2002年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2003年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2004年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2005年
1月/
2月/
3月の日常へ/
TOPへ戻る
■2004/02/01 (日) 日本人は技術にお金を払うのか
青色LED訴訟、発明対価200億円支払い命令が話題だ。発明の対価にいくらを払うのが適当かはわからないが、その人がその発明に貢献しただけのお金を支払えということならば、結果が出ない実験に明け暮れた人の給料はゼロになってはしまわないのだろうか。そうした研究ができる場を提供し、さしあたりの結果が出なかったとしても、とりあえず食っていけるだけの保障をしていた会社という組織には、今回の成果がまれであればあるほど、いくらかの部分を取る権利はあるのではないかと思う。相互扶助の側面は無視できないだろう、ということだ。
しかしこの考えは悪平等ではないかとも思っている。日本人で、しかも公務員の子どもとして育った私は、一緒に入った人とは給料が一緒で、その後年を経るにつれてどんどん上がっていく、というイメージが強い。しかし実際は、能力に応じて、成果に応じて金額が決められる方が合理的であり、その方がむしろ公平・平等であると思う。いい仕事をしても、適当に仕事をしても、どちらでも評価が同じであるならば、やる気に関わる、とはその中村修二教授も言っている。
医学部の教授というと金がありそうだが、国立大だと実際は年収一千万程度であるという。アメリカで一流の技術を身につけ日本に帰ってきた、さる教授の弁はこうである。「アメリカでは私に年五千万でのオファーもあった。日本では一千万しかできないというのだが、そこで顧問料などの副収入があれば二千万ほどになると言われ、それでこちらに帰ることを決めた」
その顧問料について、不正な行為があったとして糾弾されていて、それは確かにそうかもしれない。しかし、もしもそれがなければ日本に一流の技術を持ち込むこともできなかったわけで、アメリカに行ってしまって、条件面が折り合わずに日本に帰ってこない隠れた人たちを想定すると、人材流出は底知れない。新聞で「そんなにアメリカがいいなら帰ってこなければいい」と書いていた人がいたが、医療の分野の技術とは助かる患者が増えることを意味するので、その人たちは死んでもいいと主張している、という解釈も成り立つ。
研究は世界レベルを競って行われ、医学の臨床でも世界の標準的な方法を日々取り入れている。しかし金銭的な評価だけは国内向け、というのであれば、できる人は納得はしないだろう。そうした人材の流出は指をくわえてみていればいいのか、それともつなぎ止めようとする覚悟があるのか、技術立国とも言われる日本が取る道はどちらなのだろうか。
論点は違うのだが、日本で移植ができないからと、莫大な額を募金に頼って海外に渡る「患者」もいて、その額が集まることへの感心と、「医者ばかりでなく金も患者も流出かよ」という感想を持っている自分もいる。
■2004/02/02 (月) 評価を目的としてしまう問題点
教諭採用、子どもの採点「参考程度」 埼玉・行田市 によると、教員採用試験の採点の4分の1程度に、授業を受けた子どもの採点を入れようとしたところ、反対にあって「参考程度」となったらしい。一つには、採用という重大なことに、責任や評価法などの知識を持たない子どもが関わっていいのか、という問題点がある。確かに、教育学を学んだり、現場に立ったりするような経験を積んだ人が採用を決めるのと、子どもの意見が同列に扱われてはかなわないだろう。
次の問題として、実習内容が変化することが挙げられる。長年塾講師をやって、生徒からの評価も何度も受けてきたわけだが、いい評価を取るのを目的とすれば簡単であると考えている。アンケート項目の通り意識して行動・言動に気をつければいいのだ。例えば「厳しくけじめがあったか」という項目があれば、「けじめをつけていこう」と口にして、「厳しい」という印象を受けるような接し方をすると、生徒はまずそのようにアンケートに書いてくれる。そこで実際厳しくする必要があったかは、実は問題ではなかったりする。
「わかりやすかった」という項目は、塾にもあったし、今回の報道の中にも取り上げられているように、ありがちな項目であるが、これも簡単だ。例えば10教えたいことがあって、自分で調べれば調べるほどたくさんのことが出てきて、なんとか時間内に終えるように綿密な計画を立てていきがちだが、概してそうした場合の評価は「わかりにくい」になるものだ。一方、10のうちから5を抜き出して、それを2回繰り返すなどしてじっくり教えると、「わかりやすい」という評価になる。それでもわかりにくい場合は教える側に問題がある。
つまり、少ない項目を笑いも交えて楽しくやれば評価はよくなり、多い項目を綿密に詰め込むと評価は悪くなるというのが、私が感じる子どもの評価の実態だ。そうすると、採用試験に通ろうとすると、本来教えるべきことをしっかりやらずに、その時間を乗り切る方法や、当座の問題には対処できるような方法を使っていくことになる。そうすると、当然の帰結だが、教えられる量は減少していく。
そもそもどうして教えていたのか、というと、身につけるべきことを伝達するのが目的だったはずである。しかしそこに「評価」を持ち込んだばかりに、目的は評価へと変わってしまい、元の目的がおろそかになってしまう。もちろん、楽しくかつ要点がわかりやすい教え方を身につけるのは手段として必要だが、本来の目的を達せられるような評価を用いないと、結局誰にも不幸な結論になる。
このような、評価によって目的が変化することは、今行われている大学での筆記試験でも、OSCEでもCBTでも色々感じているのだが、それはまたの機会に。
■2004/02/03 (火) 誰が高3を動かしたのか つい3ヶ月前の選挙を忘れたのか
5300人署名集め首相に”直談判” 宮崎の高3・今村さん 内閣府に提出「軍隊の撤退を」は、かわいそうだが方法を間違っている。高3に選挙権がないのはなぜか、署名という方法に実効がないのはなぜか。<小泉首相>高校生のイラク復興支援署名で教育に注文というのは大いに正論だ。
その請願書の内容
【請願事項】
平和的解決を目指し、各国軍隊撤退を呼びかけ、これ以上イラク国民を傷つけないよう、そして日本国民一人一人の安全に責任を持つべき一国の首相として、勇気ある行動をしてください。
【請願趣旨】
イラク復興支援は必要なことで、私たちもイラクの国民を救うことを望んでいます。しかし、自衛隊や軍隊では問題は解決せず、イラクの人々との溝はますます深まっていくばかりだと考えます。
テロに反撃することが、テロに屈しないことなのでしょうか。武力で対抗するのではなく、一滴の血も流さないような平和的解決こそイラクの国民を救うのに必要なことであり、小さな事でもめげずに復興を支援することこそテロに屈しないことなのではないでしょうか。
私たちは憲法第9条に誇りを持ち、暴力の連鎖を断ち切るため、平和的解決を願います。
どうも、武器を持っていかなければ戦闘は起きない、という趣旨が感じ取れるが、自らの体に爆弾を巻いて自爆してくるような人たちは、相手が武器を持っているからやるわけではない。丸腰で行って殺されればいいと思っているのか。類似した思想として、自衛隊をなくせば日本は戦争と無縁になれる、というものがあるが、実際に武装解除すれば日本が占領されるだけである。もちろん兵器も作ることができるだけの日本の科学技術力はその国に利用され、国力のバランスが崩れてますます戦争が起きる。
それにしても、なんと聞いたことのある言葉がならんでいることか。私の昔を振り返っても、一つの思想をいいと思うと、それがことごとく正しく、それ以外の考えが世の中には存在してはいけないように信じられた頃があったものだ。この活動の裏側には、このような思想を教え、このような活動ができるようサポートをした大人がいることは明らかだ。それがどういう大人かというのは、このような報道をされて喜ぶ人であると推測するのが無理がない。
