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おいしい朝ご飯を食べて、水が湧き出しているのを見て、泥湯に入り、混浴なのに連れ(男性)しかいなくて意味ないし、おいしい鮨を食べて、夕陽をみて、岩・崖をみて、帰ってきた。全部で1700qは走ったと思う。明日の学校に備えて就寝。
今日は午前中に講義があったが、そのまま学校から先日とは別の6年生に拉致され、知床まで行って来た。多量の鹿をみたり、温泉に入ったり、長距離運転したり、相変わらずの休日を過ごした。学年が違うようになっても声をかけてくれる友人達がありがたい。
久しぶりにバスケを見て、ちょっとやって、汗を流し、家に帰り着くとぱたりと寝てしまった。体を動かすのはいいことだが、非常に体に負担がかかるスポーツだということも今さらわかった。温泉でも行くか。
それにしても、GWらしいGWだ。一生で最後かな。
とある温泉に行った。救急車を呼ぶとかいう声がしたので思わず駆け出していた。救急車が来るには30分かかるような山の温泉なので、「本物の」医者がいなければ、ここで最も医学知識があるのは自分だという自負もあった。その人は転倒してメガネなどで目の下の頬を切り、かなり出血していた。
最も危険なことは、誤った応急処置をすることと、本人がパニクって(そして周りもパニクって)必要以上の行動をすることである。状況をみると、意識はしっかりしていて、痛いとか言っている。まずここで「すぐは死なないな」と安心する。傷口は5cmあまり裂けていたが、一見してありえない形態をとっているとか、見えてはいけないものが見えているとか、そういうことはなかった。血が止まればここですることはないし、凝固系に異常がなければ血は間違いなく止まる。場所が場所だけに本人は不安がって「死んじゃうよー」とか言っていたが、「絶対死にません」と言い切っておいた。血なんか献血でも400mlは採るし、1リットルくらいでも全然問題ない。しっかり傷口を押さえていれば1リットルなんか出るわけもない。まずは不安を取り除いてもらうのが先決だ。
応急処置としては、押さえる以上のことは特になく、目に血が入らないようにとか、もしも喉の方に血が落ちていっているのならば飲み込まないようにすることくらいだ。押さえているタオルが消毒とか無菌とかいう概念的には(水できれいに洗いましたから、とか言って普通に手で絞ってるし)不潔そのものであるが、この際そういうことを言っても仕方がないしあまり意味もない。頭を上げろとか下げろとか言い出しそうだったのだが、あんまり怪しい指示は(善意なのだろうが)勘弁願いたい。こういう場面で誰がリーダーシップを取っていくのかというと、知識の面で特にトレーニングを受けた人がいなければ、わりと声の大きい人とか自信がありそうな人になりがちであり、そのことは医学的には非常に不確実だ。そういった意味で私はできの悪い医学生ではあるが、最低限のことには対応できる力を身につけているのだと感じることができた。
巷の応急処置もなかなか危うい。私の母は、その昔私がやけどしたときの応急処置に某軟膏を塗って得意げだったが、今考えるとやらない方がよい処置だ。2002/06/29に遭遇した交通事故の時には、集まった消防団の人などが、叩いてみて響かなければ骨まではいってない、とかやっていたが、どうせレントゲン一枚撮ればわかるのに、患部を叩いてもっと悪化したら(例えばひびが広がるとか)どうするのだろうとか、思うことはあった。
医学生の思考として、まず事実だけをみて、診断をして、治療方針を考えて、その上で今できることが何かを順に考える。一般の人は「鼻血だと上を向け」的な対応止まりだろう。そもそも鼻血で上を向くのは誤りだし、鼻血の原因を考えなければならないし、その原因がわかっているから処置が決まるのであって、最初と最後だけしかない格言とか、見た目がよく似た場合の処置を他の例にも当てはめることはよくない。この辺りの違いがわかることが専門家との違いなのだと思う。私も医学の面では専門家の端くれだ。
生体肝移植のドナー(提供者)が死亡したという。かなり複雑な問題をはらんでいるため、注意深く報道などを確認している。
まずは生体間移植という側面である。生体からの移植というのは、死体からもしくは脳死からの移植とは、健康な人にメスを入れるという面で大きな違いがある。メスを入れることは少なからず負担になり、その結果の一つとして今回の死亡例がある。
ドナーに関して、現在では家族に限られているのだが、家族に対して有形無形の圧力がかかることが予想される。つまり、どうして子どものために自分の肝臓をあげないのか、ということである。実際、街頭で募金を募っていた父親が「お前も腹を切ってもらえ」と言われたこともあるという。提供は本来(そして規則としても)自発的な意志で行われるべきだが、家族の中で自分しか提供しうる人がなく、提供しないという選択が、即家族の死へとつながるような状況で、果たしてどこまで自発的でいられるのかは疑問だ。
生体肝移植の第一例が杉本裕弥ちゃんだったということや、外務大臣だった河野洋平氏が息子の太郎氏より生体肝移植を受けたことは、知っている人もいるであろう。これらの報道を美談にすればするほど、同じような状況の親たちに対する「移植をしなければ」という思いは強くなる。河野太郎氏もこの点を指摘している。
