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■2003/03/01 (土) 居眠り新幹線と医療事故の再発防止策
新幹線を8分居眠り運転したとして問題になっていたが、これは第一感はナルコレプシーという病気である。単に深酒して寝不足だったかもしれないし、それは検査結果が待たれるところだが、マスコミなどの対応の方に興味がある。
余りにお粗末な事態に、専門家や鉄道事故の被害者らは「安全教育がなってない」と声を荒らげた。(毎日新聞)
26日、山陽新幹線の運転士が列車を運転中に居眠りした問題で、JR西日本はすべての運転士に対して、速度信号などを指で差し読み上げると言った再発防止対策を徹底することになり、基本動作の確認の徹底を文書で通達します。(NHK)
これらによると、安全教育をきちんとして、速度信号を指で指し読み上げれば、このような事故を今後とも防げると言うのだろうか。私にはそうは思えない。また、このようなミスを個人のミスとして済ませてしまうことも再発防止から最も遠ざかる行為だ。この場合で言うと「この運転士が」、医療事故で言うと「その看護師が」「その医師が」という次元で終わらせてしまうことだ。
事故の原因のうち、システムに依存するものを全てなくすような努力を限界までした上で、あとは個人の問題なのでどうしようもない、とか、寝ないためには速度信号を指で指し読み上げる、のならわかるが、話を精神論に置き換えたり個人のレベルに落とすことは、組織としての責任を放棄していると言わざるをえない。トップがやめれば責任を取ったことになるという日本的な考え方も同様だ。本当に事故の悲劇を防ぎたいのならば、原因をもっと広いと部分まで広げて分析する必要がある。
■2003/03/03 (月) 医学生の限界/学生にバイトは不要?車は必要?
SAS(睡眠時無呼吸症候群)では昼間の居眠り運転により交通事故を起こす頻度が高い。
という選択枝に○をつけるべきテストが今日あったが、新幹線の件はSASであるという報道がなされた。ナルコレプシーでは?とした3月1日の日記はちょっと読みが甘かった。このあたりが医学生の限界である。
今日は4月からの臨床実習のガイダンスがあった。今年からはクリニカルクラークシップと呼ばれる新制度が始まる。早速その問題点がいくつか出てきた。
これまでの制度での実習は「見学型」であったが、新たな制度では「参加型」となる。主治医の1人のようなシステムで、患者さんの状況によっては、昼も夜も土曜も日曜もないことになりうる。カリキュラムには当直や救急も含まれる(もちろん学生が一人で当直するという意味ではない)。学生と言うよりはかなり医者っぽくなる。
学生の本分に反するのはわかるのだが、この新制度ではアルバイトも部活動もしづらくなるようだ。全額親に頼るのか、フレックスで働こうか。一方、来年からの研修医制度(卒後研修必修化)では、アルバイトを禁止して、その代わりに収入を保証するのでちゃんと勉強しろ、ということが医師1年目と2年目に対して起こる。しっかり勉強するという意味ではどちらもいいことなのだが、親が高齢で定年になったりする医学生にとって前者は厳しい。私の親は高齢だ。
大学病院以外の病院での実習も増えた。これまでは3〜4人のグループ単位で実習していたため、その中の誰かが車を持っていれば良かったが、今回は学生一人一人に異なるプログラムを組んだ上に、車で30分かかるような、公共交通機関で行きづらい病院での実習を強いる場面が生じる。そもそも東京近郊の人の想像を絶するほど、公共交通機関が乏しい街だ。学生が車を持つことを期待しているとしか思えない。何週間か往復をタクシーで、というわけにもいかないだろう。病院に泊まれと言うのか。
私の個人的なポリシーだが、学生のうちから親のすねをかじって車を買ってもらうなんてとんでもない、と思う。自分でバイトをしてその範囲でまかなえるだけの部活なりなんなりをして、その一つに車があると考えてきた。しかしその稼ぐ術をかなり制限される一方で、制度上車も必要となるらしい。どうやら私の中での学生生活像をかなり変える必要がありそうだ。
