最北医学生の2004年 1月の日常

■2004/01/01 (木) ハレとケ 喪中の考え方

今年は喪中なので、年賀状とかおめでとうとかを自粛するものだと思ってそうしていた。その理由は、正月がハレで、喪はケだから、と漠然と思っていて、正月からデパートが営業したらハレじゃねぇよ、でもケなのか?と思い調べてみた。そういえば、早速神社に初詣に行ってしまったではないか。しかも仏教徒なのに。

ケとは日常を指し、ハレとは非日常を指すという。ハレは祭りや正月、今では式などもそれに含まれる。非日常という意味では葬式だってハレだという考え方もある。ケとは気であり、気が病むと病気で、ケガレは気が枯れるという意味で、死を指す考え方が出てきた。まとめると、日常がケ、日常ができないほどに落ち込んでいくのがケガレ、それを奮い立たせようとする祭りなどがハレとなる。デパートが正月早々営業するのはケと言える。それとも初売り特別セールだったらハレなのか。

喪中については、なんでも1年だとばかり思っていたが、故人との関係によって、例えば私のように祖母の場合は、3ヶ月とする考えも喪に服さない場合もあるという考えも、色々あるようだ。そもそも、死に悲しんでいるときには、喜びの場に顔を出さないというのは自然なことで、そうした場に出ることを社会的に免除して死の受容を行う、グリーフケアとしての側面もまた評価できる。死穢の考え方もまた、大いに関係しているであろう。

私の場合、既に3ヶ月は経過していて、だいたいが家族で初詣に行くくらいなのだから、伝統的な「喪」に服しているとは言い難い。しかし一方、百箇日とか納骨とかの記憶もまだ新しく、祝いの場に出るべきではないような心情もある。「喪中だから」という動機ではなく、個別のことに対して「遠慮したい」という気持ちがあればそれに従い、そうでもないと思えば例年通りに過ごしていいのではないか、というのが今の感想だ。

だから年始の挨拶も、したいと思った人にはするし、実際年末のうちにいくつもeカードで送ってるし、親戚には年賀状は出さないし、初詣には行くし、3月の結婚式にも行くと思う。何事も、由来を知って、自分の心情と照らし合わせて、そして行動を決めたいと思っている。日頃考えることの少ない、喪とハレについて、見直してみるのもいいものだ。

なお、POSTEIOS研究会は、真宗の私にとっては非常に勉強になるサイトだ。その中の喪中 −年賀欠礼について−にはなかなか考えさせられた。実際祖父の時にあったのだが、仏教式の葬式の後に塩で清める、その節操のなさ加減などは私には許せないところだ。

■2004/01/02 (金) もっと合戦を

視聴率が下がったとかいう紅白では白が圧勝した。紅白歌合戦、というのだから、もっと合戦してくれればいいと思う。具体的には剣道などと同じ団体戦方式だ。

わざわざ紅白交互にやっているのだから、そこで対戦する。いちいちボールを入れるとなかなか面白いが、それこそ宣伝しているデジタルなんとかで十分可能だろう。11人の審査員もその都度投票する。

そうすると、紅白各31組の勝負があって、例えば17勝14敗で白の勝ち、などとなる。それの内訳を公表するかはまた問題だが、公表するとそれはそれで面白いと思う。誰それはそんなに人気がないとか、あの人よりもあの人の方が票を集めるとか、でもそれは相手が悪かったとか、そうしたことをあーだこーだ言いながら年が暮れる。

もちろん、こうした評価しようのないものの評価が難しいことはよく知っている。天童よしみの「美しい昔」とSMAPの「世界に一つだけの花」の間に優劣をつけること自体がナンセンスだ。歌の好みなのか、歌が上手だったのか、パフォーマンスに優れていたのか、自分がファンだからなのか、盛り上がったからなのか、どんな項目をつけても主観が入ることは避けられず、結局本質的には主観で主観を比べるものになるのがこうした審査だ。

そうするとまた、審査方法が問題だとか苦情が来るに違いない。公平になんかなりやしないのに「不公平だ」などと言うのだ。だから今のような、思い出したように最後に審査、というのでいいのかもしれない。スポーツで審判が目立ってはいけないように、歌を聴いて楽しむ場面で勝負だ審査だと言わない、「一応歌合戦」の今のようなものが実のところは適当なのかもしれない。

■2004/01/03 (土) 年賀状を書かない関係

私は無精で年賀状を書かないが、機能としてはサイトのアドレスを教えれば済むのかと、ちはるの多次元尺度構成法Reiko Katoのお仕事日記を読んでなるほどと思った。年賀状は、普段連絡を取らない人に連絡を取る手段となっていて、こちらの消息を知らせるという目的に関しては、サイトを見てもらうのが一番早い。また、年賀状だけのつながりであれば、逆に考えるとなくなっても普段は問題がないことも示している。

年賀状を出すかどうかよりは、メールアドレスの変更お知らせの方が、ずっと重要な連絡であって、うきうきしてメールを出して、駄右衛門君から返って来たメールを受け取ったときのあのやるせなさと言ったらない。サイトの閉鎖とか、実は移転とかで、連絡が取れなくなるのも大きな関係喪失だ。

サイトのアドレスを教えれば済む問題については、サイトバレ問題が絡んでくる。しかし、サイトバレできない相手とそこまでして関係を持ち続けること自体がありえない。また、個人的にお世話になったな、とか、ぜひとも一言言いたいとか、そういう相手に対しては、eカードを送ることが一番バランスがいい。挨拶性と形式性にちょっとしたお洒落な画とメッセージを添えられて、パソコンを扱うのは私にとってはずいぶん敷居が低い。

もう一つ、普段からケータイメールで連絡を取り合っている人には、年の最後か初めのメールで「今年も/来年もよろしく」と書くまでのことで、特にわざわざ住所を聞き出して葉書を送るには至らない。その手軽さがまた関係を維持しているのであって、無理に慣習にとらわれる理由が見あたらない。まとめると、eカードを出す相手、サイトを見てもらっている相手、ケータイに一言入れる相手、年始の挨拶をしない相手に分けられる。

それはそれとして、私の両親がやるこだわりの木版画年賀状は、なかなか特筆すべきレベルであって、とても気に入っている。ああまですれば、サイトとかメールとかでは代えることができないものが伝わっていいと思う。尊敬するが私はやらない。

■2004/01/04 (日) 交通事故死亡者数減少、で喜んでいていいのか

交通事故の死者数が減少し、交通事故発生件数と負傷者数は若干増えているという。内訳をみると、若年層、乗車中、飲酒運転、夜間の死亡事故がそれぞれ大きく減少したが、65歳以上と高速での事故が減らない、または増えているとある。これらを矛盾なく説明できるのはどういう状況だろうか。

飲酒運転は、一昨年6月の飲酒運転厳罰化というのが説得力がある。全ての飲酒運転は悪いとわかっていてやっているので、やめさせることができた法律は、その役割を果たしている。夜間の死亡事故は、飲酒運転の多くが夜に起こることを考えると、同じ原因によるかもしれない。若者ほどスピードを出す運転をする傾向があるとすると、スピード違反の取り締まりを厳しくして、その結果若者がスピードを出さなくなったという説が考えられる。印象だけだが、昨年の取り締まりは例年より多かったような気がする。

65才以上の事故が鈍い減少率、というのは、以前書いた星座別と同じように、65才以上の運転者が増えてるのか減ってるのか、それに対する割合で考えるべきだ。高齢化が進み、65才以上の運転者数が増えていれば、事故が減らないのもうなずける。65才以上の運転者数は免許の保有者数で推定されるが、免許を持っている人のうち実際に運転する人の割合とか、その頻度とか、厳密に考えていくとそれらの変化も検討しなければならず、そこまではさすがに無理だろう。

