に、試験前に暗記大会に走ることになるのだろう。

「試験のヤマを教えると、君ら(学生)は本当にヤマしか勉強しない」という先生もいる。だから教えない、と。しかしこれには2つの大きな問題がある。1つは前述の通り、大事かどうかよくわからないところを覚えることに、膨大なエネルギーを費やすことである。無駄である。もう1つは、大事で覚えて欲しいと教官が思うところがあるのならば、それをきちんと伝えて欲しい、それを示さずに学生に責任を転嫁したり「講義でやったところから出す。全部大事だ」と言うのは、教育を放棄していると言われても仕方がない。教育の育は「そだてる」ではないのか。

講義のポイントを、講義終了後に学生と教官が確認し合うことが必要だと思う。意外に伝わっていないのが現実である。本来は講義を始める前に「今日の到達目標」を示すべきである。そして効率を上げるためには「問題解決型学習problem based learning」はかなり有用な方法である。目標というと「肝炎について理解する」などの、小学生でも作れる目標を「掲げればいいんだろ」ともなりかねない。

先生の所に質問に行くのが「試験のヤマ」を聞きに行くのと同義な学生の態度も省みなければならないが、学生は出席を取るから仕方なく講義室にいる、教官も義務的にただだらだら喋っている、試験の前になったら結局は何かを暗記する、という現実には何らかの改善策が取れるものだと思っている。

■2002/02/09 (土) ウイルス対策

忘れた頃に、またBADTRANSがいくつか出回っている。どんなに対策を喚起しても、もともとそれなりの知識がある人じゃないと、その対応策自体を受け取れないために、懸命の対策も無駄になっている。それなりの知識があるとは「自分のメールがhtml形式かどうか知っている」「『添付』ファイルの漢字の読み方を知っている」レベルである。

ウイルスは自己増殖するのが第一義と言ってもいいため、多くの人が使っている環境に適応している。実世界のウイルスと同様だ。エボラ出血熱などの宿主(この場合ヒト)を殺すウイルスは、結局自分の生存場所をなくしているため、あまり爆発的に感染しない。パソコンで言うとWindows+Outlookに対応するウイルスこそが、自己増殖の可能性を高めることになる。私はmailerにBecky!を使っているため、4000円は払ったが感染のリスクはやや減少している。html形式のメールは「ソース」で見ている。したがってプレビューするだけで感染するというBADTRANSのメールをクリックしても、などと表示されるだけである。添付ファイルを開こうとダブルクリックしてからも警告メッセージがでる。

ウイルスを見分ける最低限の方法としては、ファイルのサイズの確認と添付ファイルの有無である。ファイルのサイズが普通に文章を書いていて10000bytesを超える人は稀であるが(私は稀な人だが)ウイルスだと例えば40000bytes以上にはよくなる。添付ファイルはhtml形式とぱっと見た感じが同じなので、普段からhtml形式のメールをやめてもらうようお願いしまくっている。タイトルをRe:にしないことも、以前出したメールに対する「返信」の形で来るウイルスがあることから考えて、自分自身の緊張感を持つ意味で、私には有益である。

さて、そろそろウイルススキャンソフトのダウンロードも終わったようだ。よく高い金を払って「ウイルスバスター」などを購入して対策とする人がいるが、その時いくらお金をかけてもウイルスの最新情報をこまめに更新しなければ、なんの対策にもなりやしない。私は感染防御は上に書いたような知識で、感染の発見は「無料の」(でも英語の)スキャンソフトを使っている。

■2002/02/10 (日) 自由主義か社会主義か

新潟県知事「山手線は信濃川の水で発電された電気で走っている」
東京都知事「夜にクマしか通らない道路は誰の税金で作ったのか」

新聞で見かけた言葉である。これには多くの事実が含まれている。東京では電気の他、水の供給はもちろん、産業廃棄物なども他県に処理を依存している。東京のゴミ捨て場になるのは嫌だという感情論で反対する県民も多いという。クマの件は石原慎太郎らしい言い種だが、地方交付税という名で、国が集めた税金を地方に再分配し、その配分は大まかに都会→地方となっている。北海道を独立させようという動きがかつてあったが、この観点から無理である。

結局の所、これはgive-and-takeであろう。県境をまたいで動く物流(それこそ産廃)に対して国という上の組織が調整を図る。両知事の言うことはどちらももっともなことで、その持ちつ持たれつが現状であろう。都会は住環境も悪く税金は他県のために使われて、と思う人は田舎に住めばいい。需要供給の考え方で、環境が悪くなれば人口は減るはずである。環境が悪いのにそこに住み続けるということは、そこに住むことによるmeritの方が大きいということだ。

ホテル税も問題になった。何が「公平」なのかは議論が尽きない。地方交付税がなければ北海道の道路は荒廃する他ないだろうし、その手前ホテル税には表立って反対しづらい。みんなが同じ金額を与えられるが公平か、それと地域の特性を生かして生活するのが公平か。

