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見舞いというのは善し悪しだ。病人が病気と向き合っているところに、第三者が登場する。見舞いに来た人を無視して放っておくわけにもいかないから、話をしたり相手をしなければならない。その分病気に向かう力が少なくなったり、心の余裕を奪ってしまうこともある。本人ができなければ、家族などの周りが相手をすることになるが、家族も看病で力を割いているところだと、結局話は同じことだ。おそらくその人を思って見舞いをするのだろうが、全然思いが伝わらずに、単に負担を増やしてしまう。
「具合はどうなの?」と聞かれることも同様だ。それが快方に向かっている場合であるとか、話す相手が医療関係者などであれば、話をするのも楽であるが、それが良くない内容だったり、いいとか悪いとかで簡単に説明するのが難しい時には、説明することがいちいち負担になる。だいたい「どうなの?」と聞いた人が、悪かった時に何かしてくれるのかと言うとそうでもないから、説明損だ。
もちろんそういう場合ばかりではない。私が17歳で入院した時の記憶では、暇で暇で仕方がなくて、見舞いに来てくれた人が帰ってから自分が寝込んだって構わないから、誰か来てくれないかなぁ、と思っていた。自分がそう思えるだけ元気だったというのもあるのだろう。単純な経過をたどって治るものだと、聞かれてもシンプルに応対できて、会話の一環としてむしろ歓迎だ。そういう場合の方が多いであろう。
親戚を含めて、なるべく病気のことは言わないようにしている親父を見ていて、そんな隠すようなことをしなくてもいいのにな、と思っていた。しかし今になってみると、そうした「心配」をされてこっちが無駄に消耗することが少ない分、それって賢明な選択だったのかもしれないな、と思うのだった。誰かが入院したと聞くとすぐに「見舞いだ」となっていた発想も、これからは少し慎重になろうと思われるこの頃である。
先月末に「日記の効用や長続きさせるポイント」をテーマに取材され、掲載されたが、そこでメール取材に答えた内容を、私も出してみる。
1.ネット上で日記の公開を始めた動機、理由
他の人が同じようなサイトを書いていて、それを読むのが楽しかった。元々文章を書くのは好きで、誰かに読んで欲しいという気持ちを満たすのに、ネットというのはいい「場」であった。
2.ネット上で日記を公開する魅力、楽しさ
他人に読まれること、そしてメールや他のサイト上で反応があること、同じようなサイトを書いている人とのつながりができること。地理的に、日本中、世界中とのつながりが持つことができる。社会的に、普通だったら接点のないような立場の人とも、日記を読み合ったり、直接メールなどのやりとりをするきっかけとなる。時間的に、私であれば丸3年分の蓄積があり、いつの情報でも同様に取り出せる。
3.日記を書く(書き続ける)ことの効力、効果、利点
文章を書くのに慣れること。いつも読者の目を意識した文章を書いているので、批判的な思考ができるようになること。長く続けるにつれ読む人が増えてきて、こちらが受ける刺激も大きくなり、またそこで人間関係ができていくこと。
メールやコメントでの書き込みの際に、「こういうサイトをやっています」とすると、書きためた文章が名刺代わりに雄弁に自分を説明してくれるので、最初の自己紹介的な部分がやりやすく、関係を始めやすい。
4.逆に問題点
読者が増えるにつれて、「書けないこと」が増えていく。実生活のことをどれだけ書けるのかというのは、身近な人にどれだけサイトを知られているかに依り、長く続けるにつれて知る人は増えていく。5に関連するが、長く続けると飽きる、という要素もある。自分の「型」を持ち、「習慣」にすると続く。
5.長く書き続けるコツ、ポイント
書きたいことがない日には書かない、書きたいことを書くようにする。一発ネタをやらずに、日常にあることを扱っていく。日常の生活やニュースなどの、毎日新たなものが提供され続けることを扱っていく。
