最北医学生の2004年11月の日常

■2004/11/01 (月) 失敗させることも大事なのかもしれない

「俺の頃はこうだった」と何かにつけてケチをつける先輩は、いつの時代も煙たがられる。今風に言うとウザがられる。私も医者の世界では見習い以下だが、それ以外のところでは、指導的な立場になるべき先輩として所属する集団も多い。組織というのは、人間が変わりつつ毎年同じことをしているという側面はある。同じ種類だが違う食材を使って、同じ料理を作るけど全く同じというわけではないのができあがる、というイメージに似ている。

自分がやってみてダメだとわかったことをやろうとしている後輩を見た時に、それを止めようと思うのは自然な感情だ。ダメになるとわかっていることであれば、それをやめさせることが、失敗を防ぎ、無駄をなくし、それを伝えていくことこそが伝統を引き継ぐ、ということであると考えるのだ。しかしそこに「彼らのためでもある」とつけ加えようとして、ふと立ち止まる。

この間も書いたように、例えば高校時代の生徒会ではかなり多くのいい経験をすることができたのだが、今でも当時の失敗が心をよぎることがあるのだ。あれは無茶なことだったとか、苦労したが無駄だったとか、迷惑をかけたとか、傷つけたとか、その回想は決して私を快い思いにはさせない。しかし、それをしたことが悪かったのか、と問えば、ない方がいいとは思えないな、と答える自分がいるのだ。

苦労しても無駄に終わることがあるということを知った、他人に迷惑をかけて不愉快にさせるということを知った、相手を傷つけたことで自分が落ち込むことを知った、など。確かにその時にやったことの評価としてはマイナスだが、そこでの失敗は、たとえたくさんの犠牲があって、多くの人に迷惑をかけたとしても、外から止める必要はないのかな、と思うのだ。

例えば自分のこどもができたとして、奴らはきっと、自分から見てたくさんの「失敗」をしでかすのだと思う。何年か後輩であるだけでもたくさん目につくのだから、こどもなどとなればなおさらだろう。そこで、奴らが転ばないように目を配り、そして手を差し出して、できるだけ転ばないようにするのは簡単だ。しかし逆にじっとこらえて、転ぶことを確信して、ここで手を出せば痛い思いをさせずに済むという思いをぐっとこらえて、やっぱり転ぶのを見守っていく、というのもまた一つの方法ではないかと思うのだ。

しかるに私が先輩である場面でも、見ていて「あぁ失敗するな」と思っても、どこで口を出して止めるのか、というのはよくよく考えるべきなのだろう。転ばないようにと過保護に育てた「こども」が、果たしてどういう風な「おとな」に育つのか。親に「あれもダメ、これもダメ」と言われ続けたこどもは、どういう風に感じるのか。そう考えると、目先のことばかりに目を取られて手を出す自分の方が、よほど幼いように思えてくる。

自分の犯した過ちと同じことをこれからしようとする人に、冷たいようだが「いいよ、失敗しなよ」とじっと我慢して、そしてやはり失敗して困った時に助けを求めてきたら初めて、自分も体験したからこそわかるアドバイスができれば、それでいいのかな、と思うのだ。そうすれば「彼らのため」にもなるのだろうし、たまには私には考えもつかなかった鮮やかな解決策に出会うこともあるかもしれない。そんな先輩に私はなりたい。

■2004/11/03 (水) 仲間を敵に変えないように

一人でこなしきれないような仕事を抱えている人に「手伝おうか」と声をかければ、たいそう喜ばれるであろう。そこで苦しんでいる姿を見ていて、自分がいくらか請け負うことで、相手が楽になるのが見えるからだ。仕事自体が面倒なものであっても、感謝されればやる気も出て、気持ちよく仕事をこなしていけるだろう。

似ているのだが、最初から半分に線が引いてあって、「この線から向こうはあなたの分ね」と押しつけられたら、いい気持ちにはならないかもしれない。仮に仕事の内容が同じでも、満足感とか効率において劣ってしまうのが現実だろうと思う。どちらのケースも、二人が分け合って仕事をしているという点では同じはずなのに、ずいぶん違う。自分の方が多いと文句を言ったり、早く終わったら相手に勝ったとばかりに、これ見よがしに休憩することもあるかもしれない。

