海軍望楼

 何かと要塞(陸軍所管)と誤解される海軍望楼跡。こちらも貴重な史跡です。
  
 (上) 正面(海側)から見た宗谷望楼
 (上) 宗谷望楼の背面 
 多くの観光客の方が要塞と勘違いしているようですが、宗谷臨時要塞の宗谷砲台とは別物ですのでご注意ください。
 
宗谷望楼の略年表
1894(明治27)年6月30日 勅令第七十七号として「海岸望楼条例」が公布。
当時、日清戦争直前であり、全国海岸の要所に望楼を設置し、沿岸監視態勢がとられた。望楼は、陸上と艦船との信号、海上監視、気象観測などを担当した。
1900(明治33)年5月20日 勅令第二百五号として「海軍望楼条例」が公布され、「海岸望楼」は「海軍望楼」に改称された。
1902(明治35)年3月15日 宗谷岬に海軍望楼が設置された。
当時、ロシア海軍は太平洋艦隊(旅順艦隊・ウラジオストック艦隊)、バルト海艦隊(バルチック艦隊)、黒海艦隊に分散しており、開戦した場合バルチック艦隊が太平洋艦隊に合流するものと予想されていた。いずれ対戦するロシア海軍の動きを監視するため、各地に海軍の望楼(監視所)が増設されていったが、その一つがこの望楼である。
1904(明治37)年10月 宗谷望楼に海軍無線電信所が併置された。
1905(明治38)年7月 樺太上陸特別派遣軍第十三師団の海上輸送擁護に当たった片岡第三艦隊司令長官の北遣艦隊との通信連絡に従事。
1905(明治38)年8月20日 ロシア海軍巡洋艦「ノーウィック」(黄海海戦に敗れ敗走中)V.S.日本海軍巡洋艦「千歳」・「対馬」の宗谷沖海戦に機能を発揮。
「ノーウィック」はコルサコフで大破着底。その後日本軍が浮揚・修理し、通報艦「鈴谷」となった。
1920(大正9)年3月12日 尼港事件(沿海州ニコライエフスクで発生した日本人虐殺事件)の際、現地に派遣された海軍無線電信隊との通信事務・情報中継にあたった。
1920(大正9)年4月22日 沿海州守備のため樺太亜庭湾に集結した派遣軍との連絡、尼港占領警備の第三艦隊との通信連絡を担当。
1929(昭和4)年 海軍無線電信所がクサンル(現・稚内市緑2-3 稚内電波観測所)に局舎を新設し、望楼から移転。
? 宗谷望楼に大湊防備隊宗谷見張所を設置。(兵員約10名)
1942(昭和17)年8月 電纜敷設艇初島が宗谷海峡中央に97式水中聴音機を敷設。宗谷望楼から潜水艦探知が可能となった。
1943(昭和18)年春 宗谷見張所を防備衛所に昇格。
1943(昭和18)年8月 15日、宗谷海峡対岸の西能登呂防備衛所が敵潜水艦を探知。
16日、敵潜水艦に対し、宗谷臨時要塞の96式15cmカノン砲が計85発発射(秘匿のため、それまで試射が実施されていなかったため命中しなかった)。
1943(昭和18)年10月 10日、宗谷・西能登呂の両防備衛所が敵潜水艦を探知。
11日、宗谷臨時要塞が米国の潜水艦ワフー(WAHOO S-238)を砲撃、海軍航空隊が続いてこれを攻撃し沈没させた。
1968(昭和43)年12月 稚内市の有形文化財に指定。
(左)(上) 宗谷望楼の内部2F
 
 (上) 竜飛望楼
 1901(明治34)年7月8日に設置された。ちなみに前方に見える施設は海上自衛隊竜飛警備所。竜飛望楼の写真は1995年3月に撮影したもの。
 (上) 竜飛望楼があった場所 写真提供:「勲侘記由」サイト管理人くんた様
 平和教育の教材として、また観光資源として保存・活用すべき貴重な竜飛望楼が、特に安全性に問題がなかったにもかかわらず、破壊撤去されてしまった。 くんた様、撤去の情報及び写真をありがとうございました。
 (上)(下) 竜飛望楼の外観
(左) 竜飛望楼の出入口
 1995年3月に訪れた際には、出入口上部に「旧海軍監視所」のプレートが貼られ、三厩村によって立派に保存されていたのだが・・・
 市町村合併により外ヶ浜町となったことによる弊害か?
 (上)(下) 竜飛望楼の内部
 津軽要塞の竜飛崎砲台に距離的に近いので混同されがちですが、全く別物ですのでご注意ください。
 

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