最北医学生の2002年10月の日常

■2002/10/03 (木) 珍しく恋愛モード

あなたのことだけ考えているとか、いつもあなたのことを考えているとか、恋愛場面においてよく使われるセリフだ。しかし私に言わせると、これは非常に胡散臭い。いつもいつも考えていられるか、ってんだ。家事をしない専業主婦ならありえるかもしれない。しかし家事をしなければ主婦でもないか。

誕生日とかクリスマスにかこつけて、贈り物をするという風習もある。1週間後に神社に行くくせに何がクリスマスだ。喪中のハガキを出した人の多くは寺で葬式だし。全く意味わからん。それはさておき、何かにせかされるように、半ば強制的に行われる上記の贈り物は、心からのものにならないと考える。プレゼントと「誕生日」プレゼントは大きく異なると思うのだ。贈る気が年中あるなら随時贈っていればいいのに。ましてその額とかで愛情を評価されるようなことがもしもあるなら最悪だ。

助動詞「れる」には「自発」という用法がある。うどんと聞くと香川が思い出される、などと使う。そのように、自分がおいしいものを食べた時に、これをあの人が食べたらいいだろう、と思う。きれいな景色を見たときに、この景色を見せてやりたいと思う(もしくは一緒に見たいと思う)。自分がいいと思ったものを共有したいと「自然と」思えることこそが、冒頭の「本当にあなたのことを考えている」ことになるのではないかと思う。周りとの関わりではなく、自分の中から湧き出す感情が、最も大切にすべきものだと思う。

■2002/10/05 (土) オンラインとオフラインのバランス

パソコンがこれだけ普及し、ネットの環境がこれだけ整った現代では、直接会ったり電話をしたりというcommunicationの割合が自然と減ってくる。これはe-mailという媒体が、効率的でかつきっちり詰めた議論ができるものであるということも示しているのであろう。

現在13のメーリングリストに入っていて、そのうちいくつかは主宰している。今はちょうど4週間のテストの1週間前でいっぱいいっぱいなのだが、いくつかのMLで是非とも話したいことがある。そのためには膨大なエネルギーと時間が必要とされ、実生活を犠牲にすることすらある。端的に言うと、メールを夜遅くまで書いていて、翌日の講義中に居眠りすることのことである。今回で言うと、テスト勉強もしないでメールを書き綴ることにあたる。こう書いて気づいたがこの日記もそうだ。

需要喚起性という言葉がある。例えば車というものを持つことによって、行動範囲が広まり、ガソリン代を含めたさらなる需要が生まれてくることになる。単純に言うと車を買うという出費によってさらに出費が増える、ということだ。ケータイを手放せなくなった今の若者もそうだ。パソコンにもこういった要素はないだろうか。

パソコンにおいて、消費する多くは「時間」である。色々なサイトに出入りし、色々なメールを受け取り、それに対してリアクションを起こしていけば、それだけ関わる時間が指数関数的に増えていく。それと現実世界とのバランスを取ることも必要だし、パソコンで何かをすることが最終目的であるかのような行動には気をつけるべきだと思う。

ということで、これから一月あまり、試験のため更新を「意図的に」少なくします。これは2月の試験での失敗の原因の一つに、後から自分で見てあきれるほどのメールと日記があったことによる。時たま息抜き程度にしますので、よろしくお願いします。

■2002/10/07 (月) 平等とはなんぞや

 文部科学省の方針により、ゆとり教育が進んでいるという。そのため小学校から塾に通わせなければ本当に「ついていけない」状況が生まれ、しかもこの不況下でその塾のお金が払えない、という話も出てくる。そうした時に、経済格差がそのまま教育格差になるという問題が出てくる。と新聞にあった。

私に言わせればそんな小中学校の教育には非常に問題があるということになるが。とりあえずそれを認めるとすると、一流大卒の親の子どもがやはり一流大学へ、という階層ができてしまうことにもなる。これは平等と言えるのか、経済的に余裕がある家庭では時給2万とかの(名実共に)素晴らしい家庭教師をつけるとかいう選択は許されるのかどうなのか。本音と建て前、理念と現実の狭間だ。

医療の世界でも同じような問題が起こりうる。人の命は平等で貴賤の差なく..という理念がある。現在の日本の医療に関する保険制度はおおむねこの発想だ。誰でもが受けられる最高の医療を受けることができる。しかしそのため、医療が発展するにつれて医療保険は破綻、はまだかもしれないが、結構切羽詰まっているらしい。3時間待ちの3分診療の現実があったとして、お金は3倍出してもいいから9分診てくれとか、完全予約制で待ち時間ゼロ、でも保険はきかない、という病院はあってもいいのか。

全員が全て同じことが平等なのか、応分の負担をすれば同じじゃない方が平等なのか。哲学にも似て答えが出ない問題だ。

■2002/10/11 (金) 講義の意義とは

 私の大学には「シケタイ」と呼ばれる、学生による相互扶助制度がある。シケタイとは試験対策の略だ。

 まず学年全員を各科目の担当に振り分ける。「担当」の科目については、万難を排して講義に出席、板書はもちろん、先生が口で言ったことのメモ、スライドのデジカメによる記録、進行の速い科目においては「ビデオ撮影」が登場して、家でじっくり復習する。