話題は変わるが、本質は同じと見ていることがある。障害者に対する性の介助についてだ。手足が不自由だが、性に関する生理現象は持っている時、それに対する介助はなされるべきか?それは権利だろうか?体を自由に動かせない夫婦に対して、夫婦生活の「介助」という「仕事」が認められている国もあるという。

個性が異なる人がどのように暮らすのがいい社会なのか。そもそも異なる個性を近づけていくのはありがちな思想だが、どこか社会主義的でもある。100万円分稼げる人と10万円分稼げる人が同じ給与だと不公平な気もするし、10万円で生きていけないのなら何らかの措置は取られるべきであろう。

勇気ある方はこちらのリンクをご覧下さい。ショッキングな内容でした。
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~benoyaji/syougai_sex2.htm

■2002/02/11 (月) 安易な「みんな」の使用

Nokoの020211の日記を見てかなりうけた。確かによく耳にするフレーズだ。ネタを拝借。

「○○はわれわれ国民をバカにしている」という文は論理学的に次の2つのいずれかであろう。

われわれ国民の「全て」は、○○にバカにされている(全称肯定命題)
われわれ国民の中には、○○にバカにされている「ものもいる」(特称肯定命題)

Nokoは日記の中で「われわれ国民にはどうやら私が含まれている」として疑問を呈している。一応論理学的に後者の場合を考えると、成り立たないことはない文章だが、ちょっと強引な気がする。下の文の具体的な例は「コンサドーレ札幌はファンを大事にしている」などだ。現実全員なわけない。

われわれ国民を「代名詞」として考えてみる。統計学的に分析すると(本当かどうか知らないが)小学生では、クラスの「3人以上」が該当することを「みんなが...」と親に報告するそうだ。新しいおもちゃを買ってもらうなどの際、その欲求の強さに応じてその数字は小さくなるとも言う。国会の代表質問で「たくさんの〜〜の怒りの声が聞こえないのか」とか言ってる政党の支持率が5%もいってなかったりする。この間の民主党の質問に対しては、小泉総理が「そう言う民主党の支持率は10%ぐらいだ」と言いやっつけていた。どうやら都合のいい「みんな」が世間では使われているらしい。不特定を指しそうなので、多くの人にはそのまま受け入れられるのだろう。

雪印問題も十把一絡げにされた顕著な例だろう。「医大生」というくくりにもよく出会う。以前某大学でレイプ事件があったが、大学に関わる99%以上の人はレイプには無縁である。

みんな they people には色はついてなく、その上人数が多いという意味なのだろうか。They speak Japanese in Japan. と書くことには問題がないが、かと言って日本にいる人全てが日本語を話すわけではない。でも普段そうは考えない発想から「日本は単一民族」発言も出てくるのかもしれない。「普通の人」は議論の中で已むを得ず使うことがあるが、この言い方はしばしば障害者差別の意識に基づく。「障害を持つ人=普通でない人」という発想である。

確率的に多数を網羅する言葉は必要だ。しかしそれが9割を代弁して1割の意見を殺すものであってはいけない。肝に銘じておかなければならない。

■2002/02/12 (火) テストの理想形

今日のテストはできたんだかできてないんだか、内容を理解していないと言えばそうなのだが、果たして自分が書いたものが、求められている内容なのか、それともちょっとピントがずれているのか全然的外れなのか、よくわからず終了した。再試もないので、きっと大丈夫だったと信じておく。

試験は理解も大事だが、最終的には○か×かで判断されるわけなので、その解答を書くための知識が頭の中にあるかないかが問われていることになる。つまりは記憶である。

記憶したものが教官が期待したものとずれていると、事態は悲劇的である。いや、悲劇である。そもそも何を覚えればいいかがあって、それをきちんと(理解もして)覚えるかで合否が決まるのならいいが、そもそもの取り組むものが違っているとエネルギーの無駄も甚だしい。

最も理想的なのは「問題プール方式」で、要点を問うある程度の量の問題を公表して、その中から出題するというものだ。学生はその問題を自分で調べるなり他人の力を借りるなどして解いていく。それをテストという形で確認する。

今回の試験で私の「担当」になった科目(の一部分)では、学生が持っている「資料」を先生に手渡してきた。先生は学生が必死になって覚えている紙(講義ノートなど)を見ながら重要どころを狙って問題を作ることになる。次に理想的な形と言ってもいいだろう。あとはそれを頭に入れるだけである。もし落ちるやつがいたらやらないそいつが悪い。

さて次の試験まで18時間あまりだ。そのうち何時間を寝て、何時間を勉強に費やすのか自分との戦いが始まる。先は長いので今から完徹とかするのはむしろ良くない。

■2002/02/13 (水) 統計の誤用

医学の世界では、日本人は統計に弱いのが定説である。諸外国の論文と日本人の論文で使われている統計法に大きな差があるという統計もある。日本人が何とかの一つ覚えのようにt検定ばかりを使っているということだ。

