最北医学生の2003年11月の日常

■2003/11/01 (土) パソコンの買い換え

3年使ったパソコンを乗り換える結果になったのだが、3年の進歩は大きい。CPUは3倍の速さ、メモリは奮発して8倍に、HDDはそうでもないが、Windowsを98SEからXPに代えたのも重要な要素だろう。いわゆる「待ち時間」が格段に短くなって、新しいパソコンは快適だ。

ものは大事に使うものと考えてきた。そういう育ち、なのかもしれないが、車というのは廃車にするまで乗り続けるとか、例えば親父の車は19万キロとか、私は14万キロとか、そういう「使い捨て」とは違う生活をしてきて、それがいいことであるかのようにも考えてきた。

しかし今回の買い替えでは、コンピューターのような分野においては、今あるものを大事に使うことがいいことでは決してなく、むしろある程度の回転を持つ方が効率がいいのではないかと感じている。同じ作業をするのにかかる時間が短縮されたり、フリーズして再起動を繰り返しているようなものを使い続けることは、お金で言って十万とかの価値は十分あるのではないかということだ。

時は金なり、とか、そのままの意味ではなかったと思うが、時を金で買うこともまた、ものを大事にするとは別の問題として存在するのではないかと思ったのだった。

■2003/11/02 (日) 嫉妬の成立条件

嫉妬は見苦しい。他人がするのも見るのもそうだし、自分がしているのに気づくのはなおさら嫌だ。嫉妬の気持ちを内に持っている間はまだいいが、そこで自分の方が優れていることを示そうとして、日頃ではありえない行動を取ることが多い。自分だってできるんだとか、自分なんてできないんだとか、それが様々な表現型となって現れる。

嫉妬心が生じるのは、自分の方が下であると考える時であろう。解決法としては、自分が下であることを認めるか、自分の方が実は上だとするかのどちらかしかない。自分が下であるのを認めることはとても難しく、典型的には拗ねることになる。自分が上だと示すためには、相手の気持ちを考えずに攻撃して自分の優位を示したり、金とか地位とか「裏切らない」ものたちを動員することになる。いずれにしても理性的とは到底言い難い行動を取って、その結果私もよく自己嫌悪に陥る。

気づきづらいが嫉妬が成り立つもう一つの条件として、自分とその相手が同じフィールドに乗っている、という前提があると考える。例えば、イチローと私のバッティングセンスを比べたときには私が劣るが、だからと言って嫉妬心を覚えるものではない。しかし自分と同じ野球チームにいる相手と比べて私が劣り、例えばその相手が賞賛されたり、ポジションを奪われたり、そうしたときには嫉妬するだろう。

まとめると、その相手との競合的な関係があることが前提にあり、その上で相手よりも自分の方が劣っている、という思いがあるときに、嫉妬が生じる。嫉妬をなくそうとがんばってもなかなか難しいのだが、そもそも「前提」は合っているのかを考えてみてはどうだろうか。

例にあげた野球のポジション争いなど、定員が決まっているものとか、確かに競合的な場面も数多く存在する。しかし、人間関係においてとか、組織の中で果たす役割とか、自分じゃない人にもできるけど自分にしかできない要素を含むものは、実はたくさんあるのだと思う。目につくところで他人と比べるのは容易だが安易でもある。言葉や数字に表れない部分まで考えると、自分と相手が全く同じ事をするのは不可能で、他人と同じでないことこそが自分であることの証明となるのだろう。

自分に自信を持つとかアイデンティティーの確立とか、色々表現はあると思うのだが、自分と比べている相手が、そもそも比べる対象となっているのかを今一度見直してもいいかと思う。必要のない比較に基づき劣等感を抱いて、それが嫉妬に結びつくならどこにも利益がないからだ。

■2003/11/03 (月) なぜつらいことに向かうのか

タバコは多くの疾患の原因となり、少なくともタバコを吸うとなりやすくなる病気がある。従って禁煙を進めることがそれらの病気を抑えることになり、医療費の抑制につながるという啓蒙活動がある。教授がそうだからということで、講座を挙げてやっているところもあるくらいだ。

一方これに対して、タバコによってある種の病気群は減って寿命は延びるかもしれないが、それによって高齢者が増えることで他の疾患が増加して、むしろ医療費は高騰するという主張がある。肺ガンの医療費が減っても、その人が違う病気になればまた医療費がかかり、高齢になればなるほど治療も大変になるのは確かに本当だ。

例を挙げると、ある種のガンの死亡率が低い国があって、どうしてかを調べてみると平均寿命が短いのだった。そのガンは高齢者に多発するため、高齢まで生きなければそのガンでは死なない。実際には、ガンが起こる前に別な病気で亡くなっていく。この場合はガンの分の医療費は低く済むこととなるだろう。

統計だか予想だか、どちらが正しいのかを検証するのは私には難しいのだが、思想として考えることはできる。ガンを減らすような運動は推進すべきで、それ以外の病気が増えるのであれば、それを減らすような努力をまたすればいい。そうした各方面の力が合わさって、全体が前に進んでいくと思うのだ。

全てのガンを克服しても、寿命はせいぜい5年とかしか延びないだろう、という予想も確かにある。どんなに頑張って人を救っても、結局人は死に行くものである。それなのにどうして医者は頑張るのか、そして自分がどうしてそういう職を選んでいるのか、立ち止まって考えるとなかなか答えは出ない。

日々の幻想11/3に、「障害が残るくらいなら、助けないで欲しかった。」という話が出てくる。講義で聞いた小児外科の例でも、これまで死産になったりあきらめたりしていたくらい小さな子供への治療を、チャレンジすればするほど手術の成功率は下がっていく。じゃぁ助けなくていいのか、助けようという努力は不要なのか。

小さな視点で見るとそのときはよくないことに思えることかもしれないが、そうしたことを積み重ねていくことが大きな視点、長い目で見たときには重要だと私は考える。「日々の小さな努力の積み重ねが」というのは精神論的で好きではなかったのだが、一つ一つの矢印の大きさは小さくても、向きが正しい方向であれば、それらが合わさって向かう方向も正しいものになるのではないだろうか、という視点を持ちたいと思う。

■2003/11/04 (火) コンプライアンスの上げ方

厳密にはもう少し広い意味だろうが、患者が薬をどれだけ飲むのかを「コンプライアンス」と呼ぶ。どのくらい飲む、という話題が出るのは、患者は処方された薬を全て飲むわけではない現実を表している。コンプライアンスが高いと指示通りよく飲んでいて、低いと飲んでいないことになる。

患者が薬を飲まない理由は色々考えられるが、その薬が効かないと感じているとか、副作用があると隣のおばさんに吹き込まれたとか、自ら飲まないことを選択する場合が挙げられる。これは、「薬の効き目や続けて飲むことの重要さを説明することが不足しているからだ」と言うのは簡単だが、実際にどのように話をすれば、隣のおばさんに負けないのか、あるあるおもいっきりと戦えるのかを考えると、かなりの困難が予想される。

