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競り時間早め鮮度維持 トラック速度規制で魚市場とのニュースの中に、「リミッター導入により築地までの輸送時間は2時間近く長くなるとみられる。」との記述があった。日頃広い北の大地を車で走っている感覚から、90[km/h]にして2時間余計にかかるなんて、いったいどんな距離/速度なんだと思った。
これまでn時間かかっていたのが、90[km/h]で(n+2)時間かかるようになるという。そうするとこれまでは、90×(n+2)/n[km/h]で走っていたことがわかる。n=2だと180[km/h]となるのはないだろうが、n=4で135[km/h]となり、n=6で120[km/h]となる。この時の距離はそれぞれ540[km]と720[km]となる。
いずれにしても、それなりのスピードで走っていたことがうかがえる。東京から気仙沼までJRで行くと507[km]らしいので、おおよそ140[km/h]位の速度で走っていたことが、このニュースから推測される。カツオのおいしい刺身を食べるのも大事だと思っていたが、平均140[km/h]で走るトラックに支えられているのならば、やはり規制も止むなしなのかもしれないと思った。
■2003/09/02 (火) そこに出会いはないのだろうか
「出会いがない」と嘆く人は多いが、そういう人が本気で出会おうとしているのか、私には疑問だ。人生が予め決められていて、どうもがいてもある以上の出会いがないことが保証されているのだとすれば、その人生に対して「出会いがない」と嘆いてもいいかもしれない。しかし私は、人生は自分の力で変えられるものだと思っているし、出会うことが目的ならばいくらでも手段があると思っている。
「自分の生活圏には出会いがない」という主張はよく見かける。しかし、本当に物理的に時間がなくてその生活圏から出られない、という人は少数だ。物理的に空いている時間を、例えば家で無為に過ごしているから出会いがないのだ。どんなに拘束時間が長くて時間がなくても、空いている時間にパソコンでもケータイでも全くさわれないところは昨今ないだろう。もしも本当に時間がないのだとしたら、おそらく「出会いがない」とすら愚痴れないと思う。
パソコンで自分の生活圏を広げるのは思いのほか容易な話だ。私のように毎日ずらずらと駄文を並べる方法もあるし、そうした他のサイトに行く中でも世界が広がっていく。実際顔を合わせなくても、メールなどで関係を維持していくのはそう難しくない。生活圏というのを「人と人との関係」だととらえ、その関係の持ち方をケータイだのパソコンだのに依れば、出会いを見つけそれを発展させることはそう難しくないのに、と感じている。
一審の死刑が二審で無期懲役になった理由が、民事で和解が成立したからだという。被害者の遺族の懲罰感情が和らいだ、とかなんとか。反省すれば罪が軽くなるのか、という点が疑問だ。反省すれば死ななくて済むのだとすれば、私だったら思い切り反省している素振りを見せる。その上無期懲役は終身刑と異なり、長年模範囚をしているといずれ仮釈放があるらしい。私だったら思い切り模範囚を演じる。
犯罪を犯す前もそうだと思う。どうせ罪を犯したとしても後から反省すればいいと考えられたら、犯罪抑止に対する処罰の効果は薄くなる。また、民事でお金を払えば罪が軽くなるというならいくらでも払うと言う人もいるかもしれないし、遺族も本来そんなお金が欲しくてやっているわけではないので、今後は刑が軽くなるのを恐れて一銭たりとも請求しなくなるかもしれない。
もう一つ、心神喪失や未成年など、その時に十分な判断能力がなかったとされる場合には処罰されない、というのも疑問だ。同じ罪を犯しても、悪いかどうか本人がわからなかったら罰せられないのだという。14歳などの少年犯罪には、少なからず「やってもせいぜい少年院」という意識があるという意見に賛成だ。やったら死刑だ、というのも理解できる年代だと思う。
一応各々の法学的理論の一面はわかっているつもりなので、各々の良い面もまた理解できる。しかし、家にいながらわけもわからず殺されてしまう人がいて、強盗の上殺人までした人は死ななくて済み、そうした人たちが同じ社会を共有するというのだ。私は、同じ社会で生活する以上、社会のルールが個別の事情を上回るという考え方の方が正しいと思う。私的復讐を禁じて法に従うというのは、本来そういう理念だと思うのだ。
とある駅前でキャッチセールスに遭った。男性向けには若いきれい系の女性、という原則通りだった。信号待ちの時間は何もしないのも退屈なので、ちょっと話を聞いてみることにした。
会社名を言わないのは怪しいが、東証一部に上場が決まったカツラか植毛の会社のようだ。上場を記念して、いつもはいくらだかの頭皮チェックが今なら無料だという。どこで元を取るのかうさんくさい。あなた(=つまり私のこと)は今はまだ髪はふさふさなので、将来のこととかを心配していないと思うのだが、その無料チェックで5年後10年後のハゲ率などがわかるという。
一応医学生の端くれとして、頭皮をチェックしてハゲる確率がわかるのならば、それがどのような大規模臨床調査に基づいているのか、その論文が採用された雑誌がどの程度のクラスなのか、その辺を突っ込みたかったが、バイトのおねえちゃんを苛めるのも、と思い、ぐっとこらえて話を聞いていた。「ハゲるのはいやですよねぇ」などと肯定するような質問をするのは、心理学的に有効なのだろうな、と思いつつ。
「チェックをして将来の予想ができるというのはわかったが、チェックで問題があるとどうするのか?」と聞いてみた。すると「予防をするのだ」との答えが返ってきた。恥ずかしながら医学部生活6年目にして、ハゲの予防法は聞いたことがない。具体的な方法を聞くと「電気を流す」という。
