勇払平野の防御陣地

 クリッカブルマップとなっています。
 (上) 1945(昭和20)年4月頃のトーチカ配置図
 観測・通信用トーチカ、94式山砲用トーチカ、41式山砲(歩兵連隊砲)用トーチカ、1式機動47mm砲用トーチカ、94式37mm砲(速射砲)用トーチカ、92式歩兵砲(大隊砲)用トーチカ、92式重機関銃用トーチカ。
 各トーチカから伸びる同色の線は火砲の最大射程を表す。また、薄い黄色の帯は歩兵陣地、白色は軍の飛行場を表す。

苫小牧市 (25基) 厚真町 (14基) むかわ町 (8基)
高丘トーチカ
 (観測・通信用1基)
 (92式重機関銃用2基)
 (92式歩兵砲用1基)

植苗トーチカ
 (41式山砲用1基)

元町海岸トーチカ
 (92式重機関銃用1基)

高砂町〜真砂町海岸
         トーチカ
 (観測・通信用1基)
 (94式37mm砲用1基)
 (92式重機関銃用1基)

勇払海岸トーチカ
 (観測・通信用2基)
 (92式重機関銃用2基)
 (1式機動47mm砲用1基)
 (94式37mm砲用1基)
 
柏原トーチカ
 (41式山砲用1基)
 (92式歩兵砲用1基)

静川綱木トーチカ
 (1式機動47mm砲用1基)

静川トーチカ
 (1式機動47mm砲用1基)

安平川河口トーチカ
 (92式重機関銃用1基)

弁天海岸トーチカ
 (観測・通信用2基)
 (92式重機関銃用2基)
 (92式歩兵砲用1基)
共和トーチカ
 (94式山砲用1基)
厚和ホワイトファーム
         トーチカ
 (94式山砲用1基)

厚和トーチカ
 (92式歩兵砲用1基)
 (41式山砲用1基)

浜厚真海岸トーチカ
 (92式重機関銃用6基)
 (94式山砲用1基)

浜厚真北トーチカ
 (94式山砲用1基)

鹿沼トーチカ
 (41式山砲用1基)
 (92式歩兵砲用1基)
二宮トーチカ
 (41式山砲用1基)

鵡川河口トーチカ
 (1式機動47mm砲用1基)
 (92式重機関銃用1基)
 (92式重機関銃×2用1基)

チンタ浜踏切トーチカ
 (92式重機関銃用1基)

汐見高台トーチカ
 (92式歩兵砲用1基)

汐見海岸トーチカ
 (92式重機関銃用1基)
 (92式歩兵砲用1基)
歩兵第99連隊 (15基) 歩兵第100連隊 (11基) 歩兵第98連隊 (21基)

 ※トーチカ名は便宜上〔位置をわかりやすく表現するため〕のもの。
 ※連隊名は、第77師団展開時のおおよその守備範囲を示す。
 ※*****のトーチカは、自然崩壊・人為的な破壊により撤去され現存しないもの、もしくは埋没・海没により、確認不可能なもの。海岸線沿いのトーチカは、苫小牧市元町及び鵡川町のものを除き、すべて失われてしまった。
 
 太平洋戦争当時、北海道では、アリューシャン列島方面から、千島・網走・根室・釧路・十勝・勇払に米軍が進攻してくる危険性があり、防御陣地が築かれた。

第5方面軍は、米軍による根室〜十勝海岸への上陸、計根別飛行場群の占領を最も警戒し、北海道の主力部隊である第7師団を帯広に移駐させたが、勇払平野もまた、道都札幌に近く、千歳に海軍飛行場が2箇所、苫小牧に陸軍飛行場が2箇所ある要地であり、大部隊を一斉上陸させるのに適した地形であるため、危険性の高い地域として認識し、第77師団に築城を命じた。

当初は、水際で敵上陸部隊を撃破するため、海岸線に沿って多数のトーチカが築かれた。その後、前線各地で、艦砲射撃によって海岸線沿いの水際陣地が破壊されるようになると、その戦訓から、水際より後退した丘陵・山地に縦深陣地が築かれるようになった。

結局、敵上陸部隊と対峙することなく終戦を迎えたが、もし、この勇払平野に敵上陸部隊が進攻してきた場合、とても1個師団(第77師団)だけでは守りきれなかったと思われる。さらに、戦争末期には、その第77師団ですらも南九州に送られ、より規模の小さな1個旅団(独立混成第101旅団)が守備に就いた。勇払平野の防御陣地では4週間程度持久することが期待され、その間に機動打撃部隊として道東展開中の第7師団を増援する方策であったが、1個旅団でそれだけ持ちこたえるのは不可能であろう。

