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7/31に北海道を発った。医学教育のセミナー&ワークショップに参加し、チュートリアル教育についての理解を深めた。学生がカリキュラムを作る教官に対して意見を言うなどの交流を持つことは、本来学生のメリットになるはずであるが、それが短期的な損得に結びつかず、むしろ損に結ぶつくと考えられがちなので、参加する学生がほとんどいないのが問題点である。
味噌煮込みうどんと長良川の花火をはさんで、現在は長野県松本市にいる。全国の医学系の大学生と、ともに考え、学び、交流して、同じ時を過ごしている。蕎麦のフルコースなどを喰らい、城など観光するのも含めて、まさに今しかできない時間を過ごしている。18歳の1年生と自分の圧倒的な経験の差を感じるのも、またいいものだ。
北海道には11日に帰ります。
■2003/08/09 (土) 大会中/最近考えていること列挙
バスケの方はベスト4まで進出。いつになく苦しい大会だが、ここまできたらやるのみ。泣いても笑っても、というやつである。
日記として書きたいことはたくさんあるのでさわりだけでも。「当たり前」となっている当たり前じゃないことについて、それを特別なことだと認識するのは大変なのかなぁ、と。学習に対する評価を、結果を重視したものにするのか過程を重視したものにするのか、それらをうまく複合させてはできないものか。年単位で会っていないような人と久しぶりに会って、そこで「ずっとつながっているってすごいことだなぁ」と感じたり。相手のidentityを崩すような行動をすると、意識してるにせよしていないにせよ、相手からそれなりの報復があるものだなぁ、とか。講演というのは、情報を伝えるという意味では書籍などには到底かなわないが、そうした書籍を読もうとする動機づけなどはわかりやすいが、面と向かって話されることによって、何とも言えないオーラというか、見えないパワーをを感じ受け取ることができる点が一番の意味ではないか。歴史を知っていることの重みはあって有益なのだが、歴史しか知らないのでは不足だし、全く歴史を知らないのもやはり不十分であると思う。
そんな日々を送っています。
6歳下の塾の教え子と飲んできた。一応書いておくと、酒を飲んだわけではないし、教え子と言っても異性ではないし、既に高校を卒業している。色々な話をしていて、自分の昔の姿を見ているようで、そこに人間の発達過程が見えるような気がした。
向こうにとってみれば、自分が現在直面している問題を既に経験し、それに対して何らかの解決策を持っている人の話を聞くことは、そのままそれを受け入れるかどうかはさておき、有益であることが多そうだ。人生の先輩の立場からしても、自分のやってきたことを言葉で表現することはなかなか発見もある。
大学に入って6年目の最近では、先輩の立場に立つことが多くなってきた。最近は与えてばっかりだな、と思ってみたが、既に医者になった先輩方に話を聞いてなるほどと思ったり、医者に限らず人生の先輩に対しては同様に感じる。また、入学当初は同じ構図で与えられてきたはずであり、そうしたものを時間的に巨視的に見たときに、自分に入ってきたものも出ていくものもそれなりに同じだけあって、うまく循環しているのだと思う。
その循環こそが、人と話をして交流することであり、社会的動物として生きていく本態だと思う。
何かをやるよう言ったときに「それは知らないからできません」とか「教えてもらってません」「わかりません」と返されることが気になっていた。なぜならそのことは、私も教えてもらったことはないし、知っているかと聞かれれば、必要となってから考えることだからだ。
例えば、バスケの大会運営で、その時間には誰に何の仕事をしてもらうか、という人割りを決めることがある。仕事の内容、仕事の優先順位、個人の能力、部員間の関係、などなどを総合して考える必要が出てくる。もちろんその人割りに、唯一の正解など存在しないし、その人割りの方法にも絶対的なものはない。