■2003/03/05 (水) バスが来るかをメールで知らせる功罪はいかに
私が住む街は冬は非常に気温が低く、バスなどが雪のために激しく遅れることもしばしばである。そのため、バスを利用しようとすると、いつ来るかも知れないバスを氷点下の寒空の吹雪の中、何十分も(いやそれ以上かも)待つことは十分日常の光景となりうる。これを解決しようとするシステムができた。
ある幼稚園のスクールバスの話である。通園のためのスクールバスも、雪の日に遅れることは日常である。一応バスの時刻表の通りに屋外で待ち始めると、それこそ風邪をひくまで待っていることになることになる。しかもいつも遅れるわけでもない。そこで、バスが一定の距離まで近づいたら、該当の家庭にメールで知らせるというサービスを始めたという。メールが来たら出ていくようにすれば、待ち時間もなく子どもはもちろん親の負担も減る。
バスが来るのを知らせるだけであれば、実は路線バスには既に存在していた。停留所に表示する設備をつけて、バスが現在どこにいるのかを、1個前のバス停、2個前のバス停、などと表示することができる。待っている人ももう少しだとわかれば、ただ待っているよりもいいだろう。
今回の幼稚園で私が注目したのは、知らせるシステムを「メール」にしたことである。聞けばこの幼稚園では、連絡網にもメールを活用しているという。これまでの伝言ゲームで電話をかけていくよりも、手間の面でもコストの面でも内容が正確に伝わるかにおいても良さそうである。私が大学において何かを集約するときにも、メールで連絡してくれるよう推奨している。
電話とメールの最大の違いは、片方向か双方向かということである。本当に届いたのか、それを読んだのか、質問はないのか、などなどメールに弱い部分はたくさんある。学年MLの管理人をしていて感じたが、メールアドレスの変更なども結構面倒である。しかし失われた最も大きなものは、人と人とのコミュニケーションであろうと思う。他人の家に電話をかけて「××ですけど○○さんお願いします」とやるのは私は非常に苦手だったが、そうやって礼儀を覚えて、話し方を覚えて、家族と家族の間のふれあいが生まれて、という部分がすっぽりと欠如するようになるように見える。
幼稚園と園児の親、という縦のつながりばかりでなく、園児の親同士という横のつながりがあってこそ、幼稚園というコミュニティーがうまくいっていた部分があったとすれば、この幼稚園でどうなるのか非常に興味がある。しかし実際は、親同士が携帯メールで連絡を取り合っていて何も問題ないのかもしれない。だいたい私の年齢で幼稚園児がいたって別におかしいことではないのだから。
3月3日の日記に、4月からの病院実習では100人に100通りのカリキュラムが用意されることをちらっと書いた。これは100人に100通りの実習が用意されることを意味しており、例えば大学病院が多い人もいれば、市内の病院が多い人も出てくる。教える熱意がどちらが高いのか知らないが、差があると考えるのが自然であろう。これまで大講義室での画一的な講義形式に慣れた身としては、どの実習になるかで不公平になるような印象を受けた。
しかし考えてみると、全国に数多ある医学部で多種多様な教育をしていても、結局皆医者になるわけである。留年基準も学校により様々で、他の学校ならば進級できるところを留年したりすると、これまた不公平感を感じる。しかし最近、もう何度目かの勉強をしっかりやっていって「あぁ勉強になったなぁ」とか思っていると、他の人より勉強をたくさんする人がいたって(勉強を少なくする人がいたって)いいじゃないか、と思うようになってきた。
模式的にとらえると、私が留年したのは勉強以外のことをやりすぎたせいである。この勉強以外のことには、有意義と言われることもそうでないことも含まれる。私が有意義だと考えているものの中には、「医者になってから役に立つだろう」と勝手に思っているものが結構含まれている。しかしその有意義なことが、今回の留年のように「医者になる」ことと全く正反対な結論を産むこともある。これは何か教育のシステムがおかしいとか評価法がおかしいとか色々思ってきたが、単なる個性の問題だと思うようになってきた。
