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割のいいバイトというのとそうでないバイトがある。私が6年間続けた塾講師は、まとまったお金が手に入るものの割が悪い、というのが一般的な評価だったが、それには私も賛成だ。割というのは言ってしまえば時給のことで、どれだけの時間、どれだけの労力を割くと、どれだけのお金を得ることができるか、ということである。
当然ながら、割のいいバイトの方が人気があり、私もそちらに変えることは6年もやってれば何度も考えた。塾の勤務体系は融通が利かないし、仕事の内容まで含めると愚痴は山のようにあるが、それでもなお続けることができたのは、そこでのやり甲斐というのが最も大きい。
やり甲斐というのは、生徒がわかったと言うことだったり、某予備校よりわかりやすいと言うことだったり、友達を連れてくることだったり、進路を決める大事な相談を持ちかけてくることなどだ。これらは、一生懸命やればやるほど成果が出て、手を抜けば抜くほど負の成果も出る。実際やる気がない時期もあったのだが、どっちも同じ給料かよ、と思ったことも事実だった。その思いが強くなって、私はバイトをやめようと決めた。
あえて定式化するならば、最初に書いた「労力に対するお金」ではなく「労力に対する(お金+やり甲斐)」に納得がいっていたので働いたのだと思う。アルバイトではなく職業として考えた時でも、この構図は変わらずに、お金の項に社会的とか安定性とかが加わってくるのだと考える。そこが大きくなるにつれて、やめづらさも増加していくし、自分が食っていくために必要なお金との比較も考慮に入る。
嫌なことはやらないのがアマチュアで、嫌なこともやるのがプロだ、という言葉が心に残っている。元の文脈は全然違ったような気がするのだが、嫌だけどやる代わりにお金がもらえる、と考えることにしていた。お金を嫌が上回るとやめたくなる。そうであれば、嫌だと思わない、やっていていいと思える仕事は、別にいいんじゃないかと思っている。
なんてことを、一点の濁りもない生活を読みながら考えたのだが、仕事を楽しむことが得意なのかもしれないと思った。少なくとも私はそうなのだが、仕事でもバイトでも趣味でも何でも、楽しむ結果それに精一杯打ち込むことが、他ならぬ自分を満足させることであり、そうして人生を作っていきたいのだ。
■2004/10/02 (土) そのライバルを倒すことが目標なのか
牛丼の吉野家に関する本を読んだところ、「ライバルの牛丼店はどこですか?」との質問に「それはたいした問題ではない」と答えるというのが頭に残った。これだけの要約であれば、同業他社など眼中にないように聞こえるが、そういうことではない。
つまりは、お客が吉野家の牛丼がいいか考える時には、松屋か、らんぷ亭か、すき家か、という考え方ではないはずだ、というのである。コンビニに行っておにぎりを2個と飲み物を買うと300円を少し超えるくらいになるはずだが、その客層は牛丼が280円になれば流れてくる、少なくとも彼らの選択肢として入るはずだというのだ。真のライバルは、牛丼と同等の満足を得られる食べ物全てである、と。
そんな印象を心の隅に持ちながら、何気なくテレビを見ていると、日本で獲れる秋鮭をなんとか売り込む話をやっていた。しかしその営業マンがやっているのは、なんとか輸入物のサーモンの代わりに売り場を割いてくれとかいうお願いだった。これでは例えば「吉野家vs松屋の戦い」と次元が同じだ。
そもそも(トラウトでもサーモンでもいいから)鮭の需要を増やすことが大事だろう。輸入物から国産に客を引っ張ってくるのは、値段の面で戦いづらい現実では限界があるだろう。結局限られたパイの奪い合いとなり、パイを切る位置をずらそうと綱引きをして両者が疲弊することになる。想定すべきライバルは、牛肉か何かは知らないが、鮭がそれに代わっておかずの位置を占められるものであろう。
するとその営業氏の売り込み方としては、「この味は輸入には負けません」ではなく、「こういう料理法だと一品になります」である方がいいはずだ。あぁ、鮭は塩焼きと何かだけではなくって、こういう使い方ができるのだと思わせれば、鮭を購入しようと思うだろうし、そこで「この料理には(サーモンではなく)秋鮭が適しています」とすかさず提案すればいいのだ。
ライバルを想定して、それを倒そうと考えるのは確かにわかりやすい。しかしライバルを倒すことは、例えば売上を伸ばすという「目的」に対する「手段」にすぎないはずなのだが、ともすれば倒すこと自体が目的化してしまう。どうも伸び悩んだり、目標を達成できないと感じた時には、果たしてそれが最終目標に対して必要なものなのか、他に方法はないのかどうか、一歩引いて考えるといいと思う。おそらく、どんな話題についてでもこれは同じことなのだろう。