 その範囲で過去に出題された問題や国家試験の問題も解いてみる。解答解説も作る。わからないところがあれば先生に質問したり、教科書を何冊も調べたりする。こうして重要ポイントをまとめて、試験に対して「必要十分」な情報が載った「資料」を手に、各人は勉強という名の暗記に入る。

 本来この資料は「講義の要約、ダイジェスト」という位置づけだが、今回私が「担当」になった科目について、事前に資料を作っておいて講義に臨んだ。教科書も4冊くらい調べたし、色々な問題で何度も取り上げられている箇所もチェックし強調した。

 その結果、今日行われた講義は、その資料で「必要十分」なものであった。ふと気づいたが、それならば最初から講義がなくたっていいのではないだろうか?

 世間の医学教育は「講義」から「自学自習」へと動いている(流行っている)ようだが、講義の意義を考えさせられる出来事だった。

■2002/10/19 (土) 第1Q終了

 とりあえず試験の第1週目が終わった。バスケットは10分×4Q行うが、それで言うと第1Q終了くらいだ。ただし延長戦の恐れは大いにある。できるだけ40分でなんとかしたいものだ。

 今回は非常に楽な気持ちで試験を受けている。理由は、前回の試験でなんとか進級したことと、今回は前回よりは勉強していることである。仮にうまくいかなくても、前回のようなフォロー(つまり延長戦)をやれば通るだろう、という思いもある。そもそも無駄に焦っても何も生み出されない。ダメになったらダメになってから考えればいい。

 試験と講義について考える日々が続いている。講義と試験と教官の意図が、学生の勉学意欲にどのように影響するのかを考察すれば、軽く論文になるかもしれない。医学教育学会員として、系統講義が終わった段階で何か書いてみようか。

 一例を挙げよう。教授の方針で、試験は講義の範囲から逸脱し(つまり難しすぎる)、試験監督の現役医者の先生方でも「これ難しいね」とか言ってるような問題を出す。学年の半数以上に再試験を課す。そんな科目がある。教授いわく「学生に勉強させるため」ということで、試験を難しくするほど学生が勉強するものだと思っている。

 学生の時間は有限である。その時に出題される範囲がある程度予想ができる科目の場合はそこを勉強する。予想ができない場合は、全てを勉強すれば素晴らしいが、コストパフォーマンスの面から「やってもやらなくてもどうせ解けないだろう」という、難しいがゆえの考えが生まれ、結局勉強量は減少する。ちなみに講義もなかなか素晴らしく(皮肉)学生の評判も言うまでもない。そしてみんなで悪い点数を取って、なんだかんだ言って進級してきた。

勉強させたい教官 → なんらかの方策 → 勉強しない学生 という図式は悲しむべきだ。しかしそれを変えるのは当事者である教官か学生か、もしくは強力な外圧かである。不勉強家の自分として、何か恩返しができないかと考える。せっかくの機会を非効率的に学んできた自分がちょっと悔やまれる。

■2002/10/20 (日) ボーナスでも

 私はフチなしメガネをかけている。レンズは替えているが、気づけばフレームは7年くらい同じままだ。フレーム、と言ってもフチはないのでちょっと矛盾している気もするが。

 今日メガネ屋に行き、ゆるんだネジなどを調整してもらった。見え方も、重さの感じ方も大きく変わってくるので、メガネの正しいセッティングは非常に重要だと考えている。意外とおざなりな人が多い。バシッと決まった服を着ていて、メガネがずり落ちてしきりに上げている人はこの上なく格好悪い。私はまるっきり反対だ。かといってこの上なく格好いい、とは絶対言えないと思うが。

 その後新しく出たフチなしメガネを勧められた。1.6gだかなんだかのプラスチックでできたタイプのものを以前勧められていて、それは確かにいいなぁ、と思い、なかなか買うきっかけのないまま今日に至った。そして今日勧められたのは、チタンでできたフレームで、さらに軽く、機能(つまりかけ心地)もさらに良いと感じた。値段も4万が6万とかで、さらに高くもなっていたのだが。

 なるほどと思い、テストが終わったら購入を真剣に考えようと店を出ようとした。そこで店員さんに

「ボーナスでも出たらよろしくお願いします」

と言われた。

 まだ私24ですが、と言おうとしたが、よく考えれば24才でボーナスをもらう人の方が圧倒的に多いだろう。でも私は試験だ。この年でなお、親のスネをかじり勉強できることは恵まれたことだろう。つらいなんて言ってられない。でもつらい。

■2002/10/23 (水) まさに日常

試験が15:00に終了。帰宅後、次の試験のためのプリント類が揃っているかを確認。なければすぐに複製を試みる。さっそく勉強開始、しかし寝不足のため長くは続かず。17:00就寝。19:00頃から目覚まし時計と格闘し、なんだかんだ言いながら20:00起床、勉強再開。

