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■2004/04/01 (木) サイトを運営して得られるもの
私はサイトを作って1年半、日記を書き始めて2年3ヶ月になるが、この間には多くの経験をすることができた。文章を書く練習になったこともそうだし、それによって生まれた人間関係、そしてそこでのやりとりなどがもちろん含まれる。しかし、もっと違ったものも身につけたようである。
今私は、ある組織にアドヴァイスするべく来ているのだが、医学の知識を持ちつつ、サイトの運営を経験している人材はそういない、と感じている。もちろんいるのだろうが、必要なところに行き渡っているとは言い難い。このご時世であるから、何か企画があれば、ホームページに必要事項を載せて、興味を持った人にそこに飛んできてもらったり、そのページ自体を宣伝したりする。そして企画への参加者を増やすことが狙いであるが、知っての通り、世の中には効果的なページもあればそうでないページもある。
ホームページのアクセス数をアップさせるコツ、とかなんとかいう本を立ち読みしたことがあるが、数個を除いて私が実践済みか検討済みのものだった。サイトを訪問する立場になってみると、音楽が流れたり画像が動いたりするのは重いと感じることが多いし、メニューやサイトの全体像が見づらい・わかりづらいものは、よほどの動機がなければ間もなく「戻る」をクリックされて、そして二度と訪れられることはない。表紙から2ないし3クリックで見たい内容までたどり着くことができるとか、可能な限りスクロールが少なく、特に横スクロールはないようにするなど、おさえておくとよいポイントはいくつもある。
美的センスときれいな素材を使って(ちなみに私にはどちらもない)作ろうとする人に対して、上で書いたようなことをふまえたアドヴァイスは、なかなか他の人にはできないとやり甲斐を感じている。しかも、内容面での理解をふまえて、どのコンテンツを先に示し、どれが優先しなくていいものなのかも判断しつつ、同時に訪問者が無理なく読み進めていけるサイト上の構成も考えるため、答えもマニュアルもない作業となるが、おそらくこれがいいだろうというものは確かにそこに存在する。
尤も、リピーターを作る上で最も重要なことは、毎日とはいかないまでもこまめな更新である。こればかりはどうにもお手伝いできないが、客寄せのコンテンツと、宣伝したい内容をうまく近接させて、使っていくのがいいように思う。リンクのお願いとか、URLを宣伝するのは、それができてからでも遅くない。むしろ、一度目に「いい」と思われなかった場合、二度目以降に来る可能性がかなり低くなることの方に目を向けるべきであろう。
名古屋という土地は、なぜだか私に縁がある。縁があると言っても、特に親しい人がいるとか親戚がいるとか長く滞在するとか、そういうことではない。私が名古屋駅を訪れたのは大学入学後だけだがおそらく6回目で、しかし愛知県に宿泊したことは今回を含めて一度もない。そのアンバランスが、単に交通の要所なのか、それともなかなか縁があるのか、と思っている。
今回もまた、特に意図せずしてそのあたりで自由な時間を持つことができて、誰と会うかを考えるのは非常に嬉しく苦しい選択だった。例えば、1時間ずつ5人に会うのも5時間1人に会うのも同じ5時間であり、そこでどういう人とどう過ごすのがいいのかは、答えも正解もないだろうが、先約と私の気分はとある人妻と過ごすことを選択した。
30代の人の呼び方に苦労するのは先日のじっぽ先生も同じだが、詩野さんを見ての第1印象もまた呼び方と同じであった。おじさん・おばさんの年代では決してない。にーちゃん、ねーちゃん、という年代ほど若くもない。紳士とか淑女もいいのだけれど、私の中ではLadies and Gentlemenに対応する映像は、フォーマルなパーティーに出席する着飾った外国人だ。そのうまく言えない、ねーちゃん<X<おばさんに位置する、落ち着いた素敵な女性に対面した。
サイトの雰囲気と、その人と実際会ったときの印象にどんな違いがあるか、というのは、オフ会で最も楽しみにすることの一つだが、詩野さんは私が想像していた通り、ふんわりした雰囲気で、よく気を配って下さり、それでいて芯を持っている、しっかりとして、ほんわかとした方だった。二児の母なら「しっかり」などという評の方がむしろ失礼なのかもしれないが。
具体的な内容はよく覚えていないようなとりとめないものだったかもしれないが、非常にたくさん喋らせてもらったような印象が残っている。元来私は放っておけばいくらでも喋ってしまうたちで、そもそもサイトを始めたきっかけも喋りたいことがあるからだったりしたのだった。そして実世界では「喋りすぎた」とか「相手の話を聞かなかった」とか「自分の考えを押しつけた」とか色々後悔しがちであるのだが、そうしたことを感じずに、それでいて喋ることができたのは、聞き上手というべきものなのではないかと思う。
どこで何をしたかは詩野さんの方に任せるが、本当は幹事kuritaさんにお礼をするべき櫃まぶしに始まり、すっかり満足したり、花見というより人見だったり、大道芸を見ていたり、鯉は何を食べるかと聞いたら鯉の餌だとか、おそらくペットでもてあました結果放流されたであろうカメが、泳いだり甲羅干しをする姿に和んだり、詩野さんより端的な観光案内が随時あったり、あそこに子どもを連れて一時間並ぶとか、ういろうじゃ満足できないとだだをこねる私をデパ地下に連れて行ったりなど、すっかり楽しませてもらった。
途中、ベンチで密着していちゃついているカップルを見て、「いいなぁ、若いって」とどちらかが(あるいはどちらも)呟いていたような記憶も頭の片隅に残っていたりもする。私と詩野さんでは年齢が結構違うのではないかと思っていたが、父親の年齢が1才しか違わないということも発覚し、すっかり姉に遊んでもらっている弟の図になっていた。実際に私は、年の離れた姉のいる弟である。「周りからはどう見えているんだろうねぇ、うふふふ」なんて、二人でほくそ笑んだりしていない。
途中いくつかの「それはどうだろう」と後から考えると思う私の発言にも動じずに、しかもすっかり私がリラックスしていられたのは、ひとえに詩野さんの度量の大きさだろうし、「ヒトヅマ」であるとはこちらも思っているが、それが前面に出てきたり、所帯じみた発言がないことなどにも感心した。そうした大きな存在にすっかりもたれて、私の10日間の旅の最後は、バス乗り場での涙の別れで締めくくられたのだった。