分担すると効率が上がるというのは周知の事実だ。ある作業に専念したり得意分野に特化するのは、トータルで見ると有利に働く。そうであるから、組織で仕事をやろうとする時に、構成員が各自の持ち場でベストを尽くせば、組織全体で出る力が最大限になるだろう、と考えられる。しかし話は、なかなかそううまくはいかない。

割り当てられた仕事をさぼろうとしたり、できていないのを隠そうとしたことは誰にもあるだろう。私にはある。大きな目で見れば、全体で進むべき方向、つまり仕事を完成させるのに対して、自分のしている仕事は貢献しているはずなのだが、小さな目で見るとそれから逃げようとしたり、反対向きの行動を取ってしまうのだ。

仕事を頼む側からすると、その意義を的確に伝えることが重要なのだろう。意味もわからず嫌々やるのか、わずかかもしれないけれども、自分がそうして役に立っているとわかってやるのか、ちょっとした工夫でいいからうまく感じてもらうように心がけたい。仕事を受ける側からすると、細かいところが全体にどうつながるのか、という想像力があるのがいい。自分一人くらい大丈夫だろう、と考えるのか、自分みたいにみんな思ったら大変だ、と考えるのか、ということだ。押しつけられたことに不安を言う前に、押しつけた側の事情を考えているだろうか。

それらに失敗している組織は、本来の仲間が「敵」に変わってしまっている。組織と書いたが、家族のようにどんなに人数が少なくても「言うことをうまく聞いてくれない」と悩む姿は見かけるだろう。本来一緒に協力すべき関係に、対立の構図を生み出さない、と書くのは簡単だが、それを実現するのが難しいのだ。「相手のことを思いやる」というのも、まず第一歩にはなるかもしれない。

■2004/11/05 (金) 診察・検査という「告知」

だいたい告知なんていうものは、事実を告げることだと定義すればものすごく簡単なことである。「あなたは癌です」でいいのならば、我々学生でももちろん、それこそ誰にだってできることだ。しかし現実はそうはいかない。当然次にやってくる「それで、どうすればいいんですか。治るんですか?手術ですか?」などという質問に答える必要があるからだ。

癌でした、治りません、さようなら、とか、手術をしないと治りませんね、ではいけないということだ。病名を告げるからには、その後の治療方針を提示して、十分説明の上納得して選択してもらう、というところまで求められるのが、インフォームド・コンセントという考え方だ。わからないと言われれば何度でも説明をするのは当然、特に手術などでは家族にもよく理解してもらう。

言うまでもないことだが、説明をして納得してもらうだけでは終わらない。その後、決めた方針で治療を行っていくのも一連の流れだ。成果があがればいいが、うまくいかなければ方法を見直したり、また患者さんと相談したりしなければならない。医者の方から途中で投げ出すことは許されないし、治るまで、もしくは力及ばず亡くなるまでずっと、つきあっていくことになる。

ここまで見通して考えていくと、告知をすることの重さが見えてくる。最後までつきあう覚悟があるからこそ、最初の説明で示すことができる選択肢がある。また、告知を「結果を知らせること」と捉えれば、結果を出すべく行う「検査をすること」が既に告知の始まりであるとも考えられる。

つまり、診察や検査をすることは、その結果を伝えることが前提であり、結果を伝えれば治療するのが当然で、ずっとその後までつきあっていきますよ、という見通しがあるからこそできることだと思うのだ。検査をしたら異常でしたが、私にはよくわかりません、では、検査をする資格がないだろうということだ。

もちろん、自分の専門外のことについては、適切なところへ紹介するというのも大事なことであり、そこまで含めて責任を負うと考えられる。日頃何気なく行われているように見える「診察」や「検査」というものは、可能な範囲で手伝わせてもらっているが、その実はもっと重いものなのではないか、と気づかされたのだった。そうした意味での「診察」ができるようになるには、あと10年はかかるだろうか。

