最北医学生の2003年4月の日常

■2003/04/03 (木) 対象が不明瞭という不安

精神医学での用語としては、「不安」というのは対象がはっきりしないものに対して使う言葉らしい。「テストに対する不安」というのは、テストという対象がはっきりしているという点では誤用である。そんな話を訳もわからず覚えて試験を乗り切ってきたのだが、それを実感しているこの頃である。

例えとしては、「死に対する恐怖」などがわかりやすいかもしれない。死に対する恐怖は、死を目前にしてまさにそれと直面しようとしている時よりも、いつ死ぬかがわかっていないときの方が大きいのだと思う。死自体が問題であれば、「必ず死ぬ」と「死ぬかもしれないし死なないかもしれない」を比べれば前者の方が問題は大きいはずだ。しかし実際には、後者の不確定さの方が精神的に悪い。

詳細は明日にでも書きます。

■2003/04/05 (土) 近況報告

各方面に心配をかけていました。昨日は3時まで酒なしで打ち上げしていました。

先月までの試験結果が発表されて、1科目だけ通っていなかったために4月から実習に出ることができなくなった。これから9月までは3年生と4年生と一緒に講義を受けて、両方の試験を受ける、10月以降は4年生と同じ講義を受けて4年生の試験を受ける。それが通れば今から見ると1年後から病院実習に出て、夏休みを返上したりなんだりするともう1年で卒業できるということらしい。

話をまとめると、これからの1年間は、入学時の学年関係で言うと2個または3個下の奴らと一緒に講義と試験を受けていき、しかし卒業の時期は1個下と同じ、すなわち1年増えた7年間で卒業ということになる。

試験に対しても制度に関しても自分に関しても、色々と考えるところはあるのだが、結論としては「私は私が好きだ」というところになると思う。さすがに一時期荒れたが、今はかなり落ち着いた気持ちです。

■2003/04/06 (日) 究極のフィードバック

塾講師の目的は、生徒の成績を上げること、と一般的にはされている。しかしそれはなかなか難しい問題で、塾経営的には「たくさんの生徒を抱えること」がその前段階としてある。たくさん生徒を入れるためには、よい授業をすることと、チャンスを逃さず説得することが必要である。どちらも「これが」という万能の完成されたパターンは存在しないため、講師の個性が出るというと聞こえがいいが、講師の能力の差がはっきりと現れる場面でもある。

本当の目的は入試の合格であるから、それに関しては合格率が一番正確なのだが、これを待って塾を評価するのはなかなか困難だ。例えば中学3年間通った塾を評価するためには、中3の最後の入試の結果が最も正確だがそうもいかず、実際にはそれより以前のアンケートや、人数の増減を指標とすることとなる。しかし人数が増えることがすなわちいい授業とは限らないし、アンケートを指標とするとアンケートを取るための意図的な行動などが生じてくる。逆に考えると、自分の授業が本当にいいものなのかは誰にも確信できない。

そんな中で、高校の3年間教えていた生徒が、今年私の大学に受かり、今や後輩講師として採用された。そこでぶっちゃけ自分の授業のよい点悪い点を聞いてみた。正直、3年間通して持ったのもこれが初めてで、このようなフィードバックができたのも初めてだった。結果、非常に有益な生の声を得て、自分のやっていることに間違いがなかったことを確かめた。ほっとした・嬉しかったと同時に、静かに大きなやりがいを感じた瞬間でもあった。

■2003/04/07 (月) 人生で最も自由な生活

浪人時代ともまた異なる、自由度の高い生活が始まった。8/18以降はかなり詰まった時間割となるが、実習が免除されているために私の時間割はスカスカだ。4月は週2で半日ずつだ。かと言って今から9月に向けて試験勉強をするのもだらだらするので、自分で時間割を組むことにする。予備校も大学ももちろん高校以前も、自分で時間割を自由に組めるところはなかったために、人生初体験だ。いつも夏休みの予定を立てるのとは違い、遊びをdutyの間に組み込んでいくわけにはいかない。

とりあえず、他者との関わりの中で拘束がないとだらけるので、バイトをそれなりに入れてみた。お金はあっても困らない。ないと困る。しかしまだまだ空きが多い。平日だけで半日が4回ある。何をするのがいいのか考えたが、今しかできないような勉強をしようと考えた。いずれやる試験対策ではなく、時間がまとめて取れるときにしかできないものを。知り合いの医学生の話を聞いていて、プレパラートでものぞきに行こうかと考えている。

国試勉強も今のうちからしておこうと思う。6年生になってからでは暇がなさそうだ。病院の見学もしておかなければ、来年の今頃にはもう就職先の希望を固めていなければならないだろう。今のところ全く目星がついていない。そういうことを考えるときに、常に来年そういう立場になれているのかどうかの心配をする。同じ科目で単科放校になった友人のことを思うのだ。この点が今年度の最大の違いである。

