最北医学生の2004年 9月の日常

■2004/09/01 (水) 医学的には必要のないことなのかもしれないが

先日病棟で、点滴が遅いのではないか、と心配そうに訴えられた。1秒1滴で落とすにあたり、1.1秒とか0.9秒になっているかもしれないが、そこまで厳密にやる必要は全くない。ぱっと見たところ、特に遅いとか、詰まっているとかいう感じではなく、そのまま「大丈夫ですよ、このくらいで」とさっさと対応しても何の問題もない状況だった。

ここで注目すべきは、点滴の速さがどのくらいなら適切なのか、ということではない。私も入院した経験が豊富なのでわかるが、点滴をつながれベッドで寝ているしかない状況では、点滴をつい見上げて、その落ちる様をぼんやり見るとはなく見ているのはよくあることだ。点滴の内容について思いを馳せることは難しく、せいぜいポタポタするのが昨日より速いとか遅いとかいうレベルにとどまるのが普通の姿だ。

ということから、この時の患者さんにとって最も身近なものが「点滴の見た目」であることが推測できる。不安を訴えるということについては、点滴について具体的に不安というよりは、不安な気持ちが先にあってそれがたまたま点滴で表れたと考える方が自然だろう。多くの患者さんは、点滴の適正滴下速度を知らない。そうだとすると、そこでは不安を汲んで、確かに一緒になって考えたという態度を示すことが大事だ。

例えばだが、時計を取り出し点滴と並べて、少し時間をかけてペースを確認して、量を調節するところを操作して、「少し速くしましたから」と声をかける。一瞥しただけで「この速さで大丈夫ですよ」と言っては不安は解消されない。また、結局速さを変えたようでなければ、遅いという気持ちは変わらず持ち続けることになる。言ってしまえば、実際の速度を変えたりする必要はなく、患者さんの訴えを聞いて考え、そして行動したということが大切だろうと思うのだ。

医学の知識も技術ももちろん大切だが、正しい技術を振りかざして、こういう気遣いができない医者になるくらいなら、少々技術が劣っていても、相手の気持ちを察することができる医者になりたいと思っている。こういうところを指して「医者は水商売だ」と言うのならば、褒め言葉だし、むしろ歓迎だ。

■2004/09/02 (木) 医学生の恋愛事情(10万ヒット記念企画)

「パーティー」の広告を見ると、職業が医者であるというのは大きな売りであるらしい。高学歴と高収入が期待されているのだろう。間違ってはいないのかもしれないが、そうした将来を持つと信じられている医学生も、一部では人気を博しているようだ。それは例えば、あんな顔のあんな××の(自主規制)奴でも、バイト先で女子高生にモテモテとか、合コンで△△(自主規制)とか、そういうことだ。この方面はあまり詳しくないのでこの辺りでやめておく。

医者といえば「看護婦さんと結婚する」という神話があって、それは確かに頻度としては多いかもしれない。しかし結婚相手なんて、学校が同じか、サークルが同じか、職場が同じか、もしくはそれらの知り合いのつながりかで、選び選ばれていくのが一般的だと思うのだが、そうしてみると医者に看護婦という組み合わせになる可能性は必然的に高くなり、医学生と看護学生についてもそれは同じだ。男医と女医の組み合わせについては後述する。

医療に関係しない人とのおつきあいは難しいところがある。医学部の中では常識でも、世間の非常識ということはよくあるからだ。非常識と言っても、焼き肉屋で肉を見てあんな話やこんな話をしたり、「エグい」「グロい」とされる話をしたりという話ではない。もちろんそれらも良くないことで、全然意識なくそうしてしまう失敗例も少なくはない。

例えば医学部で「テストがある」というと、それは例えば4週間とかの期間を意味することもしばしばだ。そしてそれより前にもう4週間とか準備したいな、と考えるのも珍しくはない。合計例えば2ヶ月とかの間、テスト優先で遊びはさておき、となるのは医学生にとっては常識だが、それが常識ではない人とのおつきあいは大変だ。その2ヶ月以外は、ちょっと講義の数が多いくらいで普通の大学生とそう変わらないだけに、「医学部は忙しい」というのを果たしてどこまで理解できて、行動に移せるか、というのが鍵になる。

お年頃になると、このまま結婚しようとか何とか考えるものだが、医学部の女はなかなか大変だ。男はやっぱり、「奥さんは、やっぱり家にいて、家庭を守って」というイメージを持ちがちで、それはわざわざ医学部を卒業した女性に求めることとはかなり反する。男が養わなくても稼ぐ力を持っていて、家庭にいるより仕事をしたいと思ってわざわざ6年制の医学部に浪人などしてまで入った女には、普通の結婚観は合わないだろう。結局大学6年間ずっとつきあっていたけれども、卒業と同時に別れて、理由がそういうことだという話もわりにありふれた話だ。

医学部に入った人はまず間違いなく医者になる、と考えると、1年生の時から既に閉ざされた系の中に入っていることになる。あいつが昔つきあっていたのがあいつで、というつながりが思いの外狭い中で行われていて、狭いがゆえにそれらの情報伝達速度もとても速い。卒業するまで、実は卒業してからもずっと一緒だから、同じ学年とか、できれば学内でもそうしてもめるのは避けたいと私は思っていた。講義室の一番後ろからボーっと100人を眺めて、「6年にもなると色んな線(とか点線とか)が見えるじゃん」という先輩の名言も心に残っている。

