最北医学生の2003年6月の日常

■2003/06/01 (日) 風邪薬の副作用報道

市販用かぜ薬で間質性肺炎という報道があった。正直に言うと、市販の風邪薬の7割を占めていて、7年間で26人なら少ないな、と思った。

まず、どのような薬にも副作用があるということがある。副作用がない薬はきっと作用もない。体に何らかの働きかけをするのだから、その作用が望むものであるかそうでないかの違いだけだ。薬というと何でも治してくれて素敵なものというイメージがあるかもしれないが、そんなことはない。作用するのが意図するところと全然違うことだってあって、その一例がバイアグラだ。あれも当初は副作用だった。

次に頻度についてである。「厚生労働省が注意書きを書き換えた」というのがこのニュースにおける事実のようだが、何か重症の副作用が発見されたような印象を受けてしまう。それがどのくらいの頻度で起こりうることなのかを正しく認識する必要があり、報道する側にはそれを正しく認識させる義務がある。

交通事故に遭う確率に比べてこんなに低いと書いたページも見たが、そこで何倍、何分の1ということ自体にはあまり意味がなく、絶対的に評価することが大切だろう。10万分の1は1億分の1の1000倍である、において、1000よりも10万に注目せよ、ということだ。でも、数字を正しく理解するのは多くの人にとって難しいのかな。

広く注意喚起するのも大事だが、受療行動自体の研究や啓蒙は全くと言っていいほど聞かない。どういう症状の時に、何もしない、健康食品を摂る、市販薬を飲む、診療所へ行く、病院へ行く、などの行動を選択するのか。そしてそれを適切に振り分ければ、市販薬を飲んで体調が悪くなれば医者が診るだろうし、重症なのに放っておかれることもないだろうから、やるのであればこんなニュースで「注意を呼びかけている」レベルではなく、現実に即したきちんとした徹底が必要だと思う。

このようなことは「1次予防」といって、公衆衛生分野では確立された概念だが、概念が形になっているのを一市民として見たことはまだない。いったい誰がやるべきことなのだろうか。

■2003/06/02 (月) 密かに写真部員がデジカメを持つ

先日の秋田旅行では200枚の写真を撮り、翌週の花見(という名のバーベキュー)では70枚ほど撮った。だいたいの人は、そんなのありえない枚数だ、と言い、それ以外の人はあきれて何も言わない。自分としては何も無理をして撮った枚数ではないので、むしろデジカメのメリットであるランニングコストの安さをもっと生かそうと考えている。

2日で200枚撮ると、撮られる方はカメラに構っていられなくなってくる。その上私は「はいチーズ」とか「撮るよー」とか言わないので、いわゆるカメラ目線とかピースの写真が非常に少ない。そもそも、看板があるところでかしこまって撮るのは、そこぐらいでしか撮れなかった昔の団体旅行の流れを汲んでいるのだろうし、ピースをするのは別にどこであってもできるわけで、その場所で撮る意味はよくわからない。デジカメは何枚撮ってもコストはそう変わらないし、日常の表情をとらえることこそが面白いと考えている。

一部他人が撮ったものもあるのだが、構図の取り方に密かに写真部だった経歴が出ている。日の丸式に、一番撮りたいものをど真ん中に持ってきているのは私の撮ったものではない。正面を向いていたら背景に何かを入れてずらす、横を向いていたら視線方向をあける、などなど、ちょっとずらすのがポイントだ。頭の上などを枠からはみ出すように切ることもよくやる。別にコンクールに出せるような技術はないが、人を撮ることは得意だ。

デジカメで撮った写真は、サイト上にupして一言ずつコメントをつけた。また、270枚をCDに焼いて希望者に配布した。撮ることもそうだが、こうしたパソコン上のフットワークの軽さに、私の後輩は「ちりんさんにデジカメ持たせちゃねぇ」と呟いた。これからの北海道はいい季節なので、写真館でも作ろうかな。

■2003/06/03 (火) 掲示板上での議論の特徴

ある掲示板上で議論をしている。結構なエネルギーを注いでいるのだが、なかなか「議論がかみ合わない」状態を抜け出すことができない。言語を記号として扱えないことが原因の一つにある。書いてあることを文字通り受け取って、文字に書いてあることだけを伝えるために文章を書くことは、日本人が日本語を扱っていてもずいぶん困難なことだ。感情や先入観に基づいて反論することが特に多い。

根拠に基づいた理論に対する反論に、仮定を前提としたエセ理論を用いる例もある。「夏は暑い」に反論するために「雪が降るような夏があったら寒い」と言うようなものだ。また、話を勝手に狭めて自分の主張をすることは愚かだが、気づかず真顔で言う人も多い。「果物狩りに行きたい」と言うのに対して「イチゴ狩りには行きたくないから果物狩りには反対」と言うようなものだ。

一見関係ある関係ない話を始めて、感情に訴える方法もある。「この点について執行部の意見を聞かせてください」と言ったのに対し、直接内容についての意見を言わずに「執行部以外の委員の中には、この指摘を受けたことに対してひどく傷ついたものもいる」と言う感じだ。これは結局のところ最初の質問に答えないのが特徴だ。

枚挙に暇がないが、以下は詭弁の特徴に譲ることとする。一つの救いは、口頭での議論であれば、勢いがあったりその場の雰囲気があったりで流されてしまうことであっても、掲示板には全て発言が残ることである。後から検証すれば、誰がおかしなことを言っているのかわかるし、読解力とネットに接続できる環境さえあれば、誰でも議論を理解することができる。

しかしながら、誰にも読解力があるわけではないという現実と、結構多数の人が常時接続できずに参加できないという現実があるらしい。正直私にとってはどちらも理解し難いのだが、そうしたところまで考えていかねばならぬのだろう。

■2003/06/04 (水) 内科っていいかも

今日は心電図の勉強会に参加した。留年する前だと参加するような選択枝すらなかったのだから、これはなかなかの進歩だが、単に時間の使い方を勉強の方にシフトさせたという意見もある。論理立てて説明できる学問には魅力を感じる。表面上の事柄だけをゴリゴリ暗記しているときは嫌いだった学問も、きちんとやってみると面白い。やっぱり自分は勉強が好きなんだなぁ、と思う。(ならやれよ、という感じだが)

外科を深く勉強している間は、外科っていいなぁ、と思っていた。何かをやってなんぼの世界は、確かに性にあっているような気がする。内科と外科の違いだが、講義中にマイクの電池がなくなったときに、電池はどこですか?と学生に聞くのが内科で、ひょうひょうと電池を探し出して交換までしてしまうのが外科だというイメージだ。行動をすることが大切だという考えには賛同する。