■2004/11/07 (日) 残業は月80時間まで

小児科医が「過労死」 残業月に100時間超 遺族、労災申請 医師では道内初と報道された。なお、この報道されている件については一切触れるつもりはない。その枝葉の部分から一般的に考えられることのみ書いていく。何らかの結論が出たからと言って、今回報道されている件について、肯定するつもりも否定するつもりもないことをまず最初に書いておく。

このニュースによると、業務と疾患の因果関係を認める基準は「発症前二−六カ月間、月八十時間を超える時間外労働が認められる場合」らしい。

決まった労働時間が週40時間、月160時間だとすると、80を加えた月240時間が、過労死にならない最大限の勤務時間ということになる。一方で一ヶ月は24×30=720時間ほどある。720を240で割ると3、つまり三交替制を敷かない限りこの基準を満たせないということであり、これは看護師が取り入れているシステムと似ている。

当然ながら昼間の外来がある時も1人というわけにはいかないし、入院患者や夜間救急に対応しないぞ、という時間帯を作るわけにもいかない。これまで3人で回していたところは、例えば5人へと増員する必要が出てくるという結論になるのではないだろうか。そうすると、どうなるのだろう。

医者を集める、という考え方では、3人のところを5人体制にするために、病院の数を5分の3にする、ということかもしれない。ある病院に注目したコストの関係では、医者が3人から5人に増えたら給料を5分の3にするとかいうことかもしれない。患者が3分の5倍に増えるということなのか、働いている時間の仕事量はむしろ前より増えるのか、地理的な条件なども考えるともうよくわからない。

正直言って、土日も含めて計算した平均労働時間が、医者では1日8時間以上(240÷30)になることに、私は何の驚きもない。医者以外が代われる「無駄な」部分があるならそれはぜひとも改善するべきであるが、医者にしかできないことがあって、そこにそれを求める患者がいるなら、自分の労働環境なんて考えていられない、と思うのは、やはり危険な考えなのだろうか。

■2004/11/09 (火) 乳腺外科を知ってますか

乳がん検査、どこに行く?

乳房にしこりを見つけても、乳腺外科ではなくて婦人科等を受診する、という調査結果があるらしい。実際に乳癌を担当するのは外科で、細かく言うと乳腺外科だ。乳腺外科の知名度が低く、患者がどの病院にあるかという情報を得られないことが問題だと書かれている。

専門 看板見てもわからない

一方で、標榜科についての制限というのもある。上の記事によると、乳腺外科は医療法上看板に掲げることができないとされている。そうなると「外科」と掲げる病院の中で、乳腺を扱うところへ行く必要が本来はあるのだが、医療関係者でなければまずは婦人科に行くのも自然な発想だろう。こういうことを、高校の保健ででも教えることができたらいいのに、などとは思うが、現実はなかなか難しいだろう。

それでは単に「標榜科」の種類を増やせばいいのか、ということになるが、そう簡単な話でもない。例えば「アレルギー科」は現在標榜可能だが、人口36万のとある市において、アレルギーの学会に入っているのは市内では自分一人なのに、標榜している病院はずいぶんある、と言っている先生がいた。きちんと診られる力があるならいいが、営業的な意味合いで安易に看板を掲げるとすれば、患者のメリットとは程遠い。

「乳腺専門医」広告OK 厚労省、乳がん患者に朗報

細かく言うと、学会で認定したからどうだとか、一度認定したらその後はどうチェックするのか、などの問題はあるものの、日本乳癌学会の「専門医」「認定医」というのがある。それらを広告に掲載するというのが上の記事には出ているが、標榜科もそれに準じて行う方法もあるだろう。とかく、病院によって技術の差があるといわれているが、こうした医者の技術の認定と、その施設の成績をチェックして質を保証していくことが、これからの時代に必要であり、そしてそれをわかりやすく知らせていくべきであろう。

IT産業がこれだけ栄えている昨今、巷で最も頼りになる情報が口コミか、さもなくば怪しいランキング本であるようでは、あまりに前時代的と言わざるをえない。「あの病院だとあの先生がいるからな」という情報を医療関係者だけが知り得て、それによって患者の運命が変わりうるのが、残念ながら今の日本の現状だが、そうした風通しをよくすることは、これからの医療の大事な仕事だと考える。