これらのことから考えて、本来自発的であるべき提供の意志が、社会的な背景を基にして決まることがあるとわかる。そして今回その結果として、ドナーの死という結果になった。この死は、一面では子どもを助ける治療という医療の結果であり、しかしもう一面では医療というものができたからこそ生まれたものでもある。Yahooニュースから引用するとこうだ。
移植前の検査で、脂肪肝と診断され、家族はいったん移植をあきらめたが、女性自身が「それでも娘を助けたい」と申し出たという。
この女性の選択を生むことは、果たして医療の進歩と言えるのか。確かにこれまで日本では2000例あまりの生体肝移植が行われてきて、そこで助かった患者も多い。しかし新たに生じる問題をどうするのか、また、そもそも生体肝移植というのが医療の最終形態としては不完全なものなのではないか、という考えなど、同時に直面する問題も多い。
決して今回のケース固有の「肝臓を多く取りすぎたのがいけなかった」という次元の話で終わらせてはいけないと考える。肝臓を多く取らなければならなかった理由や、元々の肝臓の機能の問題として、普通の人より多く残っていても安全ではないなど、そういう話も確かに大事だが、生体間移植が構造的に持つ問題点に注目しなければ、必ずやまた同じような問題が起こるであろう。
■2003/05/07 (水) 目の前の患者を救うための、矛盾をはらむ治療法
正直に言うと、昨日今日は「いい日記を書こう」として肩に力が入っていて書けなかった。生体肝移植についてはかつてから考えていたテーマであり、たまたま目に入ったニュースを見て感じたままを書いたものであったが、そんなものが毎日あるはずもない。時折自分で気づくのだが、何か大きな意図を持ってやろうとすればするほど、動きは不自然に、そして苦労のわりにうまくいかない。持ってないものは出せないのだ。
高校生の時、新聞の投書欄で私の文章が採用された。当時はまだ高校生・中学生のコーナーがなかった頃で、密かに結構自慢だ。そのときの内容は「色々問題はあるが、脳死臓器移植を認めていかなければ、目の前で死んでいく人がいる。提供したいと思う人が提供できる社会にしていかなければならない」とかいう要旨だったのだが、今考えるとなかなか若々しい。
法律でその治療を推奨するように定めると、社会全体に強制するという面がある。日本ではそうなっていないが、アメリカでは脳死からの臓器提供について、意思が示されていなければ提供するものとみなされたりする。
また、その治療をすることが方針として定められると、それ以外の治療法が試されなくなる。今のところ臓器移植しか治療法のない病気があったとする。確かに移植をして目の前の患者さんが助かっていっているが、移植以外の治療法の開発という点で考えると、移植に手を取られてしまい明らかに手薄になる。
アメリカでも、当然日本でも、移植待ちの患者は多くて、慢性的な「臓器不足」に陥っている。脳死で死ぬ人の方が治療を受けたい人より圧倒的に少ないのは明らかだ。そして臓器移植は、根本的には代替医療であり、元々持っている臓器の機能を戻したり、人工臓器で代えるのに比べて、その場しのぎ的な位置にある。提供を受ける人が「他人の死を待つ」脳死移植や、健康な人にメスを入れる生体間移植における、なんとも言えない矛盾点はここから生まれる。
行列が何とかというテレビ番組の聞きかじりだが、小さな視点で見たときに不法行為っぽい内容であっても、大きな視点で見たときに悪いことを推奨することになれば、その不法行為を認めないというものだった。そこで出ていた例では、不倫での駆け落ちを一方的に破棄したのは悪いことに見えるが、かと言って不倫で駆け落ちしようと言うのを支援する形の判決にはできないということだ。
脳死移植も生体間移植も、ドミノ移植なども典型的だが、目の前の患者さんを救うという点では一応成功を収めているのだが、根本的な矛盾を抱えていると私は考える。ただ、目の前の患者を見殺しにするかという点において、根本的な矛盾を抱えたままでいいと思う。そうした矛盾と、そこから生まれるドナーの死亡などの問題点を、全て受け入れる覚悟をした上で、そうしたリスクも合わせてその治療法を社会が選択するというのが、医学における最善手であろうと思う。医学においては、そうした社会への広報が随分と不足している。
「士気が上がる/下がる」とかいう言葉は、第一感として、戦国時代のシミュレーションゲームにおいて使われる気がするが、集団で事に臨む人々の意気込み・熱意、という意味もあるとgoo辞書に書いてある。私は自他共に認める論理派だが、意外とこの「士気」は大事だなと感じている。
自分が何かをしようとしたときに、それを他人から、できれば同じ集団に属する上の人から、そのことが認められると非常にやりやすい。「やり甲斐が生まれる」と表現してもよい。逆に、自分が何かやっても認められなかったり、とても思い入れをもってやっていることを、他人、それも上の立場の人からぞんざいに扱われると、かなりやる気がそがれる。
例えばアルバイトにしても、同じ仕事内容で同じ給与だったとしても、そこにねぎらいの言葉がつくのとそうでないものとでは、やる気が異なり、出る結果も違ってくるだろう。この側面は、数値などで量として捉えることが難しいために、とかく軽視されがちである。しかし人を一人多く雇うのと、今いる人の士気を鼓舞するので同じ結果を生むのであれば、後者の方が経済的だ。