4月から病理の教室にお世話になっているわけだが、病理も面白いと思う。発癌メカニズムの研究の面白さもあるし、病理診断という面白さもある。最近だと、胃や大腸などのよく見る組織なら、診断の雰囲気はわかるようになってきた。パターン認識という側面と、どうしてそうなるのかという論理的なお話と、両方が絡み合うところが特に魅力的だ。

実際は、面白そうな部分と、労働環境的にどのくらい体に負荷をかけるのかという部分と、将来的な部分と、色々を考え合わせて進路を決めるのだと思う。今のところは、差し迫っていないために「日和見的な」気分が優勢である。今日は心電図を見て循環器内科が優勢な日だった。

■2003/06/05 (木) 今さら合コン

大学に入って6年目にして、初めて合コンに誘われた。結構記念すべき出来事だったのだが、気を逸した感は否めない。いや、はっきり言って機を逃している。これまでそういうことを言われなかったのが、真面目っぽいイメージを醸し出しているからだとか、もっと別な原因だとか、そういうことはこの際いいことにしよう。ね、しようよ。

そこで行く気が全く起こらなかったので軽く断ると「じゃぁどうやって調達してるんだ?」と質問を受けた。あぁ、そういえば、出会いがなくて困る、といった手合いの悩みは持ったことがないなぁ、と。いわゆる「合コン願望」を持ったことがないと言えば嘘になるが、取り立てて強い気持ちになったことは一度もない。なぜなら出会いはそこらにあふれているから。

メールの発達により、初対面でちょっと話しておいて、あとは気が合えばメールのやりとり、さらに気が合えばさらにメールが続いて、となるのが最も手軽だ。出会いがなんとかと言う人もいるが、私は色々なところに顔を出し、特に全国をまたにかけた活動にも参加していて、そこで知り合う人もまた全国をまたにかけた分布を示す。どちらかと言うと、新たに知り合う人を求めているよりは、むしろ既に知り合っている人とメールなどする時間を確保したいのが本音である。

そうした自分を考えてみると、新たな爆発的な出会いを自ら捨てているのかもしれないし、接点のあったところでしっかりと友達になっておく能力に優れているのかもしれない。だから、他の人がそこにあるはずの出会いを逃しているのはもったいない。しかし、私が新たな出会いを逃しているのももったいないのかな。

なお、合コン話で始まったのでそういう先入観で読まれるのだろうが、全国をまたにかけるメールなどでつながる知り合いが異性である、とは誰も言っていないことを補足しておく。

■2003/06/06 (金) 医療の限界 リスクはつきもの

<副作用情報>死亡例は4.6%の1239件 厚労省というニュースが出た。「4.6%」は、副作用の報告うちのどのくらいか、なので、見出しにするには統計的意味から考えてセンスが悪いと思うのだが。月曜に「少ないと思った」と書いたが、やはりそうだった。日本の人口を1億2千万として、1年あたり10万分の1の確率で、薬の副作用で死ぬことになる。薬を全然使わない人も含めた計算ではあるが、大まかにはそれくらいの確率である。

交通事故で死ぬ人が年間1万人で、自殺で死ぬ人が年間3万人で、各々10倍とか30倍の次元なのだから、むしろそちらの方をしっかり取り組み報道するべきだ、という意見もある。それはなるほど正しいが、私はもっと根本的な部分に目を向ける必要があると考える。

医療というのは、いいことを手に入れようとすると、必ず悪いことになる可能性がつきまとう、ということである。これは実は日常生活の中と同じで、例えば告白してつきあおうとすると、振られて傷つくかもしれないわけで、また、飛行機で便利に移動しようと思うと、事故で墜落しないとは言えない。いいことを手に入れようとするとそれなりのリスクを負うことは、株や先物取引の儲け話じゃなくても、日常直面している選択なのだ。

「これで治るか?」「これは効くか?」などなど、人は自分の体のこととなると「絶対」を求めたがる。しかし人の体を完全に理解するほどの力は医学にはまだない。医学の限界を知って、治療には必ずリスクが伴うことを知って、その上で医療を利用するのが望ましい。医者の訴訟逃れと同じ発想かもしれないが、マスコミもどうせ世間に広く知らせるのならば、この辺りをやってもらいたい。同じ構図で、高校の保健の授業にこのような話をする時間を設けるべきだ、という持論もある。

■2003/06/07 (土) 親子関係の発展のために誰もが通る道

言い古されたことである気がするが、家を出て独り暮らしを始めると、起きるのも自分、で、ご飯も自分で、お金がなくなってひもじい思いをするのも自分で、しかしそれらの困難を補って余りある「自由」を手に入れる。まさに自由を謳歌するが、同時に社会の厳しさも知ることになる。

親子関係は、生まれたときの関係のまま続くわけではない。子が成長し、やがて成人して、子の親離れや親の子離れがあり、そして親子関係は新たな段階へと入っていく。この親離れの一つに「家を出たい」というのがあり、一つのポイントになるところであると考える。(同時に子離れもポイントである)

この頃は、とりあえず「家から出ること」が目的なのであって、自分はなんでもできる「おとな」になってきたと自覚し始め、親の小言がうるさく感じられ、自分の人生は自分の手で切り開いていくのだと野望に燃えている。目には力があふれ、やる気に満ちている。そして親から離れようと試みるのだ。私にもそういう時期があった。

今、私は実家に戻ろうとしている。単に実家が市内に建ったのがきっかけだが、今の私にはあの頃の熱い思いはない。確かに一人暮らしをして、色々やりたいことをやったし、痛い目にもあったが、一人暮らしをできたということについて満足している。今思うとそれは、親子関係において「はしか」の如く誰もが通る道であって、親と子がその関係を見直すきっかけなのではないかと思う。

だから、何かあったら(なくても)電話がかけてきて心配でたまらなかったあの親も、「あんたがいつまで寝てようとも知らないからね」とか引っ越す前から私に宣言しているし、「あんたが帰ってくるのは待っていないから(待たれても困るが)勝手にカギ開けて入ってきなさいね」と言うようになった。

私の方も「家を出る」目的で家を出続けるという選択はせずに、うまい具合に距離を取れるようになった親と一緒に暮らそうと思う。そんな「親」と「子」の関係から、大人同士の関係に発展するために必要だった、独り暮らしの期間だったのだと思う。

■2003/06/08 (日) 備忘のため 人と人の間のルールと言葉について

どの二人の人をとったとしても、お互いが同じであることはありえない。第一印象で近い人だと思っていたとしても、絶対に違うことがわかってくる。

人が二人以上で共同生活を送ると、そこにエゴの衝突が生まれる。どちらのエゴを通すのかというので生まれるのが「ルール」である。これはどんな二人の関係にも存在し、それゆえどんな社会にも存在するのだ。

