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たまには、今日は日曜だから、って休んでみたいと思う。
医者というのは年中無休だ。なぜなら病気が年中無休だからであって、酪農家などの生き物を相手にする職業と変わりはない。そういう仕事を選んだ自分は、後悔しているわけではいないし、むしろ自分にはワーカホリックなところがあると自覚している。休みであっても毎日朝から病院に出かけていくのは一向に苦にならないし、深夜に呼び出しされてもむしろ連絡をくれてありがたいと思う。
しかしながら、そういう視点でばかりも生きてはいられない。誰かと会おうという話になれば、相手は気を遣って土日を選んでくれたりするが、確かに平日だとずいぶん難しいが、土日だから体が空くというわけではなくて、常に呼び出される可能性を秘めながら人と会ったりするものだ。患者のことを常に考えていたいというのには賛成だし、そうしていこうと思ってはいるが、プライベートで相手に迷惑をかけたくないというのも事実である。
仕事の面でも思うことはある。病院の中でも土日が休みの職種があれば、シフトが組まれてなるべく穴がないようにしている職種もある。それらの組み合わせによっては、カレンダーの色によって検査や治療の日程が変わることになり、日程が変わるということは遅れる場合があるんだな、と薄々気づいている。患者には休みはなくて、医者もまぁまぁ休みも仕事に出てきて、だけども休みは休みだという現実にぶち当たると、どこか悔しい。
アクセル全開でローギアのまま走り続けるような生活を送っていると、たまにはエンジンを休めてみたいな、との考えが頭をよぎる。それは決して走ることをやめたいわけではないし、患者さんのことを第一に考えようという気持ちに間違いはないのだが、こうして文章を書いたり、心置きなくお酒を飲みに出かけたり、市外に出て病院に駆けつけなくていい状況になることが、月に一、二度欲しい。修行中の身には贅沢なことではあろうけれども、そう思う。
膀胱炎というのは非常にメジャーな病気である。幸い私には、世界最新のお勧めされる治療法を知るツールがあり、それを読む英語力も持ち合わせている。早速調べてみると、他の事情がない場合は、これこれの薬を3日間使えばいいと書いてあった。「いい」というのは、効果の点で、費用の点で、副作用の点で、色々考え合わせてそこが最もバランスがいいだろうということだ。
かかる経緯があって、そういう患者さんに3日分の薬を処方しようとしたら「先生、3日分しかくれないんですか」と言うのだ。聞けば、去年やその前に行った他の病院では、どこでも1週間分くれたというのだ。足りないのではないのかと言わんばかりの顔で聞かれて、正直困った。その場の対応は別に問題なくできるのだが、その一言は私の心に引っかかるものを残した。
この患者さんはまだいい。思った疑問点をその場で口に出してくれたから、こちらの意図を話す機会はあった。しかしこれが、一歩外に出た途端「ケチな医者だ」「薬が少ないから治らないんだ」などと言われるおそれは十分ある。私は開業医でないから、評判をそれほど気にしなくていい立場であるが、7日分出しておいた方が良かったのだろうか、などと一瞬だが思ってしまう。
一方では、「標準的な」治療でなければ裁判で負けるという話もあるし、不可避的な状況であっても好ましくない結果になれば、逮捕し実名公開ということにもなる。少なくとも勉強不足でないように、と思い、やったことが最初に書いたことであった。「正しい」医療が何なのか、どうすることが現場の最適解なのか、日々考えずにはいられない。
■2006/04/14 (金) 仕事とプライベートのバランスをとる
実際、休みや夜に出て行くほど、やり甲斐はどんどん増えていくのだ。今の所、患者さんは「休みなのに」「夜遅くに」などという言葉をかけてくれたりしているし、自分が最後の砦であるという使命感のようなものも、病院の立地と役割によってはあり、それは無理な労働をも、なんてことのないような気にさせる。錯覚かもしれないと思っているが、それでやっていたりする。
24時間仕事に対して力を割けば、よりできるようになるのだろうと思う。最低限度の仕事が9時5時で終わったとして、その後に自分で勉強したり、他人に聞いたり、本を買ったり、休日を返上して講演会を聞きに行ったり、そうすれば、9時5時の仕事がますますより良いものになるだろうと考えられる。もちろん5時で帰らずに、夜遅くまで残っていても、朝早くから出てきても、仕事自体に力を割くだけ、より良い仕事ができると思う。
この考えを突き詰めると、24時間仕事に従事するのが最高だ、ということになるが、それが真ではないことにも気づいている。オンの時間がある程度長いことには、自分が選んだことでもあり、歓迎するところである。しかし、体調を崩したり、精神的に息切れしたり、プライベートをないがしろにしている自分にふと気づいたりして、オフが欲しくなる時がたまにある。
