最北医学生の2004年 6月の日常

■2004/06/01 (火) 大学病院の使命

高度専門医療という概念があり、一部の病院が稀で難しい病気を集めて診る、というのが机上の論理だ。それはたとえば大学病院であって、市中の病院から紹介された患者がかかる、というシステムが期待されている。この意味で、風邪などのありふれた軽い病気の人が大学病院にかかることはふさわしくなく、「心配だから」とそれを望む患者はダメだなぁ、と思っていた。

大学病院で実習に出てみると、確かに大学で治療するのがふさわしい、という患者もいるが、色々な病院を回ってきたが「何でもない」と言われ続けて、納得できなくて大学病院に来た、という患者もそれなりの数存在する。後者に対して、大学の医師がやるべきことは何なのか。

患者の訴えを元にして、その要求に応えるのが医師の基本的な姿勢である、という考えには異存ない。そこに病気があれば治すのも、病院に来ている患者が要求することだとみなしていいだろうが、そこで病気がなかったらどうなのか。それに対しては「病気がない」と納得してもらい、不安と疑いを取り去ることが必要だろう。そのためには、検査は多いほどいいし、患者が受ける印象としての医者のレベルは高いほどいい。

その結果、大学病院では検査は多くなる。ここで「異常なし」と言われたら、その後少しくらい症状があっても「まぁ大学で大丈夫と言われたから」と病院への足も遠のくだろう。可能性が少なそうでも、できる限り調べ尽くして、異常がないことを確認しておく。医療費高騰につながると私も批判していたのだが、患者さんにとっての一番の問題が「病気じゃないかと思っている」である以上、それを解消するべくやった方がいいことなのではないかと思う。

大学で教授になるには、臨床的な「医者」の能力は全く関係ない、というのはあまり知られていないが事実だ。それもどうかと思っていたが、臨床能力が実際にあろうとなかろうと、患者が得たいものが「安心感」であるのならば、それができる医者ならばいいのでは、と思うようになった。専門分野に関して、大学病院がその本来の役割を発揮できることは、もちろん基本にあるのだが、そういう理屈で片づけきれない問題があるのが臨床の現場であった。

■2004/06/02 (水) 医療ミス発生

コンディションが悪い状態で実習に向かった。今日は患者さんに会わないからいいだろう、と内心思っていたのは事実だ。先生の話を、ぎりぎり寝ていないか、ぎりぎり寝ているか、という状態でなんとか聞いていた。話は頭に入っていないが、レジュメを読んだり、断続的に聞いていたりで、話がわかっていない、ということはなかった。

実習の一環として、血液型の調べ方をやることになった。4年ほど前に基礎医学の実習でやったような気がしないこともない。一応もう一度説明を受けつつ、たぶんわかっているだろうということでやり始めた。どうせできるだろうという思いと、どうせ違っていても患者さんに迷惑かからないし、という思いはあった。

結果、見事に間違った結論を導いた。検査を知る人にはもう大笑いされるしかない間違い方だが、あえて恥を晒すと、A(+)をAB(−)と解答した。勘違いで裏返しになるとか、そういう次元を超えていて、もう今考えると穴があったら入りたい気分だ。検査手順は合っているが、細かい量とかを適当にやっていて、先生の「なめてかかるな」というアドバイスは的確だった。事実、なめてかからなくなったその後は、コンディションは変わらないのに完璧なできだった。

ミスが起こった原因を分析すると、まずは自分のコンディションの管理で、これはプロとしての仕事のうちに入る。次に、自分で勝手に決めつけることがあり、先生の説明がどんなに正確だったとしても、それをないがしろにして「こうだろう」という意味不明な自信がわく不思議な思考が存在する。最後に、その行為に責任がないという意識で、緊張感がないと表現してもいい。

そういう狙いではなかったはずだが、期せずして医療ミスに気をつけろ、という教訓を得てしまった。過剰な労働時間などでミスが起きるのは、要因としては1つ目だけであって、後の2つは自分で気をつけることができるはずだ。特に、コンディションが悪いと認識しているときほど、そうした気をつけ方を心がけることが、大きなミスをしないための秘訣かもしれない。本当は、それらを未然に防ぐシステム作りの方が大事だと思うのだが。

■2004/06/03 (木) 言葉を使わない方がいいこともあるかも

私は言葉を大切に思っている。もめたときは言葉に頼るべきだと思うし、もめた同士で同じ言葉を信頼していれば解決できると考える。自分の思いを言葉にできなければ、それを伝えることは無理だと言われても文句は言えない。

ただこれは、はっきりさせた方がいい場合の話である。はっきりさせるためには、はっきりとした基準が必要で、そのためには言葉を介することは不可欠だ。しかし世の中には、単にきっちり白黒つけることがいいことだとは限らない場合がある。そうした場面に、いつものように言葉を持ち込むことは、時には悪い影響すら及ぼすことになる。

言葉を信じ、その力の大きさをよく知っているからこそ、そこで言葉を使うのか? と立ち止まることが必要なのかもしれない。言葉なしで、言葉を尽くしたのと同じ結果が得られるならば、そうした方が優しいし、高度なコミュニケーションスキルだろうが、言外の意味だけで伝えることも、場合によっては可能なのかもしれないような気がしている。

■2004/06/04 (金) 人生選択をする

いつの頃からか、自分の人生が種々の選択の積み重ねでできていくことに気づいた。AでもよくてBでもよい。どちらを選ぶかは自分次第で、どちらもそれなりの結果になりそうに見える。ある人はAがいいと言うかもしれないし、ある人はBかもしれず、価値観とか、それこそ人生観などに関わってくる問題だ。

当然のことながら、その選択には正解はない。同時に、正解を導く方法もない。誰かが誰かの選択を非難したりするかもしれないけれど、それは全く根拠がないはずで、あるとすれば自分の考えの押しつけだろう。自分でもわからないながら、わからないなりに進んでいき、たとえ誰かに相談できても、最終的には自分で決めていくしかない。

