2002年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2003年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2004年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2005年
1月/
2月/
3月の日常へ/
TOPへ戻る
時速4キロで歩くと、1キロは15分かかる計算になる。私が高校時代に本気で体育会だった頃は1キロは3分ちょっとで走れた。マラソン選手並みに速い(1キロなら)
10分の制限時間で1キロを走るor歩くとしよう。全て走ると早く着きすぎる。全て歩くと時間オーバーである。ある程度走って、ある程度歩かなければならない。夏休みの宿題を思い浮かべるとわかってもらえるかと思うが、たいてい最初は歩いてあとから走る。即ちいつ走り始めるかが問題だ。
19科目のヘビーな試験が10月16日からある。大学で一番つらいものらしい。一応まだ一ヶ月以上ある。今から全力で寝ないでやると早すぎる。最後までやらないと死ぬ。実際今年の冬から春は死んだ。そして復活した。(再試)
前回書いたように、色々な私にやることが期待されていることがあり、それをどの程度やるかが最大の問題だ。やりすぎると試験で必ずや死ぬ。しかし今から全てをなげうつほどの時期でもないだろう。そんな葛藤。
数多のこういった例を、易きに流れて、大学受験でも浪人し、そんな人生を送ってきたが、一応何とかなるような所を通ってきたつもりだ。そして今回も通るつもりだ。もう少し頑張るぞ(←何を?)
離散数学というのは組み合わせ理論、グラフ理論、計算幾何学、アルゴリズム論、最適化問題を含む概念らしい。高校レベルでいうと、確率とか順列組み合わせが該当する。その中に「ナンパ問題」というのがあった。本を引っ張り出してみる。
映画館から出てきた女の子をナンパすることにした。ナンパの成功確率を100%とする。女の子は一人一人順番に出てくるので、一人出てくるたびにその子に声をかけるかどうかを即座に判断しなければならない。もちろん一度見送った子はもう戻ってこない。この時、どのような戦略で声をかければ(かけなければ)最もかわいい子をGETできるのだろうか。
今20人の女の子が出てくるとする。20人をかわいい順番に順位をつける。出てくる順番は20![通り]ある。これは2402902兆[通り]より多い。一人目とか二人目で「かわいいっ」と思って声をかけても、あと18人もいればもっといい人が出てくるかもしれない。あんまりぼやぼやしていると、最後の一人、二人になってしまう。そうすると結構ブサイクでも我慢しなければならなくなってしまう。これを数学的に検討してみた。
n人での一般項もあるのだがそれは省略する。結論としては、最初の5人には声をかけない。6〜10人目には、かわいい度がそれまでで最も高ければ声をかける。11〜13人目にはかわいい度がそれまでで上位2人に入れば声をかける。14,15人目は上位3人に入れば、16人目は上位4人に、17人目は上位5人に、18人目は上位7人に、19人目は上位10人に入れば声をかける。20人目が来た場合は仕方ないので誘う。こうすると理論的には、最もかわいい子をGETできることになる。そう計算できる。
この戦略の時、GETできる女の子のかわいい度の順位の期待値はほぼ3である。つまり、20人中上位3人の女の子をGETできる戦略とも言える。また、nを∞にしたときでも、適切な戦略を取れば、上位4人の女の子をGETできることがわかっている。
以上は淡々としていなくもない日常。の020905の内容の補足でもある。人生において、ナンパにせよ何にせよこのような状況はたくさんあるだろう。そこで何を選ぶかで人生は決まっていく。離散数学と違い、こちらには模範解答は存在しない。だから人生面白い。
感情を表に出さない人がいる。何を考えていてもバレバレだ、という人などは、それを非常に羨ましがる。感情を表に出さないことは強いことだ、と考える人もいる。確かに感情をcontrolできないという人に比べれば、感情を表に出さない人は強いのかもしれない。しかし私はそれだけではないと考える。
感情を表に出さない人は、実は表に出すことができないのだ、という説である。私が考えた説だ。感情を出さないというのは、出さないことを選択しているということである。出さないことが自分にとってメリットがある、と考える。その理由として、感情を他人に知られない、というのがある。他人に感情を知られることを怖がるのは、はたして強い人間だろうか。私はそう思わない。