どの項目かわかりませんが、「書く」ことは「読む」ことと対のものであり、日記を「読み合う」ことが、一般的に行われています。まずは日記を「読む」ことから始め、色々なサイトを探して、自分に合うサイトを見つけてみるのもいいかもしれません。
5のコツとして「日常のアンテナを鋭くすることで、物事をよく観察するようになり、結果的に長く続くことになる。これはむしろ、日記の効果かもしれませんが。」とも書いたのだが、おそらく元々はちはるの多次元尺度構成法あたりの内容だったような気がする。
反対に、平凡な毎日を送っていて日記を書き続けるのはなかなか難しい。しかし、Web上で日記を公開しているもののなかには、読むに値する面白い日記を毎日書いている人がいる。そうした人は何が違うのだろうか。それは平凡な日常を新しい切り口で見るということだ。平凡な日記を、読ませる日記に仕立て上げる人は、一見平凡なできごとの中から、面白い何かを取り上げ、焦点化する能力を獲得している。
ちょうどそこが掲載されてしまい、申し訳なく思っている次第です。
夜ツメを切ると親の死に目にあえない、と言われている。幼い私は「親の死に目にあう」ことの価値がわからないまま、そのフレーズだけを覚えていた。やがて、死ぬ時にその場に立ち会うことだと知ったが、それにどのような意味があるのかはわからないままだった。死ぬ間際に何か言葉を交わすとかいうことであるなら、それは意味があるのかもしれないけれど、そういうケースは主にドラマでよく見かける。
父方の祖父が亡くなった時は、車で7時間かけて駆けつけた。死に目どころか、親戚の中で一番遅かった。日頃から足繁く通えるものでもなかったから、孫の私には特に感慨はなかったのだが、長男である父はどう思っていたのだろうか。数年が経ち、一人暮らしになった祖母が亡くなった時はまた違った。布団の中で死んでいるところを近所の人に発見されたのだ。苦しんだようではなかったものの、誰にも見守られることなく、一人静かに亡くなった。その後、長男の嫁である母は、四十九日までは代わる代わる家に誰かがいて、電気のついた暖かい状態にしようと提案し、実行した。一人寂しく、寒い中で死んでいった祖母への思いだったのかもしれない。
母方の祖母は市内の病院で亡くなった。急変を知らされ駆けつけて、着いたところで死亡が確認された。以下、嫌な表現になるかもしれないが、死を考えるために具体的に書いていく。心臓が止まり、市内に住む娘に連絡がついたので、到着するまで心臓マッサージをすることになる。88歳という年齢と、それまでの病歴、現在の状況を考えると、心臓マッサージをするのは蘇生のためでは絶対ない。心マをやめれば心臓が止まる。いや、心臓は既に止まっているけれども、心マをすることでポンプの働きをさせて、不完全ながら全身に血液を送っているのだ。母が病院に着いて、心マをしていた先生は、黙って心マをやめてモニターを見た。モニターは、心マをやめると平らになる。再び心マをすると押すのに合わせて波は出る。再びやめるとモニターは平らだ。先生は黙って今到着した母を見る。母が「やめてください」と言って、心マをやめて、そこで死亡が確認される。
病院にいると、色々な死を目撃する。心臓が止まった状態で病院に運ばれ、救急車からずっと心臓マッサージをされて来るも、そのまま再び動くことなく亡くなる人もいる。家族はずっとつきそっているものの、話は死に目にあうとかそういう次元ではなく、ただ現実を目の当たりにして、人目をはばからず泣くような光景もある。また、ずっと入院していて良くない状況が続いていたような人が、人工呼吸器につながれて、血圧を上げる薬もずっと使われて、それでもだんだん血圧が下がっていって、脈拍も下がっていって、最後の何時間を家族に囲まれて、名前を呼ばれて、手を握られて、それでとうとう亡くなっていくようなこともある。2時間はかかるだろうという町から今向かっているからもう少し頑張って、などという呼びかけだとか、なんとか間に合ったとか、みんなが揃って少ししてから亡くなって、なんだかこっちまでホッとしたりする。