パソコンを開いて最新情報(あそこが出るらしい、この分野は出ないらしい、など)をチェック。勉強の手が進まなくなった頃に食事。一日に一度はまともなものを食べようと、金を惜しまずに外食。特に野菜をきちんと食べられる店を厳選。

勉強が眠気のために進まなくなってきたら、カフェインの摂取を行う。カフェインと言えばコーヒーが有名だが、紅茶にも同じ程度含まれ、実は緑茶の方が多い。そうして気力を振り絞りながら明け方まで勉強継続。04:00とうとう力尽きる。

07:00目覚ましにはっとして、つけっぱなしのラジカセと部屋の明かりに即座に勉強再開。朝にはパスタ入りのスープが温まっていい。最後の悪あがきとも言われる、しかし合格には不可欠な時間を過ごす。短期記憶万歳。昼食には、栄養バランスを損なわないで、かつ簡単に食べられるものが買い込まれている。最近はレンジで3分温めるリゾット・雑炊の類が第一選択だ。

13:00終わらない〜と叫びつつ学校へ、100分格闘して、再び次の戦いへと移る。(以下最初へ戻って繰り返し)現在7科目終了、残り11科目。ただし再試験が最大13科目ほどつく可能性がある。まだまだ序盤戦。

■2002/10/25 (金) 9/18科目終了。再試1科目該当。

自分の学生番号の「4」を「2」だと見間違え、再試験に該当していないやラッキー、と思っていた科目が、実は該当していたことが明らかになった。結構へこんだ。ただ落ちるよりも、持ち上げてから落とされる方が痛い。

4の書き方が悪い。

といっても始まらないので、とりあえずそこまで視野に入れた勉強をして、一つ一つやっつけていくしかない。やっつけられるのはごめんだ。

そうか。メガネがチタンじゃないのもいけなかったのかもしれない。今後につなげよう。

■2002/10/26 (土) 目に見えないこと

バイト先の塾で、16人いたクラスの5人がやめたらしい。私が担当をはずれたことが原因とのもっぱらの噂だが、後任が(少なくとも私よりは高給取りの)職員であるため、何とも言えない気分である。これが元々私の力によって16人になっていたとしても、私がやめてみるまではそれは証明されず、そして評価されないという現実がある。

理不尽さをおぼえるものの、このようなことは世の中にはたくさんあるだろう。目に見えて「ある」ものを評価するのは易しいが、「ない」という悪い状態がない、ことも「ある」ことと同様の価値を持つのかもしれないが、そこまで気づける人は少ない。専門家というものはそこに気づける人だと思うのだ。

■2002/10/27 (日) ある一般市民とある医学生の会話

「ブルーベリーって目にいいんですってねぇ。あれって本当に効くんですか?」
「いやー、本当に効くんだったら眼科医が薬として使うと思いますよ」

「鼻炎で鼻水が止まらないときに洗面器に水を張って鼻から水を吸い込むのって、つらいけどやっぱり効きますかねぇ」
「いや粘膜の表面のことを考えると逆効果だと思うんですけど」

「末期癌で治療法がなくなった患者さんは、月平均5万円ほど民間療法に投資しているそうですね」
「本当に治るんだったらそのなんとか茸を医者が使いますよ。第一世界中の癌研究者は一気に失業じゃないですか」

「○○は血液をさらさらにする効果があっていいらしいじゃないですか」
「あーあれ、同時に水分いっぱい摂って血を薄くしてるだけらしいですよ」

そんなに薄い血がいいのなら、水でもがぶがぶ飲んでいれば、血液中の水分が多くなり血球成分の割合が少なくなる。これをHt(ヘマトクリット)が下がるという。単なる貧血だ。血液が固まりづらいのがいいのならば、ワーファリンでもヘパリンでも(抗凝固薬、血が固まるのを防ぐ)飲んでればいいんだ。その代わり出血して血が止まらなくなっても知らないぞ。

※ヘパリンは注射で使います。口から飲んでもダメです。

第一、医者だって患者を治したくてやっているわけで、それなりに勉強して治療を行っているわけだ。少なくとも、そっちの方がいい方法だとわかっていれば採用するだろう。

副作用がないというのも疑わしい。なんらかの作用を及ぼす力があるからこそ、効くとか副作用があるとか言えるのではないか。私であれば、副作用が全くない薬には作用も全くないと考える。現在の全世界の標準的な治療法でもないのに、良い効果だけあって悪い効果が全くないものの存在は、私なら認めない。

■2002/10/30 (水) テスト期間中の「流れ」

試験は現在進行中だが、仮にA,B,Cの3つの科目があったとする。

Aのできが悪く再試該当となった。気分も落ち込み(柄にもなく)ネガティブ思考でBの試験勉強に突入した。実際Bの試験をやってみると思いの外できて、気分を良くした。そしてその気持ちで調子よくCの試験勉強に突入する。

このように、前の試験のできや結果が次の試験に影響しているのに気づく。しかし、冷静に考えると、A,B,Cの3つの科目は全く独立で、互いに影響するはずがない。全く非論理的な行動をとっているが、これこそ人間の弱さなのかもしれない。