二人の間に問題が存在すると感じたときに、その問題があると感じていることを、まずは相手に伝える必要がある。そうしなければ相手に伝わるかどうかもわからない。問題を共有することが解決の第一歩だ。

相手と同じ問題意識を共有し、その問題についてルールを作っていく。普通の言葉で言うと「どちらが折れるか」を話していくイメージだ。その時に頼りになるのは唯一言葉だけで、その言葉を使う能力において彼我の差があまりにも大きいと、それは目的ではなく手段の面で軋轢が生じ、うまく問題を解決できなくなる。その軋轢が少ない関係は、楽で望ましいものだ。

■2003/06/09 (月) リサイクルショップ

今日は市内中のリサイクルショップを回った。主に本棚を探しに、母親と半日ぶらぶらした。8軒回ると相場などのだいたいの傾向がつかめてくる。中古だから当然といえばそうなのだが、同じようなものの値段が3倍ぐらい違うことも珍しくない。それが「掘り出し物」と呼ばれる面白さだが、結局どこで見切りをつけるかという価値観の差でもあると思う。

あるものがあったとして、5000円の値をつけていたが売れない。そのまま5000円で売れなければ、それなりに場所をとりつつ、0円の収入となる。しかしこれを3000円にすると、場所が空いて3000円の収入となるが、2000円損した気分になる。買い取り価格もあるだろうし、そのあたりが難しい。その判断が店によって違うからこそ、掘り出し物が出るのだろうし、掘り出すことができれば、売り手買い手ともにhappyになる。

リサイクルショップだから、中古ゆえ悪くて安いものがあると思いこんでいたが、実は新品同様の値段で売っているものもある。したがって、回る前にホームセンターに行って、そのものを新品で買ったときの値段をチェックしておく。さして高い家具を買うわけでなければ、リサイクルショップで買うのに比べてそれほど大きな値段の差はない。

結局買ったのは、1000円の鏡と1000円の棚、そして1枚20円の皿が2枚だった。どれも予定外のものだった。二人とも目的のものは買えなかったが、満足して帰ってきた。20円の皿を2枚買うのか、6枚で10円の皿を買うのかを悩むのもまた楽しい。こういう買い物というのは、買うという動作自体が既に楽しいのだと思う。

■2003/06/10 (火) 教育における評価・ロス・ポリシー

大学において、教育というのは正直「面倒な」部門なのだと思う。教官の評価は研究で行う、医学部であれば臨床(病院)は研究にもつながるし、患者を助けるというイメージで医者っぽい。しかしもう一本の柱である教育は、評価の基準が不明であり、正直者が損をすることになりかねない。

わかりにくい講義をした教官がいたとして、その教官のトータルな評価を左右するかといえば、現状では答えはNoである。わかりやすい講義をするべく、例えば5時間準備をした教官がいたとして、その5時間は正当に評価されるかというのもNoである。さらに言うと、5時間かけたとしても、わかりにくいものはダメである。一応学生による講義評価が行われているが、難しいことに触れずにわかりやすく教えれば高い評価になるなど、本当に教育の質を評価できるかは難しい。むしろ悪いアンケートを取って講義をはずされた方が、臨床や研究に専念できて喜ぶ人もいるかもしれない。

こんなことを思うのは、私は現在全ての講義を「受け直し」しているわけなのだが、昨年の講義と担当者が代わって「わかりにくく」なったものが存在するからだ。それは前回の担当教官が講義にかなり力を注いでいたためで、その人が転勤してしまって今の学生は損をしたようにも感じる。その教官も次の年に教えることは大枠同じでよかったはずで、せっかくの講義の準備が無駄になったように思える。

全国にはたくさんの医学部があり、全ての大学に教えるのが得意な人がいるのは想定しづらく、各地で散発的に悪い講義に悩まされる学生が出る。そうであれば完全に分業して、教えることを専門にする人がいてもいいのではないだろうか、とある教授から提案を受けた。確かに某予備校では衛星を使った講義をしているし、違う予備校では、講師が毎週北海道を含めた3カ所前後を移動して、講義をするシステムが成立している。医師国家試験予備校では、講座をビデオで販売しているという現実もある。

結局こうしたことは、教育というものが、大学が「このような人材を養成しよう」という意図を持って行われるものではなくなっていることも意味している。そうしたプライドが欠如している。この話はどこかで聞いたと思ったが、大学の入学試験の作製を予備校に依頼する話だった。入学試験は、その大学がどのような人材を採りたいかを示すものであるべきなのだが、間違いのない予備校に依頼するケースが増えているという。教育という無限の可能性を秘めたものを他人任せでやることには反対だが、中途半端に関わって質が落ちることはもっと問題だ。

■2003/06/11 (水) 人生の夏休み

ちょうどきっかけがあったので、一日外で楽しむこととなった。まず旭岳に登り、残雪の上をしばし散策。それから天人峡で羽衣の滝をみて、敷島の滝への道が水量が多くて通れず。滝見台というところに1時間半かかるところを40分で登り、羽衣の滝を正面からとらえた。温泉入って、おいしいもの食って帰ってきた。写真は撮ったが、出品できるほどは上手じゃなかった。

北海道の登山シーズンには少し早く、しかも平日とあって、そう遠いところに行っているわけでもないのに、ほとんど人がいなくなる。風景の独り占めと、自然の音に耳を傾けることができる。ここでそんなに鳥が鳴いていたのかという発見もあった。風景は、そこにその山が「ある」という存在感を感じた。自分が日頃どんなに小さいことで頭を悩ませているかを考えさせられたり、そんなことすら考えなくてもいいような気分になった。

社会人になって、平日の昼間にそんな時間を過ごすことは難しいだろう。まして医者だし。来年の夏休みは、私のための特別カリキュラムによるとないようなのだが、その分今年は楽しんでおこうと思う。くしくも先輩(医師)に言われた「人生の夏休みだね」という言葉はかなり当たっている。

■2003/06/12 (木) 卒後研修必修化と大学 理念と手段のギャップ

医学生以外にはわかりづらい話だと思うが、臨床研修医の受け入れ定員枠拡大 厚労省が基準緩和と報道された。私の大学で言うと、卒業後に毎年50人くらいは大学に残っていたのに、30人しか残れない基準だった。そこで、大学以外の病院と連携して60人まで大丈夫なようにプログラムを組んだという。基準の緩和により、30人は38人くらいになる。ちなみに今のところ残りそうな人数は30人にも満たない情勢だ。大学以外の病院に頭を下げて、60人分のプログラムを作った先生がかわいそうだ。

そもそも大学での研修人数に制限を設けたのは、医者が大学に集まるのを防ぐため、医局を解体するためなどなど、色々な意図が推測されている。地域の医療を早くから体験することで、専門しか診れない医者を減らそうという狙いもある。しかし現実は