偏差値は、もともと武器の性能を評価する方法として用いられていた。つまり、ある照準を定めた時にどのくらい的からはずれるかの「精度」を評価する手段としてである。不審船射撃の際に話題となったが、精度が悪い武器は使い勝手が悪く、たまに当たったりするのは武器として不適当である。

今日の試験は「再試なし、平均点−2SDで切る」だった。SDとは標準偏差のことで、端的に言うと「偏差値30以下の人は落とすよ」と同じ意味である。従って、極端にできる人がいればSDは大きくなるので落ちる基準も下がる。しかし平均点も同時に上がるのでなんとも言えない。机上の話であるが、1人だけ49点であと残り全員が50点ならば、その49点の人は落ちてしまう。点数分布が平均点から満点まできれいに散らばれば、たとえ0点であっても落ちないかもしれない。

どうしてこのような変な話がでてくるかというと、SDは「正規分布」というきれいな分布を想定しているからだ。しかし成績が正規分布しないことは多くの試験で明らかだ。平均点+10点と平均点−10点の人数が同じになることは稀だ。つまり統計を誤って使っていることになる。

同じことは北海道の中学での成績のつけ方でも言えて、5とか4とかの人数が、学年の何%か決められているのだ。相対評価と言えばわかりやすいか。しかし実際の実力分布がきれいに何%かに分かれるはずはなく、中間も期末も95点以上とっても5を取れない例などが問題となっている。

今回の試験でも誤用であることを逆手にとって何かできないか考えた。例えば全員が何も書かずに0点ならば、全員の偏差値は50になるわけだから誰も落ちない、とか、得意な人にはひたすら高い点数を取ってもらってSDを大きくしてもらい、−2SDの点数をマイナスにしてしまう。そうすれば誰も落ちない。しかしそんなことが実現するはずもなく試験を迎えた。

昨日も書いたが、自分が書いている答えが正しいのか確信がないのは不安である。周りもみんなそうだったので、おそらくみんなできていなかったりたまにできている人がいて、計算すると誰も落ちていなければいいなぁ、と思っている。

■2002/02/14 (木) バレンタイン考

もともとは、3世紀頃、ローマ皇帝が兵士の士気低下をふせぐために発令した結婚禁止令に逆らい、恋人たちのために式を挙げたために処刑されたといわれるバレンタイン司教、に由来しているという。外国では男女問わず、好きな相手に思いを伝え、贈り物を贈る日になっている。

チョコレートを女性から男性へ送ることになったのは、大方の予想通りチョコレート会社の陰謀によるようである。「女性は男性にチョコを送りましょう」という新聞広告を出したのが始まりという。「チョコ」も「義理」チョコも日本だけの習慣である。

ホワイトデーは、全国飴菓子工業協同組合による「ホワイトデー=キャンディー」という図式、また、福岡県の菓子店「石村萬盛堂」が「マシュマロをお返しに送る日」などと、これまた宣伝というか営業努力というか何というか、に依っているという。1ヶ月後に愛を確かめ合ったという故事は眉唾だと思う。

4月14日はオレンジデーというらしい。2月14日に愛を告白し、3月14日にその返礼をしたあとで、その二人の愛情を確かなものとする日で、オレンジ(またはオレンジ色のプレゼント)を持って相手を訪問する、らしい。これはどこの策略なのだろうか。オレンジ屋さんか?

5月13日には驚いた。メイストームデー(5月の嵐の日)といい、「バレンタインデー」から88日目、「八十八夜の別れ霜」ということで、別れ話を切り出すのに最適とされる日、だそうだ。

6月12日は恋人の日というらしい。全国額縁組合連合会が制定したが、ブラジル・サンパウロ地方で、縁結びの聖人アントニウスが没した前日の6月12日を「恋人の日」として、恋人同士が写真立てに写真を入れ交換しあう風習があることからきているという。

9月14日はメンズバレンタインデーというらしい。日本ボディファッション協会が制定したが、男性から女性に下着を送って愛を告白する日、らしい。だんだんと節操ない。

11月11日は恋人達の日らしい。日本靴下協会が制定したが、くつしたを2足並べたときの形が11 11に見えることから、恋人同士でくつしたを贈り合おうと呼びかけているそうだ。

以上、日本の企業が創造した記念日の数々である。
一つ確実なのは、今日2月14日がバレンタイン司教の命日だと言うことだ。

■2002/02/15 (金) 大学病院について

いつかは書かなければならないテーマだ。

父が手術をするのに、現在いる市立病院では心許ないので大学病院がいいと言う。確かに安心感はある。でも私には安心感はない。大学は「研究機関」である。従って「これまでは治療法がなかった疾患」などに対しての治療には優れているかもしれない。しかしよくある疾患や簡単な疾患だと、別に大学でやる必要はない。それに大学の先生が躍起になるとも思えない。大学病院のもう一つの顔「教育機関」として、実習に使われるのも現実である。「教育」「臨床」「研究」の3本柱のうち大学で評価されるのは「研究」のみである。従ってあまり患者本位でないという側面もある。

