最北医学生の2003年2月の日常

■2003/02/01 (土) 市場

ひょんな拍子に市場で買い物をした。市場というか、スーパーの前の時代に栄えていた、八百屋や魚屋などの個人商店が軒を連ねる一角だ。店の人とのやりとりが良かったと思った。買ったのは100円の長ネギなのだが。

■2003/02/02 (日) 食欲亢進

元々大食いだが、昨日今日と食欲が亢進している。他人より多くの量を多い回数、とはどこかの診断基準にもあった。テストのストレスと考えられなくもないが、あまり経験しないだけに(先週とかは何でもなかった)どうしたものか考えている。でもな、別に病気ではないか。

■2003/02/03 (月) インフルエンザと相対評価

巷ではインフルエンザが流行っているようだ。試験をやっている教室の中にも、マスクや咳の音、「39度8分」と言った台詞が散在する。試験が相対評価であれば、そうした人たちが思うような勉強ができないほど、自分が合格する可能性が高くなる。ここで他人の不幸を願ってしまうあたりが、不必要な相対評価のデメリットである。もう一歩間違うと他人を陥れたり非協力体制が人間関係にも悪影響を及ぼすのだ。

■2003/02/04 (火) インターネット人口

インターネット白書の推計によると、日本のインターネット人口は5000万人を超えたという。これからの時代は、有限の自分の時間を、無限のサイトの中からどのサイトに割くべきかを判断するのが重要になってくるだろう。この日記とて例外ではない。試験が終わったらまたテキストを書こう。

■2003/02/05 (水) いいサイトを見つけるために

ネット上の無限のページを彷徨うために、リンクという方法がある。今見ているページの作製者が「いい!」と思うページへ飛ぶことができる。これを繰り返していけば、限りなくいいサイトばかりに巡り会えるというわけでもないが、ある程度の内容が保証される。

日記サイトなどのリンク集もある。日記の同好者が集まり、ジャンル別等に分かれた更新報告から「似たような系統の」日記サイトにたどり着ける。webringもその一種だろう。欠点は自己申告を基本としているため、系統は似ていても、質の保証ができないことにある。何せ5000万人の時代なのでピンキリである。

それを補うもう一つの視点として、アクセス数がある。要はカウンターがどれだけ回るかだ。多くの人が見るサイトはおそらくいいサイトであろう、という判断である。二者を合わせたのがアクセス庵である。これは始まったばかりだが面白そうだ。

■2003/02/06 (木) 開かれた、閉じられたサイト群

一昨日の日記には、日本のインターネット人口が5000万を超えたということを書き、昨日はそれらのつながりについて書いた。サイトを開設してから3ヶ月ほど経つが、面白いことに気づいた。

検索エンジンに「ちりんの部屋」と入れてみると、思わぬところからリンクされていることがわかる。最近では「はてなあんてな」に登録してくれている人もいるようだ。そしてやはり興味があるのでそのサイトに行ってみる。そしてそのサイト/あんてなから飛べる他のページを見ると、実はそのサイトも知っていたり行きつけだったりするのだ。つまりA→B→Cと行ってるはずなのにAとCにも関係があったりする。

私が行くサイトの昨日のアクセス数を見ると、勝谷誠彦の××な日々。が6000ぐらい、BE ANGELが3500くらい、DDIポケットで音声通話が一番さ〜  ーH”が10000くらいと、サイトの中ではかなりメジャーだと思っていたが、5000万分の1万=0.02%である。全国紙と呼ばれる新聞は片手で数えられるだろうから、ネットの世界には桁違いの多様性が存在していることになる。

そんな多様性にもかかわらず、サイト同士のつながりは存在する。おそらくは、あるサイト群とそれに対応する読者群があって、その中の人の間で深いつながりを持っているのだと思う。類は友を呼ぶのかもしれないし、インターネットによって世界を広げているつもりであっても、実は人間の好みというものはそう変化するものでもなし、別段新しい世界には出会っていないのかもしれない。

