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カードは申し込んだが、たぶん手にするまでにまた面倒になりそうなので後日。
リンクを見直している。日記才人とはてなアンテナという2つのツールをメインに使っているのだが、リンクはリンクでいいと思っている。その2つで随時、追加・修正していたものを印刷し、整理していたらこんな時間だ。思ったよりたくさんあって、作業というより構想を練るところが手間取った。
なんせ、きちんと数えていないが100くらいのサイトとご縁があるようである。こちらが熱を上げているサイト、相思相愛のサイトなど様々あるが、100人新しい知り合いを作るのはなかなか大変で、間接的にせよ100人単位のつながりがそこに生まれたのはすごいことだ。
日記を書くのも、ただ自分が持っているものを出すのではない。他人の日記を読み、メールをいただき意見に耳を傾け、これならどうだ、と文章に力をこめる。一人であればできないことだし、100人規模の人間関係がそこにあるから、そういうことができるのだと思う。見る人それぞれ視点が違い、どちらが正しいかではなくて、自分と違う考えを取り入れることができるあたりが重要だ。
ここに作られた、一昔前には考えもしなかった世界について、ちょっとしみじみ考えてみたのだった。リンクはもう少しなんとかしますので、しばらくお待ちください。
パソコンが壊れた。致命的と言えば致命的な、ACアダプタの故障だ。おそらく布団の中でアダプタの四角い部分を大事に暖めていたときに壊れて、現在断線中である。しばらく更新できなければそういう事情で。バッテリーも30分くらいしか持ちません。
で、あーだりこーだりいじっていて、一瞬つながった時を見計らって絶対安静。今のこの状態ならば電力は安定して供給される。このままやっつけるべきことをやっつけて、しばらくネット断ちもいいのかもしれない。
いや、やっぱり耐えられない・・
■2003/10/03 (金) 個人の行動は、集団の中で果たすべき役割を見極めて決まる
医師国家試験模試の申込みを取りまとめた。国試委員という立場上「受けた方がいいのか?」と聞かれるが、「受けろ」「受けるな」「好きにしろ」のどれでも答えうる。「受けろ」と言うほど模試会社の回し者ではないし、「受けるな」と言うほど無意味とも思えない。受けた方がいいのかどうかは個人で判断することであり、好きにしてもらえばいいのだが、前年の事実のみを伝えることにしている。
今回は「去年は2/3くらいの人が受けていたよ」と全体に伝えた。すると不思議なことに、今年も結局2/3の人が申し込んだ。全員受けたり受けなかったりするのならわかるが、きっちり2/3になったことに驚いた。なぜなら受けるか受けないかは個人の判断なのに、全体で見るとその比率に落ち着いたからだ。
興味深いアリの生態の話を思い出した。働くアリと働かないアリの割合が決まっていて、しかも働かないアリを除いたら、残りのアリが最初と同じ割合で働かなくなるのだという。働くか働かないかはアリ個人(人じゃないけど)の問題のはずなのに、集団で見るとそういう割合になる。誰かが個別に「お前は働け、お前は働くな」とか命令して仕切っているとも考えづらい。
おそらくは、個のレベルで集団を見ていて、自分が集団の中で果たすべき役割を選択しているのではないかと思う。確かに、リーダーだけを集めた集団でも、その中にリーダーとそうでない人ができて、自然にそう振る舞うことになる。今回の模試申込みは、壁に名簿を貼って○をつけてもらう形式だったからこそ、各々が周りの出方をうかがいながら、自分がどうするかを考えて、こうなったのだと思う。
これは「模試の受けやすさ」という数値換算可能な因子があって、それが大きい方から2/3になるまで順に受けていく、ということでは決してなくて、個人のレベルで集団を認識し、その中で自分はどうするべきかという判断の集合が、集団としてあるべきところに落ち着くということだと思う。グループでの話し合いで、よく話す人がいると周りの人が話さなくなり、その人がいなくなると新たに話す人が出てくるのと似ているかもしれない。
個人の性質を足しただけでは説明できない、こうした集団の行動学は、捉えづらいし説明しづらいが、色々な分野で重要になってくるのだろうと思った。一人一人が頑張れば、その集団はいい方向に向かう、かどうかは実はわからなくて、自分が力を出さないことが、結果的に集団としての力が大きくなることだってありうるのではないかと考えている。
27回目の献血に行った。成分献血に登録しているが、電話がかかってきて呼ばれたのだ。この間の地震の影響で、釧路地方で採血が止まっている影響もあるという。拘束時間は1時間半、両手式の血小板献血のため有線を聞いてぼーっと過ごす。2時間分の駐車券をもらったので、30分ほど街をぶらぶらする。
図書券贈呈を取りやめたところ献血件数が減少したらしい。この記事によると、欧米の血液製剤メーカーが「換金性のある謝礼」を有料採血だ、といちゃもんつけたらしいが、欧米との関係はこの際置いておこう。そもそも有料採血はいけないことなのだろうか?
