最北医学生の2002年 7月の日常

■2002/07/01 (月) 親父の再入院

親父は背骨の病気(化膿性脊椎炎)で入院していた。背骨には神経(脊髄)が通っていて、最悪そこから下の全麻痺の恐れもあった。しかし手術はうまくいき、背骨は順調に回復した。

背骨にアプローチする経路として、鎖骨を離断する方法を取った。これ自体は非常にいい方法で視野が確保できて手術がしやすかった、と先生も言っていた。しかしその鎖骨が、三カ月経った今でもきちんとくっつかずに傷口もふさがらずに滲出液が出ている。これは骨同士の接着がうまくいかなかったり、入れた金属プレートに菌がついてしまったり、そのうまくつかなかった骨が菌の増殖の温床となったり、といったことが原因と考えられる。

結局、腐骨(そのダメな骨)除去、洗浄、金属抜去のための再手術のため、再び入院することとなった。手術自体は、背骨に比べれば簡単なものだが、結局ここ3ヶ月、当初の予定にはなかった通院・入院になっている。確かにその時々での最善と思われることを積み重ねてきたのだから、文句を言う筋合いはないが、背骨自体じゃないのに入院が延びるのは、なんだかぱっと聞いたときには違和感を感じる。

危険性が高かったり、難易度が高かったり、そうした手術は失敗する可能性があって、反対に比較的簡単な手技などは、まず失敗しないと思っている。高名の木登りの例を出すのは不適切だが、往々にして難しい手技で成功し、逆に簡単なときに気が抜ける、なんてこともあるのかもしれない。

そんなわけで、親父は比較的簡単な手技が原因だったが、長期間の拘束となった。知ったかぶりをすると、人生そんなこともあるのである。

■2002/07/02 (火) 自分の体調

体調が悪い。遊び過ぎとか睡眠不足とかストレスとか色々あるだろうが、たまに左胸がキリキリと痛いような気もする。バスケットをして、ちょっと考えられなかった動悸を感じたりもする。左胸が痛いといえば心筋梗塞だが、成分献血の結果によると、私のコレステロールはむしろ下限よりも低くそれは考えにくい。ある友人は「上室性不整脈だろ」と言っていた。これは最近覚えた言葉をとりあえず使ってみたい、という、医学生によく見られる傾向だ。自分で気になるところだが、忙しさにかまけて病院へは足が向かない。

とある友人もまた、胸が痛くなり、胸膜炎の疑いがあるから病院へ行け、と言われた。そいつもまた医療系の学部の学生だが、忙しさにかまけて病院には行けない、と言う。「医療面接」といういわゆる「問診」の練習のためのロールプレイがあり、それの中に出てくる「悪い患者」そのものを地で演じている、とお互い苦笑している。いつもはどうやって説得するか考えているくせに。

自分としては、心臓がどうも、と言うのは気のせいだろうと思っている。気にし始めると、どうってことのない心臓の音だって、運動して心拍数が120になったって、気になるものだ。他に原因として疲れがたまっている、きちんと寝てない、運動不足なのにできるつもりで動く、などが考えられる。ストレスもあるのかもしれないがよくわからない。

もう一つは体重の増加である。自分でよく管理していないのだが、おそらく1年で5キロ以上増えていると思う。膝・腰等の関節への負担は増加するし、同じだけ動こうと思うと、当然ながら心臓などの循環器系には負担がかかる。そこでちょっと食事とかをコントロールしていこうと試みている。その矢先、ここ数日の異常な暑さである。窓のない環境最悪の講義室に毎日軟禁され、暑さにやられて水物をがぶがぶ飲んで胃酸を薄めて、それで下手に食事をコントロールしたら体調も狂うかもしれない。

ま、自己管理の範囲内で、医学的知識を持っている身として恥ずかしくないような体調にしていくつもりだ。別に「最近具合が悪いんだよね」ということが趣旨ではないので、ご心配なく。

■2002/07/03 (水) 価値観の一致

趣味が合う人がいる。例えば同じ所に行って、同じ事をして過ごすと楽しい、などである。温泉とドライブが好きな人と、私は趣味が合っている。従って、私はそういう人と一緒に出かける。蕎麦とか寿司を食うのも好きだ。よってそういうものが好きな人とだとなおいい。

価値観が合う、という人もいる。これはさらに上位の概念だと定義する。温泉は温泉でもホテルなど、やたらに小ぎれいではあるがお湯が塩素臭いとか、ドライブはドライブでも、1,2時間も走ると疲れたから帰るとか、そういう中途半端さは、私には受け入れがたい。どちらかというと、歴史と趣を感じさせるひなびた温泉に、片道4時間とかかけて行くのがいい「温泉ドライブ」だ、という価値観である。かつ早起きができる人となるとなかなかいない。

この流れに沿って、価値観でひとつでも多くの項目について合致する人が、自分と合う人だと考えてきた。しかし、そうした項目は、上っ面だけというか、表面上で合わせることができる。結局、合うところはいいのだが、そのうちに合わないところがどんどん出てくる。それには不満足を感じるだろう。

ちょっと温泉の話はさておき。なぜそのことを「いい」と思えるか、という判断基準がある。判断する際の思考手順のことである。そこが根本的に異なっていると、たまたま表面上は合っているように見えたとしても、いずれずれが出てくるだろうし、そこが一致していれば、どんな問題に対しても大筋は同じ結論に達することができるだろう。私の場合、行動に「合理性」を求めることが典型である。

我を通せば通すほど、一緒にいられる人は少なくなる。あきらめてしまったり割り切る人もいる。自分と同じような思考手順を持つ人と出会えるのかは運なのだろうか。運頼みか、妥協をしないか。その人の人生選択が問われることだ。今のところ、私は後者だが、人生に後悔はない。