実際閉じた系のそうしたごたごたは見聞きして、特に周りにいる人がどう接したらいいものか悩んだり、そこで嫌ならやめるなどの距離を取る余地がないのが、1学年100人で入学してからずっと一緒という世界である。だから「遊ぶ」のならば他の大学の医学部とかにしておこう、と思っていたが、大学が違ってもたいていの人は「知り合いの知り合い」になるという恐るべき狭い世の中であることに気づき、うかつに遊ばなくて本当に良かったと思っている。そんなことで全国に名を馳せたくない。

そんなわけで、特殊な事情で、常識が通じないことがありつつも、医学生という「色眼鏡」を通しながらも、恋愛模様は進んでいる。他人から羨ましがられたり、他人を羨んだりする内容もあるかもしれないが、医学生にとってはこれが自分の現実であり、そこではそれなりに悩み考え苦しんでいくのは、誰とも変わらないことなのではないかと思うのだ。

■2004/09/03 (金) 医学生のアルバイト(10万ヒット記念企画)

身分が医学生であることを明かすと必ず聞かれるのだが、「死体を沈めるアルバイト」というのは実在しない。一種の都市伝説である。ちょっと考えればわかると思うのだが、そういう目的のためにそういう施設を用意して、そのような保管形態を取ることが効率的なのかどうなのか。まぁ、深く考えられないから広く流布するのであろう。

さすがに一泊十万とはいかないが、寝るだけのバイトというのも確かに存在する。研究の被検者として学生が動員されるのは、手近で数が確保でき内容の理解も早いためしばしば行われ、モニターをつけて睡眠するとか、ちょっと危険な香りもしつつ薬の濃度変化を調べたり、手軽なところでは、CTを撮られたり、歯形を取られたり、尿を採られたり、血を採られたり。しかしこれらは、うまく研究費に恵まれバイトになるものから、先生に飯を振る舞われて終わってしまうケースまであり、年中行われるものでもないので、いわゆる定期のバイトとしては適さない。

もちろんコンビニ、店員はじめ「普通のバイト」をする人も結構いるのだが、二大稼業と言えば「家庭教師」「塾講師」である。家庭教師で「医学生」というネームバリューは思いの外大きい。それも、ネームバリューが明らかに要らないだろうという人ほど大きくて、高校入試で半分取れないような子に、どうして医学部の学力が必要なのか疑問に思うが、それでもそういう需要はある。需要に対しては供給もあり、ほいほいと出かけていって稼いでくるのが「割り」がいいと言われている。

しかしながら、医学部の学生が子どもに勉強を教える技術に長けている、というのは甚だ疑問だ。もちろん自分は与えられた問題を解くことはできるし、説明もすることはできるのだが、「頭がいい」ため、教えているその場をなんとか切り抜けることも可能である。教える方も「一生懸命」になる場合を除いては、わざわざ他の学部の学生よりも多くのお金を払って頼むようなことは費用対効果としてどうなのだろうと思う。ただし、これは私がいる「地方」ののほほんとした話であって、有名中学・高校・大学受験で、それこそ私にも解くのが無理、というレベルに対する指導など、そういう人にしかできないものもいくらかは存在するが、割合としては多くない。

塾講師は、割りは悪めでやり甲斐が多め、というので家庭教師ほどの人気はない。しかし医学生には「説明したがり」「目立ちたがり」な人の割合も多いようで、確かに喋らせてみると上手な人はむしろ教育学部の学生よりも多い気がする。何をやってもそつなくこなせて、どう振る舞えばいいのかを察知する力は確かに高いかもしれない。その力を生徒の方に向けた時の結果は無限に広がり、私が尊敬する塾の先輩講師はみんな医学生だが、雇う側から見て最低限を押さえることも得意だったりする。「要領がいい」というのも、必ずしもいい意味ばかりではない。

「医学生は忙しい」という話がひとり歩きをして「バイトする暇なんかあるんですか」と聞かれることもよくある。確かに忙しい期間は、他の大学生より長くてつらくて、その辺りはまた別の機会に書こうと思うが、忙しくない期間もそれなりにあり、そこをバイトに使ったり飲んだり遊んだりするのは普通の大学生と変わりない。ただ、社会人を経験してから医学部に入ってきたような人の中には、経済的な事情から「バイトをして忙しい」という場合がある。彼らは学費も生活費も自分で稼ぎ出すほどで、この忙しいのによくやるよな、と思うのは、結局「医学生は忙しい」なんだろうな、と気づくのだった。

どうしてそんな、つらくて割に合わないことを、というバイトを続ける医学生もいれば、また楽で割りのいい、いわば「卑怯な」バイトを見つけてきて、という奴もいる。最近色んな医者の生活を知ってきて、ここまで大変なところと楽なところの差があるか、と驚いているのだが、そういう所の人生観のようなものの違いが表れる第一歩が、医学生のアルバイトなのかな、と思うのだった。世間話の一つとしては「学生時代どんなバイトをしたか」という話を医者とするのも、面白いのかもしれない。