■2004/11/11 (木) その酒本当にやめるべきなのか

あと3ヶ月の命だという人に、今さらタバコをやめろと言えるのだろうか。それが何十年と吸ってきて、やめたらその3ヶ月が6ヶ月に延びるのならともかく、やめなくたって大差ない結果であるとすれば、生きてるうちにおいしいものを食べよう、というのと同様に、タバコをやめさせるべきではないと考える。嫌煙家である私でもそう思う。

それが1年だったり3年だったらどうなのか、というのは難しい問題だ。例えば手術をするのに1ヶ月前からやめただけでも、麻酔時のトラブルなどがずいぶん違うと聞くが、そういう「実利」がなければどうなのか。そこに境界は引けるのか、早く死んでもいいから吸うんだ、と言う人を止めることはできるのか。

タバコの場合、メリットは精神的な部分しかなく、デメリットは数限りなくあるのでまだ考えやすいが、これがお酒だったらどうなのか。飲酒の場合、はっきり良くないとわかっているもの、例えばアルコール性肝障害なら悪化させるだけなのでやめた方がいいと言えるが、今からやめたところでどうなんだ、というケースもある。

食道癌では、大量飲酒が発癌の危険因子とされている。しかし、実際食道癌となってしまった人に今さら「お酒をやめてください」というのはどうかと思う。何十年も飲んできて、ここ半年とかで見つかった癌のために、その人にとって生き甲斐でもある酒をやめろと言うことは、今流行のQOL、つまり生活の質から言うとどうなのだろうかと。

お酒を飲んで、その癌が悪化したり広がったりするなら話は別だが、そんなことは聞いたことがない。今回たまたま目にしたケースでは、そう言ったのは学生と看護師であったのだが、ただ一概に「食道癌にお酒はダメー」という知識を振りかざすのは簡単で、専門知識がなくてもできることだ。

しかしそれが食道の粘膜にとってどのくらい悪いことなのかを理論的に考えて、その患者さん個人にとって治療で飲めなくなる前にちょっと飲むのがどういう価値があることなのかを考えて、そして必要ならば量まで指定してコメントするのが、専門職のやることではないかと思う。それができるだけの技術を身につけたいし、結果的にできない時でも、一緒に悩んで模索するような姿勢を見習いたいと考えている。

医者のやり甲斐なんてものは、治るか治らないかではなく、もちろん治った方がいいのだけれども、そうして一緒に考えるところにあるのではないかと思っているところがある。だから、それができる医者を尊敬するし、自分の目標にしたいと思う。

■2004/11/14 (日) I know.からユニクロへ

I know.のデザインは、tDiary用のテーマをはじめとして、既存のものの中から選ぶことができる。これははてなと同様、もしくは共通の「テーマ」を使っていて、いわば「着せ替え人形」のごとくサイトのデザインだけを変えることができる。中身は変わらないけれども、印象はずいぶん変わる。

次に、[記事表示]という機能を使うと、他人がサイトで書いている文字情報を自分のスタイルの元で見ることができる。今度は中身だけが変わるということで、設定さえうまくいけば、行間が狭かったりして読みづらいものを好みのデザインで見ることができる。着せ替え人形の中身を変えて同じ服を着せている感じだ。

こう考えていくと、あるサイトを、そのサイトたらしめるのはいったい何なのか、新鮮な感情を覚える。私がこうして書いた文章は、ケータイやPDAから読んでも確かに私の文章であるし、どこかにコピペされて持って行かれてもそうだろう。しかし、それが元々の私のサイトで読まれるものと、どうしても同じようには思えないのはいったい何なのか。

以上のことを人の話に置き換えてみると、借り物の服を着ている人にはやっぱり違和感を覚えるし、ルックスより中身が大事だという考え方もある。でも、借りた服の方がいいこともあるし、中身が同じだったらルックスがいい方がいいに決まっている。そうしたバランスを持ちつつ、本質的なものを見失わないようにするのは、人においても、サイトにおいても大事なことなのかもしれないと思ったのだった。ちょっとはユニクロ以外の服でも買おうかな。