■2003/04/08 (火) 時間割確定

午前中は病理学の教室にお世話になってお勉強、午後は研究室で統計を主としたバイト、夜は週3回塾のバイト、講義は週2〜4日随時。このような時間割で7月まで過ごすことにした。病理の教室では机などいただき、「いつでも来ていい」とのありがたいお言葉までいただいた。

■2003/04/09 (水) 今ならわかる「基礎」の大切さ

全体像がつかめてからであればわかることがある。例えば、小学校で習ったことが何の役に立つのかその当時にはわからないが、後に知りたいことが出てきた時に必要であるとわかる。大学入試の頃は試験そのものが目的だったが、その後につながることはたくさんある。英語で言うと「SVO」などの5文型がそうだし、医学で言うと、組織学や病理学などの基礎医学がそうだ。最初に軽視して後悔する。

視点の違いで、自分が直面していることに関して判断することはできないのかもしれない。たいていその瞬間はわけもわからず、つらいと感じる。そこで投げ出しそうになるものを乗り越えるために、教育が果たすべき役割は大きいと感じている。そもそもその道を先に通ったつらさを知る先人が、全体を見下ろした視点から後から来るものを導くのが教育の構図であって、「つらさに耐えられない奴が悪いんだ」という態度ではいけない。

私が今月から病院実習ではなくて病理で顕微鏡を覗くのも、今ならわかることの連続で勉強になっている。本当はこれを最初に病理を勉強した3年の時からわかっているのが理想的だ。これから塾では、高1に英文法の基本から教えていくのだが、彼らに面白さや将来役に立つのだということを最初からうまく伝えて、うまく勉強してもらえるかどうかが私に与えられた課題であり、むしろ使命になっている。

■2003/04/10 (木) identityの確立法 自分を認める

自分を自分たらしめることを「identity」と呼び、自分が自分であると自分で確認することを「identityの確立」と呼ぶ。自分に不安を感じると、他人のせいにしたり、自己嫌悪に陥ったりする。私はわりとそうしたことがないため、一見identityの確立に苦労していないように見える。

自分の確かめ方は人それぞれである。私の場合、スケジュールを空けておくことが性分としてできないために、空きコマがないだけびっちり講義が詰まっていても、今月のように週に60分の講義が6コマしかなくても、いずれにしても行動の結果はびっちり詰まっている。おそらく「何もしていない自分」が不安でたまらないのだと思う。何かをしている限りは、そのことに対して働きかける自分と、そのことから何らかの影響を受ける自分がいて、そこに自分の存在を感じ取ることができる。だから私に言わせれば、自分の存在について不安に思う暇があったら、何か行動を起こせばいいのに、と思う。

このからくりに気づいてから、もう一度自分を見直してみる。すると現在の私などはもろに不安で不安で仕方ないことになる。確かに各所で認められないことはない。このサイトをとっても、褒めてくれる人が少なからずいる(褒めようと思わない人のメッセージは私には伝わらない)。しかし、どういう形にせよ、自分が認められるチャンスを増やそうとしているわけで、そうして自分を認めてもらいたがっているということは、結局identityが危うくて仕方ないのかもしれない。

私が結局たどり着いた結論は、そういう弱い自分があることを否定して強い自分がいるかのように納得することではなく、自分はそういう弱い存在なんだと言うことを認めた上で、そんな弱い自分でいいのだと自分で思うようにすることだ。人間誰しも、強い方がいいに決まっているが、そもそも「自分を認める」ことが目的なので、これでいいのだ。

■2003/04/11 (金) 自己保身

自分が他人につらく当たるとき、接し方が雑なとき、攻撃的なときというのは、自分が弱いときなのだろうなと思う。攻撃し、相手がこうだと決めつけている間は、自分の身は安全だ。ちょっと最近は、そんな自分が目につく気がする。

■2003/04/12 (土) 機種交換。新しくないものの良さ

H”の機種交換をしたところ、思いの外機能がよくなっていた。同じ系列の機種の改良型なのだが、全体の動作がきびきびするなど、新しい使い方を覚えずに得られるメリットが大きい。Air-H" phoneもいいのだろうが、新しいもので新しい機能を得るのもあり、一方未知の不具合に頭を悩ませることにもなる。最新を次々乗り換えるばかりでない、改良型の良さを感じた。そんなわけで、現在の着メロは、クラシックのピアノ版と、関東近郊の駅のホームで列車が入ってくるときに流れるチャイムだ。