これをやるよう後輩に言ったところ「やり方わからないからできません」つまり、「やり方教えてもらえばできますけど」というニュアンスを含んだ発言が返ってきた。この構図はどこかであったな、と思い出すと、チュートリアル教育で習っていないことを自分で学習しようというときに「そのことは習っていないのだから僕らはわからなくて当然です」との開き直りだった。
よくある議論で行くと、マニュアル世代、やり方を教わってそれを正しく運用できるかが評価され、自分の頭で考えることができないような世代になってきている。入試の解き方にしても、解き方がわかっているものをどれだけ覚えているかという方針で、思い出すことはしても考えることはしない。考えたことが間違っていると、プラスに評価されないばかりかマイナスに評価されるからだともいう。
「眼球突出がないからバセドウじゃないです」と言い張る新米医師の話と似ているのかもしれない。眼球突出とバセドウ病をセットにして暗記しておくことは、国家試験的には大切だが、現実には全てのバセドウがそうなるわけではない。この言葉は、他人の話を聞かずに自分の信念を曲げない医者を批判的に表す言葉である。
世の中「絶対」なんて公式は存在しないのだから、お手軽な公式に頼るような発想より、頭を捻ってうんうん唸って考えることが大事なのではないかと思うが、そんな自分がすごく少数派であることも同時に感じている。教育制度のせいとかで終わらせたくはないのだが、やはりそれが一番の原因だろうか。
■2003/08/16 (土) 夏休み終了/ネットにおける匿名性と内容の信憑性
夏休みが終わった。日記をおろそかにしていた期間が私の夏休みだ。実習に2週間行き、岐阜と名古屋と松本と千葉と東京に行き、バスケを9試合した。一生で最後の夏休みだと思っているが、例年どおり、また期待通り充実したものだった。
さて、日記更新を再開したいところなのだが、感覚が戻っていないのか、落としどころが今のところちょっとわからない文章が一つあり、とりあえずそれを載せておく。
掲示板への書き込みを考える。自分の実名とともに書き込むこともできれば、他人の実名を語ることもできるし、実在しない名前を語ることもできるし、ハンドルネームという名前で書き込まれることもある。そしてそれらは、単に見ているほうからすると区別しようがないのだ。
2ちゃんねるがテレビで報道されるときには「匿名掲示板」と呼ばれるが、今書いた理由により匿名でない掲示板は通常存在しない。掲示板での名前が実世界の名前と同じであることを確かめられないのなら、名前の欄が空欄でも匿名希望でも名無しさんでも同じことだ。
基本的にインターネット上にあるHPは匿名であると考える。これは掲示板と同じ構図で、本人認証が容易にできない原理であるならば、それは匿名だという考え方である。
次に内容についてだが、内容が正しいか間違っているかを読み手側から判断することは難しい。例えば私は25歳の男性だが、20歳の女性であると言い張ることもできる。私のことを実は教授であると、読んでいる人が考えるかもしれないが、それは可能性としては十分ありうる話である。以上のことをふまえると、ネット上にあるHP・掲示板への書き込みは、誰が書いたのかもわからないし、内容が本当か嘘かもわからない。
しかし、だからと言って何を書いてもいいというわけでもなく、読む人が読めば何のことかわかることを書いたときに、それを読んだ当事者が不快に感じたり、書いた本人も「読まれたら困る」という思いを持っているようではいけない。個人が公の場に対して発言している構図は変わらないので、発言に責任を負わなくてもよいということにはならない。これは匿名であるかどうかにはかかわらない。
私の考えでは、ネット上のHPは読まれることに価値があるのであって、その内容が本当か嘘かには価値がないと考える。嘘かもしれないと思いつつも、読む価値があると感じるものは読み続けるし、100%真実しか含まれていないHPであっても、誰にも読まれなければネット上に公開されている意味はない。(未完)
実習先の病院から出されていた課題である「言ってはいけない医者の一言」を1000字で論述した。