イラク派遣に賛成か反対かの世論調査をして、反対がこんなに多い、という報道もよく見かけるが、これも全くバカの丸出しだ。派遣を決めたのはつい3ヶ月前の選挙で多数を占めた政党だ。まず選挙に行け、選挙で与党がそのまま多数が占めたらイラク派遣をすることぐらいわかって投票しろ、そして決まったことには文句を言うな、と言いたい。選挙の結果と、世論調査や署名との間には、絶対に超えられない壁が存在するのだ。矛盾した投票をしている人がバカなのか、そういう報道をする方がバカなのか、今回の派遣に反対の立場の私が怒りを覚えるのはなぜなのだろう。
■2004/02/04 (水) ニュースを読んで、それって実はこんな感じではないかと想像してみる
とある私立高校で、教務部長と英語を担当する全教員10人が、今年度限りで一斉に辞職することを表明していることが明らかとなった。背景には、校長や事務長との間に経営方針などで意見の違いがあったとみられている。
この教務部長は、早くから教員の実力向上に力を入れており、広く全国に名前が知られていた。中でも、できるだけ少ない量の課題で単語を覚えさせる方法や、むやみに高価な副教材を買わせることのないような、教師自身の教える技術に磨きをかけることを力を入れており、「それこそ教師のあるべき姿だ」と理念に賛同して、ここで教え方を学びたいという希望者は後を絶たなかった。また、定期的にnative speakerを講師として招き、教師が生きた英語に触れることができるのも特徴の一つであった。
しかし、特別講習の参加率や教材販売などが低いことにより、経営は赤字続きで、事務長は3人が交代。もっと利益があがる方法での指導を行うよう呼びかけたが、この教務部長は強く反発し、「自分の思うような教え方ができないのなら」と言って辞意を表明、元々その理念に賛同して集まり、そして指導してくれる人がいなくなるとあって、英語を担当する他の教員もこれに続いた。
生徒の親などからは「子どもたちのことを考えない身勝手な行為」と非難が集まっているが、代わりの教員は今のところ見つかっておらず、うまくいっても4人程度で新学期をスタートせざるをえない、と事務長は話している。英語の授業に影響が出るのは必至で、学校として責任ある対応が求められている。
でもまぁ、教員にはやめる自由はあるんじゃないのかな・・とニュースを読んで、根拠もなく勝手に想像しているのでした。意外とこんな感じなのではないかと。
■2004/02/05 (木) 英語教育は小学校より前か後でやるべきだ
小学校で英語教育を必修化することが検討されているようだが、私は反対だ。日本人がもっと英語を身につけるべきだ、という方向性は正しいと思う。現在の学校での英語教育にも正すべきところはたくさんあるし、話す・聞くなどの面で「使えない英語」となっていることもその通りだと思う。しかし、だから小学校というのは手段を誤っている。
英語を身につけるには二つの方法がある。一つが留学したり英語が話されている国で生まれたりして、英語をシャワーのように浴びて無意識で使えるようになるものである。日本人が日本で生まれて日本語を身につけるのと同じだ。もう一つは、文法などの抽象概念を導入して、理論の裏付けのもとで使う練習をしていくものだ。日本の英語教育の現状は一応後者に分類される。
小学校での英語教育には二つ問題点がある。一つは人が言語を身につける時期は、むしろ小学校入学前であるから、英語に触れる時期を早くしたとしてもあまり効果を上げないことである。これは先に書いた「無意識で身につける」方法になりえないということだ。まさか、アメリカンスクールのような英語まみれにするわけではなかろう。
じゃぁ後者の抽象理論かというとこれも問題で、小学生に抽象概念を教えるのは時期尚早だ。方程式のエックスも使えないうちから、動詞の○○形などとは無理だ。また、日本語もまだまだ不自由なのに、そちらをおろそかにして英語に力を入れたとしても、もちろん訳などできないし、どちらの言語においても、内容を理解するための言語能力がともなわなくなる。
こう考えていくと、教える側の能力や使う教材の現実問題を全く抜きにしても、せいぜいうまくいって「旅先で使える英会話」とか「こんな時にこう言う日常会話」レベルにとどまってしまい、旅先でしか使えなかったり、こんな時が想定外であれば何も言えない子どもたちができあがりそうだと予想する。
英語嫌いを作らないのは大事な考え方で、そのために早いうちから親しんでおこう、というのは確かにある。しかし、言語を習得することの意義は、シナリオ通りの決まった会話ならできる、ということではなくて、自分が思っていることを表現できる、相手が思っていることを理解できる、という喜びであろう。それを実現するために頭を十分耕しておくことが、小学校時代には必要なことではないかと考える。
伝えたいことが伝わるかどうかは確かに重要なポイントで、その力に欠けた人とコミュニケーションを取るのがしんどいときはある。しかし、伝えたいことだけを伝えればいい、というものではないのも確かである。同じ内容を相手に伝えるにあたって、前後にどのような飾りをつけるかは、人間関係を円滑に進める手段としては重要だ。特に、前後を省略しても失礼とされないような同輩関係で、各々の個性が出る。
例を挙げる。「忙しいところ悪いのだけれども、ちょっと聞きたいことがあって。こっちが聞き漏らしたり、勘違いしたりしているかもしれないのだが、○○○で困っているんだ。お手数かけて申し訳ないが、どうしたらいいか教えてくれないだろうか。特に急がないので返事はそっちの余裕のあるときでいいです。よろしくお願いします。」というメールが来たことがある。同じ内容を伝えるために違う人は「○○○なんだけど、どうしたらいい?」と名乗りもせずにやってきたりする。
確かにどちらの例でも「○○○で困っている。なんとかしてくれ」というのは伝わってくる。しかし、後者の例では、まず名前を聞くところから始めなければならないし、一般に情報量が少ないために誤解も生じやすい。何より気分が悪いので自分も喧嘩腰になり、結局両者が不愉快になってしまう。短いメールで情報を小出しにしてやりとりをする方が、かえって時間がたくさんかかったりしてしまう。
普段からやりとりしているような間柄なら、そうした装飾をつけなくても問題は起きないだろう。しかし、特にその時にだけ要件があって連絡を取るときなどは、そうした気遣いがありすぎることはないのかなぁ、と思う。悪いと思ってなくても「悪いけど」とつけたり、絶対向こうの落ち度だと思っていても「こっちが間違ってるかもしれないが」とつけたり、そうしたことでうまくやっていけるのならば、それでいいのではないかと。
ちょっとした言葉の行き違いや、その後の双方の対応の不誠実さで、なんだか悪くもないのに俺が謝らなきゃだめかよ、むかつくなぁ、と思っていたできごとがあって、心の中で医療訴訟が起きる構図とどこかで重なった。テレビドラマ白い巨塔の裁判の争点は、相変わらず医学的にめちゃくちゃだと思うのだが、ちょっとした態度や対応から訴訟が起きるという点に関しては、大いに学ぶべきところがあると思っている。
■2004/02/07 (土) 鳥インフルとかBSEはそんなに重要か
鳥インフルエンザとかなんとか言われているが、鳥肉から人へと感染した例が未だなく、一般的なウイルスの知識では加熱すれば食べたって大丈夫だ、ということを考えあわせると、豚でも発見されたとか何匹見つかったか、というのを深刻な問題として考えるのは現実離れしている。感染して死んだ人の話も、大半の日本人は日頃生きた鳥になんか接触しないだろう、という点であんまり煽られない方がいいと思う。
BSEいわゆる狂牛病は、アメリカでも全頭検査したらいいかと思うが、なんでもかんでも輸入を止めればいい、という考え方は誰の幸福になるのだろうか。報道が過熱すればするほど肉を扱う産業は厳しくなり、そっちで自殺する人がBSEになって死ぬ人より多いとそれはどうなんだ。そもそも人間は、仏教的な言い回しかもしれないが、人間以外の動物の生を受けて生きているのだから、そうしたリスクを受けるのも当然のことではないか、と考えている。
どうせ煽るのだったら、予防接種が副作用での死亡例が出て任意になったとたん、接種率が減少して、副作用で被害にあう人より多くの人が、本来予防接種で防げるはずの病気で命を落としていることとか、身体的な事情でどうしても接種を受けられない人が危険に晒されていることとか、そういうことを煽ってほしいものだ。少なくとも人数で言うと、鳥にも牛にも負けていない。
■2004/02/08 (日) 和を乱しているのはどっちだ?