■2003/04/13 (日) 寝てしまった

夜8時に寝てしまった。翌朝(月曜)8時に目が覚めて、日記に穴が空きました。

■2003/04/14 (月) エゴグラム

エゴグラムというテストをやってみた。A尺度が高く(A尺度優位で)CP尺度とAC尺度は極端に低かった。これを分析するとこうなる。

事実に基づいて物事を判断しようとする部分。事実を客観視し、あらゆる角度から情報を収集する。そしてそれらを元に冷静に計算し推定して意思決定を行ない判断を下す。

というのがA尺度優位の意味である。確かにそういうところが自分にはあるような気がする。また、そういうことがいいことだとも思っている。そして、これにCPとACが低いのを組み合わせると、協調性に欠け、他人の意見にあまり耳を貸さず、自分の思うように行動したり、自分が想定したように他人は反応するものだと勝手に思いこむ。仕事で言うと、A優位で確かに優秀だったとしても、上司からみるとちょっと使いづらいやつ、ということになる。

結構当たっているところがあるかな、と思う。自分がTOPでない活動をやるのは確かに苦手だし、それは自分より優れたリーダーに恵まれなかったからだと解釈してきたのだが、このようなテストの結果、自分の中にそういう気持ちが潜在していることが明らかになった。このテストは何が優れているとか、何がいいことだとかではなく、特徴を表すことが目的だ。

その使い方の一例として、このページに出ている例が参考になった。私の例に当てはめて要約すると、医師として患者と接するときにどのような話し方を自分がしがちなのか、また患者さんはどのような話の持って行き方には耳を傾けるのか、ということを、意識しながら仕事をすると、うまくいくのかもしれないということだ。全員にエゴグラムをやらせるのは現実的ではないが、この視点を身につけると、大きな武器になるかもしれない。

■2003/04/15 (火) 模擬試験を受けて。学習法の理論と実際

国家試験まで残すところ1年を切って、という学年にこの間までいたわけだが、勢いで新6年生を対象とした医師国家試験模試を受けた。結果、見たことがあるのにわからないものがあまりに多くてショックを受けた。自分で教科書など読んでまとめとかを作ったにもかかわらず、さっぱり頭に残っていない。血液データでどのあたりが異常かはわかるのだが、その貧血が何かわからないとか、診断がつかないから治療もわからないとか。このまま医者になったら確実に患者さんを殺してしまう。

実際、一番多い科目であっても、前期後期とか追試や留年とか合わせても6回しか試験を受けていない。逆に言うと、6回しか実践の場を踏んでいないということだ。だからどこが重要でどういう意味を持つのかがイマイチ直感的にはわからない。しかし模試を受けてみると、何歳の患者さんがどういう症状で来て、そのデータがどうこうだということで、頭に入りやすくなる。症例をつかって行う学習法をPBLと呼び、問題解決型学習と訳される。

これは塾で日頃実践していることである。理論(文法)を教え、使用例(例文)を提示して、実践する(問題を解く)。しかし旧来の医学教育においては、いわば「文法」だけを詳細に教えることが多く、確かにそれがないとダメだし、それだけあればなんとかなる部分も多いのだが、今ひとつ身につかないという印象がある。(本当に身につかないと私のような現実になる)

実践の場としては、机上で症例問題にあたるか、病棟で症例にあたるかである。いずれにしても一見した効率は悪いのだろうが、それこそが本当に「身につく」かどうかの鍵であるようにも思う。そういう視点を塾では常に持っているくせに、言われてみないとわからない。自分や家族がかかった病気には強いとか、試験そのものが目的となる悪循環の構図とか、そういうことを理解していながら、自分の勉強に生かしていない。紺屋のなんとか、医者のなんとかである。

■2003/04/16 (水) やらせの戦争

イラク戦争の報道は日に日に少なくなっていくが、報道こそが戦争だと言っては過言だが、この側面は絶対に無視できない。アメリカ軍が女性兵士を救出したのは過演出だという報道がなされたらしいし、報道陣がいないところであぁまでもったいぶってフセイン像を倒すこともないだろう。報道されない人間の盾って素敵だし、国際世論のために筋を通そうとするのは、それだけ報道されるからだ。

圧倒的な・・を見せつけるなど、戦争は明らかに見る人の目を意識している。人は死んでいるはずであるが、死体の映像は意識すらさせないようになっている。報道官の発言や大統領の発言も、常に聞く側のことが意識され(それしか意識されず)、実際に何が起こっているのかが後回しにされている。

今回の戦争中に、テレビなどをよく見る期間とあまり見ない期間があったのでわかるのだが、メディアの報道なしには、戦争に賛成する気持ちも反対する気持ちも生まれてこない。さらに、その報道自体が何らかの意図を持って行われているということだ。誰かの意向を反映している視点を常に持っていれば、垂れ流される情報の全てを受け入れるかどうかが変わる。すると、多くの情報が、今は受け入れる必要を認めないものだった。