だから本当に全体のことを考えている人ならば、個別の合理性を追求していくだけでなく、それを構成している人の士気を上げるようなこともやるはずである。それができない大人は本当の意味での大人になりきれていないし、自分で自分の士気が下がっているのを感じ取り、それを上げていくような動きが取れるようであれば、それはかなり理想的だ。やる気がないのに義務感で頑張るのは大変つらいが、やる気が出るように自分を仕向けることができれば、とても楽に乗り切れるような気がしている。
■2003/05/09 (金) サスケ覆面は問題とするべきではない
サスケの覆面問題が報道されている。なんだか話がおかしくなってきた面もあると感じている。
まず、同じ議員の立場で是非を議論しているのが構造矛盾である。国で言うと立法府の人間をやめさせることができるのは、行政府か司法府である(行政府は解散で)。立法府が立法府を律することは構造的に自己否定だ。議会の議論上、気にくわないやつをやめさせることが可能であることを示唆する行動である。この場合、覆面を取らないことを公約とした人に取れと言えば、それは公約を守ることを妨げることになる。
立法が立法を、の構図が県ではなく国レベルで起きると大変だ、と思ったが、議員辞職勧告決議案とか問責なんとかとか、そういえば耳にしている。「決議に拘束力がなく」と報道されるのは当然で、あったら大変で、この点については河野太郎氏のHPで問題点が挙げられていた。(生体肝移植のことを調べていて発見した)
本人確認できないのが問題だと言っている人もいるようだが、本人確認するのが目的であれば、議場に入る前にマスコミとかがいないところでマスクをはずして本人だと確認してから入ればいいし、本人確認するだけであれば、指紋でも声紋でも虹彩(目)でも、いくらでも本人確認する手段はある。
TOP当選したという事実はもっと重要に考えたい。これが国会議員でもそのまま通ったのか、例えば知事ならどうなのか、大統領とか首相がもしも直接選挙で選ばれるとして、有権者はこれを選ぶのか。私はそのどこかに線引きがあると考え、その線引きは有権者一人一人の中にあって、今回の選挙において、その線引きは「なってもいいよ」という結果を出した。だから今さら何を言うべきではないと思うのだ。
治療の結果治らないと「あの病院はやぶだ」などと噂を立てられるのは医者だが、新聞広告に出ているなんとか茸とかで治らなくても「詐欺だ」として訴える人はいないように思う。これは根本的に期待されているレベルが違うのであって、高いお金を払って「医療ミスだ」と言うのか「効かないじゃないか」と訴え【ない】のか、それは本人の期待にかかっている。
今回のケースで言うと、まぁ県議会くらいなら覆面でいいよ、という気持ちが有権者にあって、だからこそ「解職請求」とかの動きが有権者の間から起こることはない。議会はまず、「覆面でもできるんでしょ」と思われていて、その程度の期待を受けているのだということを自覚し、目を向けるべきである。しかしこれを認めるとそれこそ自己否定か。
やめなくても覆面を取るだけでいい、という意見もあるかもしれないが、そもそも公約というものが選挙対策であることを暴露している意見だ。公約を有権者に知らせることは選挙活動で保証されているが、前の任期でその公約を守ったのかが知らされるのは保証されていない。国政でなければ報道も大きくないので、本当に自分から積極的に知ろうとしないとわからない。この点からも「まぁ県議レベルならいいんじゃない」という有権者と議会の関係のレベルが知れ、今回のような波紋を呼ぶことは過剰反応であると考える。
スポーツにおいてドーピングと聞くと反射的に悪いものだと思うが、それはなぜいけないのだろうか?インターネットチュートリアルで、今話題になっているのだが、普段考えずに何気なく済ませていたことを考える機会ができたことは収穫だ。
1つには、選手の体に悪影響を与えるという理由が考えられる。しかし、それは社会悪だとしても、個人の意志として「死んでもいいから優勝したい」と思っている人には、あまりに無力な言葉となる。「5年後に確実に死ぬが金メダルが取れる薬を飲みますか?」という質問に、半数以上がYesと答えたアメリカのオリンピック選手へのアンケートもあるという。
2つ目に、勝つことに近づく手段はどこまで認められるのか、という論点がある。最近では、体内にある物質を飲むことによって、高地トレーニングと同じ効果が得られたりする。では高地トレーニングは良くて薬を飲むのはダメなのか、と問われるとどうだろうか。蛋白同化ステロイドという、筋肉がつきやすくなる薬はもちろんドーピングだが、いわゆる「プロテイン」を飲むこととか、蛋白の多い食事をとるように気をつけることは、どこに境があるのだろうか。高地トレーニング、用具の開発、練習場所など、お金があるとより効率的なものは、薬以外ならば認められるのだろうか。
3つ目に、不公平(unfair)だという理由が考えられる。片方で血のにじむような努力をしている人がいて、片方で楽して筋肉隆々担っている人がいる構図である。人々がオリンピックをあれだけ熱心に見るのは、そこに至るまでの努力の経過を下敷きにしているからという面もあるだろう。鍛えられた筋肉を見たいだけなら、ボディビルの大会を見ればいいのだが、ボディビルを見て「感動した」とはあまり聞かない。
競技そのものの目的もあるように思える。なぜそこまで勝利を求めるかというのに、単なる勝者の栄光と名誉の他に、金銭的な面もあるであろう。オリンピックの商業化が問題とされていたが、広告効果や金メダリストのその後を考えると、確かに手を尽くして勝ちたい気持ちもわかるような気がする。ドーピングを個別に取り上げ、どの薬も禁止リストに加えろとかいう次元ではなくて、そもそもどうしてドーピングをやりたがるのか、という面にも注目する必要がある。