法隆寺前の食堂撤去でもめたようだが、「和をもって貴しとなす」と抗議をしたのは間違っている。100年以上の老舗だとか、移転先が同じ規模にならないとかも、残念ながら感情論だ。裁判所の決定が入った以上、それは公共の福祉に反することであるのであり、居座って和を乱しているのはどっちなのだ、ということになる。
これから書くことは単なる受売りだが、法隆寺前の交通の便をよくすることが本当に必要なのか、世界遺産に行くにあたって近くまで大型観光バスが行かなきゃならないのか、ここ20年この店のために工事が凍結されていたというが、果たしてそれで困る人がどれほどいたのか、などなど、工事そのものの必要性を議論するのはわかるのだが、紙を持って立っているおじさんを映してもしょうがないのに、と思いつつニュースを見た。
■2004/02/09 (月) これこそ医療ミス/自ら治療法を選ぶ
同室・同姓、患者を取り違えて輸血 横浜の病院 については、フルネームでの確認という基本中の基本の操作を怠ったのならば、責められても仕方あるまい。こういうのは医療ミスと呼んでもいい。業務上過失傷害とかにもあたると思われる。再発防止のためには「しっかり確認して下さいねー」「はーい」で今回のことが起きたことをふまえて、どうするのだろうか。ただ「しっっかりと!確認するようにして下さいねっ!!」とするのか、それともどうなのか。
インフォームド・コンセントの概念がそろそろ定着しつつあるが、患者自ら治療法選ぶ は一つの理想形かもしれない。ここまでを日本でもできるようにするということは目標に掲げてもいいだろうが、そうした志を持った人が日本に一人もいないとは思わない。ものすごく、手間も時間もお金もかかるこの方法に取り組むのは、それこそ国が音頭を取ってやらねばならないことだと思う。3人に1人は癌で死ぬ現実に、どう立ち向かうのか。
誰かに何かを伝えるかどうか迷うときは、「伝えるべきかどうか」という問題だけを考えているわけではない。伝えるからには聞かされた相手に立場になって考えることも必要だし、それに対するリアクションを予想して、それに自分が応対しなければならないことも想像する。つまり、そこで何を言われても自分の蒔いた種となるので、蒔くかどうかを慎重に検討する必要があるということだ。
ER8を観ていて考えた。その伝えるべき相手が大事な相手であるほど、相手の心情をよく想定し、そしてそこで生まれるだろう相手の反応にもしっかりつきあう必要がある。それゆえに、内容が悲劇的で、そして関係が親しいほどに、それを伝えることがむしろ遅くなりがちだ。そこで「伝えない」というつらい選択をしていることを、他人に相談したりする。そうすると、大事な相手はそれを知らずに、その他人の方が自分をわかってくれていることになるのは矛盾のようだが、大事に思っているから生まれた結論でもある。
自分はそんな時に言われるだろうか、それともためらわれるのだろうか、と考えた。自分の方針は、何でも言って欲しいし、現実を受け止めることこそが一番最初にすることだと思っている。しかし、あらゆる任意の人間関係がそうであるように、相手のリアクションが自分の望むものだと予想できれば「話そうか」という気になるし、自分が望まないリアクションが予想されれば「やめとこうか」と、話さないか他人に話すということになるだろう。
そこでの「リアクションの予想」というのは、これまでの、日頃の関係の積み重ねによって生まれてくるはずだ。一朝一夕にどうにかなるものではないし、意識して変えようと思ってもそう変わるものではないだろう。そうした信頼が築けるからこそ、プライベートでのつきあいが続いているのだとも考えられるが、果たして自分が選ばれるのかどうかというのは、なかなか自信を持って言えることではない。しかし選ばれても選ばれなくても、それも自分を映す鏡のようなものなのかもしれないな、と日常にある関係を自分なりに大切にしていこうと思うのだった。
クレジットカードを持って、便利に使っている。カードの特典は色々あるが、色々なサービスをつけても元が取れる理由の1つは、それで需要が喚起されることであろう。持ち合わせがなくてもいいし、お金をおろす手間もないし、おろしたときに「残高こんなになったか」とショックを受けて財布のひもを引き締めることもない。ついつい使ってしまって、意識しないうちに引き落とし、となるわけだ。
一方、現金取引にもメリットはある。店側は扱えるお金が多くなり、カードで回収できなくなる危険もない。さらにはプリペイド方式などでリピーターを作ろうとする作戦もある。何よりそこで交換された目に見える範囲のお金で取引が全て完結するので、話もわかりやすくシンプルだ。消費者側は、使っている実感がわきやすいので、無駄づかいするまでの壁が増える。持ち合わせがなければ衝動買いはしづらい。
さて、私の行くガソリンスタンドには2通りあって、1つはカードで払う方が割引されて、もう1つは現金で払う方が割引になるのだ。これまで特に根拠はなく、現金で払えば安くなるという頭があったのだが、カードを使ってみてその便利さに軽くショックを受けた。私は貧乏性なので財布に1万円以上入っているとなんとなく落ち着かないが、1万円では2回給油できないので、1給油につき1回はATMに行く必要があった。小銭を扱わなくていいとか、後払いだからこれから入るお金をあてにして使えるとか、そういうことばかりではなかったようだ。
実際どちらの支払い方法でもよくって、安くなる方を使おうと思ってはいるのだが、ネット通販などでの利便性も含めて考えると、クレジットカードが選択肢にない生活にどことなく不便を感じるようになってしまった。その買い物をするかどうかの判断には、カードかどうかで左右されない自信がそれなりにあるが、「ないと不便」と思っている時点で既に、カード会社の戦略勝ちなのかもしれない。
出動中の救急車、横断歩道の歩行者はねる…愛知 では、消防署長が「もっと注意するべきだった」と言っているが、果たしてそうなのだろうか大いに疑問だ。状況が正確に読み切れないのだが、信号のある交差点から100mで、でも横断歩道で、車の直前か直後だったようだ。
この場合どの法律が適応されるのか正確なところは知らないが、道路交通法を読む限り、救急自動車は横断歩道上での歩行者優先規定から免除されている。つまり、歩行者が横断しようとしているときに一時停止する必要がないのだ。これはごく当たり前の話であって、救急車が救急じゃなくなったら意味がない。
ひょっとしたら、この人は目や耳が不自由であったかもしれないが、それをもって運転手の前方不注意にしてはいけないだろう。一つそういうことになると、次からはあらゆる状況でも徐行しなければならなくなって、車の間から人が飛び出してくる「かもしれない運転」をする救急車が、とろとろ走っている姿を想像すると滑稽だ。確かに業務上のできごとではあるが、この運転手を厳罰に処するような方向にならないよう、よく見守っていく必要があると思うのだ。
「山をみたので元気になった」のだが、この「ので」は理屈で考えると意味不明だ。山をみればどういう仕組みで元気になるのか説明できないし、元の問題と山とが無関係ならなおさらだ。特にきれいな景色だったか、というと、それを写真に撮っては伝わらないと思ったし、その風景を描いた絵があっても特に何も感じないだろうと思う。