「言ってはいけない医者の一言」がそもそも存在するのかを考えていた。その場面場面で言ってはいけないことというのは存在するのだろうが、「これは言ってはいけない」と普遍的に通じる言葉は思いつかない。「鬱に励まし」などの国試的な知識は医療にとってのただのスタートラインだ。「患者を絶望させるようなことを言ってはいけない」と考えがちだが、治らない病気を治らないと言うことは、表現方法やタイミング、その後のフォローなどの問題をきちんと考えて、ただ絶望させて終わらないような状況を作れば、必ずしも言ってはいけないことにはならない。
「言ってはいけないことなどない」という考えもある。もちろんこれは、何を言っても大丈夫な医師と患者の間の信頼関係があった上で、他の医師、周りの医療スタッフ、家族などの存在があるからこそ可能になることである。人間対人間のぶつかり合いである医師−患者関係は、本音をさらけ出し合って、その関係に最もふさわしい言葉を選択するのであり、それを一般論や規則などで縛ることなどできやしないと考えるのも自然だ。
以前母が買った靴がうまく足に合わず店に持っていったところ、店員は「あなたの足が悪いんだ」という主旨の発言をした。靴の「技術者」として、靴が悪いのではないと伝えるためには、それは正しい発言だったのかもしれない。しかし、それは靴屋の店員として客に言う言葉としては最悪である。
同様のことは、医師をはじめとする医療者に言えると考える。医学的にどんなに正しいことであったとしても、患者の立場に立ったときに言ってはいけない言葉は存在するのではないだろうか。言ってはいけない一言を考えるには、言う側の都合で、技術者の立場で考えるのではなく、それを受け取る立場になって、本当にそう言うことがいいのかどうかを、日々考え続けていかなければならないのだろうと思う。
医療訴訟は、医療行為のミスが原因となるわけではなく、それ以外の態度や言動が原因となるのだという。つまりそこに存在するのは、ミスをしたかどうかという判断ではなく、治療する側とされる側の人間関係である。医療者側は、普通に人として、人と接していることを忘れなければ、言ってはいけない一言を口にすることなどないのではないかと私は考える。人として、相手の立場に立ってみる、そんな簡単なことが重要なのではないだろうか。
■2003/08/18 (月) 人生という大きな波に感謝する気持ち
もしも私が大学を選ぶ際に、例えば東京大学を選んでいたとして合格し、そこで大学生活を送っていたら全く違う人生だっただろう。バスケをここまでやることもなかったろうし、優勝だの準優勝だの経験することもできなかっただろうし、それにまつわる様々な出来事も体験できなかっただろう。また、例えば樺太大学(仮名)に入学していても、それはまた違っていただろう。これまでであった多くの人との出会いもなく、今このような考えを持つことすらなかっただろう。
別に後悔しているわけではないのだが、一度しかない人生がこのような形で進んできたことに対して、なぜだか感慨深く思っている。確かにあのときこうしていたらもっと違っていただろう、とか、考えないわけではない。そこで何もしなかった自分に対して、責める気持ちがないわけではない。しかしそうしたことを差し引いても、自分がここまで生きてきて、ここまで作り上がった人間関係に、社会的な立場に、大きなものを感じるのだ。
自分は短期的な損得に興味がわかない人間だ、と分析している。日単位、月単位で損になることであっても、進んで、むしろ喜んでやってしまう自分がいる。そうしたことが大きな時の流れに乗って、こちらがずっと放出し続けたものが自分に戻ってきているのかもしれない。色々な方面に自分を認めてくれる人がいて、自分がここに存在していることを確かめさせてくれる。損得という概念をもう忘れた頃にこうした思いをすることはとても嬉しく、言葉で言い表せない充実感を感じている。
具体的にこんな事を思っている原因は、ただ一通のメールであったり、話を聞いてくれる人がいることであったり、ただ一言声をかけてくれることであったり、そんなことでしかなくて、それを書いてもちっとも感動しないのだけれども、ちょっとした自分の動きに反応してくれる、心を割いてくれる人が存在することは、お金などに換算できない大きな価値を感じている。
■2003/08/19 (火) 試験って教官と学生の戦いだったか?