また、単純に飲み忘れるというのもあるだろう。薬を飲む習慣がない場合は特に、後から「あら、飲んでいないわ」と気づくことになる。これは本人が忘れず飲めるように、例えばよく見える場所に置くとか、そういう工夫が必要となり、これに医療側が介入するのはなかなか難しそうだ。薬のパッケージとかを変えても、それを手に取らなければ意味がない。

医者の前で飲むところを見せてもらう、という方法も実在する。患者を信じていないのか、となるのだと言うが、だって飲まないんだもん、という話である。しかしこれを全てのケースで行うのには無理がある。私の発想だが、メールマガジンでそういうのはないのだろうか。

1日3回のメールマガジンを適当な時間にセットする。ケータイメールをやる最近の若者にとってメールの威力は絶大で、必ずチェックするだろう。それで飲んだ場合は一本返信メールを打って、何時に返信メールが送られたかは全て記録される。そしてその記録は次回受信時に医師が手にしていて、全回メールが届いた場合は薬代を割り引き、まではやり過ぎか。

コンプライアンスを上げることは、薬の選択同様、むしろ、よりも重要で、どんなに効く薬でも飲まれなければ意味がない。医療ミスを起こさない必然でも書いたが、こうした狭義の「医療」には含まれないが重要なことというのは無視されがちである。そうしたソフトの発想は、メールなしでは人間関係が成り立たないような現代の若者が提案し、開発しなければならないだろうが、確かに医療の業界の古い体質には受け入れられづらそうではある。

■2003/11/05 (水) 実習という名の就職活動と人生選択

今日はとある病院に実習に来ておりまして、睡眠時間確保のため日記はお休みいたします。

と言いつつ・・行くところ行くところがいいように思えてくる主体性のなさ。最初の2年の過ごし方を決めるのと、その後の人生、特に私生活を決めるのと、医師としてどのような医療を提供したいのか、という半ばおごった気持ちと、そんなものが交錯して悩み甲斐のあるところです。雰囲気がいいところ、人が親切なところ、自分のカラーと合っているところ、などを基準にますます悩んでいきたいと思っています。

■2003/11/07 (金) 医療ミスをなくすために

胃がん見落とし、男性死亡と報道されている。がんの診断が二回なされて、どちらもきちんと拾えず、一回の誤診がそのまま生きてしまったようだ。誤診をしないのはもちろん大切だが、人間がやることであるのだから、間違いが起こったらどう対処するのかが重要で、それは個人レベルではなく組織としての問題だ。

きちんと拾えなかった原因は三つあげられている。一つは、消化器科内で「がん」を表す略号「2」が記入されていたが、一般的に良性を表す「2」と解釈した、という点である。似た内容を表す略号の統一が提案されるだろうが、そもそも1とか2で普段やっていていいのか、という気がしないこともない。一応仮にも悪性腫瘍なのだから。

二つ目に、補足説明の文字が不鮮明だったことが挙げられる。今回実習に行った病院では電子カルテが導入されていて、過去の記録やいわゆる紹介状などを検索することができて便利だった。字が汚くて読みづらいことはこれで解決されるだろう。よく言われることだが多くの医者の字は読みづらく、読めないものは仕方ないので最重要のところだけ頑張って読み、他の情報は得られないまま仕事を進めるしかない。

三つ目に「病理検査でがんと判明したにもかかわらず、結果報告書が退院者用のカルテに収められていたため、主治医が確認できなかった。」という点だ。病理診断をしても、その紙を見ることがなければ何にもならない。何と言おうか、これはどういうシステムにしても、例えば電子カルテにしたとしても、その画面を見なければ、となると同じことで、うまい解決法は思いつかない。

この三つの原因だが、三つともが重なったからこういう結果になったのであって、一つでも違っていればこうはならなかっただろう。仮に一つのミスが100分の1の確率で起きるとすると、3つが重なる確率は100万分の1になる。2つや1つのミスで済む確率はおよそ3%であり、100万の3%は3万だ。つまり、潜在的にはかなりの問題が存在して、つまり数字を読み間違えたり、字が不鮮明だったり、退院者のカルテに入っていたりしていて、それは表には出てきていなかった。

以上のようなことを考えると、今回ミスした人を責めたりやめさせたりするのは問題の解決につながらず、3万のプレミスの段階で手を打つ方が合理的である。ヒアリハットレポートを書くように盛んに号令はかかっているが、本当にレポートまで至るケースは実際よりも少ないように、病棟で見ていて思う。調査を専門とする人がよく分析したり、他の病院で起こった事例を共有して生かしたり、それを最初から克服したシステムを導入したり、根本的な解決法が求められているが、「・・求められている」というこの語尾は、ずいぶん昔から新聞の社説などには載っていそうである。

■2003/11/08 (土) 私が投票に行く理由

ocean of stormsの11/7に共感して思わずメール送ってしまったりしたのだが、二大政党を謳うわりには選択枝に乏しい選挙だと感じている。自民がいまいちで、民主もいまいちで、それ以外もいまいちならばどうにも選びようがない。正直、そういう理由で選挙を棄権したことがある。

世間では、若者の投票率を上げようと躍起のようだ。まぁ、菊川怜とか高見盛とか、そういう人を献血のポスターに出すのと同じノリなのだろうが、私の姉のように「むしろ選挙に行きたくなくなる」という副作用も伴っている。そもそも行こうという気の少ない人を行く気にさせるのはかなり大変だし、姉いわく「ああいうノリで来た人と自分の一票が同じと思うとやる気もなくなる」だそうだ。

最近の若者と同じく、めっきり投票に行く気がなかったが、今ではすっかり行く気満々である。現在の選挙は投票率は問題ではなく、投票した人の中でどれだけの数か、どういう順位になるかを争う。仮に5人しか投票に行かなくて、4人の候補者に票が散ったら2票で当選者決定である。有権者が10人でも100人でも、5人しか投票に行かなければ同じである。つまり、投票率が下がると、投票に行った人の一票の価値が高くなるのだ。

私が支持していない政党の中には、必ず投票に行くとされる「信者」のような支持者がいるところがある。そうすると、もしも自分が投票に行かなければ彼らの一票が重くなり、その政党は力を伸ばすのだ。これは耐えられないできごとなので、何としても阻止しなければならない。そのためには、投票に行ってそこ「以外の」政党に一票を投じて、相対的にその力を減らすしかないのである。

以上のことを考えると、例えば民主党に投票する人の中には ・民主党を支持する人 ・自民党を支持しない人 ・自民も民主も支持しないが、特定の政党の力が伸びることを望まない人、が含まれているように思う。それでも棄権するよりずっとましだと思うので、私は明日投票に行く。

■2003/11/09 (日) 民意を反映って何だ?