病院を選ぶには、まずその病気がどの程度のレベルかを判断するのがよい。難しい病気なのかそれとも簡単な病気なのか、珍しい病気なのかよくある病気なのか。難しくかつ珍しい時にのみ、大学病院へ行くべきである。それ以外で行ったときにはマイナスの要素も大きいと思う。大学に勤める医師はそれぞれ専門を持っており、その専門に関してはかなり秀でているかもしれないが、何でもできるわけでもないし、人間的に優れているとも限らない。

かかりつけ医に相談するのがいいが、日本でその風潮はあまりない。医者の世界は医者に聞くのがいい。それこそ「その医者の腕」を最も知ることができるので。知り合いの医者が近くにいると心強い。

結局父は、大学病院の方がより良い医療をうけられるというのは幻想だ、という説得を受け入れ、市立で手術しそうである。私が問題にしたいのは同じような構図である。今回父は親戚の医師や私などのある程度医学を知る人間が近くにいたからいいものの、そうでなければそのまま大学病院へ回り延々と順番を待ったかもしれない。そうした人に助言をする人はいないだろうか?

医者が余っているとか計算する人がいるが、そういった技術的なアドバイスもあった方がいいのではないかと思う。全ての人が知ってる医者の名前を3人は即答できるような、家庭医制度が求められていると考える。

■2002/02/16 (土) 難しい医療

昨日の日記では、大学病院へは「ありふれた病気 common disease」「治療法が簡単な病気」ではかからない方がいい、と書いた。

今回の親父の病気は「化膿性脊椎炎」と言って頻度は高くない「珍しい」病気だ。その中でも「胸椎」レベルのものは、さらに頻度が低い。ただ手術について、脊椎(背骨)を取り出して違う骨で置換する、というのは、さほど難易度は高くない「易しい」ものだ。

今回主治医の先生は、正直に「私はこの手術はやったことがありません。背骨を扱ったことはありますが、こんなに上のものはやったことがありません。他の病院へ行くのを希望されるのであれば、検査結果などを提供します」と言ってくれました。ぱっと聞いた感じ自分に自信がなくて言っているように聞こえがちだが、逆に「私は何でもできますから安心してください」と言われても、ブラックジャック以外なら信用できない。スーパーマンか?

「珍しい」や「難しい」疾患の治療法を国のお金で研究している点で、大学病院は評価できるだろう。しかし、「珍しい」が「簡単な」手術について、市中病院で十分、むしろ大学病院よりもいい部分が多い、そんなことを親父に説明する必要があるかもしれない。

■2002/02/17 (日) 親父情報と北海道のサイズ

結局親父は大学には行かないことに決心した。昨日などに書いたことは杞憂に終わった。その代わりと言ってはなんだが、市内で開業している先生(背骨専門)に手術に立ち会ってもらうことにしたという。そんなことを電話をかけてお願いできる辺りが、知り合いに医者がいる強みなのかもしれない。結局は人と人との人間関係だよな、というのを再認識した。友達(とか先輩とか後輩)は大事にしておこう。

話は全く変わるが、北海道がどのくらい広いかご存知だろうか?大雑把に言って、毎週車でバイトに言っていた町までは50km、道都札幌までは150km。函館までは札幌からさらに300km、流氷の網走までは200km、稚内までも300km。釧路までも300km、根室は釧路からさらに150km。比較的真ん中に位置する私の街でもこれである。本州の日本海側から太平洋側へ抜ける距離と、北海道の北端から南端(稚内から襟裳)までの距離が大差ない、と言うことを知って驚いた記憶がある。

北海道で交通事故による死亡事故が多いのは当然である。「北海道の人はスピードを出す」との批判もあるが、車はいないし、遠いし、でスピードでも出すか、はよくある発想である。しかし本当に北海道で事故発生「率」が高いかどうかについては、1人の人が何キロ走ったら1件死亡事故が起きるのかを計算しなければならないだろう。ペーパードライバーでいれば無事故無違反なのは当たり前という理屈だ。もしも全国平均の4倍車に乗っていて、事故数が2倍であれば、事故率は半分ということになる。

尤も、計算してみても事故を起こしやすいのだろうとは思っている。この理屈を個人に適応すると、私のような年に3万キロも車を走らせる人は、年に3000キロ走る人に比べて10倍死にやすいとも言える。年間走行キロで保険料を変える最近の保険の発想でいくと、私の保険料は10倍になっても文句は言えないと言うことか。理屈を現実に当てはめるのはなかなか難しい。

■2002/02/18 (月) インフォームドコンセントと情報公開

私が受けた手術もそうだったが、手術前の説明の時に「全身麻酔をしますが、10万分の1くらいで生命に関わることが起こりえます(事故)」など、手術をすることによる危険性を説明するのが最近の流れである。父の場合だと背骨を扱うわけなので「神経を切ってしまうと下半身(胸から下)不随になります」と説明された。喉の手術をする人には「神経を切ってしまうと声が出なくなるかもしれません」と説明する。言わないと後から訴えられるという側面もある。