なんでも、非常に弱い電気なので害とか副作用はなく、なのに予防効果はあるらしい。人間の体にも電気が流れていて、それと同じようなものだということだった。さすがに聞き捨てならず、体のどこに電流が流れているのか聞いてみた。神経の軸索か、でもあれは流れているとは言わないだろうし、イオンチャンネルとかも流れているにはほど遠い。
「この辺に」と腕の表面を指しながら彼女は言った。「流れてるじゃないですか、静電気とか」
「静」電気が「流れる」というのも、高校物理レベルでなかなか発見だったが、信号も青になったので、「私は医学部の学生だが、そんなところに電流が流れるのは解剖学的にありえないと思う。あなたが言っていることは間違っていると思う」と素性を明かして街へ歩き出した。
■2003/09/05 (金) 素人は専門家を評価できないが、評価している
9/4放送のDr.コトー診療所のネタばれを若干含みます。
医療をする側に対して医療を受ける側が多いときに、つまり患者が多すぎて医者が足りないときに、どの患者から診るのかの順位づけをしなければならない。要点のみを言うと、今すぐ処置をしなければ生命に関わるような人を優先して、その処置をしている間何もしなくても生命に関わらない人を後回しにするということだ。
国家試験の問題に、重症度を表すデータの他に、職業とか社会的立場とかを与えておいて、どの患者に何をするのか選ばせるものがある。患者がこうこう言っている、例えば俺から先にやれとわめいている、などのデータもある場合がある。そこでどのような選択をするのか。
国家試験の解答としては、あくまで重症度だけに基づいて順序を決めなければならない。金持ちとか、国会議員とか、そういう人を優先してはいけないのだ。Dr.コトー診療所の中では、医学的な判断と、周りの医学的素人が思う優先度と、それまでの物語的な経緯とが絡み合い、その不一致が問題を複雑にしていた。
医師がそこに一人しかいない場合、医学的判断の妥当性を評価するのはいったい誰なのだろう、と考えた。能力的に、医者以外の人間が医学的な判断を評価するのは不可能だと思う。かと言って、医者が好き放題やれるというのは違うし、医者でない人間は全て黙っておれ、というわけでもないだろう。
専門家、とされるものには共通してみられる構図だろう。火山の専門家が避難しろと言えば、その妥当性はわからなくてもそれに従う。そうやって専門を信頼して行動し、専門家の側もその期待に応えるべく、公正に行動する。そうした専門家と一般市民の間の関係が、どこにも明文化されていないが存在し、寡黙に機能しているのだろう。
その関係を維持しているのは、世間のイメージとか、そういう曖昧なものかもしれない。警察の不祥事が報道されて、その期間は取締が減少して、結果事件が増えたという統計を見たことがある。世間のイメージのようなものが原因で、コトー診療所の例では島内のイメージが原因で、その人が本来なすべきことができなくなるようなことがあると、実は集団全体の損になることがあると思うが、そこまでは考えが及ばないのが現実だろうか。
■2003/09/06 (土) 未知のものと戦う力も評価して欲しい
先日、とある後輩が相談してきた。どこかに答えが既に存在して、知っている人に聞けばいい、という内容ではなく、自分の頭の中で組み立てた議論が間違っていないかを確認して欲しい、ということだった。これはどんな書物でも不可能だし、コンピュータでも現実的には不可能だ。
いろいろ他に人はいただろうに、内容的な高度さを考えて、その後輩は私に白羽の矢を立ててきた。あいつならなんとかしてくれるだろうという魂胆である。目論見通り、その後輩は見事に私に論破され、まぁ二人が新たなものの見方を発見したと言った方が適切だが、私は期待に応えることができた。
考えてみると、その後輩が私を選んだのは、私ならばその問題に対してなんらかの考えを示せるだろうと予想したからであろう。しかしその問題というのは、決して私が経験したり既に知っているものではなく、私も初めて考えるものだった。したがって、私がその後輩が望むようなことを考えられるかどうかの保証はないはずだ。
それでもその後輩が私を選ぶこと、そして私がそのような思考ができること、というのが価値ではないかと考えた。何かを、例えば知識を持っていることや、何かができること、例えば技術と呼ばれるものなど、そうしたものが評価され、自分もそこに価値を置くようになりがちだ。
しかし、未知のものに対して何ができるのかという力があり、目に見えるものを全て取り去っても残る、そうしたものの方が価値があると思うのだ。「価値があると思うのだ」というところで、実は「価値」にしがみついているような自分をみるが、自分のそうした面も評価して欲しい、と内心思っているからなのだろう。
■2003/09/07 (日) コンピューターウイルスと予防接種 集団の利益か個人の選択か
コンピューターウイルスをイメージしてもらうとわかりやすいかもしれないが、まず誰かの感染があり、そこからつながりがある人が感染しうる状況でなければ、感染というものは広がらない。「感染しうる」というのは、ウイルス対策ソフトを入れてないとか、そういう状況である。実は人間の感染症も同じである。
全体の95%くらいの人が感染防御していれば、感染は広がらないという。20人に1人が次の20人に1人と接触する、そしてその人がさらに20人に1人と接触する、と考えるとなかなか広がらなさそうだ。これが仮に3分の2しか感染防御をしていなければ、3分の1の確率で次の人次の人へと感染していって、その感染の連鎖は「流行」になりそうだ。
日本では予防接種を受ける人の割合が低い。個人の選択にまかせると、副作用などを恐れて受けない人が多いのだ。しかし実際は、「作用」である元の疾患に対する効果は、「副作用」の問題に比べてはるかに大きく、10年に1人いるかどうかの副作用を恐れて、毎年多くの人が防げる感染で生命を落としている。