■2004/09/04 (土) 何でも知ってて何でもできる研修医

かつての同級生である一年目の研修医と、将来の医師像を語るのは有益だ。語ると言っても、夢は大きく教授だ院長だというのではなく、医療の現場に直面した中で、自分がやりたいことと実際にできることのギャップがあるのに気づき、それをどのように克服していっているのか話をするのだ。6年生はちょうど今が就職活動で色々考えていて、色々考えたけど実際どうか、という声を生で聞くことができるのはいいことだ。

一つ気になったのは、「教えてくれない」と「やらせてくれない」という不満である。もちろん、本当に何も教えてくれなかったり、本当に何もやらせてくれないところもあるようで、それはもちろん問題なのだが、そうではなくて、どちらも安易に言いがちなことであるがどうなのだろうということだ。

未熟な研修医に何から何までさせるわけにはいかないが、できるだけ多くのことを任せてみようという方針がある。できる者から見ると、すぐに手を出して助けたくなるが、そこをぐっとこらえて一歩引いた位置から手を出したくてうずうずしているけど我慢する。これは「何でもやらせてくれる」と表現される。

一方「よく教える」ということは、常に目が行き届いていることであり、研修医がやること一つ一つにチェックが入る。一歩間違うと「何でも上の許可がないとできない」ことになり、特に難しいことは「やらせてくれない」とも表現されうる。かと言ってこちらの「教える」を基準にすると、先の「やらせてくれる」状態は「教えてくれない」とも表現される。

自転車の補助輪のようなもので、いずれは取って独り立ちしなければならないのだが、早く取ると危ないし、いつまでもつけておくと独り立ちにならない、ということだと思うのだ。捉え方によって「いつも補助輪があるから安心だよ」と言ったり「いつまでも補助輪が取れなくてね」と言うか、また「すぐ補助輪取っちゃって不安だよ」と言ったり「補助輪がないから自分で乗っている気がしていいよ」と言うかという話だと思うのだ。

常に自分の状況に対して、不満を持ったり悪い風に捉えたりするのか、現状を肯定的に受け容れるのかということではないだろうか。果たしてこの人の評は、プラスの印象なのかマイナスの印象なのか、そしてそれとは別に客観的な事実はどうなのか、そこをうまく汲み取って必要な状況を把握したい。決して誰も嘘をついていないだけに、難しいが大事なことだ。

■2004/09/05 (日) 土日も病院へ通う

だいたいが、土日に病棟へ行ってもやることなんかないのである。検査があったり、その結果が来たり、どうとかいう話はお休みだし、今担当の患者さんはみんな安定しているし、「学生は土日は義務ではない」と明言されている。それでもいいから、私は話をするために病棟へ行く。

平日は、患者さんも忙しいし、医者も学生も忙しい。8:45入室の手術の前に一度患者さんの所を回って、そのまま時計が一周以上したりするとその日は会えずに終わってしまう。早起きも必要だが、急いでいる雰囲気を出しながら「他に何かないですか?」と聞いても、その「他」の問題はなかなか出てこない。

かと言って、何を話すということではないのだ。昔話だったり、最近の愚痴だったり、家族のことだったり、一見すると治療とは直接関係なさそうなことが大部分だ。しかしそれらを話しておくことで、どうしても短時間にならざるをえない平日に、それらを思い出して相槌を打ったり、肝心なところだけを半ば事務的に話してもらったりしても大丈夫だとか、どちらかというと「無形の」得るものが出てくる。

「土日も休みがなくて大変だねぇ」とも言われるが、大変だと思われるのが大事なのかとも思う。変な言い方になるが、医者が患者にお願いすることは、つらい検査だったり、大変な治療だったり、無理難題がほとんどである。病気で既につらいのに、これ以上まだつらくするというのか、と私が患者なら思うだろう。そこで、土曜も日曜もなく、朝も夜もなく働いている姿を見せておいて、先生もそれだけ頑張っていて、その先生がお願いしているのだからまぁ我慢してやるか、という気分になるのではないか、ということだ。患者だって人間だ。

もちろん打算的なもので行動しているわけではない。患者さんとお話しするのは私にとって楽しいことだ。色々とお話しさせてもらって、それが全体をうまく持っていくのに役立つ面も持つならば、休みに出ていくことを苦に思うことはない。ワーカホリックの片鱗を見せ始めている自分に気づくが、これはやめようとしてもやめられないものなのだろうと諦めている。

■2004/09/06 (月) ボクなんかが医者になって

学生の頃は、成績も悪いし、適当な性格で、周りにもっと優秀な人がいっぱいいて、僕みたいなのが医者になるなんてとんでもないな、いやだな、と思っていたんだ。みんな勉強ばっかりして、偉いな、と思いながら、勉強以外のことはすごくたくさんやって、人と話したり、物事を立ち上げたりとか、そういう経験はすごく積んでいたけど、医者には向いていないんだろうな、という劣等感でいっぱいだった。

実際医者になってみると、習ったような理屈で説明できないことの方がむしろ多いし、完璧に全部のことをこなすことは不可能で、しかもそれは求められていなかったり、できなくてもそう不都合はなかったりする。そういうことももちろん大事なんだろうけど、むしろ僕みたいな適当な人間の方が医者に向いてるんじゃないかと思うようになった。先へ進めないからね。