※第1弾と銘打ちましたが、第2弾以降は予定は未定の段階です。でも、できたらいいな。
■2004/04/04 (日) じっぽ先生を囲むオフ in 福岡
やっぱり、オフ会を実際にした3/27に移動します。あねごのところから来た方などごめんなさい。m__m
はりねずみのつぶやきより飛んで、道産子チェック! をやってみる。
医師国家試験は合格率が90%台であるため、「周りと同じことをしていれば受かる」という意識が強い。それは「周りに合わせて手を抜く」ということではなく、「みんながこんなにやってるなら、自分だけが遅れていて、もっとやらなくちゃ」と焦る受験生の姿が多く見られることである。しかし実際には、「ごく一部の人がたくさんやっているようで、他の多くの人が相対的に遅れているものの、別にもっとやる必要はない」ということが曲解されているのが現実だ。
当の受験生たちは、そのような構図はわからないか、もしくはわかっていてもそれに従って行動することができない。その理由は、自分が集団からはずれることへの恐怖に集約できる。もちろん例外的にマイペースを貫ける人はいるが、例えばある本を10人中5人が持っていたら、残りの5人のうち3人は買いに走る。それはその本の内容が優れているから、とかではなくて、主に周りがどのくらいの割合で持っているかに依存する。
国家試験が近づくと、怪しげな「情報」が出回り始める。その多くは出所がもうわからなくなったような又聞きで、「○○が出るらしい」といったまだまともなものから、「今年のB問題の1問目の答えはeだ」などといった、ありえないだろ、というものまで、種々取りそろえている。それが全国に出回るのは、「自分だけがそれを知らないことで落ちたら・・」といった心理が原因で、「とりあえず横の人と同じものを持って試験に臨みたい」という方面に多くの力が割かれることになる。
そうした情報を取り仕切る、と言っては言葉が悪いが、まとめる全国組織が存在する。私の大学はそこからは抜けたが、怪しくない情報の大元の出所である予備校から直接情報を仕入れて、それを受験生に配布するのが国試委員の試験前日の主な仕事となる。仮にこれをやめたとしたら、他の大学の友人からこっそり入手する人がいて、それを「コピーさせて」と回っていく姿は容易に想像できる。そして「自分のところに回ってこなかった」と怒る人が出て、人間関係も気まずくなる。
私はその情報が合格に必要だとは思わないが、そうやって配布することは、受験生の精神安定の意味で重要だとは理解できる。やってることも言ってることも、本質的ではないしくだらないと思っているが、それでもそうして仕事をすることには意味があるだろうと思っている。単にホテルをまとめて取るだけならば、終わってからあんなに感謝されないと思うのだ。
色々面倒な段取りなどがあって、「いっそ全部やめてしまえ」などと言う人も実際いたが、その人が自分と試験の関係だけを考えるならそれでもいいだろうとは思う。しかし、自分と他の受験生の関係や、集団と試験との関係までを考えると、やめる方のデメリットの方が大きいと私は考える。入学してから医者として生きていく間、ずっと同じ世界で協力し合って働くのだから、不正じゃなければ、もたれ、支え合っていくことは、悪いことではないと思うのだ。
綿密な計画に裏打ちされた行動は確かに必要だ。しかし現実が変化したときに対応できる力もまた必要で、私はどちらかというと後者に優れている。勉強に関して前者がないことは典型的な欠点だ。後者に関して、とりあえずその場で判断をして切り抜けることは、好きだしやり甲斐も感じる。
他人から言われることが、どうにも癪に障ってしようがないことがあって、それはなぜだろうかと考えていた。やっぱり他人から言われるということが嫌なのか、などと自分の弱さに帰着させようともしていたが、一つの解釈モデルを考えた。自分とその他人を比較して、自分の方がその場の対応力は優れていると思っているが、計画力は逆の時、その場で計画の不備を指摘されたから癪に障ったのではないかということだ。
例を挙げる。新幹線の切符を手配し忘れていて、どうにかしなければならないときに、すぐに手配する方法や、今からなら一番安い方法を見つけることには自信があるのでなんとかしのげる。しかし、本来それは前々から準備しておけばもっと安く手に入れられることができたのに、などと批判されて私は腹を立てる。それじゃぁあんただったら、今ここですぐに対応できたのか、という思いと、そんなに言うならあんたが前々から準備しておいてくれよ、という思いの両方で「そうだね、俺が悪かったね」と素直に言えない自分がいる。
理論はクリアカットに割り切れるものだが、現実は曖昧で変化し捉えづらいものである。私が理論を無駄だとは思っていないのはこうして日々書いている文章でおわかりいただけると思うのだが、しっかりとした理論を持ちつつ、それをファジーな現実にどう生かしていくかという、コンピューターには難しい力が世の中では大事だと思っているのだ。
大いに参考:Reikoさんの4/7の日記より<コツコツ型の優秀な人に限って、予定が急に変わると対応できなかったりする。「準備していません」と平気で言うのを聞くと、準備していませんじゃなくて、今からやってよッ、と言いたくなってしまう。>
■2004/04/08 (木) 医学生のジレンマ 病気で喜ぶ
学生は学びたい。自分で望んで大学と学部を選び、医学部であれば医学を学ぶ気持ちを持っていて、それを少しでも身につけたことを実感できれば、大きな喜びである。「実際はそうではない」などという反例を出されるかもしれないが、本来これが基本であろうと考える。
病院実習においては、1つのところに1ないし2週間滞在し、病気の患者さんを通して学ばせてもらう。何回教科書を読んだところで、実際に目の当たりにして考えるのには及ばない。医学を身につけるためには、もちろん教科書を読んで勉強して、国家試験も受けるのだが、そうした実際の体験もまた必要だし、百聞は一見の言葉通り、非常に有効でもある。忘れがちだが、そうして育ててくれた患者さんにはどんなにお礼をしてもし足りない。