歴史的には、血を売ることが血液の質の低下を招き、献血制度が始まったとなっている。売血 若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのかにその経緯が詳細に書かれていて、かなり考えさせられる。確かに売血をすることで労働の代わりになるような報酬が得られるのであれば、どういう法律や制度を作ったとしてもイタチゴッコになるだろう。
資本主義の世の中において、価値があるものに対して対価が生じるのは当然ではないのだろうか。需要供給曲線は中学ですら習うが、必要とする人がいて、それを提供する人がいたときに、その内容や負担に応じてものに値段がつくのは自然なことだ。今回問題になっているのは成分献血への500円の図書券だが、成分献血は拘束時間が1〜2時間であり、500円が換金されたとしても、最低時給を確実に下回る。
現代の医療は献血なしでは成り立たない、と言っても過言ではないだろう。むしろ、輸血できれば助かったのに、という状況を想像する方がわかりやすい。有料採血を禁止する法律は、献血件数を減少させてまで守るべきなのかを疑問に思っている。医師に技術があっても、モノがなくて医療が施せないのはシステム上の問題で、避けられるかどうかで考えると医療ミスより罪が重いと思うのだ。
「医者は金儲けばかり考えている」とか言われると「そんなことない。真面目に薄給で働いている医者もたくさんいる」と反論する。こうした構図は実はたくさんあって、自分が目にした一つとか二つの事象を、あたかもそれが全てであるかのように言いふらすことはよくある。
「医師が薄給で働く」という文は、「全ての医師が薄給で働く」という意味と、「薄給で働く医師もいる」という意味の2つに論理的に分けられて、前者を「全称命題」後者を「特称命題」と呼ぶ。allの意味の「∀」、someとかexistの意味の「∃」と表現する方法もある。日本語において、意識しない限りこの表現の区別は曖昧で、理解もまた曖昧である。
一例を挙げると、祖母が死んで死に装束を着ける際に、足袋を履かせた。そこで親戚のおばさんが「(昔死んだ)○○の時や××の時はこんな足袋なんか履かせなかった」と、いかにも足袋を履かせることが極悪非道であるかのように繰り返しつぶやいた。宗教的に、慣習的にどっちが正しいかは私はわからないが、現実に「全ての時に」足袋を履かせるというのは誤りだろうし、○○の時や××の「時には」足袋を履かせた、というのが正しいだろう。
新聞報道にしても、例えば「医局制度の弊害」と表現すると、医局制度というのは「全てが」悪いものだ、と考えがちだが、医局制度には悪い「ところがある」、と考えるべきである。医局制度のメリット・デメリットを全て挙げて、メリットが一つもなく全てがデメリットだ、と言うのでなければ。
人の噂にしても、マスコミの報道にしても、「あぁそうなんだ」と思う前に、「そういうことも考えられるんだ」とか「そういうことを言う人もいるんだ」ととらえることに私はしている。全てのことを知ることができない以上、よほど数学的なものでない限りは、特称命題としてとらえる方が安全だと思うのだ。
■2003/10/08 (水) 一挙解決 北海道の医学部入試に地域医療特別枠の導入 の提案
医学生はたいていは将来医師として働く。何科にするか、どういった病院にするかは個人の選択にまかされる。その動機は「子どもが好きだから小児科」といった、その科への魅力を感じるものから、労働時間・給料・休日などの環境面、病院の立地条件がどれだけ田舎かなどの面にまで多岐にわたる。本来患者の状態の評価に用いるQOL(生活の質)をもじってQODL(Quality Of Doctor's Life)を重視する学生が増えているのだ。
北海道の、いわゆる僻地に医者が行きたがらない現実があり、名義貸しとか医局への上納金とか、色々報道されている。そんな中で必ず田舎へ行くのは自治医大の卒業生だ。入学時にそういう契約が結ばれているため、代わりに学費などはかからない。逆に考えると、自治医大以外の卒業生の居住地を、本人の意思に反して決めることはできないだろう。職業選択の自由とか居住の自由とか色々ある。
医師確保に悩む地方自治体が、大学入学時からそういう契約を結んでいれば確実だ。現在も奨学金という形では密かに存在し、入学した人が希望すれば、在学中に十分生活していけるだけのお金が借りられ、将来その自治体で医師として働けば返還しなくてよくなる。これを一歩進めて、大学入試時点からそれを謳い、地域医療を志す人を別枠で募集する方が、確実でスジも通っている。
「地域医療」を教育理念に掲げる大学にはあってしかるべき選考方式だし、これからの独立行政法人化の時代には、6年間が終わると地元に去っていく学生を育てることは不経済だ。自治体は、これまで上納していたり、来ない医者を呼ぶために使っていたお金を有効かつ確実に使うことができるし、地域医療を志す人には門戸が開かれるし、地元に医者が根付けば住民は喜ぶし、「せっかく医師を派遣してやってたのにどうして叩かれるんだよ」とぼやく医局長も(今いるかどうかはわからないが、いたとすると)いなくなるだろう。
■2003/10/10 (金) 医療事故と医療過誤と訴訟とマスコミ
「医療事故」は3つに分けられて、医療側に過失があるもの、不可抗力的なもの、原因不明なものである。医療側に過失があるものは、「医療過誤」とか「医療ミス」とか呼ぶべきであろう。不可抗力的なものは、それはあくまで医療事故であって、それを訴えられても困るところだろう。原因不明なものは、少なくとも原因の究明に力を尽くすべきだろう。