一応フォローしておくと、私からみて十分「いいお医者さん」が言っていたことだ。自分で自分の可能性を判断したり、適性がないとか向いていないとか、そういうことは言えないのではないか、言っても意味がないのではないかと思った一つのきっかけとなる話だったので、ここに載せておく。自分から可能性を狭めなければならない場面というのは、人生の中でそんなに多いとは思わないのだ。謙虚な心は必要だし、他人の意見に耳を傾ける姿勢もあるといいが、自分で自分を責めるばかりでは苦しいだけで、程良い適当さもあっていいと思うのだ。

■2004/09/07 (火) 魅力を感じるのは行動よりも言動

その人が何をしたかを知ることは、その人の魅力を半分も伝えない。何もしていなくても、言動だけで心が惹かれることはあって、それは思想とか考え方を語られた時だ。これから何をするかというところに無限の可能性が感じられ、それが自分の力では到底行けないような世界だとすると、ついて行ってみようかな、と思うのだ。

もちろん行動も、その時だけの行動ではなく、次のこんなことがつながるだろうな、という期待ができれば、大いに心が動かされる。今何ができるかとか、今はこういうダメなところがあるとかではなく、それが今後どうなっていくのか、どうしていくのかの方が大事だと考える。今はいいけど今後はわからないのと、今はダメだけどこれから好きなように変えていけるのと、どちらを選ぶのかという話だ。

そのために必要なのは言語の力で、それを的確に持っている人とは今後の人生で関わりを持っていきたいな、と思う。人に会うのはめぐりあいで、どういう人かを知るには話をするのが一番だ。ある人と時間を共有して、その人が話すことは全て私自身が聞くためのような、そんなことができるのが一番の贅沢だ。そういう機会の一つ一つを、貴重なものだと思うようにしていきたい。

■2004/09/08 (水) ワークシェアリングとか

会社が経営難に陥った。業績がこうで収支がこうなので、これこれの人員削減を行いたい、と労働組合に申し出てきた。もちろん給料も下がり、残業手当なんてもってのほかだ。役員の首も切るし、責任も取る。それでも従業員が雇いきれないのだ、と言うわけだ。その数字がとりあえず現実であるとすれば、労働組合はどうするか。

辻褄を合わせるためには、業績を伸ばして収入を増やすか、もらう方の人を減らして支出を減らすかするしかない。無駄な歳出を減らすなどは、当然行われているものとする。業績が簡単に伸びれば苦労ないが、それができないから困っているのだ。働きが悪い人から首を切られるのは、社会主義ではない世界なら当然ありうる話のようにも思える。

解決法の一つとして、ワークシェアリングという考え方がある。限られた仕事をみんなで分け合って、失業者を出さないという方法だ。もちろん給料も仕事量に従って低くなり、いわば「痛み分け」をすることになる。それはそれで一人一人は苦しい思いをするのだろうが、会社全体の和を考えて、そういう方法が取られることもあるらしい。

ベースにそんな目をもって、こちらの記事を読んでみる。平均値と中央値の差が大きい、つまり、ごく少数の選手だけが高額の年俸であることがわかる。そうした彼らは、自分たちについては語らないのか。選手の人件費は、割合としてメインの問題ではないとも聞くが、完全に経営側と選手が対決姿勢になって、6チームという結論ありきで話を進めるとすれば、その船はどこに行ってしまうのだろうか。賛成とか反対ではなく、今一番いい選択はどれなのかを力を合わせて考えていこうとしないと、構造的にも、ファンの心情としても、崩れていくのではないかと思う。

■2004/09/10 (金) 親しくなるとむしろよくない

親しい関係、というのは、相手に気を遣うものである。気を遣う、というのは、相手を大事にすると言い換えてもいい。無神経にふるまって相手の厚意を無にしたり、意に反する行動をとったりするのは、親しくなるとできなくなる。それはごくごく自然な感情で、クレーマーとか旅先の恥とか、そういうものが裏返しだと考えるとよくわかる。

さて私は、病棟での実習では入院している患者さんを担当して色々お話をしているわけだが、他にたくさんの仕事がある主治医たち以上に、足繁く通い、そしてゆっくりお話をすることができる。幸い患者さんもそういう私を認めてくれて、生い立ちから昔の仕事や家族の話まで色々聞かせてくれる。そこでの話は私にとってとても楽しい。

さて入院の目的は病気を治すことである。それに必要な情報は、熱はどうだ、血液検査がどうだという、客観的に評価できるものももちろんあるが、自分で感じる症状は非常に重要な位置を占める。他にも、尿とか便の回数も、自己申告に任せることが多い部分だがポイントとなるところである。

お腹の痛みが問題である患者さんがいた。痛みが取れない状態が続いていて、それに対して色々検査をしたり原因を考えたりしていった。考える姿を見せるのも、一生懸命である姿勢が伝わりいいと思っていた。しかしなかなか改善しないと、最初の段落に書いたような事情により、症状を軽く言ってしまうことがあるのではないかと思った。つまり、先生はこんなに一生懸命考えているのだから、良くならなくて申し訳ない、というわけだ。