試験でどんな問題が出るかを事前に知ることはできないか、というのは、試験を受ける側の永遠のテーマだ。もっとも本当に全員がわかってしまえば、そのテストの意味がないのもわかっているのだが、試験前日などに、どんな問題を出題したのかを先生から聞き出そうという動きはよく見られる
これは本質的なギャップを含んでいる。つまり学生は、どこが出題されそうでどこがそうでもないかをわかっていないのである。こっちは全部を覚えるのは無理で、問題をそのまま教えてくれるわけにはいかないだろうが、せめてどれをやれば十分かくらいは教えてほしい、と先生にすがるのだ。聞かれた教官も、自分の講義がさっぱり伝わっていないと認識するべきだ。本来は。
次の段階として、そこで重要なことを聞き出せるんならそれだけ勉強すればいいじゃん、という発想が登場する。過去問研究もこの一種である。これを突き詰めていけば、講義を聞く意味は激減する。試験で点を取るには無駄な勉強をして落とされ、楽をして勉強した人が合格するのはやりきれない。
教官の方も、ヤマを教えたらそこしか勉強しない、過去問以外の問題はさっぱりできない、という学生に業を煮やして、「講義でやったところから出す」「重要なポイントは講義を聞いていた人なら誰でもわかるはずだ」などと逆ギレする。そういう先生は、確かに講義でやってはいるけどそんなの覚えてねーよ、という些末なことを出題しがちで、結局学生は何も身につかないで試験を終える。
結局のところ、試験で教官が聞きたいことと、学生が試験前日にゴリ暗記することが一致していればいいのに、と思う。試験問題なんか事前に公表してしまってそこを学生は勉強する。もちろん量的には抜粋でないと大変だが、質的には公表しても構わないのが、学生と教官が共有すべき「到達目標」なのではないかと思う。
■2003/08/20 (水) 行動の歪みから悩みの原因を探る
誰かの相談に乗ったときに、相手の状況を的確に分析して返すのが得意だ。もっとも「的確」と「得意」に関しては私の主観であるわけだが。その分析の内容が、その人の生い立ちや性格の形成過程などのidentityの部分に及ぶことがある。すると、それを聞いた人から「そのような分析法をどこで身につけたのか?」と問われることが結構ある。
自我形成学、とかいう学問があるのかは知らないが、発達心理学であろうとなんだろうと、私が体系的に学んだものはない。では何から分析しているのかを考えてみたが、人の歪みを見つけているのではないかと思う。歪みというのは、性格を含めた感情面での歪みであり、それによって生み出される行動面での歪みである。
自分が自分を守ろうとするのはごく自然である。守るというのは、自分を否定されないようにとか、自我を守るという意味だ。何かを守ろうとしたときに、人の精神・行動がその方向にずれて、そしてその小さなずれを埋めようと多くのものが動きだし、さらなる大きな問題になって表面化する。この最後の段階だけを当事者は認識するので、本人には自分の状況がよくわからない。
その行動が、いったい何を守ろうとするものなのかを考えてみればいいのだと思う。守ろうとするものが大きければ大きいほど、表れる行為が「執着的」になると考える。不自然に繰り返される行為に気づいたら、その行為は何を守ろうとしているのかを想像してみる。
人格に影響を与えるのは歴史である。歴史の中でも特に人間関係によるものの割合が大きく、親子関係などは殊に有力な因子だ。その人のこれまでのそうした歴史を聞いていたり、予想したりすることによって、おそらくそれが原因であろうこととその人との間柄の構図を推測し、それに基づいたアドヴァイスをすると、信頼している間柄だといい相談になるのだと思う。
■2003/08/21 (木) 患者「様」という呼び方優先の世界
患者に「様」をつける呼び方について、関係が変わらないのに呼び方を変えても意味がない、と昨年12月に書いた。「接遇」とかなんとか言って、事務方とか経営者側から出てきた話であって、医者が進んで患者に「様」をつけたがっているようではないと感じている。
一方、医者に「様」をつける呼び方は、医者がそう呼ばれるような立場であったからと考えるのが妥当であろう。そのような、患者に対して上から押しつけるような態度はよくない、という議論はあるにせよ、原因はわりとはっきりしている。
呼び方から変える、という考え方は確かにある。例えば「精神分裂病」を「統合失調症」に呼び変えることなどだ。名前が与えるイメージは少なからず大きいので、そちらを変えようという動きだ。もっとも実際のところは「総合失調症」と誤って呼んでいる人も決して少なくないので何とも言えない。