休日の過ごし方やお金の使い方が人それぞれであるように、学生時代の過ごし方だって人それぞれであっていいと思うのだ。そもそも「医者になってから役立つ」という思いこみだって、それが役立つと証明され広く世間に知られているものはないわけで、結局は個人の思うところに従うわけである。理想の医師像と言ってもいい。私の場合は無駄なことをよく知っている医者だ(←自嘲気味に)。
とかく人間は、他人と異なることを嫌ったり、他人と比べて劣ることを恐れたりする。しかしその違いを、単なる人生選択の違いの帰結だととらえれば、そこに優劣は存在しない。一見すると、大学病院での実習が多かったり、よくわからないまま卒業して医者になれたり、在学期間が長かったり、量でとらえられるもので優劣をつけられそうである。しかし、実際そこに存在するのは量ではなく質の違いで、質については他人と比べることはナンセンスで、他人と異なることがむしろ当たり前のことなのだ。
ガソリンを入れに行った。3000円で3500円分使える洗車チケットがあり、今なら2冊で5000円だという。いつも使っているプリペイドカードを使うとさらに5%引きだ。おまけにこっそり今日の分1500円分をサービスしてくれるという。
この話を聞いたときに「あーだいたい45%引きぐらいだな」とざっと頭の中で計算したのだが、このあたりの大雑把に把握する力が、私の得意とする分野であると思う。これはお金の計算でよく発揮され、高校の生徒会で1000万円の予算を組んでいたりもした。具体的に何かはわからないが、将来何かでどこかで役に立ちそうな気がしている。1円の単位まできちんと合わせることも重要だろうが、捨てていい規模の数値ときちんと考えるべき桁を無意識に区別できるところの方が重要であると考える。
さて、45%を検証してみよう。定価で計算すると、3500×2+1500=8500円分の洗車を得た。一方払ったお金は5000×95%=4750円。4750÷8500=56%、つまり44%引きとなる。
■2003/03/12 (水) タマちゃん捕獲/小学校校長自殺/totoGOAL
試験前に書こうとしてまとめきれなかったこともあり、一言言いたいニュースが色々ある。つまみ食いしていく。
動物愛護団体がタマちゃんを捕獲しようとして失敗し、地元住民から抗議されたばかりでなく、条例違反で厳重注意を受け、さらに科料などが検討されているらしい。私はどっちもどっちだと思う。そのあざらしだかなんだかを放置することはできないのか。暇人たちめ。
広島で小学校の校長が自殺したという。民間から登用、という点も大きく意味を持つのだろうが、この小学校の児童に命の大切さをどう教えるつもりなのだろうか。児童が仮に自殺したらどうするのだろうか。無論自殺した校長を責めようとは思わない。そう至った経緯はどうなのか、どうして広島ではこういうことが珍しくないのか、何よりなぜこのことをきちんと報道しないでタマちゃんごときに・・・
totoGOAL“やらせ”、ファン不在の決着と題して、要約する気も起こらないほどの取り上げ方をしている。まさにフェアプレーをして、ルール上何の問題もなく、勝敗を争うのに適切な行為だったと思うのだが、totoGOALっていったい何様だ?くじのためにスポーツがあるのならば非難されるべき行為だが、スポーツをたまたまくじに使う、つまりくじによってスポーツを変えないのであれば、川口キャプテンの発表は当然だ。
私であれば、倒れている選手がいるときに相手チームの選手がボールをピッチ外に蹴り出すしかゲームを止める方法がない、というルールに疑問を持つ。バスケットで同じような場面では、審判の判断でゲームを止めて、ボールを保持していたチームのスローインで再開される。サッカーでそうするとフリーキックなどで有利不利ができてしまうということなのだろう。そこで最も有利不利が起きない方法が今回のような方法である、とサッカー選手の間で暗黙の了解ができていると思うのだが。そうでなくては選手だって監督の指示を聞くまい。