研修医が減ることなどを理由に、大学病院が関連病院に派遣していた医師を引き揚げ始めた。地方の病院が「医師が不足し、地域医療が崩壊する」と訴えた

と逆の結果になったようだ。当初から懸念されていたことで、医師供給の仕組みを根本から変えることなしに、研修方式にちょっとした制限をつけることで何とかなると考えたのが間違いだ。文先生の日記の6/12にも「医者余りなんてとんでもない」とか書いてあった。

来年3月の卒業生から、卒業後2年間の研修が必修化される。どういう科で研修するかの大枠は決められていて、一般的な病気をとりあえず診れるようになろう、というprimary careを重視する制度だ。そうすると、専門分化した大学で研修を受けようという人は少なくなるはずなのに、60人という大きな枠を作ったり、学生が残らないことに嘆いていたりする教官がみられる。

どちらの例も、心情とか理念と、制度や規則を普通に解釈することから起こる、当然・必然な結果の間に生じるギャップのように感じられる。このように、理念を達成するための手段であるはずの制度が逆にギャップを生むことは問題である。

■2003/06/13 (金) 抑止力を認めるか

死刑は抑止力であると考える。誰かを殺したくなったとしても、その行動をとったときに自分に返ってくるものを考えて、その行動をとるのを控える、という構図だ。死刑じゃなくてもいいのだが、見返りを感じさせることによってその行動を抑制することを「抑止力」と呼ぶ。

殺人に対する死刑もそうなのだが、抑止のための手段が一見目的に反するように見えることがある。代表的な例が軍事的な抑止力で、軍事力を持つこと自体が戦争をおさえることにつながることになる。先制攻撃をすればそれ以上の攻撃を相手から受けることがわかっていれば、先制攻撃をしない、という考えがシンプルだ。しかし「武器があるから戦争が起こるんだ」という否定しがたい命題を突きつけることによって、抑止力は万人が理解できるシステムではなくなっている。

先日書いた掲示板上での議論において、この抑止力を認めるかどうか、ということが根幹かもしれないと感じている。きちんと抑止のシステムが作動すれば、実際には使われないことになる。例えば冷戦時代に核が使われることはなかった。しかし、相手が核を使ったら、という想定は常に必要で、むしろその想定があるからこそ、きちんとした抑止のシステムが完成する。自転車泥棒をしても捕まりっこないから人は犯罪を犯す。仮に自転車泥棒の検挙率が95%とかだと、自転車泥棒は減少するだろう。これは窃盗とそれに対する罰則というシステムが、どこかに欠陥があるとうまく作動しないことを意味している。

きちんと確認していないが、心神喪失とか心神耗弱と呼ばれる人が犯罪を犯したときに罰せられないのは、犯罪を犯したら罰せられる、という認識がないからで、そうであれば刑罰に意味がなくなるからだという考え方があるらしい。これの逆を考えるとまさに抑止力であり、絶対無意識に身についているはずなのだが、と嘆いて掲示板へ向かう。

■2003/06/14 (土) コンビニで薬を売るより大事なこと

<規制改革>コンビニで大衆薬販売へらしい。このやりとりはちぐはぐだ。

医薬品解禁問題を巡っては、石原伸晃規制改革担当相が副作用が少なく、各家庭で常備されているような外服薬(塗り薬など)、内服薬(胃腸薬など)の一部解禁を前提に2回の閣僚協議を行った。しかし、坂口力厚生労働相は「薬剤師のいる薬局でないと、副作用は防げない」と拒否。

「副作用が少ないからいいじゃん」「いや、副作用があるからダメだ」なんてやりとりは、小学生などと言っては失礼だが、やっぱり失礼でもいいかな、という気にさせる。薬剤師のいる薬局の話だって、じつは薬局と薬店の2種類があり、薬剤師がいるのは前者で薬種商でいいのが後者だとか、ドラッグストアと言えば後者の扱いでいいとか、その違いによって扱える薬の種類も変わってくる、などと薬剤師の友人が言っていた。

今回話題になっているコンビニでの販売は、要はこの制限をもう一つ緩和して、薬剤師が必要な薬、薬種商が必要な薬、薬の専門家は不要の薬、という段階をつけていくのだろう。この点では、栄養ドリンクがコンビニで売れるようになった話と類似して、どこに線を引くかの議論になってくる。

注目すべきは薬剤師の有無ではなくて、消費者側の意識の問題だろう。副作用が少ないけれどもあることを承知して薬を使ってくれるのか、コンビニで売ってるから副作用がないと考えるのか。他の薬との飲みあわせや、アルコールと一緒に飲んだりすることまで、専門家に相談しないで「大丈夫だろう」と思ってしまうのか。

そうした啓蒙活動をしないで、薬の注意書きは訴訟対策で細かい字でたくさん書いてあり、何かあったら運が悪かった的な考えではいけないのではないだろうか。薬を飲むことにどのようなリスクがあるかを十分理解した上で、というのはよく聞かれる意見で、その「理解させる」という段階を、いかに確かなものにするかということが、厚生労働大臣がやるべきことではないだろうか。

■2003/06/15 (日) 日本における議論のありがちな結末

議論をしていて意見が対立することがある。そもそも対立しないと議論ではない。AとBの2つの意見があったときに、その議論がたどる結末はだいたい4つに分けられる。Aが折れてBにする、Bが折れてAにする、AもBも意見を変えずに議論が平行線をたどる、AもBも意見を変えて新たなCという意見になる、である。

どちらかが折れる場合、それが力に依るものであったり、強引なものであってはいけない。日本にはディベートという習慣はないが、論点を明確にして、それに対する根拠を明確にして、それをいかに表現するかというのが、本来の議論における要素である。これがない場合、つまり論点をずらして、不明確な根拠に基づいた発言をして、感情的な強引な表現方法を用いれば、多くはどちらかがあきらめて折れて、まれにどちらも折れない場合には、議論は平行線をたどることになる。

弁証法という言葉を出すまでもなく、お互いに納得するまで意見を出し合い、十分出し合った場合はたいてい新たなCという意見になるだろう。AかBにならないことをもってあきらめるのは早計だ。平行線をたどっているのを「険悪な雰囲気だ」と評する人もよくいるが、議論をそこで中止してしまうのもやはり短絡的だ。結局そこに「ある」問題を「ない」ものとして扱ってなんとかやり過ごす場合も多いが、結局解決時期を先に延ばしただけである。

似たような状況にあちこちで直面して、これが日本の文化的風土であり、気質的な特徴なのかなぁ、と思う。

■2003/06/16 (月) 平和を願えば平和になるのか

日本でのSARS感染は未だ報告されていないが、SARSの対策を立てるためにその勉強をするのは当然だ。病気になるのを防ぐために病気の研究をするのも当然だし、病気にならないことを祈るだけなら古代の祈祷師と一緒だ。このことは多くのことに当てはまり、○○を防ぐために○○を研究する、というのは正しいと考える。