しかし、そもそもお互いの呼び方などというものは、役職名とは違ってその二人の関係で決まるのがスジであろう。検索してみると、医師にこんな言葉を言われて傷ついた、という話題には事欠かない。しかしそれは、医師全体からこう言われたということではなく、その医師に言われたというレベルの話ばかりである。したがって、全体で呼び方をどうこうしたところで、何か解決に結びつくとは思えない。
「お患者様」と呼べば医者と患者が対等でよろしい、という意見もあった。呼び方優位な考えへの皮肉だろう。本当に大切なのは、なぜ患者に「様」をつけようという話が出てきたか、そして現在の医師と患者の関係がどうであるのか、その上で行動をどうすることで現状を変えることができるのか、を考えることであると私は考える。
本当はいちいち書いていくはずだったがたまってしまった。一生で最後だと思いライブに行った。曲は全てアルバムに入っているわけで、音響効果などの調整を考えると、ライブの方が優れているとは言えないはずだ。しかしライブの方がいい、と思うところがあって、それは目の前で実際に歌っている、という点であろう。
参考書に書いてあることをそのまま教えるのはいけないが、ライブで目の前でやるということも大事だよ、とよく塾で後輩講師に言う。板書をいちいち書くのは重要で、ただ内容を伝えるだけなら模造紙に書いていって貼ればいいし、プリントで配った方が情報を渡す効率は高い。しかし伝達効率が落ちるのも経験的にわかっているので、苦労してチョークまみれになるのだ。
ある人の講演を聞き、その内容は出版されている本に書いてあることも多かったのだが、それ以上に伝わってくるものがあった。講演をきっかけにして本を読んだということもあるが、それ以上にその人が本を出すまでに至ったもの、オーラ、人生のスタンスなどなど、実際に会ってみないと伝わらない部分を多く感じ取ることができた。これもライブの一種だろう。
本州にいる間に、野球の試合も見に行った。テレビで見ればわかる、例えばストレートとかカーブとかストライクとかボールとか、それは全然見えないのだが、ホームランボールの軌道とか、影のプロらしいプレー、例えば走塁とか、ボールがないところの守備とか、そういうことを見ることができてよかった。
応援もよかった。参加型エンターテイメントとして、また選手との一体感と同時に、応援している人同士の一体感もあり、ホームランで隣の見知らぬおじさんとハイタッチとかしてしまった。いいプレーはみんなでいいと思えるし、ダメなときでもみんなで応援しようとなれる。同じ目的で集まった人同士のふれあいもまた、ライブの醍醐味だ。
そうしたことも非常によかったのだが、それよりもそのためだけに時間を使えることってすごく贅沢だと、特に医者になった先輩の話を聞いていると強く思っている。残された学生の時間を有意義に満喫したい。
誰かと会っているときに睡魔に負けてうつらうつらしてしまっては失礼だが、その失礼を上回る思いを感じることがあった。一つには、何日も活動し続けてもう休んでしまいたいような日程の中で、自分と会っている、ということである。義務かどうかで言うと会わなくてもいいのだが、でも会おうということになる関係は、それなりに価値があるものだろうと思うのだ。
もう一つは、寝てもいいだけ気を許しているという視点である。毎日顔を合わせて築いた関係でもないのに、年単位で会ってなかったりするのに、それでもなおそれだけ相手に心を許し、いわゆる「気のおけない」関係であることを感じたりする。そうすることができる相手というのはそう多くないし、とても大事だと思っている。
願わくば、日単位で、何も予定がないときにゆっくり会いたいものだが、そうもいかない年代に突入したことを感じるこの頃、時間を大切に過ごしていきたい。
塾講師の仕事は、塾に来た生徒に勉強を教えることばかりではない。塾に時間通り間違いなく来させること、予習を徹底すること、復習をさせること、授業中ケータイを鳴らしたやつを注意すること、隣の奴とおしゃべりに夢中になるやつを注意することなど、よく考えないでもこれだけ並んでしまうほどある。要するに「しつけ」も必要だということである。
この「しつけ」は塾が本来やるべき仕事なのか、という議論がある。理論的には、生徒の成績を上げるために必要であれば塾の仕事であり、書いたことのたいていはそうだ。私ももう少し若い頃には、そうしたところに力を注いでいたし、採算を度外視して、つまり割に合わないのを承知で色々なことをやってきた。しかし最近ではその動機も弱まってきた。
一つには、生徒のために自分が頑張る、くらいの視点でやってきたわけなのだが、どうして職員よりもprivateを殺して頑張らなければならないのか、という疑問点が沸いてきた。自分よりも給料も責任も大きい人たちを動かしてまでやらなければならないことなのかを疑問に感じ始めた。実は昔は、職員をも動かせる自分の力に酔っていた。