そもそも、風景をきれいだと思うことを説明することは難しい。もちろん写真部の端くれとして、構図とかコントラストとか大衆受けするとか玄人受けするとか、そういう知識は持っているが、それはあくまで後づけの理論であって、そうした条件に合わないものにも心を動かされるのが例えば今日だ。どういうものだったのかを書いてもその本質が伝わらない、と思うような、ただ山があって雪があって木々があってという、むしろ小さな風景だ。
久々に落ち込んで、さすがにダメかと思って街を離れた。その時間が自分に何かを与えてくれたわけではないと思うし、目に入る景色が何かを象徴しているような風でもなかったし、うまく言葉で表せないのだが、下向きの気持ちが前向きになって帰ってきた。何かをもらってきたとか、何かを感じてきたとか言うよりは、心をそうしたものにただ曝したことが、凝り固まった考え方をほぐすのに役立ったのかもしれない。
あと26日勉強は続きます。
■2004/02/14 (土) 論拠と根拠/小論文が入試にふさわしい点
論拠と根拠について指摘してもらったので、せっかくなのでちょっと勉強してみた。根拠と呼ばれる事実があって、主張があって、それらを「〜だから」と結びつけるのが論拠らしい。例えば「熱が40℃あるのでインフルエンザだ」においては、「熱が40℃ある」が根拠、「インフルエンザだ」が主張、「ので」が論拠となっている。実は40℃じゃなかったら根拠が誤っていて、実はSARSだったら論拠(この場合は診断)が誤っていることになる。これらを分けて考えることは確かに重要だ。負けそうになったときに論点ずらしているのがばれちゃうじゃないか。
自分更新日記へ飛んで、小論文はweb日記で鍛えられるという意見には賛成だ。さすがに毎日こうやって書いていると、いきなり原稿用紙を与えられても、それなりの長さの文章を、それなりの質を保ちつつ、それなりに短時間で書くことができるようになっているのに気づく。秀丸とATOKがあれば言うことないが、紙と鉛筆でも、だいたい消しゴムなしでもそれっぽい起承転結で書くことができる。それで合否が決まるような試験には一生お目にかからないだろうが、多分どこかでは役に立つのだろうと思っている。
大学入試の内容を決める理由の一つに、高校生の年代で試験をして優劣を決めるにあたって、ある方向性をもって努力すればそれなりに報われる、というものがある。確かに個人差はあるのだが、英語とか数学とかは全国の高校で行われている科目であり、例えばセンター試験のレベルを目指して努力をすれば、どのくらいそれに近づくことができたかを判定することは確かに可能である。
数学においてのセンスは確かにあるし、文章を書くにもセンスを持っている人はいるだろうと思う。しかし、hasep先生もご指摘の通り、埋めようがあるのは小論文の方であり、どれだけ頑張ることができるかを評価するものが入試だととらえたときには、決められたお題について制限時間内にどれだけの文章が書けるか、というのも、公平な試験の一つなのかもしれないと思うのだった。
社会的な視野も広まるし、根拠と論拠について考えることもできるし、人間関係もできていくしと、いいところばかりだと思うのは、テキストサイト界にいるから言えることなのだろう。もちろん今は、入学時点で身につけておくべき力についての議論は何もしていない。web日記が書ける人ばかりが集まった大学がどのようなものになるかは、これから想像するのだがそれは面白そうだ。
論拠や根拠について、参考リンクを挙げます。ディベート教育最前線はメルマガの過去ログですが。向後先生の主張を成立させるにははweb教材で。トゥールミン・モデルの正しい理解では図解で解説されています。
■2004/02/15 (日) 2月はお金を使わない月らしい
タイトルが面白そうだったので「お金を使わない月」、2月 を読んでみたが、考察がどうにもわからない。月別の消費支出の棒グラフを素直に読むと、まず月による日数の違いが考慮されていないように思われる。2月は28日で、大の月は31日であるから、31÷28より10.7%増、325462円という計算結果は、1,7,8,10月の値とおおむね一致する。次に、30日の月と31日の月との差を考えると、11,6,9月がやや少ないのも納得できる。
以上のように、日数が多ければ支出も多いだろう、という単純な補正を加えてみると、12,3,4月に多く、5月に少ないことだけが浮かび上がる。厳密には、たまたま多いのか、意味を持って多いのかを統計的に分析する必要があるが、今回は意味があるものと仮定する。そうすると多い月は、忘年会、送別会、歓迎会などがある月であり、年度初めにかかる教育費、お歳暮、引っ越し、挨拶状、おせち料理など考えていくと、12,3,4月に支出が多いことは容易に想像できる。
5月に少ない理由と1月が思ったよりも多くないことには疑問が残る。これらの月には休みが多いので、その分かとも考えられるが、むしろ連休で出かけた方がお金がかかるような気がしないこともない。それは前月に前払いしているからだと考えれば、一応矛盾はないようにも見えるが、そこまでは推測しきれない。この辺まで話を詰めてから、内訳をみていきたいところだ。しかし多い理由については触れられているが、少ない方の内訳には注目されていない。
こう考えていくと、どうも「インテリジェンス」なページとは思えないのだが、私のような人にでもこんな簡単に指摘されるような分析を、ありがたがって読んでいる人がいるかもしれないと考えると、ちょっと恐ろしくなってくる。数字とグラフを出せば納得すると思っているのは大間違いだ、と声を大にして言いたいが、実際そんな声をあげられる人の割合を考えると、実は声は小でいいのかもしれない。
医師派遣中止がニュースになっているが、書いてある事実はおおむねその通りだ。いない医師を派遣することはできないので、医局に所属する医師の数が減れば、派遣先の病院の数を減らすしかない。意地悪をして減らしてやろうと言っているわけではないのだ。
どの病院を減らすか、という選択は、地図を眺めてバランスを取っているところがある。全ての病院に派遣できるだけの医師がいればいいが、現実には限られた数しかいない。経験年数などを考えると、それなりの規模のところにはそれなりの経験を積んだ人が行かなければならない。高い技術が必要とされる患者さんには、申し訳ないがそうした病院まで移動していただくことになる。
車で20分の病院にその分野の医者がいる町と、車で1時間以上かかる町のどちらかに派遣するとしたら、後者に派遣する方がいいと考える。また、その分野の患者さんが月に50人来る病院と100人来る病院のどちらかであれば、せっかくの技術は後者で発揮した方がいいと考える。何でもできる医師を両方に派遣できれば一番いいが、そうはいかない現実への策である。私はやったことはないが、おそらく究極の選択、苦渋の決断の連続だろう。
地域の住民に不安が広がったり、なんとか説得を試みるのはその通りなのだが、いないものはどうしようもない。現実には難しいだろうが、北海道の医者リストと、地方の病院が求める求人とを両方並べて、人事・派遣を決めるのが合理的だ。しかしおそらく医者の方が足りなくなると推測している。医者余りだと言う人がいるらしいが、少なくとも私の近くでは全く感じられない。