試験が終わったら、自分用のあんてなの作製と、リンクの見直し、他人のあんてなでサーフィン、面白そうなサイトの管理者へメールなど送ってみたいと考えている。

■2003/02/07 (金) 偽留年と偽進級

ある検査、例えばガン検診を例に取るが、その検査で陽性になった(引っかかった)が実際にはガンじゃなかったという場合がある。また、結果が陰性だった(引っかからなかった)が実際にはガンだった、という場合もある。前者を「偽陽性」と呼び、後者を「偽陰性」と呼ぶ。もちろんどちらもないに越したことはないが、残念ながらある程度の割合でこれは存在する。

これを留年に置き換えてみると、留年すべきでない人が誤って留年してしまうことを「偽留年」と呼び、留年すべきな人が誤って進級してしまうことを「偽進級」と呼べる。実際留年してみての感想としては、試験の成績からみたときに「偽留年」というのはかなり少ないと思う。しかし、偶然とかいろんな要素がうまくいって進級してしまった「偽進級」は結構いるような気がしている。

ガン検診に戻り、偽陽性と偽陰性はどちらの罪が重いかというと偽陰性である。偽陽性であれば、精密検査の結果やっぱり異常ありませんでした、と言えば、「余計な心配させやがって」で済む。しかし検診を受けて「異常ありませんね」と言われた人は、その後しばらく検診を受けないだろうし、何かちょっとした症状が出たときでも「この間異常なかったんだから気のせいだろう」と流してしまうことが考えられる。

同様に、偽留年と偽進級では、当然「偽進級」の方が罪が重い。一番問題なのは、偽進級を減らそうとした教官が「締め付けを厳しくする」という勘違い甚だしい行動に出て、誰の利益にもならないばかりか、偽留年/偽進級が出る確率を上げてしまうことだ。

■2003/02/08 (土) 試験は終盤戦

試験が2週間終わり、前回はあと3週間だったが今回はあと1週間である。だいぶん心持ちが違うし、ひょっとするとそれによって試験への取り組み方も違うかもしれない。日程で人生が変わるのもまた現実だろう。

そんなわけで意地でも風邪をひけない状況なのだが、どうも喉の違和感、(まだ)痰の絡まない咳、その他の状況を総合して、風邪のひきかけであると判断した。A型だかタミフルだか知らないが、関わり合いになって試験では不戦敗になるのはまずいので、すみやかに現在の勉強を放棄し睡眠にはいった。

結果、昼寝にもかかわらず8時間も寝てしまって現在午前2時。おそらくこれで体調的な微細な不備は、無視できるレベルになったことだろう。あとはこの「失われた8時間」をどう取り戻すかだ。

■2003/02/09 (日) ベッド上安静

階段で8階まで上がると息は上がり筋肉痛になる。ここ数ヶ月ベッド上安静のような生活をしているからだろう。正確には、トイレや風呂などは動くし、試験にも行くが、車で移動している分には全く足には負担がかからない。リハビリが必要だが、あと1週間。

■2003/02/10 (月) タブプラウザ導入/ハードよりソフト

Donut Pというタブブラウザを入れた。Internet Explorerを扱いやすくしたサイト閲覧ソフトだ。色んないい点があり、そしてそれの多くを私はまだわかっていないのだろうが、動作が軽いということは確実に言える。WWWCという更新チェックソフトと合わせて、見たいサイトだけを、今までよりは格段に少ない時間で見ることができるようになったと思う。

よく「新しいパソコンが欲しい」とか言いがちだが、じゃぁ「今持っているパソコンの能力を最大限引き出しているのか」と言われて自信がある人は少ないだろう。「何を」使うのかよりも「どう」使うのか、つまりハードよりもソフトが実は重要で、ハードの目覚ましい進歩に比べると、人間の方はあまり進歩していないのかもしれない。

すると何が必要かというと、人間の教育・情報の確保である。これからはどんなにすばらしい機械があっても、どこにでもその機械は安価で出回るようになり、それを使いこなす人の方に価値が出るだろう。初心者のためのパソコン教室、は既にあるが、私のような自己流中級者のためのワンステップを教える人/機会はないだろうか。