例を挙げると、ヨードアレルギーになったことがある患者に対して、それを聞かずにヨードで消毒をして何か起きれば医療過誤だ。これまでアレルギーになったことがない人が、その時初めてなることもあるが、それは避けようがなく医療事故だ。
この観点から言うと、医療「過誤」で裁判が起きるのは、患者側が「過誤」とか「医学的な常識に反している」と判断できないだろうから、非常に違和感がある。「医療過誤『ではないか』」と訴えるのはかまわないが、疑わしきは罰せず、の思想から言うと、訴えたのをマスコミが「ミスをした」と取りあげて大々的に報道するのは間違っている。せめて、業務上過失致死などで逮捕されてから、逮捕を可能にした経緯について報道するべきだろう。
例えばこの報道を見てみると、過誤か過誤じゃないかについては司法解剖を含めた判断が必要で、私がここで書けることはなく、せめてタイトルを<医療事故>ぐらいにはして欲しいと思う。ここで問題なのは「病院側に外部の専門家を交えた調査委員会の設置を求めたが、1年たっても納得できる返事はない」というコメントから、ミスかもしれない何かがあってから、1年間の対応に不信を抱いているのだと考える。
訴訟を起こすのは、お金のためとかではなくて、一言謝って欲しいということと、このようなことが繰り返されないようにと願って、ということが主な動機だと聞いたことがある。ミスがあれば率直に謝って、不幸にも亡くなってしまった場合でも、遺族が納得するような今後の対応策を示すことができなければ、訴訟は後を絶たないだろう。
ミスを隠したり、身内がお互いをかばい合ったりすると「思われて」いるうちは、どうにも避けようがなくて、「不信」を「信」に変える努力を、積み重ねていかなければならないと思うのだ。それをマスコミと協力してやっていきたいところだが、遺族が納得している「事故」の事例に関しても、「過誤」と名前をつけて報道しようと遺族に取材にいって蒸し返すような話を聞く限り、その道はずいぶん遠いと感じている。
■2003/10/11 (土) マニフェストより検証が大切では
マニフェストとかいう「政権公約」とやらが巷を騒がせている。これまでよりも具体的な内容で、数値目標など入っているというが、私の関心があるのは公約・マニフェストのその後である。
前回の選挙戦を戦うにあたり、各党が主張したことがあるはずだ。現在の解散後の報道を見れば、前回もこうやっていたと容易に想像できる。問題はここからで、そこで主張していたことが今回の解散までにどうなったか、ということである。守られた公約、守ることができなかった公約、そしてそれはどういう事情があったのかについて、説明する義務はないのだろうか。
マニフェストを配布することが法律で認められたそうだが、その裏面は前回の選挙における政党公約を載せて、どのくらい実行したかを示す。少数政党は書くことがなくなる、と言われるかもしれないが、我々だけが反対したが賛成多数で可決成立した「悪法」の数々を挙げていけば、存在意義が出るだろう。その意義が認められなければ、少数政党の意義がないだろう。
そうした選挙前に言っていることと、それから行われたことを見比べた上で、次に選挙前に言っていることを見てみる。今は見比べることなく選挙前だけちょろっと考えるので、投票になんか行っても行かなくても変わんねーよ、と若者の選挙離れが進む(少なくとも私はそうだ)。
塾とか教材とかで、謳い文句は高らかなのだけれども、実際やってみてからそれについてどうなのかをフィードバックする機会はまずなく、しかし謳い文句だけを頼りに選ぶしかない、という構図があって、なんだかそれに似ているような気がしてきた。反省というのは、いいところも悪いところも省みることなのであって、それが政治には必要だと思う。
■2003/10/12 (日) 「田舎」にはどうしてもないものと自分の人生
私はいわゆる「田舎」で子供時代を過ごしたが、それはそれで良い体験だったと思っている。両親は山好き、花好き、鳥好き・・・であり、私はそれらに関心がないように生活していたが、門前の小僧、友人と道ばたを歩いていて、圧倒的な知識の差に驚くことがある。(それを趣味とする人ともまた圧倒的な力の差を感じる)
医局とか地域医療についてとか、これまで色々書いてきたが、これは私の人生選択でもあり、将来設計でもあり、だからこそ真剣に考えているという背景がある。将来的に田舎に行くのもいいかな、とか考えていく上で、単に仕事の面だけではなく、その地域に住むことについても考えざるをえない。
田舎暮らしを躊躇する理由がいくつかある。自分の配偶者とか子どもとか、そういういつになったら具体化する話か明言できないことが密かに想定されていたりするのだが、モノの便利さとか、情報の不足とか、そうしたことは解決されうるのだろうが、文化的な面は埋められないと思うのだ。
一昔前は、本の品揃えが少ないことが田舎の不利な点だと思っていたが、amazon.co.jpはじめ色々手段が出てきた。同様に本以外の「モノ」については通販はずいぶん発達してきたし、情報はなんと言ってもインターネットで、私の北海道以外の知り合いの数の多さを考えてもわかる。医学の論文検索でさえ、図書館主体からネットでの検索主体に変わりつつある。これらはやりようによっては不利ではなくなる。
一方「文化的な」面というのは、例えば映画が公開されてすぐに見られないとか、音楽会とか絵の展覧会とかそうしたものに触れる機会が少ないとか、スポーツでも種類が限られたり、バスケで感じるのはレベルが高い指導者・チームが存在しないといったことだ。それぞれないならないで生活するには別に困らないのだが、量の多い少ないというよりは、種類がとか幅とかいうところは、やはり「都会」の方が優れていると思うのだ。