典型的な麻疹の例を挙げる。任意接種の日本においては、75%程度の人が予防接種を受け、年間数万人の麻疹患者が出て数十人の死者が出ている。学校に入るためには接種証明書が必要なアメリカでは、海外からの持ち込みなどによる患者数が年間数十人だ。麻疹にかかる人の9割以上は予防接種を受けていない。
日本での状況は一見個人の選択だと見えてしまい、受けない選択をした人が感染するのは勝手じゃん、と考えがちである。しかし、健康上の問題で予防接種を受けたくても受けられない人が存在し、その人たちに感染させないようにするためには「流行」を防ぐことが有効で、流行を防ぐには95%の予防接種が有効である。
個人の選択よりも集団の利益を優先するのが、公衆衛生という学問分野であるが、その視点では日本はかなり遅れていると言わざるをえない。誤った個人主義が浸透して、しかも数十人の子どもの命が毎年奪われているのだ。今回ちょっと検索しただけで、予防接種を受けない方がいいというHPがたくさんあるのに驚いた。ぜひどちらが正しいのか考えて欲しい。
■2003/09/08 (月) 患者が金を渡したかったらどうする
「学生の前でお金をもらうなんて」と学生がある医者を非難していた。その学生に何か気に障るようなことがあったのかと思っていたが、同じ意見をあちこちで聞くので疑問に思った。
「学生の前で」との枕詞の意味がわからない。学生の前でなければいいのか、隠れてこっそりもらう方がどうかと思うが。この発想は「車掌さんに怒られるから静かにしなさい」と子どもに言う母親と同レベルである。車掌さんがいなくなればうるさくしてもいいのか。
また、教育者としての立場がある、という意見があるかもしれないが、そういう事実がありながら学生にはひた隠しにする方が質が悪いと思う。この構図は、中学校でリアルな性教育をするなという親の反発に似ている。性教育をリアルにしなければ自分の子どもがそういうことに及ばないとでも思っているのか。
次の問題は、そのお金の授受が不適切であるかである。大きく分けて、業者からもらう、という場合と、患者からもらう、という場合が想定される。業者からもらう場合だが、収賄だの贈賄だのいろいろ問題になる点はあろうが、資本主義の世の中においてそこにそれだけの金銭的価値があることを否定することはできない。
患者からの場合だが、まず患者から医師への診療報酬以外の謝礼は本来必要ない。医師が患者に求めるのは論外だし、患者も医師に払うことを気にする必要は全くない。それでも払いたいという人がいれば、他の人も払わなくてはいけないような雰囲気にさせるので困った問題だ。
もう一つの視点として、患者や家族が満足するための医療という視点だ。本当は誰がやっても同じ治療であったとしても、大病院、それも大学病院がいいとか、臨床の技術はどうであっても教授先生に診てもらいたいとか、そういう発想だ。医学的に全く不要であるのに検査を受けたがるとか、患者が望むようにすることが目的な行動というのが確かに存在する。
末期がんで現代医学で手の施しようがなくなった患者たちは、毎月10万とかを怪しげな民間療法につぎ込むという。一縷の望みをかけると言えば聞こえがいいが、生きているのに何もすることがないことに反抗した行動だと思う。どうせダメであったとしても、八方手を尽くした結果ダメだったんだと思うためには、その月10万は必要なのかもしれない。
話を戻して、謝礼と称して患者から医師に払われるお金は禁止されるべきだと思う。しかしその動機が、患者の安心であったり、患者の満足であったり、お金を払うこと自体が目的だったりする場合、それを禁止することがはたして誰のためになるのか。医療を患者本位で考える以上、一概に「いい」「悪い」を決めつけられない難しさがあるように思う。
巨人の成績が思わしくなく、阪神の優勝も時間の問題とされている。その中で、巨人のコーチ陣が責任をとる形で次々やめるという。コーチに責任がないとは言わないが、コーチのどのような行為が責められるものであったかは、誰も指摘していない。結果が出たら選手がすごくって、結果が出なければコーチの責任というのは、あまりに一貫性がない。選手も責任をとってはどうだろうか。
「学習におけるコーチ」というのが、塾での講師の立場であると教わった。教育一般でそう例えることができるだろう。その論法でいくと、私が留年する原因となった科目の教授とか助教授とかには、教育という責任を全うできなかったわけだから、辞任していただかなければならない。そんな論法も、ところを変えれば通ってしまうのだなぁ、とスポーツニュースを見ていて感じた。
元来、言語というのは不完全なものだと思っている。現実社会で起きている事象を完全に記述するには非力だし、頭の中で考えていることを完全に表すことはまず不可能である。しかし、他人とコミュニケーションする手段としては、言語が最も有効で、さらに言語化をする際に、抽象化や分析を通じて新たなことに気づくことができる。
不完全だから文章にしない、文章を公開しないという意見もあるが、私は不完全であることをわきまえた上で文章を書き、伝えていきたい。完全に伝わらなくても、そこに伝わるものは確かに存在し、その不完全を積み重ねていくことが、不完全ながらも完全の方向に少しでも近づく方法であると思うからだ。
■2003/09/11 (木) 「ドンキホーテで深夜に薬」問題について
医者の頭の中を考えると、例えば腹痛を訴える患者さんが来たときには、腹痛の原因をいろいろ想定して、それを確かめるべく検査や診察を行う。原因がある程度はっきりしたところで、それ以降の処置があって、その処置の一つに投薬がある。腹痛の患者の頭の中を考えると、「お腹がいてーよ→早く痛み止めくれよ」ぐらいがいいところだろう。