新幹線居眠り運転がSASであったと報道されて以来、各所で色々な人が書いている話である。健康診断の結果、帝人の従業員4000人の1.6%が治療が必要だとも報道された。かなり無視できない数値であると思う。いくつもの考え方があり、分けて書いてみる。
一つには、病気の人は働けない、という点である。もちろん居眠りがちの人が運転手をやるのは不適切だが、病気であるという理由で解雇されたりするかもしれない。就職の際にも、そうした病気であることがわかったり、後からそれを隠していたなどとして、不利益を受けそうなことは容易に想像できる。
二つ目に、病気に近い人たちである。SASをはじめ各種の病気は、医師による診断と検査と色々必要だが、肥満や高血圧などの一見してもなんとなくわかるものを危険因子に挙げることで、そうした人たちをひとくくりに病気と「認定」してしまうことができる。病気でない人をあたかも病気であるかのように「診断」し、それが幅を利かせて、一つ目のような問題を引き起こすかもしれない。チェックシートで正確な診断ができるのならば医者は要らない。
三つ目に、病気のリスクを背負う人である。人は誰しも病気になるものだ、と捉えると、そのリスクは全員で負わなければならない。なった奴が悪い、と考えると、そのリスクは個人で負うことになる。医療費における健康保険というのは前者だろうが、病気になった人を周りでサポートするのか、という社会的な面は本音と建て前、理想と現実、などになっているように思う。
四つ目に、乱暴な話ではあるが、障碍(いわゆる障害)と比べて考えてみる。いわゆる障碍者とされる人たちとは、これからの世の中では、バリアフリーなどと言って共存していく方向である。私も眼鏡を取ったら視覚障碍者、という考えの元、病気に対する差別というのは障碍に対する差別と同じであり、各人の個性の一つであるわけだから、その個性を生かして皆で生活していくべきである。この発想でいくと、少なくともそういった人たちを排除したりする方向にはならないと考える。
医療の問題を考えていつも思うのは、医学部に5年いてできてしまった、一般の人が持ちえない病気への知識と理解である。SASには治療法があり、肥満を解消し陽圧呼吸をしてダメなら手術もして、基本的に治ってしまうものである。今回のような取り上げられ方をすると、いったんそういう職場から離れた人が復帰するのは困難なイメージになるのではないか。そうした誤ったレッテルを作らないようにするのが医師の役目であり、みのさんの番組に出ているばかりではいけないと思う。
■2003/03/14 (金) 「事故率が2倍」という表現と「バイアスがかかる」
無呼吸症の事故率は2倍という記事の見出しを見て、怪しいと思い内容を見た。2倍が高いとか低いではなく、数字がいくつであっても怪しい表現だ、ということだ。過去5年間で事故を起こした人の割合が、SASの人が10.1%、SASでない人が4.5%だという。
よくよく読んでみると、SASの検査のため入院した人へのアンケート結果である。診断の結果SASでなくても他の病気である可能性がある。入院するような人は、そもそも運転中の眠気などの何らかの自覚があったと推測するのが普通だろう。このように、道ばたで歩いている一般の人ではなく(「歩いている」は比喩だが、実際歩けない人だっている)なんらかの条件で抜き出された人で統計を行うことを「バイアスがかかる」と表現する。
統計の結果で何%と表現するのはわかりやすいが、誰の何%かをきちんと確認する必要がある。街頭に出られない人は街頭アンケートに参加しようがないのは当然だが、アンケート結果はこの点を意識して見るべきだ。これを怠り、日本で取ったアンケートを世界に当てはめるような構造的な誤りをさらっとやってのけるので、この手の報道には注意が必要だ。この場合は病院に睡眠時無呼吸症の検査をしに来た人たちを調べた結果のようだ。