人生選択というのも色々あるが、何にせよ相手のあることであり、同時に自分の中で譲れないものを持つ部分でもある。その中で、自分の意向をどう通していくのか、その前に、この意向は苦労して通すだけのものなのだろうか、と自分に問い直すこともある。

未来の自分が振り返ったときに、結局うまくいかなかったけどあのときの選択としては最善だったな、と思えるかどうかが一つのポイントだ。自分で自分を評価するので、基準はいくらでも甘くできるし、また厳しくすることだってできる。自分でラインを決められるからこそ、納得のいく手順で、そしていい結果を出したいと思う。

こうしたレベルの自分の悩みを共有できる人は、すごく少ないような気がするし、本当の意味で一緒に考えることができる人は、どうしても当事者として関わりが出てくる構図もあり、現実的には存在しないのかもしれない。そうした狭間をうまく縫って、必死に選び続けることこそが、人生を切り開くとかいうことなのかもしれない。

■2004/06/05 (土) みんなのMRIを撮れというのか

頭が痛いという人を1000人でも10000人でも集めてきて、片っ端からCTでもMRIでも撮ったら、何人かは、出血とか腫瘍とかの病気が見つかるのだろうと思う。しかし現実はどうしているかというと、そうした検査ができる病院は数も限られ、あっても順番待ちですぐにはできない、という話も聞く。費用だってバカにならない。写真一セットで30000円とかするのであれば、撮る必要がなさそうな場合にはやめておくのが自然な考えだ。

一方経営的な問題で、たくさん撮るのを奨励している病院もあるという。経営的に、というのは、それで儲けてやろうというよりは、買っちゃったから元を取らなきゃ赤字になる、という表現が近い。順番待ちが必要な病院と、赤字になっちゃうという病院では、同じ人でも撮るか撮らないかが変わるかもしれない。

念のため、という思いは医者にもある。まず違うだろうと思いつつも、もしかしてひょっとしたら万一そうかも、と思ったときにどうするのかは、見逃すわけにはいかないという意味で難しい判断が迫られる。また、重い病気はまずありえないな、と思っても、患者が強く望んでいれば、安心してもらったり、納得して帰ってもらったりするのも、医療の大事な役割だ、という考え方もある。

もちろん、調べるのはいいことばかりではない。費用もそうだが、CTなどの被曝が原因で発癌率が上がっているという調べもある。なんでもない人の「心配」を解消するためだったのに、そこで病気を作り出しては本末転倒だ。医療費の高騰も叫ばれていて、例えば本人が30000円払うと言っていても、70000円は健康保険から出ることになる。それが「必要な検査」なのか「不要な検査」なのかの判断は難しい。そもそも、検査をしないと検査結果はわからないのだから。

こうした数々の要因を考えて行われるのが臨床現場だ。批判するのは結構だけども、果たして全体をわかって言っているのか、それとも単に煽りたいだけなのか、疑問を感じることはある。見逃される脳の病気は一面では正しいだろうし、見逃しが許されるわけではない。しかし、それじゃぁ現場の医師は明日からどうすればいいのか、患者はどうすればいいのかについては、何もアイディアがないようにも見えるのだ。

■2004/06/06 (日) 依存に対するアプローチ戦略

依存を持つ人に対しては、依存の悪いところを順に挙げていくことがまずは大事だと思っていた。依存していると、これこれこういうデメリットがある。こんな酷いことも起こる。ね、何もいいことないでしょう、だからやめましょう。といった感じだ。しかしこれでは、依存をやめさせるのに全く効果を上げないことに気づいた。これが効くような人はそもそも依存になっていないのだ。

酒でも煙草でもクスリでもいいのだが、基本的にそんな悪いところは既に知られている。その上でなおやってしまう人たちに対して、どう接するのが適切なのか。どうしても、「やめさせること」から逆算して、上述の悪いところを挙げる他、やめたときの退薬徴候を軽くするような方法などを考えがちだ。この分野に関しては不勉強のため医学的な根拠に基づいていないのだが、それだけではうまくいかない気がする。

アプローチする方向が反対だと思うのだ。雨漏りで言うと天井ではなく屋根自体に注目した方がいい。そのためには、まずは「依存したい」という強い欲求があることを認めることから始まるだろう。たとえば酒にしても、「飲みたいから飲む」のであって、いちいち飲んだときのメリットとデメリットを考え合わせて飲んでいるわけではない。

具体的な方法はわからないままなのだが、その「○○したい」という根本に対して、その存在を認めて、それをどうしたらいいのかを考えていくべきだろう。正面から取り組んでその根幹から変えることができればいいし、変えられなくてやはり残ってしまったとしても、それと程良くつきあっていくうまい方法を見つけることができれば、最初に書いた全く効果を上げない方法よりは、はるかにましだと思うのだ。

■2004/06/07 (月) 学生という有害な存在

自分がしたことも、周りの人がしたことも、特に区別なく書いていく。

実習は失敗の連続だ。手術室で横になっている患者さんが全て寝ているものだとして、大声でくだらない話をして冷や汗をかいたことは一度ではない。先生や看護師さんの邪魔になることも日常茶飯事だ。そこにいることで「よけてっ」と邪魔になるのももちろんだし、こちらのミスで仕事を増やしてしまうこともある。考えを詰めていくと、自分がそこに存在すること自体がダメなのだが、患者さんに害にならないように心がけつつ、医療の現場で勉強させてもらっている。

しかしながら、どうしてもやってしまうミスはある。冷静に考えると自覚が足りないし、それこそ一番気をつけるところだろう、と言われると返す言葉もない。先日ある検査をしながら「この所見は○○病ですよねぇ」と先生に教えてもらいながら、どういう風に見えるはずで、それがどれに当たるのかをあーだのこーだの言っていた。患者さんは起きていた。

そこでつい、教科書的に習ったことを必死に思い出そうとして、「このタイプって予後不良ですよね」とか口走ってしまう。そこで「うん、そうだね」と返すことのできない先生のごまかし方は見事だったが、言った方がその重大さに気づいたときには顔面蒼白である。予後不良とは、たとえば5年で8割が死ぬとかそういうことだからだ。ちょっと別の例では、患者さんの前で教授に患者さんの説明をする際に「○○才男性、××癌の患者さんで・・」と始めてみたら、実は告知していなかったということもある。周りもそこで「告知してないって」と言ったら告知したことになるので、大変だ。