本質的には、どうして医局に入る医者の数が減っているか、ということであろう。医局以外の個別契約の医師の数が増えているのか、もしそうならば彼らは地方でなくどこにいるのか。北海道から卒業生が流出しているのは、新しい臨床研修制度で全国どこでも応募しやすくなったのもありおそらく現実だろうが、どうして北海道で研修しようと思わないのか、それは単に都会がいいということなのか、学生6年間の先輩・後輩・教官などの人脈を捨ててまで母校を出るのはなぜなのか、と考えていくことが、正しい問題解決方針であろう。
■2004/02/17 (火) 過去を認めてダメな自分を受け容れるから後悔しない
AかBかという選択があるときに、Aを選択すればBを得ることができない、Bを選べばAがダメ、という構図が生まれる。それはたびたび後悔を引き起こし、「Bが手に入ったのにぃ」「Aが手に入ったのにぃ」と言う場面によく出くわす。それが自然な感情だというのはわかるのだが、自分があまり『その類の後悔』をしていないことにも気づく。
例えば誰かと出会ったときに、その出会いが自分にもたらすものは多かれ少なかれあるだろう。それと同時に、その出会いによって失われる出会いというのもあるはずで、時間的にも立場的にもその他色々な要素が絡み合って、何かを手に入れることは何かを失うことでもあると思うのだ。Bさんに会うためにはAさんと出会わなければ良かったと思うのは、結果論以外では無理がある考え方だろう。
結果論を言うのは簡単だが、それは後出しじゃんけんと同じである。その時その時で自分がしてきた選択の結果が自分の人生であり、その結果を否定することは自分を否定することになる。だから私は後悔をしないのだろう。しかしもちろん、これは大変つらいことをももたらすことになる。
過去の自分のある行動で、現在よろしくない事態になっているとする。今の自分を守るために過去の自分を否定することは、「過去の自分は今の自分ではない」と思いさえすれば、実はたいした問題ではないとも解釈することができる。一方、過去の自分を否定しなければ、現在の間違った自分の存在に直面することになる。ダメな自分を受け容れることは誰にとっても難しい。
どうして私が『その類の後悔』をしていないのか、と考えると、そのダメな自分を受け容れているからなのかもしれない。もしもそれがダメな自分であったとしても、見ないふりせず向き合っていきたい。誰かが何かの選択をしたときにも、それがその人自らの決断ならば、どんな結果になったとしてもそれを応援してあげたいと思うのだ。こうした全存在の肯定が、最も心の支えになることではないかと思うから。
■2004/02/18 (火) パソコン人間にとっての葉書の善し悪し
何かを申し込む手段は、これまでは電話やFAX、そして郵便が一般的であった。最近のパソコンの普及にともない、サイトのフォームやeメールが増えてきた。これらには、手間・費用・即時性・使う道具などにおいて、それぞれ一長一短がある。
最も即時的なのは電話だが、相手がその時に電話に出られる状況でなければならないので、例えば休日や深夜は無理だ。FAXはまぁまぁ即時的で、絵や図などを送るには適しているが、そうした機能を備えた電話機が必要だ。サイトのフォームやeメールは相手を選べばかなり即時的で、パソコンにいつもさわれる環境にある人にとっては最も手軽だ。電話で漢字を説明する手間なども不要で、そのデータをパソコンに入力するという手間が省かれるというメリットもある。
葉書・封書などの郵便が、今では最も縁遠いものとなった。文字を書くことはパソコンのキーボードを叩くのに比べてはるかに少ないし、封筒・便箋なども部屋のどこかから発掘する必要がある。結婚式の招待状への返事など、いずれ書かなきゃならないものはその場で書き上げればいいのか、というのはメールで学んだ発想だが、書いたものをポストに入れるところが最も困難だ。
たいてい郵送での締切にはある程度の余裕がある。それで「どうしてもすぐに出さなければ」という思いは抑えられ、何かの「ついで」でいいか、となる。「ついで」と言っても、日頃ポストの場所なんか気にしたこともないし、ドタバタ朝出かけるときにそうしたものを持つ習慣もない。とっくに書かれたその郵便はついつい週単位で放置され、締切を過ぎるか過ぎないかで慌てて手に取られることになる。やってみると、投函なんて実に簡単な作業なのに、と苦笑しながら。
そうした手間と相手に着くまで時間がかかることを合わせて、郵便が占める割合は随分少なくなったのだが、たまにもらう直筆の手紙はやはり嬉しい。治験センターからのお礼の絵葉書ですら感動してしまった。絵文字とか顔文字とか、色々メールにも機能はあるが、そうしたものでは表せない、何かしらの伝わるものを肉筆は持っている。オンライン通販もパソコンメールもケータイメールも大好きだが、たまには直筆も使ってみようかな、と思うのだった。
■2004/02/19 (水) 心配していることと、「心配しているよ」と言うこと
相手のことを心配して「心配しているよ」と伝えた時に、心配していることを伝えているのに逆の効果をもたらすことがある。イメージ先行で書くのだが、親が子どもに「あなたのことを心配して・・」と言っている場合は、だいたい関係がうまくいっていない図であって、「うるせぇ、あんたに何がわかる!」とか子どもが叫んで部屋にこもっちゃったりするのだ。ドラマとか漫画の見過ぎか。
一方私など、親からそうした言葉はかけられたことは一度もないが、心配されていないと思ったことはない。むしろ、下手に心配面される方が気に障ったりするのが、子どもという生き物のわがままなところだ。わざわざ言葉にしなくても色々な行動・態度その他で伝わってくるところがあるから、心配されていることを信頼できるということなのだろうと思う。
「心配してるよ」などとは言わない、人数としては大部分を占める関係の方を考えてみる。例えば友達とか先輩とか後輩とかで、特に口に出してそんなことを言わない人たちの中にも、「心配してくれてるなぁ」とこちらが感じたり、「ちょっと相談したいなぁ」と思える人がいる。もちろんそうでない人もたくさんいて、その差がどこから生まれてくるのか考えてみると、これもやはり言葉以外のものから伝わってくるものがあるからなのだろう。
弱い自分を相手に見せるのは、結構勇気がいることだ。軽蔑されるかもしれないし、笑われるかもしれないし、でも現実に弱い自分がいて、心も暗く落ち込んでいる。そんな時に表だけの言葉はむしろ逆効果で、医療面接(世間で言う問診)の練習の試験対策で「それは大変ですね」と言いさえすれば「共感的態度」とやらが示せると思って、とりあえずその台詞を口にしてみたら、患者役の人から「心がこもってなくて信頼感がガクッと落ちたよ」などと言われることなどを思い出す。
こうしたことから、安易にそういう言葉を使いさえすれば思いが伝わる、という思いこみに陥らないよう気をつけようと思った。逆に、そうした構図もよくわかっていて、既に思いは伝わってきているときにあえて「心配してるよ」と言われたときには、また格別な重みを感じた。最初から書いてきたことは、言葉が無力であると言うためではない。その言葉を使うべき時をよく見極めて、そうした場面を作り、そしてそこで使うことで、本当に自分の意を伝えることができるのだと、むしろ言葉の力を感じたからなのだった。
■2004/02/20 (木) 障害者を「かわいそう」と思う心理
脳梗塞で寝たきりになって、話もうまくできなくなった祖母に対して「かわいそうに」と言った親戚のおばさんの言葉が心に残っている。確かにかわいそうと思うのかもしれないが、なりたくてなったわけでなし、かわいそうと言ったから治るわけでもなし、毎日つきっきりの母などが「今日は二回目を開けた」などと言っているのに、随分酷な言葉だと思ったのだ。