思い起こして、小学生、中学生の頃など、無邪気な子供だった私は感情を表に出しまくっていた。きっかけはわからない。いわゆるいじめの一環で、笑うな気持ち悪い、と言われたからかもしれないし「嬉しそうだね」とか言われることを単純に嫌ったからかもしれない。しかし今なら感情を他人に知られてもそんなに気にすることはない。
感情を他人に知られてしまったら、自分が自分で保てなくなる気がしていたのだと思う。自己の確立と言ってもいい。特に、自分の存在を他人に依っている時には、他人からの言葉にとても敏感になる。勢い、自分に対する非難は受け入れたくない。感情的になっている姿は自分の弱みを見られるようなものだ。その点、感情を殺してしまい、自分の中で処理するようになれば、自分に不利なことは知られない。
自分に自信が持てるようになった頃、つまり現在に近い方だが、感情を他人に知られても自我の崩壊は起こりえなくなった。そうしたときに、自分の感情をある程度周りの人に知られた方が面白いとわかってきた。周りの反応を意識して表情を作ることも出てきた。その方が人間同士のコミュニケーションがうまくいく。第一、表情の仮面をかぶって(ペルソナとかのイメージ)腹を割った話はできない。そうした所まで考えると、感情を表に出さない人は、感情をcontrolできない人よりは強いかもしれないが、controlできて、かつ感情を表に出す人よりは強くはないと考える。
感情を表に出している人は二通りに分けられるということになる。その違いに気づけるのもそうした自分の中の歴史があるのだと再認識した。
最近色々忙しく、書きたいことは色々あるのに更新が滞っています。
日本でBSE、いわゆる狂牛病が原因でvCJDになる、まぁ人が狂牛病になる、と短絡してもこの場合は構わないが、その確率は3600億分の1であるという試算がある。これによると、日本でそうなる人が0.0003人とか、日本が3000あって初めて1人そういう人が出るという計算になる。つまりは実質0人と考えてよい。以前も書いたが、風評被害によって倒産、売り上げ落ち込みなどで1人以上自殺すれば、それは社会的な問題である。
北の国から、があったらしい。興味もないし見たこともない。なぜそんなに会う人会う人口にするかと思ったが、視聴率が40%近いとか聞いて驚いた。そこまで国民が同じ方向を向くような番組といえば、サッカーの日本代表の試合、紅白歌合戦などである。ある意味恐ろしい。逆手にとって、私は北の国からで紹介されているらしい北海道を初対面の本州の人と話すときに用いる。40%近い人にはこれで通じることになるのだ。
何か引っかかっていることがあった。自分が置かれている状況を正確に認識できたとき、その問題は8割方解決していると思う。私が扱う言葉は難しいと自分では捉えている。語彙が難しいわけではないと思うのだが、論理的な組み立てが、受取手によっては受け取れないものになるらしい。しかし、別に数学とか物理学とかの話をするわけでないときに、単なる日本語で話しているときには、お互い意思疎通ができるもの、と考えていた。少なくとも日本人とは。しかしそれは幻想だった。
思い出してみると、過去に結構深くつきあった相手複数から、同じことを言われていた。何か問題があれば言ってくれ、話して解決しよう、というのは私のポリシーで昔から変わっていない。当然その相手にもそれは周知徹底してあった。自分は言いたいことを言う。相手にも言ってもらう。そこでぶつかり合うのが人間関係だ。受け入れられればそれでいいし、受け入れられなければその理由を伝える。そんなことを何度か繰り返した後で、私が言われた言葉がこうである。
「結局私が言うことは永遠に取り入れられないんでしょ」
私の判断としては、受け入れられるものであれば受け入れる。そうでないと判断したものは受け入れない。相手が思っているかもしれないことも、言葉で伝わってこないものを取り入れるのは困難だ。言葉の質や量が不適切で伝わりきらないのも同様だ。決して門前払いをしているわけではない。たまたまそれぞれが認めるに足りないことだから、相手が言うことを取り入れなかっただけだ。
その相手を信じていたのもまたいけなかった。こっちがこんなに信じているのに、どうして思っていることが伝わらないのか。でも実は信じているかは関係ない。今思うと、相手の言うことを理解したり、それに対して意見を言うことができる人とできない人がいるということを、当時の私は認識していなかった。今は違う。意見を言い合えるだけのcapacityを持っていない人とはそのように話をするし、もっと親しい関係を持つ人には、意見を言い合えるだけの能力を求める。
それがわかってから、親しくなる人の敷居が高くなった。しかし、うわべだけのつきあいをする人や名前と顔しか知らない人がガンガン増えるよりも、もっと大事なことがあると思った。この選択は正しかったと思う。