そんなことを言ってはいけないのもよくよくわかっている。勉強するのは患者さんの利益のためだし、学問的なことに熱心な人ほど、所見とかタイプについても、横から見ているだけではなく色々発言する。そこには、ただ単に患者に害を与えなければいいだけではなく、いい面も悪い面も全てを把握するということの両方が必要だという、医師という難しい存在が見えてくる。

学生が勉強になるということとか、学問的に厳密に知っていくことが、直接的には患者さんの利益にはならないし、むしろ時には害になることを、日々体感しながら今日も病棟へ行く。いい医者になるのが一番の恩返しだと。

■2004/06/08 (火) 水不足への対処方針

水不足への対処法は何だろうか。ここで「水を豊富に供給すること」と答える人はいないだろう。確かに水を十分供給すれば水不足は解消できるが、それができないから水不足が起こっている、と考えるのが自然だろう。どのようにして水を供給するのかを考えるのが順序であって、「水がないのが悪いんだ」と言うのも違う。

しばらく雨が降らないことがわかった。生き延びるためにまず大切なのは、「今水がない」ということを認識することだ。それがとても厳しい状況であったとしても、直面しなければ話は始まらない。水がないという現実から目を背けて、実はきっと、どこかに水はあるんだろう、と思うのは単なる淡い期待だ。ない現状をまずは認めて、次にしばらくはこの「ない状態」が続くのだ、ということも認める。一見希望がないようだが、ないものに期待を持っても仕方がない。

次に水を手に入れる方策について考えを移す。その水がたとえば上流のダムにあるとわかっていれば、それをどうやって持ってこようか考えるだけでよく、ある程度の見通しも立つ。しかし、雨任せとか、井戸を掘って水が湧くかとか、方法としては合っているが、いつ手に入るかを明言できないケースもたくさんあるだろう。そうしたときには、焦らず、パニックにならないように冷静に、しかし必ず水が手に入る日が来ることは信じて、今はつらくてもやっていくことが必要だ。

こうしたことを、どうやって「水不足に悩む人」に伝えるのかが、私の今の問題だ。水を飲むのはやはり根元的な欲求であるらしく、もしも自分も喉が渇いていたら、やはり同じように行動してしまうかもしれないとは思うのだ。だからこそなおさら、どういう形で力になれるのか、いい方法を探りたいと願っている。

■2004/06/10 (木) 心をmodify

見せたい自分がいる。実際の自分のそのままの姿ではなくて、こうやって見られたい、こういう姿であるよう見せたい、という像が頭の中にある。多かれ少なかれ、特に初対面ほど多いのだが、そうした「飾った」自分で相手に接する。親しくなってうち解ける、というのは、この飾りを少なくしても大丈夫だ、と言い換えることができる。

飾らない、生の自分を見せても大丈夫だ、と思うのは、相手を信頼する気持ちがあってこそのものである。そんな自分を見せたら、バカにされるんじゃないかとか、軽く見られるんじゃないかとか、そういう疑いを少しずつなくしていくことが、人間関係を作っていくことだ。もちろん、それが早くできる関係もあれば、ゆっくりだけどしっかりとしたものになる場合もある。

これをどんどん突き詰めていくと、こうした飾りが限りなくゼロに近づくと思っていたが、実際は、互いの距離が近いからこそ、間に緩衝するものが必要だったり、ある部分で近いからといって、全ての部分で近いわけではない、と思うようになった。ゴツゴツとんがったところだらけのむき出しの心があって、それをコートする何かがないとお互い痛くてしょうがなくって、周りを覆うもの同士の触れ合いは、当たりはいいけど深いところは見せられなくて、近いところにいるからこそ、ちょっと触れたときに相手に与える力が大きくなるから、むしろ余計に気を遣う。

今のところ、ある部分に関してはこの人にはさらけ出せる、というのが現実的なのかな、と思っている。当然多くの部分をカバーするには、一人の人では無理な話で、だから話せる相手がたくさんいる必要があるのではないか、と考えた。自分の「飾り方」も、一つの方向性で段階があるのではなく、色んな種類と程度があって、それらをうまく使っていくのが大事で、それらをどう使い分けるかを考えることこそが、実は人間関係の本質的なところかもしれない、とふと気づいた。

■2004/06/11 (金) できないSOAP

SOAPというカルテの書き方がある。たとえば「熱が38.1℃だったが、本人が大丈夫だと言うので、脈を測ったら72だったので、まぁ大丈夫だろうということで経過を見ることにした」というのを、4つに分類して書くのだ。ちなみに、熱とか脈とかの数字は適当で、医学的な意味も根拠もない。

Sは患者さんの主体的な訴えを書く。この中では「大丈夫だ」と言っていた部分である。これはいわば「台詞」であるため、誰が書いても同じ結果になるはずだ。次にOだが、客観的に得られた情報を書いていく。この場合は体温=38.1℃と脈拍=72というところだ。この他に聴診の結果とかも含まれるが、これも基本的に誰が書いても同じになるはずだ。

AにはSとOの解釈を書いていく。発熱の原因は何か、脈拍と考え合わせるとどういう状態だと推測されるか、などなどで、ここには自分の考えを書いていくため、書く人によって大いに左右される。医学的な分析能力が問われるところだ。Pには、Aをふまえてこれからどうするかを書いていく。これもまた人によって違ってしかるべきで、Aまでが同じだったとしても、積極的に治療していくか、ある程度様子をみていくのか、などと意思が働くところで、むしろ働かなければならないところだ。

冒頭の適当な例で言うと、Pが経過観察になるが、Aが曖昧だ。大丈夫だろう、って、どういう根拠で大丈夫なのか不明で、ひょっとして本人が大丈夫と言っているからなのか、それともどうなのかわからない。こうして、事実と考えたこととそれに基づく解釈と計画を分けていくのに、SOAP形式は重要だ。