■2004/11/19 (金) 親から身長予測します

(父の身長+母の身長)÷2+2+α±β (α=こどもが男なら+6.5、女なら−6.5 β=こどもが男なら9、女なら8)という式がある。親の身長が高ければこどもも高い、というのは感覚としてあるだろうが、それを式として表したものだ。まずは両親の身長の平均を取り、世代間での差である2を加える。次に、性別による差である6.5を足したり引いたりする。最後に、個人差として男の子だったら±9cm、女の子だったら±8cmだ。

親子の世代間では身長が2cmしか違わないのか、であるとか、男女差は13cmなんだ、とか、わかることは色々ある。これはこどもの成長障害を知るための方法の一つで、±8or9cmからはずれたら、ホルモンなどに何らかの異常があるのではないかと疑うきっかけにする。もちろん、成長途中にわからないと治療としての意味がないので、普段は年齢から求めた値をメインに考えていくのだが、うまく成長していけばここになるだろう、というのが最初の式で求めた値だ。そういう意味で「最終」身長と呼ばれることがある。

ネットで少し検索してみると、予測身長=(父の身長+母の身長)÷2+2+α という式がひとり歩きしているのに思いの外多く出会う。私が一番肝心だと思う「±β」つまり個人差の部分が抜けているのだ。求めた値はただの平均なのであって、100人いた時の50番目の人の身長にすぎないわけで、実に半分の人が「自分の身長は低いんだ」という印象を持つことになる。そしてその後出てくるのが、怪しげな身長の伸ばし方だったりする。

身長というのがコンプレックスを持ちやすいものであるとか、スポーツをするのに高い方がいい、というのは、私もバスケットをやっていたからよくわかることだ。しかし、ある値の求め方だけ示して、それ以下だという煽りを半分の人にしていくことは、卑怯であるようにしか映らない。しかも、自分の努力で変えられるものならともかく、身長というのはそうそうコントロールできるものではない。

「±8or9」にしても、100人いたら95人がその範囲に入りますよ、というだけで、5人はそこからはずれることになる。それも、はずれることが悪いわけではなく、身長以外、例えば知能とかにも影響が出るホルモンの異常があるかを、おおまかに疑うための手段であった。そういうところをはずれて式がひとり歩きをしていくことは、いったい誰のためになるのだろうと、妙な無力感を覚えるのだった。

■2004/11/23 (火) 思考実験 もしも国会議員が週40時間労働だったら

国会議員は労働者ですよ。今度国会で国会議員の労働時間に対する法案が通ったのご存じですよね。週40時間、月160時間、時間外労働は月に80時間までですよ。え、それじゃ審議が全然進まないじゃないかって?でも、議員自身が倒れたら元も子もないでしょう。自分の体を大事にするのも仕事のうちですよ。夕方5時になったら仕事が途中でも帰りますし、もちろん料亭政治なんかも厳罰の対象ですよ。家で家族と過ごす時間も、豊かな心を維持するには大事です。自分の家族のことも考えられないで、国民のことを考えるなんて空々しいでしょう。

土日はどうするのかって?そりゃぁ、看護師さんに倣って交代制ですよ。病気に休みがないのと同様、国政に穴を開けるわけにはいきませんからな。どうしても早く通す必要がある法案があったら、党から代表が出て、交代しながら24時間議論を続けていく方式も検討中です。日勤、準夜、深夜と分けて、交代の時間には各党で申し送りをして話を進めていくわけです。睡眠不足で疲れがたまった状態では、いい法案が作れるわけないですからな。「寝ないで勉強している」なんて言っていた大臣がいましたが、コンディションが悪いことを宣言するなんて、と失笑を買うのが普通の捉え方でしょう。

でも、3人しか党員がいない党からは「実質審議からの締め出しではないか」という声も来ていますな。まぁ、一応国民の代表であるわけですから、彼らの言わんとすることもわかりますが、彼らだけに24時間連続審議を求めるのは酷でしょう。きっと「支持してくれた有権者の声を国政に届けるために、我々は何十時間でも働く」って言うでしょうけど、ちょっと前時代的ですよね。そういう根性論で物事が進む時代もあったんでしょうけどね。