さて、例えば肺を扱う科にいたとしよう。ある人は、肺炎とか気管支炎とか、よくありふれた病気の人をたくさんみることができた。一方別の人は、それらの他に肺癌とか肺結核とか、数としては珍しい病気の人もみることができた。こうした学生たちがいると、前者が後者に対して「いいなぁ」とごく自然と言ってしまうことは事実だ。最初に書いたような、たくさん勉強したい、経験したいという気持ちから考えると、珍しい病気に学生のうちから出会えることは幸運なことだからだ。
しかし視点を変えて考えると、患者さんが病気に、それも癌などの重い病気になっていることに喜んでいる自分の姿に気づく。一歩間違うと「俺の担当の患者さん癌だよー」「えー、いいなー、私なんかこんなありふれた病気で・・」などという会話をしないとは言い切れない。多くの学生はこの構図に気づくし、実際患者さんの前に立って「あぁ、この人はあと何ヶ月生きるのだろう」などの気持ちが心の多くを占めるのだが、学問的に貴重な体験をしているという喜びの気持ちもまた併せ持っている。
難しい観念論で言うと、医師に求められるものとしては、科学者としての客観的な視点と、人間としての感情溢れる視点の両方があり、そしてそれらのバランスをうまく取っていくことが挙げられる。単純に「あなたの病気は現代の医学では治りません。ではさようなら」ではいけないし、かと言って、そのことについて患者さんと同じ気持ちになって一緒にわんわん泣いているのも、専門職としてはよくないであろう。
それらはどちらかの視点が間違っているわけではなく、どちらの視点の感情も抑える必要はないと思う。ただ二つのものが自分の中にあることをよく認識し、それを表に出すときにだけ注意すれば十分だと思うのだ。救急の実習であれば、適度に救急車が来る方が勉強になって嬉しいが、「やった、また救急車来たよ」などと言いながら、仲間同士笑い合いながら待合室を通ったりしないように注意をする必要はある。
思っていることを顔に出してはいけないというのは、実はどこでも習わず実習に出るために、ずいぶん危ない思いをするものなのだが、医師には絶対に必要な力であり、そうしたことをも体験しながら学んでいくのが病院実習なのかと思っている。つい患者さんの横でCT写真に熱中して「これは○○病じゃないか」などと大声で言ってしまいそうになる自分たちに、ふと気づいて唇を噛みつつ、実習は進むのだった。
■2004/04/09 (金) パソコンで便利になる旅の準備
人生最後のゴールデンウィークを前に、旅の計画を進めている。私の旅は主に大学入学後からで、国内を綿密な計画の元に移動しまくることがおおい。最初22才になるまでは、スカイメイトを使って全国を飛行機で飛び回っていた。確かに半額はかなりの魅力だった。次に青春18きっぷを使った。1日2300円は、かなり他のことにお金を割けて、何よりその時間自体を楽しめた。次に、格安航空券を使ったりして、行った先でレンタカーで走り回るようにもなった。
最近一番変わったことは、宿の手配の方法である。たまたま一度安かったときに会員登録をして、それ以来旅の窓口がご愛用だ。自分で取るにはどうやったって無理な値段で、それもネット上で夜中でも即座に取ることができる。値段順に並び替えることも簡単なので、時間的なロスが非常に少ない。
もう一つはクレジットカードの登場である。先日航空券を予約して、そのままチケットレスでカード決済した。すると座席指定がもう可能で、始めから10分余りで支払いと座席指定が完了してしまった。こちらは銀行に出かけたり振り込んだり手数料を払う手間がなく、おそらく向こうの人的手間も少なくて済んでいるのだろう。
ただ一つ、ネットで空室が調べられずにいい点は、電話をして交渉する際に、どの程度のサービスが提供されるか予想がつくことである。やはりよくトレーニングされているところはそのような応対だし、そうでもないところはそうでもない。多くはパソコン経由で便利になったが、いくらかの面倒なところも残っているといいものである。結局現地では人同士のふれあいなのだから。
■2004/04/10 (土) 箱よりも中に何を入れるかが重要だ
病院実習が始まり、ベッドサイドで使えるコンピュータとしてCLIEを購入した。SONYのPEG-TJ37という機種で、よくわかっていないながら必死に機能を説明すると、スケジュールやメモ帳・アドレス帳などの電子手帳機能の他、英和・和英辞書が標準装備で、画素数はそう多くないもののデジカメや、mp3プレーヤーもついているらしい。しかし、何より違うのは、自分でお好みのソフトが入れられることだ。
かつて、ここまでパソコンが出回る前は、ワープロの時代というのがあった。ワープロの目的にしか使えない機械が多数派で、パソコンはパソコン通信とかプログラマーのためのものだった。しかしいつの頃からか、パソコンがワープロの役目を果たすという包含関係になり、それからワープロ専用機は廃れていった。
そこでのパソコンの優れていた点は、例えばワープロでも好みのものを選べる点だった。実際にはハードウェア的な能力が追いつかなかったが、新しいものが出たら機械を買えずに中身だけを変えればいい。好みの文字フォントがあれば後から入れればいい。入れるものによってはゲームができるというのも、中身を自由に変えられるという点で特徴的であろう。
CLIEのすごさもこの点に集約される。先に書いたような既存のもの、つまり電子手帳と電子辞書となんちゃってデジカメと何かをくっつけたもので終わるのではなくて、まさに自分のニーズにあったソフトを導入して使えるところがポイントだ。私が入れたのは、医学用語辞書、検査項目とその正常異常と病気の辞書、などだが、納得したものにお金を払えば市販の専門の辞書も使うことができる。
何を入れるか、そしてどのように使っていくのかをよくよく検討しようと思う。webの情報をうまく集めて、後からまとめて読むようなソフトもあるらしく、出先の細切れの時間にはそのようなニュースを含めたweb閲覧で、帰ってきたら勉強するなどのメリハリのつけ方もあるかもしれない。モバイルノートパソコンとの役割分担も含めて、何でもできそうだからこそより慎重に何をするかを見極めたいと思う。
犯人を捜すときには、二つの方向から考えていくといい。一つは「アリバイ」とか「証拠」と呼ばれるもので、その犯行を実行することができたのか、ということを証明していけばよく、理解しやすい考え方だ。もう一つは、そのことによって誰が得をするのか、ということで、見た目には色々なことが起こっていたとしても、結局トータルでは誰がどのように得/損をしたのかを検討をする。首尾よく行っていれば、他人に損をさせて、自分が得をするようになっているのが犯人である。