今日、看護師が使う方のカルテを見たら、SとOしかなくて、まぁとりあえず事実の記録なのかな、と思ったが、読んでみると「O」と自分で宣言した項目の中にAとPが混ざっていて、それなら最初から混ぜて書けばいいのに、と怒りと諦めの混ざった気持ちになった。SOAPで書ける人はもちろんいいし、SOAPで書けないから、というのも許せる。しかし、書けもしないのに「SOAP風」に書くのは許せないし、結局形だけをかじって、中身を理解していないのだろうと思うしかない。

この私の思いをどこにこぼすのかが問題だ。

■2004/06/12 (土) 死に慣れる

同期の親が亡くなった。正直言って、病院という場所にいればいくらでも死に向き合うことになる。自分とあまり関係なかった人とか、言ってしまえば赤の他人とか、そういう死に接してもあまり心は動かない。医者は人の死を軽く見ている、と批判を受けても甘んじて受けるが、家に帰ってそのことを思い出してめそめそ泣いたりしない。悲しみに暮れる暇があったら、今目の前にいる患者を助けることに全力を注ごうと思う。

そうした、引きずらないとか、切り替えられるという意味で、死に慣れるのはこの職業には必要なことだと思っている。しかし、一人の人間の死には、家族とか親戚とか、その関係者とか幼なじみとか、それこそ葬儀会場をいっぱいにするだけの人に影響を与えることになる。目の前の人の生命徴候が消えることの後ろに、その人の人生と多くの心があるという視点もまた忘れてはいけないと思うのだ。

慣れることも必要だし、現場に出たてでそこに悩む人も多い。しかし慣れればいいわけではなくて、慣れすぎないという緊張感を常に持ち続けることも必要だな、と改めて感じた、今回の訃報だった。さすがに、自分の親の年代だと、他人事とは思えない新鮮な感情が生まれる。こう書いてみて、どこかで実習で体験していることは他人事だと思っているのではないかとも気づくのだった。その「慣れ」と「慣れない」の間をうまく見極めたい。

■2004/06/13 (日) 同じ分野の似た構図ではなく、違う分野の同じ構図を探す

たとえ分野が違っても、小さく見れば同じ構図が存在する。取りあげている内容は確かに異なるが、それを扱う方法論が同じ、またはよく似ていることがあると思うのだ。たとえば、トンカツとチキンカツは、食材は違うけれども、衣をつけて油で揚げるのは同じだ。もちろん全く同じように揚げればいいわけではないだろうが、少なくとも全く違うわけではないだろう。

自分がやっていることの参考にする際に、同じものがあればいいが、同じものが見あたらなければ、できるだけ近い分野の似たものを探しがちである。しかしそれは、元々近いのにあえて分ける必要が生まれたのだから、そのまま成り立つような気がして実は成り立たいという落とし穴がある。そのまま使えそうでいて、実は致命的なところで違っていたりするものだ。

一方で、明らかに違う人たちが違う内容をやっているのを参考にすると、今度はどこが同じなのかをきちんと調べてから当てはめることになるため、当てはまったところはとても有益になる。扱っている題材が違うため、その手法だけを抽象的に抜き出すことになり、無意識に当てはめるのではなく、意識に上らせてきちんと考える機会にもなる。共通している部分を見つけることができたならば、その普遍性はおそらく次の未知のものにも通じるものだろう。

そんなわけで、医学教育におけるインターネットチュートリアルについては、医学部以外の人たちがやっているeラーニングとの連携に期待を秘めているのだ。

■2004/06/15 (火) 人をみて病気をみず

木を見て森を見ず、というのは有名な言い回しだが、病気をみて患者をみず、という批判の構図がある。検査結果や病気の場所だけに注目して、その人がどんな人か、どんな思いでどんなことを考えているのかなどにはお構いなしで、という医者がいたら、非難を浴びるのも当然だと思うだろう。私もそういう医者にはなりたくないと強く思っている。

ただこれは、「病気も人もみる」と「病気をみて人をみず」を比べているのであって、そこで前者が良くて後者がダメなのは当たり前だ。しかしこれを「人をみず」より「人をみる」がいい、と要約するのは危険である。つまりそれは「人さえみればいい」ということになって、「病気はみれないけど人はみる」という新たなパターンが登場するのだ。

「病気はみれないけど人はみる」と「病気はみるけど人をみず」を比べると、究極の選択だが後者の方がいいだろう。少なくとも医者のような専門職で前者だと、それは専門職である意味がなく、コミュニケーション能力に長けたその辺の人と変わらなくなってしまう。「人間性が」など「人をみる」医者を求める声は大きいらしいが、あくまで前提として「病気をみる」ことができるという予選が存在するのだ。

受け持ちになった患者さんとの関係はなかなかうまくいっていて、よく話して下さってありがたく思っている。一方医学の知識は、圧倒的に不足の状況が続いていて、途方もない量の学習の必要性を感じている。これまでは、前者をうまくやることを自分の目標としていたが、実際今やるべきは後者の方ではないかと思い始めた。前者が大事でないというわけではなく、自分の性格からするとあまり苦労はしないだろうと思うので、勇気を持って前者で少し手を抜いてでも、後者の方に力を割こうと思うのだ。

こうしたことを「木を見て森を見ず」を批判する言葉で「木を見ずして森が見えるか」というのだ。

■2004/06/17 (木) 重い病気が勝ち、ではない

実習に出た医学生が、重い病気ほど喜んでしまう構図については4月8日に書いたが、同じようなことを患者さんの口からも聞いたのは、ちょっと発見だった。入院していると、検査で異常がなかったり病状が軽かったりすると、あたかも病院では劣等生であるかのように錯覚するというのだ。

確かに重症の患者さんだと、先生はしょっちゅう回診に来るし、説明も検査も多いし、良くなったときの喜びも大きい。患者も家族も喜ぶが、医者などのスタッフが喜びをあらわにするのもごく自然なことだ。例えばあまり病状に変化がない、より健康な患者さんが、隣のベッドの「良くなった」、でも実はまだ結構重症な患者さんを見て、羨ましく思うことも大いにありうる構図である。