一日に何回も顔を出すのだが、やはり気になるところなので真っ先に「お腹の痛みはどうなりました?」と聞いてしまう。しかしあまりにそれが第一の問題となると、多少痛くてもまぁここまでやってくれているのだからと「いや、だいぶん良くなりました」などと言ってしまう。でも実際には痛みは続いていて、他に治す手段があるのにそれが使えない、という状況にもなる。

親しくないより親しい方がいいかと信じていたが、ここまで考えた上で、聞きたいことを聞く方法とか、親しさの作り方とかを考えていかなければならないのではないか、と思った今週の実習だった。信頼関係を築く、などとはよく言うが、単純に信頼度という一本の軸上に載せて考えることができるものでもないのだな、という発見だった。そこまでやってプロなのだろう。

■2004/09/11 (土) 精神的なドレナージ

膿、いわゆる「うみ」が溜まっていれば、それを出すのが基本的な治療方針だ。本来あるべきではないところに液体が溜まっていても同じ方針で、その液体自体が悪さをすると言うよりは、そこに菌がついて面倒なことになる、という理由で管を入れて液体を抜くことがある。この抜くことを「ドレナージ」という。

医学的な表現ではないが、精神的なドレナージが必要だな、と思うことがある。自分の中でくよくよ考えて、周りにも言えずに悩んでいて、それが腫れて熱を持ってきて、痛みとか周りを圧迫とかが出てくるとしたら、単に話を聞くという「ドレナージ」をすることが効果的であることがある。別に解決に結びつく素晴らしいアイディアを提供するわけでもなく、ただ単に一人で抱えている思いを共有するだけなのだが、それを発動するタイミングは難しい。

具体的な解決法を求めている時には不適切だし、本人から「聞いてよ」と求められたら時機を逸していることが多い。一番つらいのは、これを誰かに聞いて欲しいと思う時より前であって、自分の力でなんとかしなくちゃならないと信じているのにうまくいかない、先が見えない暗澹たる時である。まずはそういう状況であるのを察することが必要で、そこでうまく話せるような関係があれば力になれる。

どうも、このドレナージをできるのが自分だけではないかと思うことがあって、それは大いに誤解であるかもしれないのだが、そう思って行動して、相手が救われ、それを見た自分も安堵すれば、間違った行動ではないのかな、と思うことにしているのだ。正しいとか間違ってるとか、それは後からつく評価であって、その場その場では正確な判断を続けていくのは困難だ。だから何もしないと言うよりは、だけど何でもしていくように心がけている。

■2004/09/12 (日) そもそも平坦な道なんかない

覚えちゃいないが、私は0歳から入退院を繰り返している。出生児の体重は2100g、昔風に言うと「未熟児」、今風に言うと「低出生体重児」だ。喘息やら気管支炎やら肺炎やらを繰り返し、少しの風邪がこじれて入院、酸素吸入というのはよくあることで、それこそ物心ついた頃からこれが当たり前の生活だった。私にとってのデフォルトは病気の状態である、とも言うことができる。

小学校半ば以降か、それらの病気がなくなって、むしろ人並み以上に「健康」な生活を送っているが、たまに病気になった時の心構えがどうやら違う。聞くところによると、どうして自分が、とか、なんでこんなに苦しい思いをしなくちゃならないのか、とか、そういう思いがあるらしいが、私は違う。病気であろうがなかろうが、そういう自分を引き受けていくことができるのは、他ならぬ自分しかいないと考えるのだ。

人生における挫折体験もそうかもしれない、とふとつなげてみた。私はこういう挫折体験をしてきた、と挙げていく話ではない。自己評価として挫折を味わった時に、そういう自分とつきあっていくのか、そんな自分はダメなんだと考えるのか、という違いだ。私はわりとすんなり前者を選んでしまうが、後者で苦しむ人が結構多くいるようなのだ。

失敗をしたり、挫折をしたり、というのは、生きていく上でどうやっても避けることができないことだと思うのだ。確かにそこで自らを省みることは必要で、私はその部分が欠けている。しかし、くよくよ悩むだけでは先へは進めず、とりあえず目の前の「ダメな自分」を認めるところから始めて、そいつとどうつきあっていこうかと考えていくのが、取るべき道だと思うのだ。

それはきっと、ちょっと霧がかかると喘息発作が起こり、今考えると呼気時間の延長、つまり細い管を通しているようにしか息をはけない、そんな状態の自分がいた時に、どうしてこんなに苦しい思いをするのだとか、自分だけが喘息で入院しなきゃならないなんてとか、そういうことは思わずに、ただ目の前の一呼吸をすることに一生懸命になる、ということと似ているのではないかと今は思える。

自分の前にある道が、本来は平坦で歩きやすいはずだ、という思いこみがあるのかもしれない。しかし私は、そもそもデコボコで歩きづらいところもあるのが普通で、それをどうかわしていくかを考えるのが「歩くこと」だと考えている。岩をよけるか、越えるか、回り道するかという、そここそが楽しいのであって、与えられた道のひどさを嘆いても仕方がない。ましてや他の人の道と比べるなんて、全く意味がないように思うのは、隣の子が喘息じゃなかったからなのかもしれないと、今になって思うのだった。

■2004/09/16 (木) 患者が増えるということ

病院も経営を考えなければならないご時世であり、一般的な業種と同様「客数を増やす」つまり、患者数を増やすという視点がある。同じスタッフで患者数が増えれば、収入が増えて収益が良くなる、とここでは単純に考えておく。確かに、いい先生だとか、さらに言えば、いい病院であれば患者数は増える、という現象は観察される。