薬剤師、と一言で言っても、きちんと必要な項目を聞いて、ある程度の診断をつけて「これは薬で済ますのではなく、病院へ行ってください」と言える薬剤師から、かけ算しかしてないんじゃないかという、できの悪い医学生である私などの目から見ても医学的な知識の面でどうだろうと言えるような薬剤師までいる。
消費者が最初から「痛み止めが欲しい」としてドンキホーテに行ったときに、はたして薬剤師がどこまでのことができるのか疑問だ。しかし、薬剤師がいろいろ聞こうとしたときに、「いいから早く痛み止めくれよ」と言う客(患者)がいることの方が問題のように思える。まして面と向かっていないと、しかも夜だし、人間結構荒れるのではないかと恐れている。
副作用とかそういう注意するべきことがたくさんある薬であっても「自己責任でのんでくださいね」ということで、コンビニでもどこでもガシガシ販売するという選択がある。そうすると、おそらく今より、副作用で死ぬ人、死ぬまでもいかなくても具合が悪くなる人、どうにもおさまらなくって病院に来た頃には手遅れという人、などは増えるだろうが、便利になったと思う人も増えて、その数の方が多いであろう。
今の日本は、そうした「一見便利」なことを規制して、薬剤師という専門職を使って、国民の健康を守ろうとしているのだ。そうした危険は日頃認識されていないし、薬局で薬を買うときに薬剤師に相談したことなんかねーよ、と言う人も多いと思う。自分の体を守るのは自分か国か、どちらと思う人が多いのかによって、ドンキホーテの薬の問題は決めるべきだと思う。
厚生労働省とドンキホーテが対立していたり、それらが何かの象徴になっていたりすると考えるのは、話の本質を見失っている。一人一人が自分の健康を追求するにはどちらが得か考えて、多くを占める意見に従うのがいいだろう。ただもう一つ、難しいことはよくわからんので専門家に任せるという意見があってもいいと思う。そういう意見を持つ人を味方が、厚生労働省なのかもしれない。
Half Boiled Doctorの半熟先生の9月2、3、6日の日記と、いやしのつえのじっぽ先生のDoctor's Ink(73)を熟読しては如何でしょうか。(両先生方、引用させて頂いてスミマセン)
とあねごが書いていたのをそのままいただきますが、本物のお医者の意見はこちらでどうぞ。
ザウエル先生にも紹介いただきました。各先生方には無礼にもこの場でお礼申し上げます。
研修医は医者であるが何もできない。自動車運転免許で言うと、学課が終了、教習所のコースに出たばかり、という感じである。その研修医が守るべき心得として、ABCが言われている。つい先日、新しいバージョンを知ったので、あわせて紹介する。
A・・Another doctor
B・・Behind nurse
C・・Call doctor
A・・After Oben
B・・Behind Oben
C・・Call Oben
1つ目の例は、医者なのに、違う医者を必死に呼んでいる様と看護師の後ろでまごまごしている様が面白い。2つ目の例は、Oben=指導医がいなければ何もできない姿を的確に表している。
「払った分だけもらえないから、年金の保険料なんかばかばかしくて払えない」という若者の意見がある。滞納率が40%にもなると、払うか払わないかの選択が存在するようにも思いがちだ。税方式への移行が必要だと言う政治家もいるが、真面目に払った方からするとばかばかしくてしょうがない。一方では、全員同じ額の負担をするのは、累進課税の理念からいうとむしろ不公平なのかもしれないが。
そもそも年金というものは、学問的な位置づけとか公の定義は知らないが、これまで働いてきたがもう働けなくなった人たちの生活を、今働いている世代が支えよう、ということであるように思う。この「世代間の相互扶助」を国が取りまとめているのだ。今は働く世代がお年寄りを支え、働く世代が年をとればその時働いている人に助けてもらう。
したがって今、少ない子どもが多い年寄りを養うことは必然だ。しかしこれを、将来さらに子どもが少なくなって自分がもらうようになったときと比べるのは間違っている。自分を養う世代を産み育てる世代は自分たちであり、人口が少ない予想はあろうが、子供を作らないのも自分たちの選択なのである。もらえる年金が少なくなるのは当然で、しかも自分がこれまでいくら払ったのかとは本質的に無関係だ。
平均寿命も伸びている。仮に平均寿命が50歳になったとしても年金支給開始年齢を変えないか、と考えればわかる通り、元気で働ける人に年金を出す必要はない。60でも70でも給料はどんどん上がっていって、どこかの国の立法機関のようにどんどん権力が強くなるのは改めた方がいいが、かつてと同じ基準でretireと年金を考えるのは誤りだろう。働ける人を働かせないために年金があるのではない。
そもそも医療技術の進歩というのは、健康で長生きするという目的を達してきたように思われてきた。しかし健康で長生きすることが、働く世代を圧迫し、年寄りが元気に遊んで暮らすことを奨励するのならば、なんだか首をかしげざるをえないのだ。私の親も来年定年である。
■2003/09/14 (日) 敵を欺かんとすればまず味方から
デジカメをなくしたなぁ、と思っていて、どこかに落としたか、誰かに盗られたか、色々な可能性を想定していた。何月何日の帰り道の車の中まであったことは覚えているが、その後家に帰ってから使った記憶がない。車の中もカバンの中も自分の部屋はもちろん家中、一応一通り探してみたが見つからなかった。
そんなデジカメが、車の座席の下に隠されているところを発見した。思い起こせば、温泉に行くのにデジカメを車中に置いていこうと、そこで車上荒らしを防ぐために、目につかないところに隠したのだった。作戦は成功し、デジカメは車上荒らしはもちろん、持ち主の目にすらつかなくなっていた。隠し方に関しては優秀で、しかしそれを見つけられない自分のギャップに呆れている。