■2003/02/11 (火) 世間の目

30歳だと「若いお医者さんに見える」という話を聞いて、確かにそうかもと思った。

■2003/02/12 (水) 全滅

今回留年した人と前回留年した人の合わせて8人、全員に内科の再試がついた。この8人はカリキュラムがなんとかで基準が違うという噂もあるが、落ちたには変わりない。

■2003/02/13 (木) 誰もに必要な知識

薬に添付された注意書きに副作用について十分な説明をしていなかったのは不当だとして裁判を起こした人がいるようだ。もしも「説明が不十分だ」という訴えが認められれば、「レンジにネコを入れてはいけません」並の注意書きの束が、薬につくことになるだろう。するとそれを読む人はますます少なくなり、逆に消費者側の不利益にもなるだろう。

薬に副作用があるのは当たり前だし、病院に行けば全ての病気が治るわけでもない。大学病院などの大病院は、よくある病気の人が行くのには不適当だし、内科と小児科は、野球とサッカー以上に別物だ。そうした誰もが知っていると良いことは、公教育、せめて高校レベルで必修にするべきだと考える。

■2003/02/14 (金) 試験終了

本試は今日で終了したが、重たい再試が残っている。気長に勉強。今日は寝る。

■2003/02/15 (土) じゃんけんの確率とクローン羊ドリーの寿命

めちゃくちゃじゃんけんが強いと言われる人がいたとする。1回目に負けた。2回目も負けた。3回目も負けた・・・どの辺りでその人がじゃんけんが強いと認めるだろうか。確率50%だから1回目と言う人はいないだろう。「いやいや」とか言って2回目はやるだろう。3回続けて負ける確率は12.5%であるが、8回に1回は(8人とやれば1人とは)起こりうることである。何回目までやったら納得するだろうか。

実はこれはただの価値観の問題である。しかしそれでは議論ができないので、統計学では5%ないし1%を下回るものを、偶然ではなく統計的に意味があるもの、としている。じゃんけんで言うと4回で6.25%、5回で3.125%、6回で1.56%、7回で0.78%なので、5回とか7回くらい連勝したら意味があることにしようよ、という共通の約束事とするのだ。

その観点から言うと、クローン羊のドリーの寿命がどうだったとしても、1匹では何も言えない。じゃんけんの1回目と同じだからだ。5匹が5匹とも、か、10匹が10匹とも、のどこで何かを言えるかは、ただの価値観の問題である。

一般人もそうだが、特に医者などはそうした確率的な事象を捉える力を持っている必要がある。しかし、実際に起こることを個別に見るとそれは常に0か100かであり、例えば癌の患者さんに「5年以上生きる人は70%です」と説明しがちだが、「先生じゃぁ私は70と30のどっちに入るんですか?」と聞かれるのがオチである。

このように、大きな視点の確率と個別の視点の問題は、両方を使い分ける必要がある。ただの1匹の羊であるドリーについて研究することはもちろん重要で、それは「1匹では何も言えない」という言葉とは全く矛盾しないのだ。

■2003/02/16 (日) 現役生へ/浪人・留年生へ/同時に自分へ

昨日の日記もそうなのだが、私は数字を扱うのが得意だ。数学的に等価であることを見分けたり、予算を大まかにつかんだり、統計の嘘を見抜いたりするのが得意だ。他に、高校生に英語を教えていることもあって、その辺の大学生よりは英語ができる、ような気がする。こんな日記サイトを1年以上続けているので、パソコンで文章を書くのも得意かもしれない。WordやExcelもその辺の人よりは使えると思う。

自分には何も核になるものがない、とある後輩は言った。彼は現役で医学部に合格し(留年もせず)、端から見れば成功者である。しかし私のような人間と話をしていて、全国的な友人関係の広がりや、知り合いの多様さ、上に書いたようなちょっとその辺の人よりはできるぞ、ということなど、自分にないものに気づくのだ。