2倍という数値が一人歩きするのも危険だ。検索の結果を見ると一つ一つのページを読まなくても2倍とするものから7倍とするものまでが目にとまる。そもそも誰に比べて何倍と言っているのか。理論的には、SASと診断された人と比較するのは、何も病気のない健康な人とか、どんな病気を持つ人も含めた全員の平均でなければならないだろう。年齢とか職業とかをバラバラにした健康な人に調査をするのは結構難しいし、全員というのにはペーパードライバーとかも入る恐れがあり、事故を起こさない人が多そうである。
例えば千葉県警のページではこのような表現を発見した。
平成14年中の千葉県における人身事故にあう確率は、ドライバー48人につき1件でした。物件事故を含めた全交通事故では、ドライバー10人につき1件発生するなど思いのほか高率です。 (平成14年末‥全交通事故17万1,432件、県内免許人口363万4,312人、1事故運転者2人として算出)
また、この統計データによると、免許人口10万人あたりの交通事故件数は1189件だという。1.2%ということか?まさか千葉県が全国に比べ10倍ということはあるまい(そうならそれも問題だ)。こう見ると、冒頭の4.5%と10.1%はいったい何の数字なんだろうかと思ってしまう。従ってこれの比である「2倍」とかいう数字のみを全面に出したニュースは危険である。病気の危険性には異議はないが、危険性の知らせ方には大いに異議があるのだ。
■2003/03/15 (土) 国試委員で4時間タイピングの集中
ちょうど1年前の日記に書いた、国試委員の季節がやってきた。今回は前回のように右も左もわからない立場ではなく、経験者でありながら諸事情により実習がないということで、かなり責任のある立場となった。去年より格段の進歩、一昨年に比べるともう影も形もなかったようなことまで、事前に想定して動いた。今のところ大きなほころびはない。
今日何よりハードだったのは、ワープロ4時間打ちっ放しである。どうも他の委員に比べて私のタイピング速度は速いらしく、本当は自己流で大したことないのだが、誰も代わってくれず、延々と4時間打ち続けた。早くしないと受験生が寝てしまうと思いつつ、完成したのも日付が変わって1時だった。毎日このような日記を書いていたり、パソコンを相手にするのは苦にならないのだが、こればかりはさすがに苦になった。
しかしそれは本当に腱鞘炎になったとかではなく、作業自体に飽きることの方が大きい。紙テープに同じ文字を延々と書いていってもらう実験がある。何百でも何千でも同じ文字をちまちまテープの続く限り(なくなったら次のテープに)書き続けてもらう。そしていい加減なところで、「もう書けません」とギブアップするわけだが、そこで「じゃぁ最後にあなたの名前を署名で付けてください」と言うとそれは書けるので、機能的に文字が書けなくなったわけではないのだ。実際私も懲りずに、今日記を書いている。
最近はすっかり運動不足で、心肺機能とか筋力とか、そういった意味での体力は本当に落ち込んでしまった。ちょっと運動をしなければならない。しかし、行動を起こすという意味での体力、つまり気力に近い部分に関しては、まだまだ頑張れるものだと思った。それが培われた経緯は書くと長くなるが、平たく言うと「行動力」、長時間作業し続けてもやる気が切れないことは、結構大事なことだと思うのだ。そこには自信がある。それを勉強に使えばいいのか・・・
すっかり10日ばかり更新が空いてしまった。15日に家を出て、国試委員として医師国家試験を受験する先輩たちのサポートをするため4泊。そのまま飛行機に乗り、広島、福岡、大分、宮崎、鹿児島をぐるりと回って6泊してきた。観光が表向きのメインの目的で、裏向きのメインの目的は多くの人に会うことだった。
インターネットが発達して、実際に会う前に親しくなるという人が増えてきた。しかし実際に会うということは、それ以降もコンピューターを介したつきあいであるとしても重要なことであると感じた。理屈を詰めて組み立てるためにはコンピューターはとても便利で、時間的・地理的な制約の面、費用の面、記録性などでは、これまでの通信手段では考えられない優れた点がある。しかし、パソコンに載る情報では伝えきれない、その人が持つ雰囲気とかオーラとか、顔とか声とか、そういったものがあると、さらにコミュニケーションがうまく取れるように思う。人間同士である以上、どんなにテレビ電話とかが発達しても、これは変わらないと思う。