首相はどうかって?もちろん交代制ですよ。月に240時間という労働時間を守るために、第一首相から第三首相までを置くことになります。こうすれば、観劇の最中に地震が来ても、すぐに第二首相が対応するから問題ないです。やだなぁ、他に適当な人がいないから、なんて、そんなことを言って一人の人間に過重労働させるのは愚かですよ。労働時間が延びるほど、失言回数も多くなるって話もあるじゃないですか。自衛隊がいるところが非戦闘地域なんて、小学生だって思いつかないですよ。そういうミスを減らすためにも、きちんとオフィシャルとプライベートと分けることが重要だというのは、研究によって明らかになっているんです。

三交代ということは、国が支払う給料が3倍になるんじゃないのか、という声も確かに聞きますね。まぁ、給料を3分の1にするわけにはいかないですからね。家のローンが、子供の学費が、という声も当然出てくるでしょう。まぁ、国の財政状況も厳しいですから、交代で増える分は、一度に働く人数を減らすことになるんでしょうな。今の500人が×3で三交代になるわけではなくて、日勤300人、準夜と夜勤は150人ずつとか、そうやって歳費の伸びを最低限に抑えるんでしょうな。

500人が300人になったら、扱える議題の数が減るんじゃないかって?そりゃぁ、給料を3倍にするのは反対だとか、3分の1の給料では議員なんかやらないよとか、考えていけば仕方のないことなんじゃないですか。当然これまで、家庭も顧みずに昼も夜も休みもなく働いていた分は、できる仕事の量は減るでしょうね。だから、そういう個人的な犠牲心を元にして成り立っていた国会というのがそもそもおかしいんですよ。あくまでも、おかしかったものをあるべき姿に直すのであって、最初は違和感あるでしょうけどじきに慣れますよ。あぁ、5時になったので質問はこれ以上受けません。何かあれば明日出直してきて下さいね。

■2004/11/25 (木) 特定された匿名

ソーシャルネットワークサービスであるmixiでのやりとりが、普段サイトやblogでやっているものとは違うように感じていた。mixiの方がいきなり突っ込んだ話ができる距離感があるように思うのだ。形態としては、日記を書いて、それにコメントがつき、メッセージと呼ばれるメールのやりとりがあって、特に変わったところはないように見えるにもかかわらずだ。

一つの大きな違いは、コメントにせよメールにせよ、それが誰からかはっきりしていることである。どこまで書くのは各々であるにせよ、プロフィールがあり、日記を書いていれば読めるし、その人が写っているかはともかく写真もあるし、友達からの紹介文もあるかもしれない。友達として登録されている顔ぶれを見ると、多少はイメージも湧いてくるし、同好者の集う「コミュニティ」でどんなところに登録しているのかを見れば、その人となりがおおまかにわかってくる。

何より大きいのは、そこにいるのが「特定」された人であるということだ。一般的にインターネットは、誰でも読むことができて、誰とでもつながることができるのがメリットであるが、その匿名性が仇となることもある。つまり、顔が見えないことをいいことに好き放題書く人がいたり、こっちが考えから何から色々晒してやっているのに、突然メール一本で無礼なことを言う人もいるなどだ。サイトに割くのと同じエネルギーをメールの返信に注ぐためには、もう少しあなたのことが知りたいな、とアンバランスを感じることなどは、不愉快ではないにせよある話だ。

もちろんmixiにおいても、匿名性は大いにある。きれいな女性の写真を載せた25才だという人が、実際は45才の根暗なおじさんかもしれない。名前も職業もあくまで自称で、そんなに意味を持たないわけだ。そうでありながら、それが「特定」された誰かであるということが、コミュニケーションを取る上では非常に心強い。そこには、自分がそこで力を注ぐことが決して無駄にはならない、書き逃げされない、という安心感があるからだろうと思う。

アクセス解析がきちんとしているのも、最初はやりづらいと思っていたが、誰に見られているかがわかるという「安心感」を与えてくれるものになっている。その「誰」というのは、あくまでmixi上での人格でしかなくて、「東京都在住の30才男性」が実は同じクラスの女の子であることは、決して否定できないことなのだが、それでもIPアドレスとプロバイダしかわからないより、ずっとやりよく感じている。