人質事件が解決に向かう、という空気が漂っているのは、向こうの言うことを信じてなかなか楽観的だが、解決したとして誰が得をし、誰が損をするのだろうか。人質が無事に解放され、犯人たちが全員射殺とかにならなければ、当事者たちに人的被害は存在しない。報道される限りでは、人質となった人や人質を取った側の意見はほとんど伝わってこず、もっぱら人質の家族が日本政府の対応を批判しているところばかりだ。株価は下がり、小泉首相への国内感情を悪化させることには成功したのかもしれない。
相手が日本ではなくアメリカだったら、という仮定はなかなか示唆的で、「撤退しろ」「却下、断固戦う」という反応が予想される。そこで日本が選ばれた理由が気になる。私が入っているMLでも、頻繁に「自衛隊は撤退するべき」であるとか「解放に向かったのは市民活動のおかげ」「署名に協力を、首相官邸にメールを」などと流れているが、そういう主張がもっともらしく流れて得をするのは誰なのか、細かい話にとらわれずに事態をよく見守りたいと思う。
メーリングリスト(ML)は、連絡網的にも、また議論の場としてもなかなか有用だ。メリットとしては、多人数への連絡が一度で済む、議論の記録がそのまま残る、地理的・時間的な制約を受けずに交流が持てる、などが挙げられる。しかし、しばらく使われていない「死んだ」MLも多く、運用上の苦労は絶えないところである。
よほどコアなメンバーが集まらない限り、MLは少数のよく発言する人と、大多数の読むだけの人(ROM)とで構成されるのが一般的だ。方向性が悪くなると、本来対等に議論可能な場であるはずなのに、「あんなメールがどんどん来るのはいやだ」であるとか、「主義主張に賛成できないのでMLをやめたい」のように、ごく少ない人たちの発言が大きな力を持つという問題が生まれることがある。こうした意味での「MLの方向性」をうまくコントロールしたいと管理人は考える。
しかしコントロールというのは、結局は発言を控えてもらうという方向であって、全体の活動度を抑える方向と一致する。気軽に投稿しづらい雰囲気を作っては、害もない代わりに有益な情報も流れないことになる。少数の投稿者すらいなくなったら、そのMLは負の実態すらなくなってしまう。あわてて「サクラ」で違う話題を振ってみたりしても、サクラは所詮サクラの効果にしかならない。
理想的には、その話題をよく考えて、読むメンバーのことを思いやって投稿する人ばかりだといいのだろうが、現実にはよほどでなければ流れるメールは抑えられず、むしろ読む側の取捨選択能力が問われているように思われる。自分にとっていい情報ばかりが流れてくることはありえないのだから、間口を狭めて情報を少なくするか、玉石混交の大量の情報の中から自分で選り抜くか、どちらかを選ばなければならないだろう。趣旨に賛成できないものをバッサリ読まずにいることも、圧倒的に多量の情報を手に入れられる現代には必要なのかもしれない。
■2004/04/13 (火) 指を切って医者の責任みたいなものを感じる
いい気持ちで昼寝をしていたらお袋に起こされた。親父が庭で仕事をしていて、剪定ばさみで指を切ったという。まずは血がドバドバ出るのでつけたという輪ゴムをはずさせ、傷はせいぜい2cmもないことを確認した。血がよほど噴き出しているような場合でなければ、縛って止血するのは害の方が多く、たいていの傷では圧迫しておけば血は止まる。思った通りほどなく血は止まり、さてどうしようという話になった。
最近勉強している、心臓が止まっているとか血圧が下がってきたとか、そういう次元ではないのは明らかなので、とりあえず救急車の適応ではないと思った。どうせ縫うなら形成外科の方がいいかと思って、市内の形成外科がある病院を探したら、ちょうど実習に行っているところだった。外来があると思って行ったらそれは私の勘違いで、電話をかけていたら断られるところだった。くしくも、病院というのは「行ったもの勝ち」というのを、先日この病院の救急の先生から習ったばかりだったが、こんなにすぐに実践してしまった。
そしてまさに実習で通っている救急室(ER)で、わざわざ呼んでもらった形成外科の先生が7針縫った。私が小学生の時に指を切って、当直の内科の先生に縫ってもらったのとは大違いで、きれいで素早い縫いっぷりだった。プロにこんなことを言うのは失礼極まりないのだが、素直に感心してしまった。いわく、顔など美容上の問題がある場所でなければ、特に形成外科である必要はないということだった。見慣れた看護師さんたちに挨拶をしてERを後にした。
一番悩んだのは、病院に行くべきかどうか、行くとしたらどこがいいのか、ということだった。この時間帯にこういう病院に行ったらどうなるだろう、という想像は一応できるが、だからこそ何が患者にとっていいことなのか、病院側、つまり医者にもその他のスタッフにも負担が少ないことなのか、考えれば考えるほどわからず、結局最適な判断ではなかった気がする。
まだ医者ではないので責任もなく、自分は何もできない状態でこれだけ悩むということは、医者としてある程度は処置などができて、できない部分は他の医者にお願いするとなったときを考えると、単に「責任が重い」という言葉で片づけるには大きすぎるものの輪郭を感じたのだった。勉強しなければ。
医学的に必要がない検査がある。例えば頭痛とCT検査について考える。頭痛の原因の一つであるくも膜下出血は、CTで診断して、すぐに治療をする必要がある。もちろん実際にくも膜下出血であるのは頭痛の中の一部分で、全ての頭痛にCTをするわけではない。強く疑う症状であれば、万難を排して検査をするが、現実には、疑わしい状態からまず違うだろうという状態まで種々の段階があって、どこまで「念を入れて」検査をするかは、実は現場の裁量である。
絶対に見逃してはいけない場面では念を入れる。例えば労災とか交通事故で、本人には金銭的な負担がなくて、かつそこであるものを見つけられなければ大きな問題になる場合、可能性が低くても検査を行う。実際の判断に差が出るかどうかは表現しづらいが、遠慮なく検査をしていけるのは事実である。