■2002/07/04 (木) 手術見学

父の再手術があった。主治医の先生が「教科書にない方法だから」とわざわざ呼んで下さったので、講義を放り出して見学に行った。鎖骨の感染部分を、開いてきれいにしてダメな部分は取り除いて、という手術と想像していった。

確かにそれはその通りだった。鎖骨の付近に弱いながら持続的な感染があり、傷口がふさがらないのが病状。そこでもう一度開いて、金属片などは取り除き、感染部位は削り、きれいに洗って皮膚を縫い合わせる。しかしこれだけでは、決して問題はないが、積極性に欠ける。元々3月下旬に退院できそうだったので、今回先生は頭を捻った。

大胸筋、という筋肉が鎖骨の下にある。それを一部切り取ってぺろっとめくり、鎖骨の上にかぶせる。そうすると、これまで鎖骨の皮膚側は、血流も乏しく感染に弱かったが、今度は血流のある筋肉が覆うことになり、菌が少しついたとしても体の免疫が働いてくれるだろう、という期待。

言われれば、確かに理にかなっている。医学的に筋道立っていて、ではあるが教科書には載っていないものである。この先生は、元々の背骨へのアプローチの際にも、画期的な方法を考えたという。一緒に手術をした、背骨が専門である先生が感心していた。

臨床医学と基礎医学という区別がある。基礎医学はいわゆる研究で、未知のことに対して独創性を発揮して進んでいき、臨床医学は既知の疾患に対して、既知の治療を施していく、ものだと漠然とイメージしていた。しかし今回のこの二例の手術だけを取っても、独創性あふれる臨床である。もっと言えば、思いつきだけでない、医学的に「理にかなった」独創性がそこにはあった。そんなわけで、臨床医学に心惹かれつつ、また将来について悩み始める。

生理食塩水3リットルなどで傷口を洗い、針で皮下を縫い、表面を「ステイプラー」でとめた。ステイプラーとはつまりはホッチキスである。もちろん医療用で、要するに「かすがい」になっている。

色々な意味で貴重な体験だった。父の手術を見ることは今後まずないことだろうし、医者(タマゴ)でありかつ家族として主治医と話せるのもめったにないだろう。まねごとをするための実習は意味がないと思っているが、うまく生かせば非常に有意義な経験となることがわかった。

■2002/07/05 (金) インフォームド・コンセントよりも大切なこと

医者は患者には興味がない。病気に興味があるのだ。

という考え方がある。ある意味正しい面を捉えていると思う。手術は成功しましたが患者は死にました、もまた同義語である。医者というものは、病気自体を説明したがる。難しい病気のメカニズムをなんとかわかりやすく説明しようと試みる。であるが、結局患者が知りたいのは、治る病気なのかいつまでに治るのか、その治療をしたらその後入院生活がどうなるのか(今回の父で言うと右手をしばらく安静にするため使えないこと)入院費用はいくらかかるのか、などであると考える。

インフォームド・コンセントという言葉が流行っている。流行りといって差し支えないと思う。どのような病気で、それに対してどのような治療があって、その治療(例えば手術)にはどのような危険があるのか、かくかくしかじか、というわけですが、どうですか治療受けますか?というのが、現在推奨されているインフォームド・コンセントである。やらないと訴えられるという免罪符的な要素もある。であるが、私は訴えられないためには、患者との人間的な信頼関係と、ミスはミスとして認めて、情報を隠さず、心から謝罪することで十分だと思っている。

インフォームド・コンセントは、やることがいいことであるかのように教わってきたし、実際そう思ってきた。しかし、患者やその家族が実際に望んでいることは、もっと簡単なことでご飯を右手で食べられないとか、点滴をしている間1日3時間×2回はベッド上にいなくちゃダメだとか、そういう次元での説明を望んでいるように思う。鎖骨の上に飜転させる筋肉の名前が大胸筋だろうが長母指屈筋であろうがヒラメ筋だろうがそんなのはどうでもいいのではないか。

父の話と母の話を聞いていて、そんなことを考えた。「全人的医療を目指して」というのはお題目としてはよく聞く言葉だが、実際は今書いたようなことに気づくのが第一ではないかと思う。人をトータルに捉える、というのができればもちろん素晴らしいが、実際は本当に患者の立場に立ってみることで十分なのではないか、と考えさせられる今回の親父の入院である。

■2002/07/06 (土) 1+1>2な関係

誰かといると煩わしいから一人でいるのがいい、と言う人がいる。一方逆に、誰かと一緒にいなくちゃ孤独に耐えられない、とか言う人もいる。そしていつも誰かと一緒にいる。たいていは、そこで誰かといるかを決めるとき、自分の感情の中で「いたい」とか「いた方がいい」とか判断する。

人はなぜ売買をするのか。それは売買をしてお互いが利益を得られるからである。売り手は金銭的な買い手は物質やサービスを得る利益だ。市場において、どのくらい売買が起こるかは、売り手と買い手の利益の「合計」が最も大きくなるように、で決まる。実際の社会ではその理想的な状態にまではならなかったり、理想との差を小さくするような社会制度を考えていくのが政治学・経済学である。

2月3日に日記に「特化」という考え方を書いた。http://www2.nasicnet.com/~tell-g/kougi12.htmlなどは、経済学をかじるのに適したページだ。特化というのは違う言葉で言い換えると、役割分担によって、全体で得られるものを多くしようということである。ここに個人の目から見た、何かを作ろうという思いは重視されない。全体での利益を考えることが、集団の利益につながるだろう、となる。