むしろ私は「ある一定のルールの下に競技を行い勝敗を競う」という構図で捉えたい。バスケットは2歩までしか歩けないがハンドボールは3歩目までOKだ。ここに意味なんてなく、そのようなルールの下でその種目をやるだけだ。従って、ドーピングに関するルールもその一環としてあって、そのルールはみんなが守ってやっていき、禁止されていないものはやっていい、と考えていくのがよいと思う。そもそもスポーツが人為的なものである以上、そのルールに普遍性や論理的必然性はなく、大いに恣意的であっていいと思うのだ。
昨日の日記だが、複数の筋から意図していない反応が来たので補足します。ドーピングはやってもいいことだ、というのが主旨なのではなく、風邪薬で引っかかるとか、自分の血を予め採っておいて直前に体内に戻すことはチェックできないとか、そういう境界例に対しての考え方は、理屈で説明しきれない部分があって、それは「きまりだからいい/悪い」と言うしかないのではないか、ということでした。
■2003/05/11 (日) 高いキャベツをめぐるお好み焼き屋の戦略
今はキャベツが高い時季だと、行きつけのお好み焼き屋の店主が言っていた。「それじゃぁキャベツは少なめでいいですよ」と冗談で言ったら「いや、こういう時ほどたくさん入れるんですよ」と言われた。確かに言われてみるといい方針だ。
外食産業の勝負は二つに分けられて、一つは最初にその店に来てもらうこと、もう一つは2回目以降も来てもらう、つまり常連・リピーターになってもらうということだ。前者は広告や口コミであり、広告についてもまた詳しく考えることができる。しかし地理的条件などを考えると、客は有限であるから、後者をどうするかがその店の成功を大きく左右することになる。
2回目に来てもらうかどうかというのは、言い換えると実は1回目の一発勝負だということである。そのときに印象が良くないと次からは来てくれない。マイナスの口コミなども生まれる恐れがある。従って、仮にキャベツが高い時期で、主婦とかが「あーなかなか買えないなぁ」とか言っているときに、あえてたくさんキャベツをたくさん入れてあげて、そこでイメージを良くしておく。そうすると次にまた来てくれて元が取れる(大きな視点でみたときの利益が大きくなる)。キャベツが少ないと「やっぱりねぇ」ということになり、けちな店だと思われることになるのだ。むしろ安い時期に少しぐらい減っても誰も関心を持たない。そうしたメリハリが大切だという。
商売というのは、こうした観点が重要だと思うのだ。メニュー改良に力を注いで、確かにおいしいんだけど、という店でこういった視点が欠けて流行っていないことがある。店がすいてるのはいいのだが、もったいないなと思うことも多い。そもそもメニューを研究したりするのも大事だが、商売相手である客のことをもっと考えるべきだと思う。塾であれば生徒のことを考えて、病院であれば患者のことを考える。これこそが基本中の基本であろう。
■2003/05/12 (月) 人間関係が悪くなりそうなときにすること
人と人の間の関係を人間関係と呼ぶ。人間関係が悪い場面を考えると、たいていは「悪い関係がある」となる以前に「関係がなくなる」時期があるように思う。つまり、本当にお互いの考え方とか色々なことを、さらけ出して衝突した結果として悪くなるのであれば、それは実は関係が悪くなってはいないと考える。
本当に悪くなる状態というのは「あいつとはどうもな」とかいう状態でコミュニケーションが少なくなって、お互いが内に秘めた思いとか、誤解とか、そういうゼロの関係の状態とマイナスの想像を積み重ねた結果、悪い関係であるという認識が、お互いの心の中にできあがったものであるのではないだろうか。
いくつかそういう悪い関係を目にしたのだが、結局のところ彼らの間にはコミュニケーションがなくて、それぞれが思っていることを周りの人には言うけど直接は言わないとか、表面ではニコニコしていても陰では文句を言ってるとか、その人とその人の間の関係が破綻している様子が見て取れた。そしてその前段として、コミュニケーションのない時期が存在した。
関係が悪くなりそうで、でも悪くなっちゃいかんなぁ、という場合、私であればどうでもいいので話をする機会を持つようにする。こっちが思っていることを言い、相手が思っていることを聞いて、それは必ずしも一致するために言い合っているわけではなくて、一致しなくても、相手がどのような考えを持ってどのような事情があるのかを理解することができる。お互いの胸の内をさらけ出した状態で、関係が悪化するのはまた違う次元だ。
今はこうやって冷静に分析していられるのだが、おそらく頭に血が上って関係が悪化することがあると思う。そういう時に今日の日記を思い出して、わかりあわなくていいのであえてコミュニケーションをとるように心がけようと思う。実際内容がなくても、声をかけておくだけでずいぶん事態は変わると思うのだ。
個人的なメールの返信やこちらからメールを出すこと、掲示板やこうかん日記でもコミュニケーションなどが結構続いた日だった。ケータイメールで短いメールをやりとりするのもあるが、パソコンを使うとかなりのボリュームにすることができる。