経営者や、教授でもいいが、上に立つ人間が変わったときに、その組織自体が変わってしまうという。数人の規模ではない。何十人、何百人という規模であっても、一人が変わるだけで大きく変わってしまうという。そんなことを実感することはあまりなかった。しかし今、われわれ5年生が引退したバスケ部は、負けが込んで苦しんでいる。
何かが変わるとすれば、それはメンバーが変わるからだと考えていた。バスケ部の例で言うと、キャプテンが替わったからではなくて、試合に出る人間が変わるからだ、それならばチームが変わるのも当然だと思ってきた。しかしそうでもないらしい。私はしばらくボールも触ってないし、体育館に顔も出していない。しかしだからといって、私がいないことで試合に出る人間の顔ぶれが変わったわけではない。替わったのはキャプテンだけだ。旧キャプテンも今まで通りプレーをしている。
非常に評価しづらいのであるが、雰囲気が変わったのではないかと思う。短絡的に言うと、上に立つ人間が厳しいと、そのすぐ下もしっかりするし、それを見たみんなもピシッとする。しかし替わった上がそれを緩めると、その雰囲気は全体に及ぶだろう。今回、特に厳しいかったのを緩くして、勝てないのはそれが原因だ、とは思わないが、色々聞いていてこの面が結構あるのではないかと思った。
長たるものは、気苦労が多い。上に立つ人間が組織全体のことを考える。しかしそれがあるから下の者は安心してやっていけるのだ。この無形の働きが、実は大きな力だったのではないか。ある時にはわからないが、なくなって初めてその存在を知ることになる、ということなのかもしれない。もう少し新キャプテンを見守りたい。
情報の偏りや見るとなんとなく納得してしまうことからテレビを見なくなった。もっともテレビを見るような時間に家にいないということもある。昨日たまたまテレビをつけていたら、公共放送とか名乗っていたようなNHKで「それでは今日のタマちゃんです」とか言っていた。だいたい、たまたま迷ったアザラシごときに、どうしてそんな電波を使っているのか理解できない。極論そんなアザラシ死んだって仕方ないだろ、とも思う。それより中国で毒物混入で80人死亡か?というニュースはどこへ行った。北朝鮮へ拉致されたと言われている人たちの問題は、解決したのか?人が死ぬよりアザラシが大事か?かわいければ、みんなが注目するなら取り上げるべき話題なのか?どうせ取り上げるなら、年間3万人とかに増加しているという自殺者を減らすような取り組みはないのか?例えば景気問題もそうだろう。交通事故も年間1万人死ぬしまぁ取り上げてもいいが、年間5万人死ぬ肺ガンの大きな原因となっているタバコについて取り上げる気はないのか。それより何人死ぬのか根拠のないダイオキシンとか環境ホルモンをセンセーショナルに取り上げた方がいいのか。とにかくタマちゃんに飛びつく放送する側それを見る側、ともに「おめでてーな」と思う。
テレビというメディアの大きな欠点は、放送した内容がよほどのことがないと遡って追及されないところにある。たびたび取り上げているが、狂牛病について危険性をあれだけ指摘したのならば、現在ではどういった危険性になったのか、やはり当時と同じく今も危険なのか、危険じゃなくなったのか、あの時報道していた内容に誤りはなかったのか、それとも過剰だったのか、そうしたきちんとしたフィードバックがない限りは闇雲に信じるわけにはいかない。
どうせならば、ニュースであればこういうものを読む方がよっぽど気持ちいい。このサイトの場合「噂、偏見、シャレ、ウソ、大げさ、紛らわしい記述等多発致しますので自己責任でお願いします。」と書いてある。大手のテレビ局であっても独断と偏見に満ちているのだから、それならば思い切り毒に染まった独断と偏見を通して社会を見た方がいい。そうした方が意外と面白いことが拾えるものだ。
北朝鮮の金正日総書記は、日本人を拉致していたことを認め、ある人は生きていて、ある人は死んでいると発表したらしい。生きていると発表した人は、日本に帰って来れる人もいれば、そうでない人もいるだろう。拉致された人への現地での任務が大っぴらに言えないことであるのは想像に難くないので、後者になる可能性も高い。日本に帰って来れる人がいたと仮定しよう。どうして日本に帰して北でのことを話させてもいいのか考えると、さして重要なことを知られていないからだと考えられる。逆算すると、重要なことを知られた人については、死んだと発表するか、生きているが帰せない、ということになるだろう。いずれにしても、拉致を認めた以上の発言については、あまり情報価値を持たないと思う。相手の言うことを淡々と信じていくのは外交ではない。お人好しだ。
もう一つ、拉致を認めたことは、北朝鮮にとって不利なことであろう。ばっくれ続けることも可能だろうし、事実これまでそうしてきた。にもかかわらず今回彼らが認めたという事実は、逆にわれわれ日本に何が求められるのかに注目するべきだろう。決して、今までずっと心の中で悪い悪いと思ってきたけど、とうとう良心の呵責に耐えられなくなりました。ごめんなさいやりました。なんて話ではあるまい。