たいていの患者は医学的に素人である。その素人に判断をまかせるのが危険になる場面はたくさんあるであろう。飛行機が墜落するかもしれないから乗らない人はあまりいないが普段考えもしない「麻痺」「不随」「意識不明」などの言葉がでてきた段階で、思考が停止し治療を拒否する場合もあるだろう。医師が話をするのに高い能力が必要だろうが、患者としても情報を公開し、色々な選択枝の中から自分の意思で選べることが、必ずしも自分の利益になるとは限らないことは、理解しておかなければならないだろう。

ある側面では、医薬分業も進み、自分が今飲んでいる薬の種類を、自分で知ることができるようになった。カルテの開示も求めるような時代である。そうしたい人がするのは構わないのだが、そうすることによるデメリットもよく知っているのか疑問である。プラセボ(偽薬)は典型的な例である。病気自体は自分の免疫力で治っていき、特に治療が必要ない時に、何も薬を出さないと患者が不安がるので体に負担のかからない薬を出して、という手も使えなくなるわけだ。癌を告知していなければ抗癌剤を処方することはできない。病名を知る権利を行使することで、精神的なものも含めた有形無形のメリット・デメリットを受けることを、果たしてどのくらいの人が知っているのだろうか?

実社会でもっとも大切なのは、上に書いたような理論的な話ではなく、人と人との信頼関係なんだとは思う。「医療不信」という言葉である。医療という名の人はいないので、ある「医療者」が信頼をなくしたとすると、残り全員がそのとばっちりを食うことになる。世の中がどんなに進歩しても、人と人とが向かい合って対話し信頼し合う過程こそが、もっとも基本的で、かつ重要なことだと思う。

■2002/02/20 (水) 試験形式への不満

都道府県名を全て書きなさい、というテストがあったとする。これはその都道府県の特徴など何も知らなくても、知っていれば満点が取れる。これは一般常識という人がいるかもしれないが、アメリカ50州ではどうだろうか?徳川15代将軍だっていい。何代将軍が何をしてようと家康で始まり慶喜まで15人書けたら満点である。これが私のもっとも嫌いなテスト形式だ。

徳川吉宗がしたことを書きなさい、に答えられる方が、15人の名前をずらずら書けるより価値があると私は思う。しかし今日のテストでその「15人書け」形式の問題にはかなりやられた。どういうものか説明したり、具体例を挙げることはできたのに。

まぁ何を言ったって試験の結果は変わるわけではないし、所詮は負け犬の..である。医学を学ぶにあたって、膨大な量の知識を頭に入れなければならないのもわかっている。でも前の日(とか当日)に覚えるべき紙を頭に「焼き付けて」試験に通るのなら、それまでコツコツ勉強する意味も、その内容を考える意味もない。できればもっと個性の出せる試験をしたい、と勝手ながら思っている。学生はカメラじゃないのだから、「焼き付け」の訓練をしてもしょうがない。

今回の試験はサッカーのイエローカードに似ている。この試験を通して2枚もらうと退場である。2科目(くらい)落とすと留年という意味である。なんとかあと7科目以上16科目以下の試験を、退場を喰らわないように乗り切りたい。しかしそれにしても眠い(-.-)zzz

■2002/02/21 (木) 親父 in ICU

手術は12時間にもおよび、無事終了した。首の骨を折るとか捻挫すると首から下が動かなくなるから想像してわかるように、背骨の手術で最も恐いのは「脊髄(つまり神経)」を損傷することだったが、それもなく。背中、右鎖骨(首を前に倒したときに顎が届く左右の出っ張った骨)右肋骨の下の方数本、腓骨(背骨に代わりの骨を入れるため、自分の足のすねの骨の細い方)の4箇所に傷がある。

親父は変な言い方だが「元気そう」で、手術は出血も少なくうまくいったそうだ。出血量が全部で600ccとか言うので、献血でも400はするのでなかなか少ないので良かった。熱が38.5℃あったが、12時間も手術して平熱だったらそっちの方がおかしい。血圧も正常、心拍はちょっと早いが、心電図も異常なし、動脈血中の酸素分圧(要はちゃんと呼吸して酸素が入っているかを知る)も正常だった。勉強すると色んなことがわかる。まだ術後すぐでICUにいるので、色んなものがモニターされているのだ。

私も姉も心配するポイントが同じなのが面白いところだが、母の体調を気遣っている。手術の日は夜通し、なんでも昨日は1時間しか寝てないとか、打ち合わせてもいないのに「ちゃんと寝なさいよ」とそれぞれ言っていた。確かに父は病院でしっかり面倒を見てくれるが、母が病気になっても、どうしたらいいものやら。とにかく病気にならないでいてもらわないと困る。

そんな母が、今日父がずいぶん良くなった顔を見て「安心して」急に眠くなったという。私は曲がりなりにも医学の知識が多少なりともあるが、母としては「父のいい顔」を見ることこそが、一番安心することなんだろうと思った。よく食ってよく寝ていただきたく、今日は一緒にご飯を食べた後そうそうに帰宅した。