勇払陣地の略年表
1940(昭和15)年12月 北部軍司令部を札幌に設け、第7師団等を隷下に編入し、北部軍を編成。樺太・北海道(千島を含む)・青森県・岩手県・秋田県・山形県の防衛及び隷下部隊の動員・教育等を担任した。
1941(昭和16)年12月8日 日本軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が勃発した。
1942(昭和17)年6月5日 ミッドウェー海戦で日本軍が大敗し、これ以後戦局は米軍が優勢となった。
1943(昭和18)年2月5日 大本営は、北部軍を改編し北方軍とし、従来の北部軍の任務のほか、アリューシャン作戦を担任させることとした。
1943(昭和18)年5月14日 第7師団に動員下令。(編成完結は5月27日)
1943(昭和18)年5月24日 北海道に戦時警備下令。
1943(昭和18)年5月29日 アッツ島陥落。
1943(昭和18)年7月29日 北海守備隊のキスカ島撤退。
(アリューシャン列島・千島列島方面から米軍が北海道へ進攻する危険性の増大)
1943(昭和18)年9月30日 絶対国防圏の設定。
1943(昭和18)年11月15日 『島嶼守備部隊戦闘教令(案)』・・・敵上陸部隊を洋上・水際で撃破する戦術。主陣地を海岸線に築くよう手引き。
1943(昭和18)年12月7日 第31警備隊(司令部、第31・32警備大隊)〔網走〕、第32警備隊(司令部、第33・34・35警備大隊、第30警備工兵隊)〔根室〕の編成完結。
1944(昭和19)年2月 北方軍を第5方面軍に改編。
1944(昭和19)年3月 第5方面軍が第7師団に道東への移駐を命令。
1944(昭和19)年3月25日 留守第7師団が編成完結し、第7師団より北海道本島の防衛任務を継承。
1944(昭和19)年3月27日 留守第7師団を第77師団に改編発令。(編成完結は4月18日)
1944(昭和19)年5月15日 第5方面軍は、道東を第7師団の作戦地域とし、道西は第77師団の作戦地域とした。
1944(昭和19)年6〜7月頃 この頃の敵情判断として、アリューシャンの米軍が、北千島を攻略せずに、直接南千島や北海道本島に侵攻する危険性があるとして、大別して次の2パターンを想定した。

(1)道東または南千島方面に上陸・侵攻してくるパターン
帝都爆撃の基地設定として、道東では計根別飛行場群が目標とされ、根室または釧路に主上陸を、網走及び十勝地区に一部を上陸させると予測。