そもそもは、健康であるのが一番いい状態で、次にはより軽症であるほどいいはずである。病院になんか来ない方が良くって、できることならさっさと治してしまうのがいい。それをふまえると、医療スタッフが、珍しかったり難しかったりする病気にあんまり「目を輝かせて」しまうのも良くない。確かに治りそうで手のかかる患者さんのところには、よく足を運ぶし、自然と関心も増えるのだが、そうした気持ちをそのまま出してもいいものか、または見せないようにするべきなのか。そうしたことで意欲を増してもいいものか、そうでもないのか。

そもそも患者さんが、自分の病気を他人と比べるのは意味がなく、医者の方もどの患者さんに対しても等しく接していこうとするはずだ。そうした基本となる建前があり、しかし大いに感情を動かされる現実があり、その狭間でどう振る舞っていくのがいいのか、慎重に考えている自分がいる。おそらくこれは一生続いていくのだろうし、これという答えもないものなのだろう。

■2004/06/18 (金) 労働時間と交代制について

今週は、朝7時に家を出て、帰るのが23時などという生活を続けていた。これは学生だけが大変なわけではなく、研修医もその上の先生も、ずいぶん早くからずいぶん遅くまで病棟にいるので、どちらかというと「科」の特性である。学生なんだからそこまで、という意見もあるかもしれないが、今はスタッフの一員として同じカルテに書いている立場から、そうした労働環境について考える。

看護師は三交代制で、日勤準夜深夜となっているが、一方医者は一交代制で、つまりは交代しないで朝から晩まで働いている。朝行くと、前日の深夜の看護師さんを見て、日勤、準夜、その日の深夜、と変わっていったのを見届けてから、家に帰ることになる。

交代制があるべき姿、そうできたらいいというのは賛成だ。しかし、医者という仕事が、その場で判断して指示を出すという特性を考えると、交代した先が誰でもいいわけではなく、変わる前と同等の力が求められる。それだけの力や経験を持つ医者は数も限られ、例えば1日8時間以上の労働を制限すると、今より少ない数の患者しか診れなくなると想像する。これは夜にも急変する可能性があり、素早い判断と処置が求められる科ほどそういう傾向が強い。

みんなで協力して責任を負うチーム制、は確かに必要だが、チームが大きくなればなるほど、個別の患者さんへの理解は浅くならざるをえない。そのバランスを考えたときに、今と同じ数の患者さんと仕事があったら、労働時間が延びるのは必然とも言えると感じた。昼間の検査や外来、昼しかできない処置などを滞りなくやるためには、朝早くからとか夜中までとかそういう時間に働かなければ追いつかない。

例えば子育てなどの家庭の都合、その他個人の人生設計的に、昼間だけ仕事をやる人と分担するのはいい考えかもしれない。検査専門であるとか、外来専門であるとか、ある部分を誰かに任せて、なるべく帰る時間を早くするような方法はあるだろう。しかし赤字の病院にはそんなことはできないだろうし、そうした「楽な」仕事を希望する人が医者の中には少ないのも事実だ。特にわざわざ「つらい科」を選ぶ人ほど、その中での「楽な」仕事は選びたがらない。

それで結局ミスをしてはどうしようもない。今挙げたようなことというのは、よりよい医療を提供するための現実的な妥協点を探ってきた結果だと特に今週は感じた。しかし、過労が原因でミスが起こったりしては、よりよい医療を提供するという目的からはずれることになる。そうしたことを防ぐために、医者がプライベートを犠牲にしているのではないかというところが、家に1日当たり8時間しか滞在しないで思ったことだった。根本解決が求められる、とここで書くのは簡単だが、実現可能な代案はよほど根本から変えなければ存在しえないと考える。

■2004/06/19 (土) 表現するものを持ち合わせていない

毎朝「回診」と称して病棟に行って患者さんを診せてもらっているが、一応知識としてはこれはいいものだとか、これは悪いものだとか、それなりには持っている。しかし、学生だから病状の説明などをしてはいけない、という契約以外にも、私が説明できない部分を毎日感じている。「結局治るの?」「どうなるの?」などの質問に対する答えがそれだ。この人がどうなるかという話について、責任あることは言えやしない。

経験と知識の絶対量が不足しているのだ。ものごとをできるだけわかりやすく伝えようと思っていて、それは少々得意だと自負していて、しかしながら、伝えるべきものを自分の中に持っていないと全く意味がない。調理技術がある料理人に食材を与えないようなものだ。また、カルテやレポートに文章を書く機会があって、文章を書くのは好きだしちょっとは得意だと言いたいが、書くべき内容を持ち合わせていないため日々悪戦苦闘し、自分でもわかりづらいと思うものを書き連ねることになる。

毎日なかなか「大変な」生活を送っているが、「患者さんとの関係だけはうまくいっている」状況だ。経験も努力も必要で、研修医みたいなことをやるにはまだまだ力が足りない。(もっとも、研修医は医者なのに、医者みたいなことをやるにはまだまだ力が足りないと言っている)。でもまぁ、「患者さんとの関係だけうまくいっていない」よりも、まだ救いがあるかもしれない、と思いつつ、カルテと写真とパソコンに向かうのだった。

■2004/06/20 (日) なら言える、という関係のバランス

患者さんが思っていることを言えるかどうか、というのは、話の仕方もそうなのだが、言う相手にも依存する。医者になら言える、上の先生ではなく研修医なら言える、看護師なら言える、医学生なら言える、看護学生なら言える、と色々なパターンが想定される。もちろん、言えないよりも言えた方がいいだろう、と考えるので、言えない、つまり、言われない人の方が劣っているような錯覚にもとらわれる。