他人が作るサイトについて、ちょうど口を出せる立場にいるのでああだこうだ言っているのだが、その内容が私にとっては基本的で、これでお礼なんかされたらむしろ申し訳ないな、と思うのだった。トップページは軽くとか、更新日を書くとか、連絡先とトップに戻るリンクを全てのページにつけるとか、確かに、アクセスを増やすなんとかという本にも書いてあったことだが、調べればわりとすぐにわかることなのではないかと思っている。
今春始まった研修医の新制度についても、これまで研修医なんか雇ったことのないお偉いさんから、アドバイスめいたものを求められることがある。これは自分が当事者であるだけに、そういうところは問題じゃないとか、やるならこうだろうとか、お客をよくわかったマーケティングを提案することができる。おそらく自分が行った病院で、そういうところに力を割くのだろう。
これらのことは、自分にとっては当たり前で、特に価値があるとは思っていないことだけれども、その情報自体に価値があるのだと思う。何のコネもなかったとしたら、どうしたらいいかわからないから「コンサルタント」とかいう人に相談するかもしれない。彼らは商売だからお金はかかるだろうし、当事者である経験にはかなわない面もあるだろう。
そう考えると、私が自分の経験を出す時には、金を取るとは言わないまでも、誰にどのくらい力を割くかは、慎重に判断してもいいのかもしれない。自分にとっては、そういう無形のアドバイスをくれる人がどれだけいるのか、というのをよく意識していきたい。ただ「くれ」と言っても無理だろうから、相手が欲しいと思うようなものをこっちが持っているよう、努力をすることも必要かもしれない。自分のためと思うよりも、他人のためと思う方が頑張れるのでちょうど好都合だ。
■2004/10/06 (水) 病院ランキング本は医療を変えるか
手術数ランキングと銘打った本が書店で見られるようになった。なるほど各手術ごとに、何病院は何件だと多い順にまとめられている。あくまで数を並べているわけだが、これで上位な病院ほどいい治療を受けられるような気がする。何も予備知識がなければ「年間100例やっています」という病院と「40例やってます」という病院では、迷わず前者を選んでしまいそうになる。
慣れも含めた経験という意味で、数は多いに越したことはないのは確かだ。ある一定数を超えなければ、その施設では行えないようにしようとする方針も、ある種の手術ではあるという。しかし単純に数が多ければいいわけではないという要素がある。
一つは、ランキングが上位ほど本当に経験が多くなっているのかという問題だ。大きな病院で100例あった時に、それを4人で分け合ってやると1人あたりは25例だが、比較的小さな病院で40例しかなくても、1人が全てやっているなら25よりは多くなる。もちろん1人でやる善し悪しはあるのだが、数だけを考えるにあたっては、そのチームが3人なのか30人まで勘案に入れるべきだろう。
もう一つは、実は治療に失敗した結果かもしれないということだ。300件あった時に、300人なのか、100人が3回なのかはわからない。再発するようないいかげんな治療をしておいて、その人に再び治療をして回数が増えている可能性も否定はできない。もちろんそういう説明を患者に直接するわけはなく、客観的に評価できるのは医者しかいない。しかしそうしたレベルの内容は、難しすぎて市販の本には出せないことになる。
切り口の一つとしては件数ランキングもいいのだろうと思うのだが、ある人にとって最もいい治療を考えた時に、その答えが本に載ってる一位になるとは限らない。一方では、次の世代を担うためにも多くの医者が経験を積む必要もあるし、地域的な特性も含めて考える必要がある。もちろん賢い消費者、つまり患者になることも意識の上では大事であるが、抜本的には全体を見渡す立場にある人が制度を変えなければ、怪しいランキング本を売る人しか幸せにならないように思うのだ。
献血は35回目だった。成分献血を依頼する電話が来ていた。外科での実習を思い出し、患者さんの検査データがどんどん悪くなったり、太い血管を扱う手術の時に「じゃぁ○○単位頼んでおいて」と言っていたのは、こういうところに返ってくるのだと思いながら足を運んだ。
今の私は、病院にかかることなく、健康にすごすことができている。しかしかつては、病弱で入退院を繰り返して、病院とのつきあいはとても長い。ここ何年も病気らしい病気はしていないものの、だからこそ健康のありがたさを感じているところはある。自分のその健康が、誰かの役に立つなら喜んで提供したい。