死亡者数が減少したところに目が向きがちだが、事故の件数と負傷者数が増えているのは問題だ。つまり、事故の程度が軽くなったか、これまで死んでいた人がケガで済むようになったのか、ということである。前者はスピードを抑えたということが一つ誇らしげに語られそうで、後者であれば車の安全性能の向上が挙げられる。エアバックとかABSとかGOAとか衝突安全基準とか、そういう車が普及してきた結果、実際事故は多く起きているのだが、死に至るケースが少なくなってきているとしても矛盾はない。乗車中の事故が減っていることも、安全性能の向上がカバーしきれない高速道路での事故の増加も、これを裏付けると言えそうだ。

つまり、事故の件数は増えたが、車の安全性能の向上のためこれまでの死亡者が負傷者数にシフトした、というのが本質ではないだろうか。若年層、乗車中、飲酒運転、夜間に減ったのは大いに結構。しかし、それにもかかわらず事故の総数と負傷者数が増えているのは、もっと対策が必要なのではないだろうか。本来はそこまで突っ込んでもらいたいところである。

医学生としての視点も少しつけ加える。ケガで済むのは、救命処置の向上かもしれない。ドクターヘリとか、救急車の性能とか、救急対応病院の増加とか、技術の向上、BLSなどそこにいる人が人工呼吸とかをするよう免許取得時に義務づけた、などなど、そうした対策の結果かもしれない。北海道の高速道路は「車より熊が多い」と悪口を言われたりするが、病院数と広さから言って、高速道路の整備は救える命を増やすことが予想される。そうしたケースの頻度と建設のコストのバランスを考える必要があるのはもちろんだが、そうしたプラスの側面は民営化の対極に常に存在する。

救急の実習をやらせてもらい、こういう人が運ばれてきたらこうする、というイメージが頭に入った上で、人気のない田舎道を走っていて、あぁここで事故が起きたら助かるものも助からないよなぁ、とふと思うことがある。ここで言う田舎というのは、そうした必要な処置ができる病院まで急いでも1時間以上、さらに救急車が来るまでの時間がかかるようなところである。こうした意味で、生命って平等じゃないんだなぁ、という考えも浮かんできて、ハンドルを握る手にも力がこもるのだった。

■2004/01/05 (月) オフレポからオフ会を考える

オフレポが思いの外大人気だが、その理由は何だろうか。

初めてあるサイトを訪れたときに、メインコンテンツの次に私が見るのは、自己紹介にあたるページである。その文章に興味を持った次には、その文章を書いている人に興味を持つからだ。オフレポは、当然オフ会で起こったことが書かれるわけだが、いつも一人称でしか語られないその人が、いったいどういう人なのか、本当はどんな姿なのかが、三人称的視点から垣間見えることも期待できる。そうした「人」に対する興味が一つ考えられる。

同じできごとを異なる視点から見る点である。普段、あるできごとについての記述は、ある一人の人の視点によって語られて、あぁそういうもんかと思って終わる。しかしオフレポでは、同じ場を同じ目的で共有した人が、確実に違う文章を書いてくれるという点が新鮮だ。片方でこう思っていたのに、もう片方ではこう思っていたとか、「あの人の心の内を知りたい」という人間の不可避的な欲求をちょっと満たしてくれるので、実は一番楽しみにしているのは当人たちなのかもしれない。

オフ会というのはもちろん会うのがメインであるわけだが、それをどう書くか、というのも、サイト上での存在がテキストを書くことで成り立っている人たちにとっては重要で、そこまでを含めてオフ会だ、と意識する人がいてもいいと思う。そして、会って感じたことをサイトの後側に意識して日々読んでいくのもまた楽しみで、会って、書き、そして読むのを一つのまとまりとしてとらえると、単に会っているだけの時間にとどまらないものになり、だからこそそれに大きな価値を認めるのだろう。

その価値の大きさが、読んでこぼれてくるような、そんなレポが書かれていれば、読んだ人も何かパワーを感じることができて、だからこそ足を運ぶ人がたくさんいるのだと考えられる。そんなパワーが伝わるような文を書きたいし、そんな文を書けるような出会いを今年も期待している。

■2004/01/06 (火) 守られる規定を作ろう

先日「比較的安全」と仰ったあの代表が、「治安状況が極めて悪く、『非戦闘地域』と認められないなら、反対することも十分あり得る」と述べたらしい。元々信じてなかったが、もう信じられない。いや、それも予想通りなのかもしれないが。


手術中の乳児に麻酔薬を誤注射について、誤注射でその乳児に起こった問題点などは、私などではなく専門家の方におまかせしたいが、最後の文章が本質的かもしれない。

手術用の薬剤は本来、容器に名前を表示したラベルを張ったうえで、手術での正規使用後は残りを速やかに廃棄するよう、院内のマニュアルで定めている。しかし、今回は、いずれの規定も守られていなかったという。

再発防止に努める、というのは誰でも言える言葉だが、それは規定を作ることにとどまりがちで、守られる規定を作ることと、守れているかをチェックすることの方が重要だ。また、ミスをした人の責任を問うだけでは、次の人のミスは防げない。一人のミスを他のミスを防ぐように使うことや、そうしたミスを起こしてしまう個人以外の問題点は何なのか、というあたりを分析しなければならないだろう。

訴訟対策として注目されがちだが、実際しっかり対策をしてミスが起きなければ、患者の利益に結びつくことは間違いないのも確かである。

■2004/01/07 (水) 免許剥奪すべし/危険な予防接種/二度目の間違い

HIV「献血すれば判明」 作家のHP、誤った勧めのニュースを見て、急遽更新。そんなことをしたら、献血を通じてHIVに感染させる可能性を飛躍的に高めることになり、感染した人から殺人者呼ばわりしても文句は言えないだろう。医療ミスで訴えるより、こうした多くの人に影響を与える誤りを犯した人の方が、医師免許剥奪にふさわしいと思う。こういうことは言わない主義なのだが敢えて言う。こういう白痴は医者として生かしておけない。

インフルエンザ予防接種副作用で乳児死亡というニュースがあったのでよく読んでみた。予防接種のメリット・デメリットを、予防接種を受けないときと比べてどうなのか、統計的な考え方の登場かと手ぐすね引いていたが、タイトルだけが誤っているようだ。正しくは「インフルエンザ予防接種副作用で乳児死亡」の疑いがあると言っているだけで、これを読んだ親が子どもに接種するのをやめたくなるような印象を与えてはいけない。そして結局、本当にインフルエンザ脳症で死んだりする人の方が増えて、全く本末転倒なのだ。

アルマールとアマリールの混同が全国的にはやっているようだが、「よく注意して下さい」と呼びかけるだけではダメだという典型的な例が報道された。私が思うに、一例目の間違いは、間違ってしまうこととして仕方ないと思う。もちろん仕方ないと言ってしまっては語弊があるのだろうが、それが問題であると知られていて、いくらでも対策が取れたはずなのにやってしまう方は、それこそミスだと責められてもいい。わかっているけどどうしても避けられないことと、わかっているのに対策不十分で避けられないことの間には、絶対区別すべき、大きな違いがあると思うのだ。

■2004/01/08 (木) 外科医の労働環境について

私が胸部外科医:若手の25%が「当直月10回以上」を読んだときには、まぁそんなものなのだろうなぁ、という感じを受けた。外科を選択するのは私の中で有力だが、そうすればこんな感じの生活を選択することになるだろうとは予想している。これから何が言えるのか、の部分については、各々の立場もあるので言えないところがあるようにみている。

「若手を都合のいい労働力として使ってきたのがいけない」とある。確かにそれでなり手を減らし、ますます悪循環に陥るという問題点を、若手じゃない外科医が持っているのは自然なことだ。しかしそれをどうしようというのか。若手ばかりがよくないからと言って、若手の方が先に帰宅し、40とか50才の先生方がガシガシ当直すればいいのか。子どももいたり家庭も持ったりして、という医師と、20代の独身の医師を同様にする方がいいことなのか私にはわからない。

労働時間についてあるが、週の「超過時間」が20〜50時間という。これは法定の40時間に上積みする分であって、都合週60〜90時間となる。これを5で割るのか7で割るのかは議論のあるところだが、60を5で割ると1日12時間、90を7で割ると1日13時間ほどになる。これだけの労働が必要とされていれば、若手の負担を若手以外で共有したとしても、単に医者の数が足りないのと考えるのが自然ではないだろうか。