今回の訪朝をどう評価するか、なんてアンケート(投票)もあるらしいが、以上の点をふまえると、今日すぐに何か意見を出せるようなことはないだろうと思う。
岩手での話、夜間救急が必要となった乳児が、小児科医がいないという理由で4軒の病院に断られ、結局診たのが眼科医で、その後不幸にも死亡した、というニュースがあった。論点はいくつかある。
1つは小児科医の不足である。小児科医が不足して、当直などがますますつらくなり、つらいのでそういう科を就職先として医学生は選ばない、という循環が続いている。正直私も小児科を選ぶ気はない。東京都の合計特殊出生率が1.00になったらしいが、なんとかしなければならない問題ではないだろうか。
2つ目に、夜間救急の使い方である。東京都で石原知事の号令の下、夜間診療を開始したが、あまりに緊急性のない患者が多くて、医者が耐えきれずやめていったという。単にコンビニ化するだけでは、昼来る患者が夜来ることになり、医者の負担だけが増えて破綻する。
3つ目に、眼科医だって医者なんだから、最低限診られるはずだ、という意見である。また、内科医など多くの医者にも小児を診ることができるようなトレーニングを義務づけるべきだ、との声もある。これは素人考えであり、同じ機械なんだからと言って、車屋にテレビを見せるようなものである。もしくは車屋もテレビを直せるようにトレーニング、という話だ。
4つ目に、そもそも当直の体制がおかしい、ということである。日勤の次に当直がありそして日勤へ戻る。朝8時から働いていたとして、翌日の夜8時まで36時間連続で働くのも珍しくないという。看護師並みの三交代を導入し、医者の給料を3分の1にするか医療費を3倍にするかだ。
5つ目に医療訴訟の問題である。割り箸の事件以来、専門外だとかであっても、医者である以上司法的に責任が問われることとなった。アメリカでは訴訟の費用を賄う保険のために、収入の3分の1を充てているらしい。そうすると、わざわざ夜中に起こされて、小児科以外の医者がうかつに子供など診ようものなら、何かあったときにいくら請求されるかわからない。最初から断るのが一番である。ぐっすり眠れる。「良きサマリア人法」という、緊急時に施した医療的処置が仮に失敗しても責任は問われない、という法律の制定が密かに求められている。
個別のケース(病院の立地条件、その病院の医師の体制)にならない部分でもこれだけ論点がある。問題は、病院にかかる側がこれらの問題をほとんど知らないということではないだろうか。
「『心で起きる身体の病』が心身症である」という紹介文がある。身体的不調の原因が精神的な部分にある、と言ってもいいだろう。私は鼻炎持ちである。いわゆる「花粉症」と同じメカニズムで、花粉に限らず、ダニ、ほこり、カビ、など何にでも反応する、と検査結果でもなっている。免疫系、つまり体全体を司る部分の異常なため、特に体調を崩しかけの時がてきめんにわかる。いわゆる風邪気味、風邪のひきはじめ、なんてものは、私の場合箱ティッシュの消費量で明らかになる。講義室に箱ティッシュを持ち込むことも稀ではない。
現在が、講義室に箱ティッシュを持ち込むまさにその時期である。思うに、これは体調的なもの、つまり睡眠不足だとか過労だとか、そうしたことが主な原因ではないと思われる。それが証拠に、昨日なんか一日寝て過ごしたのに(その前の土曜日も一日寝て過ごしたのに)全く改善しない。抗原、つまりアレルギーの原因となるものだが、秋口に急に花粉が飛び始める(ススキか?)のも妙だし、部屋は年中散らかっているし、特に今こうなる理由は特に思い当たらない。原因が他に思いつかないとなると、心理的なものが考えられる。
なんでも原因を心にするのは、安易かもしれない。でも経験的に、試験前には鼻炎はひどくなる。一番ひどかったのは大学入試前で、試験が終わったその日の夜には完全治癒した。その後、試験がつらくなるとともに症状も悪化し、試験が終わるとけろっとしている。わかりやすい。
それで思い出したのだが、自分が医者になろうと考えたひとつの理由は、そうした心身症に関わりたいと思ったからであった。医学的知識だけある医者ならいるだろう。しかし、そうした知識と心を診る力の両方を持っているような医者になりたい。そしてこの現代社会では、心が理由で体を病む人が増えてくるであろう、と。初心を忘れるところだった。
現在自分がこう悩んでいる。解決するにはどうしたらいいのだろうか?鼻炎のメカニズムにしたがって適切な薬を選ぶことは可能だろう。それに加えて何ができるのか?誰かに話を聞いてもらう。適切なアドバイスをもらう。ストレス解消をする。などなど色々あるが、どれも今の自分に対して著しい改善をもたらさない気がする。いったい何ができるのか?自問自答して、将来の自分の医師像につなげていきたい。