日記に選挙ネタはやめておこうと思いつつ、しっかり速報を見続けてしまった。自民、共産、社民が減って、民主がすごく増えた。与野党で言うと、与党から野党に10議席ほど動いただけで、民主が増えたのは共産と社民が減ったから、という要素は結構ある。まぁそれなりに菅民主党は評価されたのだろうが、勢力がひっくり返るほどではなかったようだ。

比例代表においては、自民と民主が同じくらいなのに疑問を持つ。もちろん比例と小選挙区で違う投票をしているのもあるのだろうが、支持している人の割合が国会の議席数にそのまま反映されるとは限らないのが現実だ。社民や共産も、議席数ほど支持率が低いわけではないだろう。

小選挙区比例代表並立制は、いかにも日本人的な、清濁併せのんだ玉虫色の選挙制度である。相反する二つの制度を足し算してはいけないと思うのだが、そうでもしないと制度が成立しなかった時期があったようだ。個人的には、衆議院を全部小選挙区で、参議院を全部比例代表で、そして衆議院が行きすぎるのを参議院がチェックする、というのがバランスが取れていると思う。チェック機関は国民の比率に忠実である方がいい。

過半数を取れる政党がなければ連立政権となる。そうすると、右から左に並んだときに、ちょうど真ん中あたりにいる政党が大きな影響力を持つことになる。キャスティングボートを握る、というやつだ。よく考えるとこれは不健全で、野党第一党の主張が取り入れられないのに、与党第二党になってしまえば、全てとは言わなくてもある程度の意見が言えるようになる。例えば経済学を知る人からは失笑を買った地域振興券などだ。

じゃぁどうすればいいのかと聞かれれば答えに困るが、その党を支持している人数の割合に応じて、国政で力を発揮できるというものではないことがわかる。「民意を反映」と言うと、国民の意見を聞かない政治家像が頭に浮かぶが、今の制度で果たして民意は反映されていると言えるのか、そもそもどうやったら反映されていると言えるのか、簡単そうで実は難しい問題だと思う。

■2003/11/10 (月) 治験終了

鼻炎の治験は今日で終わり、症状には劇的な改善が見られた。1日平均30回くらい鼻をかんでいた薬を使う前に比べて、最近では片手で数えきれるほどに良くなった。これまで鼻が詰まっているのが日常であったため、こんなに鼻をかまなくていいんだとか、こんなに鼻が通ることがあるんだという驚きの2週間だった。これでプラセボ(偽薬)だったら大笑いだ。

記録につけることで、自分がどのくらい悪いのか、そしてどのくらい改善したのかを、自分で認識して、他人に伝えることができる。振り返れば、自分が病院にかかったときには、「結構悪いです」とか「まぁまぁ良くなりました」とか、そういう曖昧なことしか言っていなかったように思う。主観は確かに大事な要素だが、科学者の側面では客観的なデータがほしく、それを患者に求めるのも理想的にはいいのかもしれない。

■2003/11/11 (火) 治療法の選択肢を示すこと

私は中3でアレルギー性鼻炎を発症した。通院して、内服薬も点鼻薬ももらっていたのだが、まぁあんまりばっちりは効かないし、と思っていた。鼻中隔弯曲症の矯正という、右の鼻と左の鼻のしきりの骨の曲がりを直す手術をして、それは確かに鼻づまりの改善に有効だったと思う。それを機に私は医学部を志した。

高校を卒業し、引っ越しに際して紹介状はもらったのだが、まぁそこまで頑張って通うほどでもないし、ということで放置していた。命に関わるものでは全然ないし、鼻をかんでりゃいいのだからと。心身症である側面もあると言われている病気だが、確かに大学入試の当日が一番ひどく、しかもその日の夜にはけろっと治った。これでは治療しても、苦労するほど効かないだろうと思っていた。

大学に入り、鼻をかむのが日常になってきて病識(自分が病気だと認識すること)がなくなり、まぁ病院に行くのも面倒だしいいか、と思って生活してきた。確かに試験前になると鼻水は出るし、初対面の人には「くしゃみ・鼻水」という典型的な鼻炎の症状を「風邪ひいた?」と心配されていたのも事実である。

あまりにひどいときに市販薬を試してみたりしたが、いわゆる眠くなる系の薬を飲んでまで止めることか、つまり試験前にひどくなる鼻炎を止めるために眠くなってはいかんだろうという思いが勝った。他の薬も、効き目の面でもコストパフォーマンスの面でも、いまいち自分に合わずに、やはり放置プレーが続き、箱ティッシュの購入だけが増え続けた。

以上、病院にかかるほどではない、薬を飲むほどではない、と自己判断してここ何年も過ごしてきた。しかし今回の治験をきっかけにして、実は自分に合う薬があって、少なくともそれが合わなければ、効くポイントが違う薬がたくさんあることに気づいた。そんなことは習って知っていたはずなのだし、一応知識があるはずの医学生でこれである。癌末期に怪しい民間療法、というのは、私が最も非難したいものだが、ことによると患者というのは、概して治療の選択肢をよく知らないのではないかと考えた。

もしも、高校時代にかかっていた先生が薬をくれる際に「これがダメなら、別の薬があるから、合わなかったら変えてみよう」などと説明をしてくれていたら、ひょっとすると大学に入ってからも病院に行っていたかもしれない。現場では時間がないという問題は確かにあるが、初診などに一度はしっかりと話をして、病気と治療法のアウトラインだけでも患者と共有するという発想は、医者にはなかったのかもしれない。私も医者側の視点に立った時には、今やりたい治療の説明と同意ばかりに一生懸命になって、今後の見通しなどを話そうとは思っていない気がする。

そんなことを心の隅に留めながら、私は勉強をする。

■2003/11/12 (水) 星座と交通事故を分析する?

医療やら選挙やら、色々書こうとすることはあるのだが、それを上回るとんでも記事を発見した。うお座に事故多い? 道警が星座別に分析という北海道新聞の報道で、北海道警察、通称道警が、交通事故を運転手の星座別に分析したというのだ。笑いが止まらない。

統計学的分析としては、どういう根拠であっても対象を12群に分けたらまず、その12群の間に有意な差があるかを検定することが必要だ。群の差がいわゆる「誤差範囲内」であれば、そこに1位から12位までをつけても全く意味がない。例えば1ダース入りの鉛筆の重さを、mg単位まで厳密に量って重さの順に12本並べることに意味がないのと同じだ。まずこれをやっていたかぜひ聞いてみたい。χ2検定で有意差が出て、話はそれでようやくスタートラインに立つ。

記事によると、うお座が一番事故が多く、さそり座が一番少なかったらしい。それぞれの特徴が「飲酒運転が多め」などと分析されている。「うお座が一番事故を起こしやすい」とはどこにも書いていないが、「居眠りや脇見運転に注意しましょう」との書き方は、うお座が居眠り運転や脇見運転を起こしやすいことを、限りなくにおわせている。これまでうお座で事故が多かったことと、今後うお座が事故を起こしやすいことは全くの別問題で、同じだと言うためには、うお座のどのような部分が事故の原因となるのかを示す必要がある。