○型の血液が不足しています、と書かれた看板もやや色あせて、○には「全」が入っていたりする。不足していると言っても実感わかないだろうなぁ、と横目に見ながら、注文した電話で「明日の午後になります」と言われていたことを思い出す。こうして献血する人が少なければ少ないほど、届くまでの時間は長くなるはずだ。その間は、医者も家族も、何より患者さん本人にとって、ただ待つことしかやることがない。
血小板製剤の有効期限は72時間だ。3日以内にどこかの誰かの血を止めるのに、私が役に立てるのだろう。そんなことを考えながら、顔見知りの研修医と挨拶を交わして、血圧が測られる。スタッフの方たちもだいたい顔がわかっていて、すっかりリラックスして寝てしまう。起きて間もなく針が抜かれて、水分を摂り家路につく。洗剤とラップは母親へのお土産だ。
physical pain, mental pain, spiritual pain, social painについてblogの方で少し書いたが、これはWHOの健康の定義を意識している。正確に言うと、まずpainすなわち痛みについての考え方があり、それから健康の定義が作られたようである。
Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
日本語では、身体的苦痛(physical pain)・心理的苦痛(mental pain)・社会的苦痛(social pain)・精神的苦痛(spiritual pain)と訳されている例があったが、特にspiritualについては、霊的苦痛、実存的苦痛など、苦心の跡がうかがわれる。
具体例を挙げよう。特に末期癌で入院している患者の立場になってみる。癌の疼痛はphysical painだ。痛み止めを使ったり、神経ブロック、麻薬などの方法がある。病気になって不安になったり悩んだりする苦しみがmental painだ。情報を的確に伝えたり、カウンセリングも有効かもしれないし、精神科の力を借りることもいい考えだ。仕事を休んだり、家族との関係などの問題がsocial painだ。クビになるのではないかとか、部下のことが気になったり、家のことは大丈夫だろうかとか、そういうことも問題になる。
spiritualを説明するには、一つには宗教を考える方法がある。毎週日曜日に教会に通うことをイメージして、どうして神は私をこんな目に遭わせるのだ、きちんとお祈りしなかったからか、などというpainだが、これでは内容的には不十分だ。仏教徒だと考えづらくなるようなものではない。
「どうせあと3ヶ月の命なら生きてる意味がない」と言うのがspiritual painの一例だ。自分の人生とは何かとか、生きる意味や死ぬ意味を捉え直して、自分や周りがやったことを許して、受け容れ、自己の存在意義を振り返っていくことである。哲学的だが根本的で、その人の根幹に関わる部分だ。
spiritual painについては、それを専門とする人も、そうした本もたくさんあるので、私などが浅はかなことを書くのも、と考えたのだが、どういうものかと頭の中で思いを巡らすことこそが大事なことであると考える。私自身がそれをしたかったし、いずれ誰にも訪れる死に対して向かうにあたって、読んだ人の頭の隅に少しでも残っていれば、と願うのだった。
塾で高校生に英語を教えていたために、色々参考書なども読みあさったが、その中にこんな英語の読解法があった。文章が2つ並んでいて、それをAとBとすると、AとBが同じ内容である、AとBが反対の内容である、Aの具体例をBで挙げている、の3通りのどれかだというのだ。唐突であるが、人生にこれを当てはめてみた。
今やっていることをA、これからやることをBとする。今やっていることがいいと思えばそれを続けていく、つまりAとBが同じ内容であることになる。次に、今やっていることが良くないと思うので、今とは違うことをやろうと思う、つまりAとBが反対の内容である場合がある。また、Aという理念を一つ身につけたので、それを実践してみようと思うこともあるかもしれない、つまりAという考えを具体的にやってみたのがBとなる。
3パターンのどれも、Bが正しい、やったらいいことだと考えているのは共通している。人生というのは、いいと思うことを選択し続けて形成されていくものであるが、そのBというのは実は、Aと同じか、反対か、具体例かのどれかである。しかしながら、Aがいいというのが、普遍的に正しいかどうかはわからない。Aがダメだと思った場合も、反対のBの方がもっと悪いかもしれないし、実践する元の思想が本当にいいかどうかは保証がない。
何でもそうなのだが、例えば私が就職先を選んだ基準も、例えばあの子とつきあいたいと思う気持ちも、例えば将来こんな医者になりたいという思いも、どれも3通りのどれかに当てはまる気がするのだ。その元になるAがあって、行動の方針が決まっている。しかしそのAというのは、自分が偶然めぐりあったものであって、それでこれこそがあるべき道と決めるのはすごく早計ではないか、と薄々気づいてきた。わかりやすく一例を挙げると、派手好きの子とつきあってうまくいかなかったから、地味な子とつきあおう、ということである。