本人がかけた労力にも左右される。医学的には必要がないときにでも、夜中にわざわざ病院にやってきた場合などがそうだ。例えば午前2時にタクシーとか救急車を使うくらいに本人が心配していて、夜中なので待たされるかもしれなくて、その挙げ句「何も検査をしないで」帰されたときには、本人の不満は大きくなる。その後何かあったときに、それが関連なかったとしても、理不尽にも訴えられたりする可能性は高くなる。
あまり知られていないだろうが、病院の体制も大きな要素だ。その病院にCTの設備がなくて、例えば車で1時間かかる場合、15分で行ける場合、わざわざ調べるのかどうなのか。CTを撮る技師が自宅待機の場合に、わざわざ呼び出すほどなのかどうなのか。逆に、夜中でも昼と同様に撮れる体制を整えている場合、せっかくだからと撮りやすくなる要素もないわけではない。
しかし一番重視するのは「本人の希望」である。問診結果や検査結果に問題がなくても、「本人の強い希望で」という一言で、可能な検査や処置は行われる。これは、患者自身の判断によるものだが、医療関係者でなければそこで判断できるだけの知識も力もないはずである。患者が病気のことをより勉強することが求められている、と結論づけるのはやりすぎだろう。その判断の根拠となる医者からの説明の重要さも同時にわかる。
CT被ばく10年で3倍、検査の指針作成へのニュースを見ていたが、これを単純に「無駄なCT検査を減らそう」とは言えないな、と感じながら実習をしている。本当に解決しようとするのであれば、もっと大きな啓蒙活動から始めていかなければならないと思うのだ。
あいつといるとつらいとか、あの人の下では働きたくないとか、人間関係の中でできれば避けたいとの思いを持つことがある。それはその人の態度だったり、価値観だったり、言葉遣いだったり、行動だったり、色々あるわけだが、他の人が「いやー、あの人とは..」と言う人でも、私はそんなに苦にしていないことに気づいた。
数えたわけではないが、私がそう思う人の数は他の人より少ないようなのである。中でも他の人に比べて「つきあうのが大変」とされる人でも、私にとってはそうそうつらいとは思わないようなのだ。思うところがあるとしても、その人とうまくやっていくにはどうしたらいいかが頭に浮かんできて、そしてそれを実行に移すことによって、その場をうまくやっていくことができる。
初対面で話をするのも同じである。最近は初対面の人と話す機会が多かったのだが、別にそれがプレッシャーになるとかストレスになるということがなかった。相手がどのようなことを考えているのかをとらえて、自分が思っていることをうまく伝えて、会話を組み立てていく。もちろん心を許せる相手とそうでない相手がいるわけだが、心を許さないなりの会話というのもできるものだ。
今実習で、きつい言葉を使う上の先生にあたったときにも、さしてへこむことなくやっていけるのは得かもしれない。「やめろ」とか「バカ」とかなんとか言われながらも、別に自分がバカだと落ち込むわけではなく、まぁその先生にはそう言いたくなる事情があるのだろうとか、その先生はそういうキャラの人なのだとか、そう考えていく。「はーい、バカですいませーん」と本当に思わなくてもいいので、そうやって振る舞うことができるならば、その場を固まらせずにやっていくことができるのではないかと思うのだ。
それができるだけのアイデンティティーが自分にあるからなのか、何なのか。そこまで自分を左右できるような他人は、本当に自分が認めたごくわずかな人だけだからと思っているからなのかもしれない。そしてそれ以外の人とうまくやっている自分の姿自体が、自分を認めることにつながっているとも考えられる。集団の中でいかに振る舞うかというのは、成り立ちはすごく複雑なのだが、自分に自信を持つためにはとても有効なものだからだ。
研修医は医師であるが、医学生は医師ではない。学生という立場であれば、医師の指導の下という条件つきで、ある程度のことをすることが許される。一つの例では、これまでどのような病気になってどのように治療してきたのか、患者さんから話を聞くのは構わないが、「○○した方がいいですよ」とは言ってはいけない。もちろん、そういうアドバイスができるような実力も持ち合わせていないのだが。
自覚に乏しい学生も多いのだが、白衣を着て聴診器を持っていれば、患者や患者の家族からは医師だと思われるのが自然だ。そこで、患者や家族から色々と話しかけられることがある。話しかけられるような場にいないようにすることもできるが、それは実習に参加する態度として、ずいぶん消極的であると言わざるをえない。
「こんな症状があって心配なんです」と言われれば「そうですよね、それは心配になりますよね」と答える。「こんな病気じゃないでしょうか」と聞かれれば「どうしてそう思うんですか」とか聞いてみる。どうしても何か言わなきゃならないときには「そういう可能性もありますね」とか「そうかもしれないですよね」と返す。できるだけ相手に確定的な情報を与えないようにしつつ、向こうに色々話してもらって、なんとはなく「話をした」という雰囲気を持ってその場をすごしてもらうようにする。
医療面接の練習で、よくわからないことについて話をする、というものがあるらしい。医者役がよくわからないことを、患者役がなんとかして聞きたいという場面設定で、どうやって会話を成り立たせて、うまくつないでいくかというのが狙いだという。そのトレーニングを受けていればなぁ、と思うような、でも黙ってそこから逃げ出すことはしたくない、そんな思いの狭間で病院実習をしている。
とあるお金を振り込みに郵便局に行き、お金を準備し振り込み用紙を取り出したところ、振り込み用紙に押印欄が見つかった。お金はお金で伝わるわけだが、どんなハンコを押したのかの印影も伝えることも可能らしい。さして重要な書類とも思わなかったし、家まで取りに帰って往復するよりも安く済むので、100円ショップでやっつけの印鑑を購入し、さっさと押して振り込んだ。
そもそも印鑑というのは、印鑑の持ち主とその印鑑を押した人が同一であることが問題になるのであって、たとえそれがどこでも手に入れられるようなものであっても、押してあるかどうかだけが問題になるのは、目的に反している。印鑑証明と印鑑ぐらいの厳密な対応関係を見るのならば、それなりに手間もかかるし意味があるのかもしれないと思う。
噂で聞いているだけだが、鮮明に押された印影をパソコンに取り込んで、そこから逆に印鑑を作製するような詐欺の方法もあるという。確かに可能だろう。通帳の表紙の裏に印鑑を押しておくことは、実は非常に危険なものになりうる時代で、印鑑の同一性が揺らいでいるのにこだわる理由は何だろうかと思うこともある。