何よりこれを講習などで使うと言うなら、その傾向が来年以降も継続されることが必要だろう。事故を起こす星座が変わったら「講習で気をつけるよう呼びかけた成果だ」とか言われそうなので、まずは今ある過去3年間のデータを1年ごとにバラバラにしても同じ傾向を示すかどうか、予め確かめておきたい。どの年をとっても、また今後とも同じ傾向であれば、ちょっとは検討に値するかもしれない。

さすがにHPに嘘は書いていないが、限りなく怪しい論法を駆使してなんとか印象を与えようとしているのが見て取れる。しかしこの程度でいいのであれば、私も道警で統計の仕事をしたいものだ。いくらでも分析してみせる。しかし、分析している方も、これを読む方も、どこまで本気なのだろうか・・

■2003/11/13 (木) お金の使い方

親戚に医者がいるが、開業してうまくやって、それこそそこそこ儲かっている。その先生が病院の近くの元コンビニだった空き店舗を買ったと聞いた。コンビニが撤退してからは、そこにかわるがわる怪しい物売りがやってきて、それこそお年寄りから金を巻き上げていったわけだが、先生は、患者のお年寄りがそうした目に遭うことに耐えられず買ったという。

中をすっかり改装して、お年寄りの憩いの場として碁などをできるようにする。また、子供たちが遊べるような空間を作り、本も買うという。患者さんに紹介して、そこを使ってもらえればいいということだ。地域のふれあいセンターみたいな所とか、小学生の時に通った児童館を思い出させる。本来自治体がやるべきことかもしれないが、よほどニーズに合っていると思う。

私は自分の家がそう裕福というわけでもなく育ち、心のどこかで金持ちに対する思いがあった。それは、妬みとか、コンプレックスとか、お金がないから自分の欲求を満たせていいなとか、そういう類の気持ちだった。お金がある人は自分のために贅を尽くせるというイメージがあり、自分も金持ちになったらそうしてやろうと思っていた。表立って口に出したり、強く思っていたわけではないが、そうした気持ちは否定できない。

そんな中で聞いた今回の話である。将来自分が働いた際のお金の使い道として、自分の好きに使う他には、せいぜい家族に何かというくらいしか考えていなかったが、もっと大きな還元法があるのだと気づかされた。団体に寄付などのありがちなものでもいいのだが、利益を目的とせずに場を提供するという使い道は、生き方としてなかなか格好いいと思った。金持ちかくあるべし、と。

■2003/11/14 (金) 放射線治療が効いた「一例」

医療系報道に一言もの申す医学生、ちりんの部屋へようこそ。ある人が「論客」と評していたが、ちょっとそういう面もあるこの頃。昔の日記を読み返して雰囲気の違いを感じたり。

読売新聞の医療ルネサンスはなかなか考えさせられるが、問題提起をするあまり、そのまま受け取ってはどうだろう、ということもしばしばある。今回の手術なら人工肛門・・・もそうだ。

単純に要約すると、外科医が勧める治療法と、放射線科医が勧める治療法が異なり、放射線で治療したら治ったというものだ。放射線という方法もあるよ、と知らせるためにはいいかもしれないが、外科医の言うことは当てにならないよ、とも読めるのが危険なところだ。もし本当にそうなら外科医は失業だ。

この記事を読んだときの第一感は「あぁ、外科的切除の方が5年生存率高いんだろうなぁ」というものだった。5年生存率が高いというのは、すごく縮めて言うと「死にづらい」ということだ。肛門癌の最新情報について確かなことは調べていないが、外科手術と放射線治療があって、外科手術がより「死にづらい」から、会う医者会う医者が「本当は手術しか・・」と言っているのだと考えるのが、少なくとも医学生にとっては自然である。

その「死にづらい」というのは、多くの例での統計に基づいている。だから記事のたった一人の例で何かを言うことは無謀もいいところだ。癌に効くというキノコだって、一人ぐらい効く人がいるかもしれないが、それが評価されないのは100人にやってみたときに抗癌剤にはかなわないからだ。だから放射線がいいと書くなら、100人集めたときの結果も同時に示すべきだろう。

医者の間で、意見を統一するべきだというのは当然だ。どちらがいいのか答えが二つあるはずはないので、どういう人にはどういう治療がいいのかを日々研究しているのが大学病院だ。科の間で仲が悪い話は確かに耳にしないことはないが、どちらかと言うと正しい用法での「確信犯」、つまり各々が自分の方が患者さんのためになると「本当に」信じていると言った方がいいように思う。例えば手術する/しないなどの、相反することを確信している人同士で、仲良くするのは大変なのも現実だ。

数字は適当だが、9割は完治しますが人工肛門になります、というのと、7割は完治しますが人工肛門にはなりません、というのがあって、そこでどちらを選ぶかというのは患者さん一人一人の人生の選択なのだろう。私などは、生きていてこそ、と思うので前者を強く勧めるだろうが、そう思わない人もいるかもしれない。本来それを示して選択してもらうのが「インフォームド・コンセント」だが、今やろうとする治療法以外も説明するとなると、少なくとも一時間は余計にかかるだろう。そんな中、こちらの日記の11/15参照、診療報酬はカットするという。

■2003/11/15 (土) どうしてわかってくれない

どうしてそういうことするかな、と思うことがある。ちょっとはどうなるか想像しろとか、自分のことしか考えてないだろうとか、相手の考えの浅さや視野の狭さを批判する構図だ。特に自分がその点を注意して考えているのに、造作なく相手にそこを無視されるとさすがに腹が立つ。

そして、その相手を心の中で責めたり、誰かにそのできごとを愚痴ったりするのだが、よく構図を見極めると、「自分が」その人はこうするだろうと想像して、それとのギャップに対して怒っていることになる。これが、社会的だったり、職業的だったり、「誰が」想像してもまぁそうなるだろう、とは反対のprivateになるにつれて、責めるべきは相手ではなく、勝手に基準を作った自分のようにも思えてくる。

そもそも、相手が自分と同じ思考と行動をする、というのは自分のエゴだ。まして自分より「劣っている」と感じたからと言って、それを非難するのも価値観の押しつけだ。人間関係は分解すると1対1の関係が最小だが、そこでのルールは二人の間に存在する。そのルールは当然二人が作るものであるから、腹を立てることがあっても他人に言うのは筋違いだし、むしろその相手にそれをぶつけるべきであろう。

言語というのは、相手にそれを伝えるためにあるのであって、「これを言うと相手は・・・なので言わないようにしよう」というのは、相手のことを思いやっているようでいて、じつは非常に失礼なだけかもしれない。いくらそれが、短期的には自分の不利益になって返ってくるだろうと予想されることでも、自分から発しないことが元で起きることに不満を言う権利はないだろう。これも結局、他人との人間関係なのに、自分の中で完結しているところが問題だ。