しかし学生という知識も技術も何もかもが不足している立場で話をして、だからこそ言ってくれるところがあるのではないか、と考え方もある。その道の専門家で、病気に関して日々研究し、そういう先生が自分の治療方針を立ててくれた、という文脈では「本当は嫌なんですけど、治療しないとどうなるんですか?」などとは言いづらい。言えば細かい理屈をたくさん説明してくれるに決まっている。一方学生にであれば、とりあえず愚痴をこぼすような感じで言うことができる。

頭でわかっていたとしても「いやぁ、やっぱり検査したくないな」とか「つらい治療したくないな」とかいう思いは消せない。理性が常に感情を上回ることはないと考えるからだ。そうした思いを誰かに出したい、とすると、スタッフの中でも知識と責任が少なめの人が適任だ。チームであれば、誰かには言えないけれど誰かには言える、となっていれば十分で、その情報を適度に共有したり、適度に生かしていければいいと思うのだ。

学生である自分の病棟での存在意義を、そういうところにおとしめるつもりはない。どちらが優れているとか劣っているとかではなくて、性質の違いとして頭にとどめておく必要があると思うのだ。自分が上の立場になったときに、確かに目の前の患者さんは「わかりました、質問もありません。」と言って同意書にサインするかもしれないが、それが気持ちの全てではないことと、そこに出てこない部分を誰かが受けとめているかについて、気持ちを配るといいのではないかと考えている。

■2004/06/21 (月) 治療法の選択という自己責任

患者には、医者が勧めた治療法を選択しない権利がどうやらあるようなのだ。そんな治療は受けたくない、帰るよ、と言えば、「今すぐ入院しないと命に関わります。今すぐ死ぬかもしれません」といくら医者が声を張り上げても、そこで帰る患者を止めることはできやしない。なるほど確かに、自分の行動(生き方)を選択するのに、他人がそれを強制することは不可能だろう。

しかしながら、医者が言った通りに家で倒れて、救急車で運ばれてきたりすることもある。1人の人を救おうとして、例えば5人の医者がいきなり3時間ぶっ続けで拘束されることなどは珍しくない。するとそこで生まれた「働き」という負担はもちろん、それによって「働けなくなった」部分というのが出現し、例えば外来では患者さんが不当に長く待たされたり、病棟ではそれがなければ進んだ話が滞ったり、多くの人に「迷惑」がかかることがありうるのだ。

そうしたことがめぐりめぐって、私の書いたレポートが上の先生にチェックされる時間が遅れて、私の帰る時間が何時間か遅くなって日付が変わったって、それはそれで仕方ないのだ。だって、そういう職業なのだから。

■2004/06/22 (火) 周りが「できる」ように見える正常

周りの人が自分よりも優秀に見えることがある。重症化すると、どの人も自分よりも多くの面で優れているような気になり落ち込んだりする。私の考えでは、周りの人が優秀に見える方がむしろ正常だ。

人ができることというのは、長年生きれば生きるほど、また違った分野であればあるほど、隣の人とは重複しないのが自然だ。試験とか偏差値とかで表されるような、同じことをできる程度が違うのではなく、できる内容の種類が違うと言った方がいい。例えば趣味も職業も、百人いれば百様である。

得意なものの種類が違うと考えれば、自分よりも他人の方ができることが目につくのは当然だ。もし目につかなければ、本当は存在する他人の方ができることを正しく認識していないのだと思う。他人の方ができることを発見するのは、全く悲しむべきことではなく、その点について少し力を貸してもらうことができるならば、自分の得意な部分と合わせたときに、とても大きな力を発揮するだろう。

他の人が自分よりもできることに、嫉妬したり自己嫌悪したりするのではなく、謙虚にそれを受け容れて、そして少し自分が成長できるように、行動できたらいいなと思う。第一歩として、周りが自分よりも「できる」ように見えることは、ごく当たり前だととらえていきたい。

■2004/06/23 (水) 思いやり、その人の立場になること

私の所属するMLで「思いやり」が話題になっている。相手を思いやるのは難しいとか色々議論をしているメールが、どうも読んでいる人を思いやっているように見えなかったりするのだが、自分が「思いやり」だと思っていることが、それを受け取る側からみたら果たしてどうだろうか、という視点がまずは不可欠だろう。

私の考えでは、種々の方法を使って相手を「理解しよう」とすることはできるが、「完全に理解する」ことは不可能だという出発点に立つ。相手を思いやった行動は、相手のためになることはもちろんあるが、本当はためになっていない場合が必ず存在し、そのずれはどうしても完全になくすことができないもので、むしろ「ずれ」の存在を認識することが重要だと考える。

例えば医者が、今は医学生の立場から、患者さんの気持ちになるのは確かに大事なことだが、患者さんの気持ちに「なることができる」というのは、傲慢ではないかと私は思う。相手の気持ちに共感するというのは、相手の気持ちと同じになることではなく、それを一人称的に自分の立場だったら、と想像して、二人称的に感じるものを素直に受け止めて、そして三人称的に状況を客観的に分析する、という3つの要素を、バランス良く合わせ持つことまで、プロとしては求められているのではないかと思うのだ。

その人の立場になって、とは安易に使いがちな表現だが、当然そうした要素は持ちつつ、その人の立場にあえて「ならない」勇気を持つこともまた、より相手を「思いやる」には必要なのではないだろうか。そもそも違う人間同士が、そう簡単に「同じ」になれるわけがないので、どうやって可能な限り近づいていくのか、色々な方向から模索していくべきであろう。

■2004/06/25 (金) ラインキープな関係

かつてキャプテンだった先輩は、部活の時間中に部員全員と絡むことを心がけている、と言っていた。それはしっかりした話でもよくて、どうでもいい話でもよくて、何か有意義なことを話すという目的ではなく、そこで話をするという事実に意味があるのだ。確かに今でも、その先輩とのかかわりは雰囲気だけだが思い出すことができる。

人と話をしようというときに、何か意味のあることを話さなければならないと思いがちで、それゆえに何を話したらいいかわからないとか、沈黙が気まずいとか、種々の悩みが生じてくる。しかしそこでは、話をしているとか、その場を共有しているということに意味があって、何を話していたかは二の次でいい。