最初の話に戻って、自分が誰かと一緒にいるべきか、それともいないべきかを考えた時にも全体で得られるものがどうか、を考えてはどうだろうか。すなわちある人と一緒にいた時に2人で一緒にいて得られるものと、1人ずつ別々にいて得られるものの合計を比べて、それが大きい方を選択して行動するのがいいだろう。一緒にいることで能率が下がる、得るものが減少するなら一緒にいない方がいい。

具体例を挙げよう。学習塾において、生徒数が多いクラスと少ないクラスで成績の伸びを比較した。概して、生徒数が多いクラスの方が成績は伸びる。これはライバルが多いとお互いに刺激があったり、少人数クラスではお互いに高めていこうとする雰囲気になりづらいからである。後者だとすると、塾という場に人が集まっている意味がない。負の意味がある。

人生では、誰とつきあっていくかはとても大切だ。一緒にいることで、一人ずつでいるよりもより多くのことができる関係なら素敵だ。それを言おうとしたのが1+1>2という式である。2人が一緒にいることで、2人分以上の働きができるのならば、それはいい関係であろう。

■2002/07/07 (日) 好きな人と嫌いな人

恋愛とかそういう意味ではなく、好きな人と嫌いな人がいる。

積極的な人が好きだ。休日にぐうたら何もしないで過ごすような人は嫌いだ。頑張る人が好きだ。言い訳ばかりして、他人のせいにする人は嫌いだ。よく話を聞くと、自分は悪くないんだ、ということを必死に伝えようとする人も嫌いだ。negative words を吐く人は嫌いだ。同じ状況であってもつらい、面倒だ、やめたい、なんでよ、などと言うくらいなら、頑張ろう、これをやればいいなどなど、プラス思考に考えられる人が好きだ。タフな人が好きだ。つらいことをしているのにそんなのをおくびにも出さない人は素敵だ。つらいはずなのに頑張ってしまう人も好きだ。えーそんなの大変だからやだぁ、という人は最悪である。大変だからやろうよ、と言いたい。切り替えの速い人が好きだ。物事と物事の間にある無駄な時間が嫌いだからだ。同様に集合時間などを守れない人は論外だ。ちなみに朝が弱いというのはただの言い訳だ。私だって寝ていたいが遊ぶとなると3時でも4時でも出かける。筋が通っている人が好きだ。首尾一貫という言葉は大好きだ。理屈をこねる人は質による。自己弁護のためや理屈をこねるために理屈をこねている人、些細なことにこだわって全体の議論を止める人は嫌いだ。同様の図式で細かいことを気にしすぎる人も嫌いだ。何十万かを扱うときに、ほんの十円・百円の違いで不便なことを選ぶ人がいる。そういうのは節約ではなく非合理的と呼ぶべきだ。リッター1円安いガソリンスタンドが何キロ遠くにあるならば行った方が得なのか、その辺を考えずに合理的な判断をしているふりをする人は嫌いだ。自分の身の程を知らない人は嫌いだ。自分の限界を知っていて、そうなるが否や「降参」の意思表示をする人は好きだ。これと、何にでも積極的に取り組む人は、明確に区別されるべきだ。見た目や流行ばかりを気にする人はあまり好きではない。機能や値段などの実用性を重視する人が好きだ。H”を使っている人がいたら、その人自体を見直す、が一例だ。他人の言うことを素直に聞けない人は嫌いだ。自分に都合の悪い指摘をされた時に返事もできないような奴は問題外だ。敬語を使うべき場面で使えない人は嫌いだ。と言うか幼い。ユーモアがある人が好きだ。駄洒落ではなく、知的なものであるとなおいい。何より自分を愛する人が好きだ。

■2002/07/08 (月) 三権分立と議院内閣制

かねてから疑問に思っている制度が議院内閣制である。行政府である内閣の長は立法府である国会から選ばれる。そのくせなんやかんやしているうちに、国会から不信任案が出されて可決したりする。あんた自分で選んだんだろ、と言いたくもなる。気が変わったのかもしれないが選んでおいてこき下ろすのは無責任に感じる。その上、そういった決断の場には、直接国民の意向は反映されない。政治のための政治という図式がある。

もう一つの疑問がある。長野県の田中知事は、議会で不信任案を可決された。このとき取る道は2つある。実際の具体的な田中知事の行動と、その政治的な是非については議論するつもりはない。1つは議会を解散し議員が選挙、もう1つは知事自らが辞職し知事選をもう一度やることである。ここで、不信任を受けた知事が選挙で再選されたらどうなのだろうか。議会は一体何をしたのかわからない。再選される首長を不信任にしたわけだから。一方議会が解散、県議会議員が選挙となったら、新しい議会でもう一度不信任が可決されれば、知事は辞職しなければならない。

田中知事の場合、不信任が決議されて支持率が上がったという。政党の支持を受けるという構図ではないこの事例では、議会の勢力分布は変わらず、しかも知事の再選が考えられる。すると、延々と不信任をしたり、解散をしたり、知事選をしたり、ということになる。これはシステムとしておかしいのではないだろうか。正確に言うと、システムではなく不一致な結果を生むような投票をする、つまり田中知事を支持する人も、支持しない議員を選ぶ、をいう行動をとる住民に問題があるのだが。

こうしたことが杞憂であることを願いたい。議員の顔ぶれも知事の顔も変わらないのに、上に書いた連鎖が起きないとすれば、それは誰かが心変わりしている。この視点でニュースを追っていきたい。

■2002/07/09 (火) 無意識に受ける影響

尊敬する人がいる。全人的に、という場合もあるだろうが、先生とか先輩とか、自分と同じ分野で自分が理想とするような人がいる。その場合、無意識のうちにその人から影響を受けることになる。生き方とか、服装とか、趣味とか、色々あるかと思うが、最も顕著なのが「喋り方」だと考える。