結局「わかってくれない」と書き始めてはみたものの、自分の中で「わかってくれない」と言っているだけでは何にもならないことがわかった。その場は苦しくても、思っていることは相手に伝えていかなければならないという、至極基本的なことに立ち返る。

■2003/11/16 (日) ADSLスパムと営業たるもの

スパムが届いた。某プロバイダというかADSL業者というか検索エンジンとかを持っているあの会社の、なんとかビービーへの加入の宣伝だった。ac.jpアドレスにそういうものを流すのはいかがなものかと思うのだが、それはさておき内容が滅茶苦茶である。

まず各種の無料サービスを宣伝している。最初の3ヶ月の基本料とか初期費用が無料とかというのはよくある話で、新規加入者に対してはたいていのところでやっているサービスであるが、5項目10行にわたって長々書かれている。もしもこれに魅力を感じるとすれば、読み手側によほど知識がないか、または他の会社のプロモーションが失敗していると考えられる。

次に、24Mより26Mの方が速いと書いてある。それはそうなのだが、そんな次元で速さを競っても誰もわかるまい、と思う。それよりも、基地局からの距離が遠くなるにつれて速度が遅くなる方がよっぽど問題である、というのはちょっと調べればわかることだ。料金が安いとか速さとのバランスがいいとか書いてあるが、実際いくらなのかはどこにも書いていない。

大学周辺の情報は確かに学生には有益かもしれないところだが、「インターネットのデータ送信形式の説明」と題して、ダイヤルアップ、ISDN、ADSL、光、などの説明をしている。揚げ足取りかもしれないが、データ「送信」形式なのに、サイトを見るとかダウンロードするのに時間がかかるというのはなんだかよくわからない。

私はso-netADSLに契約したばかりであるため興味はなかったが「いくらなの?」とメールを出してみた。するといくらいくらと返ってきたのだが、フレッツ+プララに比べても「日本一お得になった」と書いてあって、なんだかずいぶん引っかかった。私はそんなに払っていないからだ。計算したがso-netADSLの方が58円安く、さらに学割を使えば838円安くなる。1.5Mでよければもう400円安くなる。

おそらくは、大学周辺の地域で唯一対応している(事実は未確認)のが売りなのだろうと思う。それならばそう売り出すのはすごくいい方法だと思うし、営業というのはそうあるべきだと思う。しかし、消費者側の知識のないところにつけ込んだり、事実に反することを書いたりするような、そういう方法は私には許し難い。

商売というのは、提供するものの良さと悪さを十分説明した上で、それに納得できるだけのお金を払うのがあるべき姿だと思うのだが、良さは誇張し悪さには触れず、いくら払うのかを知らせずものを勧めようとは、営業の風上にも置けないと思うのだ。

■2003/11/17 (月) CDコピーなんかしない

CDを借りてMDに落とす、という光景はよく見られる。パソコンソフトを借りてインストールして返す、というのも結構見られる。お金が浮けばいいと考えてのことだと思うが、私には、これをやる場合とやらない場合がある。

例えば音楽CDを買ったら、途中の経費がずいぶん大きくしかも不透明ではあるのだが、そのアーティストへお金を払うこととなる。逆に考えて、アーティストにお金を払ってもいいなと思えるものについては、借りずに買うし、レベルによっては中古で買うし、ものによっては借りて(今どき)カセットテープにダビングする。

パソコンソフトのシェアウェアも、納得すればお金をわざわざ振り込む手間も惜しまない。納得しなければ試用期間で使うのをやめる。これも作者にお金を払ってもいいと思うかそうでもないか、というのが判断基準だ。いやいや払っているのはWindowsくらいで、こればっかりは仕方ない。

198,000円の商品を19,800円で販売したらしい。相手の弱みにつけ込んでいくのも一つの生き方だが、こっちが納得するだけのお金を払って、相手も納得して売る金額を決めて、それらがうまく折り合って取引が成立すると思う。こういうことが、フェアな条件でお互いが納得して行われないと私は落ち着かない。

だから、レジで店員が安く打ち間違ったら迷わず指摘するが、相手が安く打ち間違ったのをうまく直せずそれでいいと言ったならば、向こうがその値段で売るというのを止めるまではしない。卑怯とかそういう次元ではないのかもしれないが、納得すればお金を払うということは、資本主義では当然の営みだと考えている。

■2003/11/18 (火) リピーターの増やし方

サイトのアクセスを増やそうとして、相互リンクとか各種紹介とか、来てもらえる人を増やそうという動きがある。しかしこれらは、その時1回目に来る人を増やすのには効果があるが、それが定着するかはまた別問題である。定着しなければ、その日のアクセス数の増加は一過的な嵐で終わる。

1回目の訪問で、また来たいな、と思わせることが重要だ。これは、次来たときにも自分にとって有益な情報があることを期待させることと等価だ。そうすると、例えば北海道の全温泉を網羅などの、一回では読み切れない大きなデータベースでなければ、日々更新するのが一番手っ取り早い。

更新すると言っても、意味のない文章が毎日更新されても仕方ない。次に更新されるであろうコンテンツが、時間を割いてわざわざ見に来てやってやろうと思わせるようなものでなくてなならず、それを決めるのは今あるコンテンツだ。コンテンツと書いたが、テキストサイトの世界で言うと、今ある文章こそが問題だ。

話をまとめると、アクセスを増やそうとすればリピーターの増加が必要で、リピーターになってもらうためには、次も見てやろうと思わせるコンテンツが、継続的に更新されていることが必要だ、ということになる。このステップを飛ばして、対外的な宣伝に力を注ぐ人が多くいるが、一見さんを爆発的に増やす以外の成果を生んでいないのもまた現実である。

実は同じ構図の話を5/11に書いている。並べてみるとその通りで、毎回はずれのない料理を提供しなければ、その店に足が向かなくなるのは当然だろう。料理はともかく、宣伝だけに力を入れる飲食店には、自分から進んで行こうとは思わない。

■2003/11/19 (水) 外来語を言い換えるより必要なこと

外来語47語の言い換え示すという報告があったようだ。内容が多少異なるので、共同通信のニュース時事通信のニュースを挙げるが、このカタカナ語にこの日本語を当てる、という試みについては、北海道新聞の読者の声欄に、次のような意見が載っていた。

ある高校生の意見は、カタカナ語を日本語に取り入れることで独自に日本語の意味を加えていくのを、日本語への言い換えが妨げる、というものだ。またある主婦の意見は、「アイデンティティー」「ノーマライゼーション」ではさっぱり意味がわからず、「自己認識」「共生化」と聞けばわかり、日本の地では日本語を使うべきだというものだ。

そもそも今問題になっているカタカナ語というのは、外国語の単語を日本語の会話で使うために生まれたものであろう。英語を教える身として強く感じるものであるのだが、外国語の単語が日本語の単語に置き換えられるというのは、日本人が抱きやすい誤解である。どんなにうまい置き換えをしようとも、異なる言語の単語の意味がイコールになることはありえない。