つまりは、看護師のようなシフト制の話だが、当然病院側にそれだけの外科医を雇う財政的な余裕があるのか問題だ。そしてそれが解決されたとすると、8時間の手術を執刀した医師はその晩は家に帰るのだろうが、そこで急変などあった場合に面倒をみるのは、チームの一員ではあろうが手術の時には家で寝ていた医師ということになる。この考えが古典的でよくないのだろうが、そこを一貫してみていきたい医師とか、そういうときにやはり主治医の先生をと言う患者や家族などはいないのだろうか。

次に収入の問題であるが、確かに高給に見えたりするかもしれないが、非常勤であれば社会保険、健康保険、年金その他、全ては自分持ちである。アルバイトだけで食っていくならなおさらだ。また、たいていの医者に言えることであるが、退職金がもらえるような勤続何十年というのはごくまれで、他の職種と比べるのなら、退職金が含まれている分高いと計算しなければ不当である。また、土日をつぶして生計を立てるアルバイトが病院側でも必要とされる構図についても、特に知られてはいない。

もっと労働時間が短い科の医師との比較で考えてみる。日本の公立病院は非常に「平等」で、ここで報じられたような労働条件であっても、9時→17時とまではいかなくても8時→18時に病院にいる生活をする科の医師であっても、給料その他の待遇は同じである。こうした時に医学生がどちらの科を選ぶのか、というのは言うまでもないだろう。お金も時間もかかる科の医師の給料を高くするのがいいことだ、とは言い切れないが、少なくとも問題点ではあるはずだ。

そうしたことをこれからどうしていくつもりなのか、という問題提起をしたのがこの学会調査だったのであろう。今後の変化は注目されるし、私の人生選択のための時間もあまり残されていない。


<本物の医者による関連リンク>
同じ話題について、テキスト界の大御所じっぽ先生のDoctor's Ink。外科医のザウエル先生さーじゃん先生のページです。

■2004/01/09 (金) 集団の性質・サイズと民主制

集団の意思決定方法にはいくつかある。

一つは、みんなで話し合って決めようというもので、直接民主制と言ってもいい。これは、各人の意見が反映されるというメリットがあるが、ある程度以上の規模、例えば100人以上とかになると逆に難しくなるのがデメリットだ。仮に100通りの意見が出たところで、それじゃぁどれにする、という話が丸々手つかずで残っているからだ。

次に、代表とか有志が話し合って決めるというものがあり、間接民主制と言ってもいい。これは実際に物事を決めるのが限られた人数なので話はうまく進みやすいメリットがあるが、どうやってその代表を選ぶのか、その代表者が偏った考えではないか、そして代表以外の人が、決定した事項に従ってくれるのか、といった点がデメリットだ。

もう一つ、みんなで誰かの言いなりになるという、いわば独裁体制がある。独裁というと、私腹を肥やして逆らうと殺されそうなイメージがあり、「ワンマン」とはたいてい良くない評価だが、その人が話をよくわかっていて、しかも全体のことを考えられるような人であるならば、実は最も良い方法だとも考えられる。そのワンマンへの負担が集中するのは避けられないが、連絡・調整などにかかるロスがないため、全体の労力の総計は最も小さくなるであろう。

これらの方法を、集団の規模と、その目的と、決めるべき内容とを考え合わせて、どれが最も適しているかを考えることは重要だ。会議をやってうまくいかない理由というのは内容ではなくこうした方法論だ。そういうことはどこの専門で、誰が教えてくれるのかはわからないが、私は狂ったように盛んだった生徒会活動などで自然と身につけてしまった。そういう人がいるかどうかで、その集団の効率性は大きく左右される。

■2004/01/10 (土) 不在が意味するものを想像する

例えばメールで、お互い即レスを返してやりとりをしているときに、突然返信がなくなったら色々なことを考える。内容的にきつくて返せない場面かもしれないし、単にメールする状況じゃなくなったのかもしれないし、機器の不調かもしれない。それがどれかを後から伝えることはできるけれど、本当のところどれであったかなどわかりやしない。そうした中で相手の状況を想像することは楽しく、そして時に切ない。

そうしたレスの欠如 absence が意味するものを考えて、あえて absence を作ることもできる。これもまた、わざとに作ったものなのか、それとも不可抗力的にそうなったのかはやられた方にはわからないので、どちらなのかを考えるのも含めて色々な思いがめぐる。その思いがめぐることを想像しながら、あえて absence を作り、しかし同時に同じことを相手にされているかもしれないという相互関係を頭の隅に置く必要がある。

裏の裏をかく、という言葉があるが、お互いが相手の反応を予想して行動を決めていくと、両者の思惑とは全く違う行動だけが表に出てくることもある。そしてまた、表に出たものから相手の感情を推測していく。うまくいけばそれは人付き合いの醍醐味だが、時に悪い方へ悪い方へと考えていき、現実とは正反対のことで頭がいっぱいになってしまう場合もある。

結局は、それを想像して、ないものに対して悲劇的な決めつけをするかどうかは、信頼関係によるのだと思う。信頼関係とは「信頼できない人だ」とか「信用がない人だ」などの表現で想像されるような信頼される側の相手の属性のことではなく、信頼する側の心の中の問題だと考える。相手がそんなことはしないだろうとどこまで「思いこめる」のか、そしてその思いこみがはずれたときに相手ではなく自分を省みられるのか、それが問われているのだと思う。

だからこそ、こうしたやりとりは面白い。

■2004/01/11 (日) ケータイ充電違法と図書館の電力問題

<電気窃盗>ラジカセ電源、ケータイ充電アウト 大阪府警が検挙と報じられた。その辺のコンセントを抜いて電気を「借りる」ことは、まぁどう考えても「泥棒」であるから、金額の多少に関わらず罰せられる筋合いはあると思う。どうしても借りたいならば、一言断るのがスジであろう。

そこにかかった電気代より注目したいのは、「自販機のコンセントを引き抜いて」とか「電光看板のコンセントを使って」というところで、自販機とか電光看板の遺失利益はどうなるか、ということである。つまり、これを罰するべきでないとすると、自販機のジュースがぬるくなったらぬるくなったと訴えて争う必要があるし、電光看板が消えたからと言って客がどれだけ減ったかなんて証明するのは困難だ。騒音も問題かもしれないが本質的には別件で、電気の不正利用でどういう損害を与えたのかをよく検討する必要があると思う。損害を与えていればやはり罰しようとする必要があろう。

私の大学の図書館での話だが、パソコンを持ち込んで参考文献を調べ倒そうとしたときだった。ノートに電源をつなごうとコンセントを探すと、そこには「電気の不正使用は窃盗とみなす」とかなんとか書いてあって、「携帯の充電やパソコンの使用は禁止」と明記されたキャップまでしてあったのだ。さすがにあきれて帰ったが、パソコンの充電なんか、他の光熱費などに比べると微々たるもので、いったい何のつもりだ、と憤慨した。もちろん、キーを打つ音がうるさいなどの違う理由で禁止であればそれに従うが、学生が勉強するのに使おうというのも泥棒レベルということらしい。

最初のニュースについて新聞では、大学の教授だか誰か専門家が、賛成から一人、反対から一人もっともらしい意見を出していたが、「泥棒は泥棒だ」「これくらいは見逃すべきだ」と主観的な意見止まりだった。専門家としてコメントが載るのであるならば、そうした判断が社会規範を作るというレベルからの発言が欲しかった。その辺にコンセントがあれば、大量電力でなければ使ってもいいのかどうか、そしてそれが周りにもたらす影響などを考えた上でどちらにすべきか、と。

私は電気を許可なく使うのは罰するべきで、むしろ店側が「コンセントあります」を売りにして、それこそビジネスマンなどに売り込むところだと考えている。事実JR北海道ではそういうコンセントありの指定席が売られている。これから時代は、LANケーブルもしくは無線LANも提供する方向に向かっていくだろうから、ネットカフェのようなマクドナルドとかができてくるのかもしれない。かつててるてる家族の時代には「テレビがある喫茶店」が人を集めたと言うが、これからの時代はどうなるだろうか。