そういう状況だから書けることもあれば、その逆もあるのだろうと思っている。こうして文章を書いて出しているのが、自分の中の一部分だというのは確かなことで、各々の場に適した「部分」を出すことが、うまくネットをやっていくのに大事なポイントだろうと考えている。

ソーシャルネットワークサービス mixi(ミクシィ)

■2004/11/27 (土) 治らない治療法は示さなくてもいいんじゃないか

厳密なインフォームド・コンセントの考え方に則れば、ある診断がついた時にどのような治療をするかは、いちいち患者さんに説明した上同意をいただかなければならない。例えば胃炎だと診断して、胃薬を出すことを提案して、薬を使った時の作用と、副作用の種類と確率について説明し、一方薬を使わなかった時に予想される病状の変化を説明して、考えられる別の治療法についても一応示して、そういうことを色々考えると、今は胃薬がいいと思われますよ、と話をする必要がある。

病状の重い/軽いももちろんあるが、果たしてそれが最善なのか、ということである。医者の目から見て、この治療法が最善だな、というのが決まっている場合、例えばABCと3つの治療法があり、Aは簡単にできて直後は良くなったように見えるが半年以内に再発する、Bは体への負担が大きいわりに治療の効果が他よりも高くない、Cだと体への負担は少ないがBと同等の効果が期待できる、という場合において、AとかBの治療法もいちいち説明することが、果たしていいことなのかどうかである。

暗黙の了解として、患者さんは病気を治して欲しいと思って病院に来ているわけだ。胃炎ですね、と言って欲しいだけではなく、胃炎でつらい症状を和らげてくれ、と思うからわざわざやってきている。例えば「癌が見つかった」というときも、できれば癌をなくして欲しいと思うからこそ病院に来るわけであり、癌が大きくなっていくのを定期的に観察するのを目的にして病院に来ているわけではない。

そういう人に対して「この治療法はかくかくしかじかで、あまりオススメできません」であるとか「癌を放っておくと、どんどん大きくなって、全身に転移してしまい、確実に死に至ります」であるとかいう説明を、省いていい場面というのがあるのではないかと思うのだ。もちろん、どちらもありうるな、と思われる場面においては、十分すぎるだけの情報を提供し、納得いくまで説明をして、しっかり考える時間を取って、その上で選択してもらうことが必要だが、全部が全部そうではないだろう。

「省く」という言葉を使うと、なんだか手抜きをしているような印象を与えてしまうが、普通の医者に聞いたらまず間違いなくそれを選ぶだろうという方針があり、科学的にもそれがいいことが証明されているような時には、「省く」ことがむしろ適切だろうと思える場面があると最近気づいたのだ。患者がわざわざ治療しに来ているという目的とも合致すれば、誰にも不満がなく、おそらくそれが最善であると。

その「最善」を判断するのが、そして実際に判断できるのが、患者ではなく医者であるというところが、結局矛盾で、一番難しいポイントなんだろうな、と思うのだった。信頼できる医者に全てお任せする、というのは、ある意味最も望ましい医療の形態になりうるのかもしれないが、それこそインフォームド・コンセントどころではなく、机上の空論、理想論の最たるものになってしまう。実現可能な一致点は、いったいどの辺りにあるのだろうか。

■2004/11/29 (月) 長さは普通で

床屋で使われる不思議な表現の一つが「普通にして下さい」である。「もみあげは普通に」と言うと、まぁそういう形のもみあげがあるのかな、と思うけれども、「長さは普通に」となると、いったい何cmが普通の長さなのか、業界にガイドラインでもない限り、それは誰が決めた「普通」なのかという疑問が消えない。「長め」「短め」にしても話は同様だ。

私は、その時々で誰が担当するかわからないシステムの床屋が行きつけだが、いつも同じ切り方を注文するのに、できあがりがその都度違ってくる。口にするセリフとしては、毎回一言一句同じであるが、長さにしても、どこまで刈りあげるのかも、その時担当する人に左右されることになる。それも含めて楽しんでいるというか、そこまでのこだわりはないので、そのこと自体は問題ない。