現役生は、自分ができるというのを基本としていて、しかし時折「自分はできない」という思いにおそわれる。一方大学受験で浪人を経験している人は、むしろ自分ができないことを基本にしていて、しかしそれだけではつぶれてしまうので「自分はここができる」というものを発見し、それをidentityとして生きていく。

人生に無駄な時間などない、という意見に私は賛成だ。社会的に見て浪人や留年は足踏みだが、少なくとも自分を見る目は育っていく。出会う人間の数も増えていく。そしてそれは心のひだをより深くしていく。時間というものを自分に多く向けられるだけ、今の私は恵まれていると思う。でも、どちらが優れているとかではないのだ。

■2003/02/17 (月) 結果=力×発揮率

私の大学の試験は、原則6割が合格ラインである。この問題点は、4割はわからないまま進んでしまうということだ。6割の病気しかわからない医者を想像するとかなり悲惨だ。また、単に試験が難しいことが理由だとしても、同じ試験を6割で通った隣の人との間で、最悪の場合2割しか知識を共有できないことになる。本来はもっと正答率の高い、絶対に覚えておかなければならない部分を出題し、例えば8割を切ったら落とす方が、均質化されるし理にかなっている。

何にでも当てはまるのだろうが、結果を出すためには、力を持っていることと、力を発揮することが必要である。持っていない力は出せない。覚えたことを思い出せなければ覚えていないのと等価だ。これを6割がラインの試験に当てはめると、8割の問題に答えられる力を持ちつつ、その力の8割を本番で発揮すれば64点が取れて合格だ。私などかなり発揮率が低いので、合格のためには8割ぐらいの知識が必要だということに、結構しくじったと思っていた試験が通っていたのを見て今さら気づいた。

そう言えば、発揮率が低いのは今に始まったことではなかった。大学入試の浪人時代に、どんな得意科目でも満点を取ったことがなかった。解ける問題はどんどん増えていくものの、間違う問題の数は減らない。結果一部の科目を除き、知識は飛躍的に増えたが点数的には伸び悩んだ。

発揮率がそう変わらないものだとすると、対策は知識の量を増やすしかない。幸いこれは努力でなんとかできる類のものである。結局やらねばならないし、やればいいのだ。(再び)そう言えば、これは塾で「先生、私頭悪いから」と愚痴る生徒に対して「いいから努力しろ」と追い返した構図と同じである。情けではないが、情けは人のためならずという心境である。

■2003/02/18 (火) 知り合いがいるという力

その人が何を持っていて何ができるのか、ということは当然その人の力を表すことができる。しかしそこにもう一つつけ加えたいのは、どういう人と知り合いかということである。自分が力を持っていなくても、力がある人と親しければ間接的にその力を持っていると言うことができるだろう。自分の力は、自分ができることと、他人が自分のためにやってくれることの和である。

こう書くと、単なるコネじゃねぇかと言う向きもあるかもしれない。そう言ってしまえばそうなのだが、縁故採用されたり談合したりではなく、情報を得るとか実態を知るなどの無形のものの方が、罪もなく、割合としても大きいと考える。人を紹介するであるとか、望むことを手に入れる方法を教えるとか、ほんのちょっとしたとっかかりを持てるように第一歩を導いてくれるだけで、かなり物事が楽になる。

私もできるだけ、そういったつながり、特に学外の人との交流などを多く持とうとしている。そしてそれを逆に行った出来事が今日あった。他大学にいる高校時代からの友人の依頼で、私の大学にある論文をコピーして送ったのだ。私にとっては10分もあれば終わることだが、その友人が他の手段でそれを手に入れることを考えると、もっと面倒で時間もお金もかかるだろう。実体は、私が全くお金を要求する気にならないような些細なことであってもだ。その些細なものこそが、実はその人の力になるのだと思う。

■2003/02/19 (水) 信頼というレッテルは「背中で語る」の積み重ね

色々な原因で信頼感をなくしている人がいる。大学からのアクセスもあるので本人が特定されるような詳しいことは書けないが、あーあの人ね、などと名前を出しただけでその人の行為が想像されてしまうことがある。その多くはnegativeなレッテル貼りで、しかもその決めつけのnegativeは結構当たっていたりするのだ。