もう一つには、どんなに生徒のために頑張ったとしても、それが形となって評価されることはなく、自己満足に近いものでしかなく、一方で、学校の成績に代表される負の評価が自分に対してくだっているわけであって、そのギャップに直面し始めたというのがある。生徒が試験前だからと言って、自分の試験勉強をなげうってまでやる気は今はもうない。元々なくていい気がする。
情熱の変化は、そろそろ潮時だという合図かもしれない。その情熱を決めるのは自分と接する生徒であり、現場で何かを悟る日もそう遠くないように感じている。一人でもやりたいという生徒がいれば続けようと思えるか、それが一人じゃなくて何人ならどうなのか、そこらを検討する時期に来たかもしれない。
■2003/08/25 (月) 医師の給与とやり甲斐について
私はまだ医師じゃないので気持ちがよくわかるというと嘘なのだが、医者を給料でやっている人はいないと思う。もちろん無給でいいとか、医師の給与は高くないとか、そういう話をしたいわけではない。しかし、医者の仕事の主なmotivationは金銭に依らないと感じている。
ある新聞記事の切り抜きに、献血の話が載っていた。献血をするところには必ず医師がいなければならず、その記事によると、1日行くと医師は3万円くらいもらえるそうなのだが、給料が安いと言って、医師になりたて1年目、2年目の研修医か、引退した60代70代の医師に頼っているということだ。
「献血バイト」でその医師がする仕事は、血圧を測って、問診結果から献血の可否を決めることである。正直医師としては簡単すぎる仕事になる。その記事には「3万が安い」と書いてあったが、仕事の内容からすると高すぎるようにも思える。
給料で言うならば、大学のそうえらくない医師たちの給料は、例えば月に20万だという話も聞く。月に20万だと平日だけでも1日あたり1万程度だろうし、日曜祝日は完全オフとか、9時5時で帰れるという話は大学では聞いたことがない。それでも大学には医師がたくさん勤めている。
以上のことから、医師はお金で働くかどうかを決めているのではなくて、その内容を重視しているのではないだろうか。献血バイトが3万にもなるのは、医師というライセンスを持って医師らしい仕事をしたいと思う人は、むしろそうした楽な仕事はしたくないと思うからではないだろうか、と考える。
1日3万もらって毎日9時5時で働けば、それは非常にいい労働条件であると思う。月に15日で月収45万になる。しかし、そうした献血センターに常勤する医師が出たという話を聞かないことを、世間の「医師の給料は高くて..」と言う人たちはどのように考えるのだろうか。ぜひとも聞いてみたいものだ。
■2003/08/26 (火) 勇気を持って、自治体が医局に金を渡す構図
医師不足に悩む自治体が、大学の医局にお金を渡していたことが問題となっている。学生という身分だが大学にいる人間として非常に書きづらいところはあるが、確かなところだけ書いてみたいと思う。
「医療過疎地」が存在することは紛れもない事実で、そうした自治体にとって医師確保は重要な問題である。現在のところ、医師を供給する力を持っているのが医局であることは間違いない。
自治体側が「医者の一本釣り」をするという方法もあり、最近こちらが増加しているとはいえまだまだごく少数である。そうした方法で就職する医者自体が少ないのだ。条件はこの上ないくらいじゃないか、というくらい良い。病院も、家も、全て用意されていて、給料だって町長並みのものを用意して医者が来ることを待ち望んでいるが、それでも来る医者がいない。
10年で1000万だの、そんなお金をもらってけしからん、という意見があるかもしれないが、1年で100万なら月に8万程度だ。町長並みの月給を用意しても医者が来ないところで、月に8万払って医者が来るのであれば安いものだ、と考えても不思議はない。もちろん、もらう側が安いと思っているのならばけしからんことだが。
新入医局員、というのは、6年の課程を卒業した医学生が「どれにしようかな」と選んで決まる。当然、人気がある科(=医局)とそうでない医局があり、また人気がある年とない年がある。自由選択なのだから当然だ。職業の自由選択は憲法でも保証されている。そうした時に医局員が減れば、医局の側に悪意が全くなくても、医師を引き揚げる選択をせざるをえないことがある。いない医師を派遣することはできないし、行けない医師を派遣すれば名義貸しだ。
そこで引き揚げられてしまって、例えば小児科の医者が1人から0人になってしまうと、その自治体は非常に困る。カニでもメロンでも贈るのに始まり、お金を渡してでもなんとか医師を確保しようと思うのも自然だろう。人がいないので引き揚げる、と言う医局を責めることはできないし、そこで手ぶらでお願いに行けない自治体の気持ちもわかる。そうすると、いったい誰が悪いのだ?