私は塾で高校生に対しても「そうなんですか」などの敬語を使う。(使わない場面もある)これは私の3年上の先輩で、塾講師としても、医大の先輩としても尊敬する人の影響だ。この他にも、塾つまり教室において、色々な端々の影響に気づくことがある。

しかもこの真似は、無意識に行われる。意識で認識していようといまいと、その人に対して気持ちを持っていれば、必ずや真似が起こる。真似に気づくことによってはじめて、その人への想いに気づくこともある。

逆の例もある。好きな人と音楽の趣味を共有することがある。それまで聞きもしなかったような音楽を聞いてみたりする。そして別れた途端に、それを聞かなくなる、正確に言うと聞きたくなくなる。正の感情から負の感情へ一気に変化する。これはごく自然な流れだ。

問題は次だ。別れてすぐは感情が高まっているため、積極的に「聞かない」という行為を選ぶ。で、月日が流れる。古い感情がなくなる。もしくは/同時に、新しい感情が芽生えるということも多い。そうすると、一時期めちゃくちゃ聞いていて、でもある時点から一切聞かなくなった音楽を再び聞くようになる。聞けるようになる、の方が正確かもしれない。私だけの話かもしれないが自分の音楽の趣味に注目すると、自分の感情がどの辺りを動いているのかがわかる。

このように、人間は意識をしていない部分で、無意識下にある感情を表に出しているのだと思う。自分でどうしようもない部分が無意識であるのだから、これをうまく使って生活していきたい。

■2002/07/10 (水) 情報産業

ふと気づくと、私が扱っているもののほとんどは情報であった。

本職の医学の勉強も、とりあえずまだ実技を含まないので情報である。本などの文字情報、もしくは講義での声の情報で伝達される。究極的には、先生が言ったことをメモしてそれで勉強するので、やっぱり文字に置き換えられた視覚情報である。

バイトの塾講師は、教える内容がいい、というのと、教え方がいい、に大別されるが、どちらも頭の中で考えることである。その意味無形だし、他人に伝えるのはなかなか大変だし、技術職と呼ぶ方が的確かもしれない。

バスケ部のお金の管理もしている。これについても、私が持っているノウハウがなければ大会への参加費を得られない。これは地味に生命線を握っていることになる。しかもそれは私の頭の中にある無形の情報で、紙にすら書かれていない。

日記を書くのも、究極的な情報である。私の日記を読んでくれるという人は、インターネットを通じて文字コードを受信し、それをプラウザで文字情報に変換し、その文字を各人が頭の中で理解し、あーだのこーだの思ってくれる。みんな見ている画面は違うのに、同じことが伝わっていく。

パソコンメールが大好きだ。文字情報しかないのに、下手に会うよりも多くのことを伝え合える。レポートを紙ではなくパソコンで書き始めて編集することからもわかるように、思考するための手段として使っている。他者とコミュニケーションを取るための手段としては、費用的な面でも、また効率の面でも、相手をその時間拘束しないという点でも、色々優れている。

決してネガティブな思考ではないのだが、私が今死んだら、見えないし、誰も気づかないかもしれないけれど、多くのものが失われるのだなぁ、と思う。情報を吟味し、考察し、そこから違うものを産み出していく「思考」の過程もそうだ。私の思考パターンは他の人には真似できないししようとも思わないだろう。

自分の価値(identityの確立ともいうが)には、こういう面もあるのだと考えを新たにした。

■2002/07/11 (木) 贈り物

お土産・誕生日プレゼントをはじめ、何を贈ったら喜ばれるか頭を悩ませることがある。旅行に行って、自分が観ることよりもお土産選びに時間をとられるのは本末転倒だ。彼氏/彼女へのプレゼントであれば、選んで悩んでいる時間はずっと相手のことを考えている、という、まぁいい面もあるのかもしれないが。そんなことを第三者に言ってもただの惚気である。

私が贈るものを選ぶ基準はシンプルにしている。第一に、自分がいいと思わないものは贈らない。相手の気持ちを想像するのももちろん大事だが、結局わからないのであれば、自分が「いい」と思うものを贈るのが原則だ。自分があまりおいしくないと思っている店を、他人に紹介することはないだろう。それと同じだ。

第二に、お金をかけすぎないことである。ケチるのともまた違うのだが、値段ばかりが先行してそのものの本質を見失うといけない。「高いからいい物だろう」という先入観もあるし、実際にいいものもたくさんある。しかし、安くてもいい物、である方がよりいい。高くて良いのは当たり前で、安いのにいい物はあまりない。相手がどんなにお金を持っていても、手に入れられないものを贈るのはかなりいい。

第三に、気持ちを贈る、がある。手間をかけたものもあれば、手間をかけた言葉もある。私が本当に贈り物の質を上げようとしたら、手間をかけて言葉を選ぶ。物はそこに存在し、それは目の前からいずれはなくなる。良い言葉は、それを見ていない間でも心に残る。そして例え表面的にその言葉を忘れたとしても、その言葉を受け取った時の感情は、その人の心に積み重なる。

第四に、不意に贈ると嬉しさも倍増する。相手の好みなどをはずさないように打診しつつ、なおかつ贈られると認識されないようにやることは、難しいが達成すると結構嬉しい。贈った方も贈られた方も嬉しいなんて、なかなかないことであろう。

第五に、実は会って話を聞いたり、一緒の時を過ごすことが、最大の贈り物になることがある。時間を贈るという考え方である。人によってはこれが最も貴重かもしれない。何が最も貴重なのかと言うと、これだけは他の人と代替できないのである。お金がいくらあってもどんな物があってもダメなのである。