しかし世の中には、そのことに言及するだけでもそれを防ぐことに逆行すると考える人がいる。代表的な例が戦争反対だ。そもそも戦争がなぜ起こるのか、どのようにして起こるのか、戦争をするとどのようなメリット・デメリットがあるのか、などなどを分析した結果として、戦争を防ぐ手段が生まれてくると思う。

ところが巷の平和運動とやらは、戦争の悲惨さを後世に伝え、戦争反対を街頭で呼びかけて、署名をして、教育の場で刷り込みをして、言ってしまえば感情論にしか訴えない。しかし実際には、戦争は一部の人の心の中にある違うメカニズムで起こり、結局のところ非戦争状態にはならない。したがって、その「平和運動」は、全く平和へとつながっていないと考える。

みんなが平和を願えば世界は平和になる、という論法は一見正しそうだが、私個人が「戦争大賛成」と思っていても日本が戦争を起こせないのと同様に、一般市民の意識だけを変えたところで現実は変わらない。そもそも「みんな」が100%を指すのであれば、そんな画一化した価値観も恐ろしい。

また、「教え子を戦場に送るな」というのは、「送られる側」ではなくて「送る側」の論理だと思うのだが、戦争に行けるような大のおとなに対して、いったいどういうツラで「行くな」と言えるのか。その辺のスジが通っていないから、あの手の運動は胡散くさげにみられて多数派にならないのだと思う。

■2003/06/17 (火) 不正投票とインターネットの生かし方

中日・川崎が球宴投票先発部門1位に辞退を示唆らしい。現在二軍で調整中の選手を、インターネット上の掲示板での呼びかけによって1位にしたという話のようだ。そもそもインターネットというものをよく理解していない人たちのコメントが哀れだ。

「異常。これは問題だよ。(投票を)控えてほしい」。ファン投票の"本筋"から外れた事態に山田監督は怒り心頭。

ハガキでやろうと、インターネット上でパスワードを導入しようと、意図を持ったファン投票を防止することは不可能だ。私が遊びで一票投票するのも、真剣に一票投票するのも、第三者から見て区別することは不可能だ。また、私が一票投票するのと、私じゃない人が一票投票するのを区別することも不可能で、つまり私が二票目を投票するのを完全に防ぐことは困難だ。この二点から、根本的に今回の問題を防ぐことは不可能だ。

いっそのこと、チャリティーでもやったらどうか。1票1000円とかにして、そのお金は有意義に使う。不正投票もむしろ歓迎。厳密にやれば、住民基本台帳の番号を使うか、選挙同様の整理券を郵送するかしないと、多重投票を防ぐことはできないだろう。それをネットで代用しようとしている部分が安易なのであって、数を競う部分ではなく、もっとopenな意見を集める手段として用いるべきであろう。

日本秘湯に入る会は、「不正」投票とは何の関係もないが、入会方法に面倒な手続きをとっている。つまり、一度メールのやりとりで住所を教えられ、その住所に対して「ハガキ」を郵送し、それが届けば登録完了の知らせがメールで来る。そうすることで何となく「ノリ」で入会して幽霊会員になる人を減らすことに成功しているという。

インターネットは見知らぬ人とのアクセスを非常に手軽にしたが、手軽さに伴う問題点はたくさんある。そのいい点と悪い点をうまく生かしていくことが、これからは必要になってくるのであろう。高校で情報なんとかという授業があるのであれば、教えるべきことはこの辺なのだと思う。

■2003/06/19 (木) 質vs量の戦い 「高品質」は誤用か?

あるダイエット法の効果についての研究を行うとする。20人に効果があって、1人に効果がみられなければ、その方法は有効であり、どういった体重の変化かを、平均などを用いて定量的に分析することは可能であろう。しかし、10人に効果があって5人に効果がみられなければ、方法の有効性には言及できない。そこでその5人に着目して個別の事例を検討してみる。もしもその5人が他の10人と異なる背景を持っていたならば、その背景が何らかの因子であるかもしれない。そうした示唆を得て次の実験系を組む。

前者についてを量的研究、後者についてを質的研究と呼べないかを考えていた。後者は「パイロットスタディ」と呼ぶことができるが、思うような結果が出なかった本研究のなれの果てをそう呼ぶのは、本来のパイロットスタディ(予備調査)に失礼だ。厳密に言うと失敗研究である。

そもそも「質」と「量」とは反意語であり、質を表す量が存在するのはおかしなことだ。しかし、「量」として表さなければ比較をする評価ができないことから、例えばQOL(生活の質)のスコア(=点数=量)などが存在する。要介護度もその人の生活の不自由度の質を点数化しているようにも思える。これは、誰から優先的に介護保険を適応していくかという比較をする必要があるからである。

「日記」の質を考えてみる。この日記の質がどのようなものであるかは、読んだ人の感想そのものであろう。量になるものとしては、アクセス数、リピーターの数、日記才人の投票数など色々あるが、それぞれが「日記の質」とイコールであるとは言えないし、そもそも「質」の優劣を決めることなどできるのだろうか。

今、思わず「質が高い/低い」と書きそうになったが、それは「質」であるにもかかわらず1本の数直線上に乗っており、どの位置になるかを決めるのはまさに量である。以上考えてきて、研究における質的/量的の区別はよくわからなかったが、「質」というものを表現するときには、よほど注意しないと実は「量」を使っているということに気づいた。この点はもう少しきちんと考えてみたいと思う。

■2003/06/20 (金) 掲示板での議論

インターネット上の掲示板で議論をすることがある。実世界の掲示板では普通議論はしないので、新たな形態であると考えられる。経験した人はわかると思うのだが、非常に議論をするのが難しい。

まず、話が感情的になりやすい。相手と面と向かっていたり、自分が話したら相手が話すという攻守交代もなく、一方的な決めつけ、主観が入る、それこそ誹謗中傷も起こる。いわゆる「掲示板が荒れる」という状態になる。

次に、意外と日本語が読めない日本人が多いということがある。それはそういう意味じゃないだろう、ということが頻発し、書いてあることを文字通り受け取れない人っているのだなぁ、などと発見する。しかしながら、正確に意味を伝えようとすると言葉がたくさん必要となり、長い文章が多数連なり、結局のところ参加人数を減らして有意義とは言いづらい議論になる。