■2003/04/17 (木) 病気のストーリーを知る

病理学教室には、病理診断の検体が持ち込まれる。平たく言うと、できものができたときに癌か良性かを判断するために、ちょっとかけらを取ってくるやつだ。それを染色して、顕微鏡で覗ける形にして、細胞の様子などを見ながら診断をつけていくわけだ。その診断に応じて、治療の方針が変わってきて、直接患者さんを目の前にしないにもかかわらず、むしろ最も直接患者さんの将来に関わるとも考えられる。

正直、6年目医学生の私でさえ、病理学というのは顕微鏡を覗いて、その模様で診断をつけるものだと思っていた。パターン認識で、ある程度慣れれば誰でもできると。しかしこの何日か教授の診断(と私のためにしてくれる解説)を聞いていて、そんな表面上の話ではないということがわかってきた。一つのスライドガラスを5人同時に見ることができる顕微鏡で、(手の空いている)教室員一同その解説に耳を傾ける。

実は最も重要なのは、検体、つまり患者の性別と年齢かもしれない。それとどこから取ってきたものなのかという情報があれば、確率的に多くある病気が頭に浮かんでくる(私には浮かんでこない)。そうしたある程度の予想があった上で、実際の標本との同じ点、相違点を見て、診断を下していく。従って、歯科まで含めたあらゆる科の病気についての、多くみられるものとその年齢性別の特徴をおさえておくと、診断は早く確実になる。

次にその検査についてのストーリーである。○○染色では××細胞が染まるというのはちょっと調べればわかるし、△△病では××細胞が増えるというのもそう難しいことではない。しかしその病気について、どういう仕組みで起こってくるのかをきちんと理解し、従ってその検査の結果がどういう意味を持つのか、またそれがその後どうなっていくのかをきちんと筋道立てて考えると、なぜこの診断が重要かもわかるし、どうしてその染色でそのような像が見えるのかもわかる。わかるものを見るのは楽しい。

今日の一番の収穫は、癌でなぜ激しい疼痛が起こるものがあるかについて、神経の周りにまとわりつくようにして癌ができて(できやすい仕組みについては省略)それが神経を刺激するであろう像を見たことだ。癌→疼痛→モルヒネなどという流れは誰でも知っているが、それはきちんと理由と根拠があることだったのだと、改めて気づかされ目の当たりにしたのだった。

■2003/04/18 (金) 個人が頑張らないという良さ

個人の能力は、その個人がどのようなことができるのかで判断される、と考えるのが一般的だ。入学試験、資格試験、だいたい思いつく限りのものは、個人の力を試験される。電話とかを使うクイズ番組もないわけではないが、他人とどのような関わりを持つかについて評価されることは少ない。それゆえ、集団においても、そこに所属する個人各々が最大限の力を発揮すれば、集団としての力も最大限になる、という風に考えがちである。

しかし現実には、集団を構成する個人の力の和が集団の力とはならない。思惑が違う人同士だと、両者の力は相殺される。摩擦とか軋轢とか呼ばれる、新しい問題が生じるときもある。ある一人に注目したときには確かにたくさんのことをやっていたとしても、そのことが本当にいいことかはわからない。

個人がどれだけやれるのかよりもっと大事なことは、その集団の「和」だと、あるできごとを通して感じた。人と人の関係である「和」を実際に数値で表すことは困難だろうが、潤滑に物事を進めたり、気分良く過ごしたりする面だけでも、数字には出ないプラスの面が大きいと思う。そして著明な働きをする個人がいるのに比べると、一見劣るように見える場合であっても、それは雰囲気で補っていけるのではないだろうか。

私などは、表に立って自分の存在をアピールしなければやってられない質である。その意味で、前面には出ないけれども、他の人の力を引き出したり、集団としての力をより大きくするような役割ができる人はすごいと思う。そうした能力を評価したり、自分がやらないことこそが本当はいいことなのだと思うことなど、冒頭に書いた直感的なものと反対の発想というものが重要であると考える。

■2003/04/19 (土) 見せたくないテレビ

調査対象とした小5と中2の保護者を合わせると「見せたくない番組」として、「クレヨンしんちゃん」は12%、次いでテレビ朝日系「ロンドンハーツ」(火曜後9・0)は10%が挙げた(複数回答)。

子供に見せたくない番組トップは「クレヨンしんちゃん」とのニュースが報じられた。今日は私が得意とする統計的な切り口ではない。根本的だが「見せたくない」という表現にものすごい違和感を感じるのだ。