観光バスが停まったり国際条約に指定されるようなところを、いわゆる「野山を駆け回って」遊んでいた自分の小中学校の時代も良かったし、それに後悔とか残念とかいう気持ちはない。しかし、最近ようやく映画を見に行き始めたり、バスケで小学校で選抜に選ばれたりする人の話を聞いたりして、そういう可能性が選ぼうにも全くなかった自分の道を、そのまま選択しようとまで思うには至らないのだ。
■2003/10/13 (月) ADSLへの道 「楽ではないが楽しい仕事」という求人がある店でのできごと
ADSLへの道のりはもうすぐで、無線LANのアクセスポイントを購入しようとしている。市内の主な電器店を回って値段を見つつ質問していったのだが、同じ店でも店員は様々だし、こちらの話の持って行き方も同じではないが、対照的な応対があった。
一つの店では、「将来的なことを考えるとこちらの方が・・」とお決まりのセリフの後、安い方だと「○○の××を□□に設定して☆☆をあーたらこーたらしてやるとできますよ」と言った。相手がわからないことを確信した上でべらべら並べ立てるのは、私も塾で知識の量を見せつけるためにやることがあるが、店員が客に向けてやることとして考えると、私の中の評価は激しく悪くなった。
一方もう一つの店では、「そうですねぇ、そこまでの性能を望まないのであれば、こちらの安い方で十分かと思いますねぇ」と言って、その後だらだら話していても繰り返し安い方を勧めていた。「私だったらこっちを選びます」とも言っていた。さっきの店ではだらだら話をしていても頑なに「こちらの方が・・」と高い方を勧めていた。
短期的な視点で言うと、似たようなものであれば高い方を売った方が売り上げも伸びるだろうし、知識の面では店員の方が圧倒的に多いわけだから、言葉は悪いが「言葉巧みに騙して」買わせることも可能だろう。そこでどちらをするのかは、店の方針かその店員の性格かはわからないが、今回私は安い方を勧めた店で、気持ちよく買うことにしようと思う。
「病院は『適正な医療をした。ただし、事故が起きてしまった』という態度。ミスを認めていない」
この件に関しては、10/10に書いたとおり、手術後1年間の対応がまずかったと私は推測している。おそらくは「適正」で「事故」なのだろうが、遺族の感情が訴えるようなところに至った点では、医療側は責められてしかるべきであると思う。
事故とは何か?ミスとは何か?と考える。この件の場合では、子宮を手術する際に腸を傷つけたという話になっている。手術の際に腸を傷つけないようにするのは当然で、傷つけようとやったわけではない。気をつけてやっていたが、傷がついてしまったのではないかと考えられる。
100%成功する手術は存在しない。主な失敗のポイントは明らかにされていて、これをするときにはこれを注意しろ、というのはあって、それでもその点でうまくいかないことがある。原因がはっきりせずにうまくいかないこともある。それでも手術をして治ることと天秤にかけて、医者たちは手術をする。
「事故であるがミスではない」というのはどういう状況なのだろうか?また逆に「ミスであるから事故ではない」というのはどういう状況なのだろうか?私の中では、例えば「交通事故」が「運転ミス」から起こった、というのは何の違和感もない。最初に引用した言葉だが、「事故」と「ミス」の違いが原因なのではなく、お互いの不信感が募った結果と考えた方が納得がいく。
繰り返すが、私は医療側がミスを認めて謝罪なりをするべきだと、報道からの印象では思っている。隠すなんてもってのほかだ。しかし、プロ野球選手だってエラーをしたり、失投したりするように、プロの医者もミスをすることがある。ミスをしないよう十分力を注いだ上で、それでも起きてしまったことについては、誰が責めることができるだろうか。
医者というのは、そうした状況でもやはり責められるべき職業なのではないかとも思うのだが、こうやって報道されて、訴訟になって、という現実は、医療側・患者側のどちらも不幸にしていると思う。始まりはちょっとした心の行き違いではないかと、人間対人間のやりとりをもっと大事にすればいいのではないかと、精神論的ではあるのだがそう思っている。
言葉にしなければ伝わらないことがある。言葉にしないことを相手にわかって欲しいと思うことは、勝手に期待して喧嘩の種になったりするが、原理的に難しい相談である。人と人とが意思疎通をするには言葉が不可欠で、自分が言葉にしないことをわかってもらえなくても文句は言えない、という考えに基本的には賛成だ。
もちろん実際に顔を合わせているときには、イントネーションとか表情とか雰囲気などの言葉以外のことがたくさん存在し、コミュニケーションの3分の2とか90%が言語以外の情報によるという調査もあり、それも重要なことだと思っている。口調や文脈を変えることによって、文字に書いたのと反対のことを伝えるのも好きで、日常的にやっている。
もう一歩進めて、メールのように文字しか存在しない中で、そこから雰囲気を読みとることもできると考える。行間を読む、という言葉があるが、文とか段落の単位ではなくて、もっと短い言葉の中からでさえ、相手が発する言外の意味を汲み取ることができる。
それはどういう仕組みかというと、全く初対面ではまず無理で、知り合いもそれなりに親しくなければならない。そしてこれまでのつきあいの蓄積から、そのタイミングでその内容ならこういう言葉で伝えるだろう、という想定が聞き手の心に既に存在し、それとの「ずれ」で感じ取れることだと思うのだ。
そうしたところを想定しながら、一見どうってことのない言葉を紡ぐのはなかなか楽しい。相手がどのような「ずれ」を感じるかをお互い予想しあって会話をできる、そんな相手はとても貴重だ。立場は違うが、今日の一撃集の話を読んで、自分の中で納得・発展したことだった。