信頼感の形成は、多くは一見どうでもよいことに見えるこれまでやってきた多くのことの積み重ねによると考える。あの人はいい加減な人だとか、すぐサボるとか、面倒なことも引き受けるだとか、他人のために自分を犠牲にできるとかである。それとこれが全く関係ないことだとしても、そのことが当時誰にも迷惑かけていなくても、そうやって何年間も積み重ねられたその人のイメージが、現在のその人の信頼感へつながる。

子育てをするときの「背中で語る」と似たようなものであると推測する。口で「これをやったらダメだ」「こういうことをやれ」といくら言っても、親が普段していることを子どもが見ている中でその言うことを聞くべきだと思えば聞くだろうし、逆に見ているだけで言わなくても伝わることはあるだろう。

このレッテル張りはnegativeなものにとどまらず、positiveなものもあるのだろう。私が今新たに置かれた学年でどのようなレッテルを貼られるかには、やっていること全てが関係してくると思う。だからといってあからさまに何をするわけではないが、自分のことだけを考えるような行動・言動は避けるべきだと思っている。目先の利益だけ見て行動しがちだが、それはいずれ自分に返ってくるのだ。

■2003/02/20 (木) 薬害再発を懸念する、新聞というメディアの将来

最近新聞を読まなくなった。新聞の良さはもちろんあって、確かに読んではいるわけだが、こうやってネットにつないで夜中に知ったニュースが、印刷され手元に配達され、朝は時間がないので帰ってきてから読んだりすると20時間くらいは遅れてしまう。もう一つはニュースの捉え方の甘さがそう思わせる。

世界的な薬害を引き起こした鎮静・睡眠剤「サリドマイド」が、骨髄腫治療などに使われている問題で、患者が死亡後に家族が残った薬を医師の判断なしに服用したり、知人に譲った例があることが、医療法人財団「コンフォート病院」(横浜市)の調べで分かった。同病院は患者や家族に不要となったサリドマイドの返却を求めているが、「法的根拠はないので、医療機関だけの対応では限界がある」と国のルール作りを求めている。

(勝手に中略)

サリドマイドは1950〜60年代、服用した妊婦から手足の短い子供が生まれるなど大規模な薬害を起こし、各国で医薬品の承認が取り消された。その後、血液のがんである多発性骨髄腫などに効果があることが分かり、日本でも英国などから個人輸入して患者に投与する医師が急増。しかし、使用・管理方法は医師や医療機関によって違い、薬害再発を懸念する声が強まっている。(毎日新聞)

私に要約させれば、(1)現在サリドマイドを治療に使っている人がいる。(2)サリドマイドでかつて薬害が起こった。(3)他人の薬を勝手に使う人がいて薬害再発が心配だ。である。国のルールづくりも病院の対応も医師や医療機関の管理方法も、どれも本質的には関係ない。(3)の勝手に使う人が悪いのである。薬害は確かに悲惨だし、その再発を望まないとの意見にも賛成するが、他人に処方した薬を勝手に飲まれるところまでは面倒見切れないだろう。

地下鉄の中で放火があることとか、ビルに飛行機が突っ込んでくるとか、そうしたことへの対応ができないのと同様に私には見える。誰かを悪者にしたり、国の責任を問うたり、懸念を広げるのは得意だが、じゃぁそれを起こる前から警告していたのか、きちんと理にかなった代案があるのか、姿勢は首尾一貫しているのか。そのあたりについては新聞はどれも眉唾だし、ニュースはheadlineだけ読んで、解釈はweblogの切り口が鋭いところで読めばいいと思うようになった。

新聞に将来があるのか。それは、新聞が他のメディアにないものを新たに持つことができるか、にかかっていると私は考え、そしてその新聞にしかないものは「ものの捉え方」であろうと考えているのだが、骨髄腫の患者さんの治療(メリット)には全く触れずに懸念の声(デメリット)を強めて終わっているのだった。片方だけなら誰でも見られるのに。