尊厳死という言葉を使う時、そこで考えられているのは、当たり前だが死にゆく人の尊厳である。今書いたいくつかの例において、死にゆく人の尊厳とはいったい何なのだろうか。家族を呼んで、到着するまで「まだ着かないか」などと声が飛び交いながら心マをされていた祖母の尊厳とは何なのか。一方、家で誰に見守られることもなく、布団の中でなくなっていた祖母の尊厳とは何なのだろうか。家族が見ている前で倒れてそのまま亡くなった人はどうか、救急車を呼んで大きな病院に運んで、手を尽くして亡くなるのか、例えば大雪で救急車が来れなくて家でそのまま亡くなった時と比べてどうなのか。例えば、自分の家で死にたい、畳の上で死にたいと言っていたような人ならどうなのか。
死に目にあえない状況があった時に、死んだ人が文句を言うのは聞いたことがない。もちろん死んでいるから聞けないわけだが、逆に言えばそれを問題にするのは残った人である。できるだけの手は尽くしたであるとか、最期まで立ち会えたとか、そうしたことは、残されたものが納得するためには必要なことなのだと思う。納得というのは、それを受け入れるためのプロセスだと表現した方がいいかもしれない。例えば寒い家で死んでいたと聞いて、まるで罪滅ぼしのようにしばらく家を暖かくするなどもそうだろう。市内にいて毎日見舞っていたのに、肝心の最期には居合わせなかったというのは、遠く離れたところに住んでいて最期に居合わせないこととは、また違う思いが出てくるのだろう。
尊厳死というものが、いったいどういうものを指しているのだろうか。延命と口で言うのは簡単だが、人が皆いずれは死にゆく存在である以上、何が延命で、何が延命じゃない治療であるかを評価するのは難しい。それは、止まった心臓を動かさないということなのか、人工呼吸器をはずせば死ぬという人がいた時にはどうするのか、回復見込みがないというのはいったいどういうことか。知らせを受けて今こっちへ向かっている子供を待つために2時間頑張ることは、やはり延命なのだろうか。
自分が死ぬ時は、延命しないで欲しいなぁ、と漠然と思う。しかしながら、おそらく「延命」とか言ってる時には、自分には選択する力は残っていないはずだ。そうすると、納得と受け入れの意味もこめながら、信頼できる家族の判断に任せるしか手はないのかな、と思う。逆に自分の両親などは、自分と他の家族が納得できるように考えなければならない。それが今言う「尊厳死」になるかどうかは、なってみないとわからない。尊厳を評価するのは死ぬ本人ではなく自分たちで、そしてそこには、あまりに多い尊厳以外の要素が存在する。
葬儀とは、喪中とは、一体誰のためなのか。祖母が亡くなった時に書いていたのもあるのだが、程度の差こそあれ、死ぬ瞬間についても同じように言えると思う。死ぬ本人がいいと思うようにではなく、残された家族が、本人がいいと思うだろう、と思えるようにしていくことが、現実的なところだろう。そうしたことを考えていき、死というものがあり、そしてその上で尊厳死とかいうものが出てくるのではないかと考えている。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050110k0000m010099000c.html
書くきっかけをくれた文章→ http://ninotika.exblog.jp/1509321
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メディカルブログ 『尊厳死』について
(http://exhospital.exblog.jp/1608709)
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■2005/01/14 (金) 入院するほど悪い状態、検査するほど危険な薬