車にちょっとした故障が見つかると、またパソコンに不具合があると、とたんに「これはダメだ」と嘆きがちである。私に言わせれば、壊れないパソコンや車はない。壊れるものとしてつきあっていけばいいのに、と思う。そもそもこれだけの量流通しているもので、不具合が一個もない方が不気味だ。
原発のひびがどうとかもめているらしい。これも、そもそも原発は絶対に安全だという幻想に基づいていると思う。そんな幻想は実際にはありはしない。原発を受け入れるのならば、つまり原発で発電される電力を使うのであれば、その故障も受け入れなければならない。それなりのリスクを払った上で利益を享受すべきだ。
原発に反対するページをいくつか見たが、まず原発反対という目的があって、それに対して理屈をつけているように思われるものばかりだ。理屈を積み重ねていって原発に反対する試みは私はまだ見ていない。多くの反対意見が行き着くところはこんな所である。
原発がなくても他の発電方法でやっていける。これは火力発電など、地球温暖化に貢献すると言われる二酸化炭素をたいそう排出するらしいものに替えればいいそうだ。石油を輸出に頼る日本が、戦争などでそうした輸入ができなくなったら、ということについても全く議論には上らない。
太陽光、風力その他に切り替えるべきだという意見もある。第一にこれはコストが高くなる。コストが高くてもいいから原発をやめろ、というところまでまだ世論は達していない。第二に、安定供給が根本的に見込めないことがある。今日は曇りで風もないので電力消費はおさえてください、という現代社会ではあるまい。
電力消費量を抑えよう、という運動もある。しかしこれは「運動がないこともない」ぐらいで表現した方が適切だろう。詳しく書くまでもなく、この方針は全くの正論であると同時に、無謀なものである。資本主義経済であり、消費することによって成り立つこの現代社会では、こうした問題や多くの環境問題は頓座してしまうのだ。
原発に携わっている人たちが、こうした事件のたびに嫌な思いをするそうだ。普段得ているメリットには目もくれずに、何か悪いことがあるととたんに非難される。身勝手さにもほどがあるのではないだろうか。非難するならするで、電力消費量を原発分の3割減らしてから言ってもらいたい。そういう条件を付ければ、非難は激減するであろう。
インターネットが登場して、手に入れられる情報の量は莫大になった。かつては本に貴重な情報が載っていたが、現在ネット上で手に入れられない情報の方が少ない。もちろん例えば医学の教科書の載ってる情報を全てネット上で手に入れることなどできないが、用語一つであれば、一般の人向けに説明したものならたいてい載っている。そんな中、読み手側に求められる能力は、どれが信じてもよい情報なのかを見分けること、また自分が欲しいと思う情報をどうやって手に入れるかである。
一つには、検索エンジンを使いこなせるかがある。私がよくやるのは、googleで欲しい情報のキーワードを思いつくままに入れていき、該当件数が3桁になったら前から順番に見ていく。そこでそれなりのページに行き当たったら、今度はそのページにある言葉でもう一度検索をかける。そうすると該当件数は2桁になり、たいていより深いサイトにたどり着くことができる。
googleは被リンク数(とそのリンクの質)によって、順位が決まるらしい。このリンクというのが、情報量が過剰なこのカオスなネット上を歩く上で、有用な道標となる。もう一つの私が使う手としては、自分がいいと思っているサイトのリンクをたどっていく。もしくは自分がいいと思っているサイトの名前をgoogleに入れてしまう。そうするとそのサイトにリンクを貼っているページの中で、google的順位が高いものから出てくる。リンクを貼るとなるとページの雰囲気が似ていることも多く、なかなか当たりな場合がある。
多数決もよくやる。ある言葉とある言葉のどちらを使った方が正しいのか悩むことがある。そんな時検索をかけてみれば一発だ。より多く検索される方が正しい、もしくは誤用だがみんな使っている、ということになる。意外と面白いページにかかることもあり、当たり前すぎる言葉でも入れてみると発見がある。
2002年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2003年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2004年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2005年
1月/
2月/
3月の日常へ/
TOPへ戻る