■2002/07/13 (土) ものの見方

今日はうちの大学が主管で「地区体」と呼ばれる大会があり、一日働いたり試合をしたり審判をしたりした。審判は、私の特技と言ってもいいが、とてもとても極めるレベルには至っていない。日々勉強である。

バスケットの審判は、10人の選手を2人の審判が見る。身体接触における反則である、いわゆる「ファール」は普通1人と1人の間で起きる。したがって、10人の誰と誰の間に接触があるのかをよく見ていなければならない。しかし人間いくつもの場所を同時には見れないので、規則に従って二人で分担をした上で、あとは各自が予想を立てて見ていくことになる。ここでプレーをした経験が役立ってくる。

私はバスケットを始めて12年目になるが、それだけの数のプレーを見てきている。よって次にどこで何が起こりそうかを「感じ取る」ことができる。ある程度は。

1m離れたところにいる審判に反則をとられた場面と、10m離れたところにいる審判に反則をとられた場合を比べると、前者はまぁ納得がいくが、後者は「見えてないだろー」と説得力に欠ける。そうならないために、何かを「感じた」時には、近くまで走り寄ったり、よく覗き込んだりする。前かがみになって、いかにも一生懸命に凝視していそうな図である。

ある時、上級審判から講習を受けた。ちょっとできるようになった時には、見よう見ようという思いが強くてそういう体勢になりがちだが、実はそういう場合では、一歩引いて、体を起こして全体を見渡す中で見た方が、実はその部分もよく見えるのだそうだ。その部分も見えるし、他の場所で何か問題が起こっていないかを見るにも有利だ。

思うに、人生にもそんなところがあるのではないか。頑張ろう頑張ろうとして、それに対して近づこう近づこうとする。しかし、うまくいくこともあればなかなかうまくいかないこともある。課題(山)があったら乗り越えるのがスジであろう。しかしアプローチ法がどうも見つからない時、うまくいかない時には、一歩引いて、全体を眺めるのもいいのではないか。離れた方がよく見えるという言葉は、実はもっと深い意味なのではないかと考えている。

■2002/07/16 (火) 料理日記

料理日記はしばらくご無沙汰だが、これは料理を作っていないか、作っても書く価値のあるものではないかのどちらかである。今日ちょっとした料理を作った。

エノキを小さめに切ったものを炒めたものにバターをからめ、それにネギをやはり小さく切ったものを加える。火は止めておいてよい。そこに醤油をたっぷり加え、ネギ入りのエノキのバター醤油が完成する。これを冷たい豆腐の上に乗せる。要は冷や奴の上にソースもどきが乗っているのだ。

結局どういうときにわざわざ料理日記を書こうとするのかと考えると、私の家庭にない味を自分で創造したときが多い。母親が栄養士であるため、料理のqualityは高い家庭であった。しかし好みというか、知ってる知らないの問題か、いつになっても食卓に上らない料理もある。それを私が創造したり、真似したりして、作るのが自分の中では大きな出来事なのだ。よってとても主観的である。

冷や奴なのにバターの甘みを感じることができて、なかなかミスマッチだが良かった。たまには鰹節だけでなく、ネギとかショウガでもない、そういう豆腐も食べてみたい。そんな動機だった。

■2002/07/19 (金) 温泉にこだわる

ちょっと雌阿寒に行って来た。久し振りに夏休みらしい一日だった。

まず、岩間温泉に行った。雨続きでしかも平日早朝ということで、さすがの温泉マニアも本州からのライダーなどもいないだろうと読んで行った。せっかくの自然の中の無人温泉も、じゃらんなどで紹介されてエセ温泉マニアがたくさんいると、それは趣が変わってしまう。吹上露天の湯などは常時車が10台停まってるんじゃないか、というほどメジャーになっている。そうなると無人・無料・混浴・湯船のみの魅力は半減する。その意味で、読み通り岩間温泉を貸し切った。

その後、雌阿寒まで足を伸ばし、オンネトーを見て、野中温泉別館に行った。脱衣所で先に入っていた広島から来たとかいうおじさんが「洗い場もない」「床はぬるぬるして掃除もしていない」「古くてきたない」「安かろう(300円)悪かろうだ」などなど散々言っていた。私は意見を異にする。

洗い場が欲しいのならば、自分の家でもいいし銭湯でもいい。お湯自体を重視したい。洗い場が立派でお湯がしょぼいのは、温泉ではなくスーパー銭湯だ。床がぬるぬるしているのは、掃除が怠られている場合と、お湯の成分が濃いために、どんなに掃除をしてもすぐに元に戻ってしまう場合がある。後者ならもちろん歓迎だが、前者でも不快にならなければいいと思う。水に触れ続ける木の部分が、全くぬるぬるしないのも不気味だ。確かに古い建物だったが、釘を一本も使わず作ったという総アカエゾマツづくりの建物は、私には歴史と趣が感じられて良かった。むしろ落ち着きを感じられる空間だった。露天風呂も開放的でぬるめのお湯にじっくりつかれて良かった。

温泉を突き詰めていくと、洗い場とかシャワーとかサウナとかジャグジーとか寝湯とか打たせ湯とかそんなことは二の次になる。いつもの風呂や銭湯のお湯だけを変えて温泉に、というのは近年作られた公共の温泉にはよく見られるが、その路線では自ずと限界がある。まずお湯があり、それをいい状態で、つまり薄めたり塩素を混ぜたり循環させたりせずに、湯船に貯めていく。それに入るのが基本であって他の要素は+αにしかならない。その辺がにわか温泉マニアとの違いである。