本来は「アイデンティティーの確立」ではなく「identityの確立」と書く方が、筆者が言いたいことをより伝えるのであろう。もしも英語がわからない人を読み手に想定するならば、identityと同じ意味になる言葉を対応表で調べるのではなく、筆者の日本語の語彙の中から、伝えたいことに一番ふさわしい言葉を探すべきであろう。安易な一対一対応は、その言語を知る人には違和感を、知らない人には誤解を与える。

そう考えると、identityをアイデンティティーに置き換えるところが、最も罪が重いのかもしれないと考えたが、私もそういう言葉を使わないわけではない。スペルがわからないとかいう理由の時もあるのだが、どちらの言語でも表せるのにカタカナ語を使うときは、意味を違うように捉えているのだろうと思う。そしてそれらを使い分ける。

あんまり厳密に考えていくと私の英語力のぼろが出るが、一つ例を挙げると、ボランティアとvolunteerは異なる。ボランティアは日本語化していて、奉仕活動をしている人の姿が頭に浮かび、「面倒だけどボランティアに行かなきゃならない」という表現が存在する。volunteerの方は、voluntaryを強く意識させ、辞書的な意味は「自由意志の, 自発的な; 志願の; 意志による; 任意の, 故意の; 」であり、どこにも奉仕はないし、強制されるはずがない。

本来日本人がするべきことは、こうした日本語と外国語の意味の違いを理解することではないだろうか。そこを曖昧にするから「わかったようなわからない」カタカナ語が氾濫するという問題が起こる。言葉というのは、受け手に伝わらなければ意味がないので、思いを託す言葉の意味を相手と共有できているかどうか、常に確認することが必要だ。お互いが違うものを想定する言葉を使って、いったいどんなコミュニケーション(communication)ができるというのだろうか。

■2003/11/20 (木) 宿泊拒否の問題に向き合う

九州には独特の病気がある。例えばHTLV-1を原因とするATLという白血病の一種などだが、九州地方にはこのウイルスを持っている人が多いと考えられる。このウイルスは普通の生活では感染しないと医者は言っているがわれわれは実際どうなのか分からない。そういう病気持ちの人が宿泊すると、他のお客様が感染するのではないかと不安になるので、九州地方から来た人は、当ホテルへの宿泊をお断りする。

などと言うホテルの支配人がいたとすると、九州地方の人はどう思うだろうか? 例に挙げた病気は、統計的に九州地方に多くて、普通の生活で感染しないことは本当だが、他はただの言いがかりである。結局謝罪することになったようだが、宿泊拒否の姿勢を変えず 熊本・黒川温泉のホテルと午前中には報じられていた。

みんなが思っているから、というのは、根拠がなくても差別の実態をなす。差別する人が既にいるからそこに迎合するしかない商売があるのか、それともそういう商売をする人がいるからそこに差別が生まれるのか、いずれを考えてもそうした差別に合わせる必要はなく、責められてしかるべきだ。

だいたいが、医者が感染しないと言っているのに実際はわからない、とはどういうことなのだろうか。その人が医者以上の専門性を有していると推測するしかない。断ったことについても、その後の対応についても、単純に想像力が欠けているとしか思えない。

正論を書いていくとそういう調子なのだが、ちょっと立ち止まって考えてみると、これから私が医者になったとして、患者となる人の多くは、もしくはある程度の割合の人は、病気といってもその程度の知識を、誤った知識を持っているのだろう。病気はやっぱり怖いものだし、病気の人にはできれば関わりたくないし、そうした背景を持っている人が多いから、今回のような問題が生まれてくるのだろう。問題の支配人も、以前にそのような苦情を受けたことがあったのかもしれない。

表に出てきた問題を批判して、それを悪だと断罪することは簡単だが、そこで終わるとむしろ現実から目をそらすことにもなりうる。根本解決するためには、口には出さないけれども心の中で思っていることをきちんと認識して、そうした気持ちを持つ人がいる現実をふまえた上で、それに対する対策をするべきであろう。その点で、医者からの発信というのはもっともっと多くていいと思うのだ。

■2003/11/21 (金) 医者を引き揚げる医局ってひどい

医学生も人の子である。つらい仕事と楽な仕事があって、どちらか選べるならば楽な方を選びたい。就職先に都会と田舎があれば、できることなら都会を選びたい。患者がたくさん来て色々な経験ができるところと、患者はあんまり来なくて、来ても慢性疾患で治るともなんともならなくって、しかし24時間呼ばれる可能性があるようなところと、どちらかを選べるとしたら前者を選びたい。

「医局」は色々批判の対象となっているが、医局に所属する医師の数は新たに入る学生の数で決まる。昨今、内科・外科・小児科・産婦人科などのいわゆる「つらい科」に入る学生が減ってきていると言われている。医師の数が少なくなると、派遣先の病院全てに医師を供給することができなくなる。色々なメリットがあるのでできればたくさん病院を持っていたい気持ちはあれども、ある病院から医者を引き揚げるという選択をせざるをえないときがある。

その病院にはもちろん全く罪はない。しかし最後に現れた現象だけを見ると「医局は突然医師の引き上げを通知してきた」「代わりの医師は来なかった」「必死に交渉したが取りつく島もなかった」となり、ここだけが報道されることになる。引き揚げられた立場でドキュメンタリーを作るのにはこれでいいのだろうが、それは「医局ってひどいところだ。地域住民のことも考えないで」という印象を与えるだけで終わる。しかしどんなに地域住民のことを考えたとしても、いない医者は派遣できない。

52%の病院で医者が足りない。という報道を見た。唯一の医者が倒れて無医地区となった町の特集が続いた。医者が足りないということは、医者が少ないのか、病院が多いのか、医者が多い病院があるのか、基準が間違っているのか、現状を正しく理解し分析することが必要だ。それをふまえて今後の改善案があり、報道はそれを知らせるべきだと思う。医者が足りないと片方で言っておいて、医者を引き揚げるなんて医局ってひどい、との印象を与えるのは、自己矛盾を上っ面だけでごまかしているだけだ。

■2003/11/23 (日) 最期に向き合う医療は

<最期はどこで?>自宅希望は2割だけ 厚労省調査より。

 その結果、国民が望む最期の場所としては「病院」が38.2%で一番多く、次いで「老人ホーム」が24.8%。「自宅」は22.7%に過ぎなかった。「自分の家族が療養してほしい場所」でも、最も多かったのは「病院」の41.2%で、「自宅」は26.7%だった。

 自宅以外を望む理由には「家族の看護などの負担が大きい」「緊急時に迷惑をかける」「経済的負担」「最期に痛みで苦しむかもしれないから」などが挙げられた。

 一方、医師の49%、看護師の41%、介護職員の38%は「自宅」での最期を希望し、一般の国民との違いが際立った。「住み慣れた場所で最期を」「家族との時間を多く」などが主な理由だった。