現在の医師の研修システムでは、最初の2年は色々な科を回り、専門とする科に進むのは3年目からが一般的だ。つまり科を選んでいるのが私の現状だが、考えることはなかなか多い。自分の人生のうち、どれだけを仕事に、そしてどれだけをプライベートにすることが、いったい幸せなのだろうかと思うのだ。2つの間のどこに線を引くのか。
産科を選ぶ研修医が減ってきたことに対し、色々対策を立てているらしいが、単に「産科の面白さを伝える」であるとか、「労働条件を改善する」などの、わかったようなわからないような抽象的な話では、もはや心は動かないのだと思う。今後の人生を本当にやっていけると確信できるような、仕事と仕事以外のバランスを含めた条件に、自分が納得できるかどうかにかかっている。その傾向は、仕事だけにとらわれない方向へと確実に変わっていると感じている。
福島県で産婦人科医が逮捕起訴され、その後逮捕した署が県警から表彰されたという報道は、私にとって非常にショックなことであった。ネット上で手に入る情報からは、逮捕の原因とされる医療行為は全く正当で、不可避的な結果であったように思われた。つまり、日頃から医療行為を行っている自分にとって全く他人事ではなく、やるべきと思ってやったことが原因で、ある日逮捕されてしまうかもしれないことは、想像だにしないことであったのだ。
例えば道端で倒れている人がいたときに、医師としても人としても、その人を助けたいと思うし、実際そう行動するだろうと思う。職業的な使命も少しはあるが、自分が持っている知識や技術は使うためにあるのであって、そこには理屈なんてない。しかしそうすることで、自分の方が脅かされる可能性があるとすると、そこで手を出すのかどうかの迷いが頭をよぎる。
自分が逮捕される可能性がまずありえないほど低いとしても、一つでも前例があれば行動を大きく左右する。まして、県警が表彰したとなれば、県の全ての警察はその方針であると考えても不思議はない。私が目の前の人を助けたいと思うのと同様に、警察官はできれば表彰されるように職務を全うするだろう。そういうわけで、福島県は「危険」に見える。
道端で倒れている人を発見したのがたまたま福島県だとしても、他の県と同じように躊躇なく行動できるのか、正直言って自信がない。一瞬であっても逃げ出したくなるかもしれないし、できれば気づかなかったふりをして逃げ出したいと思うかもしれない。自分がすることが、医学的に正しくて、自信を持っていたとしても、それはあくまで「こっちの理論」なのであり、世界的に認められる最新の方法をそこで実践したとしても、結果が悪いものであれば、その「責任」を問われてしまうことになるのではないか。
目の前の人を助けたい、という言葉に嘘はないが、自分の生活を守りたい、今後も医師として働き続けたい、と思っているのも事実である。これらが競合してしまうような社会になってしまったら、いったい誰の利益になるのか、表彰した県警の偉い人に聞いてみたい。そうした社会は、既にそこまで来ているような気もするのだ。
■2006/05/03 (水) 僻地医療のプライドを保つのは何か
周りに他の病院がないというのは過酷な状況だ。もちろんそこに駆け込むしかない患者さんにとっても過酷であるが、その患者さんを目の前にした医者にとっても過酷である。どのようなキャリアを積んできた医者であっても、全ての科に対する対応が完璧にできるわけではないのは自明で、患者さんは自分の専門を狙って現れるわけではない。
とは言いつつも、広い範囲に対してそれなりの対応ができるように勉強するのが現実だ。パソコンや書籍の発達により、最先端の治療方針を手に入れることも難しくないため、病院の立地によらない標準的な治療は可能だ。一昔前の知識にしがみついた「専門家」より、よほど最新の情報を持つ「何でも屋」だって生まれてくる。日々の勉強をしようという動機次第で、できることは際限ない。
患者側から僻地の医者が低く思われているのは、残念ながら否定しがたい事実である。とりあえず、もしくは仕方なく、手近な病院に来てはみたものの、診断に納得がいかない場合、病状に納得がいかない場合に、患者や家族が「都会の大きな病院に移りたい」と申し出るのはよくある構図だ。それがたとえ、どこの誰が治療しても無理な状況であったとしても、良くないことはそれが田舎の小さな病院だからだ。
一生懸命治療してきた患者さんやその家族から「病院を替わりたい」と告げられることは、医者が最も無力感を覚える場面の一つで、その治療法に自信があるほどそこでの悲しみも大きくなる。そうしたときにどうするか。一生懸命治療するのをやめるのか、治療法を洗練するのをやめるのか、そこで医療をすること自体をやめるのか、それともその屈辱を受け続けるのか。
実際に地域医療に携わっている先輩医師を見て思うのは、こうした状況でなお自己の向上に励み続ける動機というのは、いったいどこから来るのだろうかということだ。今のところ私には、環境によらず研鑽を続けられる自信はない。僻地に医者が行かない理由は単純ではない。解決策が盛んに叫ばれている僻地の医師不足だが、解決するにはそもそもどうしてそこには医者がいないのかを考えることが不可欠であり、そこにはこうした問題も含まれるのだと考える。
たまにしか行かないコンビニの店員の顔なんてわからない。