できることなら、もっと全体を見渡して、絶対的に正しいことであるとか、CとかDとか、色んなことから選んだ方がいいのかもしれないが、それを実現するのは難しいのも現実だろう。とすれば、今の判断基準が3通りのうちどれなのか、そしてAにあたるものはいったい何なのかというところを意識して、AからBへ向かうベクトルを少し広い視野から把握しておきたいな、と思うのだった。そうすれば、取る行動とか結果は変わらないが、いいことでも悪いことでも少しは納得できる気がするのだ。
私は多分癌で死ぬ。少なくとも癌になるだろうとは思っている。4人の祖父母のうち、3人が癌になり、1人が骨肉腫になった。遺伝子変異が既にいくつかあるのは明らかだ。その上タバコを吸うなんてもってのほかだ。なるとわかっている以上、ならないようにお祈りしたり、目を背けるのは私の主義には合わないことだ。
癌になるとすれば、癌とつきあうことになる。うまくつきあうためには早めに仲良くなることが必要だ。既に大きくなってしまった彼らとは、長くつきあうことができないからだ。手術で取れるならばそうするし、取れなければ取れないなりのつきあい方を探していくことになるだろう。そこには告知をしないことはありえない。
告知を受けるということを自分の方針とするのはいいが、それを他人に押しつけていいものか、というのは悩むところだ。患者さんや家族の意向を尊重するのが医者の仕事であるのはもちろんだが、心の中でこっちがいいのに、と思っていることに絶対影響されないとは言えない。患者さんが迷った時とか、お任せしますと言われた時には、自分が信じるところを示すことは大いにありうる。
全くそういう信じるところがない医者も、逆に良くない気はするのだが、どちらの道も取れるような場面において、どちらかをいいと思う気持ちが邪魔になるのではないかと思うところがある。あくまで個人の人生選択にあたって、どういう道を選ぶかというのは本来他人がとやかく言うものではないはずだ。そうであるが、自分には考えがあり、そして大いに影響を与える立場になろうとしている。
「インフォームド・コンセントとか言ってるけど、8割方の患者さんにどちらかを選ばせることは、言い方一つでどちらにでもできるんだ」という話をベテランの医者から聞いたことがあり、それは正直その通りだと思う。圧倒的に知識の差がある医者と患者の間で、偏らない説明と判断なんてできやしない。そこでどちらを勧めることがいいことなのか、一つ一つのケースで考えなければならないだろうし、自信を持って判断できるように日々努力することも必要だろう。どういうことがいいのかを考えることは、もう今から始まっている。
■2004/10/15 (金) わかりやすい講義、わかりにくい講義
わかりにくい講義には二通りある。一つは、本人もわかっていないで教えている場合である。ごく稀に私の方がわかっているぞ、という場面に遭遇するが、見当はずれの方向からアプローチして、ありえない理論を用いて答えを導き、正直やっている方もわかっていないように見える。今年から急に国家試験対策をやり始めたので、大学の教官たちにも散見されて、それは教える、教わる双方にとって不幸なことである。
わかりにくいもう一つは、あまりに専門すぎて受け手にとって難しい場合である。その分野で10年以上の経験があり、日々それを実践して飯を食っている人にとっては、国家試験レベルの問題は赤子の手をひねるがごとく簡単だ。しかし彼らが、我々のようないわば素人に対して、「赤子の手のひねり方」を教えるのがうまいとは限らない。ボブサップの手のひねり方と曙の手のひねり方の違いはいいから、赤子の手について教えてくれと思うのだ。
本来の専門とは違う分野を教えると、意外とわかりやすかったりする。それは未熟な我々に近い立場で、最低限のことだけを伝えるからで、初学者の立場でまず知りたいことがそこにはある。しかし最もいいと思うのは、専門家が全てを見下ろした立場から、かつわかりやすく教えることだ。頭に入りやすくかみ砕かれていると同時に、背景を理解しているからこそ出てくる内容の濃さがある。
わかりやすい講義に共通しているのは、教わる側のレベルをよく把握していることである。どんなにおいしいものでも、手の届かないところにおいては何にもならないし、既に持っていても役に立たない。こんな小手先のテクニック、と思うのだが、対話をするのに聞き手の力を推し量ることは最も大切であるから、相手のことを考えるというのはもっと広い範囲に通じることなのかもしれない。
■2004/10/17 (日) 書いてあることを読み取るという基本