■2003/02/21 (金) 集団の雰囲気が個々のskillに与える影響

諸般の事情により、数ヶ月前と同じOSCEという「お医者さんごっこ実習」を(違うメンツと)やっているわけだが、随分と差があるように感じられる。技術的なことではなく、患者さん(患者役の人も学生だが)に対する接し方が違うのだ。私が見たのは各々の学年の一部の人なので、学年と学年の間の差とは言えないのだが。

どう違うかというと、「これから首のリンパをさわります」と「これから首のこの辺り(指す)を少し押して診察しますがよろしいですか」という感じである。常に中学生やお年寄りにもわかるような言葉かけを心がけていたのと、「とりあえず試験官に何するのか宣言しとけ」というノリの言葉では、全然次元が違う。しかしまぁ、そんなに親切にしてもしなくても、試験の合否にはそう影響しないだろう。

試験の合否に影響しないからやらない、というのはいずれ痛い目に遭いそうである。医者の個性については、そここそ技術だろうと前回書いたが、今回は集団としての雰囲気の影響について考えた。練習している時に、患者さんを気遣おうという雰囲気にないと、その能力は身につかないまま実習は終わってしまう。「そのくらいの言葉遣いでいいんじゃない」ということになれば、それ以上の言葉遣いは身につかないまま終わってしまう。グループに分かれてやる実習においては、同じグループのメンバーの素養に大きく左右されてしまうのではないかということである。

医学教育学会員である私として、最近流行のtutorialという少人数グループ学習は盲目的にいいものだと思ってきたが、実際はグループによってばらつきも大きく、そしてそのばらつきの平均を取った時に、どちらが優れているとは一概には言えないと感じた。画一的な押しつけの教育ではなく、一人一人の自主性を尊重するのがいいと思っていたが、そうでもない。やる気のある人はより伸びるし、やる気がない人はより楽できる。

でも実は、これは単に私の周りの人間のmotivationとかpersonalityに依っていた問題かもしれない。悔やむのは今日始まったことではないが、実習を一緒にやる際の「いい」周りのメンツと別れることになったのは、個人として非常に悔やまれることである。

■2003/02/22 (土) 質っぽさを表す数値(=量)について

量をそのまま集計することは簡単だが、その質を同時に評価するのは難しい。今日作ったはてなアンテナを例に挙げる。自分がチェックするサイトと他の人がチェックするサイトがいくつ重複しているかによるおとなりアンテナというものがあり、似たようなアンテナをランキング表示できる。しかし、50個登録してあるアンテナと10個重複するのと、100個登録してあるアンテナと10個重複するのでは意味が違う。500個くらい登録すれば10個くらいは重複しそうなものである。50個中10個と10個中2個は同じ意味かもしれないし、たまたまかもしれない。

googleでは、被リンク数が多いサイトほど上位にランクされるという。しかしこれも同じように数だけでは正確な意味をなさない。そこで被リンクの質を判断する指標として、たくさんのサイトに闇雲にリンクを張っているサイトからのリンクか、少数精鋭でリンクを張っているサイトからのリンクかを加味しているらしい。当然後者の方が価値は高い。

tutorialというグループ学習の場面で、たくさん発現した人が高く評価されるという場面がある。勢い、内容はさておき、発言は短めに、積極的に発言することになったりする。それが全く本質的ではないにも関わらず、とりあえず数を評価すると言われればそう対応せざるをえない。

論文の世界では、インパクトファクターと呼ばれる、どれだけ引用されたかを示す数値が、その論文の価値を決めるという側面がある。今はそれが雑誌単位で、逆にその雑誌に載ることが価値を持ったりしている。しかしこのご時世であるから、全ての論文をネット上に載せて、引用は直リンクにして、個別の論文に対しての数値を出すことも可能であろう。リンク先の論文が多く、それも評価されるものであれば、元の論文の価値が上がる。