点滴の速度を表す言葉に「ラインキープ」という表現があり、特に体の中に何かを入れるのが目的なのではないが、しかし針は刺しておいて、血が固まって詰まらない程度にごく少量を流し続けるという意味だ。点滴液を体内に入れるためではないけれども、そこに点滴用の針を入れておくのに意味がある。後から入れたい薬ができてから針を刺しても遅いとか、例えば血圧が下がっていると難しい、という背景もある。

人間関係の中にもラインキープな要素があると思うのだ。普段何もないときは、具体的に何か情報をやりとりしたり、それによって問題が解決されたりはしなくていい。しかし何かあったときにその関係を思い出して使うことができるような、保険をかけておくような存在があって、日頃そうした軽い関係を大事にしておくことが、いざというときの自分を救ってくれる。

誰との関係はいつも重くて、誰との関係は軽いけどいざというとき使える、という区別ではない。同じ人との関係でも、時間の経過を考えるとそうした二つの要素があって、それはどちらも大切にするべきだと思うのだ。そして、今は当たり障りのないことしか話せなかったとしても、そうして話し続けることが、もっと大きな話をするのに結びついていくかもしれず、見えないけれど重要な意味を秘めていると意識したい。

■2004/06/26 (土) 患者様という呼称

「患者さん」から「患者様」へと呼び方が変わった理由は2つあるはずだ。1つは「患者さん」では不都合があるからで、もう1つは「患者様」の方がより良いからだ。最近では、文書や掲示上「様」をつけるケースは多く見られている気がして、「ちりん様」のように「名前+様」と使うのは、もちろん病院ごとに違うのだが、事務方ほど強く医者ほど弱いと感じている。

「さん」づけで不都合があったという例は、残念ながら私は聞いたことがない。「サービス業だから様をつけろ」という意見はたくさんあるが、「さんをつけるとは何事だっ」と病院を後にした例は未だ知らない。「様」をつけるとその後の接し方が丁寧になるというメリットがあるようだが、「様をつけても慇懃無礼ならダメ」とか「さんづけでも丁寧に接してくれた」などの反例を挙げると、本質的なのは呼び方ではなく、それ以降の接し方であるように考えるのが自然であろう。

私は毎日病室へ向かい、たどたどしく「診察」させてもらっているが、まずは「○○さん、調子はどうですか」などと話しかけている。話す内容も、病気のことはもちろん、プライベートなことに始まり、どうでもいいこと、くだらない冗談などに及ぶ。その雰囲気には「様」をつけることは似合わないし、サービス業と言うよりは、一人と一人の人間同士の触れ合いがある。

どうして病院の職員の中でも、医者は様づけを嫌い、事務方とかお偉い方は「接遇」などとわかったようなわからない言葉を使って「様」をつけたがるのか考えていたのだが、この間、病院の支払窓口で自分が様づけで呼ばれてふと気づいた。今私の診療代金を扱ってくれているこの人との間では、おそらくこれからの間ずっと、私が毎日通っている患者さんとのような信頼関係は生まれようがなく、何か態度で示せるとしたら「様」をつけることくらいなのかな、と。

「先生の指示通り薬をのんだけど症状がおさまらない」とある患者が言ってきたときに、ある医者は「うーん・・本当に薬飲んだ?」と聞いたので、横で見ていた私はずいぶん冷や冷やしたが、それはそう言えるだけの信頼関係と歴史があっての話だった。そこには当然「様をつけるか」などという問題は存在せず、こういうところが本質的な部分なのかなぁ、と感じたのだった。

以上のように考えていくと、入院したり、長年その医者にかかっている人には「様をつけるか」というのはたいした問題ではなく、むしろつけない方が自然だが、関わりが浅い場合に「様をつけること」によって敬意を示すこともあり、それが形式的であったとしても意味がある場合もある、となった。正直言うと、様をつけるか議論している暇があったら、もっと患者さんのためにできることがあるだろう、とも思っている。医者がサービス業であるかという議論も直接的には興味ないが、サービス業の人が身につけているものの中には、ぜひとも自分もできるようになりたいものが含まれている。

参考リンクとして、小町さんの6/25じっぽ先生のDoctor's Ink、そして自分が書いたホテルマンに学ぶ態度「患者様」という呼び方を挙げておく。また、検索して見つけたものだが、○○様?○○さん?さま付けに関する質問患者様についてのアンケートなども載せることにする。

■2004/06/28 (月) 0.01%の事態への同意書

訴訟対策である、とは誰も表立っては言わないが、病院では同意書を取るのが流行っている。例えば検査をするにあたって、1000人とか10000人とかに1人起こるかもしれない副作用について、例えば検査のはずだったが手術になるかもしれないとか、最悪の場合は命に関わるとか、そういうことまできちんとすぎるだけ説明する。

するメリットと、それにともなう副作用などのデメリットを、天秤にかけて患者さん本人に決めてもらうのがインフォームド・コンセントだ。どちらかを押しつけるわけでもなく、情報を提示して選んでもらうというのだ。よく「おまかせします」と言われて困る医者の図があるが、あくまでメニューを示すのが医者で、どの選択肢を選ぶかは患者本人が決めるのだ。

一方で、そうした同意書には良くない点もある。この間同席させてもらった説明では、始めの1時間が病気とその後の治療についての説明で、その後の30分がそれにともなう副作用についてだった。具体的には数%以上をイメージして言うが、頻繁に起こるようなものを了承してもらうのではなく、まぁまずないだろう、と思うようなことのために延々と30分使うのだ。その間に医者が他にできる仕事もあるだろうし、一分一秒を争う緊急時に同意書がないばかりに治療が始められないケースも存在する。

例えば、飛行機に乗るときに「稀に墜落することもあります」とか、パソコンを買うときに「たまには初期不良があるかもしれません」とか、そういうことは普通了解を求められないが、買う側は了解していることである。命に関わることは違う、と言われるかもしれないが、人間が生身の人間の体に働きかけることが100%成功するだなんて思っていないはずだ。機械が修理工場に行ったって、100%の確率で完全に元通りに直るだなんて保証できないだろう。