その後上士幌のあんだらやでカレーを食べてきた。コーヒーもカレーもなかなかおいしかった。そんなわけで550km走ってきた。そして夜はバイトであった。

■2002/07/20 (土) 新聞の月決めと日割り

新聞を取っている。月決めで3000円あまりで、宿泊を伴う外出の時には、電話を一本入れて新聞を止めてもらう。1日100円だかそこら割引になる。割引というか、当然のことだ。

最近家にいないことが多く、集金がたまっていた。何ヶ月か分まとめて払って、払った後で日割りの戻しがされていないことに気づいた。わずか何百円かのことで、そう目くじらを立てるようなことでもないのだが、色々考えさせられた。

外出時に新聞を止めることは、古新聞の量が増えるのを防ぎ、しかし値段は変わらなかった。そうすると結局電話代を損することにしかなっていない。確かに新聞購読料は滞納したが「滞納したら日割り計算はなくなります」という決まりがない以上、せっかく休んだ分の新聞の代金まで請求されるのは筋が通らない。これは、道新でも朝日でも読売でもどこも同じであった。それが嫌で口座振替にしていなかったのだが、結局集金に来ても同じかよ、という感じである。

対抗策として、こちらも月単位で講読するのを考えている。8月は10日あまり北海道にいないが、それで1ヶ月分請求されるとむかつくので、一ヶ月丸々休んでやろう、と思っている。9月はテスト勉強ということで、10月はテスト中ということで。これで3ヶ月。

そんな対応の仕方には、こっちもそんな対応を取る。大人げないかもしれないが、自分の中ではそれで筋が通っていると思っている。細かいことを大事にしない人にはそれなりの報いが来る。因果応報というか、自分がやっていることを他人からやられても、それには文句は言えないはずだ。

■2002/07/21 (日) 数学科講師誕生

私は高校時代から、元々は数学が得意だった。数学科等の理学部への進学を考えていた時期も確かにあった。センスだけで偏差値70超えたことも珍しくない。しかし医学部を志すと英語がネックになって浪人した。そして予備校時代に英語を克服し、むしろ数学よりも安定した得点源となった。そんな流れで、塾講師に採用される時には、数学科を第一希望にした。

もろもろの事情で、英語科に配属された。まぁ英語もそれなりだったので、むしろ文法マニアなので生徒に説明するのは容易だった。多読+感覚で英語が「できる」人は他人に説明しづらい。「だってこんな感じだよねー」って何も説明してない。そんなわけで、英語を教えて5年目になる。それなりの実績も残してきたと自負している。市内版のチラシに「英語科主任」として載ったこともある。職員が足りないとか、私の顔が老けているとかの突っ込み不可。

今回、これまたもろもろの事情で、数学も担当することになった。センターレベルくらいは簡単に解けるのだが(正確に言うと解けたのだが)どうして今さら新たな科目をやれと言われるのかわからない。どうもアルバイトの学生講師の個人的な努力によって支えられている塾、という感が否めない。企業名に大学の名前を冠しているとはいえ、結構かなりの規模の企業である。でもどういったレベルの企業であっても、結局は第一線で働く人の小さな向上心とプライドが集まって全体としていいものができているのかな、とも思う。あとは会社への忠誠心のようなものである。

一昔前は、塾全体を良くしようと活動していた。しかし、職員以上に自分を犠牲にしてやることではないと気づき(失望し)、その意味モチベーションは低下気味であった。しかし、生徒が教えてくれと言えば、例えただ働きでも授業をするし、後輩講師が教えてくれと言えば、自分がもっているものは惜しみなく出してしまう。

やる気がある相手に対して自分の力を割くのはいいことである。逆に頑張っている自分を正当に評価してくれないのは嫌だ。魚心あれば水心とはよく言ったものだ。

■2002/07/22 (月) こうかん日記

高校時代の友人たちとこうかん日記をしている。web上で、2つ掛け持っている。1つはクラスが3年間同じだった中での友人、もう1つは生徒会執行部での仲間である。私が当時会長だったときの部下たちで、部下といってもすっかり信頼し合う仲間で、学年的には後輩だがむしろ対等に人生を語り合える仲である。大体が、卒業して6年目になって「こうかん日記を始めよう」などと言い合えるような関係であるため、わかりやすい言葉で言うと「仲良し」である。

こうかん日記では「次は鈴木宗男」のように、決めた順番に従って名前が表示される。いい意味でも悪い意味でも強制力を持つ。実際にはskipして次の人が書くのは可能だが、そこはある程度「他の人に迷惑を」という感情が働き、なんとか書いてしまう。これは「相手がいると頑張れる」の具体例である。日記を書くのが本人のためになるとしたら複数でやることには非常に意味がある。

以前1+1>2な関係として、人が複数集まったときの方が得る力が大きくなることがある、と書いた。その意味で、1人で日記を書くよりも、複数で書く方がいいし、読むという行為を併せるとかなり得るものは大きいと思う。そういう関係ならば、是非とも一緒にやるべきだ。

人間は一人じゃ生きられないから誰かと一緒にいるんだ、という考え方もあるが、私なら一人でも生きていけるけど、誰かと一緒の方がお互いを高められる、と考えられるので、誰かと一緒にいたいんだ、と考えたい。そういう視点でつきあう相手を決めていく。そして日記は進むのだ。

■2002/07/23 (火) 誰かについて行く

誰かについて行くことは簡単だ。何も考えずに与えられたことだけやっているのは楽ちんだ。しかし、自分でやった方がいいことなのについて行くのは苦痛だ。そんなのならば別行動をした方がいい。そこの見極めは難しい。自分の力がどこまで通じるのかも試される。