本来、質と量は反意語であり、質を表す点数(=量)というのは成り立たない表現だ。しかしそれをふまえた上で、質っぽさを表す数値(量)の攻防は、各所で続いている。それらの妥当性を判断することは、コンピューターでは対応しきれない、そして人間でも誰にでもはできない力だと思うのだ。

■2003/02/23 (日) 電力不足に原発反対していた人はどうする

昨年9月23日の日記で指摘していたが、原発問題は電力不足を引き起こすという懸念が実際に出てきた。

関東地域では3月以降、電力の深刻な供給不足に陥る恐れが出てきた。原子力発電所のトラブル隠し問題を受け、東京電力は同月末までにほとんどの原子炉を停止するが、運転再開については依然めどが立たないからだ。今後、関東地域に予想以上に厳しい寒波が到来した場合、供給が間に合わず大停電が起こる可能性もある。 (時事通信)

こういう話題が出ると、まずは他の発電方法をどうとか言うわけだが、他の方法の方が優れているのならば、はなっから原子力発電などは使いやしない。安定供給とかでは自然に頼る風力などは劣るし、火力に関しては大気汚染の問題の他、中東情勢も楽観を許さない。少なくともコストはかかるはずだ。原発反対の運動をしていた人たちにとって、原発を停止させて停電が起こったら、それは成功なのだろうか。

医療の場面においても、つらくない治療を希望したり、副作用のない薬を希望するのはなるほど当然のことであろう。しかし現実には、あるものを採用すればいい面と悪い面の両方がついてくるのであって、そのメリットとデメリットを天秤にかけてどうするかを決めるわけだ。清濁併せ呑めるのか、原発の「濁」の部分が今迫ってきている。

■2003/02/24 (月) html採点から考える従うべき規範

とあるページでhtmlの採点をしたところ、このTOPページの点数は−194点だった。100点満点で。

コメント:ため息のひとつもつきたくなるような文法でした。このように、論理構造への意識が希薄なウェブマスターが(以下略)

これは、英文法マニアを自称したり、高校時代には数学科への進学を考えていたとか、CPUが12MHzだったころにN88-BASICとかでプログラムを組んでいたり、独壇場と独擅場の違いに敏感になっていたり、タグを手打ちにしている私としては許されざることではあるのだが、どうやら修正はアクセス解析部分を除けばそう難しくはなさそうである。

htmlの文法的に正しいことがどれだけの意味を持つのかは色々意見があるところだが、あまりにも多くの不適切が世に氾濫し、そしてそれによってあまり困っている人の話を聞かないと、いったい何が不適切なのかを考えたくもなる。

しかし、そうしたことが医学の分野で展開された時の、あるあるとかおもいっきりとか血液さらさらとか、こっちから見るとちゃんちゃらおかしいようなことでも一般の人が安易にそれを信じてしまう、という現象と同じく、みんながやっているからいいんだ、という主張はかなり妥当性を欠く。

そうした違いがわかる人が専門家と呼ばれる人であり、専門家には敬意を払わなければならないと思っている。従って、htmlの文法ももう少しお勉強して、せめて点数がプラスになるくらいまでには修正しようかと思う。しかし、私が作る際に参考にした本やページ、某アクセス解析による「これをここに貼れ」というタグなどは、専門家ではないのだろうか。やはり使い手の問題なのか。

■2003/02/25 (火) docomoの上手な選択は実は医療にも

塾に行くと中学生や高校生(中には小学生も)の携帯保有率が高くて驚く。私の時代は、高校に入ってようやく一部の人がポケベルを持っていたようなものだった。それからPHSが来て、携帯と拮抗する時期があり、今は携帯が大多数だ。私は-H''派なので、携帯最大手のdocomoの取る戦略を横からふーんと見ている。

中高生の出会い系サイトの利用が、援助交際や犯罪の温床になっていることには異論はないだろう。この夏から、両親の申請で公式メニューのみにしかアクセスできないようにすることができる設定が導入されるという。それに対して、MCFとAMDという団体が慎重な対応を総務庁に求めたらしい。しかしその行が