もちろん自分が病気の場面を想像すると、失敗する方に入りたくないと思うし、失敗されたらそれを認めたくないと思うだろう。自分だけは100%成功する、という希望と、そうではないいくらかは失敗するという現実との差を、直視したくはないけれど認識して、覚悟を決めるのが同意書というツールなのではないかと思うのだ。理想化された成功像ではなく、現実にある不完全な姿も頭の隅に入れるための一つの手段なのではないかと。

一歩間違うと、「明日学校に行く途中で車にはねられるかもしれないと思うと、一晩眠れませんでした」と同じレベルのことを言う人が続出するが、その可能性を少しでも考えたという事実が大切だ。あとはいかに、事実は曲げずにそれを伝えて、そして不必要な不安を持たないようにしてもらうのか。技術の問題なのだろうが、使う言葉の一つ一つにうまさを感じて、感心しきりの毎日である。

■2004/06/29 (火) 見えねぇよ

女性の患者さんに男の医療従事者が診察するときには、どうしても問題が生じ、一番大きなものは羞恥心であるかもしれない。やむをえず、女性が男性に肌をさらす必要が出てくるからで、それは最もプライベートな部分であるとされる。その点、学生にも優しく協力してくれる女性の患者さんには感謝している。

回診では、教授の診察を学生などが取り囲んで見て勉強するわけだが、なんだか知らないがバスタオルで教授以外から見えないようにしていた看護師がいた。全く勉強にならないのにみんなで取り囲んでいて、別に性器を見ようというわけでもないし、胸でもなく腹部の診察技法を学ぼうというのだが、いったい何なんだと腹が立った。

この考え方は、患者の普通の意識から解離しているのかもしれない。お腹を見せるのが恥ずかしくないと言うつもりではない。男の医者が女性の患者さんを診察するときに、女性のスタッフが立ち会う決まりが存在するのも知っている。しかしながら、私が毎朝診せてもらっていることとか、ここが大学病院というところであるとか、拒否をすることもできるとか、色々考えていくとやはり腑に落ちない。

その看護師は患者の羞恥心に配慮したのかもしれないが、患者さんはそれよりもっと超越したところにいるような気がするのだ。いつも通り「ありがとうございました」「勉強させてもらいました」「失礼します」と挨拶して病室を出ようとしたときに、「頑張って下さいね」とか「いいお医者さんになってくださいね」という言葉が出るような、そんな人なら、恥ずかしいから教授以外の人からは見えないようにしてくれなんて、お願いするとは思えないのだ。

そんなわけで、学んでいくのも大変だ。看護師は敵に回すな、とは誰もが言うことだ。


<040701 補足>

先日の日記に対して意見をいただき、感謝しきりだ。しかしあまりに同じ点を多く指摘されるので、テキスト書きとして本意ではないが補足をすることにする。

私の意見は、「見せたくない患者さんがいる」というのがまずあって、「そういう人の意思は尊重したい」である。正直言って、教授回診のような十人以上の大人数でベッドサイドを回ることには、制度としては反対だ。しかし、そういうシステムが既にあって、そこで学ぶことも多い以上、私はそこで多くのことを吸収したいと思っている。大学病院という場所の趣旨がありながら、学生が関わることや、そうした回診も一部の医者だけにしか許さない、という患者さんもある一定数存在して、そうした人たちの意向も尊重したいと思っているし、実際病棟ではそう実行されている。

もしも見られるのが嫌であれば、医師には言いづらければ看護師に、そうして伝えていただければいいと思う。それは必ず尊重されるであろう。そうであれば我々学生は廊下で待ち、それに対して文句は言わない。見せてくださるという患者さんにはいつも感謝の気持ちでいっぱいで、それは見せてくださるのが特殊なことだと思っているからだ。見られたくないとか、嫌な気持ちがあるけれども、それを殺して私たち学生に勉強させてくれるのだろうと。

何が問題だったかというと、いつも通り患者さんをやむをえず取り囲み、しかし肝心の診察場面は隠されていて見えなくて、「この辺りに××の所見がありますね」と言っている声だけ聞いても、「そんなの見えねぇよ」と言うしかなくって、廊下で待っていた方が囲まないだけましだったな、と思ったことだ。教科書や最近ではビデオもあるが、診察法に関して勉強する手段はないわけではないが、はっきり言ってそれだけでは現場では全く使えない。使えないまま試験に受かって医者になる方が、医者も患者も不幸になる。

繰り返しになるが、「学生に見せたくて見せる」という人は少なくって、「学生に見せたくはないけど、見せてあげよう」という人が多いと思うのだ。「見せたくないし見せない」と主張するのも、患者の当然の権利だ。「患者は弱い立場だから拒否できないのでは」という指摘もいただいたが、気持ちを引き出す主治医との関係、看護師などのスタッフとの関係でカバーしたり、見せてもらった方の感謝の気持ちと、それで勉強するという気持ちで補っていくしかないと考える。

先日は感情的になって書いたかな、と少々反省しております。ご意見は歓迎しますが、私の意図はこのようなところにありますので。

■2004/06/30 (水) 医者への謝礼

入院などすると、医者への謝礼は患者にとって大問題だ。病院によっては「お心遣いは固くお断り」などと掲示しているが、あれを遠回しにお礼を要求されていると解釈する人もいるから、言葉というのも難しい。

改めて書いておくが、そのようなお礼は必要ないし、むしろもらうと困ることになる。それで態度を変えるような医者ならかからない方がお勧めだし、それによって経済的に余裕のない患者さんまで「私だけがお礼しないわけには」となるのをまずは恐れる。もしもそうした気持ちがあって、なおかつお金もあるのならば、病院自体に寄付してもらった方が、経営陣も含めてみんな丸く収まる。

そうしたことを相談されるような医者でありたいし、少なくとも学生のうちは、そうしたことを「医者じゃない」という立場を使って、うまく伝えていきたいと思うのだ。だから、それを患者さんから相談されたときは嬉しかった。臨床を楽しいと感じる瞬間だ。