おそらくマスコミは、医局の体質とか、金銭の授受の適正さについて報道するのだろうが、そうしたやりとりがなぜ生まれているのかを考えなければ、何も解決することはない。金銭の授受は単に表面に表れた問題で、「医者いねぇよ」というのが本当の問題なのだ。
医者を全員国家公務員にして、辞令をもらえば択捉でも樺太でも行きます、という仕組みの人事にすれば、地域の医師不足は解決されるのだろうが。そうでないとすると、医療過疎地に医師が派遣される仕組みについて、今の医局を上回るものが提案できなければ、代案なきただの批判で終わってしまう。
■2003/08/27 (水) 医療関係報道のいい加減さから報道を考える
大学病院、新人臨床研修で派遣医引き揚げ 医療過疎に拍車の恐れと報道された。これは新制度の導入前から懸念されていたことで、ほら見たことか、という感じである。研修医に教えることを義務化する制度ができたので、教える人が大学病院に必要になったということである。厚生労働省の担当者に質問したところ、「ベテランが大学に戻ってきても、大学の人員に余裕が出るのだから、今度は中堅が大学から出るはずだ」という回答だったが、そのようにはいっていないようだ。
厚生労働省は「ベッド数八床に研修医一人」という基準を設けるなど、小規模な地方病院でも研修医を受け入れられるよう偏りをなくす配慮をしてきた。
八床に一人という基準は、小規模病院に配慮したというよりは、例えば大学病院で研修できる人数を増やすという意味合いである。小規模病院は、診療科も少なく教える人もいないので、ベッド数とか関係なく研修できないきまりなのだ。また、昨日書いた道内23市町村が医局へ公金 大半は“医療過疎地”のニュースについても、話全体が見えていないのに一部を強調するように報道されている。この間、某テレビ局が全国放送するために取材に来ていたが、少なくとも学生である私が持っている情報くらいは聞いた上で番組が作られていた。医者=お金持ち=叩け、という構図を超えない、世論をミスリードするような報道には辟易する。
インターネットが普及して、実は報道されていないこととか、偏って報道されていることなどが、一般市民にわかってきてしまった。読み手側がきちんと報道を選ぶことが始まり、報道側もきちんと読まれるものを作る必要が出てきているように思う。読む側と書く側のどちらが賢い行動を取るかにかかっているのだ。
■2003/08/28 (木) ないものとは戦えないから、あるけどないように見せてみる
「決まり」を作れば秩序ある組織運営ができる、と考えるのが自然な考えだ。起こるであろうもめ事に対してあらかじめルールを作っておくことは、そのもめ事を解決するのに役立つはずだ。しかし、この原則が通用しない状況が存在する。
一つは、組織があまりに小さい場合である。家族とか4人程度の職場とか、その中でずらずらと決まりを作るのは逆に気持ち悪い。明文化されない決まりはたくさんあるかもしれないが、それをわざわざ形にしないと関係がうまくいかないようでは、むしろ形にしてもうまくいかない関係だと思う。
もう一つは、暗黙の了解でやれるところにあえて決まりを作ってしまう場合である。例えば50人とか100人の規模の目的を同じくする運命共同体で、ないならないで済んでしまうところに、あえて決まりを作ってしまうようなことだ。決まりができると、それをかいくぐったり破りたくなるのが人情で、その人間の性分を止めることは難しいだろう。そしてさらに決まりを作るとますますくどくなる。
私はこんな文章を書いているぐらい、決まりを作りたがり、それで運営したがりな、論理的に積み上げていくのが好きな性格である。それで、これまで色々な組織で、前はなかったルールの制定したりするのだが、そのことが必ずしもうまい運営にはつながっていないと感じている。
ないものに対して戦うことは原理的にできないが、あるものに対してはそれに対抗する力が生まれてきてしまう。最近では、あるのだがあることを気づかれないような、そんなさりげない力の使い方を目指そうかと思っている。どれだけの力を持っていても、それをどう生かすか、そしてどのような結果が導き出されるかで評価されることを考えると、ここまで考えることも力に含まれるのだと思うからだ。
■2003/08/29 (金) あらゆる問題に対する最強の対応は「無視」である