もう一つ、「知り合いである」という事実も大切であると思った。そこにそういう人が存在するらしいということは、他の人から聞いたり、電話をしたりメールをしたり、色々な手段で確認できるが、実際に顔を合わせて言葉を交わして、今後ともよろしくなどと言っておくことは、その後の関係を容易にするものだと感じた。これもよく説明できないのだが、具体的に何かを知らせると言えなくても、何か伝わるものがあるのだろうと思う。
知り合いの知り合いは知り合いになれる、という発想から考えると、知り合いが多い人と知り合うことは大きな力である。今回の旅では大きな力を得たと思うし、他人の力になれるような人間に自分もなりたいと思っている。
■2003/03/25 (火) 卒業式で年齢についてふと考える
私はいつの間にか親が結婚した年齢になっているわけだが、「25歳くらい」ってものすごく大人だなぁ、と思っていた遠い昔の時期があった。仕事をしているという社会的な面もあるし、人格的な面でも、当時の自分からみて手の届かないところにあると感じていた。しかし実際その年齢を目の当たりにすると、自分が成長しただけなのか、なんとも思わない大人も多い。正確に言うと、自分より年上でもどうしようもない人もいれば、20歳であっても結構な人格者もいる。
年齢で人格を判断するのは不適切ではないか、と思うようになってきた。こんな20歳もあんな30歳もいるのだから、例えば精神年齢が何歳とか言うのも無意味だ。精神的な成熟の度合いを表す指標はあってもいいが、それを年齢で表す意味はないということだ。望むと望まざるとにかかわらず、画一的にしようとしたって、人の心の発達には個人差が出る。劣っている→優れているという方向性を感じさせる「発達」という言葉を使うことも、適当でないかもしれない。個人差が出るに決まっていて、百人百様になることを比べる意味はあるのだろうか。
人の心はそれぞれで、その歩む人生もまたそれぞれである。今日の卒業式で、送り出していつの間にか最上級になってしまった自分に気づき、「こんな自分で」と一抹の不安を覚えるのだが、別に誰と比べるわけでない、自分だけの人生に自信を持って生きていけばいいのではないかと思う。
「アメリカが、私たちがいることをわかっていて攻撃をやめないのならば、盾の意味がないので、出国も考えている」とかいう人間の盾の中の人のコメントを読んで、そこで攻撃を受けて死ぬことこそが本当の盾であり、根本的に脅しや抑止力の意味を取り違えていて、平和ボケだなと思った。不謹慎にも微笑ましい。
そもそも、実行されるという前提があるからこそ、脅しは脅したりえるのであって、自分の命もやっぱり大事だよな、とか思っている人が何人かイラクにいるからと言って攻撃をやめるようでは、何人もの自国の兵士を生命の危険にさらすアメリカ大統領の決断ではない。
色々な事情でここ数ヶ月(いやもっと長いか)テレビをよく見ていないが、そうすると「戦争が始まりそうだ」という事実くらいは伝わってくるのだが、何かの気運が高まったり、世論が盛り上がったりするのに、参加することもできないし感じることもできない。それが反戦でも好戦でもだ。
インターネットや新聞などの活字メディアと、テレビというメディアの最大の違いは、見出しだけ読んで深入りしないという選択ができるかどうかである。いいことも悪いことも「自分の選択で」選ぼうとするならば、テレビのニュースをやめてみるのは一つの方法だ。逆に、ある方向の世論を形成するためには、テレビのような一方的に情報を流すものが不可欠なのではないか。
結局今回の戦争が日本にどういう関係があるのかわからない。国際貢献も戦争が終わると小沢一郎以外は実質誰も言わなくなる。今日現在アメリカ軍がどこまで進んだかを図解で説明されても、それが本質を見抜く目とはつながらない。この件について全く無視することこそが最大の反戦活動だという意見にうなずきそうになるほど、今回の戦争についての情報を得ようと思わない。得る情報の量が問題なのではなく、どの情報を手に入れればいいのかを判断する力こそが大切なのだと考えるからだ。