私は残り6科目以上、15科目以下である。試験の日程は今日から4連休だが、4日で6科目をやると考えると、4連「窮」なんて言葉遊びも考えつく。さてやるだけはやらねば。結果は後からついてくる。

「全力を尽くしてダメならしょうがない」
今年のオリンピックの日本選手に多かった言葉のような気もするが、自分の中で目標に達することが第一と思う。

■2002/02/22 (金) オリンピックの誤審問題

私はバスケットでの審判にはちょっと自信がある。自分の試合に来る審判の半分以上が「自分ほどではないな」と思うくらいだ。それなりにプライドもある。今回のオリンピックの審判を巡る動きには、なんとも稚拙なものを感じる。

まず、オリンピックの審判をするくらいの人に対して、どうして一解説者などが異見を述べられるのだろう?自国びいきを差し引いてもだ。審判をしている人の権威が低いのか、技術が低いのか、何なのか。そして審判をする人は、どうして自分の判定にプライドを持って「あれは正しい判定だった」と堂々と発表しないのか。できないのか?それこそ圧力がかかっているのか、疑いたくもなる。たとえ圧力があったとして、それに対して屈するような人は審判を辞退すべきだ。何のための審判か。共同演出者じゃないんだから。

主観が入る採点だから、という意見もある。しかしフェンシングでセンサーをつけるようなものでなければ、どんな競技でも主観は入りうる。そんなのはオリンピックであろうがなかろうがわかりきったことで、そういう種目だという了解があるはずである。よってそういう反論をすることはその種目自体を否定することになり、意味がない。フィギアスケートをどうやって主観抜きで評価するのか?

ビデオを用いた判定には、賛成する部分と反対する部分がある。その場で下した判定をビデオを見て覆すことはなじまない。それなら最初からその場で判定は下さない方がいい。多くの種目ではルールで判定にビデオは用いないことを明記してある。しかし、今回のようにその審判の価値観が、多くの問題を引き起こしうるものであれば、最初からビデオで確認をして決定を下す用意をすべきであろう。ビデオを公表して世界を二分して判定が異なるなら、そんな種目は成り立たないし、まぁ多数の人が認められる結論に達するだろう。商業主義でメダルの価値が上がったのなら、それなりにそれなりの対応を取ってもいいだろう。

北米に有利なjudgeとの意見もある。北米でやってるのでそういう面もあるのだろうが、勝ってしかし影でそう言われるのは、本人たちが一番嬉しくないと思うのだが、それでも嬉しいと思うくらい五輪は大きなものなのだろうか。

審判の地位と技術を向上させることが、競技・選手と並んで重要だと、五輪前から気づいて欲しいものだ。

■2002/02/23 (土) 旅をしたい

今日はちょっと毛色を変えてみよう。批判的に捉えるべきものが手の届くところになかった、ということでもある。ここ2ヶ月ばかり勉強勉強で、すっかり足も細くなったが、テストが終わればまず旅に出たい、と思っている。

旅に出るのに、最も楽しいのは計画段階かもしれない。色んなメディアを通じて情報を集め、自分のためだけに使えるスケジュールを、自分が思うように埋めていく。旅が楽しくなるかそうでもないになるかは、自分で何をするかに依る部分が大きい。「映画を見て楽しい」というのは映画館に入ってからどんなに努力してもダメで、どこで何の映画を見るか、で勝負はほとんど決まる、というイメージだ。

私の旅の基本は「観る」「食べる」「歩く」「移動する」である。基本的にこれを組み合わせていく。

観るのは景色が多い。基本的に風光明媚系、展望台系に惹かれやすい。人工物にはあまり魅力を感じない、のが原則だが、去年の春に高野山で寺を見てきたのは良かった。古かったり歴史があればいいのかもしれない。さもなくば大自然系である。

旅先で食べるのには金も労力も惜しまない。幸い(かどうかわからないが)私は大食いのため、美味しいものがあれば絶え間なく食うこともできる。函館で海の幸がおいしかったので、二軒梯子したこともある。その時は列車に危うく乗り遅れそうになり、二軒目を出て駅まで走りに走った。

歩くのは運動のためもあるが、その土地の空気を吸うという目的もある。地元の人と同じ目線になることと、冒険的な心と、思わぬものを発見できるのでは、と思うことによる。天売島と焼尻島を3時間「ずつ」歩いてきたこともある。知らない町をぶらぶら歩くこともまた楽しい。

移動するのは私の特技と言ってもいい。1000円する分厚い時刻表を使いこなし、JR・バス・フェリーなどなどを乗り継ぐ時もある。ハプニングが起きた時の計画の立て直しもまた醍醐味だ。車での移動では、私は運転好きなので1日12時間以上運転していても苦にならない。むしろ運転していたいぐらいだ。