■2003/10/16 (木) 新しい家族の形成 トラウマの解決は不要
家族というのは、ここではhome、つまり家庭の意味で言うのだが、たいていの場合は一つの家族しか知らないだろう。人から聞いて知っている部分があっても、実際に体験できるものとしては一つ、立ち入った話になるとなおさら他から聞く機会もないだろう。
こうした状況で注意しなければならないのは、自分が体験したものこそが全てだと考えがちだということである。自分がそうだったから、自分の親がそうだったから、あの時そうだったから、という一回だけの体験なのに、そのパターンが全ての家庭に当てはまると意識せずに予想する。第三者だとそうした予想はわりと少ないのだが、一人称か二人称で考えるとすぐに発症する。
相談を受けたりした際にこういう経験は少なくないのだが、それはその人の成育過程におけるトラウマが原因だと思っていた。幼い頃の良くない体験があって、それと似たような状況が起きるとすぐに、またそうなるのではないかという強い恐れが思考をぶち壊す。従って、そうしたトラウマの克服か、それがトラウマに依っているのだという周りの理解か、どちらかで解決しなければならないものだとこれまでは考えてきた。
しかし実際は、本来100あれば100通りあるはずなのに、そのうちたった一つしか知らないことが現実としてあって、その一つを明らかに違う他のものと同じだと仮定するから問題が生じるのではないだろうか。「私はこういう体験をした」とヒステリックに語ったとしても、それが次に起こることの証明はないし、違うことが起こると考える方が妥当だろう。
家族の形成、というのは、結婚してそれをどうするという話はもちろん含まれるのだが、自分の家族で成り立ったことが他の家族で成り立つ可能性はずいぶん低くて、むしろそれを新たに作るのは自分なのだから、いいことは取り入れるし、悪いところは自分がそれをやめればいいのだから、過去を引きずることも、将来を悲観することも必要ないと思っている。それには、無意識の中の家族を、どれだけ意識化できるかが課題なのかもしれない。
■2003/10/17 (金) 留年生が考える「勝ち組」の特徴
この人は「勝ち組」だなぁ、と思うことがある。私は医学部に入った点は「勝ち組」かと思われるかもしれないが、入学する前に浪人している点では現役合格した人に比べて「負け組」だし、留年した点では留年してない人に比べて「負け組」だ。客観的にどういう成功・失敗をしているかではなくて、その人がする可能性があった失敗をしないできている人を「勝ち組」と呼ぶという意味だ。
「勝ち組」の特徴だと私が思うこととして、実は自分ができないと評価していることが挙げられる。他の人が「負け」を通して得てきたことが自分にはないとか、今評価されていることは中身が伴わないことであって本当の価値はない、などと言う。他人から評価されていることとは裏腹に、自分には自信がないようである。
次に、自分が「できる」証拠となることを、安易に公表してしまうということがある。例としてはテストの点や学歴がわかりやすいが、他の人がそれを望んでいたり、それがないばかりに苦労したりしていることであっても、事実であるからとあまり深慮なくおおっぴらにしてしまう。
できないことについてひどい言いっぷりをすることもある。まさに留年した私のすぐ横で、元後輩が「留年することだけは避けたいよな」を世間話をするくらいなら苦笑いで済むが、再試の数が少なくて喜んでいる私の横で、「再試がつくのが耐え難く惨めなこと」であるかのように語る人もいる。まぁ単位を落としたのならそうかもしれないが、再試は無理にでも通してあげようという教官の意思表示だと思うのは、私が甘すぎなのだろうか。
周りが最も被害を受けるのは、過度に自己防衛的に、そして他者に対して攻撃的になる場合である。「自分ができない」と認識することを極度に恐れ、そうでないと証明しようと自分の間違いを認めなかったり、疑われてもいないことまで潔白を主張したりする。また、他人の些細な落ち度を発見するやいなや、相手がそれを認めるまで、つまり自分の方が正しいと認めさせるまで攻撃の手をゆるめない。能力から考えて当然考えられるはずの相手の気持ちは、多くの場合忘れられる。
「こいつ・・」と日頃思うことが、実は共通しているのではないかと書いてみた。しかしおそらく本人たちにこうした認識はないと思われる。ということは逆に言うと、自分もある基準で「勝ち組」に分類されたときには、同様のことをしているのではないだろうか。そんな気持ちを心の隅に留めておきたい。
■2003/10/18 (土) 仏様の弟子になる 仏壇に手を合わせる
さすがに名字を晒すのは望まないので、鈴木さんと佐藤さんに仮名で登場していただく。
私の家には父方の鈴木の仏壇があったが、今回祖母が亡くなって佐藤の仏壇も買うことになった。鈴木と佐藤を一緒の仏壇に入れるわけにはいかんというのである。私たち家族がよくても、お参りに来た人がそうは思わないという。そういえば、母は鈴木の仏壇の世話は父がメインでしてくれと言っていた。もちろん母もするのだが、母の実家の佐藤の仏壇と同じようには見えなかった。
私が知った範囲の真宗の教えで言うと、位牌を仏壇の中におくのはいけない。写真もお参りする人が向かい合うようにおくのはいけない。法名は仏壇の中の側面もしくは帳面に書くようになっているが、それらを拝むわけでは決してなく、仏様を拝むのだ。死んだ人を拝むわけでもなく、死んだ人が仏様の弟子になるためにつけるのが法名で、仏様を拝めば事足りる。