私は12月に留年したが、これはカリキュラムの区切りの問題が関係している。正確に表現すると、この4月に5→6年への進級を認めない、という原級留め置きであり、その予告的な発表が12月に行われたのだ。一言で言うと、今年度も来年度も5年だ。
そしてそれをリカバーすべく、今月頭まで4年生と一緒に試験をしていた。その結果、今の4年生=新5年生に組み込まれることが決まった。しかしあくまで原級留め置きであって進級はしていない。5→4→5年という動きをシステム上ではしていないからだ。本日学長の名前で「成績不振のため原級留め置きとする」旨の速達が届いた。まぁいいんだけど、12月にわかっているものを速達でねぇ、という気持ちである。
それよりも、今もって私が4月からどこに実習に行くのか、まだ決まっていないと言われた。なんでも調整の問題で私の問題ではないらしいが、そろそろ決めてもらいたいと思う気持ちはわがままではないだろう。実は4/7から始まるかどうかすらわかっていないらしい。こっちの作業を速達にしてもらいたい。
■2003/03/28 (金) はやらないラーメン屋にみる経営戦略
昼の12時にとあるラーメン屋に行ったところ、客はまばらでガラガラであった。味は悪くなかったのだが、経営があまり芳しくなくて努力している様子がひしひしと伝わってきた。しかし、この方針では改善は望めないとも思った。
苦しくなるとまずは細かなおまけをつけ始める飲食店が多い。値引きをするのでも50円単位でだったりする。今日で言うと、ランチタイム小ライス無料、ジュース1杯サービス(セルフサービス)、消費税も取っていなかった。計算すれば客1人につき50円から100円はお得になるというわけなのだろう。
しかし、客は小ライスとジュースを目当てに来店するわけではなく、主な動機としてはラーメンを食べに来るわけだ。ラーメンの味は悪くはないがさして特徴があるわけでもなく、値段も高いわけではないが別に安いわけでもない。店の雰囲気が特にいいわけでもないし、接客に何か色があるわけでもない。これらを総合的に判断すると、「また来ようとは思わない」という結論に達する。近くに500円ランチをやっている店があることを考えても、いっそ全品100円値下げとかの方がいいかもしれない。
医療経営について勉強会で少しかじっているのだが、そこで学んだ発想をここにも生かすことができる。いいものが安ければ何も問題はないが、実際には、いいけど高いものや、安いが質がイマイチとなる。従って、自分の店が(あるいは病院が)どういう特色を出していくのか、つまりちょっと高いがある味を譲らないのか、安くて早いのが売りなのか、それを前面に打ち出していく必要がある。もちろんその特色が消費者に(あるいは患者に)求められるものでなければならない。(これを調べるのがマーケティングである)
経営を立て直すというと、何か素人にはわからない特別のものだったり、徹底して節約をしたりというイメージがある。しかし実際には節約の他にも、自分が他と異なる部分を作り、それを的確に売り込んでいって、場合によってはその付加価値のために多少値段は高くなります、ということだってありなのだ。そうした自分の「哲学」あるいは「思想」をきちんと持った人こそが経営者であるべきなのだ。
今後の人生をかなり左右する出来事があって、しかもその情報がかなり重要なわりに不確実で、ここ何日間かかなりへこんでいた。この中でわかったことは、この日記のタイトルを変えなければならないような大きな出来事に対しては、さすがの私も小さな存在であって、そしてそれを共有できる人がいるかどうかがかなり重要であるとわかった。どんな内容であったとしても、その内容を他人と共有することができるという事実の大きさを感じるこの頃である。そういうわけでちょっと更新がしづらいかもしれません。
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