入院中の祖母の血圧が下がったと病院から連絡が来た。明日テストだが、どうせ帰ってきてからよくわかってない親を問いつめるくらいなら、と説明を受けてきた。じゃぁどうしたらよいか、というレベルに関しては何もできないが、今どのような状態にあるかはそれなりに理解できた。そんな医学生。
以下、医療関係者向け。88歳女性、昨年12月に脳梗塞で左麻痺となり以降寝たきり。既往歴としてはHT、強度の弁膜症による心房性不整脈。現在左肺に水がたまっていて、血中のproteinやpltが下がっている。尿・血液の培養結果では、MRSAやPseudomonasが出ていて、敗血症もしくはDICのような状態である。今後は利尿剤、血小板輸血、抗生剤の投与などをしていくが、それらに反応しないときには数日中にも、ということだった。BP76/50、HR137、SpO289、BT37.1℃。両親と一緒にMT受けたので、微妙に言葉が素人だ。
■2003/09/16 (火) 祖母が亡くなった 専門の存在意義
昨夜祖母が亡くなった。昨日書いた午前の状況よりも、夕方にはさらに肺に水がたまったということだった。水を出そうとしているのにさらにたまったということは、かなりよろしくない、はっきり言って悪い状況だ。そうは思っていたが、母や叔母が「今日は昨日よりも楽そうな顔つきだ」と言っているのに、そして主治医の先生が何も言っていないのに、私のような若造が知ったようなことを言うのは、と思い遠慮した。
夜に心臓が止まったと電話が来た。母が「泊まる用意」などと言っているのにとても違和感があった。明日がテストだというのを言い訳にして何も動かなかったが、自分の中ではもうわかっていた。数日中というのが今日というところまではわからなかったが、あの状況ですっかり元気になる姿は想像できなかった。医学を学んでから身近で人が死ぬのは初めてだが、だてに5年以上医学教育を受けていないと感じることができた。
「急に亡くなった」と叔母は言った。「夕方は元気そうだった」とも言った。これから先は医療関係者じゃなければ暗号かもしれないが。どうして死んだか聞かれたので、心臓が止まったから心不全と答えた。どうして心臓が止まったかと聞かれたので、おしっこが出なくなったので腎不全かもしれないと答えた。でもその原因は敗血症かもしれないし、DICかもしれない。肺に水がたまったので蛋白が漏出、胸膜炎との診断もついている。それは捉え方によっては菌の感染が原因と言えるかもしれないし、菌が感染したのは免疫力が落ちたからで、それは脳梗塞で寝たきりになったからかもしれない。脳梗塞の原因はおそらく心原性の血栓だと思うが、すると弁膜症が原因かもしれない。全てにおいて加齢という要素も絡んでくる。
色々と考えることができて、そしてそれをなんとなくでも理解している自分がいて、それを医学的な素人に説明できない自分もいる。「ドンキで夜に薬」問題で、結局重症かどうかを判断できるのは医者のような専門知識がある人間だけで、という思考停止点がある。
専門知識がある、知識がない人に説明できる、知識がない人がそれを評価できる、というのがそろっているのが理想的だ。しかし現実は、専門知識も一朝一夕には身につかないし、予備知識がない人に完璧に説明するのはまず無理だ。知らない人が知っている人の様子を評価するのは、アマチュアがプロを評価する図式と同じでこれも無理だ。
これから医者になろうとしている自分が、どんどん専門を身につけようとしているのだが、何のために専門があるのかを見失わないように、今日のことをきっかけに深く考えてみたいと思う。自分たちにしかわからない専門に何の価値があるのか、それをどう生かすのが自分のするべき道なのか。医者が金儲けを第一義とする職業でない限り、資本主義のこの世界での自分の存在意義にも通じると思う。
納棺、通夜、告別式、と続いていく。各々に意味があるのだろうが、人は死ぬ瞬間にもう死んでいるわけであって、それ以降の何かで思わず涙することは私にはない。死ぬ瞬間も、死に目に会えるとか会えないとかいうことにそうこだわりはない。家族が来るまで心臓を押し続けるという側面もあるからだ。
死を考えるとき、死ぬ人を中心に考えるべきだと思っていた。例えば、意識もなくただ器械につながれて生かされているのか、助かりもしない救命処置を受けるために家族と離れるとか、そういうことが果たして自分の死に方として選びたいだろうか、ということである。もう助からないとなったときに、無駄にとか、無理にとか、そういうことはやめてほしいと、少なくとも自分に関しては思っていた。
一方で、家族を納得させることも必要なのかと思えてきた。家族が死を受け入れるのは困難だ。せめてもの救いに、最後まで手を尽くしてもらった、というexcuseがあるといいかもしれない。死に目についても、死んでから着いたというよりは、着いてから死んだという方が、無用に自分を責めなくていいという面もあろう。こういう意味でも、医者がみるのは患者だけでなく家族も含まれる。
葬儀もそのような面があるのかと感じた。死んだ瞬間から故人はもういないわけだが、心の中には生き続けている。親戚が集まり、死に顔を見て、死を実感し、お経を聞き、故人に思いを馳せ、少しずつその現実を受け入れていく。周りの人間にとってそうする期間が必要で、そのために、死んでからの一連の儀式があるのではないかと考えた。死は故人のものであると同時に、周りの人のものでもあるのだ。
■2003/09/18 (木) 席順に気を遣い、院を買い、塩で清める
思うところがあって、葬儀について色々調べていた。一つは焼香順についてである。故人に近い順、と言うが、孫と兄弟はどちらが近いのか、年齢が優先か親の兄弟の上下が優先か、女が結婚していると、それは他の家なのか元の位置なのか。色々と奥深い。それで機嫌を損ねて、一族を率いて帰ってくる話もあるというから大変だ。