もう一つ、五体満足思想があるのだろうな、という印象も受けた。多分この人に孫ができて、その子が例えば口唇裂(兎唇=みつくちの方が世間で言われているとか)だったりしたら、ものすごく「かわいそう」を連発して、母親を責めたりするのだろうと想像した。つまり、健康であることが基本的ないいことで、そうでない状態はいわば「悪」で、忌み嫌うものである、と。
私は0才から入退院を繰り返すような病弱な子だった。生まれたのも未熟児(体重2100gで、現在では低出生体重児と呼ばれる)だったし、喘息とか気管支炎とか肺炎とかを繰り返し、病院に通わないときの方が非日常だった。そんな様子を見て「かわいそうに」と言った人が結構いたのだと母から聞いた。確かに健康はいいことなのかもしれないが、そこで母は「かわいそうでもなんでも、この子はこの子なんだから」と言って、別に責めるでもなく悲嘆にくれるわけでもなく、ありのままの現実に向き合ってきた。そんな姿を見て育ってきたから、違和感を覚えるのかもしれない。
半熟先生の日記の中で、「沖縄の女子大生がハンセン氏病の患者と一緒にお風呂に入ったという微笑ましいエピソードが今回の事件から派生して生じたが、なぜこれを『いい話』と考えるか、というのを我々は自分の頭でよく考えてみなければいけない。」という一節があった。これは非常に考えさせられることであって、やっぱりこの場合の「ハンセン病」はよくないものとして捉えていて、そうした人に対して「かわいそう」だと思っている視点が、自分にないとは絶対に言えない。
本音と建て前という話もあるが、自分や大多数と違うことで誰かを差別・区別してしまえば、常にその対象が自分に向くことを恐れ続けなければならないと思うのだ。そうした差別・区別を一切やめることこそが、自分がそうならない保証を得るための、最も根本的な対策だと思うのだ。自分で言っていて難しいことだが、そういう視点を常に持っていたい。
■2004/02/21 (土) blogというブレインストーミングのツール
はてなダイアリーでblogを始めてみた。草稿と銘打ってとりあえず思うところを書いていったが、今までこれらは自分のデスクトップの[草稿.txt]というファイルの中にあった。気軽に書く部分も公開してみることにより、日記を書くという作業がブレインストーミングではないかと思えてきた。
ブレインストーミングとは、思考法の一形態で、詳しく説明したサイトは色々ある。例えばこちらなどだが、そこから基本ルールを抜粋するとこうだ。
<基本ルール>
1.批判厳禁:自由にものがいえる
2.自由奔放:ばかなことをいっても許される
3.質より量:量が質を生む (下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる)
4.結合改善:他人の発言に便乗してよりよいアイデアにする
日記書きにおいては、登場人物が自分一人であるところがちょっと違うが、自由にものを考えても誰からも批判されないし、ばかなことを考えても許されるし、とりあえず質より量で色々思いを巡らせながら、そこから導き出された結論に便乗して話をまとめる。最初に書き始めたときの予想と印象とは異なった結論に至ることもしばしばだ。
もちろん、読んでくれる人がいるからこうして書いているわけなのだが、書くという過程で見えないものが見えてくるから、自分にとってもプラスになると感じているというのも書く大きな動機だ。また、ただ自分の中で完結するのではなく、web上に公開する文章を書くことで生まれる緊張感で、一人ブレインストーミングができるということも挙げられるのではないだろうか。
自分が書いた文に対して丁寧な意見をメールでいただくことがあり、それをうまく生かしきれない自分にもどかしさを感じることがある。掲示板上での議論がうまくいかないことも多く経験した。しかし、最近のblogのコメント機能やトラックバック機能を使うと、手軽に多くの意見が、それもみんなの見ているところで集まるのではないか、と期待している。
あまり完成しないうちからコメントやトラックバックで話をして、批判ではなくばかなことでもたくさん意見を出して、その結果として何か一つの文章ができたとすれば素晴らしいし、何もできないとしてもその過程に携わった人が得られるものはあるのではないだろうか。自分のサイトでそうまでやろうと思わないが、そうした可能性を秘めているのがblogツールではないかと思っている。
「電車の中では携帯電話を使う人が圧倒的に多いのだから、ペースメーカーを使う人は混雑しているときには乗らないか、携帯電話を近くで使っても大丈夫なペースメーカーを開発するべきだ。」のような意見が書かれたサイトを複数読んで、かなり怒りを覚えていた。 blog などを通じて考えたのだが、どうも自分に感情的な部分があるようだと気づいた。
まず理性的な話を書く。ペースメーカーに携帯電話を近づけると、ある機種のペースメーカーに15cmの距離の時に異常がでるというのが最も遠い値で、数cmという現実問題無理であろう距離という機種も多く存在するのが調査結果のようだ。余裕を持って、電磁波の強さが15cmの時の半分になるのが22cmの時なので、この22cmという数字がガイドラインにはよく載っている。これをよく理解した患者さんの中には自分で携帯電話を使う人もいる。
ケータイへの依存度を考えると、優先席付近で電源を切るとか、影響を受けないペースメーカーの開発に力を入れていって、双方が大丈夫なような方向に持っていくのが、最も合理的な考えであろう。電源をお切り下さいと言いつつ誰も切っていないような今の状況は最悪だ。患者さんは見えない恐怖に悩まされることになり、それがまず害のないPHSだったとしても、十分離れている距離だったとしても、不安になってまさに心拍が乱れてしまうこともあるという。その人の目には電話機が目の前で振り回される刃物に見えるのかもしれない。
次に自分の感情的な部分を分析してみると、医学の勉強の中でペースメーカーというのは、基本的に致死的な不整脈の人に、薬など他の方法がない時に選択される治療法である。つまり、ペースメーカーの不具合は、生命に関わることであって他に手段がないものであるという認識だ。その前提では、「携帯電話の影響を受けるペースメーカーを使わなければいい」という意見は、死ねと言っているのと同じだと感じた。実際には一部の機種の、それも特殊な条件下であったとしても、健康な人から病気の人に「死ね」という構図は感情的に許せなかった。
医学というのは、生か死かという部分を扱う学問である。今この処置をしなければ死ぬ、うまくいけば生きる、という判断をしていく。その中で、ペースメーカーをうまく入れることができて患者さんの命が助かってホッとする医療者の視点がある。そのタイミングで、やっと入ったペースメーカーを「周りに電話を使う人がいるから」などというレベルの理由で否定されてはかなわない、と思ったのだろう。大いに感情的だし突っ込みどころ満載だが、それでもいいかなとも思う。命を重く評価しすぎることは、そういう場面が日常になりうる職業に就く人間の心の隅にはあってもいいと思うからだ。
自分がこの職業に適性があるかどうか悩むことがある。正確に言うと、私は医学部に入る前に悩んでいた。0才から入退院を繰り返していた私は、ある意味医者という職業を神聖化していたのかもしれない。自分にはそうした能力はないと思っていた。それは学力とか医学を学ぶ力ではなくて、全人格的にそのような恐れ多い職業に対して「役者不足」感を持っていたのだ。