「見せない」テレビであればわかる。子どもが見るテレビを親が決めるという構図で、その判断基準を調査したところ、これこれの番組を見せないという結果が出たのなら。しかし「見せたくない」という言葉の裏には、実際には見ていることが隠されているように感じる。子どもが見るテレビを親が決めないのであるならば、子どもが見る番組を選択するのであり、そこに親の意向は入らないはずだ。子どもの自由を認めていながら、それでいてこうこうして欲しいという希望はあって、それが調査の対象になったりしている。

現在読売新聞では、結婚や見合いについての連載がされていて、そこに「本人たちより先に親同士が会う」とかいう話も出ている。少子化だかなんだか知らないが、現代の子どもたちがかつてよりは物質的に恵まれているのは知っていた。両親と、それぞれのさらに両親の計6人の財布が、1人の子どもに向けられるという構図である。しかしその実は、子どもの自由を認めるようなふりをしながら、そこにべったりと干渉する「子離れのできない親」という構図である。子どもが誰と結婚するかを親が優先して決めてどうする。

子離れのできない親の多くは、親離れのできない子と共存している。我が家が全く対照的であるだけに、テレビについて親子の間で関係が成り立つこと自体に違和感を持ったのかもしれない。「見せたくない」と思っている親が、実際に子どもとはどのような関わり方をしているのかについて、非常に興味がある。もしも子どもにその意向を十分に伝えられないのであれば、「見せたくない」などと言ってる暇があったら子どもと対話するべきだ。

それにしても、この調査の意図はわからないままである。だからどうしたというのだろうか。

■2003/04/20 (日) パソコンのカスタマイズと発癌遺伝子

今日は午後からずっと、パソコンのバックアップとOSの再インストールをしている。動かない物はないまでも、細かい不具合が蓄積してきたと感じたからだ。一通りバックアップを取り、リカバリーディスクを入れてまっさらの状態にした。

なんとか、メールとブラウザは元のようになったが、他のソフトや細かい設定がまだまだである。バックアップを取ったものをそのままHDDに戻すと「不正な処理」とか言われたので、これを契機にオンラインソフトはDLし直している。微妙にバージョンも新しくなっていいものと思う。そもそも細かいバグが生じてきているのをリセットするために、わざわざ再インストールという手段に出たわけだ。

発癌のメカニズムで、遺伝子の突然変異の蓄積という話を思い出していた。それこそ原因は無数にあるわけだが、癌を引き起こす遺伝子がいくつもあって、それがある以上変異が増えると発癌する。最初からある程度の変異を持つのがいわゆる癌家系だ。しかし、1個や2個の変異では、生命はもちろん、日常生活にも全く支障はない。そういう些細な変化が積み重なって最後におおごとになる。

それで言うところの、生命には別状ない段階での今回の再インストールだった。この辺りを見極める力も大切だ。それから人体においては、再インストールというのは今のところできないために、異なる対処法が必要となってくるのだ。

■2003/04/21 (月) 再インストールしたからわかった、より良いものの存在

昨日はそんなことを書くつもりでなかったのに、パソコンの再インストールが癌遺伝子の話になってしまった。元々は、パソコンというのはpersonal computerであって、personalというのは「個人の」という意味であるから、たくさんカスタマイズして当然だ、ということを書くつもりだった。つまり、再インストールしてから元の状態までの復旧が簡単なパソコンは、それはpersonalな部分をよく使いこなしていないということになり、まだまだ可能性を秘めているとも考えられる。

各種ソフトをもう一度DLし直しているわけだが、これまで使っていたタブブラウザのDonutPがどうも調子が悪く、Lunascapeというほとんど同じ機能のソフトに乗り換えた。私との、また私のパソコンとの相性の問題が大きいと思うのだが、乗り換えてみると、こちらの方が細かい機能も良く、むしろ快適になった。

このことは、再インストールしなければ考えもしなかったことである。逆に今は満足しているので、これ以上のソフトを探そうとは思わない。よく「一旦客が離れたら戻りづらい」という内容のことを、それぞれの立場の言葉で言うのだが、実際よほど不満足を感じたり、何か強い動機付けがない限りは、今ある環境を好きこのんで変えたがらないだろう。他社との違いを売り込むのが営業で、不満を感じさせないようにするのが普段の努力だろう。

再インストールは、本来は面倒であまりしたくないことである。しかしそのことによって今回のような快適さが得られるようになったのならば、むしろ良かったことである。転んでもただでは起きない、と言うと精神論で終わりだが、今満足していることの中にも、まだまだ自分にはわからない、もっといいものが隠れているのではないかと、常に考えるようにしたい。