法名に院がつくとどうとか、他宗では文字が多い方がなんとかという話もあるようだが、基本的に仏様の前では皆平等である。法名をどうすると考えるにあたり、これを知らずに考えるのは本来全く意味がない。類推するに「こっちのお寺の方が格が高い」とかなんとか主張していたあのおばさんも、人が死んでどうすると言ったときには、誠に話をわかっていないことになる。
さて冒頭に戻って、○○の仏壇とか言って、仏様とか仏様の弟子になったものを扱うのにもかかわらず、弟子になる前の姿である家だのなんだのにこだわっているのは愚かだ。にわか仏教はこれだから困る。宗派も同じなのだから、いっそのこと一つの仏壇でまとめてやってもらいたいものだ。
昨日今日と両親とも家を空けているので、私が一人で留守番をしている。祖母はまだ四十九日前なので心がけて毎日線香をあげている。日頃やったことなどなかったが、ご飯を仏前にあげてから学校に出かけた。これは亡くなった祖母のための行為なのか、それとも誰のためかということだ。
決して死んだ人に手を合わせるわけではない。仏様に手を合わせ、自分と向き合う場と時間をいただく。私はそうした気持ちで、これからも勤めていきたいと考えている。
■2003/10/20 (月) 治験日記1 理解しきれない厳密な文章
何やら人が足りなさそうで、医者になる前に経験してみようかな、と思ったのと、実際症状もなかなか大変なのと合わせて、治験に参加することにした。アレルギー性鼻炎の薬の治験で、大学に入ってからは「まぁ鼻が出たらかめばいいか」とやっていたが、もしも症状が良くなるのなら大歓迎だ。
治験というのは、叔母さんに「モルモット」と言われてカチンときたが、薬の発売前に人間できくかどうか、副作用はないかを調べるものである。とは言っても、思いついた薬をいきなり投与するわけではなく、動物実験で安全性が推測できて、さらにそれをごく少ない量から人に試していって、そしてそれらで問題ないものが生き残り、最終的に量とか1日何回とかを決める治験を行う。
今日は問診に続き、鼻の中を見て「あぁ詰まってるねぇ」と確認の上、ハウスダストの成分がついているごく小さな濾紙が鼻に置かれた。何もついていない濾紙だと何でもなかったのに、ハウスダストの効果はてきめん、5分で10回くしゃみをした。正確に言うと、5分経つ前に濾紙片が流れ出るほど鼻汁も出まくった。
採血・採尿をして、一通り説明をされて、同意書にもサインした。診察にかかる費用の他若干の手当が出て、これから3週間、くしゃみの数や鼻をかんだ回数を数えていくことになる。患者の立場を理解しようというのも目的の一つだが、治験というものの説明などが、厳密に行われるがゆえにわかりづらくなっているように感じた。
厳密な文章というのは、突き詰めていくと法律のような文章になり、厳密な場合分けと膨大な但し書きとにあふれるほど、意味上の穴はなくなっていく。しかしそうするにつれて読みづらくなり、字面上の厳密さを読み手が受け取りづらくなる。保険の約款がいい例だ。あらゆることをきちんと説明するのはアリバイとしては必要かもしれないが、相手の心にどれだけ残るのかをもっと考えるべきだと思う。書いてはあるけど読まれない、理解されないのであれば、そもそもそこに書く意味がないと思うからだ。
■2003/10/21 (火) お金への執着 短期/長期的な損得
治験の話を学校中に宣伝したりしたのだが、それがいくらになるのかをまず第一に考える人が結構いた。先日書いた、謝礼が図書券じゃなくなって献血者が減少したのと同じ構図なのかもしれないが、治験をアルバイト感覚で関心を持つという人がいるのに驚いた。
自分がお金に執着しない人間なのかもしれない。バイトでも、面白そうであれば割りは二の次でやるし、委員とか取りまとめ役とか面倒なものも引き受けがちだ。献血は27回やって大半が成分献血で、脳死で臓器提供する意思表示カードを持ち、骨髄バンクの登録もしている。
お金よりも大切なものがある、と考えるからだろうか。バイトとか今回の治験であれば、お金がどうこうよりも、自分の経験としての面を重視している。また、別に誰からか認められるわけではなくて、自分で「人のためになっている」と考えるからと言うのもある。○○ボランティアに参加、というのは一度もなくて、それに参加していることが自他共に人のためになっているんだと認められるほど、アピールをしたいわけではない。
そう言ってるから人生の遠回りをするのだろうか。確かに高校時代には勉強以外にずいぶん打ち込んで浪人したし、大学に入ってからも、勉強だけをするとはほど遠い生活を送って留年した。「そういう経験はあとで絶対役に立つ」とか「そういう医者の方がいい医者だ」と言う人が必ずいるが、そういった言葉がけが必要なくらい不利な点が目についているわけであり、確かに普通は取らない道で直接評価されるものでもない。
「短期的な損得に鈍感なんだ」というセリフで時には納得したりするのだが、おそらくお金の損得もそうしたものに含まれていて、今だけ考えると金銭的に得じゃないとか損であっても、心のどこかで長期的にはそうでもないと考えていて、そして長期後にはそんなことは忘れていて、でも忘れた頃に返ってきたことで不意に喜ぶ、というお得な経験を一人でしているのかもしれない。
■2003/10/22 (水) 自分がすることで他人にさせないという人間関係
その枠を埋めるという戦術がある。例えば定員が一人の時に、自分がそこにいると他の人は入れない。自分がそこを占めるメリットはなかったとしても、他の人が入ってメリットを得ることを妨げることができる。消極的な攻撃法だ。