国家試験の受験票を受け取るために、受験票に押したものと同じ印鑑が必要だという場面があったが、「どのハンコだったかわからなくなった」という人が少なからず存在した。印鑑同士の同一性を保っていると言えばそうだし、その人の同一性が印鑑の違いで保てないとも言える。そのうちわからなってしまうくらいの頻度でしか印鑑を使っていない、という現実も推測される。私には印鑑をなくして銀行の通帳を手間をかけて作り直したことがある。いつもは暗証番号だからだ。
4桁の暗唱番号だけでは不安に思うこともあるし、パソコンにある他の認証システムも手軽さの点では及ばない。かといって欧米のようなサインはますます怪しいし、日本の印鑑システムに代われそうなものは思いつかない。なくしてしまえばいいのに、と思っているが、じゃぁどうすればいいのかというのには答えはない。だからこそ今のような「たまに印鑑」という現状になっているのだろう。
■2004/04/20 (火) 買うと言ったら買われない喧嘩
私の文章は喧嘩になりやすい。きっちり論理武装して、話を組み立て展開するため、評価されることも多いが、根本的に考え方が異なる人とぶつかったときは大変だ。こんな「硬い」文章を延々書き続けていることからもわかるように、そうやって議論をするのはむしろ歓迎であるから、適切な場で適切な議題について話をするのは望むところだ。
適切な場、というのは結構問題だ。最近、多数の人が目にするMLでの議論は避けたいと私が思う場面があった。再三の「MLでやるのにふさわしい内容か?」との管理人からの呼びかけも功を奏さない場面で、「私はあなたの意見と違う。しかしこの場で議論するのは賛成しない。こちらの掲示板でならいくらでも相手をするから」と言った途端に、相手の姿はすっかり見えなくなって、私はすっかり肩すかしを食った。
もう一つ、いわゆる「2ちゃんねる化」した若干身内の掲示板で、私を名指しで非難するものがあった。2ちゃんねる化というのは、匿名であるのをいいことに好き勝手に書くというものをイメージしている。このときは「名乗って言ってきてくれたらいくらでも相手するから。直接会ったら何時間でも相手するから」と宣言した途端、あれこれ言う声はなくなり、それらの掲示板での書き込みもなくなっていった。
匿名から抜け出すところが問題かと思ったが、最初の例だと元から実名であるから関係なさそうだ。どうやら彼らは、確かに言いたいことがあるが、それを面と向かって言うほどには思っていないようなのだ。
攻撃されると、できるだけダメージを受けないように、逃げたり隠れたりしがちであるが、相手も同じくらい陰からこちらを責めてきて、結局逃げ切れずに嫌な思いをする羽目になる。そこでいっそ正面から立ち向かってしまった方が、実は楽にやり過ごせるのではないかと思った。
そして、こちらが正面切ったらどこかに消えてなくなるような陰口については、所詮はそのくらいしか重みがないものなのであって、それを気にして落ち込むことは得策ではない。もしもそこでなお残るような異見があれば、じっくり腹を割って話をすればいいだろう。逆に考えると、「最後には話をしてもいい」という覚悟ができるかどうかが、そのことに正面から立ち向かえるかどうかを決めるのだろう。実行するには、簡単でもあり、難しくもある行動方針だ。
■2004/04/21 (水) 人質と自衛隊問題の私の考え方
私は元々、今回の自衛隊のイラク派遣には反対だ。国連主導で、しかも大義があるところに行って、汗を、時には血すらも流すことは、世界の中で日本が果たすべき役割としては適切であると考える。しかし今回のイラク派遣は、アメリカ主導で、大義もない。この気持ちは変わらないが、立法府である国会で決めたことには従うべきだし、行くからには誇りを持って働いてきて欲しい。
次に、人質事件で犯人側の要求に応じて撤退するのには反対だ。日本という国が、人質さえ取れば言いなりになる国だと全世界に宣言することは、どう考えてもデメリットの方が多い。全世界の日本人が拉致の危険にさらされることを想像するからだ。犯人側の立場に立って、要求が何なのか、人質を殺すことは彼らにとって損なのか得なのか、と考えていって、交渉の上で妥協点を探るべきだ。人質は不用意に殺せないものだし、犯人側の言いなりの結論に至らないことくらいは、歴史を紐解くまでもなく周知の事実だ。
スペインは選挙の結果を受けて、軍の撤退を決めたらしいが、そうした「国の方針」としての自衛隊の撤退ならば賛成だ。国の方針としての「撤退しない」という選択でも賛成だ。私個人の意見とは違うが、スジが通っているからだ。
種々の踏み絵が登場して、誰の意見がどのようなものをベースにしていたのか、というのがあぶり出される事件だった。一つ例を挙げると、今回の事件は、人質を取った犯人グループが悪いのか、人質となった人が悪いのか、自衛隊を派遣したのが悪いのか、侵攻したアメリカが悪いのか、大量破壊兵器についてイラクの対応が悪かったのか、どの意見でもいいのだが、最初からこれらのどれかというのが決まっていて、色々起こって、色々言っても結局同じところに戻る人・サイトほど、信用できないと思った。私の中では正直、各々がどのくらい悪いかの答えは出ていないのだ。
医者を「先生」と呼ぶことは、前提としてとりあえず認めることにするが、臨床の先生方は、学生をつかまえて「先生」と呼ぶことがある。これを「偉くなったと勘違いする一因だ」と非難する人もいるし、「まだ自分は医者じゃないから・・」と違和感を持ち、できればやめて欲しいと願う学生も多い。私も最初はそうだった。
病院で、白衣を着て、本物の医者の後ろについてウロウロするのが学生だ。すっかり学生気分でいて「あー早く終わんないかなー」とか「さっきの人の○○病は」などと、他の患者さんがいる前で大声で言うことも確かにないとは言えない。責任がないがゆえに、「あの先生はうちらに構ってくれない」などという発言も出ることがある。
しかしながら、患者さんは病気で病院に来ているわけで、遊びに来て、私たち学生につきあってくれているわけではない。にもかかわらず「お話を聞かせて下さい」と言えば聞かせてくれるし、体を見せてもらうようにお願いすれば、恥ずかしいだろうに見せてくれる。聴診器をあてたり、胸を叩いたり、お腹を触ったり、ということも許してくれる患者さんもいる。