そう未来を想像すると、電気ごときでもめるなんて、変化はまだまだ当分先であることを示しているのかもしれない。最初に書いたように、自分の中では罪だと思いつつ、今どきたかが電気かよ、という違和感もまたあったのだった。

■2004/01/12 (月) 技術を身につける、それを使う場面は

(1/9,10放送分のDr.コトー診療所特別編のネタバレが微妙にあります)

Dr.コトー診療所は特別編ではなく多くが総集編だったが、北海道の離島という設定なのに離島がない町で撮影したらしいのには苦笑した。まぁ確かにあそこなら可能だろうが。今注目したいポイントは、色々な手術ができる優秀な医者が、めったに手術のない環境にいるという点についてだ。

地域医療に若者が行きたがらない、というのは確かに現実だが、何もできない医師が一人島にいても始まらない。しかし高度な技術を持った医師は、高度な治療を必要とする患者が多くいるところや、後進の指導にあたるべくそれなりの規模の病院にいた方がいいのではないか、と率直に思う。それだけの技術を身につけるためには、10年単位の時間や手間や指導医の労力が必要であり、そうして身につけた技術は、より多くの患者に、そして後輩医師の教育に還元するべきだと考えるからだ。

一方若手が技術を身につける、という視点で考えると、患者が多く来る方が力がつくと考える。例えば救急の能力を身につけようと思ったら、救急車が1日2台来る病院と1日40台くる病院を比べるとどちらがいいかは明らかだ。また、内科に来る9割の患者は風邪か腹痛かもしれないが、風邪と腹痛だけを診ていても医師としての力がついたことにはならない。多くの患者が来る病院を求めて、若手は地方から都会へと、都会の中でも関東などへ流れていくことになる。(都会の有名研修病院だからいい、とは言えないことは知っているが)

かくして、地域からは医者がいなくなる。患者の数と種類から言って、これから技術を身につけようという若手が育つには確かに不都合な点も多いだろう。それでは技術を身につけた人が行けばいいのか、という話になるが、これまで長年苦労したベテランは、せっかく身につけた技術をめったに使えない田舎に行くことを好まないだろう。技術は使うために身につけたはずであり、眠らせるためではないからだ。腕もなまる。

そうした個人の感情はさておき、地方へ医師を供給するためには、都会で技術を身につけた人が地方へ行くしかないだろう。逆が無理だからだ。この観点では、人材的に都会→地方という流出が起きるが、避けられないことであるように思える。地域医療をなんとかしようという取り組みは色々あるだろうが、そうした流出させなければならない人材を育成するという理念や覚悟が欠けているように思われてならない。iとーく掲示板以降、北海道新聞の特集はかなりましになってきたが、このあたりまでをどう切り込むのか見物である。

■2004/01/13 (火) 成人は大人か子どもか 選挙権とか国益とか

成人の日の騒動は冬の風物詩と化してきた。「議員の紹介長い」 新成人が成人式を批判 川崎市は注目されているが、話を分けて考えるべきである。一つは新成人の代表ともあろう立場で、「これから日本を背負っていくのは確実におれらなんで、テンション上げていこう」なんて発言をしているとは成人とは思いがたい。テンションって何なんだ? もう一つは、本当に指摘通り、50分にわたり議員タイムだったのかということである。そんな人たちに彼を説教する資格があるかは疑わしい。仮定の話だが、答辞を読むふりをして丁寧な態度で痛烈に批判したら、どう対応したのだろうか。

「大人は何歳からか」を新成人にアンケートしたところ、20才に次いで多かったのが30才と答えた人だという。そんな人は成人しなくていいし、選挙権もいらないだろう。また、成人式後「目が合った」と暴行=飲酒の19歳を逮捕−兵庫というのも、成人の振るまいとはとても思えない。高校生でもそんなことしないんじゃないか。

ここに相反する2つの思いが生まれる。1つは、このような人を大人として認めるべきなのか、ということである。年齢だけで中身が伴わない人を大人として扱うのか、それによって社会が受けるデメリットもあるのではないだろうか。「自衛隊イラク派遣に反対」と言う理由が「いやー、友達が自衛隊なんでー、行って欲しくないですー。」レベルの人が選挙権を持ってしまうのは、それこそ国益になるのか激しく疑問だ。あんたと友達の話でなくて、日本とイラク、そして世界との関係を考えるんじゃないのか。

もう1つ、成人式の意義が色々問題とされているが、大人になるというのはどういうことなのだろうか。大人になるのであれば、一堂に集められて「大人から」言葉をもらうというのが構図としておかしいのではないだろうか。市長の話を黙って聞けというのは、結局市長の方がえらくて、参加者を子ども扱いしているとも思えるからだ。大人であれば、もっと主体的に、参加も、態度も、色々あるように思える。この、子どもと大人の間の矛盾とギャップに翻弄されているのが、毎年の新成人なのかもしれない。

<成人式>川崎市長「世の中、間違っているのでは」と報道されたが、若者の行動を予測・理解できない市長が間違っていると思うのは私だけか。

■2004/01/14 (水) 危険な職業と家族の反応

医者は危険な職業だ。針や刃物を使うし、患者の病気に自分が感染する危険もあるし、患者が暴れることもあるし、最近では医療訴訟も増えてきたため、ちょっとしたミスで多額の賠償を請求されたり、職を失ったり、免許を失ったりするかもしれない。負けないとしても裁判で訴えられたりするのを考えると、なかなか大変である。

さて、医者の配偶者にアンケートを採ったところ、「危険だからやめて欲しい」という意見が8割を占めた、とすると、随分違和感あるのではないだろうか。医者の例を出したが、警察官とかF1レーサーとか相撲取りのように、世の中には危険が伴う職業がたくさんある。それを片っ端から家族をつかまえて、危険だからやめて欲しいか聞いて回るとどうなるだろうか。

先遣隊としてイラクに派遣される自衛隊員について、空港で見送る家族にマイクを向けて、危険だとか不安だとか言わせるのがはやっている。「行って欲しくない」と言わせてどういうつもりなのか私にはわからないが、やるなら各種職業についても報道してみてもらいたい。論点についても、「危険だから」に限らず、例えば「きついから」「つらいから」などいくらでも抽象的な理屈はつけられる。いちゃもんの世界だ。

家族はその職業を認めて、本人も誇りを持っているものではないだろうか。そうした気持ちを持つ人たちを踏みにじり、感情に訴えて本質を見失わせる手法にはよくよく注意したいものである。

■2004/01/15 (木) 起きたことの背景とその人の立場

鬼たちは、桃太郎に「命だけは、助けてくれ。」と手を合わせて頼みましたが、桃太郎は「言い訳無用」と言い放ち、バッサと斬り捨てました。(自分の記憶より引用・一部改変)

というできごとがあったときに、我々は「桃太郎が鬼を斬り捨てるなんてひどい」とか「桃太郎が鬼を斬り捨ててくれたか、よくやった」などと、事象を捉えて考えるのが普通である。何が起きたのかに注目するのは確かに重要で、結果が全てだという意見にも一理ある。しかしそのレベルで終わっては、大いにことの本質を見失う。

次にやるべきは、視点を移動させて考えることである。つまり、鬼が「命だけは・・」と言ったのはどうしてだったのか、それは適切な判断だったのか、そうせざるをえない何かがそこ、つまり鬼の心の中にあったのか。また、桃太郎の視点も同様で、斬り捨てるしか選択はなかったのか、斬り捨てたくない思いがあってもそれを殺さなければならない事情だったのかもしれないし、彼の頭の中でどのような営みがあったのかを探るのは、事象と本質を探る上で大切だ。

医療の現場について、もちろんそれに限らないことなのだが、表に出てきたことを痛烈に批判する文章に出会う。例えば「名義貸しをして私腹を肥やすとはけしからん」などといった文であるが、もちろんその法律的・道義的問題点を考えるのは当然だ。しかし次に、名義を貸さなければならなかった事情、借りなければならなかった事情、そして表には登場しない人たちが作り出す事情など、視点をぐるぐる変えてその事象をみることができる。自衛隊イラク派遣にしても、日本、アメリカ、イラク、その他の国々と、また国内にしても様々な視点が考えられる。