日本語を書くのはもっと問題で、私のように日々このような文章をパソコンで書いている人はまだいいが、文章を書かない上にパソコンでならなおさら、という人がパソコンに向かったときに、どのような文章が出てくるのかは、考えると恐ろしい。本当にきちんとした議論をするのであれば、半日や一日くらい寝かせるくらい慎重に言葉を選び、誤解をできるだけ少なくするような努力も必要だ。しかしながら、そこまで言葉の吟味をしないときでさえ、文章を作るだけで1時間とか平気でかかり、それで食っていくわけではないので問題となる。

しかしながら、そのような議論の場は10年20年前には存在しなかったものであり、そのような問題が起こるほどに力を持っていることも意味している。こうしたものはその特性をよく理解して利用するべきだ。そうした場がないのと比べれば、大きな力となるはずだろう。

■2003/06/21 (土) 日記の「作者」と「読者」の関係

「テキスト」とか「日記」と呼ばれるサイトがたくさんある。日記才人はこの中でも一大コミュニティーを形成している。お互いがお互いの日記を読み合うというのもよく起こることで、私も非常に有益な関係だと思っている。日々他者の考えを学ぶことで、自分を深めることができるからだ。

どこかで読んだことだが、掲示板を設置するとそこは賞賛メッセージで埋まるという。いい感想を持った人は作者にそれを伝えたい、悪い感想を持った人は黙ってそこを去り次に来ない、中立な感想を持った人はまた来るかもしれないが特に何もしないからだという。「悪い感想を持ちました」という意見を表明するにも、いい感想を伝えるときと同様に手間と時間がかかる。

しかし世間には、メールや掲示板であーだのこーだの言う人がいるという。これはほとんど言いかがりの域で、「お前の日記むかつく」とかいうレベルらしい。むかつくんなら読まなきゃいいのに、と思いつつも、本当にしょうもないのならメールすら送る気にならないのだろうし、それは不的確な表現方法かもしれないが、心の中にある大きさの評価を持っていることの現れだと考える。+10の反対は、−10ではなく0だ、という考えだ。

一方、読み手側への要望もある。ランキングに載せるためにと思われる、途中にそれを押さなければ話が進まないようなボタンを作っているサイトもある。画面サイズがいくつでブラウザはこれこれで見てくれとかいう要望もある。リンクに関することでも、トップページにのみリンクを張ってくれとか、私であれば

私の実名(重要)・正体(?)・恥ずかしい姿(!)が載っているページからのリンクはご遠慮下さい。

というお願いをしている。このような読者側へのお願いは、守られているかを確かめることもできないし、第一実際に禁止することもできない。そもそも読んでくれているという立場の人にあれこれ言うのは、注文の多い料理店の感想と同じく、私には遠慮がある。

そもそも継続して日記を読むのは、その人の主義・主張や何らかのものに共感を持っているからであると思う。そしてそこにある種の信頼関係が形成されて、その上で「お願い」に効力が伴うのだろう。決して法律と刑罰の関係ではなく、「こうしてね」「いいよ」という関係である。

そうした書き手と読み手の間に潜在する関係が、このコミュニティーでは重要だと考える。行き着く先は、ある人とある人の間の信頼関係なのであって、その信頼関係を作るために使えるものは(絵や写真を駆使できる人もいるが)私には文字しかない。日々自分の思いを文字に託すことによって、そうした関係ができていくのだと思う。信頼関係がうまくできないとすれば、それはまだまだ私の文字の力が足りないのだ。

■2003/06/23 (月) 子どもが臓器を提供したいと言ったら

子供からの脳死移植を容認 日本小児科学会が提言発表という。これまで脳死からの臓器移植は15歳以上に限られてきた。15歳以上の脳死臓器移植を認めるようになるまでには、様々な思惑があった。

そもそも日本では、古来より臓器移植に肯定的な考えは多くなかった。例えば五体満足思想もそうだし、遺体に傷をつけないという点についても、儒教に由来するらしいこだわりがある。キリスト教にある心身二元論、魂と体は別のもの(つまり体は魂が乗る乗り物のようなもの、と私は解釈している)というあたりが、欧米での脳死臓器移植の定着に貢献したと読んだことがある。

子どもは大人では考えられない、予想外の快復をすることがある、という意見もある。確かに「奇跡的な快復」は、よぼよぼのじいちゃんよりも幼い子どもにありそうな気がする。まだ組織が完成されていないうちはダメージが致命的にならない、ということもあるようだ。

今回の提言は、記事にもあるように、日本ではできないので、募金をしてまで海外での移植にかけるということが背景にある。お金持ちの子どもにはチャンスがあるが、などの生命の価値に金銭が絡むもの。そもそも募金に頼らなければその子が生きられないという、どことなく制度の不備を感じさせる現状。外国人の臓器を日本人に提供する、つまり外国で自国の人の取り分が減るという非難。

そんな中、子どもに自己決定権があるのか、という点が最も疑問だ。違う例だが、家庭を「訪問」して「布教」をして回る宗教があるが、あそこでついてきている子どもはいったい誰の意志なのだろうか。子どもの意志だというのかもしれないが、子どもしかいない集団で、あのようなことは起きないだろう。一般的に、子どもの意志を形成するのは親であり、臓器を提供するのかどうかは親の意志に左右されるのではないかと思う。

親が子どもの価値観を決定し、子どもの意志を左右し、というのはごくごく自然なことだし、その構図自体に問題はないだろう。しかしそれが「自己決定権」と呼ばれることには抵抗がある。子どもが生きるかどうかを決めるのは誰なのだろうか。親なのか、考えが未熟であっても子どもなのか。記事にある「死生観の教育」をきちんと行えば、何十年後には世論がすっかり変わっているのかもしれない。

本人による意志決定という点で言うと、痴呆が進んだり、言葉を話せない子どもだったり、意識不明だったりするとき、誰が意志を決めるかというと多くは家族であろう。その構図をそのまま応用してもいいものなのかに、今のところ疑問を持っている。

■2003/06/24 (火) 名義貸し問題と職業選択

ふとテレビを見ていると、医師の名義貸し問題について報道されていた。地域医療を志す医師が少なく、規定の医師数を確保できない病院が、名前だけを貸してもらうという構図だ。医療機関もつぶれては仕方ないので金の話をするが、医師数が規定に達していないと収入を12%減らされるという決まりがあり、その12%を減らされるよりは、名義料を払ってでも名前だけ借りておいた方がいい、という判断になる。

名義料を「高い」とか「ずるい」と感じる人がいるかもしれないが、病院が直面しているのは名義料よりもっと大きな問題であることが、上に書いたことからわかる。12%減ったら経営が立ちゆかなくなり、その地域から病院がなくなる方がデメリットが大きい、という苦汁の決断をした結果の今回の報道になったのだと推測する。もちろん不正は悪いことだが、不正をした人だけ罰していれば問題が解決するいうのは幻想だ。