ネット上でのやりとりは多いが、行き違いを目にすることは珍しくない。端から見ればなんでもないようなことも、どうしてそうやって解釈できるのかとか、こじつけとか言いがかりじゃないかとか、良くないやりとりに進んでいくことがある。基本は「書いてあることを正確に読み取る」ことなのではないかと、今さらながらに思った。
書いてあることを読み取っているうちは、そんなに大きな問題は起こらない。書いていないことを読み取ったり、書いていることを読み取らなかったりするのが問題だ。そして、どうして相手がそんな風に思ってしまったかと考える前に、自分の書いたものをよく見返すことも必要だろう。自分の思いと、自分の書いた文章との間にギャップがあれば、相手に伝わらないのは当然だ。
電話や直接会ってのやりとりとは異なり、文字情報は何度も読み返すことができる。すると、最初に読んだタイミング、読み手の状況、流れの中ではなんでもなかったことが、後から読み返した時には違う印象を持たれることがある。もちろん逆もまた同様で、読み返すとどうということのないことしか書いていないこともある。この時も、書いてあることだけを読み取るようにすれば、問題は起こらないはずであり、感情的な時には特に注意が必要だ。
相手が文字通り読み取ってくれると仮定すると、文章を書くのはより厳密な作業となる。自分の心にあるものを伝えるだけの力を持ち、相手の心に響くだけの印象を与え、かつ悪いように解釈されうるものを除き、解読に困難が伴わない質と量でなければならない。相手が怒りっぽかったり、落ち込みやすい時には、言葉を選ぶのに慎重になりすぎることはない。
メール一通、blogのコメント一つ、掲示板への書き込みなど、そうした場面にたくさん直面し続ける。つい何かあると、自分のことでも他人のことでもイライラしてしまいがちではあるが、気持ちはさておき、言葉だけをもう一度見つめるようにしようと思う。書いてあれば読み取れない方が悪いし、書いてなければ書いた方が悪いのだ。
考え抜いてひねり出した言葉がうまく機能すると、この上ない喜びを感じるのも、言葉の持つ魅力の一つだ。その喜びに出会うべく、基本に立ち返り、自分と言葉が向き合うことを、これからもっと大切にしていきたい。
コアなファンというのは、まず身近にはいないものである。例えば今日、将棋の女流王位戦で矢内理絵子女流四段が敗れて私が残念がったとしても、それについて誰かと会話するのは難しい。松井がすごいとかイチローがすごいという話とはわけが違う。誰しもそうした部分をいくつか持っていると思うのだが、同志を募るのにインターネットは大きな役割を果たすことができる。
同好者の集まる場としては、メーリングリストであるとか、最近ではSNSが便利である。SNSとはソーシャルネットワークの略で、GREEとかmixiが私の周りでは有名だ。そこでは隣の人には言えないようなことであっても、引かれることなく、むしろ喜んで会話ができる。もちろん見ているだけでも構わないし、十分楽しめる。
そこで発言するのはもちろん、参加するだけでもかなり高度な知識が必要とされる気がする。私の場合、例えばアーティストであれば、全部のCDを買っているのを参加の条件にしている。たくさんのやりとりがあったとしても、わからない話であれば逆に苦痛で、水を得た魚のように、不必要に詳しい話ができることこそがメリットだ。
これこそネットならではだと思ったのが、mixiの「部屋が汚い」コミュニティだ。私の部屋の散らかりっぷりは、まずその辺の人には劣らない。いや、劣るか勝るか表現がわからないが、とにかく負けない。そこで交わされるやりとりの一言一言に、一人で頷きながら見ているのだが、片づけなければならないとわかっているけど片づけられない、この思いを共有できるところがあるとは思っていなかった。そんなことを書いている暇があったら片づけろ、と思われるかもしれないが、それがわかっていてできないというのが、まさにわかってもらえないところなのだ。
もう一つは「耳かき好きの人たち」である。各々が、お気に入りの耳かきの種類、本数、何本持っているか、などをカミングアウトし合い、特に後からごっそり掻きたいがために我慢しているトピックでは、かきたい、けどかけない、かかない、という思いが切々と綴られていて、今も挑戦中である人が何人もいるようだ。普段うっかり隣の人に言って「へー、それで?」とか言われるかもしれないと考えると、非常に貴重な場であろう。
こんなわざわざ書くのもどうかという共通点ですら、時間的・空間的な距離を超えてつながることができるのがインターネットだ。その秘められた可能性の大きさを考えると、もっと仕事をはじめ実生活にも生かせそうな気がする。そこで必要なのは、自分で考えたことを表現する力と、そうした場を見つけ出してくることだと思う。従って、表現のトレーニングはもっとされるべきだろうし、いい出会いの場を提供することは、大いにビジネスチャンスになるだろう。