■2003/04/22 (火) チェーンメール考

次のようなメールが、とある医学生から回ってきた。

突然で申し訳ありませんが、僕の友達から来たメールを転送致します。その友達は(大学名)からまわってきた緊急連絡なのだそうです。
(名前1)さんと云う人が悪性リンパ腫と云う病気で緊急にRH-B(マイナスB型)の血液を必要としています。該当する人は(大学名)にご連絡を!(大学名)→(電話番号)(名前1)さん→(メールアドレス)協力お願いします!!(大学名と所属)(名前2)
お手数ですが、思いあたる方はご連絡・メールにて聞いて下さい。できれば一人でも多くの人に回して頂きたいのですが、宜しくお願いいたします。

ふーんと思い、単なるチェーンメールだと考えた。まず第一に、メールのタイトルがFw:7個の後に、また違う大学名があり、そこで切れていた。Fw:が7個ということは、1人が5通出したとしたら5の7乗は78125で、10の7乗は一千万だ。これだけ回って本当の話ならば、マスコミで報道した方が効率がいい。1億2千万の視聴率10%で一千二百万だ。

そもそもこのメールを書いている人の次点で、「僕の友達」が聞いたこと、つまり又聞きの又聞きである。情報の正確性はこの段階で既に怪しい。だいたいが、友達の友達は既に友達ではないのだから、そんな見ず知らずに人のためにみんな頑張って回してきたようだ。

悪性リンパ腫、というのも、なかなか微妙な病気を持ってきた。怖そう、でもよくわからない、という、一般の人にとっての未知な単語が大いに不安をかき立てる。医学生的には、化学療法か放射線療法が基本で、結構治るが、輸血はしないような気がする、というのが第一感である。あねごのページ(4/21)によると、「手術をする」バージョンもあるらしい。普通しない気がする。

由来を探るとRhesus monkeyの頭文字なのでRhと書くなぁ、とか細かいことなどから、少なくともこれを書いている人が、医学的な知識がなく、なおかつ関係する本人とかその直近の家族でもないことが示唆される。「血液が足りません」という説明を本人や家族にするはずがないからだ。実際にRh(-)の血液は日常的に足りないこともなく、それでももし必要な場合が生じれば血液センターから登録者へ連絡する。Rh(-)の人は自分たちの稀さをわかっているために、登録している人が多い。

">実際にRh(-)の血液は日常的に足りないこともなく、それでももし必要な場合が生じれば血液センターから登録者へ連絡する。Rh(-)の人は自分たちの稀さをわかっているために、登録している人が多い。

ちょっと医学的に突っ込んでみると、悪性リンパ腫の治療の中には、手術をする場合もあり、その時には確かに血液は必要となる可能性はある。しかしその量が膨大になるとか、このような形で募るほどのものかについてはかなり疑問だ。また、末梢血幹細胞移植というのがあって、HLAという細かい血液型が一致する人の血液が使われることもある。これはRhとかABOの血液型とは全く別物で、骨髄バンクとかに登録していない限りわからない。この点からもメールの内容は全く疑問だ。

チェーンメールたる最大の根拠は「一人でも多くの人に回して頂きたい」である。この言葉があればどんな内容であってもチェーンメールで、内容も多くは嘘である。この辺りは詳しいHPがあり、「チェーンメール」「見分け方」などで検索してみるとどこにでも載っている。「善意系」などと分類されていたりもして、ウイルスに注意と同じ系統である。

そこに書かれた連絡先へ本当に連絡が殺到したら、かなりの迷惑になる。個人もそうだし、ネットワークへの負担という点でもだ。AB(-)の妊婦が前置胎盤で・・とかいうバージョンもあるらしいが、そこに書かれた病院へ連絡が殺到して、日常の業務に支障が出たという。病院だけに業務を妨げることはある意味殺人にもなりうる。また戦争反対の署名バージョンもあるのだが、これでアメリカ政府だか国連だかに大量のメールを送り、サーバーに負荷をかけて機能を麻痺させて、ある意味テロかもしれないという笑うに笑えない話もある。それが狙いかよ。

今回のチェーンメールで最も特筆すべき点は、いいことをしているようだということと、自分が回さないとその善意を無にしたり、その人の命に関わってしまうような気がすることである。あくまでこれは「気がする」だけであって、実際に本当に善であれば人伝にメールなどという不確実なことは取らない。もしもあなたが病気になったときに、取る手段がこのようなメールを流して返事をじっと待つことしかなければ、それは医療制度としての問題だろう。回すか回さないかという個人レベルの判断の問題ではない。そのような心理的背景も含めて、流行りやすいチェーンメールであると考えられる。

■2003/04/23 (水) 新人にまず教えること

塾に新人講師が入ってきた。まだ何も知らない段階なので、塾講師のあり方を一から伝えていくことになる。相手もまだ、余計な知恵も自信もついていないので、素直に聞く耳しか持たない。実際にやっているのを見学してもらうのが普通だが、私はその後で、どのようなことを考えているのか話をする。