戒名、法名についても考えさせられる。浄土真宗で「院号」をつけるといくらだとかなんとかかんとか。私が理解している範囲で言うと、院号は宗門や寺院に特別な功績があった人に贈られるもので、その功績を死後慌ててつけようというのが、「法名に『院』をつけるといくらになる」という誤解のようだ。院号をどうこう言うのならば、生前からお寺と関わりを持っておくのがスジだろう。
塩で清める、というのも、結局は死者を汚らわしいものとして扱っていることになり、やめるべきだという意見もある。この辺り、クリスマスを祝った一週間後に初詣に行く国民性が出ていると思うのだが、ただなんとなくやるのではなくて、しっかりと意味を考えていきたい。しかし、こうめったにあるものでないものは、周りの、年上の、声の大きい人が言うことに左右されるものであり、意志を通すのも難しい。
まずは、祖母の件でたくさんの方からお悔やみの言葉をいただきました。最初の何件かは返事を書いていたのですが、通夜だの葬式だの、試験だの一夜漬けだのでわけわからなくなってしまいました。失礼ですが、この場でお礼申し上げます。ありがとうございました。
患者さんの気持ち 看護師さんの気持ち お医者さんの気持ちというサイトを紹介します。誰しも、医者にこんなことを言われた、という嫌な思いの一つや二つ、そしてたまには病院でこんないい体験をした、ということがあるだろう。一方医療従事者側も、裏表の関係で日々思っていることがある。そうした思いの架け橋になれたら、とできたページです。(←この説明は今私が書いたものなので、正確じゃないかもしれませんが)
ちょっとたまっているメールなどやっつけますので、その間こちらでも見ていてください。
病院で「お医者さんごっこ」をする、医学部の最終段階の「ポリクリ」と呼ばれる実習について書かれている。ポリクリ日記、というものは、実はweb上に結構な数存在し、「今日はこれこれで大変でした」「こんな患者さんがいて、こんなことをしました」などの、あまりに私的な体験と感情を書き連ねたものが大半である。それらは医学生が同級生とする雑談以上のものではなく、一般の人に読むのをお勧めできるようなものではない。しかしこの本は、そうしたものとは明らかに一線を画す。
著者はある文脈では「この本は日記にすぎない」と書いているが、決して日常起こったことを並べたものではない。確かに物語は実習の場である病院で起こり、体験がフィクションとも思えないし、しかし患者さんの守秘義務に触れるような行は見あたらず、同業の私でも大学も特定できない。ノンフィクションをかもし出すエッセイとでも表現しようか。
脳死臓器移植や動物実験などにも話題は及ぶ。それは「いいと思いまーす」「ダメだと思いまーす」という感情的な意見ではなく、自分が感じていることを、どうしてそう感じたのかから始めて言葉を紡いでいく。そこには医学部で過ごした時間の蓄積と、ザウエル本人の内面から湧き出す哲学的な柱があって、その裏打ちがあるからこそ、言葉が軽くならずに読み手に迫る。
あとがきに「当時の僕にしか書けない」とある通り、まだ医者ではないのだけど、結構医者みたいな知識と視点を持っている気分の医学部の学生という立場は、非常に自由で豊かな発想を与えてくれる。そしてその発想で感じたこと・考えたことを文字にしていったのがこの本だ。
自分が医学部にいると言うと、二言目には「何科なの?」と聞かれ、ずいぶんしばらくしてから「医学部って何年だったっけねぇ?」というやりとりはずいぶん体験する。世間に確かに関心はあるはずなのに、医学部の学生が日常をつづった本というのはこれ以外に心当たりがない。何かを得られると具体的に言えるものではないけれども、でも読む価値があると言える希有な本である。
絶賛売り切れ中・・という噂
この本について詳しく知りたい方は、ザウエリズムの中のお医者のタマゴクラブをご覧ください。
■2003/09/21 (日) 故人の意思は残された人の心の中に存在する
誰それが今いたら、という仮定の話をすることがある。死んだ人の意思を推測するのだが、死んだ人の脳ではもはや電気活動はないので、既にそれが正しいかを証明するすべはない。したがって、「あの人ならこう言うだろう」というのは、「『あの人ならこう言うだろう』と私は思う」という意味であって、真の意味で故人の意思を受け継ぐことはできやしない。
それが証拠に、こう思うはずだ、いやこう思うはずだ、という対立が生まれることがある。故人に意思が存在すれば複数生まれることはありえないが、「私はこうだと思う」「いやこうだと思う」というのは、故人の代弁合戦に見せかけた、今いる人のエゴのぶつけ合いと見分けがつかない。
仮に、故人の意思はこうだとAとBが異なる主張をして、Aの言い分が通ったとしよう。すると、喜ぶのは故人ではなくAである。だから逆に言うと、残された者の満足のためにその争いはあるのであって、むしろ今いる人のエゴをぶつけ合っても当然かもしれない。
仮に、故人の意思がはっきり示されていたとして、それを苦労して実現したとして、結局満足するのはそれを実現した人である。どういう満足かというと、故人が生前望んでいたと言っていたことを実現したと思っている自分を認めて満足、そして故人もあの世で喜んでいるだろうと自分で思って満足、なわけである。
結局なんだかんだ言ってるけれど、自分のことしか考えてないじゃないか、と思っていたが、むしろそれが本質的なのかもしれない。自分の心の中にいるあの人を満足させることこそが、今いる人間にとっての最大の幸せなのであって、だから自分のことだけ考えていていいのだろうと思う。
冗談が成立するのは、かなり多くの条件をクリアする必要がある。これは例えばアメリカに単身放り出されてそこらの人が言っているジョークがわかるかどうかを考えればわかる。「冗談が通じない」というのは、むしろ通じることが特殊なことを物語る表現であると思う。