旅行においても同じである。ツアーで行くのは簡単だ。誰かが決めてくれた道をたどるのは楽である。でもそれをしていいツアーとそうでないツアーがあるだろう。自分が調べて立てるよりいい計画があるのなら、それに乗るのがいいだろう。ある意味信頼関係とも捉えられる。

集まる企画、遊びの企画、飲みの企画もそうである。私のドライブ企画などは顕著だ。わかっている後輩は、私に連れられて一日遊ぶと、面白いことがあって、温泉があって、旨いものを食う、と知っている。次からは、私が立てる企画だからという理由だけで、喜んで乗ってくる。

今回、この夏の旅行+遊びの計画を立てる。全ておまかせされてもまぁいいのだが、私が持っている情報源を共有した。なまら蝦夷という本である。今のところ、ここに載っていた店ではずれはないとの見解で、友人と一致している。遊びのスポットも、マニアックな場所も、お勧めの店も色々載っている。その中で、同じ本を見ていても、なお私なりの脚色ができるものと考えている。

よく考えれば、自分の時間を他人にゆだねるのはすごい冒険だ。私がそんなことをできる人はまずいない。そう書いてみて一人いることを思いだした。何年か先輩で、既に医者になった人だ。この夏1日空く日ができるので、その人の仕事に1日密着してみようと思う。普通の病院実習はあれがしたい、これが見たい、という意見と、向こうがぜひこれは、と言うものの和で成り立つ。しかし、私はその先生のありのままの1日を見せてくれ、と言うわけである。これは実はその人を信頼していて、どうされても構わない、という意思表示なのかもしれない。でもそんな人がいてもいいと思うのだ。

■2002/07/26 (金) 言葉を大事にする

言葉の不完全さはよく問題にされる。言葉が絶対評価として不完全なのは言うまでもない。しかしこの世界で、意思伝達のために最も使える手段であることも事実だ。一つの言葉で不完全に伝わるならば、いくつもの言葉を連ねて伝えればいい。

時には行動も必要だ。言葉を超える行動がある。しかし、行動の意図を伝えたり、行動しようと思ったがしなかったことを伝えたり、行動するべきかを悩んだことを伝えるには、やはり言葉が必要だ。そもそも行動しようか判断しているのが、頭の中では言葉に依っているのだ、と考えることもできる。

「会って話す」形式に非常に慣れていると思いますが、それは妥協を生むのにいい形ではありますが、客観的・理論的によりよいものを作り上げる態度ではないことを、知っておいてください。また、場当たり的な結論しか出せないこともしばしばあります。

他人のメールの無断引用だが、非常に心打たれた文章である。とかくメールで、手紙で、電話でコミュニケーションを取ることよりも、会って話すことの方が上だと考えがちである。確かに会ってしかできないこともある。しかし、厳密に議論を突き詰めるという観点で考えると、直接面と向かい話し合いと称して時間を共有することは、実は非効率的でしかない。言い出さないまま終わってしまうこともままあるし、その場の雰囲気と話者の勢いで、なんとなく納得してしまうこともある。

そんな意味で、パソコンでコミュニケーションを取ることは、私はかなり高度なものだと位置づけている。そのためには、パソコンに使われないこと、自分の感情を言葉に表現できること、などが必要である。そしてそんな人がなかなか多くないのも現実で、その点私とコミュニケーションを取りうる人の数はあまり多くないのである。だから私は、不必要にパソコンに向かうのかもしれない。

■2002/07/27 (土) 戦う相手を間違えない

バスケをしていて、チーム内で意見が衝突することがある。理性的な衝突であればよいのであるが感情的なものであったり、プレーヤーとしての人格全体を否定したりする場合もある。うまい人が下手な人に対してかける言葉も難しい。プレーが悪いと言うだけではどうにもならない。それによってチーム内の雰囲気が悪くなったり、やる気がそがれたりすると、それはチームにとってマイナスになる。

正直に目を背けずに言うと、マネージャー同士の問題もある。マネ同士の対立関係が存在し、その中でエネルギーの消費があると、結局はチームにとってマイナスである。仮に理にかなったことを言っていても、筋が通っていようとも、どのような言い分があろうとも、そこに力が裂かれていて、それについて何か発言をしている以上、力の使い方が間違っている。

15人ほどで、一つの共同作業をした。やるべきことがあって、それを早く終わらせれば終了である。バイトでないのだから、全体が早く終わるように一人一人が動くのが、合理的かつ効率的だ。私はそれの取り仕切りをした。一つには、一人一人の立場から最も仕事をしやすい仕事を割り当てるのも作業全体の効率につながる。これは私が最も得意とするところだ。仕切りたがりというと端的だ。

あまりに上に立つのが堂に入ると、作業をする人たちが、自分の仕事を楽にしようとする目的で私とやりとりをすることがある。ここに「私とその人が対立する」という構図ができあがる。これは全体として「集団vsやるべき仕事」という対決の構図があるのに対して、内紛である。仕事のミスを指摘したときに、私に対して必死に弁明する人もいる。そんなのはどうでもよくって私に対して株を上げたところで仕事は終わらない。むしろ終わるのは遅くなる。いいから作業を続けてくれ。

自分のチームが他のチームと対決する構図において、チーム内の対立にエネルギーを使うのは避けたい。マネ間についても、仮に自分だけがつらい思いをして、理不尽だなぁ、と思っていても、チーム全体で見たときには、そうした方がいいこともある。自分からの目(ミクロ)で見て正しいことが、全体から見たとき(マクロ)で正しいとは限らない。そこまで考えられるのが、本当のリーダーである。