患者数が増えるというのは、次の二つの状況が考えられる。一つは、他の病院から患者が流れてくる、ということである。これは大きな視点で見ると、医者と患者の分布のバランスが変わるということで、あるところでは医者が多めで患者が少なめ、一方で医者が少なめで患者が多め、というところもできる。

もう一つは、そもそも病院に来ていなかった人が病院へ来るようになった、ということが考えられる。体の調子は悪かったのだけど、病院嫌いで行っていなかったが、評判がいいので来てみた、ということだ。これは「需要喚起」と呼ばれ、別に病院に限ったことではない。あそこのラーメン屋がおいしいという評判だから食べに行ってみる、というのと同じだ。

患者にとって、あるいは医療全体にとって、ある病院で患者が増えるのはどうなのか、というのは難しい問題だ。いい病院に患者が集中して、一人一人じっくり診ることができなくなったり、待ち時間が長くなるのはいいことではないだろう。病院に来ていなかった人が来るようになれば、医療費が上がるという考え方もある。もちろん、軽症のうちから病院に来ると、トータルでは安くなるという説もある。

北海道のような立地条件だと移動時間などで現実的でないが、病院ごとに専門とする分野を分けて、この病気ならあの病院、と特化させるのも一案で、そうした方が質は上がるとされているが、今ある病院をつぶしたり科を減らさせたりするのは、誰の権限でもできなさそうだ。そして多くの現場の医者たちというのは、こうした全体のことを考えるよりも、目の前の患者に何ができるのか、というのに熱中する。自分がしたことで患者さんが治っていくなら、それを超えるやり甲斐はない。

そんな中で自分の方からできることは、その病気ならどの医者が一番ふさわしいかを判断しつつ、同時に自分の技術も徐々につけていく、ということだ。そのためには、患者数が多かったり増えていたりするようなところに就職するのがいいのだろうか。悩みは尽きない。

■2004/09/18 (土) 人を全てみるとは

例えば耳鼻科が、顔とせいぜい首しか対象としないのに対して、全身を診ることができる、というのが特色である科がある。それぞれが専門家としてできることとできないことがあり、お互いに協力し合っていかなければならないので、どちらが優れているとかではないのだが、その科を選んだ動機として、全身を対象とする、と挙げる人は確かにいる。

しかし、全身を診る、というのにも色々あり、対象とする身体の部位が全身である、というのが最低限だ。一歩踏み込むと、胸とお腹の両方に病気がある人に対して、どちらを先に治療するのかそれとも同時にするか、のような優先度の判断をすることもある。足の手術をしたけど、歩けないくらい心臓が弱っています、では意味がない。

さらに一歩踏み込んで、その人の年齢であるとか人生についても考える場面がある。スポーツ選手であることがその人をその人たらしめるのであれば、普通の人にはしない手術をするかもしれない。90歳の人に癌が見つかったら、50歳の人と同じようには扱わないのも当然の話だ。

もう一歩進めると、その人の家族であるとか社会とか福祉の制度の問題もある。家で面倒をみてくれる人がいるのならばこのまま帰っていい状態でも、そういう人がいなければ受け入れてくれる病院なり施設などを考えなければならない。そこでもしも、今のままの身体状況では受け入れ先が見つからない時には、何らかの治療をする必要が出てくることになる。身体状況が全く同じだったとしても、例えば手術をするかしないか変わってくるのだ。

全身をみる、というのは、最初に書いた対象の広さで考えがちなのだが、本当にその人全体をみるというのはもっと大きな範囲のことだと思うのだ。それを実行するには、医学以外の様々なことも勉強しなければならないし、何より患者さん本人とよく話をする必要がある。それは実は、最初に挙げた耳鼻科であっても同じことで、そうした次元で考えるようにしていきたいと考えている。

■2004/09/19 (日) 医学生の弱点(10万ヒット記念企画)

医学生の弱点と聞いてまず頭に浮かぶのは、相手の気持ちがわからないことである。これは「思いやりがない」とか「勉強しかしてないから」とかいう意味ではない。現実として、医学生は「優秀な」道をたどってきている。「勉強ができる」とされる人でなければ医学生となることはできないからだ。医学の知識の膨大さとか厳密さを考えると、ある程度以上の能力が必要とされ、それを測るために「勉強」を使うことには反対はしない。高校生を選抜するには最もふさわしい方法なのではないかとも思う。

その「優秀さ」があだとなる。ある事象を説明するにあたって、それを理解できない人がいることを理解できないのだ。「わからないことがあればなんでも聞いて下さいね」とか「どこがわからないですか?」という言葉を発することはできる。しかし、そうした意見の表明すらできないような段階でつまずくことがあって、それが結果として「わかりました」となることを、本質的に理解できないところがあると思う。もちろんこうして書けば、そういうことがあるだろうということも理解できるくらいは優秀だ。