まず、冗談を言う側と聞く側の二者が存在し、両者の間で「普通の考え」が共有されていることが必要である。次に、冗談を言ったときに、聞いた側がその言葉を「冗談である」と認識できることが必要である。つまり、言葉に出さない共有できることが両者にまずあって、次に今話されていることが嘘だということを両者が了解していなければならない。
具体例を挙げよう。姉が先日健康診断書が必要となったのだが、まずは、健康診断は医者でなければできないことである、という了解が存在する。そして次に、私が「私が書いてもいいんだよ」(※医学生は診断できません)と言ったのに対し、姉は「じゃぁ紙を用意しなきゃ」と答えた。私は本当に書く気はないし、書けないし、姉は本当に書いてもらったり、紙を用意するつもりはない。それらがありえないことだと両者が言葉なしで了解し合いながら、一見すると「書こうか」「お願いしようか」というやりとりになる。
こう考えると、私がトイレをノックしたときの親父の答え「どうぞ」というのは、なかなか秀逸だろうと思うのだ。
■2003/09/23 (火) 医学生的しゃっくりの止め方の一例
医学の勉強を日夜続けている試験中なわけだが、昨日からしゃっくりが止まらないでいた。しゃっくりは確か横隔膜のけいれんだったな、とか思いつつ、それを止めるすべはこれまで習ったことがなかった。筋肉を興奮させないような薬とか、例えば筋弛緩薬とかでもいいのかな、と思っていて、でもそんな薬は手元にないし、あってもそれで呼吸ができななったら笑えない。しゃっくりも呼吸も止まってはダメなのだ。
民間療法は色々あり、驚かすとか、水をコップの反対に口を付けて飲むとか。以前解剖学を勉強していたときに、横隔膜へ行く神経がこのあたりを通っているのだから、このへんを叩けばいいんじゃないか、と言っていたことがあった。もっとも神経を途中で叩いてどうなるかは、今考えるとよくわからないのだが。そしてこれらの試みは、全て失敗に終わった。(叩いたのかよ)
なんだよ医学もたいしたことないな、と自分が学んでいる医学に悪態をついてみたりして、でも丸一日経って、もうしょうがないので、某掲示板で「しゃっくりが止まらないからなんとかしてくれ」との書き込みをした。すると「砂糖を飲め」という胡散くさげなアドヴァイスが書き込まれ、しかしそこで紹介されたHPへ行ってみると、末期がんに対する治療の一つにしゃっくりを止めるというのがあって、結構真面目に「水なしで砂糖を飲む」方法が紹介されていた。
半信半疑ながら、スティック型のグラニュー糖を一気に喉に流し込み、そしてしゃっくりは止まった。喉からの知覚と呼吸となんたらかんたらで、きっと考えれば説明できるのだろうが、とりあえず「驚かす」というショック療法よりも効果があるのだろうし、実際今回は効果があった。その掲示板はこちら。みなさんも騙されたと思って。
■2003/09/24 (水) 今日はお休み iとーく@「医局」と地域医療
明日の試験がダブルヘッダーのため、今日の日記はお休み。今一番関心がある掲示板を紹介します。iとーく@「医局」と地域医療
■2003/09/25 (木) 敬語を知ってることより大切なこと
とある後輩が、医者である先輩に対して「これ、いただいてください」とお茶を差し出した。先生は「あー、はい、いただきます」と苦笑していたが、後輩は必死だ。私なら単に「食べてください」とやるところを、一生懸命考えて敬語を使ったのだろう。尊敬すべき相手を貶めてどうする。
「食べてください」が適切であるかは議論があるかもしれないが、「お食べください」もなんだか取って付けたようかもしれないが、「召し上がる」が出てこないからといって「いただく」にしては逆効果だ。「召し上がる」と「いただく」を両方とも知らない方が、「いただく」と誤用するよりまだましに思える。
尊敬とか謙譲とか丁寧とか、相手を上げるとか自分を下げるとか、わかったようなわからない説明をされてきたのだが、こういう場面で間違わずに使えることこそが必要であろう。そしてもっと言えば、世間話でも、相手の話を聞くのでも、何でもいいからそこで会話をして場を共有できるような、そんな力も社会人としては必要で、そういうことこそ評価されるべきだと思う。
北海道は広い。確かに北海道で地震があったが、少なくとも太平洋で起きたことであって、私が住むところまでそのままの影響は来ない。震度3程度であれば釧路に住んでいたときに日常的に経験していたので、今回はちょっと大きかったくらいの感想だ。住んでいた時期が5歳まで、というのも大きいかもしれない。三つ子の魂である。
北海道の地理について誤解している人がたくさんいるが、浦河から稚内まで、つまり北海道の南北は、東海から北陸あたりの太平洋側から日本海側に相当する。よく調べずに大まかに私の状況を言うと、東海沖地震の時の長野くらいに相当する、と思う。
被災された方には不謹慎な言い方であるが、地震の規模に比して被害がなかなか少ないのには、いくつか理由があるように思う。一つには人口がそんなに多くないことである。人口密度という視点も大切で、隣の家との距離が雪などの関係もあり広いとか。高速道路がそこにあれば倒壊したかもしれないが、阪神大震災の時とは状況がずいぶん違う。
家の構造が、屋根瓦がないなども関係あるかもしれない。冬に積もる雪の重みを考えると瓦なんてとんでもない。幸運にも、ご飯時とか真冬の暖房などの火の気がない時期だったので、そうした二次災害も少ないだろう。津波も対応が間に合う規模のようで、壊滅的な被害を免れている。
そんなわけで、非常に安全に住みやすい土地である北海道への移住を、心よりお待ちいたしております。
■2003/09/27 (土) iとーく掲示板