重複登録が認められていないときに、ある人を自分のチームに登録してしまう。そうすると、その人が自分のチームでは戦力にならないとしても、その人が他のチームに貢献するのを防ぐことができる。その人にとっては飼い殺しだが、チーム間での競争を考えるととりうる作戦である。
公私にわたってこうしたことを実践してきて、なかなか高度なことをしてきたと悦に入っていたが、実は普通のことかもしれないと思い直してきた。後進に道を譲るというのがその例だ。先輩がいる限り後輩は育たず、先輩がいなくなって初めて、後輩に自覚が出て育つことになる。
後輩のやること、無責任さに呆れて「こんなんじゃ安心して任せられない」などと口走ることはよくあるが、それはどこでも見かける構図で、しかも自分だけ振り返ってみても繰り返している。つまり、構造的に自分がいる限り後輩は育たないはずなのに、その後輩が育たないことに文句をつける。これは先に挙げた間接的な攻撃の例と類似で、直接後輩の行動を制限することはなくても、実はなんらかの制限を与えつついることに気づいていなかった。
全然別物だと思っていたことが、実は同じだったらしいことにふと気づいてみた。意図的に後輩のために身を引くことも、彼らの、そして全体のためになることもあるだろう。
医療ミスの話題は絶えない。最近増えているような気がするが、以前に比べてミスが増えているというよりは、それをおおっぴらにして報道するのが増えているのだろう。そして「冤罪」つまりミスじゃないのに報道されるケースも増えていると思う。多いとか増えたとか、これは根拠となる数字がないと言えないことではあるのだが。
一例であるのだが。ミスが起きると、たいていは院長などの責任者が記者会見して頭を下げる。ミスをした本人は出てこないが、原因はその人の不注意となる。不注意というのは、もうちょっと注意すれば防げたことであるのだから、確認をしっかりするというレベルの対処で終わってしまう。
事故原因の調査が、システム上の問題とか、環境が悪くて起こったとか、そういう次元にまで至ったというのを聞いたことがない。組織の中で問題が起こったときには、その原因を組織の制度に求めることの方が本質的で、それを怠り、同じ構図で違う人が再び問題を起こしたとすると、それは組織のmanagementの問題だ。
そんな中で、鹿児島大学病院の投薬ミスと医療用アプリケーションのような発想はなかなかない。劇薬の誤投薬事件の時には「劇薬には警告表示をしろ」などの短絡的な意見が新聞に載ったことがあるが、年中劇薬だらけの場合には意味がないだろう。ミスは起こるべくして起こるのだという発想は少なく、せいぜい「ヒヤリハットレポート」があるくらいで、それも作ったものが読まれているかはまた問題だ。
本当のリスク管理というのは、ミスが起こらないような必然を作り出すことだと思う。個人の努力で維持される体制は非常に危うい。ここに金と時間と、何より人をかけることが必要で、それには医学以外の分野の専門家がぜひとも必要だと思う。
テキストサイト界隈では、終身一位でごねているご老人に非難の声が高まっている。この話を聞いて、あるカップルの話を思い出した。
つきあい始めた頃に、「別れない」と約束したから別れないと言うのだ。もしも別れる状況になっていたとしたら、その約束を守るとかいう状況ではないと思う。逆に言うと、約束を守れなくなった状態と別れる状態はイコールであって、約束を反故にしたと怒る状況では既にない。信頼関係があるから約束が成立するのであって、信頼関係がなくなってから約束に縛られることはないはずだ。少なくとも契約ではなく自由意思に任される分野においては。
かのご老人は、遠回しに別れを告げられている、末期のカップルの片割れと見てはどうだろうか。別れを告げる方もつらいし、突然そんな話を切り出された方は、感情的になって色々言い散らし、端から見たり後から考えるととんでもない行動をしでかすことがある。私にも、今なら苦笑するしかない思い出があったりする。そう考えると、もう一人のご老人は「別れ上手」ということになるのだろうか。
■2003/10/25 (土) 治験日記2 日記をつけてじぶんを見直す
治験の第1週は日常を記録することである。くしゃみと鼻をかんだ回数、それから鼻がどのくらい詰まっているか、日常生活にどのくらい支障が出ているかを、1日を3つに分けて記録する。鼻をかむたびに正の字を書いたり、ティッシュの数をあとから数えたりしている。
つける前は、病院で問診されても「どのくらい鼻水出てますか?」「いやぁ、たくさん出てます」「どのくらいですか?」「箱ティッシュを持ち歩くほどです」とか「くしゃみはどうですか?」「いやぁ、あんまり出ません」「一日何回くらい?」「・・・そんなに多くないです」のような、わかるようなわからないようなやりとりをしていた。そうした意味で、他人に伝えられるという点において、記録というのは重要だ。
ためしてガッテンのダイエットについて取りあげたサイトがあり、じぶん更新日記10/15分では心理学の視点から、発掘?あるあるトンデモ大実験では薬店の店主の視点から、分析と番組の見方が書かれている。それを読んで気づいたのが心理学的な点だ。
自分がしていることを自分で認識するというのは意外に困難で、それによって自分の生活を改めようなどはさらに高度だ。そこで記録をつけることで、まずは自分を客観的にみることができて、私で言うともう鼻をかむのは日常と化していたのだが、食事中に15回かむのか3回かむのかは大きく違うと気づく。もしこうしたときに鼻水が出やすいというのを認識できれば、それを避けるという考え方が生まれてくるかもしれない。