それを許してくれるのはなぜなのか。不意に患者さんから「先ほどそちらの先生にも話したのですけれど」などと、学生を指して「先生」と呼ばれることがある。つまり患者さんは、こちらが学生だと名乗っていても、要するに医者みたいなものだと認識してくれているのだと考えた。確かに、単なる若者が「お腹を触らせて下さい」と言っても、肌をさらして許す気にはならないだろう。
病院実習において学生がこうとらえられている、というのが先にあって、そうした場で教官が学生を呼ぶのに「先生」と呼ぶことは都合がいいと思う。だいたい、チームの一員として学生を組み入れるのが昨今の流行だが、医学部5年、6年、医者1年目、5年目、10年目、などという5人のチームがあったときに、前二者を「先生」をつけずに呼ぶことはどれほど意味があることなのか。
「先生と呼ぶから、学生が勘違いしてつけあがる。」という意見よりも、「先生と呼ばれるくらい、学生も責任を持つ」と考える方がいいだろうと思う。ほんの一、二年の違いで、それも確実に同業者になる人たちが、自分たちの仲間と同じように呼んだっていいだろうと思うのだ。呼び方だけにこだわるのは、一歩間違うとただの言葉狩りとなってしまうが、そこで考え、感じることができる人でありたいと思う。
法事というのは、死んだ人のためにやるものではない。それをきっかけとして、残された者たちが集まるところに意味がある。お坊さんの都合でお経の時間が遅くなったが、その間他愛もない話ができたり、2時間で閉店のレストランでの会食を3時間まで粘ったりして、せっかく集まった親戚一同とたくさん時間を過ごせたことが一番だ。
血のつながりはあちこちで感じることができた。顔が似ているのはもちろん、後ろ姿とか横顔などは、並んでみると納得だ。ボケ方とか突っ込み方も実は似ていて、そこでそう来るか、というのは、思った通りだったが上を行かれ、すっかり笑って終わってしまった。でも、それでいいのだと思う。
同い年のいとこの子どもも、もう1歳になるという。ぼちぼち結婚の声も聞かれ、親の代は「じいちゃん・ばあちゃん」の代へと変わる。なんだか早いような気もするが、20代も半ばを過ぎれば、ごくごく当たり前のことだろう。私が車を運転するからと、親父は喜んで酒を飲み、もうないだろうという家族4人でのドライブで帰ってきた。
色々な予定があって、色々断った犠牲の上で法事に出かけたが、すごくいい選択だったと思うことができる。家族指向が強くなったのは年をとったからなのだろうか。
■2004/04/26 (月) 副作用があっても薬を使うとき
「薬を飲み始めるとやめられないから飲まない」とか「薬はやっぱり体に良くないから飲まない」と言う人がいる。一般の人ばかりでなく実は医療従事者にもいて、その人の自由ではあるけれど、それってどうなんだろうと思うことは結構ある。
「痛み止めを使うと効かなくなる」と言う人もいるが、今日の実習で整形外科の先生が言っていたことによれば、痛み止めを使うと痛くないからどんどん負荷がかかって悪くなって、病状が進行することによる痛みが増えるからだ、と考えるのが自然のようだ。
先日テキストサイト界を席巻した小町さん歯痛事件などは一つの典型例だ。小町さんが特別我慢強い例外だとか、医者から見た悪い患者の見本とか、そういうことでは全くなく、本当にそういう人がごく一般的に存在するのだ。
副作用のない薬はないと考えた方がいい。漢方でも何でも同じだ。副作用がないなら作用もないんだろう、とも考えてしまう癖がついた。それでも私が薬を飲んで、必要だと思えば他人にも薬を勧めるのは、副作用より作用が大きいと思うからである。
痛み止めの例を挙げると、止めてもいい痛みなのか、止まる痛みなのか、どのくらいに良くなると予想されるのか、というメリットを考えて、同時に、胃が荒れるか、いくらお金がかかるのか、肝臓に負担がかかるか、などなどデメリットも考えて、どちらが大きいかを判断してその痛みを止めるかどうか決める。
これらのバランスを多くの人に考えて欲しいし、それを伝えていくのも医者の仕事だ、というところで話にオチをつけるのもいい。しかし現実には、やはり嫌だと思っている人に薬は効かないし、色々納得した上で飲まない選択をするのならばそれもいいと考える。大事なことは、いかにも正義で最も正しいとされることであるかのように、「そこでこの薬飲むだろう」などとこちらが押しつけないことだと思うのだ。「治るものを治して何が悪い?」という開き直りは、こう書けば誰でもわかるが、全く気づかずに自分が取ってしまいそうな選択でもあり、ぜひとも気をつけたい。
そもそも年金の制度の現状は、税金のような強制的なものではないので、入りたい人は入り、そうでない人は入らず、入らない人はそれなりのデメリットを負わされるというのが自然な考え方だ。年金の場合は、自分が将来年金をもらえないということになるが、それでもいいと思えば払わなくても咎めようがない。江角マキコが自分のことを棚に上げてどう言おうとも、払うだけの意味を認めない人は払わずに済んでしまう。
三閣僚は、将来的に国民年金は要らないと思っていたのが正直なところで、議員年金とか、それこそ蓄えとかも、国民年金を月額何万かもらうようなレベルではないだろうと勝手に推測する。仕事が変われば年金の種類が変わり、そこで自ら手続きをしなければ基本状態が「もらえない」であることを、図らずも閣僚という立場で証明してくれたのが今回だと思う。むしろこれまで、お上がやることだからなのか、「お金がなくて払えない」人はいたかもしれないが、「お金はあるけど、払う気がない」という人が、表に出てきていなかったことの方が驚きだ。
年金制度を本当に全員に課したいのであれば、税金で取るのが一番手っ取り早いし、例えば未納者には運転免許を交付しないなどでも、払う方はいやいやかもしれないが、お金は収集できることになるだろうと思う。誰だって、どこに使われるものやら、自分に返ってくるものやらわからないところに、年間15万余りも払うことは嫌に決まってる。「未納率が増えている」とか「払うように呼びかける」などと寝言を言っても一円も集まらない。
閣僚を非難するのも、未納の若者を非難するのも勝手だが、「払った分もらえない」とかいう次元で年金制度がとらえられている現実にこそ目を向け、意識を変えたり、制度を変えたりする方が、よほど年金のためになると考える。年金にとって何がいいものかはわからないのだが、閣僚が払おうが払うまいが、一般市民が払おうと思えるものであることが目指すべきものではないだろうか。