インターネットを用いて越えられる壁はいくつかある。まずは地理的な壁である。例えば北海道に住む人が、中国・四国・九州地方の人と知り合い、連絡を取り続けるのは、かなりの労力を要するだろう。実は相手が東北とか北海道でも同じで、わざわざ会いに行かないでという「心理的な地理的な壁」というのも存在する。
次に時間的な壁である。メールは所要時間が実質ゼロで相手のもとへ届く。手紙だと数日はかかるし、書いてからポストに行くまでと、配達してから実際に手にするまでの間にもタイムラグが存在する。パソコンメールであれば寝てる人を起こさずにだが起きていれば即時的に、掲示板であれば都合のよい時間に見ることができる。
次に社会的な壁である。例えば一学生である私がいきなり教授とやりとりをするなど、一昔前では考えづらいことであった。身なりを正して、教授室を訪問するのにアポを取ったりそんな煩わしさ。また、自分では想像もつかないようなジャンルの人との接点が持てるのも現実で、そういう接点を新たに作る手段として、非常に有用だと思う。
私がこうして日記を書き続けるのは、そうしたものを取っ払った交流が持てるから、という面もあると思う。ただの私見である文章がインターネットという場に載せられた瞬間に、それは無限の広がりを持つ世界につながって、様々な可能性を持つことになるのだ。最初はそれが秘められているのが曲者だが、ちょっと今日は新たな可能性を感じた。
医局というのは、例えば「第一内科」のようなもので、大学での診療、研究、教育に携わるとともに、地域の病院へ医師を派遣する業務も行っている。○○市立病院が××大学第一内科と契約を結ぶと、人は変わることはあっても、継続的に○○市立病院は内科の医師を供給されることになる。
医師退職、補充なく休診続くというニュースがあり、これはその契約更新がうまくいかなかった例だと思われる。近年医者が余っていると報道していた各位には、このニュースをどのように考えるのかを責任持って発表してもらいたいものだ。おそらくシステムをかなり根本的なところから変えなければ、問題は解決しないと思われる。
医局を廃止しようとしている人もいるらしい。つまりはこのニュースのような医師不在が起こったときには、病院が医局と交渉するのではなく、普通の求人と同じく医師を募集するのだ。そういう時代になったとすると、本当に個人の能力が問われることになり、医者の卵としてはなんだかプレッシャーを感じる。
医局が地域に果たしてきた医師供給の役割があり、いわば各地方が医者の一本釣りをする制度と比べてどうなのか。コストの面と医師の質の面、安定性と採算と、どちらがいいのかという問いには誰も答えていない。机上の論では医師は過剰地域から不足地域に流れるようだ。しかし平成11年の調査で、北海道の212市町村のうち、52市町村121地区が「無医地区」だという。これが本当に解決されるのかは疑わしい。国民の健康を守る医師の需給関係を、ただの経済原理に基づかせていいのか。社会主義の国家ではないからこそ難しい選択ではある。
北日本の医学生の大会のため、秋田へ向かっています。特急の指定席にはコンセントがついていて私のようなパソコン中毒には便利だ。旅行といっても2日で4試合して、金曜発土曜の夜行で行って、日曜発月曜着の夜行で帰ってくるので、なかなかハードだ。しかもトラベラーズハイでデジカメとか買ってしまった。そういうわけで、この週末は日記がおろそかになる予定です。
再び列車内での更新。結局決勝で負けて2位。秋田新幹線こまちに乗って、盛岡で冷麺食って、東北新幹線はやてに乗って、東北本線つがるに乗って、帰ってきた。たくさんの人と話し、たくさんのことを見てきた週末だった。色々な意味で、自分が部活内外で6年間やってきたものを感じることができた。自分で言うのもなんだが、やはりなんとなく過ごしてきたわけではない、蓄積の重みを感じた。それともただの年の功か、あるいは親父発言かな・・
家庭教師をやっている生徒が塾に来ると、家庭教師の悪さと塾の良さを宣伝する。しかし、家庭教師を否定して塾を肯定するだけでは、その生徒が塾に入ったら経営的にはいいかもしれないが、成績が上がるとは限らない。
そもそも塾であっても家庭教師であってもよくって、本当に問題なのは本人のやる気である。本人のやる気がはっきりしないままでは、どちらをやっても意味がない。また、うまくその動機づけができれば、あとは頑張って教えなくても成績は伸びるのだ。本当に上手でいい講師は、塾に入らせるためであっても、決して「入れ」などとは言わずに、今勉強する必然性をとうとうと説いていく。本当にそれが生徒に伝われば、勉強する一つの方法としての塾を紹介するだけで目的は達成される。
物事を解決しようとするときに、今直面しているものだけを見ていては、本質的には解決しないところがある。家庭教師が気に食わないからやめるかどうか、とかいう議論をするとしても、「家庭教師あり」と「家庭教師なし」を比べるような次元ではなくて、そもそもどうして家庭教師が必要かを考え直して、もっと大きな目標、例えば入試とか、入試自体の目的とか、そういったものを考慮していったとき、じゃぁ今必要なことは何なのか?という問に答えさえすればよい。
感情的な行動というのは目の前の問題だけを考えがちだが、どうせその問題を解決したいのであれば、一歩引いて全体像を見て、大きな視点から本質的な問題に取り組んだ方がいい。可能であれば、自分が目の前しか見ていないときには他人から指摘されたいし、そうした見方ができるように他人を支援したい。しかしそれが難しいのが現実の社会なのだ。