「医局」の弊害について言われたり、医局解体を目論む厚生労働省、ということもチラホラ聞くが、医局が地域の医師供給に役割を果たしてきたのは現実として存在し、その代わりの手段なり機関なりを作らないと、じゃぁ地域から医者は引き上げますとなって終わってしまう。6/12の日記にもそういう話を引用していた。

「職業選択の自由」を片面からだけ解釈すると、地方で医者をやりたい人がいなければ、地方に医者はいなくて当然ということになる。しかし国民の生命を守るという観点から言うとそういう問題でもないだろう。どこまで誰が介入できるのかについては、もう少しきちんとしたビジョンが欲しい。

■2003/06/25 (水) 医学生に僻地医療を問う

へき地勤務希望、わずか4% 学年進むほど低下だと報道された。都市と町村と僻地に分けて調査したようだが、そもそも各々の人口が何人で、各々に必要な医師数が何人で、それに比べて現在の勤務地がどのような比率で、ということを示されなければ、4%が多いのか少ないのか判断できない。おそらくは少ないのだろう、というのは違うところからの判断でわかることではあるのだが。

僻地医療について少し調べてみた。サタモニからの引用によるとこうだ。

へき地とは、半径4キロ以内に他の医療機関がなく、一般の交通機関を使えば30分以上かかるようなところのことなどをいう。

他のページでは「50人以上の集落」「バスが1日3本など」という文言も目に入ってきた。イメージはつくのだが、逆にそこに行った医師がそのような状況になるということも意味している。医学生といえども多くは20代前半の遊びたい盛りである。自ら希望してそのようなところに行こうと書く医学生が多いかどうかは素直に疑問だ。

また、記事によると「学年が上がるにつれて僻地を希望する学生が減っている原因は、僻地医療の実習などが少なく、カリキュラムが学生の関心に応えていないため」となっているが、私は意見を異にする。地域医療でいわば「ヒーロー」になった医師について取り上げられているのを見聞きして、それにあこがれて医学を志す人もいるかもしれない。しかしそれが入学後ずっと持続するかは別問題だ。医者の地味な側面は素人にはわかりづらく、それに気づくことも学生の6年間の重要な課題だ。

東京出身の同級生が「救急車が来るまで30分」地区に実習と称して見学に行き、「きれいごとでは地域医療は語れない」と言って帰ってきた。私はむしろ、学年が上がるにつれて僻地医療の現実が見えてきて、尻込みしているのではないかと推測している。18歳の人生設計と、24歳の人生設計が同じだとも思えないし、結婚とか家族とか子育てとかも絵空事ではなくなってくる。

科学的に言えば、僻地医療についての実習の多さによって、希望する学生の割合に違いがあるのかを統計的に分析すればいいと思う。また、実習の前後で僻地医療を志す人の人数がどのように増減したかを調べれば、その実習にどのような効果があったのかを探ることができる。私は調査したわけでは全くないが、感触として「いやー、こういうところに行ったら大変だ」という印象を持つのではないかと思う。したがって実習はむしろ逆効果ではないかとすら思う。

地域医療の担い手を増やすために「地域医療に関心のある人や他学部出身者を増やすなど編入学の選抜方法を考える必要がある。」とある。これは、学力的に優れていても地域医療を志さない人間は、医者になれなくなる方向を示している。医学部に合格する前、特に浪人生の頃、「医者になれれば何でもいい」的な思いになることもあった。そうした思いにも影響を与える方針であり、これは一言二言では書ききれない問題だ。

■2003/06/26 (木) 悪い噂への対策

あるところに参加しようかどうか迷っている。というのも、そこはたいそうよろしくないという評判があるからだ。単なる感想のレベルの噂だけでなく、客観的にたくさんの人に聞いてみてもその悪い内容は打ち消すことはできない。むしろ確信が深まり、きっと本当にあるのだろうと考える。そこで噂の真相について、直接当人たちに聞いてみることにした。

Aの場合、「そんなことはない」「過去にそのようなことがあったかもしれないが、現在は違う」「嘘だと思うのならば、実際に見に来てくれ」と言ってきた。

一方Bの場合、「確かにそうだ」「過去にそれでやめた人もいるが、自分にとってはそれほどでもなく、むしろそれを補って余りあるメリットがある」「あなたにとってどっちになるかを判断するために実際に見に来てくれ」と言ってきた。

AとBを比べたときに、Aの方が「悪い」を打ち消す、つまり情報として「いい」要素が加わっている。一方Bでは、「悪い」情報が付け加わり、方向としては「悪い」方向へ向いても不思議はない。しかし私の心の中では、Aについては信用ならんと思っていて、Bにはむしろ誠実さを感じた。

何かを隠しているのではないかという疑いは、どちらにも同じくらい持っていた。しかし、悪いことを隠そうとするのが人の常であるにもかかわらず、それを堂々と見せたBの方に対する信頼度が増した。ゆえに、参加するならBの方かなぁ、と考えが変わってきた。

営業でも、自社製品のよいところを並べ立てるのは当たり前だが、ここは他社の方がいいとか、ここはうちのは劣るとか、そういった情報も含めて言った方が信頼されるのかもしれない。なんだかよくありがちな結論になってきた。

「安くていい」なら営業はいらない。「高いがいい」か「そんなによくはないが安い」のどちらかだ(高くて悪いなら絶対売れない)。その「高い」こととか「よくはない」ことまでしっかり相手に伝えた上で、どちらを選ぶのかを考えてもらう姿勢こそが、営業に必要で、それは冒頭の「参加するかどうか」という意味の営業にも当てはまるのだと思う。

■2003/06/27 (金) 性同一性障害にみる社会と制度

「性同一性障害」法案、成立へ=戸籍の性別変更可能にを読んで「あれれ?」と思った。確かこの間反対のことがあっただろうと探したら、戸籍の性別訂正認めず 性同一性障害で最高裁とあった。たいした「ねじれ現象」だと思っていたら、本当に

当事者は「裁判が駄目だった以上、立法に期待するしかない」と話している。

と書いてあった。三権分立ってそういう意味だったかな、とちょっと疑問に思ったが、既にある法律をきちんと運用し、上位の法律、つまり憲法などに反していないかを調べるのが司法で、新たな価値基準を持ち出すのは立法の仕事であるから、それはそれで正しいのかもしれない。しかしそう考えたら、その「当事者」の人は、裁判に持ち込む意味があったのかどうか、少々疑問に思えてくる。ちょうどボーダー例だったのか。

そもそも男女の境界というのははっきりとしたものではなくて、Y染色体の有無による性別から、外性器や内性器の形成異常、生殖機能の異常、ホルモンの異常、二次性徴などの異常などの、どこかの段階がうまくいかない例が存在する。また、身体的なものばかりでなく精神的なものも、自分が男/女だと思うことと、好きになる相手の性別、そしてそれが身体的な性と一致するのかはまた別の問題だ。