私は北海道人なので、東北6県は名前も位置関係もバッチリわかるが、九州は何県あるかもちょっと怪しい。欧米人が、日本人と朝鮮の人と中国人とを区別できないと言われてもそうかと思う。日本人から逆に見ても、同様に区別がつかないことがあるだろう。自分に近いところには詳しく、遠いところは本来違うはずのものの区別がつかない構図がある。
最初に病理診断を見たときには驚いた。顕微鏡を覗いてピンクと紫の模様を一瞬見ただけで、癌だの良性の腫瘍だのなんだのかんだのとコメントしていくのをわけもわからず横でみていた。半年・一年の単位でいくらかわかるようになってきたが、それは確かに一瞬見て感じるものが身についたからだった。「人を見て『これは○○さんだ』というのは、説明すれば目とか鼻とか顔の輪郭などの色々な特徴の積み重ねだが、実際には一瞬でそれを判別している。顕微鏡でみるのもそのようなものだ」と教授が言っていたのも、なるほどと思えるようになった。
他の人にわからない細かな違いがわかることが、専門と呼ばれる力なのであろう。正直クリタさんの肝臓の具合は大いに心配で、肥満・飲酒・喫煙・ストレスだけが原因ではないのだと、私の目には見えるのだ。しかしそれは、クリタさんの知識の量が問題だと言いたいわけではない。
それはそれとして、最近いくつか、自分にとって「遠い分野」について大いに混同して失敗した。どうも自分が見える違いを、他人が認識していないことに注目してしまいがちなのだが、本当は逆について気をつけなければならないのかもしれない。つまり、自分が同じだとみなしているものについて、本当は全然違ったり、それを区別することにこそ意味があることかもしれないと、常に疑ってみるということだ。
地図で言うと、自分の町内についての縮尺と、遠くの県の縮尺、遠くの国についての縮尺は、各々拡大率が違っているだろう。物事の捉え方でも、自分がどの程度の縮尺でものを見ているのかについてを意識したいと思う。それをしっかりわきまえた上で、考えて発言していくならば、内容が乏しくても有益なものになると期待しているのだ。
暇も金も不足していたため、去年の夏からタイヤを替えようと思っていたが放置していた。冬を控えて履き替えてみると、タイヤから針金が「コンニチハ」と手をふるほどすり減っていた。危険だし、早く気づけよという感じだった。そろそろ気温が氷点下にならなくなったので、夏タイヤ(冬タイヤでない方のタイヤ)を買おうと街に出た。
市内の7軒の店を回った。ネットで少しは予習をして、その上で「ボク何にもわかんないんですー」と装って話を聞いた。タイヤというのは本当にピンキリで、3倍とか4倍の違いがある。安くていいのが一番いいが、現実はそうはいかない。聞くポイントとしては「一番安いのに比べてこっちはこれだけ高いわけだが、それは何が違うのか」ということである。これはなかなか効果的だった。
にわかなおねーさんは、「こちらも悪いというわけではないですけど、やっぱり全然違いますしぃ」と、内容的にはさっぱり要領を得ない。同じくらいの値段の会社間での比較についても、どれがいいのかよくわからない説明で、結局石橋さんをおすすめされた。ただの回し者だったのかもしれない。別な店だが、今回調べて○○○館があの会社の系列だったとはじめて知った。ふらふら行って夏の虫になっていたかもしれなかった。
規模のわりに暇そうで、ちょっと偉い人が出てきたところは的確な説明だった。一番安いのがこの値段で、高いのがこの値段で、車種を考えるとこのくらいはいかがでしょうか。特徴はこれこれに優れていて、一番高いのに比べて劣るのはこういうところで、という感じだ。そこでどれを買うかが自分の中で決まった。「お金もホイールも今は持ってきてないですからー」と言ってその店を出て、違う店でその銘柄を指名買いした。1本4千円とか違うのだから驚きだ。
最近の買い物では、店員が単なる情報提供者になってしまって、そこから買おうというのが結びつかなくなってきている。ものによっては通販してしまえばいいし、他の店で安ければそちらに行くまでだ。賢い買い方なのかもしれないが、それを公平な立場から勧めてくれる人には価値があるのかもしれない。医者に薬の情報を提供する人の中でも、会社に所属しないでフリーの立場の人の方が人気だと聞いたことがある。そんなところにビジネスチャンスを感じつつ、金にならなくてもいいからそういう「要」の役割を果たしたいものだ、と思うのだった。
前半はある教官の受売りだがご容赦願いたい。
医者に必要なものは、技術、知識、態度の順である。優しさとかは大事だが、技術や知識の後ろである。もちろん「なくていい」と言いたいわけではない。「ごめんねぇ、おばあちゃん」とかしっかり気遣いながら、しかしブスブス針を刺して失敗するよりは、無愛想でも一発でできた方がいい。丁寧な態度で診てくれたけど死ぬよりは、ぶっきらぼうでも治る方がいい。これが技術が最も大事だという理由だ。繰り返すが、技術さえあればいいと言うつもりは全くない。
知識というのは、知っていればうまくやれるものの量である。あることを知っているかいないかで運命が大きく変わることがあり、それを知らないことはある意味罪でもある。練習とか道具とかを必要とせず、単に知っているだけで結果が全然違ってくるものに対する知識を身につけるのはやはり重要だ。
巷で「医師の態度」が騒がれるにつけ、その「態度」とやらを身につけようと考えがちだ。例えば家庭医とか診療所とか、そういうところでの接し方に憧れて、そういう将来を希望する部分は私の中にも存在する。しかしそれは、あくまで技術あっての態度なのであって、態度だけを独立して考えることはできないのだと思う。
就職先を選ぶにあたって、これら3つのバランスを考え始めると正直迷う。どれも大事だし、どれも完璧に身につけようなど無理な話だ。環境の要素と、自分の中でどうにかできる要素の役割分担もあるかもしれない。どれがどのくらいなら合格なのか、そういう基準がない以上、自分が思い描いた、もしくは信じたところに進むしかないだろう。その像を日々模索して、学生最後の春を過ごしている。
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