これに「温泉」があれば言うことない。以上の要素をどうやってコース取りすれば、限られた時間の中で最も多くのものが得られるかが、計画段階での最大のテーマであり、悩むだけ悩んでできるのが、世界でただ1つの、自分だけのための旅行計画である。そんな一人旅は最大の贅沢だ。

■2002/02/24 (日) 本音と建て前

雪印食品で、−18度で保存していたから問題ない、として品質保持期限を訂正したという。このことは法律上も問題ないし、「科学者として」判断に間違いはない。実際問題ないものに対して問題ないと言ってるだけなのだから。

Yシャツについて。洗濯してから一度も袖を通していないけれどシワだらけなYシャツと、洗濯してから3日連続で着ているが、きちんとアイロンをかけ、シワもなくピシッと線が入ったYシャツでは、どちらが「清潔」で、どちらが「清潔感がある」だろうか?こんな話に似ている気がする。

代理母について、学会は認めなかったようだ。不妊に悩む夫婦が取れる選択は何なのだろうか?一応技術的には、体外受精で自分の子宮を使う、他人の精子を使う、他人の卵子を使う、他人の子宮を使う、何でもできる。精子や卵子に値段が付いているという外国の例もある。背が高くスポーツ万能で勉強ができれば高いらしい。一方「養子」は古くからある現実でこれは認められている。どこまで他人の手を借りられるのか、これを決めるのも「違和感」のような気もする。論理的にここからはいけない、とは誰にも言えないだろう。

理屈はともかく、嫌なものは嫌、が実際である。それが人間の社会というものだ。それでいいと思う。雪印食品ではそのことが考えられていなかったようにも思える。消費者は、自分が危険な製品を食べることが恐いのではなく、自分たちがだまされることを恐れているのだ。本当に危険なものを口に入れるか入れないかについて考えているならば、めったにない食中毒に目を向けずに、食品添加物などに目を向けるべきだし、食品添加物よりも脂肪の摂りすぎの方が、健康に与える影響が何倍も大きいというデータもある。確かに雪印の商品を買って何か起こるよりも、食生活の偏りで動脈硬化になって心筋梗塞を起こす方が、よっぽどありふれて起こることだろう。

以前、ワイドショーのコメンテーターは専門家でもないのにえらそうなことを言ってけしからん、との趣旨の日記を書いた。しかしあれが受け入れられるのは、専門家が一般市民にわかる言葉で話してこなかったからではないのか?きちんと理解しているからこそ大まかにも話すことができる、という専門家が求められている。

木を見て森を見ず
木を見ずして森が見れるか

重要な着想であろう。

■2002/02/25 (月) ドーピングと医学の進歩

エリスロポエチンは、腎臓で作られる造血因子である。つまり腎臓の病気になった時に、これの産生が低下して貧血が起こりうる。それを逆手に取ったのが報道されているドーピングである。健康な人にエリスロポエチンを投与すれば「血」が増える。血が増えれば人の能力は伸びる。

かつては薬というのは全く体内にない物質だった。しかし遺伝子工学の発展により、体内で作られるのと全く同じタンパクを体外で作ることが理論的に可能になってきた。つまりその人の体の中で血を作る部分の遺伝子を解析して、それと全く同じものを体外から補充してやることもできるわけである。こうなるとドーピングなのか、その人の血を作る能力が元々優れていたのかを判定することは、困難になってくる。

自己血輸血という考え方がある。医療領域では、出血が予想される手術の前に自分の血を採っておき、いざというときに自分に輸血しようというものである。手術する前が健康ならば、減少した分の血は体の自然の働きによって代償される。スポーツ領域では、代償されて元の水準に戻ったところで自己血を輸血する。全部戻すのではなく、酸素を運搬するヘモグロビンなどの成分を絞って行うらしい。当然のことではあるが、詳しくは知らない。

医療領域では、自分の血なので副作用が格段に少ないというメリットがある。例えば感染の危険で言うと、自分が持っていない病気にかかることはない。スポーツ領域では、いわゆるドーピングか否かの検査をしても、激しいトレーニングの結果増えたものか、自分の血を戻してのものか、判別しがたい。結局それについても新たな検査が登場し、またいたちごっこが繰り返されるのだろう。

そこまでして勝ちたいのか?と書こうとして、ふと自分に置き換えてみた。確かにちょっとそれを飲むだけで勝てるんならば飲むかもしれない。例えばカフェインの中枢興奮作用を狙って、試合前に栄養ドリンクを飲まないか、と言うとそうでもない。もちろんそれによって生命に関わる副作用がでるのは別問題だが、それで自分の力が出せるのならば使わないとも言いきれないかもしれない。

オリンピックのようなレベルだと、メダルを狙うあまりに「金メダルが取れるなら10年後に死んでもいい」と考える選手もいるという。それだけの強い信念があるとも言えるし、冷静になって病的であるとも思う。