ある人がある人について文句を言っているときに、文句を言うこと自体が目的と感じることがある。悪口を言っている、と表現してもいい。悪口を言う人は、悪口を言うことが目的だ。だから、それはその通りだなと思うことと、それは違うだろうということが、混在して熱く語られる。この時に「それは違うよ」などと突っ込んではいけない。どんな内容であったとしても悪口を言うのが目的なのだから、その目的を達成していることと、その人たちの関係が破綻していることを、しっかりと確認すればいい。
それにしても、どうして女ってやつは(こういう決めつける表現は嫌いだが、しかしあえて)それだけ仲間内で話をして、それだけ延々と愚痴ることができるのに、実際の行動に移す段になると弱いのだろう、と思う。問題を解決する気があるのであれば、当事者間で一番話をするべきであるが、往々にして意見の衝突は望まずに、自分の意見に賛同してくれる第三者への愚痴が増える傾向があるように思う。
本人のいないところで悪口を言うのは勝手だ、と考える人がいるかもしれない。確かに親しい人に愚痴ることは、精神状態を良く保っておくのに有用だ。しかしその悪口を言うことが周りにどんな影響を考えなければならないだろう。思っていることをただ言うだけなら簡単だが、思わぬ波紋を呼ぶことがある。そこでの発言が、自分のためか、相手はどう思うか、集団にとって利益になるのか。これらを考えておかないと激しく人間関係でトラブることになる。
でもな、そういう近視眼的な人が多いんだよな。
健康診断があった。年々身長が減少して体重が増加していることに悲しさを覚えた、のはいいとして。血圧が143−71だった。高血圧の基準は、かつては年齢+なんとかと言っていたが、130−85以下が正常で、140−90のどちらかでも越えると高血圧、この間が正常高値だ。つまりこれは高血圧ということになる。私は25歳にして高血圧だ。
と、そんなわけはなく。本当に病的な状態であれば、それは5分後でも10分後でもその値であろう。それは確かに危ない。数分そこに座って心を落ち着けて、安らかな気持ちでもう一度測ったところ、127−75であった。全然問題ない。このように、血圧というのは簡単に変動するもので、10や20の変動は大いにありうる話である(よく見ると71→75へ増えている)。逆に言うと、10や20の変動に注目することは愚かなことである。
医学的に素人であれば、その次元の変動を気にして、上がった下がっただのと言いそうである。実際祖母が入院しているときの母親たちがそうだった。それを指摘すると「だってそんなのわかんないんだもん」と逆ギレされることもある(幸いにも私の母親はそういうことはない)。病院で測った時だけ血圧が高い、白衣高血圧という言葉もある。
血圧を維持するために、例えば脈を速めるなどの色々な機構が体には備わっている。従って、何かをしたときに血圧が上がる/下がるという結論を出すことはなかなか難しい。しかしそれを研究対象として、これこれの作業をしたところ血圧がどうこう、脈拍がどうこうとやる人も世の中には存在する。私に言わせるとかなりナンセンスだが、その作業の優位性を示すべく、学会発表とかまでされている。
その上、仮に血圧・脈拍が変化したとして、じゃぁなんなんだ、ということになる。そりゃぁ30とか50とか変化するなら問題だが、5とか10とか血圧が上がるという結論を出したって、どうにもならない。測定する際の条件の差での誤差でもありうる範囲だろう。私の16mmHgの血圧の変化について、偶然担当だった部活の先輩である医師は「うん問題ないね」の一言で、低い方のデータをカルテに書き込んだ。
塾で教え始めて6年目であるが、これまではずっと英語を教えてきた。が今日初めて数学を教えた。正確には昨年7月下旬に高校生に数学を教えているが、私が今問題にしたいのは相手が中学1年だったことである。教える内容は、分数のわり算とか負の数のかけ算などである。
もちろんそんなものは大学生である私には簡単に解くことができて、説明することもさほど多くないのだが、いったい何まで教えればいいのかを探るのが問題だ。0÷X=0だが、X÷0=存在しないことなどは、教えたくなるが教えなくていいことだ。かけ算と同じだと思っていてくれればいいらしい。
普通に無難なことを教えていたが、53/5の計算において、生徒が125/5をやって、しかも計算間違いしているのを発見した。おそらく90点以上を取るためにはそこが大事なのだろうが、最初から押しつけだと「覚えることが増えた」で終わってしまうため、それを示すタイミングが重要である。「かけ算と約分では、約分を先に行う」というまとめを書くのも、塾としてはまた一案だと思うが、ちょっとパフォーマンス重視な気もする。
来週からも一年目講師のつもりで頑張りたい。
■2003/05/24 (土) 生徒を「小さなおとな」として扱う
私の塾での生徒との接し方は、中学生には徹底的に演じる、高校生には徹底的に本音でぶつかる、である。まず前者については、中学生相手にムキになっちゃいかんということも表している。中学生が相手なのにマジギレとかしている場合、それは単に「やられている」と考えた方がいい。分別がつかない年齢に対して、真剣な姿勢で対応することはある意味滑稽になる。「怒る」必要がある時には、怒っているように「見せる」ことだけで十分なのだ。