相談してきた人がいて、その人はしきりに「取り戻す」とか「追いつく」を口にするのだ。自分が成功している部分はいい。しかし失敗した部分については、穴を埋めるために、代わりにこうしようと思う、またはどうしたらいいだろうか、と。なんだか自分にはない発想で追いつめられていて、どう言えばいいのかとっさに浮かばなかった。
なにゆえそんなに、自分の失敗を否定しようとするのだろうと感じる。失敗した自分を許せないのか何なのか、その失敗をなかったことにできるものを求めて突き進む。これから努力で埋めることができるのならば、どんな犠牲を払ってでもしたいという妙な熱意が伝わってくる。しかし、本当にそれは埋める必要があることなのか。
例えば同じ講義を受けても、理解の程度は百人百様だ。医学部で言えば、全国の医学部が好き勝手なカリキュラムでやってるがゆえ、教えられる量が様々で、それこそピンからキリまでの理解度の医学生がいて、しかし結局医者になっていく。それなのに、目の前の試験の結果が優だったか良だったかがそんなに大事なのか。もちろん私のように不可を取るのは奨励されないが、だからといって不可を取ったらおしまいなのか。
やっぱり○○大学出身だから、よりも、やっぱり○○先生は、と聞く方が多いことから推測するに、みんなが同じレベルになることなんかありえないのだ。そして、環境による画一性よりも個人差が勝る。なのにどうして、あるラインを設定して、それに並ぼう、追いつこうと考えるのか。いったいどこに到達するつもりなのか。
経験というのは、失敗したものでは特に、そのもの自体に価値があると思うのだ。失敗したという過去を捨てて次があるのではなくて、失敗した自分を持ち合わせつつ、次に失敗しないようにと一歩踏み出すことができる。そもそも成功するために、失敗の反対を知るにもそれは必要だ。
確かにその時は悪いこととして評価されることかもしれないが、掛け替えのない経験である失敗を大事にして、そしてそれを持ちつつ現在を大事にする。そうして過去も現在も大事にするから、未来を大事に思える。また、自分を大切に思えるから、他人も大切に思えるのではないかと考えるのだった。
何かを躍起になって否定している時は、視野が異常に狭まる気がする。黙って一歩引いた時に見えるものを、踏みつけないと進めないなら、私は前に進まなくていい。大事なことはそこじゃない。
10年前の自分はどこにも残っていない。体をアミノ酸からなるタンパク質としてとらえると、10年前の私を構成していたものはまず残っていないだろう。各々の寿命に従い、古いものは体を去り、新しいものがその位置を占め、そしてそれもまた古くなり、移り変わる。それでも私は、依然として私のままである。
私を私たらしめるのは何か、と問えば、遺伝子である、という答えが用意されている。遺伝子を構成する原子レベルでは変わっているかもしれないが、その配列という情報は変わらず伝え継がれていて、それに従い私は今日も、アミノ酸からタンパクを合成し、それらのおかげで生きている。
母校がサイトを作ったというので行ってみた。高校での生徒会活動は、私に大きな影響を与えたが、その中でも特に大きい出来事として「服装の自由化」があった。要するに制服から私服になったというやつである。私はたまたまその活動を引き継いだのだが、結果的に大きな節目に主体的に立ち会うことができた。
生徒会活動の中の、自由について、心得について、校則について、などを、当時を懐かしんで夢中で読んだ。ある時は泊まり込みで夜遅くまで、幾度も語り込んだ内容だけに、今すぐにでも熱く説明することができる。生徒がそれまでの校則を全てなくし、宣言、心得、校則を新たに作っていくという作業は、高校生にしてはずいぶん思い切ったことだったように今では思う。
今回のサイト上には、私が作った文章はどこにも載っていないが、私の後輩たちが作った文章がたくさん載っている。私の活動を直接知る後輩もいれば、その後輩を知っているさらに後輩もいて、今では一人も知ってる人がいない。それでも彼らが書く文章を見ていると、この文章のこの言葉は俺が言い出したものだとか、これはあいつがあの時最初に言ったんだとか、そういう発見をして一人喜んでいたりする。
ある生徒に注目すれば3年でいなくなるが、高校はずっとそこにあり続ける。次々と入学してくる彼らが制服を着ないでいられるのがどうしてなのか、脈々と語り継がれた結果がそこにある。1人がそこで語る期間は最大でも3年だが、話す人は変わっても変わらないことがそこにはある。もちろん変わることもあって、自分のものにしていくという意味では歓迎すべきことであり、そこにも同時に感動している。