自分がそういう体験をしたことがないからなのではないかと思う。たいていのことは「わかる」「できる」で過ごしてきた。わからないことがあれば「ここがわからない」と表明して生きてきた。つまり、「わかること」と「わからなくて、わからないと表明できること」の二通りであるかのように決めつけがちで、患者さんと話をする時にもそうしてしまうとおもうのだ。「わかりましたか?」と聞き「はい」か「いいえ」のどちらかで答えるように求めるなどは典型で、「どことは言えないけどすっきりしない」などの選択肢を私はあえて示すようにしているが、それでも大いに不十分だろうと思う。

医学生の弱点、という意味では、こういう自分たちの「非常識さ」を気づくことなく過ごせてしまうという問題点がある。いわば閉鎖的で、医学に関係している人とだけ接していれば済んでしまう。他の大学とか社会人とか、そういうつながりを持っている人は、医学部内ではむしろ「変わり者」だ。そうした幅の狭さは、いわゆる「社会」に出てからどうなのだろうかと思うのだが、そうした弱点があることは事実のように思われる。

■2004/09/20 (月) 医学生だから書けること

私はサイト名に「医学生」を冠して文章を書いている。医者が書く文章もあれば、医者じゃない人が書く文章もたくさんあるだろうが、医学生という立場の文章というのはそう多くないと思われる。最近でこそ増えてきたが、いわゆる学生の日記というスタンスではなく、医学生が社会に向かうというスタンスの文章は、そう見たことがなかった。限られた期間であるが、それができるうちに書いておきたいと思って始めた、というのは後からつけた理屈だが。

医学生というのは、本質的には医者ではないけれども、ある程度の医学の知識を持っているので、医者の気持ちもわかる一般人、という立場に立つことができる。それゆえできることがあり、できるだけ生かして書こうと試みている。

一つは医者を批判できるということである。医者が医者を批判すると、仲間を批判することになったり、自己批判の構図になったりするが、医学生は一応「外」の人間だ。そうした少し客観的な立場から、知識を生かして切り込むことができる。現場のどうしようもない状況とか、理想とは程遠い現実に諦めの境地に立つことなく、好き勝手なことを言うことができる。じゃぁお前がやれよ、とも言われない。

もう一つは、一般の人と医者との橋渡しである。一般人が誤解していることがあれば、医学の知識でその間を埋めることができるし、医者の方にも「こうだから伝わらないんだよ」と言うこともできる。まだ自分が医者になっていないからこそわかる、医者の世界の常識の非常識さと、医学の知識があるからこそ誤っているとわかる、巷にあふれる短絡的な考えを、少しでも近づけることができたらいいなと思っている。

さーじゃん先生からありがたい言葉をいただいたが、医学生から研修医になったら、上で書いたのと同じスタンスでは続けられないことになる。免許を持てば今より歯切れも悪くなるだろう。おそらく一年目の余裕とかではなく、同様に書き続けるのは難しくなるとは思うのだが、今度はそういう立場だから書けることが出てくるように予想している。元々書きたい気持ちを抑えられずに始めたテキストサイトであるから、頻度が落ちても、書く内容が窮屈になっても、続けていくのだろうなと今のところは思っている。

■2004/09/22 (水) 段落文体へのこだわり

元々段落文体で文章を書くようになったのは、それがテキスト庵への参加条件だったからだ。当初は単に長くなってきたら分ける、くらいの意識で、段落もだらだら喋る途中で息継ぎをするような感じだったが、徐々にスタイルが固まってきた。

参考とした書き方はいくつかあって、その一つは英語の文章の組み立て方で、塾で教えている時に使っていたものだ。英語で長文を読む方法論は、彼らが文章の組み立て方を教育されているがゆえに、日本語よりもはるかに機械的に説明することができる。日本風に言うと起承転結に相当するが、それぞれの段落はそれぞれの役割を持つことになる。

例えば筆者の主張を書く段落があり、それの裏付けをする段落がある。反対意見を書くものももあり、そういう意見があるかもしれないけれど、と主張につなげていく。それらを説明するための具体例ももちろんあり、ある方ではこうだが一方ではこうだ、という対比もある。日本語なので英語と全く同じとはいかないが、各段落に意味を持たせて文章を構成していくところは共通している。

これを意識するようになってから、依頼された文章を書くのが苦にならなくなった。むしろ文字数が多すぎて苦労することの方が多い。こういう導入で1段落、それに対する1段落、具体例を1つ入れて、最後にまとめて合計1000字だな、という感じだ。そうした構成にすると、一息で読める単位を繰り返すため、長さのわりに読み進みやすいだろうという期待もある。そして最後まで読み終わった時に、読み手の心に何かが残れば、それでいいと思うのだ。

■2004/09/27 (月) 客層を決めるもの

私の姉は音楽好きで、クラシックのコンサートとかいう方面だ。どういう次元かというと、同じ人が同じ内容の公演を違う場所でやる時に、伴奏の人の善し悪しとかそのホールの特性などを考えた上で、どちらに行くかを決めるくらいのこだわりを持つ。端で聞いていても素人には違いがわからない。私にとっての温泉の泉質みたいなものなのだろう。

その姉が言っていたことなのだが、どんなに有名な人が近くに来たとしても、無料である場合はそこに行くのを躊躇するというのだ。それは、演奏する人であるとかその場所に問題があるのではなく、観客の層が悪いというのだった。なるほど「ただなら行ってみようかな」という人のマナーは、それに詳しい人には耐えられないのだろうと想像できる。