自宅以外を望む理由について、家族の看護の負担が大きい、というのは避けようのない事実であるが、家族との時間を多く、というメリットも同時に存在する。経済的負担については、入院してもお金がかかるので、本当にお金がかかるのかはよく検討する必要がありそうだ。保険の負担も含めた総医療費で考えるべき事柄だ。

緊急時に迷惑をかけるのは、医師が駆けつけるまでに入院中のようにはいかない、ということだろう。往診とか訪問とか、本当に定着させたいのであれば、その保険点数を高くする、つまり儲かるようにすることだろう。しかし、死に行く人が死にそうになったときに、医者がすぐさま駆けつけて救命措置をする、というのは違うイメージなのだろう。少なくとも私が死ぬ時を考えると、それが豊かな死に様だとは思わない。

痛みで苦しむかもしれない、というのは、知識が行き渡っていないと考えられる。癌の末期の疼痛のコントロールについては、日本では遅れていて、もしくはかつては遅れていて、正しく使えば大部分の痛みをコントロールできるという。これはかつての誤った少量の使用がもたらしたひどい状況を、人伝に聞いてそれを信じている人がいるのだろうと推測される。

可能であれば、私も自宅で死にたいと思う。医療関係者を代表するものではないただの個人的な意見だが、もうどうにも死ぬ運命で治療しようがないとすれば、病院で最期を迎える意義は全く見出せない。一般的に入院患者が家に帰るのは良くなってきたときであるが、無言の帰宅をする前に帰宅する、という選択はあってもいいと思う。

これを医療従事者と患者・家族が包み隠さず話し合うことは、医療の敗北ではなく、むしろ究極の医療だと思う。「死に方」というのは、どう生きるかという「生き方」だという考え方だ。しかし、死と向き合うのを避ける国民性は「最期まで病院で治療を尽くした」という満足感というか、excuseを選択しがちで、この点に関してだけは無宗教が問題だと考えている。

■2003/11/24 (月) その乳癌手術するだろう 医療の最終像は

乳癌で手術しなくて何が悪い、という帯の本を見かけた。ちょっと手に取って読むと、stageIIIbという、かなり進んで発見された話だった。医者は一様に手術を勧め、手術しないことは選択肢にないような雰囲気であったという。確かに私が勉強したレベルで考えても、間違いなく手術を勧めるし、手術なしでは命の面でも腫瘍の部分についても、悪い結果を招くことは容易に想像できる。しかし著者は手術をしないことを選択した。

そこに選択の余地はあるのだろうか、というのが私の疑問だ。再発を防ぐために放射線とか化学療法をするかどうかは、副作用の問題もあるので確かに考えるところであるが、既にある程度の大きさになっている腫瘍を取らない方がいい、という選択肢のいい点を挙げることができない。インフォームド・コンセントは最近の流行だが、いい点と悪い点がなければ選択肢として示せない。私の想像力が足りないのかもしれない。

読むにつれ、医師の態度の問題が大いにありそうであった。しかしそれは、医学の知識として「それはないだろう」というものではなく、医師患者の間に信頼関係が作られていないことによるもののように感じた。その関係を作るべく、これまでの人生の背景について話をする、例えば家族や仕事など、そうしたことを医師は患者と共有する。また、治療方針についても、患者の意向を確かめながら、医学としてはありえないようなことであっても、しっかり話し合っていく。

こうした解決法がまずは頭に浮かぶわけだが、果たしてこれをするのにどれだけの時間が必要なのだろうか。いくつかの病院で医師の仕事ぶりを見学したが、医学的に絶対こっちがいいだろうということにまで、じっくり話をするような余裕はなさそうであった。また、家族や仕事についても、本当に深いところまで話すような時間もなさそうであった。

離れた親戚だが、乳癌が発見されたが病院に行かなくなり、宗教のようなところでお祈りをしていたが、癌は全身に転移し亡くなった、という話を聞いた。こうした医療からはずれた例も確かに存在する。また、いい医療のためにはスタッフにもっと時間を、という問題を解決するにはスタッフを増員するのが必要だろうが、そうするのに必要なコストを負担するほど望んでいるのか。いったいどういう医療が最終像として望まれているのか、私は知りたい。

■2003/11/25 (火) 「抜本的な」地域の医師確保対策

テレビを見ていると、北海道のお役人が医師不足に悩む地域の実情を紹介した後、抜本的な対策を提案したというのでよく聞いてみた。それは、医師免許を取ったら一定期間地域での勤務を義務づける、という案のようだ。一定期間が10年とかだと確かに効果があるだろうが、実際はその年限だけ勤め上げると地域から医者がいなくなって、批判される「医局」が医師を派遣しているのと何が違うのかよくわからない。「抜本的」というのであるなら、医師免許を取ったら一定の割合で一生地域勤務にする人を決める、であろう。

何でもできる医者が地方のあちこちの病院にいることは、実は非常に効率が悪い。例えば、耳も鼻も診れるし、妊婦も子どもも診れるし、内科はもちろん手術だってできちゃう医師は、漫画以外ではなかなか存在しない。例えば地域医療を志した内科医が、その辺りで医師が自分一人になる町へ行こうか考えたときに、内科以外の患者がそこに来るのは明らかで、赴任を躊躇する理由にもなるだろう。私の個人的な感想だが、田舎に行きたくない理由は、最先端の医療から取り残されるというよりも、何でも自分の責任になるのではないかという恐れの方が大きいように思う。

抜本的に解決するもう一つの方法は、医師の分散を防ぐものである。全国民の身近に何でもできる医師がいるのは理想だが、医師の数、一人前になるまでの年月、北海道のような広大な土地の人口密度などを考えると、次善策を考えなくてはならない。その一つが医師を動かすというアイディアで、医師が一人であっても三日に一度で循環すれば三つの病院に医師がいることになる。距離的に可能であれば無料で通院バスを走らせ、患者を医者がいる病院に動かせば、各々で医師を呼ぶよりよっぽど簡単だ。バスを走らせるのと、医者を呼んでくるのと、どちらが安くつくかは明らかだ。

■2003/11/26 (水) 控えめな医療

医者はミスをすると訴えられて負ける、と洗脳されている。最近の医学部での教育は、二言目には「これしないと訴えれたら負けますから」だ。医師たるものには応召義務があって、頼まれたら診療を断れないのはもちろん知っているが、危ない橋を渡りたくないと思うのもまた当然だ。

こんな小さな子どもだからとか、眼なんか診たことねぇよ、とか、そういう素人目にもわかる言い訳ができない状況では、目の前にいる人の頼みを断ることは困難だ。しかし、実際の診療であれば、何をするのかしないのか、専門的な判断になるほど医者以外から文句を言われることは少なくなる。

例えば、中心静脈にカテーテルを入れるか入れないか、そもそも「中心静脈」を知る患者は少ないだろうから、この全身状態なら入れろとか外野から言われる心配はまずない。医師が一人であれば、そこでの医師の判断で決める。その判断は医学的なものであって、その処置をすることが、患者にとっていいのか悪いのかをメリットとデメリットとそれらの確率を総合して考える。