生徒会の顧問の先生が言っていた「活動は紙に文字にして残さなきゃダメだよ、遺伝子だから」という意味が、ようやくわかってきた気がするのだ。彼らが目にしたのは、まず間違いなく私が書いた文字ではないが、その情報だけが綿々と伝わっていく。本当に大事なところは、何代引き継いでいっても繰り返される。何か形のあるものを残すのも大きな活動なのだろうが、形は変えるがずっと残っていくものもまた、価値のある活動なのではないかと思うのだった。少しであってもそれができたことを、私はとても誇りに思っている。
■2004/10/24 (日) オンラインショッピングとお勧めリンク
私はたまたまamazonを使っているが、本を買うのに本屋を使わなくなってきた。必ずその店にあるであろう売れている本ならいい。しかしまずないだろうというマニアックなものとか、内容を見ることなくもう買うことが決まっている本の場合、本の名前の一部や著者名で検索して、クリックして注文して家に配達される方が簡単だ。1500円以上をカード決済すれば送料や手数料もかからないし、在庫があれば翌々日には到着する。
amazonは本屋の名前だと思っていたが、CDやDVD、果てには調理器具も売っている。しまいには中古もあって、全国から集まる在庫は圧巻だ。サインインしてamazonの中をさまよい見て回ると、自分がチェックした商品リストができあがる。考えようによってはプライバシーを覗かれているとも言えるが、実際それに興味があるのだから私は別に構わない。そしてそれを生かしたのが「おすすめリスト」である。
詳しい仕組みまではわからないが、購入歴を元にして、これを買った人はこれも買うというデータがあって、チェックしている中でそれを適度におすすめしてくれるのだ。例えばシリーズものの続編であるとか、同じ作者の違う本、違う人が書いているが同じテーマについての本、そして最近の売れ筋を加えてある。売る方としては買ってもらいやすいものを勧めるわけであり、買う方としても、興味のあるところで発見があるかもしれない。町の本屋で適当に開いてみた本が興味のあるものがある確率はごくわずかであろう。
音楽でもamazonは同様にしているのだが、Listen Japanというサイトが、かつてから「これも好きかも」という紹介をしていた。あるアーティストを好きな人は、このアーティストも好きである可能性が高い、というリンクを構成していくのだ。1つのアーティストから3つ前後が紹介されていくのだが、いわば「似た」音楽のフィールが合う可能性は確かに高いと思っている。CDも、店頭でちょっと聞いてみることができるのはわずかであって、誰かがいいよと勧めてくれなければ「開拓」するのは難しい。
リンクはネットの大きな武器だが、それにデータの蓄積と分析を組み合わせたら、非常に有意義に使えるだろうと思うことである。blogのネットワークによる情報網も、いわゆる「報道」に対する形で重要な役割を果たすと思っているが、実際店に行って手にとって、直接説明された方がいいというメリットはどういうことなのか、というのが、これからの生き残りのポイントなのかもしれないと考えるのだった。
■2004/10/25 (月) 「頑張って」とか「大丈夫?」という暴力
「頑張って」と言われた相手を二つに分ける。一つはまだ頑張っていない人で、そう言うことで頑張らせることができればいいかもしれない。もう一つは既に頑張っている人で、そこにさらに頑張ってと言われても今さらどうしろと、となるだろう。命令文として意味をなさない言葉がけになってしまう。「しっかりして」と言われたら、あぁしっかりしてなかったんだなぁ、と思うのと同様に、自分は頑張っていなかったんだなぁ、と思われるのも不可避的だ。
鬱に「頑張って」と言ってはいけないのは、この構造による。頑張ろうとして、それをうまくできないのが鬱という病気だ。やろうと思って頑張っているのに気力がそれに追いつかない、という状況を、やる気がない、と評価するのは最悪だ。走ろうと思っているのに肺と心臓が追いつかない、と並べると、走る気がないと評価する無茶さがわかるだろうか。
「頑張って」と言われると、あぁ自分って頑張りが足りないんだなぁ、自分は頑張れないからダメなんだなぁ、と思考が進み、自殺の引き金になるので気をつける必要がある。ここまで考えると、「頑張って」とはうかつに口にすることができなくなる。考えすぎかもしれないが、「頑張って」が Good luck か Good bye の意味に取られる時にしか、使わないよう心がけている。励ましというのは、なかなか難しい行為である。