できごとを単に耳にするのは簡単で、それに対して「いい」「悪い」「むかつく」などの感情を持つにも、何の労力も必要としない。問題は、それをどう捉えて、どう分析して、どう理性的な判断をするかではないだろうか。そしてそれを文章にする段になったら、読み手を想定し、その文章だけでどのようなことが伝わるのかと、考えていくと全く際限ない。

自分の行動・言動、そしてサイトで書いていることが、単に表面だけをなぞっているのではないかと確認する気持ちを、常に心に留めておきたいものだ。

■2004/01/16 (金) 文章を書く練習のためにサイトを開く

テキストサイトの開設理由に「文章を書く練習をするため」というのをよく見かけるが、どうも違和感を持っていた。文章を書く力というのがあって、その能力値が上昇するようなイメージなのかもしれないが、じゃぁそれが一体いくつくらいなのか、というのをはっきりつかむことが私にはできない。そもそも、そういう力があるとして、それを上げるのは何のためか、と考えてしまうからという面もある。

文章力を向上させる目的は、もちろんいい文章を書くことであろうが、どうしていい文章を書きたいかは、書きたい内容があるからで、それは伝えたいことがあるからだと考えられる。伝えたいことがあるので文章を書きたいと思い、それは「いい文章を書く」よりも根元的な欲求だと考えられる。だから私はこうして文章を書いているし、それは「書く練習」という目的ではない。書きたいけどネタがない、と言うのは本末転倒で、書きたいことがあるから書く、というのがスジであろう。

下のリンクで、期せずして1年前の自分の文章を読む機会に恵まれた。今の自分からだと未熟さが目につくし、話題の選び方、文章の構成など、最近のできあがりイメージとは大違いだ。とすると、最初に書いた「いい文章を書く力」も客観的には向上しているのかもしれない。書きたいことがあって、書く力が向上すれば、目的をどう掲げようと同じことなのかもしれない。

狭い意味での「文章を書く」練習をするのであれば、一人でせっせと書きためていればよくて、それを公開する必要はない。しかし公開すれば、読み手を想定して、またたまに読者さんからのリアクションがあって、というところまで含めたメリットがある。この、書く、読まれる、フィードバックされる、そして次を書く、というところまで広い意味の「書く」ことがトレーニングできるのだ。

おそらくネット上での「書く練習」というのはそうしたところまで含めているのであろうし、一銭にもならないのに日々書き続けるのは、単に自分の練習のためではなくて、「書きたい」という欲求が自分の中から湧き出しているからなのだろうと思う。

そんなわけで、私は今日も文を書く。

■2004/01/17 (土) そんなに自分のメンツが大事なのか

チームであれば、仲間のミスは自分のミスである。自分の属している組織で他の人間がミスをしたときに、その人に代わって外に向けて謝ることは当然だ。自分とそのミスをした人の関係だけをみると、自分のやってきたことが無駄になったり、働かないことに腹が立ったり、色々思うところはあるだろうが、それはそれ、これはこれだ。自分が組織の一員として働いている以上、組織内のもめ事よりも、組織と外との関係を優先するのは当然だと思う。

うまくいかないたびに思う。組織と外との関係を考えて誰かに指示を出すと、その人と自分との対決姿勢になってしまう。しまいに「私は悪くないです」とか「だって〜〜だったんだからしょうがない」とか、自分を守り、自分が正しいのだと頑なに主張する。その人には私しか見えてなく、自分を否定されることを恐れる。やったことが外からどう見えるのかには全く考え及ばない。私は間違ったことを言ったのか、それとも私の言い方が悪いのか。

組織の中で、私にしかできない重要なことがあったとしても、外との関係を優先するべきだと考える。それで仕方なく他人の役回りを代わってすると、大事な役目を放り出して私が働き、その人は何もしないという状況が生まれる。私がやっているからできない面もあるのだろうが、かといって今目の前にいる人に「担当じゃないからやりません」と言うのは失礼この上ない。役割分担はこっちの都合でやっているのであって、それを知らずに来た人を困惑させるのは自分勝手だ。ちょっとでいいから相手に気持ちになれないのか。

すごく基本的な、当たり前の優先順位だと思うのだが、それができない人と一緒に仕事をすると疲れる。全体のことを優先すると個人が犠牲になる部分が生まれることもある、という意識を持ちつつ犠牲になっている私は、その人の全存在を懸けた自己正当化に手を焼く。目の前のいい・悪いよりも、もっと大きないい・悪いが見えてしまうことというのは、実は非常に損なことなのかもしれない。誰かがそういうことをやらないとダメだから、と慰められるわりに、やっているところを認めてくれる人は少ない。

■2004/01/18 (日) 鼻炎を乗り切る

試験前には恒例になってきた持病の鼻炎が始まった。始まった、というのは、激しく酷くなってきた、という方が正確かもしれない。一番酷いときには、一日半で200組入りの箱ティッシュを使い切った。粘度のない透明な鼻汁がアレルギー性鼻炎の特徴だが、机の上に鼻汁がポタリと思わず落ちるほどひどかった。くしゃみと鼻づまりをともない、涙目気味で、口呼吸でのどは渇き、どことなくぼんやりしていた。母親に「もうろうとしてるよ」と言われて「いや、もうろうというのはそうじゃなくって・・」と反論したのは話がずれていたが。

先日治験に参加したところ、よく効く薬があるとわかった。中学からの持病で、しかも医学部に6年もいるにもかかわらず、それで初めて知ったのだったが、同じ系統の薬を処方してもらいに病院へ行った。別の系統の薬(抗ヒなど)もあると言われたが、とりあえずその点鼻薬(フルナーゼ)のみで様子をみることにした。

治験中にアレルギー日誌で、日々の鼻をかんだ回数とかくしゃみの回数、そして鼻の詰まり具合を記録していたわけだが、投薬開始から3日くらいは全く効果が感じられない。注意していると確かに鼻汁の性状などが変わっているのだが、「ほんとに勘弁してくれよ」と言うくらい酷さは続く。しかし4日目くらいからは状況は一変し、持ち歩くのが箱ティッシュからポケットティッシュに変わり、それもそんなに使わないくらいになった。まさに劇的な変化である。

こうした薬の細かい効き方とか、それが合わなければ違う薬があるとか、そうした説明をできる医者になりたいものだと、患者の立場になってみて思うのだった。それがなければ、薬は効かないからやめるとか、違う病院に行くとか、民間療法に手を出してみるとか、色々な雑念が生まれてくる。医学の懐はもっと大きいものだということを、もちろん医療側が知識を身につける必要はあるのだが、うまいこと広く知って欲しいものだ。

ちなみに一日半で使い切ったのは1箱200円の高級ティッシュで、たくさんかむのにそんな高いものを使って、と思われるかもしれないが、たくさん使うからこそいいものを使わなければ、鼻の肌は完全に負けてしまい、修復にはしばらくかかり、美容的にも機能的にもよろしくない。今回は少し負けたが、なんとか大負けは避けられた。あとは心身共に試験に向かうのみである。

■2004/01/19 (月) 相手がやることは自分のポートレート

孫引きとなるが、ナカガワマサコというフォトグラファーの講演からの一節である。とてもいい表情を撮るので尊敬している。ぜひ読んで、写真も観てほしい。

「みんなカメラを見ているけれど、その後ろの私を見ているんです。(被写体である)相手の反応は確実に自分を写している」と。だからこそ「ポートレイトは恐い。その人を写しているようで自分を写している」。

言われてみると、いい表情を撮るのは、単に撮るタイミングがうまいとか、構図がどうとか、そういうことではないのかもしれない。その人がいい表情ができるような場を作り、そういう視線を向けられるような人としてそこにいることが、前提として必要だ。

写真、ポートレイトばかりでもないのかなぁ、と思ったのだ。会話をしていて、相手の一挙手一投足に何かを思ったら、とかく相手のせいにしがちである。しかしそれが会話であれば、自分がそういう反応を引き出す原因を作っているはずではないのか。もっと広げると、人間関係で悩んだときには、周りが自分にしてくることに注目しがちであるところを、代わりにそれから自分が周りにしていることが推測できるのではないだろうか。