黙って座っていられない子どもを連れてくるとか、演奏中に隣の人と感想を言い合うとか、そういう人がいるかもしれないが、それは無料よりも有料、そしてその値段が高くなるにつれて、少なくなるだろうと考えられる。こうしたことは、飲食店の騒がしさとか落ち着けるかなどでも言えるように思われる。隣の席の大きな叫び声が聞こえるかどうかは、目的によっては重視したいポイントである。

持っているお金の多寡で人を差別するような、そんなことはしてはいけないと思っているので、これまでなんとなく嫌だと思っていたのだが、そうしたことを端的に振り分けるのは結局お金しかないなぁ、と感じたのだった。店とか演奏者の側からは、客を選ぶことが普通はできずに、客の側が来ようと思うかどうかだけにかかっているからだ。それに対してある価値を認めることができる人を集める手段としては、それなりの負担を求めることにはかなわないだろう。

これは差別と言うよりは、うまい棲み分けなのだろうと思うのだった。その場の雰囲気とか隣のお客までを気にする人は、それにふさわしいところに行けばよくって、その対価としてお金を余計に払う人が集まればいい。そして、自分がどちら向きでも「場違いな」ところに行った時に、その雰囲気を感じ取り、周りに自分の考えを押しつけることなくすっと去る、とさりげなくできることが、私の一つの目標だ。そこで店とか同行者に文句をたれても、結局誰も幸せにしないからだ。

■2004/09/28 (火) その講座は役に立ったか?

医師国家試験対策にも色々あるが、大学受験よろしく予備校がやる「対策講座」というのが各種存在する。これを受けた方がいいのか悪いのかを判断するのは難しい。受けた人と受けない人の成績の比較などは一つの方法だろうが、そもそも元の成績がどうか、わざわざ講座を受けようと言う人はそもそも熱心だろうとか考える始めると、何とも言えない。

体験した先輩に「役立ったか?」と聞くのは一つの方法で、手軽で最もよく行われる。しかしこれも、講座を受けた人が「役に立たなかった」と言えばそれは良くないのだろうが、「良かった、役立った」と言っていても、それがすぐに良いものであるとは言えないと考える。そこで「悪かった」と言うことは、間接的に自分を否定していることになるからだ。

自分を否定、というのは、講座を否定することが、過去に講座を受けていた自分を否定することにつながる、という意味だ。少なくともその時は、それが役に立つと思って時間を割いて取り組んで、身につくものもないわけではなかった。そうした経験を肯定しようと思えば、「役に立った」と答えることはうってつけだ。実際に講座を受けない時よりも役に立ったのか、また質問している後輩にとって役に立つのか、ということについては、実は少しも考えられていない。

記憶をたどると、私も予備校時代はそういう態度を取っていて、自分が通う予備校以外を否定することで、なんとか自分を肯定していた。これでずいぶん周りの人を傷つけたようにも今では思う。おそらく気づかぬところで、同じようなことをしているのだろうな、とも考える。確信犯でやればそれは宗教で、政治活動にも同じにおいを感じることがある。

誰かが他人をひどく否定していたり、何か躍起になって肯定したりしている時には、背景に何かないかと疑うようにしてみようと思うのだ。それは自分を肯定したいがためだったり、どうしても否定したくないからだったりで、表面的な話題とは無関係であるかもしれないからだ。そんなことはどうでもいいから、私も目の前にある講座に真剣に取り組もうと思うのだった。

■2004/09/30 (木) 料理人のやり甲斐とは何か

田舎の町にある寮で料理人を募集した。高級とは縁遠い普通の料理を、三食とも土日も休まず作るという。加えて、夜食が必要になると、電話で起こされ調理場へと向かう。別に昼間の仕事が忙しいわけではないし、仕込みに長時間かかるような手の込んだ料理を作るわけでもない。むしろそうした技術は求められていなかったりするのだった。

さて、どういう人がその募集に応募するだろうか。海外での修行経験があるような、また国内有名ホテルなどで腕に覚えがあるような、そんな人は見向きもしないだろう。もしも給料などが同じ待遇ならば、都会のお洒落なホテルとか、三食ともは作らないとか、土日じゃなくても休みがあるとか、夜食で起こされることはないとか、そういう方がいいな、と思うだろう。

料理人は腕で選ばれると思っていたが、いつの間にか田舎の寮の方が高給取りになっていたりする。需要と供給の関係というのはそういうことだ。来る料理人の視点も、お客の顔も見えない中で次から次へと料理を作る「作業」より、顔が見える距離でゆっくりやる方がいい、と思うように自然と変わってきた。仕事の内容とか、待遇とかではなく、いわゆる「やり甲斐」を感じるところにポイントが移ってきた。

そもそも逆に考えていくと、前の料理人がやめてしまったのはなぜだったのか。そうしたやり甲斐を感じられなくなったからかもしれない。都会ではもっとたくさんの人のために腕をふるえるところを、わざわざこの町のために来たのだという心意気と、そうした自分への誇りみたいなものが、なくなったり、誰からも認められなくなったりなどの、言葉で表現しづらい部分がうまくいかなくなったからかもしれない。勤務時間の問題を挙げて去っていったが、それは表面的なものではなかったのか。すると単に給料を上げれば解決するとも考えづらい。