地域医療研修という、医者が少ない田舎に行って仕事をする期間があった。そこでは、いつも勤務している病院で見られるような「コンビニ受診」はほとんどなかった。コンビニ受診というのは、昼間は仕事で忙しいから来れなかったけど昼間と同じことをして欲しい、1ヶ月前からある症状が別に変わってないけれど夜中にすぐに診て欲しい、昼間は混んでいるから今来たのだがいつもの血圧の薬を2ヶ月分欲しい、などのような、救急とか時間外としてどうも疑問を持ってしまう受診のことを指している。
その研修先では、医者の数が少ないために、全部で何人の医者がいて、その人たちがどういう労働環境で働いているか、住民たちはみんな知っていた。仕事が終わって飲みに行っても、散歩に出掛けても、それが知られないことはないくらい、顔が見える距離だった。医者というのは、有限で貴重な資源であり、その先生の寝る時間を削って自分の「1ヶ月前から変わらない腰痛」を診てもらおうとは、誰も思わないのだった。
一方「都会の」病院ではどうか。夜中の2時に病院を訪れた患者さんが、その晩当直している医者の顔を思い浮かべることは、まずないのではと思ってしまう。その医者が、前の日何時から働き、次の日何時まで病院にいるのか、少しでも想像しているとは思えない、そんなコンビニ受診が少なからず存在するからだ。
本来、病人のために寝ずに働くことは、医者であればかなりの部分許容できるものだと思う。たとえそれが夜中の2時でも、なるほどこれは心配だ、確かに病気だという人であれば、眠い目をこすって一生懸命診ようという気持ちになる。それを単に「夜中でも診てもらえる」と考えて、あたかもコンビニに出掛けるように来る人が増えてくれば、話は別だ。体調が悪くてもろくに寝れずに外来に来てみると、自分よりも元気な「患者」が座っていたら、やる気は萎える。
都会でも「働いている人の顔が見える」ようにするのは難しいし、むしろそれは望まない。だからと言って、顔が見えれば調節できるはずのことを野放しにしていていいのか、というのも切実な問題だ。三交代などで夜を専門に担当するほど、医者というのは余ってはいないようだしむしろ足りないと言われている。結局、根本的に制度を変えない限りは、休日夜間の診療を取りやめる病院が増えてくるのを、ただ見ているしかないのかもしれない。
いつの頃からか、タクシーに乗り行き先を告げたら、どこの道から行きましょうかとか、どこそこの経路でいいですかとか、そんなやりとりが出るようになってきた。最近ではそのことを規則にしたり、守れないと料金を返すとか、そういう会社まであるらしい。どういう経緯でそうなったのかはわからないが、道順を確認しなかったことによるトラブルがあるなどして、それが顧客満足度を左右すると考えたのだろう。
普段乗るタクシーは、私が言う「定番の」道順の通りに車を走らせて、何の問題もないように思っていた。この時点では、全く問題だと思わないくらい私の満足度は高い。しかし先日は違った。酔って「どこからがいいですかね」などと適当なことを言っていたら、「一番早く、安く行くならここですね」と車を走らせ、言葉の通り早く、安く、目的地に着くことができた。
実際に走ってみると、そんなに奇をてらった裏道ではなく、一般人ならともかくプロのドライバーなら誰もが知っていると思われる道だった。つまり普段の方が、そうした道の良さを知っていながら、お客様の要望通りに違う道を走っていたのだ。顧客の求めるものが「自分の言う通りの道を走ること」であるならばこれは成功だが、それより「早く」「安く」の方が顧客が求め、喜び、満足することなのではないかと考える。
この話は、いつも病院で私が考えていることと非常に似ている。患者さんへ治療方針の選択肢をいくつか示し、いい点と悪い点を十分説明し「どうしますか」と聞いて、相談しながら決めていくのが理想の型だと言われている。現実はちょっと違って、例えばちょっと頭をぶつけた時に、頭のCT検査をするかどうかを患者や家族に聞いてみて、その通りに行動することもままあることだ。希望があったので撮りました、なかったので撮りませんでした、という具合に。
しかしプロとしては、それでは不十分だと思うのだ。タクシーで言う「早く」「安く」が、医療においては「早く治す」「安く」「見逃しなく」などだとすると、必要がない検査はしない方がいいし、危険性があれば検査をお勧めするべきだろう。単に「どうしますか」と聞く前に、専門家としての意見があって、それを専門家でない相手に伝えなければ、素人が「適切な」判断というのはできないはずだ。
「どうしてあの時CTを撮ってくれなかったんだ」と後から言われる状況は、訴訟において非常に良くない状況である。しかしそれを恐れるがために、撮るか撮らないかを患者にゆだねてしまっては、一見患者の言うことを取り入れているようでいて、実は患者の利益になっていない。いいタクシードライバーは、道順を聞いてくれるかどうかではなく、いい道を教えてくれる人だと感じて、果たしていい医者とは何だろうかと考えずにはいられなかった。
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