自分を客観視するというのは最も難しいことの一つだが、自分と関係ある他人を観察することが、実は自分を見ているという側面を、自らを省みるために使っていきたいと思う。もちろん、いい写真も撮りたいものだ。

■2004/01/20 (火) 副作用全て教えます

アナフィラキシー・ショック、胃潰瘍、喘息発作の誘発、重い皮膚症状、再生不良性貧血、重い出血(消化管出血、肺出血、脳出血、眼底出血)の恐れがあります。

具体的に言うと、じんま疹、全身発赤、顔や喉の腫れ、息苦しい(ゼーゼー)、冷汗、顔が白くなる、手足のしびれ、脈が弱い、血圧低下、目の前が暗くなり意識が薄れる、胃痛、下血(黒いタール状の便)、吐血、ゼーゼーする、息が苦しい、高熱、ひどい発疹・発赤、唇や口内のただれ、のどが痛い、水ぶくれ、皮がむける、強い痛み、目の充血、発熱、喉の痛み、だるい、皮下出血(青あざ)や歯肉からの出血。出血傾向、血便(赤〜黒い便)、吐血、血痰、息苦しい、頭痛、めまい、しびれ、うまく話せない、などの症状が出ます。

以上のことはめったに起こることはありませんが、このような生命にかかわるものが起こりうるということは承知しておいて下さい。この説明に納得したらこちらに署名をして下さい。バファリンを処方しますので。

というようなやりとりを求めているのかなぁ、と思った。治療中心臓破裂で死亡 「危険性の説明不足」と提訴へを読んでの率直な感想だ。また、記事中の医療被害者救済の会の代表の話には、「起こりうる全てのことを説明しろ」とある。よくある薬であるバファリンでこれなので、病院で行われる治療で何が起こるかを説明し始めるとどうなるか、おそらくわかって言っているとは思うのだが。

まず普通は起こりえないようなことに関しても、全て説明をするのはある意味簡単だ。その結果「やっぱり結構です」と言って今ある症状への治療ができなくなっても、インフォームド・コンセントの考え方では正しいこととされる。その説明に医療側の時間と労力が割かれて、他の患者をつらい状態で待たせることになっても仕方ない。家族の同意を取るにあたり、同意までにちょっと考えさせてくれなどと時間がかかり、その間に患者の病状が悪化することも考えられる。

以前の実習での体験だが、1時間2時間を争って治療が必要とされるような例で、家族への説明と同意を取るのにかかった10分がずいぶん長く感じられた。その10分は急かすようなものでないのは頭ではわかるのだが、一方で、一刻も早く治療を始めた方がいい状態であり、遅くなると元に戻らない障害が起こる可能性が高まることは、医学的な知識に基づくと明らかだったからだ。

飛行機に乗るときに「墜落の可能性があります」と言われないが、それは暗黙の了解だ。もちろん治療の副作用を説明しなくていいと言いたいわけではなく、どこをラインにするかということである。1万回に1回以下の可能性でも起こることは全て知らせろと言われれば、最初の2段落に挙げたようなことを書いた保険の約款並みの紙を渡して、それを読んでもらうのが現実的だろうが、果たしてちゃんと読んでくれるのだろうか。

「聞いてない」「医療ミスだ」「訴えてやる」とするのは時代の流れだし、説明して、ミスがないよう、また訴えるような感情にさせないのも医療側に求められることだ。しかし、結局そうすることが誰のメリットになるかまでを踏み込んで考えるべきであって、単に不安をあおるだけの報道ならば誰のためにもならないと思う。

■2004/01/21 (水) 分煙から禁煙に

学内のタバコ事情が変わりつつある。その昔は混煙で、一応区域は分かれているらしかったのだが、灰皿がそこになければずるずる引きずってきて、さもなくば空き缶を持ってきて、何ともおおらかだった。次に、時代は分煙へと向かった。

分煙は、文字通り非喫煙者のスペースに、煙が入り込まないようにすることで、透明のボードに囲まれた特別な空調があるスペースが設けられ、そこに喫煙者たちが集っていく。一見これでいいようだが、扉の開け閉めの際に煙が漏れるということで、それでは不十分だというのだ。

建物内禁煙、というのもあるが、結局建物から一歩出たところで吸うようになるだけであって、出入りする人が必ず副流煙を浴びるという意味で、実は余計に悪いとされている。そしてとうとう、外部評価をきっかけとしてとかなんとか、敷地内全面禁煙となった。

もうすぐ完全実施となるのだが、透明なボードに囲まれた喫煙スペースに「使用厳禁」とか書いた紙が貼られている。これを作るのも随分お金がかかったろうに、という思いはすごくあるのだが、ともかく内容がいいことなので歓迎している。タバコを吸うのは個人の自由という意見もあるが、小児喘息に気管支炎とか肺炎を合併して0才から入退院を繰り返したり、今でも鼻粘膜の感受性の亢進(要するに鼻炎)に悩む私には、理屈はもちろん感情的にも認められないのだった。

喫煙者は閉経が早く、つまり更年期障害が早く訪れて、本数が増えるほどに顔のしわの本数も増えると、とある教授が言っていた。挙げようと思えば枚挙に暇がないのだが一例として。

■2004/01/22 (木) じゃぁ48分授業でいいんだね?

一時限2分延長、年間33時間増 東京・世田谷の区立中 のニュースは総じて不評だ。新聞によると、現場の教員までも「2分じゃ変わらない」と言っているようだが、私の感覚からすると、えらくいい加減な授業をしてやがる、となる。

私は6年ほどアルバイト先の塾で英語を教えてきたが、時計を見つつ教える内容を変えることは日常だ。つまり、同じ文法項目を教えるにも、10秒口頭で言ってさらっと思い出させる場合、30秒で例文を1つ書く場合、1分で周辺知識まで含めてまとめを書く場合、例文は英文和訳させてまとめの後に確認するからもう2分、といった具合だ。だから私は、同じ内容について1時間で教えることも2時間で教えることもできる。生徒のレベルを考えるのは当然だが、どのくらいていねいに教えるかは、主にかけられる時間の長さに依存する。

2分だったら変わらない、と言っているような教員は、48分にされても文句は言わないということだろうが、私だったら、2分に見合うだけ多く教えることができる。しかし問題はそこではない。量を多く教えればその分生徒の学力も身につくのか、ということである。これが恐らく大きな勘違いだ。年間授業数とか言っているが、もっと考えるべきことがあるだろう。

学習効率を左右する因子として、教員の質、がもちろんある。ある人が30分教えるのと、違う人が30分教えるのを同じとみなすのがまず危険だ。また、生徒本人の問題もあり、実際学校でも塾でも要点は教えられるが、それを家に帰って復習したり練習したりするのが大事で、テストの点には劇的に反映される。そういうことをさておいて、授業時間だけをどうこうしても、現実は何も変わりはしない。1分を大切にさせたいだけなら、1分前に職員室を出て、チャイムが鳴ると同時に授業を始めればいいだろう。

教える側が工夫して、生徒のやる気を引き出して、としたときに、あの人が今やっているのに比べたら時間は3分の2くらいというハンディがあっても俺の方がいいな、と思える相手が何人もイメージできるから、結構自信を持って言える。あの人、というのは、塾の同僚講師であったり、公立学校の教師であったりするのだが、私に対してそう思う人がいてもおかしくないだろう。2分よりもそういうところに目を向けるのが正しい姿ではないだろうか。

■2004/01/23 (金) 名義貸しやめましょう

医師の名義貸し、全国の6割の51大学で 文科省調査 と報道された。名義貸しをやめてみよう。

地方病院のコメント「名義貸してもらえないから診療報酬減額されました。赤字になりました。税金で埋めるしかない。(名義を借りて謝礼を払った方が赤字が減る。実際に人がいなくても診療は何とか回っているし、病院つぶすわけにいかないし)」