「入院するほど重い病気なのか」と言われて、うーん、とうなってしまったのだ。体の状態の評価があって、それに対する治療があって、治療の中で一番いいものを選んだ結果が「入院」だったからである。入院は原因ではなく、病気の結果であるのだが、入院する「から」悪い病気なんだ、という判断をされてしまうと、ともすれば、入院させない方がいいようになってしまう。
もちろん、入院が必要な患者さんを入院させなければ、病状は悪化する。そのことは、患者さんにも家族にも、もちろん医者にとっても歓迎するべきことではない。その病気に対する治療法があって、治療をするのに入院がもっとも適している場合、「入院を勧める」という道を取るべきだろう。
副作用チェックのため3カ月に1度採血検査を受けなければならないような危険な薬をわざわざ飲んでまで心筋梗塞のリスクを下げようとは思わない。
fontサイズ+5でじぶん更新日記(1/13)に書かれていた「危険な薬」という表現が、すごく心に引っかかったのだ。筆者はずっと同じ薬を飲んでいたが、医者が代わったことをきっかけに、「副作用チェックのため3カ月に1度くらいは採血検査を受けてください」と言われ、それをきっかけに薬の服用をやめると宣言している。
至極当然の話なのだが、採血検査を受けるかどうかで、薬の副作用、つまり「危険な薬」かどうかが変わるわけではない。むしろ、薬の副作用が万一出た場合、また違う病気が発見される可能性を考えると、採血検査をしている方が安全だし、そもそも治療の有効性が期待されるから飲んでいて効果もあった薬をやめるのは、「採血ありで薬は続ける」「採血なしで薬を続ける」のいずれよりも危険な選択であると考えざるをえない。
代わった医者は、なかなか勉強しているのかもしれないと思うのだ。例えば検査でわかるような副作用の報告が一件あった時に、その情報をいち早く仕入れて、同じ薬を使っている患者にその検査をしてみようとすることは、よほど特殊だったり高価だったりしない限り、むしろいい医者のように見える。少なくとも、私が目指そうとしている方向の一つであるのだが、それが逆に、患者を最も良くない状況へと追い込んでしまう現実がある。
実際には、本当に服薬を継続しなければならない体の状況であるのか、そのために必要とされる費用と時間がどのくらいなのか、薬を飲むことでどのような確率でどのような効果が期待できるのか、副作用はどうなのか、そしてそれらを本人がどのように考えているのか、と総合的に考えなければならないので、この場合に関しても薬をやめることが「最も良くない状況」であるかどうかは言うことができない。
しかしながら、「いい医者」が、医学的に取った方がいいだろうと思われる選択をした時に、全く逆の成果をあげてしまうことがありうる、ということを知り、正直なところ非常に戸惑っている。そこにつきあっていくのが臨床に立つ医者の仕事なのだろうが、単によく勉強して、医学的に正しいことを行うだけでは、必ずしもいい結果を導かず、むしろ全く逆に働くこともあるということは、頭に留めておこうと思う。
いけないことだがこっそりと、野球で賭けをすることになった。「イチローがヒットを打つ」に賭けたので、なんとか打って欲しいと思う。幸い彼にコネがあり、ヒットを打ってもらうべく手を打とうと考えた。
さて何をするかだが。ヒットを打ってもらうようにお願いをする。そんなことをしても意味がないだろう。お金を予め渡しておく。しかし、「わかりました、打ちましょう」と打率が上がるとは思えない。ヒットの本数に応じて成功報酬、としても、金につられてヒットを打つというつながりにはならないだろう。
元々ベストを尽くしている人に、それ以上いい成果を出してもらうにはどうするか。何か思い入れがあるとか、プレッシャーを力に変えるとか、そういう人もいるかもしれないが、基本的には無理だろう。審判を買収するとか、飛ぶボールを使うとか、ピッチャーに「失投」させるとか、そういうことはいずれもイチローには働きかけていないし、おそらく意味のある働きかけはないのだろうと思う。