(2)勇払海岸に上陸・侵攻してくるパターン
北海道の死命を制する目的をもって、札幌を目標とすると予測。
(但し、一旦道東を占領したのち、状況により来攻する公算の方が多いと判断)
1944(昭和19)年7月6日 第77師団及び留守第7師団の臨時動員。
1944(昭和19)年7月7日 サイパン島が陥落し、絶対国防圏が崩壊。
(マリアナ諸島がB29の基地となり、米軍は日本本土の大部分を爆撃可能となった)
1944(昭和19)年7月18日 第5方面軍司令官が兵団長会同を開き、第7師団長・第77師団長・留守第7師団長・第1飛行師団長・樺太兵団長に対し、北海道本島の防備強化の構想を示達し、沿岸築城を命じた。
第7師団は道東地区の、第77師団は勇払平野の防御陣地築城を命じられた。
1944(昭和19)年8月9日 第77師団が勇払平野の築城計画を完成。
・・・来攻する米軍を水際で撃滅する方針のもと、3個連隊を並列して第一線とし、汀線に主陣地をとるよう計画。トーチカ、対戦車壕の構築を実施。
1944(昭和19)年8月19日 大本営が『島嶼守備要領』(大陸指第2130号別冊)を示し、水際より後退した位置に主陣地を築くことを可とした。
・・・主陣地を海岸から適宜後退した地域に選定し、米軍の猛烈な砲爆撃に耐えて長期持久できるよう堅固に編成して、その上陸に際しては海上、水際、海岸等でできる限り多くの損害を与えるとともに、反撃部隊を縦深に配置して弾力性のある防御戦闘により撃滅するという内容。
1944(昭和19)年10月 『上陸防御教令(案)』・・・水際防御を捨て、敵上陸部隊を内陸の縦深陣地で撃破する戦術。主陣地を後退配備するよう手引き。
1944(昭和19)年10月8日 勇払平野の汀線付近平地部に陣地築城中の第77師団へ、第5方面軍より後退配備をとるよう指導。
→第77師団は次のように防御方針を変更。
「師団は、来攻する敵をまず水際において破砕したのち、勇払平野北側高地台端付近の主陣地とその後方山地に帯状に設けた陣地とにより極力敵の北進を阻止し、この間彼我戦線を交錯状態に導き、もって優勢なる敵の砲爆撃実施を困難に陥れ、戦闘の主導権を獲得して、その侵攻企図を破砕する。」
・・・最終的には突破されることが予想されたため、定山渓・恵庭岳・樽前山にわたる地域を複郭陣地と予定し、遊撃戦による徹底抗戦をも検討。
・・・その後、汀線のトーチカ構築は継続。苫小牧北側から早来、鵡川の台地にかけて一個師団分の地下坑道式陣地を築き、内陸防御の拠点とした。
1945(昭和20)年2月28日 軍令陸甲第34号により次の発令。
♦道東地区の第31警備隊〔網走〕・第32警備隊〔根室〕を増強合一して独立混成第101旅団を編成する。(3月27日編成完結/人員5,696名)→主力は標茶地区に移動。
♦留守第7師団を基幹として第147師団を編成する。(6月4日頃編成完結/人員17,240名)
♦第33警備大隊〔根室〕を基幹として第8独立警備隊を編成し室蘭の防衛を強化する。(3月27日編成完結/人員1,085名)
♦旭川師管区部隊を編成する。(4月7日編成完結)
1945(昭和20)年3月16日 『国土築城実施要綱』・・・敵上陸部隊を水際陣地で拘束し時間を稼ぎ、その間に後方で待機している機動打撃部隊を送り込み、決戦を挑むことを前提に、築城を手引き。
1945(昭和20)年3月26日 硫黄島陥落。
1945(昭和20)年4月1日 米軍が沖縄本島へ上陸・進攻。
1945(昭和20)年4月 この頃の敵情判断として、米軍が北海道本島へ侵攻するパターンを次のように想定。

(1)陸上航空基地を獲得しようと、道東の計根別付近を目標に、3〜4個師団を投入してくるものと予測。上陸正面は主として標津、状況により釧路と判断。

(2)北海道の死命を制する札幌を占領しようと、勇払平野を上陸地点に選定し、5〜8個師団を投入してくるものと予測。

(3)津軽海峡の突破並びに米作戦軍艦艇の泊地確保を目的として、内浦湾岸の森付近を上陸地点に選定し、1〜2個師団を投入して津軽要塞を背後から攻略してくるものと予測。併せて若干の部隊を長万部付近に上陸させ、札幌及び小樽方向から来る日本軍の増援を阻止してくるものと予測。

(3)宗谷海峡の突破を目的として、宗谷岬東方の猿払付近及び樺太南端の西能登呂岬付近を上陸地点に選定し、2〜3個師団を投入してくるものと予測。
1945(昭和20)年5月7日 独立混成第101旅団〔標茶〕を苫小牧方面(勇払平野)に転用発令。
1945(昭和20)年5月14日 米軍の進攻を南九州及び関東と推測し、第77師団の南九州転用発令。(第77師団は鹿児島県加治木で終戦を迎えた)
この頃米軍は「Operation Downfall (ダウンフォール〔滅亡〕作戦)」---11月1日に南九州へ上陸・進攻する「Operation Olympic (オリンピック作戦)」と、翌年3月1日に関東地方へ上陸・進攻する「Operation Coronet (コロネット作戦)」からなる---を予定していたので、日本軍の推測は正しかった。
1945(昭和20)年6月23日 沖縄本島陥落。
1945(昭和20)年6月30日 第5方面軍が防御作戦準備要綱を完成。
・・・北海道本島での上陸軍に対する決戦の地を、東部では計根別平地、西部では苫小牧平地(勇払平野)と想定。
♦計根別平地方面では、第7師団が主力をもって計根別西北方地区及び釧路地区を確保、一部をもって標津付近の汀線陣地を保持することとした。
♦苫小牧方面では、独立混成第101旅団及び軍管区教育隊の主力をもって苫小牧北側高地より早来にわたる間を確保、一部をもって苫小牧付近汀線陣地を保持することとした。
♦それぞれの方面に敵の上陸があった場合は、約4週間で他の部隊が集中し、決戦を挑むこととした。
1945(昭和20)年7月14日 北海道空襲。(〜7月15日)
1945(昭和20)年8月9日 ソ連が対日参戦。
1945(昭和20)年8月15日 日本の降伏。
 

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