アクセスが公式メニュー内だけに限られてしまうと、個々の学校や行政機関などの非営利・非商用サイトが利用できなくなるほか、小規模店舗のビジネス機会を奪い、さらには新規ビジネスの創出も阻害するなど、その影響は甚大と指摘している。

中高生が利用できないからと言ってビジネス機会が甚大に奪われることはないと思うのだが。むしろ、今パケットに費やしているお金がCDなどの他の消費に回ると思うのだが。だいたい、出会い系サイトはまだ早いと親が判断する子ども達をつかまえて、いったいどんなビジネスをしようというのか。それこそ子ども騙しな・・

結局のところ、親は子どもの押しに負けてそれらを利用制限しないケースが多くなり、実体は変わらないような気がする。しかし大きく変わるのは、例えば出会い系サイトに絡んだトラブルが起きても、その責任はアクセス制限しなかった親にあるという主張が生まれることだ。迷惑メールもそうであった。アドレスを何度も変更できるようにして、迷惑メールが届き続けるのはアドレスを変更しないから、という主張が出てくる。

実際技術的に迷惑メールを止めることはできるだろうという意見も多くあるのに、責任をユーザーに押しつける構図だ。パケ代を儲けているのではないかと勘ぐりたくなる。しかし誰が好んであんなに長いアドレスを管理しているのだろうか。ユーザーの利便性を第一に考えているとは思えない。ちなみに私のH''のアドレスは@pdx.ne.jpを含めて15文字で迷惑メールは1通も来たことがない。

これは医療の現場のインチキインフォームドコンセントに似ている気がしてきた。手術前に「何かあっても訴えません」という書類に判を押さされるとか、ぎっしり副作用や起こりうる合併症が書かれた書類をぴらりと渡されて「これを全部了解したらこちらに印を」という手続きを踏んで、責任を医師側から患者側に移す格好だ。しかし最近では、あの紙は、十分な説明があるとみなされる根拠にはならない、本当に形式的なものにしかならないらしい。印を押したかではなく、きちんと説明をしたかどうかが重要だ。

立場は患者であっても携帯ユーザーであっても、消費者はそういった罠をよくよく勉強しなければならないだろう。その際ユーザー数が最も多いdocomoを見ていると、学ぶべきポイントは多くみつかる。何も知らずに誰でも使えることと、こういったことは裏表の関係で、こうしたときだけ「自己責任」という言葉が出てくるのだ。

■2003/02/27 (木) 人間の盾と対症療法

イラクに人間の盾として行く日本人がいるという、私には反対運動をするための反対運動であるとしか思えない。そもそも戦争は国際紛争を解決するための一手段なのであって、その「人間の盾」が功を奏してアメリカのイラクへの攻撃を防ぐことができたとしても、アメリカとイラクの間の関係はなんら変わっていない。それを誇らしげに「戦争を止めた」とか言っているようならかなり救いがたい。

このような目に見えていることだけに対処しようとすることを、医療の分野では「対症療法」と呼ぶ。熱には熱冷まし、咳には咳止め、癌の疼痛には痛み止め。もちろんそれらが必要になり、取るべき選択の場面はあるのだが、取れる癌に痛み止めでは誤りだ。別の例で言うと、雨漏りにはバケツも必要だが、根本的には屋根の修理が必要だ。

近年ではQOL(生活の質)が取りざたされ、「ペインクリニック」といって、どちらかというと原因を取り除くよりは症状を和らげる、対症療法寄りの治療をする病院も増えてきた。しかしあくまで原因に対する手が尽きたときにのみ取られる方法であるべきだろう。人間の盾をやる人がそれまでに平和的な解決に手段を尽くしてきたのでないならば、単なる目立ちたがり屋だと認定せざるをえない。

だいたいが、イラク側が住居や食事を提供しているということには何も思わないのだろうか。そしてもしも生きて帰ってきたら、今後もアメリカの敵となる国へどんどん赴いて欲しい。もちろん北朝鮮であってもだ。