一方高校生に対しては、私は全く逆である。今日はたまたま授業中に喋ることについて取り上げたが、「授業中に『うるさい』と注意するようなくだらんことをさせるな。喋るんだったら月謝だけ払って塾の前で喋ってればいいんだ。勉強しようとして塾に来ている人に対して失礼だ。」と言った。これは私の本音であり、生徒がこの通りになってもらえれば文句ない。
このセリフを言うことは、実は中学生でもありうるのだが、高校生で違うのはこの後である。「君たち高校生を、中学生の延長の『大きな子ども』として見る見方と、大学生・社会人の一歩手前なので『小さなおとな』として見る見方があって、俺は(決して「先生は」なんて一人称は使わない)『小さなおとな』として君らを見ていきたいと思っているから。だからちゃんとやって。子どもにするようなくだらない注意をさせないで」と言うのだ。『大きな子ども』『小さなおとな』の考え方は母校で学んだ。
中学生と同じにやる先生もいるが、距離感を置き過ぎなのか、それとも能力的に劣るのか、どうにせようまくやれていない話を聞く。私はこの方法で生徒の自主性をうながし、力を引き出す方法で成功している。自分だってこの間まで高校生だったのだから、そういう相手を押さえようとするのか、それとも対等につきあうのかを考えれば、押さえられると考える人の力は知れているとも考えられる。
土日は非日常な生活だった。高校までの誰かに決められたレールを歩く生活ではなくて、大学に入って特に今年などは、自分のやりたいことだけやっていく、privateでも嫌なことはやらない、そんなわがままで自由な生活だった。少なくともそう思っていた。
なんだよ、そんなガラじゃねぇよとか、それはいいよとか、そう思ってきたことに、ちょっと義務的に、仕方ないなぁとかいう気持ちを持ちつつ、そんなので参加してみたのだが、意外と楽しかった。バカな飲み方をして、話をして、日頃一人じゃ絶対やらないことを、しかもやろうとも思わないことなのに、やってみると楽しいのだ。
自分の選択を通したくて、わがままになって、他人からの束縛を嫌い、自由な生活を送ってきて満足していたように思っていた。しかし、その満足は「目に見える範囲」での満足であり、既知のものの中でのbestに過ぎなかった。日頃の生活の9割は、日常はその範囲で構わないのだが、1割くらい、ほんのたまにでよいので殻を破って、ちょっとした羽目を外すことも大事だと思った。そういう「非日常」を体験することで、日頃の「目に見える範囲」が少し広がって、そしてよりよい「日常」を送ることができるようになると思うのだ。
■2003/05/26 (月) 単に愚痴れるhappyな関係
ただ話をする相手がいることは重要だと思っている。それが頼りになる力のある先輩じゃなくても、今直面している問題をぶちまけられる相手がいることは、その人の精神安定にとっても、また本業をしっかりとやろうとする上でも、どちらにもプラスになる。よっぽど仲が悪くない限り、一人と二人の間には大きな差があって、能力の点で同じであっても、単なる視点の違いで見えることやわかることがたくさん出てくる。
職場の中で、同じ立場の人がいないとやりづらいと思う。それがやめる原因になったケースも見たが、それは仕事がつらいと言ってはいたものの、その個人的な体験であるつらさを誰かと共有できなかったことが大きいと思う。愚痴を言ったからといって仕事のつらさ自体が変わるわけはないはずで、そうすることで自己の存在を認めてもらうことができるのだろう。
自分も誰かにとって、そのような役割を果たしている気もするし、自分にはそういう立場の人がいると思う。また、自分が他人にとってそのような存在でありたいと思う。これは立場とかも関係あるのだろうが、その関係で、お互いを「気軽な存在として」認められるかどうかがあると思う。こうした関係は、決して偏利共生の形ではなく、そうなることが、お互いのhappyになるのだろうから。そんなhappyがたくさんあるような職場がいいなと思う。
最近なんだかパソコンにさわっている時間が長いと思ったが、多くは自分が持っている情報を他人が見ることができるものに変えるという作業であった。つまり、真理・事実の発見としては新しいことは何も産み出していないのだが、productとしては新しいものを産み出している。そしてそれで役に立っている部分があるのだろう。
実際今年私がやるべきことは、おそらくは前者の方であって、知識を蓄えることなのかもしれない。その意味最近はやるべきことから離れているように感じていた。後者はただのテクニックであって、それは持っていれば誰でも使えるものであるから、持っているかが重要で、どのように使ったかはさほど重要でないと考えていた。
しかし、逆にそれができない人にとってこうした技術は重要で、教授にインタビューをするとか、写真を200枚撮ってHPにupするとか、試合結果と部員の一言をOBに送るためにまとめて文章化するとか、どれも自分以外には容易にできないことばかりだ。そう考えると、自分があえてそれをやる意味というのはあるのかなぁ、と思う。評価されるものも同時におさえておけば、評価されづらい「技術を使う」という点についても、自分で控える必要はないのかなと思う。
有形文化財は目で見ることができて重さとかがありそうだが、無形文化財はその価値を評価するのがなかなか難しい。学校の評価も似たようなものであるから、最低限のレベルでは、両方を持ち合わせていなければならないということが、私が学んだことである。