盛り上がってまいりました。これだけ医者の意見があるということは、これまで北海道新聞が医者の意見を聞いていなかったことがうかがわれる。一応「専門家」の話を連載(地震で休止中)しているが、札幌医大を卒業したが今は国外にいる人、かの教授の申し出を断って得意げな町長(でも医者はいなくなったくせに)、というラインナップはなかなか挑戦的だ。
私であれば、医学生、研修医、大学院生、名義貸しをした人、名義借りをした病院長、医者確保に奔走するも失敗した自治体の人、根室市長などを考える。根室市は、東京医大から道内医大に派遣医師を切り替えた市立病院がある、最寄りの大きな市としては、車で2時間ほどの釧路があるというところだ。これらは専門家というより当事者だ。
その次に、医者がいない地区の住民の声、医者がころころ変わるようなところの住民の声、一方で医者確保に成功してうまくいっているところの例など、住民サイドの意見も聞く。そうして今ある問題点を総ざらい出してしまって、その上でどうするよ?と話をすることではじめて、議論のテーブルにつくことができるのだと思う。
これらは何も頭を使うことではない。議論を組み立てる必要もない。ありのままの姿をさらけ出して、そこに問題が存在するのならばそれを解決するように行動する。たったそれだけのことだと思うのだが、どうしてできないのだろうか。医者=特権階級だから叩けば人気が取れる時代は終わっていると思うのだが。
■2003/09/28 (日) 試験最終日前日につき細切れ更新 プチ主張
巨人の原監督が事実上の更迭(と私は思う)。先日の日記は、原監督残しでコーチをみんな入れ替えるとの読みだったのだが、全部替えますか。ナベツネだけを替えろ、というどこかの日記の意見に賛成だ。そもそも今年の巨人は、阪神が強すぎただけでそんなに弱かったのか?コストパフォーマンスは悪かっただろうが。
試験勉強をしていて「じゅくそう」との記述・・・はて? おそらく「褥瘡」のことだろうが。産褥とか知らないのか、医学生。捏造を「ていぞう」並みに面白かった。更迭を「こうそう」とか。そりゃ変換できないわな。これからの漢字テストは、書取よりも読み中心、同音異義語の正しい使い分けにした方が、パソコン時代にはいいのではないだろうか。
野党が閣内不一致を追及するつもりらしいが、まさかその政党は民主党ではあるまいな。よほど民主党内部の方が、小沢から横路まで取りそろえていて、党内不一致も甚だしい。それで二大政党で政権を狙うとかなんとか..連立政権がありながら、総裁選で党内対立しておきながら、今さら閣内不一致だけ批判とは言いがかりではないか。ドンキホーテで夜中に薬問題は、多くの問題を含んでいる。いつもの症状でいつもの薬を飲んでいつもは過ごしている人が、夜中に薬が切れたときに買えるのならば、それは歓迎すべきことだろう。喫煙者にとっての「タバコが切れた」状態と思うとわかりやすい。
いつもにない症状の時は難しい。統計的に、全体に占める重症の割合はごくわずかだが、それを診断することは医者にしか不可能であろう。市販薬を使うことは、確率的に大概はうまくいくことだが、一部は薬がきかないどころか生命にまで関わりうる。頭痛にノーシンを飲んでいて、その痛みの原因が実はくも膜下出血である例などだ。
医者にしか診断は不可能と書いたが、素人判断は本当に恐ろしい。「薬の飲み過ぎは体に悪い」など自己判断して、薬を飲むのを自分で調節していたりするが、それが医学的にどんなに深刻なことであっても、当人がそれを知るすべはない。「胃が痛い」と自分で言ってきた人のうち、結構な割合の人は胃以外が原因だったなど、具体例は数多くある。仮に本当に胃が痛かったとして、例えばバファリンとかを空きっ腹に飲んだりでもしたら、悪化を保証してもいい。
薬というのは、多くの「益」の裏側に、重大な危険も持ち合わせているものである。そのメカニズムは無理でも、危険だという事実に関して知識を持つことは、誰にとっても必要だ。その上で、自己診断して、たいてい大丈夫だろうと信じて自分でなんとかするのか、本当はどうなのかを遠くでも並んででも医者に診断してもらうか、どちらを選ぶかは個人の問題に帰着するべきだ。
前者に含まれる選択肢の一つとして、市販薬を深夜に売るということがあり、これをどの範囲にするのか、薬剤師はどうなのか、無料ならどうなのか、というところが報道されている。つまり、どちらの選択をするかは消費者側の問題であって、ドンキホーテも薬剤師会も主役ではないのだ。国民の生命・健康を守るという名の下、厚生労働省がどこまで口を出すのかわからないが、主役が不在のままでは何も解決しないと思う。
大学の学内LANと、レンガの家で自分の部屋の電波状況が悪いのとで、ADSL導入を検討している。既に無線LANカードがささっているので、無線を家にも導入しようとしている。そうすれば両親が使うようになっても同じコストで済む。
巷では、白装束の人たちがセットで何かを配っていたりするのだが、きちんと理解しつつやろうとするとなかなか大変だ。まず、スプリッタとモデムとルータというのが必要で、無線で飛ばすためにはエアステーションとかアンテナにあたるLANカードが必要だ。しかも各々が、内蔵したり合体したり、規格も遅いものから速いもの、これから先を見越しているとかなんとかなものまで、一通り理解するのに骨が折れた。
次に、フレッツというものとアッカというものについて、値段の差がなんだか騙されたみたいなのだが、プロバイダの料金込みで、両親と3人分合わせて3500円/月しない方法にしようかと考えている。この辺も、身近に詳しい人がいない限りは、自分で調べて理解するのは結構大変だ。
次に、HP上から手続きをしていって、父の名義になっている家の電話回線について、面倒にも調べる必要が発見され、そしてクレジットカードが必要となって挫折。いよいよ作らなければならないか..
次回予告→クレジットカードの世界
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