そう考えていった時に、手術の謝礼というのは考えさせられるのだ。「不安だから」手術の前に、というケースがあると聞くが、お金を渡したからと言って手術の成功率が上がるわけではない。イチローにお金を渡したら「しょうがないなぁ、じゃぁ本気出しますか」と言って打率が上がったらビックリだし、失礼だと突っ返されても文句は言えないだろう。しかし聞くところでは、そこで不安に思っている患者がいて、そう思わせている医者がいる。
卒業旅行に備えて、海外のチップの習慣を調べたりしていたのだが、レストランのウェイターなどが、店側からはいわゆる最低時給の分しか払われていなくて、あとはチップで稼げるように各々がいい仕事をする、ということがあるようだ。なるほど日本であれば、どんなにお客を満足させても適当でも、時給いくらは変わらず終わってしまうイメージがある。それは習慣の違いという問題だ。
そう考えた時に、手術が終わってお礼の気持ちを、というのは、果たして日本ではどうなのだろう、と考えてしまう。手術に対して決まったお金は最低限しかないので、あとはいいサービスをして個別にもらってくれ、ではないだろう。そもそもこの患者さんの手術はうまくやろうとか、下手でいいとかできないことはイチローでたとえた。お金を渡すと術後の回診の回数が多くなったとか丁寧だとかいう話も聞くが、全くの誤解だ。必要な回診はどんな患者であったとしても行くし、お金をもらうとむしろ病室に行きづらくなる、という声も聞く。
問題なのは、患者が自分の主治医を信用できるのか、ということであり、私がこう書いたことを信用できるのか、ということであり、正直に告白すると、私が手術をする全ての医者を信用できるのか、という問題でもある。幸い私がこれまで出会った医者は、手術にお金がセットであるという考えではなく、そんなことには関係なく患者のためにベストを尽くす人たちだった。土曜も日曜も、昼も夜も、飯も風呂も関係なく。
見返りに関係なく、純粋なお礼の気持ちでお金や物が動くこともあるのかもしれない。しかしながら、町内会で集める赤い羽根共同募金でも、お年玉でも、お布施でも、その相場がよくわからなければ「みんなはいくら?」と聞くのが現実だ。手術や入院のお礼も、純粋な気持ちがきっかけだとしても、そうやって値段が決まったりするのではないかと思ってしまう。
お年玉をもらって開けるなり「なんだ、これだけか」と言った人を知っている。少なくとも、その人に対する嫌悪感のようなものは、絶対に忘れることなく持っていようと思う。そして、もらわなくて済むような自分の姿勢を、うまく患者に伝えていけるようにしていきたい。「謝礼は一切受け取りません」という掲示を見て「謝礼の催促だ」と解釈する患者がいるくらい根深い問題なので、決して容易なことではないのだが。
科学苦手は女性の生まれつき?…ハーバード大学長発言 より一部を引用
名門大学の数学や工学系学部に女性教授が少ない問題を取り上げた。学長は考えられる理由として、〈1〉週80時間も働く仕事で子供を持つ女性には負担が大きい〈2〉高校の数学で男子には飛び抜けた成績の生徒がいるが、生物学的違いのためかもしれない
〈1〉の方は、女が子育てをするという単なる社会的な問題のように思う。〈2〉の方に関しては、客観的に見て飛び抜けた成績の人に性差があるかをまずは調べる。そこで男の方ができるのだとしたら、説明可能な理由を考えていくが、高校以前に原因を求めて、それが生物学的な違いでないとすると、育てられ方や教育法などが考えられるのだろうか。それらに性差があることを示して、育てられ方や教育法により数学などの成績が変化することを示せばいい。
そもそも男女に差があったからといってどうなのか、という思いはある。問題なのは「男/女だから」できないと評価したり、「男/女だから」機会を与えなかったりすることだろう。