インタビューしたカセットテープがデッキに絡まって切断。小学生以来のカセットテープの分解をして、絡まった部分を切除、端端吻合(←医学生ぶってみた)。遅くまでテープ起こしで格闘したので、28日分の日記はお休みします。
私はこのような日記を書いて17ヶ月になるが、その前からも文章を書くのが好きだった。頭の中で考えをまとめるのも、自分の意見を表現するのも、どちらも好きだったし得意であるとも思っていた。そこで今回、1時間ほどのインタビューをテープに録音させてもらい、それを文字に起こしてまとめる作業もさして苦にならないと思っていた。
しかし現実取りかかってみると、1時間の録音を文字に起こすのは3時間ほどかかり、しかもそのままで「さぁ読め」とはとても言えないわけであって、それをそれらしくまとめていく作業にかかったが、これがなかなか大変だ。
まずは話している話題の順序がめちゃくちゃである。当然講演原稿とは違い、思いついた順に話していくので、関連する話題を見つけだして整列をかけた方が読みやすい。web上にupすることを念頭に置いているので、写実的に話した通りを復元するよりも、内容は変えずに読みやすく話をそろえた方がいい。
次に細かい言葉遣いである。最初に書いた「苦にならない」のは、実は自分の責任の文章だからであって、頭の中で理解している内容をどんな表現にするかをむしろ悩むのだが、他人の言ったことを表す言葉であるならば話は複雑だ。つまり私が理解している内容が本当にその人が思っている内容と同じかはわからないし、その内容を違う表現に言い換えることは色々と危険だ。
その場にいたからわかる非言語的なこととか、こちらもそれなりに予習していく持っている知識の量の問題とか、そのあたりも扱いが難しい。自分が読んでわかるだけでは意味がないというのは、中学生に英語を教えてみてわかったことだ。誰が見てもわかる表現で、なおかつ発言者の意図を変えずに、わかりやすい量と文体(と見てくれ)でまとめなければならないのだ。
これらが難しいが非常に楽しい。
4カ所(4人の別の人)から飯に誘われ、バイトを一つ断り、テープ起こしを上げ、やりたいことを大学に残したまま、洗濯をして、塾バイトへ向かった。飯に誘われるだけ幸せだと思う。でもなぁ、一斉に誘わなくてもいいのに。
「飯を食おう」という誘いは、決して食物を摂取することが目的なのではなくて、そういう場を持とうという意味である。誰かと一緒にご飯を食べるとおいしい、という意味は、楽しいからおいしいわけであって、本当にまずいものはみんなで食べてもまずいし、本当においしいものは一人で食べてもおいしい。その「楽しい」部分を求めて「飯を食おう」という言葉になる。
突き詰めていくと結局は、「話をしよう」ということなのであり、断った3人のうち1人とは、断りの電話でそのまま話をすることになった。仮にそこで話をすることがなかったとしても現実は進んでいくし、そこで話をすることが何かを解決することでないかもしれないが、そういう話をすること自体が大事になるのだと思う。今ある問題に対する具体的な対処法を提案できれば、それはすごい力になっているが、そればかりでなく、今ある問題を共有するだけでも、抱えていた方が楽になるものだと思う。
だからこそ、体がいくつもあったらそのような話があちこちでできるのに、と思ったのだった。
■2003/05/31 (土) ポップアップ広告とのつきあい方
ポップアップ広告とは、インターネット上での広告の一種で、今見ようとするページの他に、新たなウインドウを広告のために開くものだ。種々の調査がなされているが、おおむねユーザーからは不評であるが、バナー広告に比べてクリック率が高いらしい。
不評である理由だが、閉じるのが面倒くさいというのと、それによってパソコンの動作が遅くなる、フリーズするなどの2つがあると思われる。そうであれば、自動的に閉じさせる(開かせない)もしくは開いてもフリーズさせないような対策をとればいいことになるだろう。
私が今使っているLunascapeというブラウザは、タイトル抑止とURL抑止があり、最初にポップアップが開いたときにその広告を抑止リストに登録すれば、それ以後その広告は表示されないことになる。今ではこちらのサイトを参考にして、ワイルドカードを用いてさらに万全にできないかを実験中である。
Lunascapeのもう一つのいいところは、タブブラウザであるために、複数のページを見るためでも1つのウィンドウだけが開くことだ。今の私のパソコンでは、ポップアップ広告について検索した関係で21のサイトが開いているが、ウインドウは1つである。これはWindows98においてはかなり重要なポイントで、次々とソフトが開いていくとシステムリソースがなくなり、フリーズして強制終了再起動、という流れを私もよく経験した。パソコンが悪いとかWindows98が悪いとか言う人もいるが、単純にInternetExplorerを使わないだけで、かなりの問題は解決したりするのだ。
そもそもポップアップの方がクリック率が高いのであれば、民放テレビのCMと同様にユーザーは避けることができないだろう。広告自体の禁止を問題にするのではなく、広告とどううまくつきあうのか(この場合はどうやってつきあわないか)考えていくことが重要であろう。そのための個別の設定ができるからこそ、個人用の=personal computerという名前になっているのだ。
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