ある時から、自分が医学部を目指すようになった。直接的なきっかけは高校2年の物心ついてから初めての入院で、職業・大学選びが漠然と始まった頃に、医者という職業を捉えたことだった。「自分なんかが医者を・・」という思いは依然あったのだが、高校で、そして予備校であたりを見渡したときに、この人が医学部志望で自分が遠慮するのはどうだ、と私に思わせるような人がいたのは事実だ。
その人は、自分が医者になることが、自分の能力としてどうか、社会の中で他の職業に就くのと比べてどうか、といったことについて、全く考えていないように思えて、まず腹が立った。しかし、元々私が考えて遠慮していたのも勝手な価値観であるし、その人がどう考えてどう行動しようと私がとやかく言う筋合いはないし、どっちが正しいとかそういう話でもない。じゃぁ自分も医学部を志望してしまおう、と私の人生の舳先は大きく変化した。
ある職業に対する適性は、特定の項目について客観的に評価することがおそらく可能だろう。しかしそれ以上に本人のやる気は重要であり、やる気がない職業に就かせるのも、やる気がある職業に就かせないのも、どちらも非常に困難だ。結局のところ、関門となる入学試験や入社試験をクリアしさえすれば、自分の希望する職に就けるのが現実であり、ならば各人が希望にしたがって行動するだけでいいではないか、と自分の中で納得した。
結局、私に大きな転機を与えたその人は医学部には入らなかった。医学部入学後、私が医者としての適性を持っていると思うようになったことは未だない。医学部に入ってみて、こいつは成績はいいが診てもらいたくねぇな、と思う同級生は実は結構いる。医者としてとは別問題だという話はよく先輩医師から聞くが、医学生としての適応に失敗しているのもまた現実だ。しかしそれらを全て合わせて、自分がやりたいことならそれでいいし、誰かがやりたいと思ってやっていることならば、端から見ていて止めることはできないのだろうと思うのだ。
「それ、根本的に考え方間違ってるよ」などという、相手の根幹を揺るがすような言葉は不用意に言えるものではない。そうやって相手の精神的な土台を崩したら、その後立ち直るためのフォローをする責任が生まれるだろう。言えるかどうかは、自分にそのフォローをする余力があるかに左右される。また、「間違ってる」と思い、フォローできるときであっても、自分がその相手のためにそこまで力を割くのかどうか、という視点もある。どうでもいい相手の根幹を突き崩してご丁寧にフォローまでするわけがない。
「これどう?」と聞かれたときに、内心「どうにかしろよ、おかしいだろ」と思っている場合でも、「ま、別におかしくてもいいか」というくらいの親しさだったり、「おかしいし、直してやりたいけど、どうおかしいか説明してる場合じゃないし」というタイミングだったりすると、そこでの答えは「うん、いいんじゃないか」となるだろう。ある意味「嘘」をついていることになる。
高校生、大学に入った頃もそうだったかもしれない。自分が何でもできる気がして、例えば悩み相談だったら、自分が全力を注いでその人と向き合えば、必ずその悩みを解決できると思っていた。しかし最近では、自分の力の及ばない問題の存在にも気づくことができたし、解決可能だからといって、誰彼構わず自分の力を割いてはいけないと思うようになってきた。
身の程を知ったのか、それとも臆病になったのか、その間、確かに自分の力は成長したはずである。わからないものもわかるようになったし、できないこともできるようになった。ひょっとすると、わかるようになったりできるようになるということは、実際にできることの量を増やしてはいないのではないかと思う。あの頃も今もできることの量なんか変わっていなくて、どれをするか、とか、どうしたらいいか、という選別の目だけが育っていって、結局その目は自分が踏み出す一歩を重くしているのではないかと。
大人になれば、やれることの量がどんどん増えると思っていた子ども時代。しかし大人の方からは、子どもは限りない自由と可能性に包まれているように見える。成長するにつれてできることは確かに増えていったが、同時にできなくなることも増えていって、そして「嘘」を覚えた。嘘をつかない方がいいなんてよくよく知っているはずなのに。
「やりたいけどできない」ではなく「やりたいけどやらない」とぐっと抑える自分の姿に、どこか自分の思いに背いていると感じるのだが、その感情に打ち克って行動することができるくらい分別がついたと言えるのかもしれない。
そんなことを言われても、ということを相談されることがある。その問題を根本解決することもできないし、その人の力になるようなこともできなさそうだし、かける言葉も見つからない、でもその人のために何か応えたい、というときに、どうすればいいのかと頭を悩ませる。
かける言葉が見つからないなりに、一生懸命頭を絞って言葉を探す。メールであれば、単語一つ、一文字単位で気持ちを込める。それは直接問題を解決しなかったり、今困っている心の部分には働きかけない内容かもしれないが、その問題を共有し、一緒になって悩んだことは伝わるだろうと、本質的ではないところに期待したりする。
ひょっとすると、最初から具体的なことは求められていないのかもしれない。相談されたら必ず力にならなければならないものだと思いこんでいたが、何もできないことは予想済みで、それでも言ってこられることがあるような気がした。そうしたときに、どのような態度でどのような姿勢を示すことができるのか、何をするかという目に見えるレベルではない、存在そのものが試されているのではないかと考えた。だから必死に言葉に気持ちを込めるし、それゆえ何かが伝わったときには満たされた気持ちになるのだと思うのだ。
病院に入院しているおばあちゃんが、買った焼きそばを温めるのを手伝ってあげたところ、お礼に小遣いをやると言われたことがある。なんでも、ちょうど孫くらいの年格好で、涙まで流して喜びそうな勢いだった。ただ焼きそばを電子レンジに入れて目盛りを回しただけなのだが、とてもそんなことぐらいでお金をもらうなんて、とその時は思った。
大雪で車が埋まって立ち往生することがあるが、わりと私は見知らぬ人でも助ける方だ。今日も1台救出したのだが、ちょっと手間取って、雪など掘ったりして、それでも10分とかからず救出完了した。肉体労働として汗をかくほどでもなく、主に働いたのは引っ張った車であるが、向こうにしては地獄に仏、まさに途方に暮れるところだったわけだ。そこで「ほんの気持ち」とお金を出してきて、「いえいえ」「まぁまぁ」・・とお決まりのやりとりをして、でもまぁ断る方が気持ちを無にするか、と思い直した。
それなりの働きをしたのだから、それなりのお礼の気持ちを示されてもいいというのは理屈の話で、なんだかお金目当てに車を停めたみたいだし、そんなのをあてにしたから頑張ったわけでもないし、もらえなかったら「なんだよケチ」とかがっかりする人がいたらむしろ軽蔑する。そこで私がいったん断る姿勢を示したのは、お金を求めていたわけではないんだぞ、という自分自身への言い訳だったのかもしれない。
入院・手術にあたって、医者への謝礼が必要か、という話が巷であるらしい。結論を言うと物もお金も全く不要で、そんなことで態度を変えるようなところに世話になる必要はない。某市立病院で、どうしてもと言う患者さんに「私たちは市から給料もらってますから、寄付があればどうぞ市の方にして下さい」と言っている先生のやり方はなるほどと思った。