例えば体力、長距離走のタイムを比べると、男女で差があるのは明らかであるけれども、個人によって、ある男より速い女がいることだってあるわけだ。そこで、できるだけ速く走ることが求められる役割があった時には、男女を問わず速い方が担当すればいい。どんな仕事であっても同じで、優れた方がやることが保証されていればいい。「長距離走者、男のみ募集」「女だからどうせ遅いんでしょ、走らなくていいよ」などということがあれば、確かにそれは問題で、それは性差別と呼んでいいだろう。
ここからは個人的な印象であり、特に根拠を示せるわけではないのだが、女性が男性より劣る部分として、空間の把握力があると思う。それは「方向音痴」のような意味の時もあるし、立体的な構造を頭の中で素早く把握できるか、ということもある。
医学生の実習で一つ例を挙げると、心臓のエコー検査をする時に、どう操作するとどう見えるのかをいわば直感的に習得するスピードは、平均すると男の方が速かった記憶がある。もちろんこれは、女はみんなできないということを意味しないし、男にもそれが苦手な人はいるし、習得してしまえば同じであるし、実際現場で検査する人が男女どちらであっても全く問題なく、むしろ経験とか個人差だけの問題だと言ってもいいのであるが。
一方、男性よりも女性が得意なことも当然ある。空間把握力と対になって考えられてもちょうどいい例はちょっと思いつかないが、環境か生物学的かはわからなくても性差というのは存在して、それらの得意な方を分担していけばいいだけだと思うのだ。「あの人は○○大学出身だから」などと同じように、個人を見ずに属性で決めつけてしまうことが悪いことなのであり、「男女差がある」ということを「性差別だ」としか捉えられないのは、考えが浅いように思われる。
居酒屋店員が自身のブログで嫌いな客の罵倒を書き連ねて、
「少しでもビールがぬるいとすぐ交換させるいつものうるさい客。あんまりうるさいから凍らんばかりに冷え冷えのを出してあげました。おいしそうに飲んでましたね。ええ。発泡酒だとも知らずに」
とか書いてあったら、問題だと思いませんか?挙げ句にその店が特定されたら、それは告発されても仕方ないでしょう。
これを読んでいて「そうだそうだ」と思っていたのだが、いったい何がそうなのだろうか。
居酒屋の店員たるもの、お客様のことで嫌な思いをしてはいけない。いや、思うくらいはいいだろうか。それを口にしてはいけないのか。同業者とかごく親しい人には愚痴ることもあるだろう。それでは、それをblogといういわば「公の場」に出したことが問題だということになるのか。
罵倒することが問題なのか。客をバカにしたような態度、文章。読み手を不快にさせる。不快になったから問題なのか、それとも読まなきゃいいだろ、と言えるのか。また、「居酒屋の店員」というものに、客が不信感を持つようになったことが問題なのか。これを書いた店員は一人なのだが、「店員イメージ」は悪くなりこそすれ、良くはならない。
ビールを頼まれて発泡酒を出したことが問題なのか。それは確かに問題で、発泡酒を出してビールの料金を取っていたらそれは詐欺だ。勝手に発泡酒を注文したことにされても問題だ。それは職業人として問題であり、居酒屋のイメージにも関わってくる。でもそうなると、苦情は居酒屋から来るはずか。それでも「ビールの代わりに発泡酒を出すなんて、信じてたのに裏切られました」と言う客はいるかもしれない。
その発泡酒を飲まされた客自身が訴えてくるかもしれない。そのblogに巡り会う可能性はずいぶん低そうだが、「俺のことをこんなに書きやがって、精神的な苦痛だ、慰謝料だ」などと言うのは、果たして通用するのだろうか。このためには、blogの書き手の素性が明らかになっていなければならないし、何居酒屋の何店勤務で、いついつの出来事であり、その時確かに自分は客だった、ということが言えれば成り立つような気もする。しかしこれは、実は熱燗がぬるいと言う全然別の客の話を脚色したものだった、なんてことはないのだろうか。