中学生に英語を教えるなどということは、たいていの大学生にとって、問題を解くのは容易なことである。参考書的なまとめも(例えば、過去のbe動詞に動詞のing形をつけたら過去進行形で「していた」と訳す)さして難しいことではない。むしろ「何を教えるか」よりも「どう教えるか」ということがテーマとなる。

例えば、受動態を教えるときに、先生がある生徒を殴ったら、その生徒は先生に殴られたことになるよね、とか話をする。私が犬にかまれたら、犬は私をかんだんだよね、など。そして単語も内容も平易な文章を例に出し、初めての文章を提示する。ここからあとは誰がやっても同じようなまとめになるのだろうが、そのまとめの前の段階までが塾ならではの部分であり、しかも講師の個性が出せる部分だと思うのだ。その上これといった絶対的な正解もない。

新人たちはまだ授業もしていないのだが、このような高度なことをあえて語る。最初に目標と楽しさを伝えたいからだ。どこかでこれをやったな、と思ったら、高校生に(一見かったるい)5文型の大切さを教えたときだった。将来的にどのようになっていくものの第一歩なのか、というのを教えることは、その道の先人に課せられた義務であると考える。

■2003/04/24 (木) 地方自治 46人選挙の戦い方

40人が定員の市議選に46人が立候補している。議員1人あたりの人口はおよそ1万人だが、ちょうど1万人だとすると定員を36人にする必要があることになる。定数削減には「民意が反映されなくなる」として反対の声があるらしいが、議員1人あたり1万人なのか9千人なのかはどちらでも根拠がない。桧枝岐村の人口はおよそ640で村議は10人だという。議員1人あたり64人という計算になる。

議長と副議長が場外乱闘 昼酒で席順めぐりけんかというニュースもあれば、「選挙が近いから」とか言って、議会を仮病で休んで後援会関係者とゴルフに行くような議員もいると報道された。地方自治って何なのか考えさせられる。

さて、46人が市内を選挙カーで回るわけだが、選挙戦の1週間の間に46人であり、同じ場所には2回は行く余裕がないと仮定し、平均すると1日に6,7人が来ることになる。こうなると名前を覚えるどころの騒ぎではなく、ただうるさいだけだ。46人から候補者を選ぶというよりは、何人かピックアップしてから考えるだろう。よほど個性か地縁か血縁かがないとピックアップすらされないだろう。もし当選を目論んだとしたらどうするだろうか。

私であれば(今のところ政治に興味はないが)「うるさい選挙運動をしません」という公約を掲げ、ポスターや広報などの文字情報に力を注ぐ。多少難しい内容であったとしても、定員40人なら得票の40分の1より少なくても受かるわけで、ほんの1,2%の人に理解していただき、投票していただければいいのだ。内容がしっかりしていれば十分可能だろう。次の選挙で同じ公約を掲げる人が出てきたら問題だが。

もう一つ、ひたすら特定の地域に顔を売ることである。車と拡声器など要らない。自分の足で歩ける範囲で、肉声が届く範囲で、選挙運動を行えばいいのだ。当選した暁には、その歩いた範囲の人たちの声を市政に反映させていけばいいのだ。そういう活動スタイルをとるのであれば、冒頭の議員1人あたりの人口にはある程度の根拠が出てくるだろうが、今のところそういう話は聞いたことがない。個性を出しつつ、地方自治の基本をおさえていると思うのだが。

■2003/04/25 (金) 模試結果と学校の成績の不一致から留年を考える

新6年生対象の医師国家試験の模試を受けたが、結果が返ってきた。締め切りの前日の夜中と締め切り当日に、眠い目をこすりながらやった努力の結晶だ。つまり実力も気合いもどちらもない、最悪の状態でやった試験である。そもそも私は5→6年へ進級できなかった下位5人に入っているわけなので、私よりもできの悪い6年生がいると問題だ。ところが今回、進級した6年生のうち少なくとも1人は私より悪かったようだ。(全員が受けているわけではないので、「少なくとも」1人である)

全国順位でも1850人中1608位だった。242人が私より下にいることになる。彼らの多くはおそらくあと1年で医者になっていくのだろう。それは何の違いかというと、学校の進級判定の差異であると考えられる。国家試験的な知識の有無と、大学で進級していけるかは別物で、また、ある大学で進級したからといって、それが他の大学と同じというわけでもない。試験も講義も雰囲気も、何もかもが異なるのだ。