私の床屋の場合は、あまりこだわりを持たない客が適当に注文しているからいいのだが、そういう行き違いというのはどこでも起こりうるのではないか、と思ったのだ。ある人にとっての「普通」が、そんなの全然普通じゃねーよ、と思わせるものだったり、こんなはずじゃないと言ったり、それこそ訴えられたりなどもあるかもしれない。

対策としては、そこで使われる言語を共有することが有効だ。例えば「普通」という長さについて、2cm切ればいいのか、それとも3cmがお望みなのかを切る前に確認する。専門的なものであれば、十分かみくだいて説明することが必要になるだろう。それは、双方が歩み寄っていかなければならないところであって、片方だけではどんなに一生懸命やっても無理であり、必ずどちらかに不満が残る。

他ならぬ医者の世界は、まさに「普通でない」集団であろうと思う。そこにいる私の考え方も、まさに「普通でない」わけだ。それに対して「社会人を経験した人から見ると、高校を卒業してすぐに医学部に入った人は常識がない」だとか、「世間の考え方を知るために、医学部以外の人とつきあうのがいい」のような意見がある。しかしそれは、医者の世界が間違っていて、医者以外の世界の「正しい」考え方に直せという考えに依っていると思われるが、そう頑張っても、結局は身に染みついた考え方を捨てることはできないように思うのだ。

それは、床屋で理容師がお客さんとの間でどういう言葉を使うのかを考えたり、自動車修理工場で整備士が車のオーナーにどう説明するのか、というのと変わらないはずだと考える。そこでは、専門家として自分が身につけたものを捨てる必要はなく、お互いが共有できる言語を求めてやりとりをすればいいと思うのだ。もちろんそのために、医学と関係ない分野の人とのやりとりは役に立つが、単純に「その考えはダメだから、こっちの考え方に変えろ」というわかりやすさではないのではないかと。

一番大事なのは、自分と相手が違う考えを持っていることを認識しておくことであり、その「違い」に対して、自分がどれだけ敏感になれるかどうかがポイントだと思う。相手と同じになれないという前提に立ち、違いがあるという現実を認識すれば、そこからどうすればいいのかという話が始まることができる。下手に同じになったり近づこうとするよりは、よほど現実的にできるだろうと考えるのだ。

■2004/11/30 (火) その人にとっていいことを考える

エビデンスなんていうものは、所詮は参考にしかならないのだ。その人の病気の程度がどうであるか、たくさんの例を集めて分類をして統計を取れば「いい治療法」というのが決まるが、それが今目の前にいる患者さんにとっても「いいもの」となるかはわからない。やってみなければわからないのもあるし、患者さん一人一人の状況は、どんなに分類を細かくしても同じではないからだ。

個人的な思い入れは、医療にとってはプラスにならないのかもしれない。大規模な統計的な事実に対して、そこからはずれることは良くないこととされている。各々の状態に対しては、世界的に標準的な治療法というのがあるのが大部分であり、ある意味では誰がやっても同じ判断になるわけだ。そこを個人的な感情で左右するのは、いわば「合理的な」判断からはずれることとなってしまう。

それでもなお、感情を持つことというのはある。社会的な状況であるとか、これまで生きてきた歴史、色々話を聞いた上で、この人には、と思うことがある。命を救いたいと思うかどうか、という次元ではあまり働かないことではあるが、より良い生活を、と思うところでは大いに考えることがある。後々のことを考えると、ここで少々つらいように、いわば「無理をして」とか「頑張って」やっておいた方がいいのではないか、と思うのだ。

そこで実際に、標準的な方法に留めておくのか、それとも場合によっては「頑張った」方法を選択するのか、どちらがいいかを一概に言うことはできない。そこで大事なことというのは、どちらの方法になったかということではなくて、そこでその人のために頭を絞って考えた、ということだと思うのだ。そこで一緒になって悩むことこそ、科学的ではないことなのかもしれないが、最も医者らしいことであるだろうし、私はそこに魅力を感じている。