大学院生のコメント「大学病院で働いているのに給料もらえません。いい年して家族もいるのに、保険類は自腹で、生活のために土日をつぶして睡眠時間を削る当直に頼っています」

大学のコメント「たとえどんなにいい診療しても評価されないんだよぉ。大学院生の数とかいい論文の数で評価されて、研究費とかが決まってくるんだよぉ」

大学病院のコメント「名義だけを貸すのはけしからんので、人もちゃんと派遣しました。大学病院に人いなくなりました。患者たくさんいるんだけど..」

医局のコメント「派遣してくれという病院はたくさんあるのに、うちにはそんなに医者はいません。断るしかない」

地方自治体のコメント「医局側は一方的に医師の引き揚げを通告してきたのです」

一部の大学病院のコメント「大学院生も診療に携わっているからお金を出しましょう

違う大学病院のコメント「うちの病院は赤字で、何億も借金がありますがどうしろと」

医療保険の中の人のコメント「そんなこと言ってももう破綻しそうなんだよぉ」

名義貸しは確かに悪だ。しかしいったいどうしろと・・そして、患者の視点はどこにもない。

■2004/01/24 (土) 代理母出産を口に出して賞賛しない理由

不妊治療の最たるものとして、代理母出産をしたと大々的に報じられている。

問題点としては、それだけお金を払ってまで子どもを望むか、という点がある。代理母側はそうしたリスクを納得して対価としてお金を受け取っているはずなのでいいのだが、それはお金のある人だけが子どもを持てるという話を導くことになるが、それでいいのか悪いのか、ということだ。

次に、本人たちが子どもを持ちたいと思うことに、どれだけ自分以外の意思が関わってきているかという点である。日本では、生体肝移植は行われるが脳死からの移植はいっこうに進まない、つまり親が子に肝臓の一部をあげるのはいいことで、見ず知らずの人に肝臓をあげるのは、それが死んだあとであっても受け容れられないらしい、という現実がある。心のどこかで「家族はこうあるべき」という像があって、その中に「結婚したら子どもを持つべき」や「子どものためなら健康な親の体にメスを入れるべき」という考えがあるように思う。

そうした「こうあるべき」という像がどうやって作られたかを考えると、今回の代理母問題について、あたかも美談であるかのようにマスコミが垂れ流すのは、全く歓迎されざるべきことである。こんな苦労をして子供を持つことができたと感動する人がいるのは勝手だが、その感動が子どもがいない夫婦に対する無言の圧力となっていることも気づかなければならない。従って、その気持ちを表に出すのには慎重になりすぎることはないと思うのだ。

新聞広告で週刊誌の見出しをちらりと見ただけだが、今回の話の中には減数手術をするのか、ということもあったようだ。減数というのは、人工授精の結果受精卵が多くできすぎて、そのまま例えば五つ子とかを妊娠すると母子ともに危険になる、ということで、泣く泣く受精卵の一部を破棄することだ。「破棄」と書いたが、一種の殺人ではないかという考え方もある。

だらだら挙げただけでこれだけ問題があるが、そうしたことを広く考える契機となるような、そんな報道を期待している。有名人が作った感動話レベルで終わるようでは、代理母を認めていない日本の産婦人科学会を責める権利は、マスコミには存在しえない。病気を克服するのは一見いいことのように思えるが、それは克服できない人に対して非常に酷なものになる側面を、常に持ち合わせているのだと思う。

■2004/01/25 (日) 若いのに・・という決めつけ

以前叔母は、葬儀社の人と、またショートステイの施設の人と話をしていて、「若いのに・・」と思わず声を漏らした。若いと葬儀社に勤めてはどうなのか、老人を相手にするような仕事に若い人が携わるのはどうなのか、そのあたりの価値観が一言に凝縮されている。本人の中身ではなく、年齢のような「属性」によってその人を決めつけるのは、本来非常に失礼なことであると思う。

最も典型的にわかるのは男女差別だ。「女だから」ということで決めつけられ、例えば仕事に就けないことなど、理系の姉から門前払いをたくさん食った話を色々聞いている。一方「女だから」で許されることを逆手にとって利用する女がいたり、「結婚しても働きます」と面接で言っていた女がさっさと寿退社したりするので、話は複雑だ。各々を女1,女2,女3と区別したいがそうもできないので、「女だから」で苦労する人が多くみられる。

原因は、最初に書いたような「属性による決めつけ」である。決めつける人が集まるとそういう社会ができあがる。その社会に対して声をあげる運動があり、抗議運動をしたり、禁止する制度を作るようなどの行動をする。女だから、という例では、男女雇用機会均等法とか、育児休暇を男女両方取れるようにとか、そうした活動だ。残念ながら、これは二つの意味で受け容れられない。

一つは、その決めつけが無意識に行われているところにある。悪いと思っていることが禁止されれば渋々聞くかもしれないが、悪いとも問題だとも思っていないことを非難され、それに耳を傾け、問題だと認識し、そして自らの行動を修正する、というところまでたどり着くというのは現実的でない。

もう一つは、そういう決めつけからははずれる当事者からの反発である。「女だから」という逆風に負けずに男の中でやってきた、という構図である。自分たちが体を張って、実力を以てそうした決めつけに対抗して、少なくとも自分の周りには認められてきたというのに、再びその「属性」に注目されると、苦労が水の泡である。例えば、黒人差別がない状態というのは、「黒人だから」はもちろんダメだが、「黒人だけど差別しない」というのも道半ばで、「そういえば黒人だったっけ」という状況が望むべきものだ。

それではどうすればいいのか。一人一人がそうした決めつけをなくしていくのも大事だし、決めつけに負けずに、あるように生きていくのが必要なのではないだろうか。遠回りだし、つらいし、速効性はないが、そうした意識に上らせないだけの慣れを生じるくらいの根気があれば、わかってもらえるときが来るのではないだろうか。

■2004/01/26 (月) 集団の暴力で点数を下げられる(相対的に)

試験で相対評価されるのは、建前とは違うかもしれないが事実である。絶対基準を設けると、学生の力を誤って認識したレベルの出題がされたときに問題となる。例えば60点が合格ラインの時に平均点が50点になってしまったらどうするか、また逆に、平均点が90点になったときに61点の人を見逃していいのか。そうすると、合格のためには、自分の評価を上げる方法と、周りの評価を下げる方法がある。

今日の試験時間の決め方はおかしかった。試験終了予定時刻になって「延長を希望する人はいますか?」と聞いてきて、その場で意見のある人は言え、というのだ。私は制限時間内に終えるようにやっていたし、それ以上時間があっても点数が上がりそうになかった。しかし、そこで「延長はしないでくれ」と言うと、延長を希望する他の人との関係が悪化する。その関係を悪化させてまで、自分の得点を相対的に上げるのか、と悩んだ末に、私は何も言わなかった。

「もうできていて、出ていく人がいれば延長はしない」とも言っていて、そんなルールがあるなら私はさっさと出ていきたかったのが本音だが、そう言われてから出ていくのは、かなり勇気が要ることだ。結局そういう構図の下、試験時間は「学生の希望により」「反対意見もなく」延長されて、私の相対的な得点は下がることとなった。延長を希望する人は、書くべきことがあるからそう言っているのだろうから。

延長するでもしないでも、どちらでも構わないのだ。しかしそれは、あくまで出題する教官側が決めることなのであって、ある試験を作り、ある時間を設定して解かせて、それを評価をするのは普通の話だ。延長させてたくさん書かせて評価しよう、と教官が思えばそれもいいだろう。それを学生の意見を取り入れるふりをされても迷惑なだけで、しかも実害がつく。

この業界は卒業までメンバーはほとんど変わらずに、学年が違ったところで、一生同業者として協力してやっていかなければならない。そんな背景を持ちつつ、留年者という肩身の狭い立場で、自由に意見を言えるというのが間違いだ。民主主義は正しい考え方だと思うのだが、民主主義ぶるのは全く許せない。こんなことで無駄に腹を立ててしまった。