今年の医師国家試験の合格者が発表になり、8551人のうち90.3%が合格したという。私の大学では、今年卒業した人の中では2人しか落ちなかったらしく、なかなか優秀だ。合格率を上げることが大学の使命だとは思わないが、そのような方針で、ある割合で留年させているという見方もある。そんな中に挟まっちゃったんだな、と半ばあきらめ気味に思うことにしている最近だ。落ちた科目も知らされないのに、まっとうに納得しろと言う方が無理である。

■2003/04/26 (土) 気のおけない飲み

今日はバスケ部新歓コンパで、しかしメインは新歓自体ではなく、その後に行われた自主的な3次会で、気のおけないやつと二人で焼き肉などで飲んだことだ。ということで今日は日記を書く余力はなく就寝。

■2003/04/27 (日) 同居問題

私の実家が市内に建った。父の定年まではあと1年あるが、もうすぐ完成だ。これまで親と同居する気は全くなかったのだが、冷静に理を詰めて考えてみると、住まない理由は特にない気がして真剣に考えている。

第一に経済的な問題がある。父の定年と同時に卒業する予定だったのだが、それが1年は遅れた。お金がないわけではないのだが、使わなくて済むものであれば使わない方がいい。家賃などで月5万とすると、2年で120万になる。結構いい車も買えるだけの金額だ。

第二に一緒に住むメリットがある。洗濯などは私への負担が減る。食事もある程度お世話になったり、まぁなければ自分で作るのは今と同様だ。食材を腐らせることは今よりも減るだろう。親の顔を見ることは、私はそうでもないが親は喜ぶだろう。

デメリットを考えるのだが、大学生との生活リズムの違いや、実家ならではの不自由なところがあると思う。なんだかんだ言って、人と人が一緒に暮らすということはそれなりに大変だ。お互いの存在を無視するわけにもいかないし、干渉し合うと双方が疲弊する。

留年していなくて、大学生活残り1年ならば、同居という選択は考えなかった。これが大学入学時とか低学年の時ならば、やはり家から出たがりな年頃で、無理を言ってでも出ただろう。しかし現在は、ある程度やりたいことも好きにやって、もう勉強などに力を注ごうとしている時期だ。それを考えると、いっそ一緒に住んでしまうという手は、十分ある選択枝なのかもしれないと思い、今日悩み始めた。

■2003/04/28 (月) 旅行記−函館編−

すいません、600km走りました。全然へっちゃら。

函館に遊びに来ている。途中、余市(小樽の近く)の柿崎商店2階でホッキ飯、鮭汁、カスベの煮付けを食べた。以前から噂は聞いていたのだが、なるほど安いのにおいしい店だ。それから島牧(距離的には札幌と函館のちょうど中間で、日本海に面している)のモッタ海岸温泉に行った。食塩泉を除けば北海道で最も濃く、放射線量も全国で2番目、というお湯の良さが売りだが、期待を裏切らないものだった。今度は是非とも泊まって海の幸も食べたい。お湯とか食事内容とか、それよりも何よりも、家から300km離れていることが最大の難関だ。

函館では桜が開花したそうだが今日は見ていない。水無海浜温泉という「干潮の時には入れます」らしい海抜0mの露天風呂に行き、見てきた。野趣深いというよりは、暖かい海にしか見えなかった。なめたらしょっぱいし。

宿のスタイルには色々あって、男女別相部屋でわいわいと話すようなところ、ビジネスホテルのように寝床を提供するところなどだ。相部屋だと他人とのふれあいがむしろ楽しみの一つになるが、個室になると、他人の話し声とか物音がむしろ不快に聞こえたりする。スタイルの違いによって正反対になるのが面白い。したがって、話がしづらい相部屋や、隣の声が漏れやすい個室は、この観点から言うと良くないものに分類される。

■2003/04/29 (火) 旅行記−野宿編−

今日は某市の某市場で「ここは薄野か?」と思うくらいの(薄野=ススキノ:私が以前行った頃は激しい客引きで有名だった札幌の繁華街)客引きにあったり、ハセガワストアの「焼き鳥」という名の「焼き豚」を食べたり(見た目は焼き鳥風だが豚肉)、桜をみたり、おいしいものを食べたりして、本日も満喫。これから某道の駅駐車場にて、車中泊を決行します。

■2003/04/30 (水) 旅行記−温泉民宿編−

車中泊なのに思いのほか熟睡し、思わず寝坊。薬師温泉で足下から湧き出す温泉に入る。昼に6年来の大学の友人と合流。辛いカレーを食って、キノコ汁を食べ、焼き鳥を食べ、温泉民宿に宿泊。露天風呂は屋根があって星を観る用ではないのだが、目の前にうち寄せる海の波が、音響効果と共にワイルドさを感じさせる。部屋でも同様に波の音が子守歌だ。これから6年分の思い出話に花が咲く?