分類すればするほど、どこに線を引くかは難しくなり、「男女のいずれの性に属するかの自己認識が肉体的性別と一致しない」というのがどのレベルの話なのかをこれだけで判断するのは困難だ。例えば、自分は女と思っているが好きになる相手も女だったときに、社会的に結婚した方がいいという状況があったとする。そのとき、女→男への社会的性の変更を認められるのだろうか?結婚できるのならば「自分のことを男だと思っています」と偽ることだってありうるだろう。

社会的な制度をどうこうすることはなかなか難しい。上の例について、現場の判断で拒否したら、やはり最高裁まで訴えることになるかもしれない。ここで必要なのは、完璧な制度を作って運用することではなく、一般市民がそのような多様性から目を背けることなく、そうした人の存在を受け入れていくことだと思う。「男」と「女」以外はなんか気持ち悪いからいやだ、という考え方があるうちは、どんな法律や判例があってもよろしくない社会だと思う。

■2003/06/28 (土) 医学生の就職活動 疑問をぶつける

医学生にとって、将来何科に進むかを決めるのは重要な選択だ。また、同じ科であっても、自分の大学か、地元の大学か、他の大学か、または一般市中病院か、それを決めるのもまた重要だ。将来の自分の働く場所が決まり、人生を決めると言っても全く過言ではない。今回、卒後2年の研修が必修化され、最初の2年と3年目以降が必ずしも連続しなくなったので、医学生にも就職活動というものが生まれてきた。

基本的に、医者の世界は売り手市場である。どこでも医者を欲しがっていて、ごく一部の人気のある病院を除いては、行きたいと言えば受け入れてくれるというのが現状だ。したがって、噂で聞く何十社に応募を出したとか、いくつ落ちたけど、いくつ内定で、そこから選ぶかまだそれ以上のところが残っているか、などという悩みは存在しない。自分に選択権があるというのは、そこが良くても悪くても自分の責任であり、むしろプレッシャーになる。そこで私もここのところ人生を考えている。

最初の2年間でいいところと、将来にわたってもいいところが同じかどうかは考える必要がある。また、大学に残って偉くなる道を探るのか、それとも腕に技術をつけて放浪するのかも難しい。いいと思うところには悪い噂もあり、各々のメリットデメリットが、どれが本当でどれがデマかを見破って、どれが重要でどれが取るに足らないことなのかを的確に判断しなければならない。

最近は、あちこちから聞こえてくる情報を、各々ライバル同士でぶつけることにしている。「おたくのここが悪いっていう話を聞いたんですけど、実際どうなんですか?」と直接ぶつけてみたときの対応をみて、本当にそこに行ってもいいのかを判断しようという寸法だ。図星だ、痛いところをつかれた、という反応もあれば、それに対する問答集があることがわかる場合もある。いずれにしても、それらの悪いところまで併せ呑める覚悟ができるかどうかが、自分の人生を決める判断には最も重要だ。

■2003/06/29 (日) 僻地の子どもは医師を志さないのか、を考察する前に

先日の話題について、より深く考えてみる。医学生の出身地と15歳未満人口分布を、[へき地の町村]:[へき地以外の町村]:[市・区]の形で表すと、医学生の出身地は3:8:89であるのに対して、国勢調査による15歳未満人口は9:13:77であるという。へき地の子どもが医学生になっていないように見える。

15歳未満人口を中3の人口だとみなすことにする。一方医学部に進学するのは18歳以降である。この3年には意味があって、医学部に行くようないわゆる「できる」生徒は、中学卒業時にへき地から出る傾向があるのだ。私が中学の時に住んでいたのはへき地ではない、病院もある、ただの町だったが、大学に進学するなど考えようものならば、間違いなく町を出ていわゆる「都会」の高校に行く道を選択することになる。

また、町村と市・区の間には学力差が存在するという見方もある。これは受験に対する意識の問題で、私立校などもたくさんあるような都市部での受験・教育に対する意識と、地名を冠した高校が一つだけあるような町村での意識は、違うと考えても自然だ。勉強とか塾とかへの動機は、完全に自発的ではなく、ある程度環境因子に左右されて起こるものだと思う。

学力の差は経済的な格差(つまり都市の方が金持ち)によるという意見はよく見るが、だいたいが大卒と高卒の人をつかまえてきて、その親の収入を比べるとそうでした、という統計だ。「相関がある」と「因果関係がある」が異なるというのは統計の初歩で、経済的に豊かであれば子どもの教育にお金を使うこと、子どもの教育にお金を使えば結果(成績)が変わること、お金をかければ、かけていなかった子どもの成績も上がること、などなど証明すべき説はたくさんある。

私の中では[意識が高い]→[勉強しようという意欲]→[成績の向上]という流れと[意識が高い]→[子どもの教育にお金を使う]という流れの2つがあるような気がしている。ここで、[お金を使う]→[成績の向上]という説の真偽については、お金を使う先である塾で教えている身で言うのもなんだが、特に肯定できる根拠を持ち合わせていない。

表題の「医学を志すか」の前の環境条件だけでも、これだけになってしまった。完全に自発的でもない、しかし環境条件だけでもないことをきちんと考えていくと、これらの要因の全てと各々のウェイトについて考えなければならない。これゆえに、社会科学は難しく、だからこそ面白くもあるのだ。

■2003/06/30 (月) 「いい関係」には2種類ある

いい関係の二人は、一緒にいることでお互いにとってプラスになる。自分にとってプラスになるのはどういう人かを考えてみた。1つは何かを与えてくれる場合である。それが知的な情報であれば「教える」と呼ばれるが、何も有形のものじゃなくてもいい。勇気であったり、元気であったり、普通の人が知らない情報でもいい。自分が持っていないものをそうやって手に入れることが、おそらく双方にとってプラスになるのだと思う。

もう1つは、既に持っているものを引き出す場合である。自分が持っている良さがあの人といると引き出されるとかいう場合、元々持っているものを効率よく出せたらそれはいい関係だ。お互いを刺激しあったり、相手の存在を意識することで自分がシャンとなれたりするのは、与える矢印ではなくて、自己の賦活を誘発する外的要因だ。それこそ恋などこっちかもしれない。

今は2つに分けたが、別にどちらかが優れているとかそういうことを言いたいのではない。ただ、金にしても時間にしても、いわゆる有限の「ソース」をどのようにして振り分けるかを考えがちだと思う。しかし他人からもらったものであっても、自分が元々持っていたものが発揮できたとしても、どちらも結果には差がないはずだ。したがって、時には後者の視点を思い出してみるのもいいのではないか、と思うのだった。