■2004/01/27 (火) そんなに学歴詐称が大事か

学歴詐称について騒がれていて、あちこちで色々言われているが、話を色々な視点から分割して考えてみよう。

まず、政治家と学歴の問題であるが、政治家をやるのに学歴が必要かどうかについて、それも海外留学がどうかについてを考える。私の考えでは、例えば「英語を使える」という力とか、「日本の法律に詳しい」という力は意味があるが、海外留学だからといってどうかはわからないと思う。つまり、今回の騒動がもたらす結論が果たして存在するのか、という点だ。

有権者を騙した、という点であるが、騙された感情的な問題がまずある。しかし、それが誰に投票するかを左右しないのであれば、問題として取り上げる意義が薄くなる。やめさせるほどなのか、そうでもないのか。「公約を守らなくてもたいしたことではない」とか言っている小泉首相の方が、よほど嘘つきの部分はあると思うのだが、そっちの方はどうでもいいのだろうか。

国会議員であるから、例えば党の勢力にも影響を与える。もし辞職したり補欠選挙で自民党が勝てば、民主は−1、自民は+1となる。この違いは本来意味があることになりうるはずである。意味がないなら国会議員が多すぎるということになる。福岡二区の有権者は、古賀潤一郎か山崎拓かという次元ではなく、代表が与党なのか野党なのか、という点に興味を持つべきであろう。それとも党なんか、国政なんかどうでもいいのか?

山崎拓との裏表の関係のようにも言われているが、そもそもあっちの問題も政治の力と関係があるかは大いに疑わしいし、問題があったのならば現在でも問題であり続けると思うのだ。そんな極めて私的な部分について、そんなに詮索しなくてもいいのに、と思うのは私だけか。法律に違反していたとか、辞職勧告決議案に値するなら話は別だが。

そんなニュースよりも、イラクで日本のマスコミがどんなバカな取材をしているのかや、北朝鮮の経済制裁法案に誰か反対している人(党)はいないのかなど、もっと興味のあることはたくさんある。何が重要なニュースかは、新聞の一面に載るからでも、テレビニュースのトップになるからでも、ワイドショーの放送時間が多いからでもなく、内容に依存すると思うのだが、それを取捨選択する目が必要であると思う。

■2004/01/28 (水) 拝啓−敬具よりも大切なこと

手紙文「敬具」に対応するのは?正解2割 学力テスト と報道された。私は「拝啓」をきちんと漢字で書けたが、思い起こすに、実際に書いたことは一度もなく、ただの机上の知識の有無の問題だ。目上の人に書く手紙も、もっと無礼な形で済ませてきたし、eメールだとたいていの人には「こんにちは、ちりんです。」で書き出して済ませている。どこかで怒りを買っていても不思議はないかもしれない。

それよりは、よほどネチケットの教育をしてもらった方が現実では役に立つ。ケータイメールの感覚で、全く名乗らずパソコンにメールしてくる人、html形式を使っていることもよく知らない人、何文字で改行するかも気遣わずずらずら書いてくる人、Cc:にたくさん並べてアドレスをばらしてしまう人、などなど、拝啓−敬具を知っているよりよほど大事なことがたくさんある。

メールで言うと、MLでの返信の使い方、メールのタイトルのつけ方、ツリー表示のための返信の使い方、機種依存文字と半角カナについてなどが。ネット全般に話を広げると、掲示板でのお作法や、リンクを張るときの慣習、顔が見えない関係で議論をする際に陥りやすいこと、実名を明かすなどのサイトバレするようなことをしていいのか、などなど、全く網羅的に書いたつもりはないのに、思いつくことは尽きない。

塾や予備校を色々みてきて感じることだが、そうした狭義の「学力」は、公教育なしで、それこそ独力でも身につけることが十分可能であるけれども、マナーやルール、作法といったものに関しては、誰かから強制的に習う必要があると思う。それこそが「義務教育」であり、高校進学率を考えれば高校でもいいから、教えるべきことが存在すると考えている。

軽々しく、資格試験を作るのには反対だが、そうしたことをテストして、できたら「成人」と認定して、それを祝うために「成人の日」があるのならば、まぁ多少騒いでも許してやるか、という気がしないこともない。そういう常識のある人なら騒がないんだろうけど。

■2004/01/29 (木) 白い巨塔の裏読み

回が進むにつれて、色々文句をつけたくなるところが増える。しかしそれも含めた仕掛けだと想像するのは楽しい。

カルテ改竄に修正液を使うなんて面白すぎて言葉も出ないが、改竄をしたことが明らかにならなければそれでいいし、明らかになってもいいと思っている、と考えることもできる。そうすると、非を認めつつ第一外科に勝利を導くためには、柳原一人に罪を押しつけるというシナリオが一つ考えられる。柳原の所見は財前の所見ではない。

里見があそこまで他科のやることに首を突っ込むことは、常識的に考えて言語道断だが、裁判で転移の可能性があったと証言したとすると、自らの誤診を広く知らしめることになる。転移がないから手術できる、と外科に頼むのが内科だからだ。誤診と言うより、全てのできごとの始まりは自分にあると言ってしまってはスジが通らないだろう。

財前はじめ外科のスタッフは炎症性変化だと診断して、そのように行動していた。結果的にそれが間違っていたかではなく、その時の状況で下せた判断が妥当だったかどうかが問われるからだ(結果が問われると、患者が死ぬたびに訴訟か、いつも患者に「死にますよ」と言ってなければならない)。

医学の知識があるとこう見えるのだが、裁判関係であれば法律の知識がある人から見ても、色々なものが見えてくるのだと思う。どこまでそうした専門家たちを納得させられるのか、それともやっぱりドラマか、と笑えるレベルで終わるのか、事実にあることだけをなぞるとドラマにはならないし、そうした色々な面から今日の放送も期待している。

■2004/01/30 (金) 献血とHIV検査

このニュースによると、HIV感染者は年々増加していて、その中でも献血で判明する率が特に増えているように書かれている。エイズ予防情報ネットのエイズ動向委員会報告から生のデータを見ることができる。ここ5年ほどのデータを少々検討してみたが、全体に占める感染者の割合の増加と、献血での感染者の割合の増加の間には、そう大きな差はなかった。つまり、献血での陽性率は確かに増えているが、全体の感染率も同様に増えているのだ。

一時期の報道熱が冷め、世間のエイズに対する関心が薄れてきている印象を受けるのだが、実際保健所での検査を受ける数が、検査で陽性になる人に比べて伸び悩んでいる。調べられる人の数がそんなに増えないのに、陽性になる人が増えているということは、全体での陽性である確率はもっと高くなってきていると推測できる。献血での陽性率の上昇は、こうしたことの結果かもしれない。

献血を検査代わりに使っているのではないか、という恐れがある。献血で仮に陽性だとわかっても、それは本人には知らせないのが建前で、知らせてしまうと検査代わりに使われるという構図と同時に、わかっていて知らせないのは人間としてどうだろう、などの思いから、個人的な立場から知らせることもある、というのが現状らしい。「検査だけできる施設を献血所の中に併設するなどの対応を急ぐべきだ」などと記事にあるが、あの人はエイズ検査に来たんだ、と周りから見てわかるようでは、敷居はさっぱり低くなっていないと思う。

資源の無駄は承知の上で、血液の安全を高めるために、そして感染者を早く見つけるためには、現状を少しだけ変えればいい。まず、今は問診で「HIV検査のための献血ですか?」にいいえと答えさせているが、はいと答えた人にはその通り検査してあげればいい。また、「やっぱり自分の血液を使わないで欲しい」という人は、その日のうちに自分の献血番号だけを留守電に伝えて下さい、という制度があるが、これに「やっぱりHIV検査をして欲しい」というのを加えれば、少なくとも検査目的の献血を防げるし、献血並の手軽さで検査ができる。

スジとしては、今でも保健所で無料で検査をしていることを、広く知らせることが本来である。しかしながら、医者でありながら間違った事実を広める人もいるくらいなので、このまま菊川怜と高見盛の次は誰をポスターにしたらいいかを考えているだけでは埒があかない。そこは現実に即して、うまく検査を受けられるようにする。感染していながら、その事実を本人が知らない時期が最も危険で、最も罪深いと思うのだ。