次に、「大丈夫?」と声をかけられた相手を二つに分ける。一つは大丈夫な人で、「大丈夫」と答えれば何も問題ない。もう一つは大丈夫じゃない人で、そこで「大丈夫じゃないよ」と話を始めることができれば、これも会話の始まりとして問題ない。しかしその関係によっては、大丈夫じゃないのに「大丈夫」と答えるしかない場面がある。立場を考えると大丈夫じゃなければならないとか、大丈夫じゃないと言ったとしても、その後詳細を打ち明けられない関係などだ。
大丈夫じゃない自分の状態に反して「大丈夫」と答えることは、はっきり言って拷問だ。相手が「大丈夫なんだ、よかったー」などと言った日には、もうこの人には何も相談しまい、と思うだろう。翻って考えると、元々はその人が大丈夫な状態かどうかを問う表現として「大丈夫?」という言葉があったのだった。それを知るのに、直接聞くのが最もいいのか、他の聞き方はないものか、他に知り方はないものか、相手の状況と関係を考えると、その答えは一概には言えないだろうが。
「頑張って」も「大丈夫?」もどちらも、言ってる本人は「よかれ」と思って使う表現である。私が今書いたような、良くない結末になるような場合は決して多くはないと思うのだ。しかしながら、不用意に相手を傷つける可能性があって、それも本人がいいと思っていることであればなおのこと、気をつけるのにつけすぎることはないと思うのだ。
全人口の15%が一生で一度は鬱になる、という統計もあり、決して他人事ではない、誰でも直面しうる話である。鬱はもちろん大丈夫の話もそうだが、自分が鬱だとか自分が大丈夫でないというのは、周りに声高に宣伝できないものである。ひょっとすると、自分の身近に隠れているかもしれないと考えて、これまでの行動を、少し優しく、少し思いを遣ってできるといいな、と思っている。自分はできている、と自惚れることは、よかれと思っているのと同じ構図だ。
■2004/10/29 (金) 私が習った乳癌治療法はいったい何なのだろうか
次に挙げるのは、読売新聞の医療ルネサンス乳房温存 方針に大差からの引用だ。
「手術は年内に済ませましょう」とたたみかけるように、手術日を決めようとした。
多分に主観的な書き方ではあるが、たたみかける印象を与えたのなら、その説明は失敗であろう。じっくり考えて、納得できるように調べる時間が必要で、その場でどちらかの結論を迫るというのはありえない。私が同席させてもらった説明では、説明を受けて納得したという紙は、その場では書かないようにしていた。書いてしまって、病室に帰ってから、家に帰ってから、引っかかるところが出てくるかもしれないからだ。
しかし一方、悪性の疾患である以上、家に帰って「ま、手術しなくても大丈夫かな」などという気楽な印象を持たれることもまた失敗だ。いくら決断に時間が必要だと言っても、癌が進行して残せるものも残せなく、取れるものも取りきれなくなっては、患者の利益に反する。だからと言って「手術をするしか方法はありません。いつにしますか」と迫ってはいけない。個人によって受け取り方が違うのだから、説明する方はそれに合わせてやる必要もある。
説明と同意、いわゆるインフォームド・コンセントの項目の中には、「これ以外の治療法について説明された」というものがある。乳癌であれば、温存するかしないかは一つの注目点であるが、それは例えば、全部取ったら5年後に9割の人が生きているデータがあるが、部分であれば見た目はこうだが5年後には7割の人が生きているデータになりますよ、というものだ。そこで示した数字が、世界的なスタンダードからはずれていたと後からわかれば、訴えられたら必ず負ける。
その病院によって格差がある、という言われ方もよく見る。施設の問題であるとか、専門の医師がいないという話だ。しかしこれに関しても、うちには放射線科医がいないので全部切るしかないですね、という説明をしないで「全部切る方がいいでしょう」と言ったら、訴えられたら必ず負ける。
「訴えられたら必ず負ける」というのは、訴訟が病院を潰すと言われる昨今では、「まずありえない」と同義である。患者の無知につけ込んで好き放題やる時代は終わった。仮に100人のうち99人は「そうですか、ではそのように」と言ったとしても、1人が情報を集めて、「説明が不十分なまま手術を受けた」と訴えたら大変なことになる。大変というのは、病院経営が大変だという意味だ。
私が学び、そして見てきたものからは、「患者が施設を選ぶ目を持つことが人生を左右する」ようには正直到底思えないのだ。患者が目をつぶって、目の前に来た先生が何を言っても「それでお願いします」と言うならば、確かに施設に左右されることはあるかもしれないが。いったいどこが食い違うのか、私が理想論を夢見ているだけなのか。この手の報道を見るたびに考え込むのだ。EBMもインフォームド・コンセントも、実はどこにも存在しない幻想なのだろうか。
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