「そういう客のいることくらいわかって居酒屋で働くことにしたんだろう、文句があるなら居酒屋やめろ」という声もあるかもしれない。「文句を言うならやめろ」なら、聞かされた方の答えとしてまだわからなくもないが、「文句があるならやめろ」というのは、文句を持つことすらいけないということだから、ちょっと厳しいような気がする。そもそも雇ってもいないし、客でもないような人が「やめろ」と言う権利とか筋合いはあるのだろうか。
私が店員だったら、そういう愚痴を吐く場所としてblogを選ぶことはないと思うが、もし吐くとすればどういうところに注意するかが浮かび上がってくる。まず、身内の愚痴のノリでblogを書かない。基準がどこにあるかはわからないが、読み手を不快にさせることは書かない。店員という職業のイメージを汚すようなこともしない。どこの居酒屋に勤めているかは明かさないのが無難だ。愚痴を持っているのは許して欲しいが、愚痴をこぼした時には「じゃぁやめろ」と言われる覚悟を持っておく。それが相手にする必要のない「やめろ」であったとしても。
そもそもWebって、読み手が楽しめる文章がいいと思うのだけどなぁ。愚痴であっても、前向きな姿勢と次につながるところが見えたら、こっちも勇気づけられたり、応援したくなるのだけれど。いいお客さんとの出会いとか、そのやりとりとかで、感動することだってあるかもしれない。そんなblogを読みたいと思う。
総理が日常の愚痴blogを書いたと想像してみた。適当なことを書くが、現職総理についてどうこうという意図はないし、内容についてもでたらめである。
いやー、今日も国会ですよ。たるいなぁ。あんなの延々と続けていて、やってる本人たちが意味がないって言ってるんだからやめればいいのに。要領の悪いおじさんの話を延々聞かされて、最後に「総理のお考えを」って言えばいいと思ってる。党首が出てきたらちょっとはまともかと思ったら、勝手に怒って議場から出て行っちゃったりする。民間企業でそんなことしたら、クビになるか相手にされないかでしょう。パフォーマンスもたいがいにしてもらいたいですね。意見があるならきちんと選挙で掲げて、我が党を上回るだけの得票と議席をあげてからにしやがれ、って感じですな。
イラクで拉致された人たちも、ほんとに迷惑ですよね。勝手にしろ、って言ってやりたいですね。止めを聞かずにイラクに入るなんて、もう殺されに行ったようなものですから、そんな人の救出をする義務は全くないと思います。一応外聞もありますから、抗議したり働きかけるふりはしていますけれども、外務省の職員がかわいそうですね。彼らもそんな仕事をしたいわけではないでしょう。拉致家族が言ってることなんか○○党と同じですから、絶対自作自演ですね。間違いない。まぁそういうわけで、お前らなんか死んでも何とも思わない、って言ってやりたいですよねw
郵政の民営化だって、どうして反対するんですかねぇ。選挙や献金絡みでそういう利害関係がある方々はまだわかりますけど、そうでないのに反対してる人は、もう頭がおかしいとしか思えないですね。いったん小学校からやり直した方がいい。サル以下ですね(笑)。単に私の足を引っ張っているとしか思えない、そういう無能な議員の方々は、国政を担っているという自覚と責任があるのでしょうか。
だいたい地震の時に劇を観ていたとか非難するマスコミも屑ですよね。現場で働ける立場であるならともかく、私が一人東京でやる気を出しても、現地からの情報が早く集まるわけでなし、党の歴史に縛られて自衛隊の派遣を遅らせるようなどっかのバカ首相とは違うんですよ。救えるプランがあれば、すぐに優秀な官僚と大臣連中が教えてくれますから、私は最後に了承だけすればいいんですよ。第一、中座するなんて劇に招待してくれた人に失礼でしょう。周りのお客さんにだって迷惑がかかる非常識な行為ですよ。あの日は1ヶ月ぶりにやっと取れた休暇だったんですよ。ほんとに迷惑な地震でしたね(涙)
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