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| (上) 灯台より少し南の丘(現・碑の丘)に築城された竜飛崎砲台の跡 |
| 戦後しばらくの間は掩蔽部等が残っていたそうですが、現在は僅かなコンクリート片と説明柱があるのみ。以前、三厩村教育委員会の方が親切に現地を案内してくださいました。ありがとうございました。 |
竜飛崎砲台
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竜飛崎砲台の略年表
| 1927(昭和 2)年4月1日 |
「函館要塞司令部」が「津軽要塞司令部」と改称。陸海軍告示第二号によって「函館要塞地帯」は「津軽要塞地帯」と改められた。 |
| 1935(昭和10)年12月 |
陸海軍省告示第七号によって、白神岬と竜飛崎を結ぶ津軽海峡西口周辺が津軽要塞地帯に加わった。 |
| 1936(昭和11)年4月 |
竜飛崎砲台の起工。 |
| 1937(昭和12)年8月18日 |
45式15cmカノン砲(改造固定式)4門の備砲完了。 |
| 1937(昭和12)年12月 |
竜飛崎砲台の竣工。 |
| 1938(昭和13)年2月28日 |
築城部本部より津軽要塞司令官に竜飛崎砲台及び電灯所を引継。 |
| 1938(昭和13)年8月 |
戦備演習。 |
| 1938(昭和13)年12月30日 |
津軽要塞通信網(竜飛崎砲台〜白神岬砲台間)増築工事の竣工。 |
| 1940(昭和15)年9月3日 |
築城部本部より津軽要塞司令官に竜飛崎砲台兵舎を引継。 |
| 1945(昭和20)年7月14日 |
青函連絡船空襲。津軽要塞司令部での砲台長会議に向かうため、青函連絡船津軽丸に乗船中の森嶋健三中尉が犠牲となった。 |
| 1995(平成7)年7月29日 |
砲台跡地に記念碑が建立された。 |
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| (上2点) 観測所跡 |
| コンクリート壁がわずかに残っている。観測所跡に建てられたオブジェは吉田松陰記念碑。 |
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| (上) 砲座跡 |
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| (上) 白い柱の場所が砲座の跡 |
(上) 砲座跡 |
| 左の岩は佐藤佐太郎記念碑、中央の岩は川上三太郎記念碑。 |
北部第71部隊とは、1941(昭和16)年以降に使用された函館重砲兵連隊の秘匿名である。 |
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(左) 竜飛崎砲台に集合した竜飛会の皆様 |
竜飛会の渡辺様よりいただいた写真です。記念碑の建立から8年ぶりに戦友及び戦友未亡人が集合したとのこと。
どうぞこれからもお体を大切に、若い世代へ要塞の歴史をお教え願います。 |
青函連絡船や函館が空襲された1945(昭和20)年7月14日から58年目を迎えた頃、大坂純史様よりメールが届きました。
大坂様の祖父が、竜飛崎砲台の砲台長(中隊長)である森嶋健三中尉であり、津軽要塞司令部での砲台長会議に向かうため青函連絡船津軽丸に乗船中、空襲を受け、その犠牲となったことを教えていただきました。
(森嶋中隊長のご冥福をお祈りいたします)
また大坂様より、1944(昭和19)年10月から終戦まで竜飛崎砲台の守備に就いていた方で、記念碑の建立など戦友会(竜飛会)の活動をされている渡辺康宏様(北海道在住)をご紹介いただきました。
その渡辺康宏様よりお手紙をいただきましたので、一部を紹介いたします。
〜森嶋健三中隊長の亡くなられた日は忘れもしません。昭和20年7月14日でして、この日私は歯が痛くて〔隣町である〕今別町の歯医者まで歯の治療に出かけました。すると、青森港を出港した青函連絡船の津軽丸が、三陸沖のアメリカ機動部隊航空母艦より発着するグラマンの空襲を避けて、近くの三厩湾に停泊しておりました。
中隊長はこの船に乗って午後0時30分〔45分?〕出港、北海道知内町狐越岬までいったところ、グラマンの空からの攻撃を受けて午後3時07分頃撃沈、168名の竜飛部隊の中の只1人の犠牲者でありました。この時、大坂純史さんのお母さん(中隊長の娘さん)は、たしか10才であったはずです。〜
また、渡辺様が取材を受けた2002(平成14)年8月14日(水)付の東奥日報の写しもいただきましたので、一部引用しますと
〜演習開始の合図。
弾込め、装薬が終わると指揮小隊長が声を張り上げる。「目標二四〇〇方向の敵輸送船団」
第二砲手、第三砲手が左右、射角を素早く調整する。引き金は第一砲手の役割。右ひざをつき引き金のひもを握る。
「第一砲車、打てっ」
力任せにひもを引っ張る。
(中略)
演習は頻繁に行われたが、実弾を撃つ機会はほとんどないまま竜飛は終戦を迎えた。舟艇で上陸した米軍によって、砲台は無力化された。砲弾は海中投棄され、砲身も解体された。〜
とのことです。大坂様・渡辺様ありがとうございました。
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