中心静脈カテーテルの合併症に、血管を突き破る例があるのは確かに知っている。メリットとデメリットを判断すると、たまにある突き破る例を恐れてその処置をしないことは、患者にとってマイナスだ。そこに登場するのが昨今の医療ミス報道で、その「たまにある」マイナスの出来事が大々的に・・・と考えると、そもそもこの処置をしなければいいのではないかと思ってみる。

救急でそれをやらなければ今にも死ぬだろうなど、よほど明らかなことでない限り、しない処置を訴えられることはない。その医者の経験不足で、そんな処置をしたことがないと言った場面を考えてもいい。中心静脈カテーテルを一度もやったことがない医者がいて、指導する医師がいない状況でそれをやるのか断るのか。損得で考えれば、これはやらない方が無難であろう。

パターナリズムがなくなった、つまり患者の立場が強くなって(ここまでは結構なことだが)医者の言うことを聞かなくなった現実がある、と半熟先生も11/25にご指摘だ。医療過誤報道と訴訟については詳しく言うまでもないだろう。それで誰が得をしているのか、それが本当に患者のためになっているのか、そもそも患者のためというのは患者が言うような医療を提供することなのか。リーダーシップの強い医者も実はいいのではないか、と思ってみるのだった。

■2003/11/27 (木) パワー不足

本腰を入れない物事はなかなかうまくいかない。100%の力に対して出る結果を100%としたときに、50%の力を入れると50%よりも少ない結果が出がちである。その物事に打ち込めば打ち込むほど、見える部分が多くなるから効率よく成果が出る。四六時中考えていれば、ふと思いつくチャンスも増える。

一方で、多くの種類のことをやろうとすると、一つのことに割ける力は減少する。一つのものだけに取り組むよりも、多くのものに興味を持つことが心を豊かにすると考えるし、第一にしていて楽しい。しかしそれは、各々の中途半端で効率を悪くして、全体で得られるものを少なくするかもしれないと考えた。20%ずつ5つのことをやろうとすると、結果を合わせても100%より少ないという意味だ。

相乗効果、という考え方と似ているが逆向きな、そんなnegative thinkingな今日。

■2003/11/28 (金) インフォームド・コンセント 義務教育

インフォームド・コンセントというのが最近の流行だ。「納得診療」などの苦心の訳が見られるが、informは「知らせる」という意味だし、consentは「同意」という意味である。つまり、よく情報を与えられた状態で同意する、というのが言葉の意味だ。つまり最後に同意書にサインするところは問題ではなく、そこまでの過程で十分理解できているかが問題だ。

YOMIURI ON LINEの「危険性も説明 同意得る」というタイトルに違和感を覚えた。まるで、危険性を説明しないで同意を得ていた、もしくは同意を取るのも曖昧だった、と言ってるようにも見えるからだ。それはインフォームド・コンセントからはほど遠く、まさに同意書を取るために同意書を取っていることになるからだ。

記事の内容は、安全性や結果など、これまでに確認されているものはそう言うし、まだ途中の段階ならば途中だと言うという、至極当たり前のことだ。確かに日本人は、自分が実験台になるのは嫌がって、しかし最新の治療法を求めようとする。医学生に診せるのは断って、ベテラン医師を求めるという例もよくある。みんな最初からベテランなわけないのに。

そういうレベルの国民意識が変わっていって、未確認だが良さそうなことを試してみるとか、体に害が及ばない範囲で新米医師・医学生に経験させるとか、そういう雰囲気になってくれると医療側はやりやすい。やりやすくなるのが目的ではもちろんなく、医者や医療のレベルの向上につながって、それが結局患者国民の利益に結びつくのだと思うのだが、とても実現されそうなことにも思えないのが率直な印象だ。

このような、目先の小さな次元で損になることでも、全体の大きな次元で考えると得になることは、みんなでやればすごく合理的だと思うのだが、こうした思想を教えることは教育以外では不可能であろう。ゆとりだの学力だの言うのも大事だが、他では学ぶ機会がないことを国民全部に知らしめるのが、義務教育の義務たる意義だと思うのだ。

■2003/11/29 (土) 黒川温泉幼稚園 江藤にたかる女

親がHIV感染者だからといって、子どもの入園を拒否した幼稚園があるという。HIVに感染するような、あんなこととかこんなことを幼稚園児がするとか、その親同士がするとか思ったのなら、非常に卑猥だ。しかし、一番罰せられるべきは、うつりもしない感染症を恐れてその幼稚園に入らないと言った親とか、それを周りに言いふらす親である。

巨人軍江藤選手を訴えた女性がいるという。無理矢理酒を飲まされ、性的関係を強要され、野球選手という地位を利用した不法行為だと訴えているようだ。まず、無理矢理酒を飲まされたということだが、胃管を入れられアルコールを流し込まれたのでもなければ、無理矢理といっても飲んだのは自分であろう。だいたいが、酒を飲むような場に行っていること自体に責任がないとは言えまい。次に性的関係だが、そういうつもりが全くなく野球選手とお酒を飲みにペンションへ出かけていった、という風には私にはとらえられない。そもそも、野球選手がそういう地位であるとは私には認められないが、その人が野球選手に価値を置いているからこそそういう場に出かけて、しかしそこで首尾よく行かなかったので訴えているのだろう。野球選手に価値を認めていない人は「野球選手という地位を利用した不法行為」というフレーズは思いつかない。

■2003/11/30 (日) 自慢する人の特徴と対処法

自分ができることを周りにひけらかす人がいる。しかし個人的な話を周りに言うのは要は自慢で、そんなの知ったことじゃないと思ったり、比較し劣っていると言われているようで、不快に思うことが多い。逆に自分がされたら嫌な気分をするはずなのに、どうしてそんなことをするか考えた。

ひけらかすには二つの条件があって、一つ目はそのことに価値があると思っていることで、二つ目はその価値を他人に認めさせないと自分が不安に思ってしまうことである。

例えば私は「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ・・」を最後まで言えるが、別に価値があると思っていないので、他人に言うことはまずない。例えば家が金持ちだということをわざわざ他人に言う人は、家に金があることを他人に知らせないと、自分が成り立たないような気持ちにあるのだと思う。自慢の本質は不安で仕方ないからだと考える方が、特に理不尽な行動を取るところなど色々納得がいく。

応用すると、自分の自慢をしてむかつくなぁ、と思う人がいたときの対処法はこうなる。まずはその内容に価値があると思っていることがわかる。価値観という言葉があるとおり、その人の価値観がそうだという話であって、価値観の違う相手の言うことは「ふ〜ん」と聞き流せばいい。次に、それを他人に伝えて自分を認めてもらわないと、その人は不安でたまらないということがわかる。周りに言って認められたり賞賛されたくてたまらないと思っている。

こう考えると、むかついていたその人が、むしろ哀れに見えてくる。こうしてやり過ごせると、人生結構楽だ。