「美女軍団」はNHKでは「女性応援団」とされるわけだが、応援団じゃいけないのか、という疑問にまでは答えてくれないだろうか。某政治家の愛人報道をする週刊誌が「美人女医」としていたが、そうした視聴率稼ぎと勘ぐられても仕方がないことだと思う。女医だけでもいいだろうし、男医という言葉がない以上医者でもいいだろう。
万景峰をマンギョンボンと読ませるのも、かつて「現代の創氏改名」とかいう訴訟があって、人名・地名は現地読みにしたらしい。最初から「マンギョンボン号」ならば別に構わないし、「万景峰号」であっても構わないが、「万景峰と書いてマンギョンボンと読む」読み替えに関しては違和感がある。既に日本語ではないからだ。
その「美女軍団」は、政治的意向によってホテルにひきこもったりするので、応援をしに来たのではないことがわかると思うのだが、彼女たちの顔をアップで報道することはまさに向こうのねらい通りとなる。選手団を引き揚げるのは政治的手段としてまだ理解できるが、応援団を引き揚げても別に競技には影響ないと思われるので、そのことを報道すること自体が政治的宣伝の片棒を担いでいると言われても、仕方がないことなのである。スポーツ大会なら選手が競技をしているところを映せ。
■2003/08/30 (土) 医学生の選択と地域医療のあり方
24時間医者であることというのは、想像しかできないが大変だ。その地区のたった一人の産婦人科医だったとすると、24時間、365日、自分が呼ばれるのではないかと気を張りつめ続けなければならない。人口が10倍で医者も10人いるときとは、全く異なる責任がのしかかるのだ。
先月実習に行った先の心臓外科医も、例えば宴会で酒を飲むとしても、今大動脈解離が来たら手術だし、地理的な条件を考えると搬送するという選択枝はないし、地域に果たすそうした責任は大きい、と言っていた。このように、人口あたりの医者、と単に考えるだけでは、都会でうまくいくことが田舎ではうまくいかないことが十分ありうる。
岩見沢などの公立4病院から北大産婦人科の常勤医撤退 来年度、砂川に集約
あくまで想像だが「これ以上今の状況が続けば、ますます産婦人科に入局する人がいなくなる(新聞にはその具体的なデータもあった)。ここで手を打っておかなければ、本当につぶれてしまう。」などと思ったのかもしれない。つぶれて一番困るのは地域の住民だろう。この報道が何を目的としているのか全くわからないが、撤退したことが悪いことであるかのような近視眼的なものの見方は、非常に不毛なのでやめていただきたいものだと思っている。
テキストサイトを読んでいて、この作者が独身かどうか、ということを考える。説明できる範囲で言うと、配偶者や子どものことが書いてあれば既婚で、書いていなければ未婚ではないか、ととりあえずなる。しかし実際には、配偶者や子どもがいてもそのことを書かなければ、見分けがつかないことになる。
もう少し話を広げて年代を少し下げると「彼氏/彼女がいるか」という問題に置き換えることができる。巷に氾濫する「恋愛日記」とやらには、今日ダーリンが・・というものが相当数あるが、そうでない日記で、しかも登場人物に彼氏/彼女が出てこなければ、これも判断できないことになる。
そもそもネット上では匿名で、性別も自称以上のものではないという現実がある。したがって、妻子持ちだろうが、実は彼氏とラブラブだろうが、そうした現実とは異なる姿を読者側が想像するのは勝手なわけだ。ここで「匿名の自分を作り、それを晒す」サイトオーナーと、「書いてある事実を元に、書いていないことを頭で補完する」読者の間で、一つのワールドが形成されるのだ。
そのワールドが完全に閉じたものであれば、既婚/未婚とか彼氏/彼女がいるかとか、そういうことはあまり重要ではないのだと思う。そういうことを考えるのは、実はどこかで現実世界とのつながりを意識しているからで、ネット上の仮の姿と現実世界の真の姿と、その二つのせめぎ合いがあって、だからこそ引き籠もりにとどまらないネット社会の面白さがあるのだと思う。
他サイトでの「既婚だと知ってショックを受けた」とかいうやりとりを見ていたのだが、そこでどうしてショックを受けたのかをよくよく考えてみると、自分が実は持っているものが見えてきて面白いと思う。
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