■2002/02/26 (火) 研修という名の労働

関西医大の研修医過労死事件の判決が出たらしい。この件については、大学側が研修医を労働者として認めていない、などの根本的な問題を含んでいる。月に270時間もの「診療」を行っていた人が労働者でなく何なのか。また、月に6万円の「奨学金」を大学側は払っていたというが、冷静に考えて6万円じゃ生活できないだろう。親からの仕送りか?26にもなって親から仕送りを受けなければ生活できない、というのもまた現実である。

医師は給料が高いとよく言われる。じゃぁいくらくらいか、具体的に言える人はあんまりいないが。労働時間と環境を考えて、妥当な金額かどうかの議論は今日はやめておく。ただその「高い給料」に行き着くまでの経緯を追っていきたい。

高校卒業までの「塾通い」なども省略しよう。私が通っていなかったからだ。幼稚園とかからやるとキリがない。高校卒業後に現役で医学部に入れる人は少ない。私の学年でいうと4分の3は現役ではない。予備校や他大学や、はたまた大学院や社会人などを経由してくる人が多い。現役で入るのに学力が不足する、そして予備校は蔓延る、という現実をふまえ、ここで何年かが他の学部よりも長くかかる傾向がある。

医学部は6年制である。私もこんなことを書いてる暇があったら勉強しないと、7年制とか8年制とか大学と複数年契約を結ぶ羽目になるかもしれない。実際ある統計では、留年せず、かつ国家試験も一度で合格して6年で医者になれる人は3分の2だという。

大学卒業後、研修医として現場に出るわけだが、いわば見習いのためお金でいうと一ヶ月十数万の給与であるケースが多いという。尤も研修先によって違うし、それを選ぶのも重要な人生選択なのだが。十数万だと、稼ぐというよりは生活をなんとか維持するレベルであろう。医学の本が1万円を切ってるだけで安いと感じる自分もいる。確かに使う暇はないのかもしれないが、いわゆる「みんな」が思うお医者様イメージとはほど遠い。

ここまで考えると、高卒で働き始めた人より10年は多くかかっている。この間の生活費・学費など考えあわせると、10年生産活動をする人と、10年親のすねかじりという名の消費活動をする人を、それから後の給料の額だけで比べるのはfairでない。しかも昨今、ちょっとミスをすれば、やれ訴訟だ賠償だ、である。世間で思われてるようないい商売ではなさそうだ。

■2002/02/27 (水) 試験結果報告(速報版)

バスケットは5回ファール(反則)をすると退場である。従って4回目をしてしまった後のプレーは、次に何かあるとそれ以上プレーができなくなるために、思い切りに欠けたりきちんと相手を守ることができなくなってしまう。また、前半の早い段階で3回目をしてしまった時も、半分以上試合時間が残っているのにあと1回で「4ファール」になってしまうと考え、同様思いどおりのプレーができなくなる。たいていこうなった場合は、ファールをしていない選手と交代させて機を伺うのがバスケットのセオリーである。

この例えでいうと、現在自分の試験結果が「前半で4ファール」という感じになった。ちょっとさすがに顔色も変わってきた。日記なんて書いている場合じゃないかもしれない。

■2002/02/28 (木) 月が大きく見える

満月の時、月は夕方に東から昇り、明け方に西へ沈む。そんなものがあると思っていない時に突然視界(と言うか背景)に月が登場する。それがやたらに大きく見えることはないだろうか。夕陽が沈むときの大きさのイメージと、炎天下の正午頃、頭の上にある太陽の大きさのイメージでは、視覚的にどちらが大きく見えるだろうか?ちなみに月と太陽は同じ大きさに見えるという。

私は沈む時や昇る時が大きく見える。だが実際は同じ大きさである。これは筒状のもので周りのものを排して見るとわかる。見る角度(例えば首を曲げたり、と言うこと)によって、変わるというわけではない。あくまで周りのものとの関係で、大きく「見える」だけなのだ。頭上の太陽は周りにものがなく、大きな空の真ん中にぽつりとあるだけである。これは小さく見えるしかない。
#どんどん大きく見えたら恐い

日の出・日の入り、今日のような月出・月の入り、これらは周りに建物などがあるために大きく見える。

私は今、ひどく試験に手こずっている。「ひどく」とうったら「被毒」と変換されるほどだ。ある意味「劣等感」に苛まれても不思議はない。一方大学を一歩出れば「医大生」という名のブランドもある。家庭教師などでは、教え方より人柄より何より、その教師の大学名がものを言う。
#別に私は、合コンなどでそういうものを振りかざしているわけではないのだが、話の流れ上。

しかしどう評価されても同じ人間である。大学内で100人中下位30人に入ったから再試験を受けろ、6割取れないと留年だ、と言われるのも事実だし、勘違いしたおばさんに「医学部なのすごいねぇー」と言われるのも事実だ。何が違うのかと言うと、月と同じく「周りのもの」が違うだけなのではないだろうか?前者で落ち込んでも、後者で調子に乗ってもいけないのではないか。

人とつきあうときには、そんな周りのものに惑わされず、その人自身と向かい合っていきたいものだ。明日の試験も、周りと比べず、私の努力だけを見て欲しいものだ(←正当化)