相談事というのは、他人という三人称の立場からみた自分についてわかることを指摘される、というメリットがあると思うが、いつもいつも他人に頼ってばかりもいられない。そこで自分で自分を客観視することができるのがこうした記録で、ある意味、自分で自分に相談していると言えるのかもしれない。今回は治験で鼻炎の症状だが、あらゆることに応用できる可能性が秘められていそうである。例えばこうして日々綴るweb日記もいい方法であろう。
■2003/10/27 (月) セカンドオピニオン有料化 技術料の設定
下の方でしつこく個人的に推している「お医者のタマゴクラブ」は、元がサイトの文章ということもあって、一話あたりの文字数がバラバラだ。週刊誌の連載などを取りまとめた本の場合は、一回あたりの文字数が決まっているため、話の区切りが例えば右のページの真ん中あたりであるとか、ヴィジュアル的に決まっているので、なんとはなしに違和感を持ったから気づいた。
そのような原稿料は、決まった文字数に対して支払われると考えてもいいだろう。今回は文章の質がどうとか言って変わることはない。その文を30分で書き上げても、5時間かけて書いても同じだ。一方、弁護士の相談料では、30分ごとに5000円など時間で決まっている。これはある仕事を終えるのに要した時間を評価していて、ひょっとすると仕事が速い人が損をしかねないシステムだ。
セカンドオピニオン有料化のニュースを聞いて、医療の場合はどうあるべきかと考えた。特に医者の場合に注目するが、3時間待って3分診療とよく非難される状況を、例えば30分話を聞くように変えるのがいいことなのか、その時の料金は10倍なのかそのままなのか。例えば、土日祝日・夜間などに医者が仕事をする際には、時間外手当の発想で考えてコストは高くつけるべきなのかそうでもないのか。極論すると、なかなか家に帰らず病院で患者さんとじっくり話をしているような医者というのは、高く評価されるべきなのかそうでもないのか。
上でリンクしたニュースの中に「医療費の抑制が狙いで、医療を受ける権利を奪いかねない」というセリフがあったが、医師という専門職への相談にお金を払うか払わないかという問題だと私には見える。十分患者や家族に説明できるようになるためには、医学部での教育が最低6年、卒業してもさらに数年が必要になると感じている。「医者なんだから」と安易に括るのは簡単なのだが、10年かかって身につけた技術を提供するのに対価をもらうのは当然のようにも思える。
それがセカンドであろうがなかろうが、30分以上そのことに関わって、それこそ人生を左右する、生命に関わる話をするにあたって、お金がかかるからとか、それは権利の侵害だとか、そういう次元の話と結びつけるのは、あまりに軽視しすぎではないだろうか。保険がどうとか色々事情はあるのだろうが、両親の新しいパソコンに私が昨日簡単にやったインターネット接続設定をするのに、30分で3000円取る会社がある現代には、医師の説明をいくらに設定するのが妥当なのだろうか。
■2003/10/30 (木) パソコンが飛んでバックアップを考える
パソコンが壊れた。新しいパソコンの購入を真剣に検討していた矢先の出来事だった。結構たくさんデータを失ったが、最も差し迫ったものはたまたま、メールで「こんな面倒なのやってるさ」と送っていたために難を逃れた。
教授が言っていた話を思い出した。実験で使う細胞は、大事なものであればあるほど他の研究室にあげておくといいというのだ。研究上大事な細胞というと、簡単にライバルである他の研究者にあげては損な気がするのだが、実際にはそれがなくなる方がはるかに損である。
細胞は生きているものであって、ちょっとした事故やミスで死んでしまうことがある。そこで研究が頓挫となると、何年も積み重ねてきたものが無意味となるかもしれない。震災で大事な細胞を失った教授から教授は聞いたらしく、確かに自分のミスというのもあるかもしれないが、不可抗力だとあきらめきれないこともあるだろう。そんな時に、誰かに自分のものをあげていたなら、お互い遠慮することなく、それをちょっと「返して」もらえる。
今回の私の例で言うと、私が作ったデータを返してもらうのはいとも簡単だった。バックアップを取れとはよく言われるが、例えば家が火事になったらバックアップも従来のものもどちらもダメかもしれない。本当に重要なものは、全然違う環境に置くことが安全で、全く他人のコンピュータとか、サイト上のレンタルスペースとか、そういう危機管理の発想が必要なのかと思ったできごとだった。
人間関係では、もめごとが起きたり、不愉快な思いをすることがある。そんな時に当事者の間に入るのはなかなか不愉快だ。それを相手に言えよ、と思うことを延々他人にこぼすのは、考えているようで実際は何も考えていないし、まして解決にもならない。
「気が晴れる」というメリットを挙げる人がいるかもしれないが、当事者間の問題は何も解決されていないのに気が晴れたとしたら、それは問題を過小評価したり、先送りしたり、ないものとみなしたりすることになる。しばらくいい気分で過ごしていても、その問題はやはりそこに存在し、結局またそれにぶち当たることになる。もしもぶち当たらなければ、それはそもそもたいした問題ではなかったのだろう。
私はわりと、そういうことを言い合える人とつきあっていると自分では思っている。言ってくれるかはそうでもないのかもしれないが、私が思っていることは伝えるようにしている。思ったことを内に秘めたままで一見仲良くつきあうよりも、思ったことをしっかり出すのがいいと思っている。一見喧嘩してるように見えても、お互いを理解するためには必要なことで、そこで一致しないことがあってからどうするかが、人間関係の正念場だと思うのだ。
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