その意味、本当のリーダーたりえるひとは、我チームには5人は欲しいが2人しかいない。

■2002/07/28 (日) 力を抜いてやること

塾で教えていると、だんだんと講師である自分の素が出てくるのを感じる。基本的にあるクラスを年間通して担当し、高校生だと次の年も続けてというケースも珍しくない。当然、にわか仕込みやメッキの力はすぐにばれ、学問的な力と人間的な力の両方が試される。

講習会というのは趣を異にする。極端な話「一期一会」である。5時間か6時間教えて、それでわかってもらって、はいさようならである。少なくても一講師から見るとそうである。当然ながら教えたいことの方が圧倒的にたくさんあり、割合として時間はいつも足りない。

やりがちなことだが、時間を綿密に計算して、限られた中にたくさんのことを詰め込もうとする。そしてあれもこれも教えて、こんなにたくさんのことを教えたぞ、という満足感に浸る。しかし実はそうした方が評判は良くなかったりする。逆に、やる気もなく、教えることも大きなところで1つか2つしか持っていない。でもまぁ生徒の前に出るとちょっと頑張って、でも内容がないのでやたらに強調したり繰り返したりして教えることになる。こっちの方が生徒の評判もいいのだ。

一発勝負の場面においては、実は「教えない」のがポイントである、と師匠筋の先輩講師から教わった。ポイントを絞って、ここだけわかってくれればいいから、と言う。細かいところや、理解に時間のかかるところについては、毎週通ってくれればそこでじっくり教えるから、というのを背景にする。

短期決戦の場合は何も教えない方がいい。むしろ力を抜いてやった方がいい。しかし長期の場合は持ってるものを全てさらけ出してやらないと信頼は得られない。肩に力が入っていると見破られる。これを逆に考えがちではないだろうか。短期は力を入れて、長期はある程度だらだらでいいのでは。しかしそれを裏付ける、生徒からの評判(アンケート)が存在し、私も実感している。一回きりだからこそ気負わずに、そして長いつきあいは本気で、というのは、人生にも生かせるかもしれない。

■2002/07/29 (月) 数学科講師終了

塾講師5年目にして初めて数学を教えた。

塾で、生徒から苦情が来ることはよっぽどのことである。講師側の態度に原因があることも少なくない。もう一つに、講師なのに学問的な理解ができていないことがある。嘘を教えたとか、あの先生わかってないみたいだ、ということである。そもそも人にものを教えるにあたって、わかっていないで教えている時点で構造矛盾だが、実際そういう現実も存在する。黒板の書き方が見づらいとか、まとめ方が下手くそだとか、表現力の分野では不満は持たれても苦情レベルにはならない。

先日も書いた通り、これまで英語しか教えてこなかったのだが、数学的な力には問題はない。したがって、苦情が来るようなレベルの問題点はなかった。一方表現方法に関しては、慣れない数式を書いていって、この辺が見づらいとか、あー失敗したとか、自分で授業中に気づくぐらいだった。しかしこの場合、生徒からは不満レベルであっても苦情レベルにはならない。できる生徒にありがちな「絶対この解き方の方が正しい」とかいう質問も難なく撃退した。

生徒に嘘を教えてもわからない、というのはある面で真実である。中3になってようやく塾に来て、5段階評価で3ばかりの生徒に、ちょっとぐらい違うことを教えても問題ない。(問題は起きない)しかし、生徒にばれるとかばれないとかを考えるのはポイントが違って、実は自分が自信がないことを教えている、というのはばればれだ、という方が大きい。それこそ付け焼き刃的にその場をうまく乗り切ったとしても、生徒の評判を聞いてみると「いいんだけど..」という微妙なリアクションになりがちである。その意味で、せいぜいその分野に関しては、生徒に負けないような講師がきちんと教えるべきだと思う。

その選択枝を取るために、英語科から人が駆り出されるのは、やはりどう考えてもおかしい。

■2002/07/30 (火) 感情を分析する

愛情の反対語は無関心だという。むしろ憎しみが同義語である。例えば、メッタ刺しの通り魔殺人はあまりない。それだけの思いがあるからこそそれだけの行動になる。人の感情は、その大きさを測るのが、表面に出るものよりも本質的かもしれない。

物理学に「作用反作用の法則」がある。押すものと押されるものが同じ大きさの力を受ける、という法則である。これは人間関係にも当てはまると思う。信頼すればするだけ裏切られたときのダメージも大きいし、力を入れれば入れるほど、相手からの見返りを求めたくなり、気持ちの不均衡は、時に負担と呼ばれる。殴られると痛いが、殴った方も同じだけ痛いはずだ。

つきあってもいない人を振った。自分ではそれほど大したことになるとは思っていなかったが、実は気持ちがへこんでいたりする。今感じているマイナスの感情は、実はこれまで持っていたプラスの感情なのでは、と思う。別に恋愛感情だとも思っていなかったし、ないならないでいいやと思っていたのだが、失ったものの大きさは、これまで持っていたものの大きさに等しいと考えられる。

自分を傷つけるようなことを言った人と、そのままつきあい続けるだろうか。それはその相手と言った内容に依るだろう。言った内容と、その人に持っている信頼度を比較して、後者が大きければそのままつきあい続け、前者が大きければその後は一緒にいないことを考えるだろう。

一応モデルとして、以上のようなことが考えられる。現実とのずれはそれで認めるが、曖昧模糊でとらえどころのない現実の行動を、以上の式に代入すると、見えないものも見えてくるかもしれない。感情の定量化という、精神科医でも尻込みするようなテーマだが(なのに小学校では意欲を絶対評価するらしい)自分の頭の中でこういうことが行われているのではないかと、考えることは楽しい。