しかしながら、本当に感謝の気持ちでいっぱいになって、例えば家で取れた野菜を持ってきたり、ミカン1個、缶コーヒー1本とくれようとしてくるものを、どうしても断らなければならないのか。一つ認めるとどんどんエスカレートしていって困る理屈もわかるのだが、その感謝の気持ちを受け取る意味で、もらっておいていい場面というのもあるのかもしれないなと、掘り出された車をバックミラーに見送りながら考えたのだった。
麻原への死刑判決に対して弁護団は即日控訴したという。本人の意思が確認できない以上、控訴をするのは弁護士として当然のことという。確かに一般論として、本人の意思が確認できなければ即死刑でよろしい、となるのは違和感がある。弁護団はここで全員が代わることも言われているが、一審と二審では新たに組み直すのが普通であるという。たまたま同じ場合はあるだろうが、代わるのも特別なことではない。
弁護士たちは苦しんでいるという。麻原の弁護をすると客が来ないというのだ。確かに現在では弁護士は選ばれる側であり、できれば麻原を弁護するような人には頼みたくない心情になって、結果その弁護を買って出た弁護士の生活は苦しくなる。麻原だから弁護しなくてもいいや、と投げ出せる立場にはなく、職業的な使命に忠実になるほど、自分の生活と弁護士生命をかけることになる。
麻原がどれだけのことをしてきたかはここでは問題にしない。それを判断するのが裁判なので、議論の構造として裁判の話をする前提には使えないからだ。裁判に対して「雰囲気裁判」「世論に流された」という批判もあり、確かにこのページによると、普通の裁判では認められないようなことがたくさんあったようだ。一方通常通り進めていくといまだ裁判は一審すら進まず、結果何十年と経てばその意味もなくなっていくだろう。
麻原だと思うと色々こちらにも判断が出てくるが、そういう人間だと仮想するとどうだろうか。つまり、国民みんなが死刑でいいと思っていて、弁護士がつくのも難しい、本人は全く喋らないが、関わっていた人が皆悪いと言っているような、とある一人の人間を裁くにあたり、7年以上かかって一審判決が出て控訴、というのは、現在の日本の司法制度では限界ではないかと思ってしまう。
アメリカのように司法取引を取り入れる手もあるし、国民の大半が死刑でいいよと思っていれば死刑にできる制度にするとか、そうした代案を出さない限りは、長い裁判にも今回の即日控訴にも批判はできないのではないだろうか。私も批判はしたいしさっさと死刑にしろと思っているが、ルールに則るのが社会である以上、そのルールの変更を検討するのがスジであろう。法治国家に生きるということは、そうして法に従うことでもあるだろうから。
■2004/02/28 (土) 存在するために必要なエネルギー
人が生きていくにはエネルギーがいる。寝たきりであっても何も食べられなくても意識がなくても、生きていくというのはエネルギーが必要なことを指し、逆に死んでしまえばエネルギーは要らなくなる。
乱暴な言い方であるが、死んだ人間は腐る。腐るというのはそのまま土に還るイメージでいいのだが、その人と外界の境目がなくなることである。逆に生きているというのは、その人と外界との境目を保っていることであり、それを保つためにエネルギーが必要となるのだ。エントロピーとかいう言葉を使って説明できるらしい。
雪が降る地域では、留守の家を見分けるのは簡単だ。家の前がきれいに除雪されているか、雪がうずたかく積まれているかというポイントで、その雪の量が一日分か、一週間分か、一冬分かで期間もわかる。今両親が旅行中のため、家の前から降った雪をさかんによけなければならず、雪の量によっては数時間に渡ることも珍しくない。
これまでずっと狭い家に住んできたこともあって、カーテンの開け閉めだけでも随分大変のように思える。一家で住むような大きさの家に住むことは、なかなかエネルギーを使うものだと感じている。どうでもいいものから大事なものまで訪問者も少なくない。しかしそれは、家を構えて生活するために必要なエネルギーであり、人が生きるためと同様必要なものだろうと思った。
というわけで、両親が出かけている間、毎日除雪でいい運動になっています、ということでした。オチも主張もなく。
健康保険が使えない診療のことを「自由診療」と呼び、病院が自由に値段を設定できることになっている。新しすぎてまだ認められていない治療法や、費用のわりに効果が少ないものなども含まれるのだが、この間まで随分マスコミを賑わせた「インフルエンザの予防接種」が最もわかりやすいだろう。
インフルエンザの予防接種は、それが病気の治療でないことからもわかるように、健康保険を使うものではない。もし使うのなら、国民全員が受ける必要があるものだと言っているとも考えられる。病院が薬屋からワクチンを買う段階は、値切ることなどあるかもしれないがあまり病院間で差が出ない。問題は、そこに病院を維持するための必要経費と利益を含めるという点だ。
ワクチンを仕入れて並べて、客がそれを商品棚から取ってレジを通れば済むわけではない。医師の診察と、看護師さんが接種することが多いだろうが、その他病院で働く多くの人の手がかかることになる。この人たちの人件費を出す必要がある。ワクチンが仕入れ段階で何回分かの単位になっていれば、半端になって余る場合もあるし、そこでどのくらいの余りを見込むかはそこでの希望者数によって変わるし、それをどう読むかは経営の方針にもよる。利益を出す手もあるし、客引きのワゴンセールのように、そこでは利益を出さないでとりあえずその病院に来てもらおうという、薄利多売とか赤字でいいという戦略もある。
それらを病院間で画一にするのは「カルテル」とか「談合」と世間では言われている。病院が利益とか採算を求められるものである以上、これらを自由競争の下で行うことが自然なことだ。現実にはどうかというと、今回は病院実習に備えてのB型肝炎ワクチンを受けようとして、市内の大きな病院3つに電話をかけたのだが、値段も対応も様々だった。安いが曜日と時間が指定されていたり、その病院でやれるかどうかがわかるまでに10分以上かかって値段を聞くどころではないところ。結局はわりに自由に対応してくれるところにしたのだが、安い方の2倍弱の値段だった。
自由競争というのは、いいものを安く提供するのが原則だが、高いなら高いだけの理由があることをうまく知らせるのが「営業」だ。ワクチンならば、待たずに受けれるとか、いつでも受けれるとか、痛くない方法だとか、そのシーズンにインフルエンザになったらサービスするとか、思いつきだが色々特色はつけられる。そしてそれを広告していくのが自然な姿だが、「命に関わることなのに」というわかったようなわからない批判もある。しかしこれからの時代には、こうした他の業種と同じような競争が出てくるものと思われる。病院にも経営手腕が必要だ。
2002年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2003年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2004年
1月/
2月/
3月/
4月/
5月/
6月/
7月/
8月/
9月/
10月/
11月/
12月
2005年
1月/
2月/
3月の日常へ/
TOPへ戻る